2008年7月20日 (日)

東京ステーションシティ

慌しい日々が続くなか、所用があって東京駅日本橋口のサピアタワーに出掛けました。JR東京駅は八重洲口と日本橋口の再開発が進んだことで見違えるようなビル街に変貌しています。江戸町奉行所跡を訪ねた時に工事中だった場所です。さらに丸の内側も駅前の新丸ビルや丸の内オアゾに続いて、歴史のある東京中央郵便局(ゆうちょ銀行本店)の建て替えが発表されました。東京駅丸の内駅舎も改装工事が進んでいます。戦災で破壊されて2階建てになった現在の駅舎を大正3年に竣工した時と同じ3階建てとし、北口と南口に吹き抜けドームを持つ美しい駅舎に復元するものです。これに合わせて駅前広場も整備されるようです。

 

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昼の休憩時間を利用して東京駅周辺を歩いてみました。サピアタワー20073月竣工、JR東日本の子会社が所有)の名はラテン語で知性を意味するサピエンスから付けられたようです。人間の学名である「ホモサピエンス(知恵のある属)」と同じです。日本橋口を挟んでこのサピアタワーの向えがわに建つのは丸の内トラストタワーN館(森ビルから分離した森トラストが保有)です。すぐ南側には今年11月に竣工予定の「丸の内トラストタワー本館」の外装がほぼ出来上がっていました。

 

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八重洲口で一際目立つのは八重洲口駅舎の両側に聳えるツインタワービル「グラントウキョウ」(200710月Ⅰ期竣工、JR東日本と国際観光会館が所有、全体は2012年竣工の予定)です。ノースタワーの低層部には大丸東京店の新店が入居しました。サウスタワー200711月竣工)と結ぶ中央デッキ「グランルーフ」の建設が計画(2013年竣工予定)されています。

 

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意外なことに、これら施設の住所はいずれも八重洲ではなく丸の内一丁目です。ノースタワーの場所にあったはずの北町奉行所の跡は残念ながら今回も見つかりませんでした。またサウスタワーの南隣はパシッフィクセンチュリープレイス丸の内(PCPM2001年竣工、37階、180m)ビルで八重洲口再開発の先陣を切って完成しましたが東京ステーションタワーには含まれませんし、右上の写真のように八重洲口からはサウスタワーに隠れて見えません。別の日にこのPCPMビルを訪れる機会がありましたので、その時の写真を掲載します。東京駅構内と東京国際フォーラムが一望できました。

 

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八重洲北口の改札前の先にある北自由通路で丸の内北口に出ることができます。一階と地階があり、八重洲口側の1階からはキッチンストリート(Kitchin Street)へ、地階からは黒塀横丁に入ることができます。今回は見送りましたが、中央改札口を入ると地下のグランスタ(GRANSTA)と1階丸の内口寄りのDila東京など巨大な「駅中(エキナカ)商店街」が出現しました。

 

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丸の内北口から地下鉄丸の内線の方面に進んだ行き当りが「丸の内オアゾ」(三菱地所他が所有)です。変わった名前を調べると「オアゾ(Oazo)」とはエスペラント語でオアシスの意味なのだそうです。エスペラント語とは今どき珍しいと思いました。旧国鉄本社跡などを再開発して2004年に竣工したガラス張りのユニークな建物です。

 

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丸の内駅舎は工事用の白い塀で囲まれています。その塀に東京駅の歴史とこれからの計画「東京ステーションシティ」が説明されていました。東京駅が復元される一方で、東京中央郵便局(丸の内二丁目)は平凡なデザインの高層ビル(ガラス張りの38階)に立て替えられると625日に発表されました。低層部には現在の局舎の外壁が残されて東京駅との調和を図るそうですが東京の顔がもうひとつ消えることは残念です。丸の内駅舎の後に見える建物は左からグラントウキョウ・サウスタワー、PCPMビル、そして中央郵便局の南隣の東京ビルディングです。

 

追記: 東北縦貫線

東京駅-上野駅間に新たな線路を追加する計画が進んでいます。東北新幹線が東京駅に乗り入れるため1973年に廃止された東北本線の東京駅-上野駅間が東北新幹線の上部に線路を増設することで復活し、これまで上野駅止まりである宇都宮線(東北本線)、高崎線、常磐線の一部列車が東京駅まで乗り入れたり、東海道本線と相互直通運転が行われるのです。後者は湘南新宿ラインと同様の機能です。今年5月に着工され、2013年度の開通が予定されています。(JR東日本のhpより)

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2008年7月15日 (火)

身体の健康と学習効果

同居者を無理やり誘って健康セミナーに出掛けました。成人病についての話を聞いたあとは、ストレッチ体操の指導と成人病の簡単なチェック法である「血液のさらさら度検査」です。私の血液はさらさら度にまったく問題がありませんでした。プリントアウトされた測定値のグラフも正常値の範囲に、しかもほぼ中央に、入っています。これは偏(ひとえ)に若い頃に病歴のある私のために同居者が作ってくれる食事のお陰なのですが、飲酒の常習者である反面、スイミングなど身体を動かすことが好きなことも少しは貢献していると思います。気を良くすると人間は不思議なもので、さらに泳ぐ距離が伸びてきました。昨年までは40分で800mを目安としていましたが、深酒をしていなければですが、最近は2倍に近い距離が目安になっています。

スピードが2倍になったのではなく、休憩時間が短くなり、続けて泳ぐ持久力が付いてきたのです。これまでは呼吸が苦しくなると距離の限界としていましたが、最近はどこまでも泳げそうな気がします。もちろん筋肉が疲労すればそれ以上泳ぐことはできませんが。スイミングによって四国の歩き遍路に耐えられる持久力を付けたいと思います。そして、もし叶うことならばゴルフのスコアアップにも役立ってほしいものと欲の深いことを考えています。スイミングは持久力の強化に役立ちますが、実はもっと大きな効用があることが分かりました。それは精神的なストレスの解消です。カウンセラーの説明では、血液のさらさら度を悪化させる要因は食事の他にストレスがあるそうです。

スイミングの体験から思い至りました。スイミングもゴルフと同様に、ある日突然身体がレベルアップを理解することがあることです。これは語学の習得でも体験しています。つまり練習量はリニアー(練習時間に比例)ですが、その成果(上達曲線)は階段状であると感じることです。これは心理的なものなのでしょうか? あるいは花粉症の発症のように閾値効果(しきいちこうか、蓄積量が一定値を超えると変化する)のようなものがあるのでしょうか? 学習についての専門的なことは分かりませんが、私はいずれの学習・練習においても似た経験をしています。具体的には、外国語ではある日突然に相手の話すことが翻訳しなくても理解できるようになり、無線通信のモールスコードがそのまま判読できるようになり、ゴルフではボールのコントロールが可能であることが分かり、水泳では身体の動きと推進力の関係が体感できるようになったことなどです。一番分かりやすいのは自転車に乗れるようになった瞬間ではないでしょうか。

しかし、まだコントロールする方法が分からないことが一つあります。それは私の大好きなアルコールです。アルコールの場合は学習効果の階段(ステップ)が相当高いのでしょうか、それとも学習効果そのものが存在しないのでしょうか。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください。

<同居者のコメント> うちの旦那さまは血液のさらさら度チェックの結果がよくてご満悦です。同じ生活をしている私が要注意なのはどうしてでしょうか。わがままな旦那さまからストレスを受けていることが原因だと思います。いえ、そうだと確信しています。ストレス解消のため、もっと趣味に打ち込むことを決めました。

付記: 今年も月下美人が美しい花を咲かせてくれました。(6月18日撮影)  2008_06180047 2008_06180041

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2008年7月13日 (日)

紀尾井町の庭園

東京メトロ永田町駅を降りると、弁慶堀越しにグランドプリンスホテル赤坂(旧名称赤坂プリンスホテル)の新館が聳(そび)えていました。紀州徳川家の上屋敷跡に建築家丹下健三氏の設計で1983年に建てられた40階の建物です。弁慶堀に架る弁慶橋を渡ると紀州屋敷跡の石碑と案内板がありました。同じ敷地内にある旧館は、日韓併合で宮家となった旧李王家の邸宅であったものが戦後になって売却され、西武グループが1955年に赤坂プリンスホテルとして開業した建物です。

   

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紀尾井町通りの反対側はホテルニューオータニです。東京オリンピックを控えて外国人客の受け入れ施設を作る必要があった政府からの依頼で当時大谷重工業社長の大谷米太郎氏が紀尾井町の伏見宮邸跡地に建設したホテルです。ホテル開業直後に経営不振に陥った大谷重工業は1977年に大阪製鋼と合併して合同製鐵となり、現在は新日本製鐵の関連会社となっています。故大谷米太郎氏は波乱万丈の人生を送った人です。本業の製鉄会社を手放すことにはなりましたが、日本を代表する高級ホテルとして直営ホテルと多数のグループホテルを国内外に有する企業として今も健在です。

伏見宮邸は、もとは加藤清正の下屋敷で後に彦根藩井伊家の中屋敷であった場所に、明治初期に建てられましたが、その庭園がホテルの庭として保存されています。傾斜地を巧みに利用した日本庭園を休憩時間に散策しました。同様に傾斜地を活かした殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)や小石川後楽園(水戸家上屋敷跡)よりも起伏があります。

 

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鴨や鯉を見ながら池を巡りました。朱に塗られた太鼓橋を渡ると茶屋風レストランの石心亭です。散策路は急な下り坂になりました。先はオフィスビルのガーデンコートへと続きますが、左手に折れるとこの庭のシンボルである大きな滝へと至ります。

 

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滝越しに見える本館の最上階にある回転ラウンジがこのホテルのシンボルで、映画「人間の証明」の舞台になったことでも知られます。開業の10年後には40階建の別館ホテルニューオータニ・ガーデンタワー が開業し、さらに1991年には賃貸オフィスなどが入る30階建のホテルニューオータニ・ガーデンコートもオープンしました。同時に浮世絵のコレクションを展示するニューオータニ美術館がこのビルの6階に開館しました。

 

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庭に咲く花々です。

 

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紀尾井坂を挟んだ上智大学四谷キャンパスは尾張名古屋藩尾張徳川家の中屋敷の跡地で、東京の地名の記事で書いたように紀尾井町の地名の由来となりました。

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2008年7月 8日 (火)

名古屋 丸ごと散策(完): 徳川園と東山スカイタワー

名古屋城の東門を出て300mほど東に歩いた東大手駅で名鉄瀬戸線に乗りました。始点の栄町からこの駅までが地下区間で、この駅も名古屋城外堀の地下にあります。3つ目の森下駅で下車しました。徳川美術館と徳川園を訪れるためです。この周辺は戦災を免れたために古い町並みが残っています。徒歩で10分ほど歩いた徳川美術館は徳川家康の遺品をはじめ尾張徳川家の貴重な宝物が展示されていました。

 

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隣接する徳川園は典型的な大名庭園です。大きな池の龍仙湖を巡る回遊庭園は期待したよりも平凡でしたが、奥に入ったところに虎の尾や大曽根の滝などがあり、思いのほかの広さと静かな佇まいが気に入りました。

 

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まだ時間に余裕があるので大曽根駅から地下鉄名城線に乗りました。本山駅で東山線に乗り換えて東山公園駅で下車、東山公園内の東山スカイタワーに向かいました。動物園脇の坂道を1km余り上ると海抜80mの高台に建つ80mの塔があります。

 

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雨もすっかりあがって薄日が差してきましたので標高180mの展望室からは、御嶽山・乗鞍山・伊吹山など遠方の山々は見えませんが、名古屋の市街地が一望できました。足元には東山公園の遊園地、西方には名古屋駅前の高層ビル、東方には植物園の先に東(ひがし)名阪自動車道が手にとるように見えます。

 

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2008_05310304_2 東山タワーを降りて地下鉄星ヶ丘駅方面に歩いてみました。長細い駐車場を抜けて自動車道に沿って下り坂を10分ほど歩くと繁華街に出ました。

 

スロープを美しいテラス風に設(しつら)えた洒落た店舗は「星が丘テラス」、その隣は三越星ヶ丘店でした。再び地下鉄に乗って名古屋の中心部へ向かいます。

 

友人との会食を終えて新幹線で帰路につきました。発車間際に慌てて最後の一枚を撮影したためブレてしまったのが残念です。

 

2008_05310308満ち足りた一日を振り返りながら窓の外を眺めていると、高速で流れて行く夜景が映画「2001年宇宙の旅」のラストに登場した他銀河へのワープ(光速移動)シーンに似て見えました。高速道路のドライブや飛行機では体験できない楽しさに気づきます。

 

雨の中を10数kmも歩いたためでしょうか、それとも会食で弾んだ会話と少し過ぎた酒量が原因かもしれませんが、走馬灯のように流れる夜景はいつの間にか私の意識から遠退いて行きました。□

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2008年7月 7日 (月)

名古屋 丸ごと散策(3): 名古屋城

地下鉄市役所駅から地上に出ると目の前が日本三名城のひとつである名古屋城、これまで何度も訪れたことがある場所です。右手の東門が近いのですが、やはり正門から入ることにして左手の出来町通りを西に歩きました。観光客を案内するガイドの日本語や英語があちこちで聞こえます。正門を入りました。入場料は500円。期待していた西の丸展示館は雨とは言え人の気配がありません。何と閉館中でした。残念です。土砂降りの雨のなかで国指定天然記念物の榧(かや)の巨木(樹齢600年以上)だけを撮影して天守閣に向かいました。

 

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2008_05310217_2 途中で重要文化財の西北隅櫓「戌亥櫓(いぬいやぐら)」が6月1日まで特別公開中であるとの案内板を見つけましたのでその方向へ向かいました。現存する3つの隅櫓の一つ、深井丸エリアにある西北隅櫓は三層の立派な櫓です。清洲城天守閣の資材を使ったことから清洲櫓とも呼ばれます。

   

石落しの仕掛けは外敵を鉄砲で撃つのが目的だったとガイドの人が説明してくれました。櫓は物見や武器・食料の貯蔵庫としても使われたそうです。(5月31日撮影)

 

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深井丸エリアから内堀越しに大天守閣と小天守閣が良く見えます。2つの天守閣が橋台でつながる珍しい形式です。名古屋城は昭和5年(1930年)に天守閣をはじめとする城郭24棟が国宝に指定されましたが、そのほとんどが戦災で消失しました。現在の名古屋城の天守閣と正門は戦後になって観光目的で再建されたもので国宝の指定は受けていません。深井丸展示館と旧天守閣の礎石を経て「不明門」(別名あかずの門)から本丸エリアに入りました。

 

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秀吉の無き後、豊臣家との対立に備える東海道の防衛拠点として家康は尾張徳川家を置き、信長の最初の居城であった那古野城跡にその居城として名古屋城を築城することを決めました。慶長15年(1010年)に石垣など基本構造が完成し、同17年(1012年)に天守閣も完成しました。そして本丸が完成した同20年(1615年)の「大坂夏の陣」で豊臣家は滅びます。名古屋城は名古屋台地の西北端に築かれたため、前述したように、その東と南の広いエリアを使って大きな城下町が建設されました。名古屋台地の西側を南北に流れるのが先ほど渡った堀川です。

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2008_05310234_2 名古屋城と言えば金の鯱(しゃちほこ)、名古屋の象徴でもありますが、一階に原寸大の模型が展示されていました。雄と雌があるそうです。盗賊の石川五右衛門がこの金鯱の鱗(うろこ)を盗もうとしたと伝えられるのは講談話です。 

エレベータを利用すれば一気に最上階の展望室です。あいにくの雨ですが名古屋駅前の高層ビルをはじめ名古屋市内が良く見えます。北東には名城公園が広がっています。正門、大天守閣、小天守閣とともに戦災に遭った本丸御殿の再建が決まり、近々その工事が始まるそうです。

 

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小天守の東南に大天守の展望階から見下ろした本丸御殿の礎石と井戸がありました。

 

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国重要文化財の表二之門を出て二の丸跡に向かいました。信長の最初の居城であった那古野城(なごやじょう)跡、加藤清正の石曳きの像、二の丸庭園、二の丸東庭園、東南隅櫓(国重要文化財)などを見て回る頃には雨があがっていました。(続く)

 

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2008年7月 6日 (日)

名古屋 丸ごと散策(2): 大須から名古屋城へ

100m道路を越て大須に入りました。浅草観音と津観音とともに日本三大観音と呼ばれる大須観音と電気街がある名古屋を代表する繁華街の一つです。

2008_05310153 ここで薀蓄です。大須観音は1236年(嘉禎2年)頃、後醍醐天皇が尾張国中島郡長岡庄大須郷(後に美濃国となり現在は岐阜県羽島市桑原町大須)に観音堂が創建したのが起源(14世紀に真福寺と改称、その後近くの現在地に移転)と伝えられます。ちなみに大須の地名は木曽川と長良川の砂州があったことに由来すると考えられます。

 

大須観音のhpによれば、徳川家康が名古屋の街を建設するに際して慶長12年(1612年)にこの真福寺にあった宝生院を現在の地に移したことで、一般には大須観音と呼ばれています。寺号は北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)で、明治時代の火災で焼失して再建されましたが、戦災でも消失しましたため1970年に本堂が再建されています。真言宗智山派別格本山として弘法大師像があり、また大正琴の発祥地でもあることからその碑が境内に建っていました。 

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この大須には東京と大阪に進出して話題になったリサイクル店「コメ兵(ひょう)」の本店があり