旅後記‐ 日光の地名
旅行中に同行者達から質問されて答えられなかった事柄を帰宅後に調べてみました。日光観光協会のHPなどの資料・情報を参考にしています。
Q1.
明智平は明智光秀と何か関係があるの?
“YES” 明智平は明智光秀に因んで天海大僧正が名付けたといわれます。山崎の合戦に敗れた明智光秀が、実は生き延びて、天海大僧正になったとする説もあると書かれていますが、これは源義経が大陸に逃れてチンギス・ハンになったとする俗説と同じだと思います。
Q2.
戦場ケ原で本当に戦争があったの?
“YES” と言っても神話のなかのできごとです。中禅寺湖をめぐって下野(しもつけ)の二荒山の神と上野(こうずけ)の赤城山の神がこの戦場ケ原で争ったとの言い伝えがあります。二荒山は今の男体山のこと。現実の戦場ケ原は標高1400mに広がる400ヘクタールの湿原です。2万年前に日光火山群の噴火で川がせき止められて湖になったが、その後の乾燥化や土砂の流入で現在の湿原に変わったそうです。尾瀬湿原が出来たプロセスも同様であり、今は渓流が美しい上高地も田代池で湿原化が始まっていました。
Q3. いろは坂にはカーブが48箇所あるの?
“YES” 第一いろは坂と第二いろは坂をあわせて48のカーブがあります。昭和初期、(第一)いろは坂に48のカーブがあったことから名付けられたが、その後の道路改修で30に減ってしまう。1965年に第二いろは坂ができてカーブは50に増えたため、第一のカーブを2つ減らして現在の48になった経緯があります。
Q4. 二荒山神社を「ふたら」と読むのはどうして?
男体山は昔、二荒山(ふたらさん)と呼ばれていましたが、別名を補陀洛山(ふたらさん)といわれたそうです。補陀洛山(ふだらくさん)とは観音様が住む理想の浄土世界のことで、それが訛って「ふたら」になったものといわれ、また弘法大師がこの地を訪れた時に二荒を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたと言われます。
補陀洛山信仰は日本各地にあります。補陀洛山が南の海にあると信じられ、これを目指して船出する「補陀洛渡海」が各地で行なわれました。那智勝浦の補陀洛山寺にも渡海船が置かれていました。(右の写真)
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