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2007年2月に作成された記事

2007年2月28日 (水)

埼玉の古墳群と名栗温泉「さわらびの湯」(後編)

昼食に思いのほか時間が掛かってしまったため、予定していた越生(おごせ)梅林は通過することにしました。昨春に訪れています。懸念したとおり飯能の市街地は相変わらずの混雑です。陽が少し傾いてきました。先を急ぐことにします。 

さて1ヶ月ぶりの温泉は名栗温泉「さわらびの湯」です。昨秋、立ち寄った時に設備の改修のために休業中でしたが、先月中旬に再オープンしたと聞きました。入間川沿いの道を前回と逆のルートで向かいました。 

 

外観は変っていないようです。第一駐車場はすでに車で溢れていましたので、少し離れた第二駐車場に車を停め、有間ダムと発電所からの水が流れる川を眺めながら「さわらびの湯」へ向かいました。山小屋風の建物は名栗の景色に溶け込んでいます。入館料は800円。
 
 

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館内のホール(森の空間)は外から見るよりも広々としています。階下に下りて行きました。大広間とラウンジ(林の空間)があり、休憩スペースはゆったりとしています。脱衣所は意外に狭い。浴室は五角形の浴槽、温めの浅い浴槽、ミストサウナ、そして洗い場の構成はコンパクトですが、高い天井と広い出窓のようなガラス窓が狭さを感じさせません。内装が全面改装されたようで使われている地元の西川材の木肌は新しい施設のように綺麗です。
 
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2007_02250079川の展望を期待して露天風呂へ移動しました。そこはウッドデッキに小さな野外ジャグジーバスが置かれているだけです。目隠しの木枠に寄りかかって川の流れと山並みに見入る人が数名いましたが、34名が入れば一杯になる狭い浴槽に入ろうとする人が少ないのは頷けます。折角大規模な改修をしたのにと残念に思いました。
 
 

泉質は陽イオン成分を含むアルカリ性単純泉、ph値が9.11と高いのが特徴で、肌触りの良い湯です。家族連れに加え、山歩き帰りやライダーと見受けられる人で混んでおり、人気の高さが窺えます。尚、食事を提供する施設はありません。

 

小沢峠を越えて、成木街道と新奥多摩街道、そして甲州街道を利用して帰宅したのは、いつもより遅い7時過ぎになっていましたが、埼玉の遺跡と温泉巡りのドライブを満喫する楽しい一日になりました。山道を入れた走行距離は約270km、所要時間は11時間半です。

 

<同行者のコメント> 埼玉県に古墳がいっぱいあることに驚きました。小川町の忠七めしはとても美味しかったです。温泉めぐりの時はたいてい蕎麦屋さんですましてしまううちの旦那さんがどうしたことでしょう。さわらびの湯では内湯だけに長く入ってよく温まることができました。ところで陽が沈んで暗くなったあとでも、うちの旦那さんは山道を迷わずにドライブできるのが不思議です。分かれ道にも目立つ標識はほとんどありません。本当に勘ピューターで行く先がわかるのですか?

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2007年2月27日 (火)

埼玉の古墳群と名栗温泉「さわらびの湯」(中編)

特別展示で見た吉見百穴(よしみひゃくあな)へ行くことにしました。県道66号でさらに南下した比企郡吉見町にあります。古墳時代末期、6-7世紀に造られた横穴墓跡です。こちらも国指定史跡で、穴は全部で219個もあるのだそうです。見上げると頂上部近くまで横穴が続いています。そのひとつ、最下部の横穴に天然記念物の「ヒカリゴケ」(写真の黄色い部分)があります。日光に慣れた眼にはすぐ見えませんが、蛍光のように薄っすらと光っているのが見えてきました。この史跡はテレビで放送されたトルコの世界遺産カッパドキアをミニチュア化したような雰囲気です。階段を使って最上部まで登ってみました。
 
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資料館へ立ち寄りました。住居跡なのか、それとも墓跡なのかの論争があったそうですが、墓跡であることがほぼ間違いないとの結論に至ったと説明されていました。下部中央には戦時中の軍需工場跡の巨大なトンネルが縦横に掘られています。現在公開されている部分だけでもかなりの大きさで、その10倍以上はあるという地下工場の規模に驚かされました。この地下工場は当時大宮市(現在のさいたま市)にあった中島飛行機のエンジン製造部門の疎開工場として使われましたが本格的な生産が始まる前に終戦になったことも説明されていました。まだ訪れたことはありませんが、終戦間際に大本営や皇居などを収容する計画があった長野県松代の有名な地下壕はどれほどの規模だったのでしょうか?
 
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県道47号、同173号、そして国道254号を利用して小川町へ向かいました。昼時を少し過ぎていましたので、小川町駅に近い「二葉(ふたば)」に立ち寄りました。名物の「忠七めし」を食べるためです。お茶漬けのような郷土料理で、先日食べた深川飯とともに日本五大名飯に数えられています。専用駐車場が空くのを待ち、駐車場から路地を抜けて割烹旅館二葉へ。飛び込みであったため、だいぶ待たされました。その間に立派な日本庭園を散策しました。さざれ石やうさぎ石、そして池の中央には亀石と思しき岩があって飽きさせません。しばらくして二階の座敷に案内されました。
 
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期待感に空腹感が相まって待つ間を長く感じました。「もうすぐですよ」と声を掛けられてから程なく「忠七めし膳」が運ばれてきました。まず運ばれて来た料理は見た目も綺麗です。湯葉巻き、野菜のかき揚げ、田作り、肉の煮物、アマダイの焼き魚、ガンモドキ、茶碗蒸しなどをいただいたあと、お目当ての忠七飯が配膳されました。ネギ、柚子、山葵を薬味として入れた茶付けを口に運びました。薬味と海苔をまぶしたご飯の味で食が進み、2回もお代わりをしてしまい、お櫃が空になってしまいました。アサリの味噌汁をかける深川飯(ぶっかけ)とは風味が異なりますが、ともに美味しさは無比のご飯です。(続く)

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2007年2月26日 (月)

埼玉の古墳群と名栗温泉「さわらびの湯」(前編)

今年一番の冷え込みとなった朝、東北自動車道を北上すると、遠方に日光の山々が見えてきました。おチビちゃんの妹のお宮参りを滞りなく済ませたことで、また温泉巡りを再開したのです。  

加須(かぞ)ICで高速道路を下り、国道125号で行田市へ向かいます。下須戸で県道354号に入り南下するとほどなく「さきたま古墳公園」に到着、広い園内には巨大な古墳が点在していました。 

 

埼玉県の地名の由来を紹介した項で触れましたが、秩父地方だけではなく、県の東部地域にも古い歴史を今に残す場所が多数存在しています。その代表格は埼玉の発祥の地、行田市埼玉(さきたま)にある「さきたま古墳公園」(さきたま風土記の丘)でしょう。市の南東部に9基の大型古墳が集中しています。この国指定史跡は日本一の円墳である丸墓山古墳、武蔵国最大の前方後円墳の二子山古墳、そして115文字の銘文が象嵌された金錯銘(きんさくめい)鉄剣が出土した稲荷山古墳が有名です。他の出土品とともに国宝に指定されています。
 
 

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丸墓山古墳(高さ18.9m)はさきたま古墳群で最も高く、古墳群全体と行田市の市街地を見渡すことができました。もうひとつ登ることができる稲荷山古墳の名は後円部の頂上に稲荷が祀られていたことから付けられたのだそうです。前方部は盛り土が復元されており、当時の様子を見ながら古墳頂上部に設けられた見晴台まで歩いて登りました。

 

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大型の埴輪を配置したのは将軍山古墳です。発掘された品々が古墳に寄り添うように建てられた将軍山古墳展示館に保存されていました。被葬者のものと思われる馬冑(ばちゅう、馬の兜)や旗指し金具などの馬具は大陸の影響を強く受けていたと思われると解説されていました。寒さのせいか見学者が少なくゆっくりと館内を見て回ることができました。   
 
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2007_02250036_2同行者は埴輪などを売る店で見つけた「ゼリーフライ」なるものを買い求めました。口に入れると不思議な味がします。店の説明書きによると日露戦争の時に中国から伝わった野菜饅頭をアレンジしたもので、小判の形をしていることから「銭フライ」と名付けられたものが訛ってゼリーフライとなったとのこと。
 

 

二子山古墳、愛宕山古墳、そして瓦塚古墳を巡ったあと「さきたま史跡の博物館」を訪れました。さきたま古墳群と国内の古墳に関する常設展示とともに、吉見百穴の特別展示が開催されていました。関東地方だけでも多くの古墳があることが詳しく解説されています。埴輪、剣、装飾品などの展示物も豊富です。特別展示開催中の入館料は250円(通常は200円)で、将軍山展示館と共通でした。見終わった後に知りましたが、事前に書類で申請すれば館内の写真撮影が許可されるようです。(続く)

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2007年2月19日 (月)

二ヶ領用水探訪(後編)

等々力緑地の近くを通過すると小杉御殿町、そして小杉町です。両岸の側道は狭くなりましたが煉瓦が敷かれて楽しい散策路になっていました。ここで二ヶ領用水は二手に分かれます。本流と渋川です。コンクリートで造られた仕切りによって水量が調整されていますが、なぜか渋川の方が多くなっていました。すぐ近くにある東急東横線の武蔵小杉駅周辺は再開発中で高層ビルが幾棟も建ち始めているのが見えます。
 
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市ノ坪交差点付近では、一度近づいた府中街道から少し離れて、中原平和公園の中を流れています。東海道新幹線の下を潜り、市ノ坪跨線橋で横須賀線を超えた辺りは武蔵野南線(貨物専用)も地上に出ており、二ヶ領用水へのアクセスが一時困難になります。
 
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幸(さいわい)区に入り、平間駅近く(左下の写真)を過ぎて南武線の踏み切りを渡ると、いよいよニヶ領用水川崎掘の終点を迎えることになります。つまり川崎堀はここ平間上浄水場の横で町田堀と大師堀の二つに分かれます。
 
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南武線沿いの町田堀のほうは暗渠(コンクリート管)になっており、高層ビルが立ち並ぶ鹿島田駅周辺ではこの用水の廃止にともなう下水道工事が行われていました。ちなみに町田堀の町田とは現在の鶴見区潮田(うしおだ)町の旧地名です。
 
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もうひとつの大師堀は埋め立てられて跡地に親水事業で造られた遊水路が住宅地をぬって流れていました。ポンプアップされた人工的なせせらぎですが、水に親しむよい施設だと思います。すぐ近くにある平間配水場では、昭和49年まで二ヶ領用水の水を浄化し、工業用水として利用していたそうです。
 
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中原区役所の近くで川崎堀と別れた渋川についてもルートを辿ってみました。市ノ坪交差点まで戻り、綱島街道に入りました。元住吉駅交差点から下流の渋川は両岸に住吉桜が植えられています。東海道新幹線を潜り、尻手黒川道路の石神橋を300mほど過ぎた下水道局ポンプ場の脇で鶴見川支流の矢上川に合流していました。慶応大学の日吉キャンパスと矢上キャンパスのすぐ近くです。いずれの川も、生活廃水のためか濁った水が流れており、護岸も機能的過ぎて興ざめでした。
 
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一日がかりの長い旅になりましたが、農業用水としての役目を終えたニヶ領用水がまだ生き続けていることを確認できたことは大きな収穫です。この用水は、貴重な水環境として、今も地元住民の生活に密着した存在であることと、側道に植えられた草花から、用水を大切に守っている人が多いことも発見しました。二ヶ領用水の全ルートがそうなることを願っています。(終)

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2007年2月18日 (日)

二ヶ領用水探訪(中編)

多摩区稲田堤駅近くの上河原取水口(上ノ口)は布田の上河原堰堤で堰き止められた水が流れ込む仕組になっていました。取水ゲートを通った水は多摩川支流の三沢川と交差します。道路の立体交差のように水路を持ち上げるわけにはいきませんが、サイフォンの原理で下を潜ることが出来るのです。4-5mの深さがある三沢川をマジックのように二ヶ領用水が通り抜けているのは面白いです。その先は谷川のせせらぎのように穏やかな流れになっています。水鳥の姿も見られました。
 
 

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護岸工事がされていますが、親水事業で整備された二ヶ領用水は住宅地の中によく溶け込んでいます。流れを楽しみながら川辺を歩きました。 

中野島と生田の境界を抜けると多摩警察署の交差点付近で府中街道と交差し、ここから先は府中街道に寄り添うようにコースを取ります。神田川のように垂直の護岸に挟まれた流れは味気ないのですが、旧向丘遊園付近には用水に沿って「水と緑のプロムナード」が作られていました。

 

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長尾で東名高速道路の下を通過しました。東京料金所と多摩川のちょうど中間点です。多摩区から高津区の久地に入り平瀬橋交差点を右折したところに二ヶ領用水の最大の見所である「円筒分水」があります。住宅地の狭い道を入ったところですからうっかり見逃しそう。多摩川の支流である平瀬川と交差する場所です。 

二ヶ領用水のゲートから平瀬川へ水が流れ込んでいました。しかし二ヶ領用水の本流はその下にある2本のパイプを通って「円筒分水」の下部に導かれて上部から噴出しているのです。円筒形の周辺部には仕切りが設けられており、その角度に応じた水量が4方向に流れ落ちています。正面方向が「川崎掘」です。用水の幅はここから狭くなりました。
 
 

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ここから先は府中街道と少し離れます。国道246号の下を潜ると溝口の街並みに入りました。そして246号の旧道(大山街道)と大石橋で交差(下の写真)、さらに東急田園都市線の下を通ります。ここでも二ヶ領用水は街並みに溶け込んでいました。
 
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ニヶ領用水は二子を抜けて北見方で第三京浜に至りましたが、第三京浜の赤く錆びた防音壁は殺風景で、用水の流れも「どぶ川」のように見えました。それでも中原区の宮内に入ると少し華やかになります。両岸に植えられた河津桜が暖冬で2月中旬なのにもうほころび始めていました。草花も植えられて楽しく散策ができました。
 
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2007年2月17日 (土)

二ヶ領用水探訪(前編)

国分寺断線の南、多摩川の対岸に東京都稲城市と神奈川県川崎市があります。今回は多摩川の右岸における水にまつわるトピックスを取り上げます。江戸時代に入る少し前のこと、家康の命令で小泉次大夫(じだゆう)が用水奉行となり、多摩川右岸の二ケ領用水と左岸の六郷用水が同時に着工されました。今からおよそ400年前のことです。これらの用水が四ヶ領(よんかりょう)用水とも呼ばれるのは、二ヶ領用水が稲毛領と川崎領の二つの領内(現在の川崎市全域)、六郷用水が世田谷領と六郷領の二つの領内、合わせて「四ヶ領」を流れていたことによります。六郷用水は戦後になるとほとんどが埋め立てられ、世田谷区岡本から大田区田園調布まで流れる丸子川として残るだけになりました。
 
登戸駅近くにある宿河原取水口(下ノ口)および稲田堤駅近くの上河原取水口(上ノ口)から取り入れた多摩川の水は川崎市内のほぼ全域に二ヶ領用水(久地二子堀、六ケ村堀、川崎堀、根方堀)を使って配られました。各村へ水を正確に分けるために、1910年(明治43年)、今の高津区久地に門扉を使って分水する「分量 樋(ぶんりょうひ)」が造られましたが、配分を巡る水争いが起こったため、これを改良した円筒分水が1941年(昭和16年)に造られました。多摩川の支流平瀬川と立体交差(2本のコンクリート管で潜る)した後、円筒分水の中央から噴きあがり、水の配分割合に応じて円周を分割した流出口から、それぞれの支線に流れる大変優れた仕組みとなっています。  

上河原堰堤                      宿河原堰堤
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久地の水門(平瀬川に流れ落ちる水)   平瀬川上流方面2007_01160010 2007_01160004   











円筒分水(国登録有形文化財)
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平瀬川下流方面 川崎掘

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稲毛領(現在の川崎市幸区から多摩区にかけての地域)の名前から連想するのが隣接する東京都の稲城市です。稲城の名は鎌倉幕府の有力御家人であった稲毛氏に由来すると考え勝ちですが必ずしもそうではなさそうです。明治22年(1889年)に東長沼・矢野口・大丸・百村・坂浜・平尾の六か村が町村統合によって一つの村となり神奈川県南多摩郡「稲城村」が誕生し、1893年に三多摩地域として東京府に移管されました。
 
稲城と命名された理由は定かではありませんが、稲城市のHPは以下の二つの推論を掲載しています。当時、大丸用水の水利で盛んだった稲作と大丸や長沼などに城址があったことから候補として上がった「稲穂」と「稲城」のうち「稲城」が選定されたとする説と、もうひとつは当初「稲毛村」の名称が選ばれて神奈川県へ上申されたが許可が得られず、宇義の通じる「稲城村」と命名したという説です。
 
2007_02150007稲城市といえば「よみうりランド」があることで知られますが、京王線の稲城駅からよみうりランドへ向かう途中に「西山の大露頭」と呼ばれる「稲城砂層」の崖があります。穴澤天神社の裏手にも崖があり、現在より南側を流れていた多摩川河畔の様子を今に残している貴重な場所です。  

さて本題です。これまで二ヶ領用水の注目スポットへ何度か足を運びましたが、その取水口から現存する用水の主要ルートを一日で辿ってみることにしました。水量の割り当てが一番多く、流域も広い川崎掘の今を確かめる旅です。(続く)

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2007年2月10日 (土)

埼玉県の地名の由来(後編)

熊谷市
中山道の宿場町。荒川の氾濫原であったことで「曲谷(くまがや)」が転化したもの、あるいはこの地の出身である熊谷次郎直実の父直貞が周辺を荒らし回っていた熊を退治したことからなど諸説がある。
 
本庄市
中山道の宿場町。利根川を利用した水運や繭の集散地としても栄えた。平安時代に頭角を現した武士団武蔵七党(しちとう)のひとつである児玉党荘()氏の本宗家が本荘を名乗ったことが「本庄」の由来である。注)武蔵七党とは小領主の集団で、丹党、野与党、児玉党、猪俣党、西党、横山党、村山党を言う。私市(きさい)党と都筑(つづき)党を入れることもある。
 
戸田市
1889年に3村が合併して北足立郡戸田村となり、1966年に市制に移行した。ボートコースと競艇場があることで知られる。地名の由来は不明。
 
川口市
日光御成街道の宿場町。地名の由来は定かではないが、この辺りが旧入間川(現在の荒川)の河口に臨んでいることからつけられたと思われる。(川口市役所のHP

 

鳩ヶ谷市

日光御成街道の宿場町。確かな由来は明らかではないが、「谷」については大宮台地の谷で、「鳩」は平安時代の史料に武蔵国足立郡発度郷という地名があり、この発度を「ハト」と読んだとする説、あるいは台地の先端部すなわち端(ハシ)という音がハトに転化したという説などもある。

 

蕨(わらび)市

中山道の蕨宿、1889年塚越村と合併して北足立郡蕨町となる。1959年市制に移行。名前の由来は諸説がある。源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火(わらび)村」と名付けた、在原業平が藁をたいてもてなしをうけたところから「藁火」と命名したという「藁火」説、および和歌に詠まれた蕨から命名されたとする「蕨」説など。

 

所沢市

諸説がある。在原業平(ありわらのなりひら)が東へ下ったときに野生の山芋である野老(ところ)を見て、ここは野老の沢かと聞いたのを、地元民が地名と思ったとする説がある。これはカンガルーと同様に勘違いが語源となったのである。ちなみに市章は野老の葉を図案化したものが使われている。その他にもアイヌ語説、川が着物を着たときの懐のようになっていたとする説、蛇行する川から「とぐろ沢」が転化したとする説など多彩である。

 

北本市

鴻巣宿があった元鴻巣宿が本宿と呼ばれた。本宿の北に北本宿駅ができ、後に合併で北本宿町(北足立郡)となったが、昭和34年に北本町と改名された。

 

朝霞市

川越街道の宿場町である膝折(ひざおり)宿。この地名の由来はある武士の馬がこの付近で足を骨折したためといわれている。昭和7年に東京都世田谷区駒沢にあった「東京ゴルフクラブ」が移転した際に、同クラブの名誉総裁であった皇族の朝香宮鳩彦王(やすひこおう)の名前にちなんで朝霞町と改名された。陸上自衛隊の駐屯地と東京都水道局の浄水場がある。

 

飯能市

武蔵七党の丹党に属する判乃氏の所領であったことに由来する。本庄市の由来と同様。

 

秩父郡と秩父市

アイヌ語で清水の意味とする説がある。埼玉県には幸手や秩父などアイヌ語を地名の由来とする説が多い。

 

(終)

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2007年2月 9日 (金)

埼玉県の地名の由来(前編)

「埼玉」の名は現在の行田市付近にあった埼玉(さきたま)郷に由来する。現在も埼玉(さきたま)の地名が市内に残っている。埼玉の意味は武蔵国多摩郡の奥にある土地の意味で「さきたま(前多摩・先多摩)」が転じて「埼玉」になったとする説、「さき(前)」「たま(湿地の意味)」が転じて「埼玉」になったとする説などがある。いずれにしても当て字である。  

廃藩置県の後に、岩槻県、川越県、大宮県、浦和県など多くの県ができたが、明治4年に入間県と埼玉県の2県に、明治9年に埼玉県に統合された。新しい名称には、ライバル意識の強い大宮や浦和、川越を避けて、一番面積が広い埼玉郡の名を使うことになったといわれている。2001年に、浦和、大宮、与野が合併(2005年に川越も編入)して政令指定都市さいたま市が誕生した。 

 

埼玉の「埼」は珍しい字である。崎と同じで岬(みさき)を意味する。崎と埼の違いは、前者は旧陸軍の陸地測量部(現在の国土地理院)が地図に使い、後者は旧海軍の海洋情報部が海図に使った。この海図では、航海者が岬を地形で容易に見分けられるように、埼、碕、岬、鼻と使い分けたのである。すなわち「埼」は陸地が水(海)に突き出した場所で、「崎」は山の様子が険しいことを意味したが、国土地理院の地図は慣習ですべて「崎」としている。 

 

最近は県の公式ニックネーム「彩の国」が観光目的でPRされている。埼玉県は市の数が40以上と全国で一番多い県であり、そのすべてをカバーすることはできないので、主要な市と地域について名前の由来などを挙げてみたい。 

 

浦和

中山道の浦和宿。由来は浦回、浦廻、浦曲などあり、入間川の流れが屈曲していた土地、又は中州のことという説が有力である。旧浦和市はさいたま市の浦和区、桜区、南区、緑区となった。 

 

大宮

中山道の大宮宿。旧大宮市内の氷川神社(武蔵国一宮)が名前の由来で、大いなる宮居として大宮となった。現在はさいたま市の大宮区、見沼区、北区、西区。 

 

岩槻

日光御成街道の宿場町。太田氏の城があった。「巌(いわお)をもって築けるがごとき城」という意味から起こり、古くは「岩付」や「岩築」の文字が用いられ「岩槻」となった。「久伊豆神社」があるところから神を祭った土地の 意味ともいわれる。人形の町として知られる。現在はさいたま市岩槻区。 

 

与野

地名の由来は明らかではないが、地形と立地に由来する(野の間)と考する説がある。現在はさいたま市の中央区。与野区としなかったのは何故でしょう。 

 

川越市

川越街道の宿場町であり、川越城の城下町であった。地名の由来は、入間川を越える意味だという説と、入間川の氾濫によって土地が肥沃だからという説がある。これは川越の地名が昔は河越、河肥などと書かれたためである。これ以外にも鎌倉幕府の御家人であった河越氏によるとする説もある。小江戸と呼ばれるように、河川による物流で栄えた蔵の多い町であり、鰻料理、さつまいも料理、江戸前寿司などグルメでも知られる。喜多院をはじめ由緒ある神社仏閣が多い。 

 

志木市

奈良時代に朝鮮からの渡来人が住んだことから新羅郡と呼ばれるようになり、志楽、志楽木、志羅木、志木などと表記されるようになった。1874年に志木宿と名付けられた。その後合併や分裂により何度も町の名前は変わったが、市制に移行するときに志木市となった。 

 

県内の日高市には高麗(こま)郷あるいは高麗郡の地名があるが、こちらも同様に高句麗の王子とその一族が住んだことが地名の由来である。 

 

上尾市

江戸時代に中山道の宿場として上尾宿が設けられた。1889年に周辺の村と合併して北足立郡上尾町となり、1958年に市制に移行した。 

 

幸手(さって)市

さってという地名はアイヌ語の水が引いて乾いた土地という意味の言葉に由来するとする説がある。 

 

草加市

湿地帯に草木を敷いて道を作った(草を加えた)ことによるとする説がある。旧日光街道の草加宿があった。綾瀬川ぞいの松並木と草加煎餅はとみに有名。 

 

 (続く)

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2007年2月 3日 (土)

番外編: 海外旅行の思い出とゴルフ・ボール

私の場合は地味なものが対象です。
 

2007_01300018_2ゴルフ場あるいはゴルフ大会のロゴが入った「ゴルフ・ボール」を集めています。日本のゴルフ場でも時々見かけますが、アメリカをはじめ海外ではほとんどのゴルフ場のショップで売られています。少しずつ集めているうちにディスプレイ用ラックから溢れてしまいました。 

 

海外だけでも100個以上になってしまい、時々入れ替えて、プレーしたことやプロの試合を観戦した時のことを思い出しながら楽しんでいます。 

 

主なものを紹介しましょう。
 

2007_01300011_2Pebble Beach Golf LinksAT&T Pro-Am開催)、HawaiiWaialae CC(ソニーオープン開催)、St. Andrews(全英オープン開催)、カリフォルニアPebble BeachPoppy Hills GCSpanish Bay GC、ディズニーワールドのMagnolia GCLake Buena Vista GC 

 

 

2007_01300014_1 GTE Byron Nelson Golf Classic(現在のEDS Byron Nelson Championship)、Four Seasons Resort and Club(その会場)、Jasper Park Lodge GC(カナダ)、Banff Springs GC(カナダ)、Colonial CC(テキサス州)、カリフォルニアPebble Beach Spyglass GCPebble Beach Golf Links 

 

 

2007_01300017_1 Macau GCC(マカオ)、Sta. Elena GC(フィリピン)、Beijing GC(北京)、KLGCCKuala Lumpur Golf and Country Club、マレーシア)、Grenmarie GCC(マレーシア)、Valencia CC(カリフォルニア)、Half Moon Bay Links(カリフォルニア)

 

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2007年2月 2日 (金)

海外旅行の思い出とワッペン(その3)

3着目のジージャンは欧州編です。

いろんな国のパッチがレイアウトされてまるで五目御飯みたい。同行者がこれら3着のジージャンを着ている姿が当ブログの写真に写っています。⇒2005123日と同9日、200693日、20061015 

 

《写真をクリックすると拡大表示になります》 

 

ベルギー                     スイス

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ロンドン                      イギリス

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スイス(国花のエーデルワイス)       ジュネーブ

2007_01260034_12007_01260035_1 

ミュンヘン                     ドイツ(ビアマグ) 2007_01260039_22007_01260041_2

                       

 

 

 


 
 
 
 
   
ハイデルベルク(街並みと城) アイガー/メンヒ/ユングフラウ

2007_01260040_12007_01260043 

<同行者のコメント> アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドのジージャンはいっぱいになりましたからもういいです。ヨーロッパのジージャンにはまだスペースが残っていますから、子供たちに先を越された東ヨーロッパへ出かけてパッチを集めたいです。チェコやハンガリーなんかがいいですね。 

先週、おチビちゃんに妹が産まれましたので、温泉めぐりへの同行は先月から休止中です。

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2007年2月 1日 (木)

世界旅行の思い出とワッペン(その2)

2着目のジージャンはオーストラリアとニュージーランド編。観光地を訪れた時に求めたパッチを紹介します。
 
《写真をクリックすると拡大表示になります》
 
先ずはオーストラリアです。 

カンガルー                    メルボルン(市電のトラム)

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次いでニュージーランド。 

 

銀シダ(ナショナルスポーツのシンボル)   トンガリロ国立公園のホテル

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オークランド水族館               レインガ岬(北島最北端)

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カンタベリー博物館(クライストチャーチ)  テアナウ湖(南島)

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ロトルアの酪農博物館             ロトルア(有名な温泉地)

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クライストチャーチ(南島)           ミルフォードサウンド(南島の世界遺産)

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アーサー峠(南島)                オールブラックス(ラグビーチーム)

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