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2007年7月に作成された記事

2007年7月23日 (月)

アメリカのテレビドラマ

毎週木曜日の夜にNHK BS-2で再放送されている「奥様は魔女」(Bewitched)を観ています。これはエリザベス・モンゴメリーとディック・ヨークの共演で1964年から1972年までアメリカのABCネットワークで放送された人気ドラマです。アメリカでも異例の高視聴率を獲得して9年間(約250回)も続きました。

 

主役のサマンサを演じたモンゴメリーとともに母親エンドラ役のアグネス・ムーアヘッドがはまり役でした。夫ダーリン役のディック・ヨークも妻とその母の魔女二人に振り回される気の良い夫を好演(怪我の後遺症で後にこの番組を降板)しており、お向かいに住むグラディス役のアリス・ピアスはスパイスとして不可欠な役回りです。

 

昔話です。小学校に入って間もない頃、わが家の上空を米軍の双胴機(多分C-82シリーズ)が飛んでいたことを今も思い出します。朝鮮戦争が終わった頃でしょうか。子供ながらもアメリカの強大さを感じていました。それが実感されたのはテレビ放送です。アメリカのテレビドラマは日本でテレビ放送が始まって間もない頃から放送されていました。

 

小学生の時に友達の家で観た「スーパーマン」と「名犬ラッシー」、そしてわが家にテレビが来た1958年には「ローン・レンジャー」、「パパは何でも知っている」(Father knows best)、「家のママは世界一」(The Dona Reed Show)と「アイラブ・ルーシー」などがあります。西部劇の「バット・マスターソン」と「拳銃無宿」(Wanted: Dead or Alive)、そして「パパ大好き」(My three sons)と「陽気なネルソン」(The adventures of Ozzie & Harriet)が続きました。

 

西部劇の三つを除けば、いずれもアメリカの郊外に住む中流家庭を舞台としたドラマで、当時の日本からみれば夢のように豊かな世界でした。自分と同世代の子供が大型冷蔵庫から牛乳が入った特大のボトルを取り出して大きなコップに並々と注いで飲む姿が羨ましかったのです。

 

そして長いコードを使って自分の部屋に持ち込んだ電話で話すことも憧れでした。当時の日本では短い電話コードしか許されていなかったのです。極め付きは自動車で、大型のコンバーチブルは正にアメリカそのものでした。NHKで連続ドラマ「バス通り裏」、TBS系で「月光仮面」が放送されていた頃です。

 

「奥様は魔女」が始まったのは1966年で、その前年には「0011ナポレオンソロ」の放送が開始されています。あれから半世紀近くが過ぎましました。今、「奥様は魔女」を観ていると、家族と一緒にアメリカで5年間にわたって暮らした生活を思い出します。

 

子供の頃に夢見た豊かな生活です、芝生に囲まれた広い家、大きな電化製品、スーパーマーケットで買う食品の豊かさ、いずれも昔のテレビドラマそのままでした。私が虜(とりこ)になったのは5リッターのV6エンジンを搭載したフルサイズの車でハイウエイを疾走する時に感じるワクワクく感です。

 

豊かさ以外で印象に残ったことは異質性を受け入れるアメリカの学校教育です。英語がまったく話せなかったわが家の子供たちも一般の公立小中学校で教育を受けることができました。また、強烈なインパクトを受けたことは嘘をつくことの重大さです。「嘘も方便」と言う諺(ことわざ)に悪乗りする日本人とは違って、公の場での嘘は決して許されないのです。

 

そして恥の文化を無くした日本とは正反対に、ピューリタン(清教徒)の考えが今も健在なのでしょうか、フェア(fair、公平)なことも重要なのです。例えそれが建前であったとしても・・・。最近の日本のように十分な情報開示のない状況での「自己責任」を喧伝する軽薄な発言はアメリカでは禁句です。自己責任とは他人に干渉されないで決断する権利(自己決定権)のことで、騙される方が悪いということでは決してありません。

 

現在はアメリカと同様に日本でも豊かな生活を送ることが出来ます。確かに住まいは相変わらず狭いのですが、冷蔵庫を開ければ欲しいものが入っていますし、家の中に買い揃えたいものはもう思いつきません。しかしアメリカよりも日本の生活費が高いのは大きな謎です。日本の方が安いのは公的な健康保険のある医療費ぐらいでしょう。

 

テレビドラマとハリウッド映画によるアメリカのプロパガンダ(宣伝活動)の影響を受けた私は、子供の頃からずっとアメリカの豊かさに憧れ続けてきました。しかし最近になって充実した人生にはそれだけが重要ではないことがようやく分かりました。幸せは自らの心のなかにあると思い、自分が見えない力によって生かされていることを日々感謝しています。

 

この数年はアメリカから留学生を受け入れるボランティア活動をしているわが家の同居人を手伝ったりしながら、今は平穏な気持ちでアメリカのテレビドラマを楽しんでいます。同じNHK BS2で「コンバット」、「ヒッチコック劇場」なども放送中ですし、「逃亡者」が終了した後にはあの「スタートレック」が始まっています。

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2007年7月20日 (金)

甲州街道の内藤新宿と「十二社天然温泉」(後編)

新宿追分からはデパート巡りで満足げな同行者が合流しました。

 

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昼食のあと、雨を避けて新宿プロムナード地下街に入り、友人との飲み会で通いなれた新宿駅西口を抜けて中央通り下の地下通路を都庁方面へと向かいました。都庁の西側にある新宿中央公園でナイヤガラの滝と白糸の滝を見てから公園の奥にある熊野神社に参拝しました。
 
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十二社通りに目当ての「新宿十二社(じゅうにそう)天然温泉」がありました。西新宿4丁目のマンションビル地階にある都心の温泉で入館料は1900円と日帰り湯としてはかなり高めです。
 
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湯はもちろん黒湯、泉質は含食塩-重曹泉(緩和低張性微温泉)、源泉の温度は
25.9度です。内湯には地下1000mから湧き出た低温の源泉を加熱した浴槽と高温のサウナ、ガラス戸の外と言っても同じ地階ですが、源泉のままの細長い冷泉浴槽があります。これら二つの浴槽を交互に入ると気持ちが良くて長めの入浴となりました。副都心と言う場所ですから施設全体が狭いのは止むを得ませんが、それでも畳が敷かれた食事ができる広めの休憩所があるのは嬉しいです。レンタル浴衣でリラックスしながら長時間利用する方に向く温泉でした。

余談です。新宿中央公園内にある十二社熊野神社は室町時代に熊野の神官の家系であったと伝えられる鈴木九郎(中野長者と呼ばれた)が熊野三山の十二所権現を祀ったことで十二社と呼ばれるようになりました。日本で一番多い鈴木姓はこの熊野三山の氏子が布教の目的などで東日本に移って広まったと言われています。全国に約3000の熊野神社が建立された分布(福島と千葉が突出して多い)と同様に、愛知、静岡、東京、千葉、茨木、福島など東日本で鈴木姓が多い理由だとされています。

 

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<同行者のコメント> 宿場の様子が見られなくて残念でしたが、やはり伊勢丹の方が正解だったようです。お昼を食べた中華料理店「全聚徳(ぜんしゅとく)」の北京ダックロールとフカヒレ・スープ、そしてデザートのアンニンドーフはとても美味しかったです。それに地下街で行ける今回の温泉巡りは楽ちんで、濃い黒湯は肌がツルツルになったようです。私も高温の湯だけではなく低温の浴槽にも長く入って楽しみました。

 

先月は知人との集まりで伊勢丹のすぐ近くまでひとりで来たのですが道に迷ってしまいました。今日は伊勢丹のリニューアルされた地階やインザルームなど素敵な場所を見つけましたのでまた新宿に来たいです。

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2007年7月19日 (木)

甲州街道の内藤新宿と「十二社天然温泉」(前編)

旧甲州街道は日本橋を起点として長野県の下諏訪に至る主要街道でした。現在の甲州街道(国道20号)も同様です。日本橋と桜田門の間は国道1号と重複して、桜田門交差点からは皇居のお堀端の内堀通りを西北に向かい、三宅坂で国道246号(青山通り)と分かれ、半蔵門で新宿通りに入って西進します。

 

麹町と四谷見附を抜けた四谷4丁目交差点の5叉路には江戸を出入りする旅人と荷物を取り締まるために設けられた四谷大木戸がありました。この大木戸の先が内藤新宿と呼ばれた旧甲州街道の最初の宿場です。内藤新宿と呼ばれた理由は信州高遠藩の内藤家の中屋敷があったことと、甲州街道で一番目の宿場だった高井戸宿の手前にこの宿場が新たに設けられたことによります。

四谷4丁目から先は国道20号の通称が甲州街道と変わって1991年に開通した新宿御苑トンネルに入りますが、旧甲州街道のほうは新宿通りに続いています。新宿1丁目から新宿3丁目(伊勢丹前の新宿追分)までが内藤新宿です。宿場西端の追分では名前の通り旧甲州街道と旧青梅街道が分岐しています。今回は桜田門から旧甲州街道を内藤新宿まで歩く計画を立てました。

このプランを告げると同行者はいつになく乗り気で自分も周りたいところがあると言うのです。聞けば、雨模様の街道巡りではなく、冷房の効いた伊勢丹の店内でした。このためルートを大幅に短縮して、同行者とは別行動で四谷から新宿追分までを散策することに変更しました。

四谷駅を出ると霧雨がふっていました。四谷見附は駅近くの新四谷見附橋の袂にありました。新宿通り(旧甲州街道)からは数10mほど北側にずれています。これは見附に枡形があってクランク形に曲がっていたからで、石垣の一部だけが残っています。現在のように甲州街道が四谷見附橋で真っすぐに結ばれたのは大正時代に入ってからだそうです。

 

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百合の木を見ながら新宿通りを歩くと甲州街道と新宿通りが分かれる四谷4丁目交差点に四谷大木戸跡の石碑が建っていました。すぐ近くに「水道碑記」を見つけました。玉川上水の水番所跡です。羽村で取水された水が玉川上水でここまで導かれ、ここからは暗渠(あんきょ)になり江戸市中に供給されていました。当ブログの「湧水探索」(後編)でも触れています。

 

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仲町にあったとされる本陣は旅籠屋が兼ねていたため詳しいことは分かっていませんが、高札場は追分近くの玉川上水端(明治通りと国道20号の新宿4丁目交差点辺り)にあったようです。旧街道を散策する時は昔の町並みを思い浮かべながら歩くと楽しいのですが、内藤新宿の下町(現在の新宿1丁目)・仲町(同2丁目)・上町(同3丁目)には史跡らしいものが見つからず、江戸四宿(品川、板橋、千住、内藤新宿)巡りの最後としては収穫が少なくて残念です。
 
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それでも内藤新宿が出来た元禄時代にあったお寺が今もいくつか残っています。内藤家の菩提寺で江戸六地蔵第二番がある大宗寺、時の鐘と一里塚があったと伝えられる天龍寺などです。ちなみに江戸六地蔵は、一番が南品川の品川寺、三番が巣鴨の真性寺、四番が東浅草の東禅寺、五番が江東区白河の霊厳寺、六番が同区富岡の永代寺にあります。当ブログでは四番の東禅寺を除く五地蔵を紹介しています。
 
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内藤家の屋敷は明治時代に政府の所有に移って農業試験場が設置され、これが駒場に移転(東京大学農学部の前身)した後の明治
12年に宮内省の管轄として新宿植物御苑となりました。戦後は新宿御苑として一般に開放されて現在に至っています。所在も内藤町です。(続く)
 
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2007年7月14日 (土)

生麦事件と天然温泉銭湯「朝日湯」(後編)

「六郷の渡し」から「神奈川宿」まで旧東海道を辿ってみました。六郷の渡し跡は多摩川の新六郷橋の袂にあります。ここから旧東海道は第一京浜(国道15号)を潜り、川崎駅の方向へ延びています。

 

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旧東海道が第一京浜と交叉する辺りに「お江戸日本橋」で唄われた「万年屋」がありました。奈良茶飯が評判だったそうです。本町に入ると「田中本陣」跡を見つけましたが、砂子にも中の本陣と佐藤本陣があったと説明されています。
 
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新川通(昔の新川掘り)と交差するところが小土呂橋、市電通りの少し手前に京口土居(宿場の京都側出入り口)跡、さらに八丁畷(なわて)駅近くに芭蕉の句碑がありました。八丁畷は変わった地名ですが長いあぜ道の意味です。

 

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一里塚と鶴見川橋(平成8年竣工)を過ぎると鶴見に入ります。京浜急行鶴見駅前には明治5年に鉄道が開通して姿を消した「よねまんじゅう」を昭和57年に再現した和菓子屋「清月」がありました。
 
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戦前にタイムスリップしたかと錯覚させるJR鶴見線「国道駅」のガード下を通過するといよいよ生麦です。生麦三丁目の生麦小学校の付近に「生麦事件発生現場」の案内板があり、そして生麦一丁目で国道15号と合流する場所に生麦事件の碑がありました。キリンビアビレッジ入り口のすぐ横です。
 
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子安を過ぎた神奈川宿には「滝の川」の橋を挟んで両側に本陣がありました。江戸寄りが「神奈川本陣」で、保土ヶ谷寄りにあったのが「青木本陣」です。青木本陣は横浜銀行中央市場支店付近にあったと案内板に書かれていますが、この支店は2001年に栄町に移転してしまっていたため、青木本陣跡を確認できなかったのが残念です。

中央市場入り口から青木橋の間にある宮前商店街は旧東海道の面影をよく残しています。中ほどの州崎大神の参道を下りて国道15号にぶつかった辺りに神奈川湊があったのだそうです。国道15号と国道1号の合流地点から国道1号を少し戻った青木橋交差点の前にある本覚寺(ほんがくじ)はアメリカ公使のハリスが領事館を置いた場所です。

 

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この辺りでは旧東海道が国道1号とJR東海道線によって分断されたため、車の進入禁止が多く、アクセスに苦労しましたが、青木橋の先の脇道から何とか旧東海道に戻りました。坂道の途中にある大網金比羅神社の海寄りも埋め立てられて今はビルが林立しています。さらに坂を上った場所にある料亭の滝川と田中家(江戸時代は旅篭のさくらや)は歌川(安藤)広重の浮世絵「台之景」に登場する景勝の地でしたが、やはり当時のような展望はまったくありません。

 

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台町(だいまち)の坂の頂上付近には「台の関門跡」がありました。関門(かんもん)とは生麦事件など相続いた外国人殺傷事件に抗議する諸外国に対応するために幕府が横浜周辺に設置した警備所でした。神奈川宿の両端に置かれた二つの関門のうち、西側にあったのがこの関門です。その先の上台(かみだい)橋を渡ると西区の「軽井沢」に出ました。横浜にも軽井沢があることに驚きながらUターンして生麦へ戻ることにしました。
 
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旧東海道(生麦魚河岸通り)沿いには黒湯で知られた銭湯「松の湯」が生麦5丁目にありますが、一昨年に湯を汲み上げるポンプが故障したため、現在は沸かし湯になっているそうです。そこで国道15号沿いの「朝日湯」へ行くことにしました。京浜急行生麦駅のすぐ近くの3丁目にあります。大黒町入り口交差点近くのコインパーキングに駐車しました。朝日湯も黒湯の天然温泉銭湯で立派な構えが印象的です。男湯の自動扉を入ると横に番台がありました。料金は銭湯の協定に従って430円。

 

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脱衣場は天井が高く、常連客用なのでしょう、名前が書かれた小型ロッカーが30くらい設置されていました。湯殿は浴槽が5つ並んでいます。正面には黒湯の超音波気泡マッサージ風呂が二つ(熱めと温め)、普通湯の赤外線風呂と超音波気泡座風呂(ポイントマッサージ風呂)の4つ、左手横に黒湯の冷泉と多彩です。カランは20ケ所余り。ガス遠赤外線サウナもありますが、別料金100円が必要です。早い時間帯でもあり、ゆっくりと黒湯が楽しめました。同じ横浜の綱島温泉「東京園」の湯と同等の濃さがあるよい銭湯でした。

<同行者のコメント> またまた宿場巡りです。お江戸日本橋の歌は最初の「お江戸日本橋七つ立ち」と「六郷わたれば川崎の万年屋」の部分だけは覚えていましたが意味は良く知りませんでした。実は観光案内の歌だったのですね。それに「鶴と亀とのよねまんじゅう」は鶴と亀の形をしたお饅頭だと思っていました。でもお土産に買った「よねまんじゅう」は俵のような形をした羽二重餅で餡をくるんだ上品な味のお饅頭です。白餡・ピンク色をした梅餡・そしてこし餡の3種類がありました。うちのガイドさんによれば、江戸時代には鶴屋と亀屋の「よねまんじゅう」が人気だったのだそうです。そして「よね」は鶴屋の娘さんの名前だとか。物知りですね!

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2007年7月13日 (金)

生麦事件と天然温泉銭湯「朝日湯」(前編)

NHK総合テレビで慶応4年(明治元年)1月に起こった鳥羽伏見の戦いに関連して発生した「神戸事件」を観て、ちょうど司馬遼太郎の「最後の将軍」を読み返している時でもあり、その6年前に起こった生麦事件を想起しました。 注)神戸事件とは備前藩士が外国人水兵を負傷させたことで英国軍などに神戸の中心部を一時占領された事件です

本題の生麦事件に入る前に、江戸時代の唄「お江戸日本橋(こちやえ節)」を紹介しましょう。

お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 

行列そろえて アレワイサノサ

コチャ 高輪 夜明けて 提灯けす

コチャエ コチャエ

<解説> 七つ立ちとは「暁の七つ」(午前3時から4時頃)に出発することです。初のぼりとは江戸に留め置かれた大名の子が家督を継いで初めて領国に帰ることと思われます。高輪で夜が明けたので提灯の火を消した。「コチャエ」とはこちらへと遊郭に誘う合いの手です。

 

二番は品川・鈴ケ森と大森を経由、続く三番では、

 

六郷わたれば 川崎の萬年屋

鶴と亀との よね饅頭

コチャ 神奈川 急いで程ヶ谷へ

コチャエ コチャエ

 

幕末に発生した生麦事件はこの歌のように大名が領国に帰る道中の高輪から程ヶ谷(保土ヶ谷)の間で発生したのです。

事件の顛末は次の通りです。文久2年(1862年)8月21日に薩摩藩主の父・島津久光公は午前10時頃に高輪の薩摩藩下屋敷から京に向けて出発しました。最初に休んだのが現在の青物横丁駅近くにある品川寺(ほんせんじ)前の「釜屋半右衛門の茶屋」です。品川寺には江戸六地蔵があります。次に大森辺りで休んでいます。その後、多摩川の六郷の渡しを越えて川崎で昼食となります。川崎の本陣で昼食をとったあと、島津久光公は旧東海道を鶴見から生麦、神奈川宿へと向かいます。

島津久光公の行列が生麦村を通行中、馬に乗った4人の外国人が誤って行列に紛れ込みました。乗っていた馬が興奮して暴れた英国商人リチャードソンが警護の武士に斬られてしまいました。ほかの男二人と女一人のイギリス人たちは神奈川宿の方へ馬で逃げます。この時にリチャードソンだけでなく他の男二人も太刀をあびています。深手を負ったリチャードソンは少し離れたところで落馬して死亡します。このような経緯があるため、生麦事件が最初に起こった場所は碑のある位置(生麦一丁目)から少し川崎寄りの生麦三丁目です。島津久光公の行列は当日の宿泊を神奈川宿から一つ先の程ヶ谷宿に変更しました

1853年にペリーが来航して始まった幕末の動乱期に発生した生麦事件は賠償問題から薩英戦争にまで発展し、その後の内政と外交に大きな影響を与えることになります。安政の大獄により謹慎(隠居慎)中であった一橋慶喜(よしのぶ)が生麦事件の数ヶ月前に謹慎を解かれ、朝廷の意向により将軍家茂(いえもち)の後見職となりました。家茂が亡くなった4年後の1866年12月に徳川慶喜として15代将軍になり、翌1867年10月に慶喜は大政を朝廷に奉還しています。同年12月には薩摩藩・長州藩と公家の岩倉具視などにより新政府が王政復古を宣言し、1868年には元号も明治と変わりました。 

後編では生麦事件の舞台を訪ねます。

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2007年7月 9日 (月)

銀座の史跡探訪(後編)

銀座御門通りから外堀通り(西銀座通り)に出ました。銀座日航ホテル隣のビル内に八官神社があるはずですが見つかりません。裏手のソニー通りに廻るとGinza Hachikan 3110ビルの入り口脇に八官神社を見つけました。一坪ほどの広さ(狭さ)です。八官神社を携帯電話で撮影していた人からビルの所有者が変わって場所も移されたことを聞きました。

 

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銀座では一坪の土地も貴重なのですね。そのせいか松屋、三越、松坂屋などデパートの屋上に祀られている神社が多いのだそうです。三越の屋上には三十間掘から出土した銀座出世地蔵と越後屋の守り神であり珍しい三柱鳥居がある向島三囲(みめぐり)神社の分霊が祀られていました。 

2007_06280064外堀通りを数寄屋橋方面へと歩きました。銀座西6の交差点を右折した並木通りの朝日ビル前に石川啄木歌碑がありました。碑に書かれた歌、「京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」は滝山町の朝日新聞社に勤務していた時のことを歌ったものだそうです。

6丁目のみゆき通りに面した泰明小学校前にはここで学んだ島崎藤村と北村透谷の記念碑がありました。

 

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隣の数寄屋橋公園には菊田一夫の「君の名は」で知られる数寄屋橋跡碑があります。数寄屋橋は外堀に架かる石造りの橋でしたが、昭和30年代に京橋-新橋間で東京高速道路(首都高速ではない)が建設された時に外堀が埋め立てられるとともに、橋も取り壊されてしまいました。同じ公園の4丁目側にある銀恋の碑はデュエット・ソングの定番である「銀座の恋の物語」の功績を称えて建てられたものです。同じ園内には関東大震災十周年記念碑がひっそりと建っていました。
 

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数寄屋通りを六丁目に戻りました。割烹「むとう」前の路地を入った長谷ビルの地下一階にある居酒屋「とんぼ」が今日の飲み会の会場です。幹事役がこの店の家庭的な料理を気に入ったのだそうです。数日前に訪れた軽井沢の「トンボの湯」に続いてとんぼに縁があります。 

2007_06280079_1入り口には店名の表示があるだけで一見の客には地下の店に入るのが躊躇われます。しかし一度店内に入ると、その雰囲気の良さと意外な広さに驚きました。多彩な前菜がテーブル上に並べられ、その後に魚料理が続き、焼酎との相性が良く杯が進みます。鳥取の食材を使った料理はその味付けと相まって田舎に帰ったような懐かしい気持ちにさせてくれます。

テーブル近くに飾られた人形が気になり席を立ったついでに近寄ると、すかさず店の人が説明してくれました。バンダイの製品でジャズ音楽に合わせて人形が動くのだそうです。音楽を流すと女性ボーカリストが歌に合わせて口を動かし始めました。帰宅後に調べると、バンダイが販売する三代目のLITTLE JAMMERでした。女性ボーカリストは今年の3月に追加発売されたばかりです。人形のジャズメン達が山陰のポスターとともに店内の雰囲気に溶け込んでいるのが不思議でした。

 

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二次会はGINZA5(旧数寄屋橋ショッピングセンター)の地階にある「ロイス カフェ」の数寄屋橋店です。鳥取料理を食べ過ぎた私はサイゴン・コーヒーだけをオーダーしました。名前に惹かれたのです。濃くのある味でたっぷり入った砂糖とミルクがよくマッチしています。
 
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初夏の強い日差しのなか1丁目から8丁目まで銀座通りを中心に銀座のほぼ全域を散策することになりました。涼をとる木陰がないのが辛いです。若い並木が成長して木陰が出来ると良いですね。銀座の歴史にたっぷり浸る収穫の多い一日になりました。

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2007年7月 8日 (日)

銀座の史跡探訪(中編)

みゆき通りを過ぎた6丁目の松坂屋前には明治8年に設立された私塾の商法講習所碑があります。この講習所は明治18年に東京商学校として文部省の管轄下に入り、後に一橋大学になりました。 注)竹橋・一橋散策にも関連の記述があります。

 

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余談ですが、みゆき通りは日比谷公園から新橋演舞場までの約1.2kmの道で、明治天皇が皇居から海軍兵学校に行幸されたことが名前の由来です。東京オリンピック前にVAN(アイビー)の服を着崩して紙袋を持つみゆき族が登場した場所としても知られます。東京租界(旧陸軍の敷地が米進駐軍に接収された現在の東京ミッドタウン辺り)の雰囲気に惹かれて集まった六本木族や米軍宿舎であったワシントンハイツの影響で生まれた原宿族とともに昭和30年代の社会現象でした。
 

7丁目のザギンザ(銀座108ビル)横の狭い路地を入ったところにある豊岩稲荷神社は縁結びの神として女性に人気があるようです。銀座通りを一本入った金春(こんぱる)通りからもビルに挟まれた路地で入れます。二つの路地に接してビル工事が進行していますがその影響はないのでしょうか。

 

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8丁目の花椿通りから金春通りに入ると再開発ビルの工事現場に金春(こんぱる)屋敷跡の説明が書かれていました。区の説明板は銀座御門通りとの角に立っています。江戸幕府直轄の能役者であった金春家の屋敷が8丁目の6番地から8番地にあったそうです。大変広い屋敷であったことが分かります。当ブログの「東京の地名」の項で金春家について触れました。

 

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銀座御門通りに出て銀座通りへ戻ると、高速道路の下に「銀座柳の碑」があります。銀座煉瓦街ができた頃にいろいろな木が街路樹として植えられましたが柳だけが残ったのだそうです。大正10年にイチョウと2007_06280059植え替えられましたが、柳を懐かしむ声が多く、東京行進曲(昔恋しい銀座の柳の歌詞で始まる)がヒットして、昭和6年に柳並木が復活した経緯が書かれていました。カラオケで歌うことがある歌詞の意味をはじめて知りました。ちなみに銀座では柳並木が、この銀座御門通り、1丁目の銀座柳通り、そして外堀通り(銀座1丁目から8丁目までの西銀座通り)にあります。

銀座御門通り沿いの銀座8丁目10番ビルの前で芝口御門跡の説明板を見つけました。6代将軍家宣(いえのぶ)の時、朝鮮使の入府に備えて権威を誇示するために建設されたものだそうです。その先の高速道路出口近く、メガネドラッグの向かい側に三十間堀(さんじっけんぼり)跡の説明板があります。1丁目の三つ橋のところでも触れましたが、京橋川から汐留川にいたる横堀川の幅が当初30間あったことから呼ばれた別称です。戦後に埋め立てられ、東京オリンピックの時に高速道路用地として利用されました。

 

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2007年7月 7日 (土)

銀座の史跡探訪(前編)

銀座の史跡を訪ねました。地下鉄京橋駅を降りた銀座通り口交差点から中央区観光協会の資料などを参考にしながら散策の開始です。高速道路の高架下にある京橋跡の先が銀座1丁目、高速道路沿いに外堀通りへ抜ける銀座桜通りは名前の通り桜の名所です。反対側のホテル西洋銀座横で煉瓦銀座之碑を見つけました。明治初期の大火を契機に不燃性の都市建設が始まり銀座煉瓦街が生まれた記念碑です。右下の写真は銀座の煉瓦街とガス灯を銅版に彫金したものです。8丁目の金春通りで見つけました。

 

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昭和通りの新京橋交差点を横切った銀座ラフィナート前の花壇に三つ橋跡の説明板がありました。三つ橋と呼ばれたのはこの地域で、楓川、京橋川、桜川、三十間堀が交差し、楓川には弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かっていたことによると説明されています。駐車場脇の壁面に「自動電話交換発祥之地」碑を見つけました。大正15年京橋電話局に始めて自動交換機が設置されました。この電話局は後に廃止され京橋会館(現在の銀座ラフィナート)になりましたが、50周年を記念して記念碑が設置されたようです。向かいの京橋プラザ前には発掘された三十間掘りの河岸護岸の石垣が植え込みに利用されていました。

 

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銀座通り口交差点に戻って銀座通り(中央通り)に入りました。2丁目のティファニー前に「銀座発祥の地」の碑が建っています。江戸時代金貨(小判)を扱う金座に対し、「銀座」は銀および銀貨の鋳造・取締りを司った幕府の機関で、現在の銀座2丁目(当時は新両替町)に設置されたのが地名の由来です。ちなみに金座は日本橋本石町(現在の日銀本店)にありました。

 

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銀座通りの向かい側、Cartierが入る大倉本館の壁面に埋め込まれた電気灯柱記念碑は明治15年に始めての電気を使った街頭が設置されたことを記念したものです。

 

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4丁目のミキモトパールの前には真珠王記念碑があります。これはもちろん真珠養殖にはじめて成功した御木本幸吉の功績を称えたものです。 

2007_06280024_2 4丁目交差点で銀座通りから晴海通りに入って東銀座へ向かいました。昭和通りで右折した5丁目(みゆき通りとの角)のサンヒル・ビル横に狩野(かのう)画塾跡の説明板があります。四家あった狩野家のうち最も栄えた木挽町狩野家が開いた画塾のあった場所です。新橋演舞場の方向へ1ブロック歩いた日産本社が東京商工会議所発祥(明治11年)の地です。銀座通り(銀座5丁目)のみずほ銀行前の歩道にも同様の説明板を見つけました。

 

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2007年7月 2日 (月)

軽井沢のウエディングと「トンボの湯」

上越新幹線軽井沢駅南口前に広大な軽井沢プリンスショッピングセンターが拡がっています。その先にある軽井沢プリンスホテル・ウエストに荷物を預けて軽井沢の散策に出かけました。駅北口の旧軽井沢駅舎記念館を見たあと、一度乗ってみたかった「しなの鉄道」で中軽井沢へ移動する予定でしたが、40分近く待つ必要があると駅員に教えられてタクシーを利用することにしました。

 

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国道18号(中山道)から国道146号(千ヶ滝通り)に入って2kmほどで目的地に到着です。今回選んだ星野温泉は大正4年から続く歴史のある温泉です。2002年に開業した日帰り温泉「トンボの湯」(星野リゾートが経営)は大人向けの落ち着いた温泉でした。

  

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木立に囲まれた環境とアプローチが印象的です。中央にせせらぎを配し、正面は浅い池が木立へと続きます。オープンなエントランスの先には黒を基調に石を巧みに使った湯屋が左右に並んでいます。料金は1200円です。

  

2007_07010028露天エリアは大きな花崗岩を配置した露天風呂が1つだけ。岩で仕切った水風呂の反対側には寝湯のコーナーも作られています。急に小雨が降り始めました。空からまっすぐに落ちてくる雨粒を見ながら入る寝湯も面白いと思います。一番奥の小屋にあるサウナは温度が約85度でいつもより長めに楽しみました。

 

内湯はシンプルな意匠で、長方形の湯殿と浴槽、前面がすべてガラス張りで開放感があります。桧と十和田石で作られた浴槽はけれんみのないデザインで、無色透明で柔らかな感触の弱アルカリ性の湯にマッチしています。泉質はナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉です。

 

星野地区のシャトルバスに乗りました。国道を横切って急な坂道を上った木立の中にホテル・プレストンコートと軽井沢高原教会が見えてきました。駐車場横の歩道を100mほど歩くとすべてが石とガラスで造られた「石の教会」です。石で作られた回廊が教会の裏口(見学者用入口)に続いていました。

  

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この教会は内村鑑三記念堂とも呼ばれ、ホールには内村鑑三に関連する資料が展示されていました。輪切りにした石を並べたデザインがユニークです。神が創った自然のなかに神の生命が宿るとする内村鑑三の無教会の考えを表現したもので「自然の教会」とも呼ばれます。このため十字架と祭壇はありません。注)礼拝堂内は撮影禁止

  

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設計者は旧帝国ホテルを設計した著名建築家ライトの流れを汲む建築家ケンドリック・ケロッグとのこと。外観以上に内部は印象的です。石造りの無機質なタッチに水が流れる音が「自然の教会」の安らぎを与えてくれます。フレンチホルンのような形状が音響効果を高めているのかも知れません。日本人にも自然な形で安らぎを与える場所でした。

 

翌朝は早く目覚めたため、明るくなるのを待ち、同行者を誘って宿泊したウエストプリンスコッテージのエリアを散歩しました。芝生と木立のなかにコッテージが数え切れないほど点在しています。鳥のさえずりだけが聞こえる静かな朝の散歩は心地よいものでした。
 

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今回の軽井沢旅行は特別なのです。家族の全員が結婚式に参列するために集まりました。婚礼会場は前日に見学した「石の教会」です。見学した時の強い印象に厳かな雰囲気が加わって素晴らしい結婚式になりました。本当におめでとう。

 

<同行者のコメント> 結婚式だというのに温泉巡りをする旦那さまにはあきれます。素敵な教会にきれいな新婦とそれをエスコートする新郎の姿が心に残りました。お幸せに。

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