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2006年12月に作成された記事

2006年12月31日 (日)

年末の行事と「丘の湯」

今年も年の瀬を迎えました。いつものように両親の菩提寺へお参りしたあと、川崎大師へと向かいました。1年間の息災を感謝して御護摩札をお返ししました。新しい御護摩札を頂いたあとは、昼食に門前の「はやま」さんで年越し蕎麦をいただきます。
 
 

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20年近く前に厄除け祈願に訪れて以来、年末に川崎大師に参拝するのがわが家の恒例となっています。干支の置物を「高橋太一商店」で求めるのも楽しみになりました。厄除けの切り飴、葛餅、饅頭は仲見世の名物です。今年は子供が全員パートナーと一緒に集まってくれました。オチビチャンを入れると9名の大所帯、ほんとうに嬉しいことです。
 
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泊まってくれた息子達を送りだした大晦日の午後、今年の最後になる温泉めぐりです。読売ランドの「丘の湯」へ行くことにしました。最近、四万温泉の湯に変わったようです。つい先日までは美人の湯で知られる和歌山の龍神温泉の湯でした。とは言っても成分を真似た人工温泉ですが。休日料金でも700円と格安。
 
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場所は読売ランドに隣接した高台です。和風の建物は大晦日にも拘らず、あるいは大晦日だからなのか、大変な混雑。ロビー、食堂、脱衣所、洗い場、そして浴槽も、人、人、人で溢れていました。内湯には座・マッサージ、スーパー・ジェットバスなどがところ狭しと並んでいますが、順番を待つ人たちが・・。あつ湯、歩行湯、湯腰掛など多彩な浴槽(いずれも普通の湯)は迷路のようです。
 
2006_12310055露天風呂も多彩です。最近人気の絹の湯、壺湯、足湯、寝湯、寝転び湯、そして全国の名湯の温泉成分を再現した人工温泉の岩風呂がありました。丘の上の立地を活かした設計で開放感があり、青空を眺めながら入る寝転び湯は快適です。もうひとつ私が気に入ったのは低温の漢薬蒸し風呂、いつまでも座って居たくなる風呂です。  

温泉でリラックスしたあとは、同行者に付き合って、今年最後の買い物です。こちらも人波にもまれて大変。一緒に大晦日を過ごしてくれるオチビちゃんの待つわが家へと急ぎました。 

 

<同行者のコメント> 家族が集まって食事をするのは楽しいですね。ただでさえ忙しい大晦日に温泉へ行こうと言い出すわが家の旦那様はあいかわらずです。混雑する今日の温泉は、子供たちが泳いだり、洗い場も満員で、長居はちょっと・・・。無理して行くことはなかったと思いますよ。でも、めずらしく買い物を手伝ってくれましたから良い気分で年が越せそうです。

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2006年12月29日 (金)

食べ物についての薀蓄

歳を取るにつれ和食が好きになるかたが多いようですね。ご多分にもれず私もそのひとりです。思いつくままに好きな食べ物とその薀蓄(うんちく)を書いてみましょう。 

 

自然薯(じねんじょ) 

日本古来の山芋で、滋養に富むとともに粘りがあり、とろろめしは格別です。消化酵素が多く含まれているため、胃が弱っている時にも、食べたものの消化吸収を促進する効果があります。栽培されている山芋(銀杏芋、捏芋、大芋)は中国や南方から中世に日本へ伝来したもので、日本自生の自然薯とは異なります。ちなみに薯とは中国語で芋のことを意味し、馬鈴薯(じゃがいも)や甘薯(さつまいも)などにも使われています。 

 

ジャガイモとサツマイモ 

「ジャガイモ」はジャガタラの芋、「サツマイモ」は薩摩の芋です。ジャガタラとは「ジャガタラお春」でご紹介した今のインドネシアのこと。南米原産の芋がヨーロッパに伝わり、インドネシアに拠点があったオランダ人によって日本へ持ち込まれたのです。サツマイモは薩摩(鹿児島)で琉球藷、琉球(沖縄)では唐芋と、伝来した地名が付けられています。 

 

飛龍頭(ひりょうず、ひろうす) 

豆腐料理である「がんもどき」を関西地方でこう呼びます。ポルトガル語で肉団子のことを「ヒロス」と呼ぶことから転じたとする説や、形が龍の頭に似ているからとする説などがあります。一方、関東地方での呼び名である「がんもどき」は雁の味に似ている、または形が丸いことから丸(団子)のようなものの意とも言われます。 

 

カツレツ 

揚げ物のことですが、フランス料理から来た言葉のようです。現在は縮めて「カツ」と言うのが普通ですね。豚カツ、牛カツ、鶏カツ、鯨カツ、ハムカツ、そしてカツ丼など多彩です。外来語を組み合わせた造語が挽肉のミンチカツでメンチカツとも言います。海老フライ、牡蠣フライなどのフライや串カツと呼ばれる料理も同じ調理法が使われています。 

 

天ぷら 

日本固有の揚げ物料理と思われがちですが、ポルトガルの揚げ物料理がオリジナルとの説が有力で、天麩羅の字は当て字のようです。現在は、日本に従来からあった揚げ物も含めて、小麦粉の衣をつけた揚げもの全体を呼ぶようになりました。野菜を揚げたものは精進揚げと呼ぶこともあります。 

 

刺身 

これは日本で発祥した料理の代表です。なぜ刺身と呼ぶかが不思議ですね。諸説があります。生魚の切り身に魚の種類を示すために尾鰭(おひれ)を刺した、あるいは切り身では縁起が悪いので刺すと言い換えたなどの説です。同じ生魚でも細かくしたものは「たたき」。その名の通り叩く動作から呼ばれるようになりました。鰹、鯵、鰯などがよく使われます。 

 

寿司

残念ながらこれも渡来の食べ物です。南アジアが起源といわれ、米の中で魚を発酵させた保存食のようです。これが中国を経由して平安時代に日本へ伝来し、魚とともにご飯も一緒に食べるようになりました。江戸時代に入ると、発酵させない新鮮な魚をご飯と一緒に食べるにぎり鮨が一般的になり、現在の鮨が確立しました。さて鮨と寿司の違いですが、前者は旧来のものを指し、後者は江戸前寿司のことを指すようです。縁起が良い字を使ったとの説もあるようですが。私の好きな鯖の押し鮨(バッテラ)はその中間と言えるでしょう。 

 

うどん 

小麦粉を使った麺で、奈良時代に中国から伝えられました。鎌倉時代になると、材料や加工法が改良されてうどんの原型である「切り麦」となり、室町時代には現在とほとんど同じものに発展して「うどん(饂飩、温飩)」と呼ばれるようになりました。ワンタンを中国語で餛飩(フントン、方言でウンドン)と言うそうですから、その影響があるのかも知れません。うどんは江戸時代に入り江戸で広まります。製法が異なる素麺(そーめん)が秋田に伝わって稲庭うどんになったとの説があります。日本3大うどんはこの稲庭、群馬の水沢、そして映画にもなった香川の讃岐。稲庭は手延べで細め、水沢はやや太めのザル、讃岐はかけとともに多彩なトッピング、とそれぞれに特徴があります。 

 

蕎麦(そば) 

中国南部(雲南省)が原産地とされる蕎麦は稲と同時期に日本へ伝わったようです。しかし、中国から伝来したうどんに比べると比較的新しい食べ物のようで、当初は蕎麦掻(そばがき)の形で食べられていましたが、蕎麦粉(そばこ)につなぎとして小麦粉をまぜて麺(めん)の形に捏(こ)ねる製法が朝鮮からもたらされた江戸時代の初頭に広まりました。痩(や)せた土地でも栽培できる蕎麦の食べ方として普及したと考えられます。ちなみに、「そば」は中国語の蕎麦(ソバのツブの意)ですが、蕎麦の実は形が尖(とが)っていることから、稜(そばだ)つの「そば」を充(あ)てた訓読みのようです。そして、寿司、うどん、蕎麦は江戸時代に屋台形式の店舗で普及した、いわばファーストフードの奔(はし)りと言ってもよいでしょう。 

 

ラーメン 

もっとも人気のある麺がラーメン(拉麺)。名前とドンブリの装飾柄はどう見ても中国風ですが、意外にも日本生まれです。麺はかん水を入れた中華麺が使われますが、具やスープにはルールはなく、創作料理の典型例です。最近はかん水を使わない麺も使われるようです。日本で最初にラーメンを食べたのは水戸光圀であるとする説がありますが、これは中華蕎麦ではないかと思います。戦前にはラーメンは支那ソバと呼ばれており、ラーメンの呼称が一般的になるのは戦後のことです。「拉」は引っ張るの意味があり、切るのではなく、引っ張って伸ばした麺のことです。中国の麺の製法は、「引っ張る」のほかに、「切る」「押し出す」「削る」「型で抜く」「小さく分ける」など多彩です。 

 

チャンポンメン 

これも日本で考案された麺料理です。明治時代に長崎の料理屋さんが中国からの留学生に食べさせたいと創作した麺料理なのです。「チャンポン」は色々なものを混ぜるという意味のポルトガル語とする説が有力ですが、沖縄のチャンプルーや朝鮮語だとする説もあります。発祥の地、長崎を冠して呼ばれることが多いですね。タップリ入った魚介類とこってりしたスープが特徴です。スパゲッティのナポリタンと同様に、日本国内でしか通用しない名前の麺料理です。 

 

おみおつけ 

味噌汁の丁寧な言い方。漢字では「御御御付け」と書きます。後半の「おつけ」はご膳に付ける汁物のことで、初めの「おみ」は丁寧を表す接頭語、具の丁寧表現(御実)、あるいは味噌の丁寧表現(御味)などの諸説があります。御御足(おみあし)と同じ用法と考えるのが自然だと思います。 

 

ご飯

米を炊いた食事が飯(めし)で、「召す」からでた言葉です。茶碗にご飯を盛ることを関東と関西では「ご飯を装う」と言うように、日本人の食事作法についての拘りがよく覗えます。装う時には杓文字(しゃもじ)でご飯を2度あるいは3度に分け、より美味しく見えるように盛る心配りです。一方、食べる人は、お代わりをするときに一口分を残し、終わる時には一粒残らず食べること。そして茶碗を洗う人のことを考えてお茶を少し入れておく。昔、親から教わった記憶はあるものの、今はほとんど実行できていません。おかずとご飯は混ぜない、味噌汁をご飯にかけないなどの教えもありました。私の生まれた田舎ではご飯を装うことを「つける」と言います。この言い方は狭い地域だけで使われていますから、時代小説がお好きなかたは何処か分かったことでしょう。他にも「つぐ」「よそる」などの言い方もあるようです。 

 

これからもご飯を美味しく頂きたいものです。

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2006年12月28日 (木)

テレビ番組雑感

Dscf0068_2 「功名が辻」(司馬遼太郎原作)の再放送が昨日終わりました。原作にはない挿話です。最終回の前、千代が高台院(寧々)を京に訪れた時、土佐に新しい城が出来たので「道具」を探しに参りましたと述べるシーンが印象に残りました。道具と言えば現代では作業に使う工具を指すのが普通ですが、この時代にはもっと広い意味がありました。 

 

当時、道具とは生活のために必要なさまざまなものを指し、用途に応じて、工具、農具、文房具、家具など。今では「嫁入り道具」の表現で残るだけになりました。先のブログで紹介した箪笥と同様に、言葉の意味するところが変わった例です。写真はドラマの前半で重要な舞台となった美濃の一夜城とその周辺です。
 
 

Dscf0065同じNHKのテレビドラマ「チャングムの誓い」が先月中旬に終わりました。ファンの寂しさを見透かしたように、主演したイ・ヨンエさん他が登場するインタビュー番組が先週末に放送されました。もちろん見逃すわけには行きません。ドラマ撮影の裏話も興味深く観ました。 

 

タイムリーな番組と喜びましたが、年末には総集編、年明けにも完全版(ノーカット字幕版)の放送を行うと聞くに至ると・・・。あまりにも節操がないのではないかと、ファンの立場を離れて、別の思いが湧いてきました。 

 

昨夜9時からTBSで松本清張原作の「波の塔」が放送されました。20代の後半に手当たり次第に読んだ私の好きな作家です。砂の器、点と線、ゼロの焦点、球形の荒野、霧の旗、影の地帯、天城越えなどの社会派小説だけではなく、恋愛小説の分野でも独自の世界を作った同氏の代表作のひとつです。女性週刊誌に連載され、1960年に映画化(津川雅彦、有馬稲子)、1965年に初版が出版されました。1973年にはNHKでドラマ化(浜畑賢吉と加賀まりこ)、1991年のフジテレビでは神田正輝と池上季実子が共演しました。 

 

「どこへも行けない道ってあるのね」と結末を暗示するヒロインの言葉と青木ケ原樹海を一躍有名にしたことでも知られます。昨夜のドラマは、半世紀前に書かれた原作を現代風に変えたことと主演の配役が今ひとつで、残念ながら原作の魅力を伝えているとは言えませんでした。「私は貝になりたい」以来、ドラマ作りに定評があったTBSなのに残念です。
 
 

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写真 本栖湖から樹海方面を望む、下部温泉の近くにある身延山

 

NHKは視聴者の期待に応えるため、韓国ドラマに依存するのではなく、自らが良い番組を製作して放送するとともに、貴重なアーカイブも積極的に公開して欲しいと思います。新年早々に放送される予定の世界遺産や自然百景などを楽しみにしています。

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2006年12月26日 (火)

東京の地名「?」(後編)

八重洲、日本橋、そしてその周辺をご紹介しましょう。八重洲は中央区の地名ですが、東京駅の東口が八重洲口と呼ばれたことで知られ、無線に関心のある方なら八重洲無線が思い浮かぶでしょう。創業当時、同社が八重洲に本社を置いたことで命名されたようです。八重洲の由来は、徳川家康の外交顧問兼通訳であったオランダ人のヤン・ヨーステンが家康から貰った邸宅がこの地にあったことに因ります。耶楊子(やようす)が訛って八代洲(やよす)、そして明治5年に八重洲になりました。
 
 

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余談ですが、風景画で知られる歌川広重はこの八代洲で同心の子として生まれました。丸の内、有楽町、そして日本橋が次々と再開発されるなか、八重洲が取り残されていましたが、ツインタワービル建設計画などが進行中で注目を集めています。八重洲に隣接する京橋は京都へ向かう東海道で最初の橋があったことが地名の由来です。
 
 

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2006_12200612200013_1この京橋は日本橋と同じ慶長八年(1603)頃に架けられ、日本橋・新橋と同じく親柱・小柱に擬宝珠(ぎぼし)を付けることが許された御入用橋で幕府が維持管理していたそうです。擬宝珠は橋の格式の高さを示し、町人地の中の橋でこれを付けることが出来たのは日本橋、京橋、新橋の3橋でした。

 

これら三つの橋をはじめ、江戸には数え切れないほど多くの橋がありました。橋が多いことで知られる大阪は、諸藩が蔵屋敷を置いたことで水路が発達して、「八百八橋」と言われるほどでしたが、東京(江戸)はこれよりも多い1000以上の橋があったとされています。

 

日本橋は、江戸初期に幹線道路の一部として架けられ、東海道をはじめとする五街道の起点となりました。日本橋川沿いには蔵屋敷と四日市などが置かれ、中央通には呉服屋、両替商、大問屋などの商業施設で大変な賑いだったそうです。対岸にあった魚河岸(乙姫広場に記念碑がある)は「一心太助」の話で知られています。
 
 

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昭和22年に日本橋区と京橋区が統合して中央区が発足した時、日本橋の名を残したいとして、「日本橋xx町」の地名が多数できました。神田、市谷、麻布にも旧区名を冠した地名が多く存在しますが、このことが地名のイメージを希薄化させるだけではなく、歴史を無視した没個性化を推し進めてしまったように思います。
 
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そのひとつである日本橋室町の名は京都の室町にならったもので、往時の「室町」は江戸一番の繁華街でした。昨年7月、三井本館横に建設された日本橋三井タワーは日本橋室町2丁目にあります。向かい側の三井別館跡にはHD DVDプラネタリウムとネオ屋台村が1215日に開設されたばかりです。いずれも期間限定の営業ですが・・。  

隣の1丁目には重厚な建物の三越本店、常盤橋寄りの日本橋本石町には日銀本店と貨幣博物館、日本橋を渡った日本橋1丁目には複合施設「KOREDO日本橋」(2004年)など、新旧取り混ぜた建物と町並みが広がっていました。
 
 

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東京の川の多くは、東京オリンピック以降に埋め立てられて、高速道路の建設に利用されました。新橋や京橋など、今は橋のつく地名だけが残りますが、これらの地名を大切に遺したいものだと思います。

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東京の地名「?」(前編)

JR山手線の目黒駅が目黒区ではなく隣の品川区にあることや、巣鴨プリズン(旧東京拘置所でその跡地はサンシャインビルになっている)が東池袋にあったことはすでに紹介しました。実はこれ以外にも「おや?」と興味を惹かれる地名や地名にまつわる話が都内にたくさんありますので、思いつくままに紹介しましょう。  

先ずは「新橋演舞場」です。ここは新橋芸者たちが誇る「東をどり」を披露する場として大正143月に建てられたのが始まりで、昭和57年に新装されて舞台装置や音響などを一新しました。歌舞伎をはじめ、新派、現代劇、ミュージカル、スーパー歌舞伎に至るまで、演目の多種多彩さでとみに知られています。
 
 

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大正14年の創建時から今と同じ銀座6丁目(当時は木挽町)にありました。なぜ銀座なのに新橋の名があるかと言うと、当ブログの「地名の由来」で簡単に紹介したように、新橋と呼ばれた橋は現在の新橋駅よりもずっと銀座寄り、銀座8丁目との間を流れていた汐留川に1630年(寛永7年)に掛けられました。つまり今の中央通りと首都高が交差するあたりです。 

2006_12200612200010東海道沿いでかつ舟の便も良いため、お茶屋や船宿ができ、大変賑わいました。このあたりのお茶屋で技芸を見せる芸者さんを新橋芸者あるいはこの地に住んだ能役者にちなんで金春(こんぱる)芸者と呼んだそうです。柳橋の芸者さんと並び称されて「新柳二橋」が花柳界を代表するようになった幕末から明治の初期に新橋芸者と言う呼び名が一般的になりました。
 

「ヨドバシカメラ」は現在の西新宿付近(旧地名は淀橋町)が創業の場所であることから名付けられました。終戦直後に淀橋区が周辺の区と統合されて新宿区となり、1970年に住居表示の変更で地名としての淀橋は消滅します。さらに浄水場機能が東村山へ移転したあとは、淀橋の名称は北新宿の淀橋中央卸売市場(青果物)とカメラ量販店の社名に残るだけになりました。新宿区と中野区の間を流れる神田川を渡る青梅街道の「淀橋」は由緒ある地名の由来でありながら、いささか寂しい存在になっています。
 

2006_12150612150026「霞が関」は国の行政を司る官庁街として知られる場所です。日本で最初の超高層ビルの「霞が関ビル」(現在リニューアル中)は霞が関3丁目にあります。地名の由来は奥州街道の霞が関があったことによるとされています。面白いことに地下鉄の駅名は「霞ヶ関」。霞が関は中世の歌枕ですが、現在の霞が関と同じかどうかには定説がないようです。地下鉄入り口にある「霞が関跡の碑」はブラックユーモアではありません!! 

 

青山は「表参道のイルミネーション」で紹介したようにお洒落な街のイメージがあります。地名は隣の赤坂との関連はなく、江戸時代に譜代大名の青山忠成が領地を得たことによります。明治維新後は広大な屋敷跡が青山墓地や青山錬兵場(現在の明治神宮外苑)となります。青山通り(国道246号)は三宅坂を起点とする赤坂、表参道、青山を結ぶ国道の通称で、江戸時代に盛んであった大山詣での道として「大山街道」とも呼ばれました。明治通りとの交差点で「玉川通り」と名前が変ると、別のイメージになるのは面白いことです。 

 

秋葉原(あきはばら)の名前の由来は明治21年に台東区松が谷3丁目へ移転するまでこの地にあった「秋葉神社」だそうです。移転の理由は鉄道駅を建設するためでした。秋葉神社のある原っぱであることから秋葉原(あきばがはら)と呼ばれていました。地名では江戸時代に佐久間町、現在は外神田、神田須田町、神田相生町、岩本町などを含む電気街の代名詞となっています。
 
 

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2006_12200612200027由来から「アキバハラ」が正しいと思うのですが、明治23
年に駅名が「アキハバラ」となってからは、通称の「アキバ」以外は、こちらの読み方が一般的になったのです。私もラジオ少年だった頃はアキバハラだと思っていました。

 

あまり知られていないのですが、実は隣接する台東区には秋葉原(あきはばら)という地名があります。目黒駅と同様に、駅名と駅の所在地に厳密な関係のない?ケースとも言えます。

 

もっと大変なケースがありました。「品川駅」です。所在地は港区高輪3丁目。明治5年、新橋と横浜間に鉄道が建設された時に品川駅が品川宿の北に置かれた理由は目黒駅の場合と同じだったと思われます。高輪の海に突堤を築いて品川駅が建設されました。駅名に合わせたのか駅周辺のホテルやマンションも名前に品川を付けています。それに品川税務署が港区高輪にあるのも不思議です。この地域は芝税務署の管内のはずですが・・・。
 
 

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駅名で驚かされるのが京浜急行の「北品川駅」です。品川駅の南にあるのに名前は北品川なのです。しかしこれは所在地が品川区北品川1丁目(旧品川宿の北)ですから間違ってはいないのです!! 品川宿は目黒川の境橋(現在の品川橋)をはさんで、南品川宿と北品川宿がありました。後に歩行(かち)新宿が高輪寄りに加えられました。因みに八ツ山が品川と天領であった高輪の境界です。尚、品川の名は、目黒川がかって品川と呼ばれていたことに由来するようです。
 
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2006年12月24日 (日)

イルミネーション(神の啓示)

今日はクリスマス・イヴです。繁華街だけではなく、最近は住宅地でもイルミネーションが美しく飾られるようになりました。十数年前にアメリカで過ごしたクリスマスとイルミネーションのことを思い出します。  

つい最近になってこのイルミネーションのもう一つの意味を知りました。「ダ・ヴィンチ・コード」で一躍有名になったダン・ブラウンが2000年に発表した「天使と悪魔」にその表現がでてきました。ダ・ヴィンチ・コードに先立って書かれたこの小説は、同じ主人公であるハーヴァード大学教授のロバート・ダングドンが宗教に係わる難事件を解き明かす物語です。 

 

二つの小説はほとんど同じ構成とストーリー展開、しかもヒロインが登場することも同じです。短時間の出来事を詳細に記述して長い小説にしたことも・・・。異なる点は小説の舞台です。ダ・ヴィンチ・コードはフランスとイギリスであったのに対し、天使と悪魔ではスイスとイタリアが舞台となっています。 

 

スイス・ジュネーブの市街地(今年7月撮影)

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イタリア・ローマのトレヴィの泉とヴァチカン市国(30数年前の撮影)

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ダ・ヴィンチ・コードはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたモナリザと最後の晩餐に隠された謎解きでしたが、今回は「反物質」をめぐるテロが題材となったサスペンス調の小説です。もちろんキリスト教にまつわる場所探しの謎解きが味付けになっています。荒唐無稽な設定とは解かっていても、ストーリーの展開につい引き込まれてしまいます。 

両者に甲乙はつけ難いのですが、インパクトの大きさは宗教と科学の対立を扱った「天使と悪魔」がやや勝っていると思います。そして結末の爽やかさもダン・ブラウンならではのもので、一読をお勧めしたい小説です。

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2006年12月23日 (土)

深川散策と「七福神」

都営地下鉄新宿線を森下駅で下車、江東区の西部、隅田川に近い地域を歩いてみました。深川七福神にお参りしながら深川不動と富岡八幡宮にいたるルートです。
 
深川の名前は良く知られていますが、その場所を正確に言える人は少ないのではないでしょうか。住居表示としての深川は仙台堀川と永代通りに挟まれた狭い地域ですが、周辺の木場、冬木、富岡、越中島などにある施設にも深川の名が見出されます。これは明治11年に東京が区政に移行した際に、現在の江東区のうち横十間川より西側の地域(江東区の西半分)が深川区となったことによります。戦後には城東区と合併して現在の江東区となりましたが、学校や警察署など公共施設の名前はそのまま残っているのです。
 
深川の名前の由来は、江戸慶長年間に深川八郎右衛門が湿地帯を開発して深川村造りに尽力したことだと言われます。小名木川、源森川なども整備され、寺院や人が移住し、岡場所も設けられて、江戸の新興地域として発展しました。
 
以前は電車の便が良くない地域でしたが、大江戸線が開通したことで、森下で新宿線と、清澄で半蔵門線と、門前仲町で東西線と、それぞれ交差することで利便性が格段に向上しました。さらに南の越中島にはJR京葉線、豊洲は有楽町線と「ゆりかもめ」も通っています。
 

2006_12200612200034前書きが長くなりました。最初の七福神は森下駅のすぐ南、清澄通りから横道に入った神明宮にある「寿老神」です。幼稚園が併設された手狭な境内の奥にありました。  

さらに隅田川方向へ進むと、突き当りが芭蕉記念館ですが、左折して南へ向かいました。萬年橋の手前を右に入ると「芭蕉庵史跡展望庭園」に芭蕉像があります。隅田川とそれに合流する小名木川の万年橋が望める、北斎の富嶽三十六景に描かれたビューポイントでした。
   
 

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清洲橋通りの手前を左に入って200mほど行くと「布袋尊」です。清洲橋通りを横切ると「清澄庭園」の入り口に行き当たります。現在は都営公園ですが紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられ、後に岩崎家が所有したこともあります。池を回遊する庭園には全国から集められた名石が配置されています。磯渡りや富士山を模したつつじ山が楽しめました。
 
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2006_12200612200050_1寄り道をしたため、七福神を二つ巡っただけで、大分時間を要してしまいました。夕暮れ前にゴールへ到着するため先を急ぎます。深川江戸資料館通りに入りました。
 
江戸六地蔵の地蔵菩薩像と松平定信の墓がある霊厳寺(れいがんじ)の所在地「白河」は名君と言われた白河藩主で老中の松平定信(御三卿田安家の出自)に因んで名付けられたのだそうです。深川江戸資料館前を抜けて右折、家康の側室「阿茶局(あちゃのつぼね)」の墓がある雲光院と「毘沙門天」へ。
 
平野2丁目交差点を右折、最初の角に円珠院の「大黒天」。清澄通りに出て、海辺橋を渡ると葛西橋通りとの交差点横に心行寺の「福禄寿」。
 
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葛西橋通りの冬木交差点近くに冬木弁天堂の「弁財天」。首都高速を潜って富岡八幡宮参道を進むと、境内の横に7番目の「恵比寿神」がありました。深川の七福神は横町にある小さな社も含まれていますから、事前に詳しい案内図を準備された方がよいでしょう。七福神巡りだけでしたら2時間もあれば十分ですが、私のように寄り道をする場合は半日の散策コースです。
 
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富岡八幡宮は深川の八幡さまとも呼ばれます。境内には恵比寿神のほかに、横綱力士碑と大関力士碑、日本一といわれる神輿、神馬、伊能忠敬像などがあります。すぐ近くの門前仲町駅前にある深川不動堂にもお参りしました。江戸時代に成田山新勝寺の本尊が深川の永代寺境内で開帳されたことが深川不動堂の起こりだそうです。明治に入って永代寺は廃寺されて現在の深川不動堂となりました。門前仲町は永代寺の門前町であったことに由来しています。
 
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2006_12200612200070日が暮れれば飲み友達との忘年会です。昨年は浅草の「駒形どぜう」が会場でしたが、今年は富岡八幡宮境内の「深川宿」。 深川江戸資料館前にある深川宿の支店です。すぐ近く伊能忠敬の銅像があります。 

日本五大銘飯のひとつ「深川めし」を堪能しました。選んだぶっかけめしは期待通りの美味しさです。もちろんお酒もたっぷりと・・・。

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2006年12月19日 (火)

道志村と都留市を巡るドライブ

しばしば訪れる山梨県の道志村にまた足を運びました。何度訪れてもまた来たいと思わせる「道志みち」です。週末に訪れる予定が急用でキャンセル、今日は月曜日です。国道413号で道志村月夜野に入るとほどなく久保。ここの吊橋には前回立ち寄っているので、すぐ先にある「七滝」を観にゆくことにしました。柳瀬橋の横から入った旧道奥にある七滝荘旅館の横と旧道の橋から何段にもなって流れ落ちる滝が見えます。紅葉の時期を過ぎて見通しは良いのですが、水量もさほど豊かではなく、7段に流れ落ちる滝の全貌を見ることはできません。
 
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道志渓谷、紅椿の湯、道志水源の森、村営「道志の湯」入り口を通過。唐沢から県道24号(都留道志線)に入り、都留市方面へ向かいました。よく整備された道は山岳ドライブに最適で一度走ってみたかったのです。早朝の道は、スラローム族の姿も見えず、静かで快適。道坂トンネルを抜ければ都留市の展望が開けました。長い下り坂が10kmほど続く。
 
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国道139号で富士吉田方面へ向かう。十日市場駅の手前で横切る桂川には「田原(たはら)の滝」の階段状に流れ落ちる様がダイナミックで美しい。ユニークな形状は地学的にも貴重な「柱状節理」によるものだそうです。芭蕉の句「勢ひあり氷消えては瀧津魚」で知られる滝です。田原の滝から水を取り入れた谷村大堰(やむらおおせぎ)の碑がありました。
 
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都留市の市街地を抜けて「リニア見学センター」がある小形山(おがたやま)へ。富士急行大月線禾生(かせい)駅から細い道を入った中央高速道路横の傾斜地に建物がありました。休日の翌日は残念ながら休館日。リニア実験線は都留市の朝日馬場から大月市の笹子までの18.4kmが使われています。
 
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昼には少し早いのですが、日帰り温泉「芭蕉 月待ちの湯」へ向かう。赤坂駅前を左折して、ゴルフ場を2つ過ぎ、数キロ走ると都留市が経営する温泉に到着です。比較的広い駐車場には車が数台停まっているだけで、名栗と同様に悪い予感がしました。リニア見学センターと同じで、休日の翌日は休館であると表示されています。おやまあ!
 

2006_12180612180029新雛鶴トンネルを抜けて上野原経由で帰る予定でしたが、好天に映える富士山の美しさに惹かれて、ルートを大幅に変更することにしました。139号で田原の滝まで戻り、さらに富士吉田方面へと進む。富士山の絶景がだんだん近づいてくる様は何度経験しても感動します。 

 

「三つ峠登山口」の標識を見て、思わずハンドルを右に切って横道に入ってしまう。まだ風邪気味のため今回は山歩きの準備をまったくしていないのですが、車で行ける所まで走ってみたくなったのです。洗濯板のような凸凹の急坂が山の中腹に向かって延びています。

 

 途中で登山姿をした外国人少年の3人組を追い越しました。達磨石まで車で行けるはずですが、自らのしていることの馬鹿馬鹿しさに気付いて、途中の駐車場でUターンすることにしました。来年の春には出直したいと思います。
 

2006_12180612180031富士吉田で国道138号に入り、山中湖へと向かいました。以前、立ち寄って気に入 った「紅富士の湯」の露天風呂から富士山を見ることにしたのです。前回は曇天で富士山を見られなかったことが心残りになっていました。

 

昼食を摂ったあと、さっそく浴室へ向かいました。2階の内風呂から富士山が良く見えます。階段を下りて露天風呂へ辿り着く前には体がすっかり冷えてしまいました。「檜の湯」は温度が36度と低くいつまでも浸かっていられそうですが、風邪を拗らせてはいけないと、温度が42度と高い「石の湯」へ移りました。

 

いつもの通り、午後は早めの出発です。山中湖畔は3度、篭坂峠では2度を路傍の温度計が表示しています。都留市では午前中に4度でしたから、風が強くなるとともに寒気が入って来たようで、気温がどんどん下がっています。須走りからいつものショートカットに入り、急な坂道を一気に下ると、246号の菅沼交差点まではアッと言う間でした。

 

大井松田ICから東名高速道路に入るべきではと迷いましたが、この日は快適なドライブが続いたため、そのまま246号を走ることにしたのは失敗でした・・・。いつもの渋滞が待ち構えていたのです。早めに帰宅するはずが、帰着したのは5時になっていました。

 

<同行者のコメント> 今回は歩きなしでとても楽でした。温泉から富士山が良く見えたのが良かったです。お土産もいっぱい買うことができて大満足! 「休館日」と「休肝日」を十分チェックしてくださいね。

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2006年12月13日 (水)

初冬の大手町

寒さが一段と厳しさを増して都心も冬の装いです。大手町のシンボルのようなオブジェ(リーバーマン作)が画一的なビル群のなかでひときわ眼を惹きます。
 
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今人気のテイクアウト専門「ネオ屋台村」(Neo Stall Village)。ここ大手町サンケイビル前広場(メトロスクエア)と有楽町の東京国際フォーラム中庭(地上広場)が有名ですが、中目黒のみどり橋村や芝公園などにもあります。今週から日本橋三井別館跡地にも開村するそうで、都心部で10ヶ所以上に増えたようです。屋台は日替わりで場所(村)を巡回して客を飽きさせない配慮がなされています。写真の「hana curry」はこの草分けのひとつ、北品川のエスニックカレー屋さんです。
 
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東京駅方面に延びる銀杏並木のグラデーションが綺麗です。東京の銀杏並木は、この大手町・行幸通り(東京駅銀杏並木)と別格の明治神宮外苑絵画館前のほかに、東大安田講堂前、赤坂迎賓館前、八王子の甲州街道などが知られています。
 
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ビル影は日差しがなく寒々とした印象。道路の先には陽を浴びた皇居東御苑の木々の緑が鮮やかです。先週末の雨が嘘のような冬晴れの一日でした。
 
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2006年12月12日 (火)

表参道のイルミネーション

表参道のイルミネーションが8年ぶりに復活したと聞いて出かけてみました。地下鉄の表参道駅を降りて地上に出る。日没までにはまだ時間があります。近くの横断歩道橋から並木道を撮影しようとすると、点滅する赤色灯が多数目に入りました。消防車も何台か。表参道ヒルズのすぐ近くで住宅火災があったのです。
 
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所用を済ませた2時間後、外はすでに暗くなっていました。ケヤキ並木がライトアップされています。行灯(あんどん)のような和風イルミネーション「表参道AKARIUM」が原宿駅まで続いています。イルミネーションのことを中国語では「灯彩」と呼ぶそうです。これは見事な表現力ですね。表現力と言えばAKARIUM1670万色の表現が可能な発光ダイオードの塔で、高さ6メートル、幅1.2メートルの大きさがあり、合計60基が設置されています。休止になるまでの40万個の豆電球と比べて電力消費量が格段に少なくなり、ケヤキの木も傷めなくてすむ自然に優しいイルミネーションだと説明されていました。私には少し地味な印象ですが・・・。 

 

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人込みに押されながら緩やかな下り坂を歩きました。表参道ヒルズとブランドショップが立ち並ぶ700mほどの坂を下りきった神宮前交差点でUターンしました。表参道ヒルズの「ブライトアップウォール」(約250mの区間)には約2万個のLEDが組み込まれて、「表参道AKARIUM」と連動した演出がされています。

 

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ブランドショップはいずれも華やかです。歩いたコースにそって、グッチ、ハナエ・モリ、バーバリー、ルイ・ヴィトン、クリスチャン・ディオール、ベネトン、ロエベ、フェンディ、セリーヌが立ち並んでいました。なかでも今年大型店をオープンしたばかりのラルフローレンは白亜の館が一段と豪華です。なお青山通り(246号)の反対側、南青山にもイッセイ・ミヤケ、コムデギャルソン、プラダ、ヨージ・ヤマモト、カルバンクライン、ケンゾー、など多数のブランドショップがあります。 

 

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2006年12月10日 (日)

都心の紅葉巡り

週末は生憎の雨模様にも関わらず都心へ紅葉を見に出掛けることにしました。普段であれば躊躇するのですが、久しぶりに来日したニュージーランドの友人を案内するためです。彼とは20年来の付き合いで、お互いの自宅を訪問しあったり、アメリカでも我家に招待した間柄です。有朋自遠方来不亦楽(朋有り遠方より来る-亦楽しからずや) 

前日の天気予報では昼頃から雨になるはずでしたが、朝からすでに雨が降っていました。数日前に電話で計画を打ち合わせていたのですが、天気が冴えないと思われたため、駅から近いスポットだけに絞りました。 

 

何度も会ったことのあるわが家の奥さんも彼の誘いで同行することに。ホテルがある巣鴨で落ち合う。計画を確認して駒込に向かってスタートです。一駅(約700m)と近く、小雨だろうと見くびって、路地伝いに歩くことにしました。しかし雨足と風がだんだん強くなってきました。これは判断ミスかな? 六義園に到着です。
 
 

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入園者が少なく静まり返った園内は紅葉と落ち葉で彩られていました。池では水鳥が元気に泳ぎ周っています。カメラ好きな彼には良い撮影対象のようです。園内を一周したあと六郷通り沿いの小さな喫茶店で暖をとることに・・。話に花が咲いて1時間近い休憩になっていました。
 
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2006_12090612090011_1ここからは山手線と銀座線を利用して浅草へ移動しました。昔、来たことを思い出したそうです。孫達への土産に買いたいという人形を仲見世で探しました。慎重な彼らしく何軒もの店を覗いたあと、孫の数だけ買い求めます。そして五重塔の撮影にも忙しい。

 

次の目的地は皇居の東御苑です。大手町駅で地下鉄を降り、大手門をくぐって御苑内へ。三の丸跡と二の丸跡、そして本丸跡に向う途中に同心番所・百人番所・大番所の建物だけが残っている。東御苑も訪れる人が少ない。彼ははじめて見る石垣に興味を持ったようです。内堀に続いて天守閣跡の石垣も撮影しています。華やかな陶片とタイルで彩られた桃華楽堂(とうかがくどう)の八角の外壁にも関心を示し、私は質問攻めに遭う。
 
 

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三の丸尚蔵(しょうぞう)館で開催されていた「明治の彫金-海野勝珉(うんのしょうみん)とその周辺」展に何気なく立ち寄る。雨風で冷えた体を休めるために入ったのですが、尚蔵館が収蔵するさまざまな彫金の素晴らしさに時間を忘れて見入ってしまいました。パリ万博(明治33年)に出品された太平楽置物(武士像)のリアリティに驚かされます。金属製とは信じられない質感は正にレザークラフトのようでした。金で装飾された短刀と島津の家紋をあしらった太刀、鳳置物、花瓶、煙草箱など、いずれを見事な作品です。開催期間は翌日までで幸運でした。  

最後は六本木ヒルズです。けやき坂のイルミネーションと52階展望台からの景色を見せたかったのですが生憎の雨天で断念。ウエストウォークでクリスマスの飾りつけなどを見て歩くだけになってしまう。 

 

巣鴨に戻って早めの夕食を摂ることにしました。ここでも話が弾み、気がつけば2時間以上が過ぎていました。プレゼントを交換し合って帰路につきました。別れ際には西洋人らしく私と力強く握手したあとは、何とわが家の奥さんとハグをしています。おやおや! 

 

<同行者のコメント> 雨の中を歩き回って大変でした。何と言うことでしょう! 旦那さんの万歩計は18,800歩(530kcal)を表示しています。年上の彼は少し疲れていたようですが、話しはじめると急に元気になるのは驚きました。あなたも風邪気味で喉が枯れてハスキーボイスになってしまいましたね。

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2006年12月 7日 (木)

好事魔多し!

仲間内の定例ゴルフコンペに参加しました。12月になると朝の冷え込みが厳しく、早朝のホームコースは霜が降りてフェアウエイが真っ白です。朝日のおかげでスタートする頃には霜が消えていましたが・・・。 

 

最近は温泉巡りと山歩きに勤しんでいることもあり、ゴルフのほうは月一回のペースになりスコアも悪化する一方でしたが、先月からお誘いが多くて手応えを感じ始めていました。一番ホールは幸先の良いスタート、しかし続く2番ホールはオナーとして力んだためOB、そして大叩きをしてしまう。しかしこれで吹っ切れ、3番のショートホールでは会心のショットが出ました。まずまずのスコアでOUTを終了。 

 

いつものことですがINに入ると、昼食後の満腹感で集中力を無くし、またもやミスショットが続きます。そしてショートホールで立ち直ったのはOUTと同じでした。その後はチップインが出るなどアプローチが絶好調。パットも面白いように入ります。 

 

終わってみれば、最近にはない良いスコアで、久々の優勝です。盛り上がったパーティのあと、意気揚々とゴルフバッグを受け取ろうとしましたが、何と私のバッグが見つかりません。係りの人に探して貰いましたがどこにも無いのです。宅急便のコーナーにも紛れてはいません。日がとっぷりと暮れたあと、ゴルフバッグを一人で待つ身は寂しい・・・。 

 

落胆した気持ちで帰路に。もしゴルフバッグが見つからなかったら・・、今度はどのブランドのクラブを買おうか・・、と思いにふけっていました。超デカヘッドのドライバーが流行してからは、ドライバーを使わないのかとしばしば揶揄されていたのです。これでも買った当時はヘッドが大きいことで知られたドライバーだったのですが。 

 

翌朝、ゴルフ場から私のバッグの行方が判明したとの連絡がありました。信じられないことに間違えて持ち帰った人がいたのです。そして米国で購入して16年間愛用してきたクラブも何とか手元に戻りました。嬉しいことに違いありませんが、ゴルフクラブを新調する理由も無くなってしまいました。今年の夏に訪れたドイツで買った小物がゴルフバッグと一緒に戻ったことのほうが実は嬉しかったのです。 

 

今回の出来事は「好事魔多し」あるいは「塞翁が馬」、そのどちらだったのでしょうか?

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2006年12月 4日 (月)

地名の由来-千葉県内房編-

千葉: 「茅(ちがや)」が生い茂る土地で「茅生(ちぶ)」と呼ばれ、転じて「ちば」になったとする説や、葉が多く重なる意味で「千葉」になったとする説などがある。千葉県は県庁所在地である千葉市の名称による。 

 

上総・下総: 古代に「麻」は「総(ふさ)」と呼ばれていたことから現在の千葉県と茨城・東京の一部が「総の国」と呼ばれたが、7世紀に分割されて「上総(かずさ)」「下総(しもうさ/しもふさ)」となった。「上(かみ)の総(ふさ)」の国、「下(しも)の総(ふさ)」の国の意味。上下が逆のようだが、道路が発達していなかった昔は三浦半島から船で上総に入るのが一般的であり、上総の方が都に近かったためである。 

 

安房: 朝廷に奉仕した忌部(いんべ)氏が阿波国(徳島県)から関東一円に進出して麻などの栽培を行った。阿波忌部氏が住んだ場所を安房と呼んだとされる。上総から分離した安房は南総あるいは房州とも呼ばれる。南総里見八犬伝はその用例のひとつ。現在の千葉県南端。 

 

房総: 2文字とも麻の意で、ふさふさとした良い麻が繁るの意味である。安房国と総の国(上総と下総)を総称した呼び名。

 

今回ドライブした内房各地について地名の由来を探ってみました。 

 

市川: 現在の江戸川が東国一の川であったことから、一の川が訛ったとする説、川岸で市が開かれていたとする説などがある。古くから下総の中心地で、市内の国府台(こうのだい)に下総の国府が、また国分寺も同じく国分にあったとされる。市名は1934年から。 

 

船橋: 日本武尊が東征の折、海老川を渡るために船で橋を作ったのが地名の由来とされているが定かではない。 

 

習志野: 明治天皇の命名。明治時代に演習が行われた場所。現在も陸上自衛隊の駐屯地が置かれている。 

 

市原: イチイの木がたくさんあった原っぱから転じてイチハラになったとされる。1963年に市の名前となった。 

 

袖ヶ浦:日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と弟橘媛(オトタチバナヒメ)の神話で、弟橘媛の袖が袖ヶ浦に流れ着いたという伝説に由来している。市名は1991年からで新しい。 

 

木更津: 如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になった、あるいは日本武尊の伝承「君不去(きみさらず)」が元になっているとの諸説がある。
 

2006_12030081君津: 木更津の由来と同様に、日本武尊が残した「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき」という歌の「君去らず」が「君津」の地名の由来といわれる。注)右の写真は新日本製鉄君津製鉄所の16号線沿いの生垣です。 

 

富津: 弟橘姫の袖が海岸に流れ着いたことに由来する布流津(ふるつ)が転じて富津になったとされている。木更津、君津、富津、袖ヶ浦の4市はもともと君津郡に属していた。 

 

鋸南(きょなん): 鋸山(のこぎりやま)の南に位置する町
 

2006_12030060_2鋸山: むき出しの岸壁が連なる鋸の形をした山

 

砲台山: 富津市金谷にある山(110m)に旧日本軍の砲台があった。対岸の三浦半島の武山にも砲台山(206m)がある。第二次世界大戦中にドイツ軍がエーゲ海に設置したナバロンの要塞(1961年に映画化された)の日本版と言える。富津岬の先には第一海堡と第二海堡がある。東京湾要塞として第二次世界大戦終了時まで使用された。
 

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2006年12月 3日 (日)

東京湾周回ドライブと鋸山日本寺

2006_12030002_1温泉のある外房以外は訪れる機会が少ない千葉へ出かけました。内房が今回の目的地です。湾岸線から京葉道路、そして館山自動車道を利用して市原ICまで一気に走りました。国道297号を経て国道16号に入り、コンビナートを眺めながら市原市と袖ヶ浦市、さらに木更津市と君津市を抜けると、16号の終点である富津市。 

 

16号は富津岬へ向かって伸びていますが、直前の東町で突然県道255号に変わります。富津岬の入り口まであと1kmを残すだけなのにと、意味もなく残念な気持ちになりました。

 

岬全体が富津公園となっており、林のなかに池や散歩道、プール、キャンプ場などがありますが、12月初めの早朝には人影もまばらでした。岬の突端にはユニークな形をした展望台があります。まるで水泳の飛び込み台のように見えます。明治百年記念展望塔は五葉松を模(かたど)ったのだそうです。西方には薄っすらと雲が掛かっているため、折角の富士見百景ポイントも今日は富士山が見えません。東京湾と対岸の横浜から横須賀にかけての海岸線が眼前に広がります。
 
 

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国道465号を南下、佐貫町で465号を離れアクセス道路で丘に上ると東京湾観音が聳えていました。地上56mの世界一の高さをもつ仏像です。富津市内からはもちろん、浦賀水道からも良く見えるため灯台の役目も果たしているのだそうです。
 

2006_120300222006_12030014国道127号(内房なぎさライン)に入り、さらに進むと上総湊港海浜公園があります。同行者は寒いためか富津岬と同様に車中で待機するとのこと。人気のない砂浜は寄せる波と東京湾観音の遠景だけの世界です。トワ・エ・モアの歌が蘇りましたが、感傷から現実に戻ってドライブを再開です。

 

富津市南端の金谷には鋸山ロープウエイがあります。観光バスや乗用車で駐車場はほぼ満車状態。片道切符を購入。帰路は日本寺境内を歩いて降りるつもりです。この安易な思い付きが予期せぬ苦労の原因となるのです。 

 

ロープウエイは約4分で山頂駅に到着です。駅舎屋上の展望を楽しんだあと、山頂へ向かいました。途中に「十州一覧台」の案内が目に留まります。以前来た時には気付かなかったと思います。長い石段を上り詰めると展望が開けますが、これが十州とは!? 石段を下りて百尺観音へ向かう。アフガニスタンにあるバーミヤン石仏のようですが・・・。
 
 

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いよいよ山頂展望台と有名な地獄覗き、何度訪れても楽しめる場所です。ここからは石仏を観ながら石段を下りました。千五百羅漢道には数え切れないほどの石仏が何箇所にも分かれて祀られています。天台石橋を渡ると大仏前参道に出ました。坂道を下りると巨大な大仏が見えます。
 
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大仏に参拝したあとは、ロープウエイ山頂駅に戻るか、それともこのまま表参道を下るかを選択する最後の機会です。すでに山頂から半分ほど下りていましたから、そのまま進むことにしました。 

2006_12030066_1国道まで出て鋸山保田口バス停からロープウエイ前バス停までバスを利用すること考えたのです。確かにバス停は在りましたが、何と1時間に1本!! しかも出たばかりのよう。 

 

「バスが駄目ならJRがあるさ!!」と先の保田(ほた)駅に向かって歩き始めました。さらに泥沼に嵌っていくことになります。日本寺で貰った案内図の縮尺は正しくないのです。近いと思った保田駅まではバス停から1.5km近くありました。駅に着く直前に上りの電車が見えます。不安が胸を過ぎります。駅舎の時刻表を見てその不安が的中したことを知りました。JR内房線の電車も昼間は1時間に1本なのです。
 
 

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ここで何の脈絡もありませんが、マイケル・ダグラスの映画「フォーリング・ダウン」を思い出しました。生真面目な男が猛暑のハイウエイで工事渋滞に巻き込まれ、イライラが頂点に達して狂気に走り、悲惨な結末に至る話です。最初はささいなことで始まり、映画のタイトル通りに、ころげ落ちて行く主人公は鬼気迫るものがありました。同じ轍を踏むわけには行きません! でも少し冷静に考えれば私の問題は何でもないことでした。駅前に停まっているタクシーを使えば良いのです。
 
2006_12030089遅い昼食を海鮮料理の「かなや」で済ませ、アクアラインへ向かいます。この周辺に日帰り温泉の候補を2-3箇所チェックしていたのですが、予期せぬ出来事のため遅くなり、そのままアクアラインで帰路に着くことに。帰宅は日没と同時でした。  

<同行者のコメント> 一時はどうなることかと思いましたよ! でも良かったことは表参道がすてきな散策路だったことです。通る人がほとんど無いのはもったいないと思いました。それとアクアラインは便利ですね。

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