竹橋・一ツ橋散策
東京メトロ竹橋駅を下りて地上に出ると毎日新聞東京本社の黒っぽいビルが目に入る。内堀通りから大手掘(濠)と清水掘(濠)を竹芝御門へ渡るのが石で造られた竹橋である。江戸期以前からあったと伝えられ、名前の由来には諸説があるようだ。大手掘の先には平川橋の優雅な姿が見える。
竹橋御門跡と北桔(きたはね)橋門を過ぎると北の丸公園に入る。
明治初年に近衛兵の兵営が置かれ、さらに明治7年には歩兵と砲兵の兵営も設置されて竹橋営所と呼ばれた。明治11年には西南戦争の論功行賞を不満として近衛砲兵260名余が反乱を起こす。大隊長を殺害し、大隈重信邸に向けて大砲を撃ったが、まもなく鎮圧された。この事件は3回発生した帝国軍による反乱の最初であり、陸軍が精神主義へと傾斜する契機になったと言われている。
尚、近衛砲兵大隊の営舎跡は明治43年に近衛師団司令部の建物が建てられ、現在は東京国立近代美術館の工芸館(重要文化財)になっている。同じ跡地(竹橋の袂)には警視庁機動隊も置かれている。
乾(いぬい)門前を通り竹橋へ戻る。平川橋寄りの丸紅本社には一橋家の屋敷跡がある。御三家に次ぐ御三卿のひとつととして一橋家9代当主の慶喜(水戸家からの養子)が15代将軍となった。地名の一ツ橋とともに日本橋川に架る橋の名前が由来となっている。「一ツ」は日本橋川と小石川がこの地で合流したことによるとされる。一橋大学は新制大学へ移行する際にそれまでの東京商科大学(旧制)から発祥の地名「一橋」に改称して現在に至っている。今も旧制高等商業学校の同窓会が設立した如水会館が一ツ橋通り1丁目1番地(一ツ橋河岸交差点横)にある。
日本橋川は、首都高速が覆いかぶさり薄暗く、澱んだ水は溝川(どぶがわ)のようで寂しい。
錦町河岸から神田橋まで歩く。そこはもう大手町。思い立って平将門の首塚に回って見た。1000年以上を経た現在も平将門の祟りを畏れて祀られた塚に花が手向けられている。 注)神田明神の項を参照
陽が傾いてきました。旧友たちとの会食があるホテルへ向かいましょう。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント