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2007年3月26日 (月)

五街道を尋ねる旅

五街道は江戸時代初頭に徳川幕府によって整備された主要幹線道路で、江戸の日本橋を起点とする中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道、そして東海道のことを指します。このうち3つの街道は正しくは「道中」と呼ばれました。また奥州街道と日光街道は日本橋から宇都宮までの道と宿場が共通ですから、日本橋からは四つの方向に主要街道が伸びていたのです。下記のように現在の国道もこれに倣っています。

当ブログではこれらの街道をドライブした時のことを個別に紹介していますが、ここでは五街道をまとめて整理してみます。

 現在の国道との対応(東京周辺)

中山道=国道17号、甲州街道=国道20号、日光街道と奥州街道=国道4号、東海道=国道1号と15

尚、厳密には国道と同じルートではない区間があり、現在は旧「  」との名称で識別されています。

 最初の宿場と関連する五色不動尊

中山道=板橋宿/目赤不動、甲州街道=内藤新宿/目青不動、日光街道と奥州街道=千住宿/目黄不動、東海道=品川宿/目黒不動

尚、五色不動尊は場所が移動したものが多く、江戸時代の五街道との関係には異論もあるようです。

     松並木、一里塚、そして石畳

これらは宿場に次いで重要なものでした。日よけのための松並木は日光街道が富に有名。日光周辺とともに草加にも見事な松並木が残っています。東海道では、大磯宿、三島宿、御油宿(豊川市)などが知られています。甲州街道は松並木よりも八王子の追分から高尾までの銀杏並木の方が知られますが、この並木は多摩御陵への参道として昭和に入って植えられたようです。路程を示す一里塚も重要な施設で、当時の一里(三十六町、3.93km)毎に設置され、山道では石畳が敷き詰められました。

 

それでは五街道を辿ってみましょう。

1.中山道

日本橋から京都の三条大橋に到る重要な街道として東海道と並ぶ存在です。律令時代(7世紀から10世紀の頃)に京都を起点とした東山道(京都から東方にいたる山間の道)として整備された一部が中山道となっています。中仙道あるいは仲山道とも表記されたため、江戸幕府の命令(1716年)で中山道に統一されましたが、現在でも中仙道や仲山道の表記が一部で使われています。中山道は大半が山間の道ですが、川の多い東海道よりも旅の難儀が少ないとして、良く利用されたようです。関が原の合戦では徳川の直属軍(秀忠隊)が西進、西国の大名は参勤交代に利用し、幕末には皇女和宮が京から江戸へ輿入れの旅をしました。

日本橋から板橋宿を経由した中山道は埼玉県をさらに北上します。京都へ向かうには方向違いのようですが、内陸部が東山道として整備されていたからでしょう。熊谷宿あたりから北西に向かい、群馬県では高崎宿を通り、長野県に入った軽井沢宿からは進路を西に転じます。下諏訪宿を過ぎると南西に向かい、木曽福島宿や妻籠宿、そして馬込宿(岐阜県中津川市に編入)と今も人気の宿場町が続きます。中津川宿からはやや北西に向かい、鵜沼宿、加納宿(岐阜市)、そして信長と秀吉の時代小説によく登場する赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿です。柏原宿には岐阜と滋賀の県境があり、醒井宿からは南西方向に転じ、草津宿で東海道と合流すれば、大津、そして終点の三条大橋へ無事に到着です。69次、約132里の旅は、東海道の53次、約126里と比較すると、宿場の数はかなり多いのですが、距離の差(6里)はそれほどでもありません。

2.甲州街道

日本橋から甲府を経て下諏訪に至る主要道路でした。現在も国道20号が甲州街道と呼ばれています。宿場は、内藤新宿の次が高井戸宿、さらに日野宿、八王子横山の十五宿、小仏宿、小原宿(神奈川県相模原市)などを過ぎると、上野原宿で山梨県に入り、猿橋宿、大月宿、勝沼宿、石和宿、甲府宿へ。そして韮崎宿などを経て信州の宿場に入ります。金沢宿(茅野市)、上諏訪宿、諏訪湖畔を進めば、終点の下諏訪宿に到着です。ここ下諏訪で中山道と接続しています。約53里(211km)、38の宿場がありました。

国道20号は甲州と信州へ行くためには便利な幹線道路でよく利用しますが、ドライブする途中にはこれといって見るべき場所がないように思います。一方、小仏峠、大垂水峠、笹子峠など山道の続く旧甲州街道は、峠越えの楽しみや、大月には日本三奇橋のひとつ「猿橋」などの見所もあります。ただし峠越えはかなりの健脚向きですが・・・。ちなみに甲州街道最大の難所である笹子峠の旧道は狭い山道で、当ブログで紹介した「矢立の杉」があります。

3.日光街道および奥州街道

日光街道は日光東照宮への参拝路として造られました。最初の宿場である千住宿は芭蕉の「奥の細道」の出発地としても知られます。荒川を渡って埼玉県に入り、草加宿、越谷宿、幸手宿、栗橋宿など、さらに茨城県の中田宿と古河宿を経て、栃木県の野木宿、間々田宿、小山宿、小金井宿、宇都宮宿。ここで奥州街道と別れ、北西に進んで大沢宿、今市宿、鉢石宿、そして日光坊中に到着します。21の宿場、36里の道のりがありました。現在は、宇都宮までが国道4号、その先は国道119号になっています。

奥州街道は宇都宮から先も現在の国道4号にそって北進し、福島県白河市まで27の宿場(宇都宮までの17宿は日光街道と共通)、48里がありました。喜連川宿、大田原宿、芦野宿などを経由して、福島県に入り、白坂宿と白川宿、そして陸奥白川(現在の白河市)に到着です。深川巡りの項で紹介しましたが、墨田区の白河は白河藩主であった松平定信の墓が霊厳寺にあることで付けられた地名です。

4.東海道

「東海道53次」として知られるように53の宿場がありました。京から東へ向かう海沿いの道であることから東海道の名が付けられました。日本橋を起点に海沿いを品川宿へ向かいましたが、現在は海が埋め立てられたために旧東海道から海岸を見ることはできません。六郷橋を渡ると川崎宿、神奈川宿、保土ヶ谷(程ヶ谷)宿、戸塚宿、藤沢宿、平塚宿、大磯宿、小田原宿、箱根宿、そして静岡県に入り、三島宿、吉原宿、由比宿、鞠子(まりこ、丸子とも表記)宿、藤枝宿、島田宿、掛川宿、袋井宿、浜松宿、舞浜宿、白須賀宿、愛知県に入ります。御油(ごゆ)宿、岡崎宿、鳴海宿、宮宿に到着。ここで三種の神器のひとつである草薙神剣が祀られる熱田神宮に参拝。宮宿から海路「七里の渡し」(約25km)で桑名宿へ、四日市宿、亀山宿、鈴鹿峠を越えると滋賀県の土山宿、草津宿、琵琶湖畔の大津宿、そして終点の三条大橋です。

 

国道1号(東京-京都間)はこの東海道のルートをほぼ踏襲していますが、例外がいくつかあります。まず日本橋から京橋、新橋、品川宿、六郷、神奈川宿まで国道15号にそっている区間。これは東京と横浜間に第二京浜国道(現在の国道1号)が1934年に造られて、もとの国道1号が国道15号(第一京浜国道)と名称変更になったためです。ふたつ目は箱根で、旧道は畑宿を経由しますが、国道は宮ノ下へ迂回するルートです。そして唯一の海路である名古屋から桑名の区間も旧東海道ならではでしょう。

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