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2007年5月に作成された記事

2007年5月30日 (水)

竹橋・一ツ橋散策

東京メトロ竹橋駅を下りて地上に出ると毎日新聞東京本社の黒っぽいビルが目に入る。内堀通りから大手掘(濠)と清水掘(濠)を竹芝御門へ渡るのが石で造られた竹橋である。江戸期以前からあったと伝えられ、名前の由来には諸説があるようだ。大手掘の先には平川橋の優雅な姿が見える。
 
 

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竹橋御門跡と北桔(きたはね)橋門を過ぎると北の丸公園に入る。
 

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明治初年に近衛兵の兵営が置かれ、さらに明治
7年には歩兵と砲兵の兵営も設置されて竹橋営所と呼ばれた。明治11年には西南戦争の論功行賞を不満として近衛砲兵260名余が反乱を起こす。大隊長を殺害し、大隈重信邸に向けて大砲を撃ったが、まもなく鎮圧された。この事件は3回発生した帝国軍による反乱の最初であり、陸軍が精神主義へと傾斜する契機になったと言われている。

尚、近衛砲兵大隊の営舎跡は明治43年に近衛師団司令部の建物が建てられ、現在は東京国立近代美術館の工芸館(重要文化財)になっている。同じ跡地(竹橋の袂)には警視庁機動隊も置かれている。
 
 

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乾(いぬい)門前を通り竹橋へ戻る。平川橋寄りの丸紅本社には一橋家の屋敷跡がある。御三家に次ぐ御三卿のひとつととして一橋家9代当主の慶喜(水戸家からの養子)が
15代将軍となった。地名の一ツ橋とともに日本橋川に架る橋の名前が由来となっている。「一ツ」は日本橋川と小石川がこの地で合流したことによるとされる。一橋大学は新制大学へ移行する際にそれまでの東京商科大学(旧制)から発祥の地名「一橋」に改称して現在に至っている。今も旧制高等商業学校の同窓会が設立した如水会館が一ツ橋通り1丁目1番地(一ツ橋河岸交差点横)にある。
 
 

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2007_05300070_1日本橋川は、首都高速が覆いかぶさり薄暗く、澱んだ水は溝川(どぶがわ)のようで寂しい。

 

錦町河岸から神田橋まで歩く。そこはもう大手町。思い立って平将門の首塚に回って見た。1000年以上を経た現在も平将門の祟りを畏れて祀られた塚に花が手向けられている。 注)神田明神の項を参照
 
 

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陽が傾いてきました。旧友たちとの会食があるホテルへ向かいましょう。
 

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2007年5月25日 (金)

小石川散策(後編)

播磨坂を上りきったところが小石川5丁目の交差点です。右手は丸の内線の茗荷谷駅ですが、左手に折れて春日通り(国道254号)の緩やかな下り坂を歩きました。伝通寺交差点のすぐ左手にある伝通寺は徳川家縁の人々の墓があります。正式名称は「無量山傳通院寿経寺」です。

 

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家康の生母である於大や孫娘である千姫、その母である公家の鷹司家出自の孝子などが弔われています。

 

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伝通寺から南へ安藤坂を下りた場所に小石川後楽園がありました。東京ドームと隣接する水戸家上屋敷跡です。国の特別史跡と特別名勝に指定されています。入園料は300円。

 

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東海道五十三次を模した熊本の水前寺公園のように、京都などの名所を配した回遊式築山泉水庭を時計回りに歩くことにしました。しだれ桜の前を左手に進み、大堰(おおい)川にかかる渡月橋を渡る。清水観音堂跡の先が通天橋、白糸の滝を見て円月橋を渡り愛宕坂を過ぎると、八つ橋の周りでカキツバタが咲き始めていました。一番奥には水戸藩の屋敷らしく梅園があります。

 

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さらに右手へ回り込むと藤棚・花菖蒲田・そして田植え直後の稲田です。花菖蒲にはまだ時期が早く、ほんの数株に花が見られるだけでした。

 

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松原を抜けると大きな池「大泉水」に出ました。中央部に蓬莱島がある琵琶湖を模した池なのだそうです。奥に竹生島(左下の写真)があります。

 

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唐門跡から小さな池を巡る内庭(書院跡)に入りました。池を一周したところで案内板に「木曽川」の文字を見つける。木立の中を流れるせせらぎの木曽川に「寝覚の床」ならぬ「寝覚滝」が流れ落ちています。先週訪れたばかりの木曽路を思い出しました。

 

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同じ文京区の六義園、国分寺市の殿ケ谷戸庭園、江東区の清澄庭園、浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園など江戸時代の大名屋敷跡に造られた数多くの都立公園のなかでも、人工美を追求した六義園とは対照的な、自然な佇まいの庭園です。水戸徳川家の元別邸は以前紹介したように瀬田温泉「山河の湯」になっています。

後楽園駅の北側には礫川(れきせん)公園があります。昔、この地域を流れていた川には小石が多かったことから礫川あるいは小石川と呼ばれました。後楽園の辺りで神田川と合流していたそうですが今はその川を見ることはできません。礫川公園の横には春日局(かすがのつぼね)の銅像がありました。この近くに将軍家光から住まいを拝領したことから「春日」の地名の由来となったと説明されていました。

 

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春日通りが白山通りと交差する場所(文京区役所裏)には柔道の講道館があります。玄関横に置かれた嘉納治五郎の銅像を見たかったのです。すぐ横の地下鉄後楽園駅から帰宅することにしました。

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2007年5月24日 (木)

小石川散策(前編)

地下鉄三田線を白山駅で下りました。小石川界隈を歩くためです。白山下から蓮華寺坂を上り詰めた左手に東洋大学のキャンパスが広がります。御殿坂を下り始めると右手には長く続く塀の中に木立がありました。

坂を下り切ったところが小石川植物園の入り口です。入場券が向いの商店で販売されているのは珍しい。この植物園は東京大学大学院理学系研究科の付属施設です。正門を入って坂の上を左手に進むと売店があり、さらに進むと目当ての井戸を見つけました。ここが小石川養生所の跡です。この植物園は約320年前に5代将軍綱吉が幼少時に住んだ白山御殿跡に幕府が御薬園を造り、さらに8代将軍吉宗が庶民の陳情を受けて小石川養生所を設立した場所です。明治に入って東京大学が設立されるとその付属植物園となり現在に至っています。

 

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16万㎡の広大な敷地におよそ4000種の植物を栽培する一般に公開された植物園です。園内には幼稚園児のグループ、若いカップル、年長者などさまざまな人が花を愛でながら散策を楽しんでいました。

 

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池を巡る日本庭園の奥には旧東京医学校(現東京大学総合研究博物館小石川分館)の建物があります。

 

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石段を上ると針葉樹林が、その右手には鈴掛の木と菩提樹の林があります。目立つのは林立する鈴掛の巨木です。頭上高くにユリノキの花が咲いていることを通りかかった方に教えていただきました。

 

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ツツジの道を抜けると左手に温室があります。幸運にも丁度オープン中で覗いてみることにしました。蘭を中心に珍しい熱帯植物が栽培されています。 注)温室は毎週火・水曜日の午後1-3時だけオープン

  

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この植物園では数え切れないほどの草花と樹木に接することができますが、そのすべてに名札が付けられていて、まるで植物図鑑を見ているようです。千川通りの植物園前交差点から播磨坂の桜並木を春日通りまで上りました。  

 

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(後編へ続きます)

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2007年5月20日 (日)

中山道木曽街道(後編)

木曽街道も後半です。木曽谷は山峡の地ですが、国道351号(権兵衛街道)の権兵衛トンネルが昨年2月に開通したことで中央自動車道のICがある伊奈谷へのアクセスが便利になりました。平成14年に開通した姥神(うばがみ)トンネルを含む「伊那木曽連絡道路」の全線が開通したのです。これまで中央アルプス(木曽山脈)の権兵衛峠は冬季に自動車で通行することが禁止されていました。

大型トラックに挟まれながら国道19号を走ると木曽福島に差し掛かりました。旧道へそれて市街地に入ると宿場町の雰囲気があります。木曽川にかかる大手橋や真新しい代官屋敷がありました。案内図に従って一段高い路地に入ると、狭い地区ですが、旧中仙道の雰囲気を残す家並みや釣瓶(つるべ)井戸があります。

 

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国道の長大な鳥居トンネルを抜けると奈良川に沿った奈良井宿です。この宿場は木曽路の宿場のなかでも規模が大きく、しかも昔2007_05140282_1の雰囲気をそのまま残しています。「日本一の宿場町」のキャッチフレーズが駐車場で貰ったパンフレットに書かれていました。

 

奈良井宿の碑が宿場の北端ですが、その先にある八幡宮横には杉並木が残されています。塩尻から近いこともあり馬籠と同様に観光客が多いようです。この宿場にも鍵の手がありました。他の宿場では枡形と呼んでいるクランク形に曲がった道のことです。

 

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2007_05140286_1塩尻で長野自動車道の塩尻ICに入りました。 岡谷JCTで中央自動車道に入ると諏訪湖畔の諏訪湖サービスエリアに目当ての「ハイウェイ温泉諏訪湖」がありました。高速道路にある日帰り温泉として珍しい存在です。

 

小さな温泉ですが八ヶ岳や諏訪湖を眺めながら入る湯は格別でした。時間帯のせいでしょうか、入浴客は私ひとりで貸切状態なのも快適でした。料金は595円、泉質は弱アルカリ性単純温泉です。入浴後に早い夕食を摂りました。

 

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中央自動車道の急坂を快調に走りました。日が暮れたのは相模湖IC付近、その後も渋滞に巻き込まれず、8時前に帰宅できました。今回のドライブの走行距離は約980kmです。

 

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<同行者のコメント> 馬籠宿で昼食に食べたトロロ蕎麦が美味しくてお汁(つゆ)まで飲んでしまいました。諏訪湖の温泉も良かったです。どの宿場も私には同じように見えました。思ったより早く帰宅できたのは本当に中央高速の下り坂のせいですか?

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2007年5月19日 (土)

中山道木曽街道(中編)

馬籠峠を少し下ったところにある吉川英治の「宮本武蔵」の舞台となった男滝(おだき)と女滝(めだき)に立ち寄る。旧中山道のルートで急な階段を男だる川まで下りた場所にありました。右側が女滝で、左奥にある水量の多いほうが男滝です。国道に戻ってさらに下りると大妻籠(おおつまご)の庚申塚がありました。
 
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岐阜から飯田に至る国道256号(飯田街道)に入ると妻籠発電所のすぐ先が妻籠(つまご)宿です。妻籠は中山道と飯田街道の分岐点として栄えました。馬籠宿とは違い古い町並みがそのままの形で残っています。

中央駐車場から馬籠方面に少し戻った尾又橋バス停を左折して蘭川にかかる尾又橋を渡りました。緩やかな下り坂に妻籠宿が長く続いています。宿場を歩く観光客たちものんびりと店先や建物の内部を覗いています。

 

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中ほどにある光徳寺下の枡形を抜けると妻籠宿本陣(島崎藤村の母の実家)と脇本陣(国の重要文化財)がありました。枡形は敵の侵入を防ぐために道を直角に折り曲げた場所のことを言います。600mほど続く宿場町の端には高札場と水車がありました。

 

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吾妻橋で再び国道19号(中山道)に合流すると国道は木曽川に沿って三留野宿、倉本駅の先には小野ノ滝と浦島伝説で知られる「寝覚の床」があります。手前の駐車場に停めたため長い遊歩道を歩きました。全国にある浦島伝説のなかで内陸部にある珍しい例です。

 

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上松宿から3kmほど先、切り立った崖と木曽川の間を国道が抜ける場所に木曽の桟(かけはし)があります。赤い鉄橋を対岸に渡りました。この橋が「木曽の桟」かと思いましたがそうではありません。国道下の石垣(現在修理のために工事中)が桟の跡で、案内板の説明によれば崖沿いに棚のように設けられた桟道のことでした。中山道の難所のひとつで、木曽八景に数えられています。「桟や いのちをからむ 蔦かづら」と書かれた芭蕉の句碑が建っていました。

 

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2007_05140265注)美濃路の項で紹介した太田の渡し、この木曽の桟、そして碓氷峠が中山道の三大難所です。また大月の猿橋、岩国の錦帯橋とともに日本三大奇橋と呼ばれます。徳島のかづら橋と日光の神橋を数える説もあります。

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2007年5月18日 (金)

中山道木曽街道(前編)

2007_05140219_1 下呂から国道257号/256号(裏木曽街道)で中津川市に入りました。ここから木曽街道の宿場巡りです。最初の宿場は2年前に中津川市に編入された馬籠宿です。現在は美濃路にも入れられているようです。

 

中津川の市街地から国道19号と旧中山道を約20分走ると「落合の石畳」です。最近造られた石畳で遊歩道と呼んだ方が良さそうです。すぐ先には「これより北 木曽路」の碑がありました。集落に入ると馬籠宿に到着です。

 

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馬籠宿は島崎藤村の生誕地として知られますが、近年は観光地として人気があります。駐車場には観光バスが多数停まっており、中国語でしょうか外国語が飛び交っていました。馬籠宿の碑から先は急な石畳と古い商店や旅館が立ち並んでいました。馬の背のような土地に造られた宿場は珍しいと思います。

 

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およそ400mある宿場街の終点には高札場と最近造られた展望台があります。恵那山(2191m)の雄大な姿が見えました。
 

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宿場の綺麗な町並みを保存しようとする地元の意気込みは伝わりますが、明治神宮の表参道のブランドショップ街を歩くような気分にさせられたのは残念です。

 

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馬籠峠でカッコいい車に出会いました。同行者は興味津々で声を掛けます。排気音について聞いている。「レース用にチューンしています。マフラーも特注です。」との答えが返って来ました。クラッシクカーではないそうです。後で調べると、F1で活躍するコスワース・エンジニアリング社の直列4気筒エンジンを搭載したロータスの流れを汲む「バーキン・スーパー7」でした。
 
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<同行者のコメント> クラッシックカーかと思いました。ドライブで遠出したときに似た車をよく見かけましたので前から気になっていました。いちど乗ってみたいです。乗り心地はよいのかしら?

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2007年5月17日 (木)

下呂温泉

中山道をさらに進みたいところですが、国道41号で高山方面へ向かいました。高山線も並走する飛騨川沿いの国道はドライブコースとしても楽しい。交通量が少なく快適なドライブを満喫しました。飛騨川の渓谷が美しい中山七里を過ぎると下呂温泉に到着です。

  

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温泉街を抜けて下呂大橋を渡ったT字路を下呂駅と反対の右手に進むと「下呂観光ホテル」の案内板がありました。急な坂を上り切るとホテルの正面のはずですが、玄関らしきものは見当たりません。駐車場に車を停めると旅館のアプローチのようなところから出迎えの人が現われました。

2007_05140197_2 チェックインを済ませて部屋に案内される。観光ホテルの名前から想像していたのとは違う雰囲気にほっとしました。「観光ホテル」から団体客向けを想像したのです。

 

実は駅に近く飛騨川に面した「水明館」を予定していました。しかし間近になってスケジュールを決めた時にはすでに満室になっていいたため、代案としてこのホテルを選んだのです。

早い夕食の後に大浴場へと向かいました。天井が高いシンプルな浴室に円形の浴槽とその中央に岩山と銅像が聳えています。その微妙なセンスに驚きましたが、入った湯はさすがに日本三名泉のひとつである下呂温泉です。ぬめりのある感触です。夕日に染まった温泉街と飛騨川が見渡せました。一人で大浴場を独占するのも贅沢です。露天風呂は小ぶりですが、檜の風呂で落ち着けました。泉質はアルカリ性単純温泉(PH9.18)と表示されています。 注)日本三名泉は有馬/草津/下呂、いずれも甲乙付け難い名湯です

 

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2007_05140200_1暗くなって入った貸切露天風呂(しがらき)は陶器の浴槽と下呂温泉街の夜景がきれいでした。気になったのは大浴場と湯の感触が違うことです。

 

翌朝は6時から利用できる館外の露天風呂にも行ってみました。急な階段で崖下に下りると木々に囲まれた半露天風呂がありました。新緑と谷川のせせらぎだけの世界で湯を楽しみました。こちらも前夜の露天風呂と同じさらりとした湯です。気が付けば他に3名の入浴客があり混み始めました。

本館に戻る途中、挨拶をした宿の人に質問して疑問が解けました。大浴場は川沿いの源泉から出る温泉街共通の湯で、その他の露天風呂などは自前の湯を使っているのだそうです。そしてホテルの玄関周辺は5年ほど前に今の形に造り替えられたとのこと。個人客向けのリフォームなのでしょう。館内のあちこちに置かれた焼き物、箪笥、人形などにもそれが良く顕われています。

下呂温泉には日帰り湯や足湯がたくさんあり立ち寄り先を選んでいましたが、ホテルの温泉だけで大満足でした。また宿泊したいホテルです。

 

<同行者のコメント> 温泉と食事が良かったです。宿の食事はボリュームがありすぎていつも困りますが、このホテルは品数は多くても量が少しづつでしたからすべて食べられました。ホテル内の装飾もすてき。お土産をいっぱい買いました。

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2007年5月16日 (水)

中山道美濃路の宿場

金華山の南にある加納宿を訪れました。家康の命で岐阜城から主要な建物を移築して造られた加納城跡の北側を東西に伸びています。美濃にあった中山道17の宿場で最大規模だったそうです。現在は本陣跡などの石碑だけが残っています。 注)美濃路は16宿でしたが2005年に馬籠が中津川市に編入され17宿となる

 

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加納城は本丸跡が緑地公園になっています。周囲を取り巻く石垣だけが辛うじて残っていました。

 

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加納宿から中山道(国道21号)を東へ向かいました。隣の宿場は鵜沼宿で現在の各務原(かがみがはら)市にあります。鵜沼宿の碑や本陣跡に芭蕉の句碑が建っていました。木曽川の対岸には国宝の犬山城があります。家康との小牧長久手合戦のために秀吉が入城したときに山内一豊も同行しました。ちなみに家康は小牧山に陣を構えました。

 

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鵜沼宿から木曽川に沿って進むと美濃加茂市にある太田宿です。中山道、郡上街道、飛騨街道が交わる交通の要所として栄えました。太田本陣の門が残っています。中山道三大難所と呼ばれた太田の渡しがありました。

 

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2007年5月15日 (火)

信長の城を訪ねるドライブ旅

2007_05140001 東京方面に向かうトラックのヘッドライトが対向車線を走馬灯のように往き過ぎる東名高速道路を西へと走りました。交通量が少ない早朝の時間帯を選んだことで、空が白み始めたころには富士川のサービスエリアに。富士山のシルエットが澄み切った空に映えていました。

 

 

 

その後も順調なドライブが続いて予定よりも早く名神高速道路の小牧ICを降り、国道41号を名古屋方面へ少し戻ると左手に小牧山がありました。濃尾平野に孤高する標高85.9mの小山です。大手口にある市役所を除く小牧山全体が緑地になっていました。朝の散歩を楽しむ年配者が多数見られます。親切な方が小牧山の土塁や用水について詳しく解説してくださいました。

 

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2007_05140011この小牧山に築かれたのが小牧山城(小牧城)です。信長が美濃攻めのために砦を築き、その後に築城を計画しましたが、短期間で岐阜を攻略したため城下町の建設を途中で取りやめました。

 

 

 

 

後に秀吉と家康が小牧長久手で戦った時には家康が砦を改修しました。江戸期以降は尾張藩領として保護され、昭和2年に国の史跡に指定されました。山頂の本丸跡に建つのは昭和43年に名古屋の実業家が寄贈した小牧市歴史館です。

 

2007_05140012 2007_05140016 国道41号をさらに南下、東名阪自動車道と名古屋高速小牧線が交差する楠木JCT下を右折して清州へ向かいました。五条川を渡るころには清州城が左手に見えて来ました。新幹線の車窓から何度となく見たことがある派手な印象の城です。駐車場へのアプローチに手間取りました。

 

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清州公園から朱塗りの大手橋を渡って郷土資料館に向かいました。これは平成元年に再現された模擬天守です。近づいてみるとこれまでの印象とは異なり細部まで配慮の行き届いた普請がされていました。最上階の展望室からは尾張北部と美濃南部が見渡せます。名古屋城、小牧城、犬山城、岐阜城、大垣城などが見えるはずですが、この日は生憎の靄で視界が良くないのは残念でした。

 

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清洲城(清須城)は織田信長が天下布武の出発拠点とした城として知られます。しかし徳川家康が1610年に清州を廃して尾張の都を名古屋に移したときに取り壊され、その一部が名古屋城築城の材料として利用されたそうです。清州古城跡碑と信長像が五条川対岸の清州公園内にありました。

 

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国道22号で岐阜に向かう。金華山の頂上(標高329m)に築かれた岐阜城を見ながら市内に入りました。岐阜公園内の乗り場から山頂近くまでロープウエイで上ることができます。急な石段の両側は深い谷になっていることから石の山に築かれた難攻不落の城であったことが分かります。秀吉が間道を使って城内へ忍び込んだことが勝敗を決めたと伝えられています。

 

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現在の岐阜城は観光用に造られたもので城としての面白みはありません。それでも最上階から見る濃尾平野の景色は雄大です。すぐ下を流れる長良川と町並みが手に取るように見えます。岐阜メモリアルセンターの先には道三の隠居所のあった鷺山が住宅地の中に残されています。岐阜公園内には信長像のほかに山内一豊と千代の碑がありました。 

 

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国道256号を挟んで公園の反対側には古い町並みを残している川原町(現在の湊町、玉井町、元浜町)があります。長良川を利用した水運の船着場があったことから木材や和紙の問屋が立ち並んでいたのだそうです。国道脇には鵜飼観覧船の乗り場と「長良川艶歌」の碑がありました。長良川の対岸から見る金華山と岐阜城は美しく、夜間にはライトアップされて夜空に浮かぶ姿がホテルの大浴場から眺められました。

 

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清州城、小牧城、そして岐阜城を見てまわると信長の天下布武を成就する城の変遷がありました。その計画を完成した最後の居城の安土城は平成元年から20年計画で発掘調査が行われているそうです。近いうちに安土城址も訪れたいと思います。

 

 

 

<同行者のコメント> 小牧山に登って疲れましたので清州城と岐阜城は眺めるだけにしました。

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2007年5月10日 (木)

恵比寿散策

恵比寿と言えばガーデンプレイスが人気です。そしてグルメの街としてラーメンの激戦区であり、個室のあるレストランが多いのです。またエステサロンが40軒以上もある女性の街としても知られます。近くに在日公館が多いためでしょうか外国人の姿が目に付きます。

 

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JR恵比寿駅を降り、東口から動く歩道「スカイウォーク」(約400m)を利用しました。その終点に立つと右手にビアステーションと高層オフィスビルの恵比寿ガーデンプレイスタワーが聳えていました。その横で一際目立つのは坂道のプロムナードと大きなアーケードです。その先にはシャトー広場、シャトーレストラン、ウェスティン・ホテルや恵比寿ビュータワーなどがあります。正面左手には恵比寿三越、さらに左手を見るとサッポロビール本社と恵比寿麦酒記念館など多数の建物が立ち並んでいました。

 

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恵比寿ビール記念館はサッポロビール本社と同じ建物の地階にあります。受付を通り抜けて階段を下りるとピアノ演奏が聞こえてきました。大きな銅釜の横で女性が演奏しています。1920年製スタインウエイを演奏できるコーナーです。50分で3000円と説明されていました。

 

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ビールの歴史を展示したメモリアムの先にあるギャラリーには歴代の宣伝ポスターが展示されていました。20枚ほどあるポスターの大半は女優が写っていますが、数少ない男性である三船敏郎と石原裕次郎の存在感が目を引きました。そして「サッポロジャイアンツ」が懐かしい。ドカーン!(私と同年代以上の方にはお分かりでしょう)

 

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ビアサイエンス・コーナーの一部は撮影禁止になっていました。マジックビジョン・シアターでは、妖精が飛び回ったり、ビールをグラスにそそぐシーンが立体映像で映し出されています。最後のテイスティング・ラウンジ(試飲コーナー)は、立ち寄りたいのを我慢して、通過しました。この後に定例の飲み会が予定されているからです。アメリカ橋を渡って恵比寿南1丁目の交差点から恵比寿駅西口近くの会場へと向かいました。

 

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「ニャー・ベトナム」(Nha Viet Nam)恵比寿店は20029月にオープンした本格ベトナム料理のレストランです。ニャーとはベトナム語で「館」のこと。恵比寿駅西口から坂道を2分ほど上った横丁にあります。一階はそれほど広くありませんが、2階にはテーブル席が10卓近く並んでいました。

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海老とポークの生春巻と前菜で始まりさまざまなベトナム料理が出されました。全般的に薄味ですが、鳥料理だけは濃い目の味付けでした。「揚げフォーの肉味噌あんかけ」は初めての経験です。「ベトナム風チャンハン」も美味しく食べました。

 

ベトナムの麦焼酎(ウオッカ)は25度とほど良い強さで味にクセがありません。他にベトナム製のビールやワインなどドリンクメニューも豊富です。7時を過ぎると店内は満席になっていました。そのほとんどが若い女性客で中年男性のグループは浮いた存在だったように思います。

 

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二次会は恵比寿駅近く、恵比寿西一丁目のビル5階にある英国パブ「HUB」恵比寿店です。本格的な英国風パブでした。ヨーロッパのサッカー中継が流れ、声高な会話は、英国の雰囲気です。フィッシュ&チップス、フライドポテト、サラダなど豊富なメニューがありますが、食事を済ませたばかりであり、ハブエールやギネスなどビールだけを注文しました。テンションの高い雰囲気のせいか話が弾み、気が付けば2時間近くが経っています。午前様にならないうちに散会することにしました。

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2007年5月 6日 (日)

神田散策

銭形平次捕物控の舞台となった神田を訪ねました。新御茶ノ水駅で千代田線を下車、紅梅坂にあるロシア正教会ニコライ堂と日立製作所旧本社横の幽霊坂に立ち寄りました。

 

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聖(ひじり)橋で神田川を渡った右手には木立に囲まれた湯島聖堂が見えました。ここは将軍綱吉が建てた儒学の学校「昌平坂学問所」です。ちなみに昌平とは孔子が生まれた村の名前なのだそうです。明治に入ると師範学校となり、現在の筑波大学や御茶ノ水女子大へと発展したのだそうです。孔子を祀る黒く塗られた大成殿は銅版で葺いた屋根の青さが美しいコントラストと成っています。屋根には鯱のような青銅製の鬼狛頭(きぎんとう)と鬼龍子(きりゅうし)が飾られています。今日は残念ながら大成殿の扉が閉まっていました。

 

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今でも勉学の成就を願う人が絵馬をたくさん奉納していることで、湯島天満宮とならぶ存在であることを知りました。斯文会館の横に孔子の大きな立像があります。表門から出て塀沿いに続く昌平坂を上り切ると、本郷通りの左手に神田明神の鳥居が見えました。

 

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参道入り口の甘酒屋「天野屋」に立派なお神輿が飾られていました。随神門を通り抜けた左手には一之宮「大黒様」、二之宮「恵比寿様」、そして三之宮「平将門命」があり、正面の御神殿が一段高い位置に聳えています。御神殿に参拝したあと、左手に回ると江戸市中から移された神社が御神殿を囲むように置かれ、奉安庫の前では来週の神田祭りで使う神輿の準備が始まっていました。

 

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御神殿の右手に回ると目当ての「銭形平次」の碑が明神下を見下ろすように建っていました。発起人を記した碑と「八五郎」の小さな碑が両側に置かれています。明神会館横の石段「男坂」を下り、神田明神下中通りを横切ると、昌平橋通りに出ます。左手の芳林公園には江戸の流行作家「滝沢馬琴」の住居跡の立て看板、右手には伊勢屋丹治呉服店跡の石碑をヤマギワLIVINA館の角に見つけました。

 

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銭形平次の住まいがあった場所はその中間の神田明神寄り「神田お台所町」(現在の外神田2丁目)の長屋とされています。今は雑居ビルなどが建ち並んでいますが、約200年の歴史を持つ鰻屋「神田川本店」だけは昔の雰囲気を残しています。

 

2007_05050061_1 神田明神下交差点から昌平橋を渡り、中央本線沿いに進むと万世橋袂(たもと)の「交通博物館」前に出ました。さいたま市大宮区の「鉄道博物館」(今年10月開館予定)への移転作業が始まっていますので、まもなく跡地になってしまいます。

 

 

淡路町交差点に向かって斜めに進んだところに有名な蕎麦屋「まつや」があります。まだ11時の開店まで時間がありましたので、日陰で休憩しなが道を往く人たちを眺めていました。気のせいでしょうか、ほとんどの通行人が「まつや」に一瞥しているように思われます。サイクルウエアで決めた二人の外人が"famous sobaya"と指差しながら自転車で疾走して行きました。

2007_05050062 11時を過ぎたにも拘らず暖簾が出されません。店の前を往復していた中年客が店の人に声を掛けると中へ招き入れられました。それではと我々も店に入る。店内に並べられたテーブルと椅子は奥の席を入れると70席ほどでしょうか。勧められた今日(55日)限定の「くさきり」と同行者の好きな天もりを注文する。気が付けば店内は客でいっぱいになっていました。見覚えのある顔が・・・。店の前を通り過ぎた人達が申し合わせたように集まっているのです。

 

2007_05050067_1 「くさきり」は更科粉に蓬(よもぎ)を練りこんだ蕎麦です。季節限定の珍しさはありますが、普通の蕎麦のほうが私の好みでした。そう言えば草津でも同じようなうどんを食べました。細く切った蕎麦と蕎麦湯は評判通りの味です。今回は秋葉原の電気街には立ち寄らず早めに帰宅しましょう。

 

 

<同行者のコメント> 昨年の秋は遠山の金さんでしたが、今回は銭形平次の番でした。神田の坂道を上ったり下ったりしたためすごく疲れました。それに今日は夏のような強い日差も。お蕎麦は美味しかったです。でも海老の天麩羅は先日食べた山梨の「小作」のほうが良かったと思います。秋葉原を通りかかった時に万世でステーキを食べたことをなぜか思い出しました。

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2007年5月 5日 (土)

銭形平次捕物控と長谷川一夫

連休は自宅で映画三昧の日々を過ごしました。そのなかで印象深かったのは長谷川一夫が主演した映画「銭形平次捕物控」のシリーズです。何十年ぶりでしょうか、子供の頃、父に連れられて観に行った映画の代表格です。4月中旬にWOWOW放送した5編を録画して置いたのです。

最初は1951年製作の「銭形平次・恋文道中」です。原作はもちろん野村胡堂、人気浪曲師であった広沢虎造が「虎造」役で出演していました。平次の子分、ガラッ八の八五郎役は花菱アチャコ、女賊のお加代は長谷川裕見子が演じました。長谷川裕見子は長谷川一夫の姪にあたり、大映映画でよく共演しています。彼女は最近亡くなった船越英二の奥さん、つまり二時間ドラマの帝王と呼ばれる俳優船越英一郎の母親になった人です。

筋書きは、御三家筆頭尾張家の側室が独身時代に書いた恋文をめぐって暗躍する正室派と平次が江戸から箱根までの道中で恋文の争奪戦を演じると言うものです。道中には怪しげなグループが何組も登場しますが、次々と殺されてしまいます。平次の謎解きで、最後はもちろん「めでたしめでたし」で終わります。

六郷の渡し、戸塚宿、小田原宿、湯元宿、箱根の裏街道、そして芦ノ湖畔が舞台でした。江戸時代の東海道と旅人姿が良く描かれています。平次の独特な台詞回しと八五郎が関西弁を話していたのが面白い。

これに4篇の銭形平次捕物控が続きました。平次役の長谷川一夫は変りませんが、八五郎や女房のお静役はさまざまな俳優・女優が演じています。とくに八五郎役はバラエティがあって面白い。花菱アチャコに続いて、榎本健一、船越英二、三木のり平とめまぐるしく変ります。それぞれの映画のポイントを列記しましょう。

「どくろ駕籠」(1955年製作のモノクロ映画)では本多伊豆守の愛妾が殺害された事件の殺人トリックを平次が解き明かす謎解きになっているのが珍しい。そして長谷川一夫の女装姿が見事でした。夜のシーンとは言え、悪役が平次だと気が付かないで口説くのは芝居の約束ごとだからでしょう。なお題名の「どくろ駕籠」は平次が悪人に対して仕掛けた虚仮威し(こけおどし)です。

「まだら蛇」(1957年製作)からカラー映画になりました。当時20歳であった美空ひばり、そして美人の代表と言われた山本富士子と色っぽい木暮美千代の二大女優が共演、あの榎本健一が八五郎役です。まだら蛇の刺青をした男が殺されたことが発端となり、放免された受刑者を使った贋金造り事件を平次が暴く話です。

「雪女の足跡」(1958年製作)では香川京子の女目明しと楠木としえの瓦版屋が色を添えました。二枚目俳優の船越英二が演じる八五郎役が異色です。江戸城の御用金3万両を奪った盗難事件を解決する話ですがストーリー展開は平凡です。この事件で詰め腹をきらされそうになった町奉行を平次が身を挺して救うところが見所でした。

「美人蜘蛛」(1960年製作)は伊能忠敬の日本地図が盗まれた事件で、平次と八五郎が犯人を追って伊勢参り道中へ出ます。三木のり平の八五郎、小田原宿の女目明し役の水谷良重、女形役の茶川一郎、そして初々しい中村玉緒などが出演しました。伊勢参りの一行はまるで現代のパックツアー客のようで、現代風の台詞とコメディタッチは興醒めでした。

いずれの映画もタイトルがおどろおどろしいのは時代を反映したのでしょうか。銭形平次の映画は戦前からありましたが、何と言っても長谷川一夫の銭形平次が圧巻です。1949年にまず新東宝で「銭形平次八百八町」が撮影されました。花菱アチャコ、黒川弥太郎、長谷川裕見子、小夜福子など懐かしい人たちが出演しました。翌1950年に長谷川一夫が大映に移ったことで、このシリーズも大映の看板映画となります。

長谷川一夫の平次は今観ても見事です。戦前戦後を通じて二枚目俳優の代名詞でしたが、表情と仕種(しぐさ)だけでなく、台詞回しが素晴らしいのです。自らを「おいら」と呼び、「そうでござんしょう」「おやさよーで」「おねげーにあがりやした」などの粋な台詞(文字で表現するのは難い)が長谷川一夫ならではのものです。投げ銭も荒唐無稽のようですがスナップを利かせた鋭さに今更ながら感心しました。長谷川一夫は1984年に没しましたが不世出の映画俳優と言って間違いないでしょう。

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