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2007年8月に作成された記事

2007年8月30日 (木)

雑記(その3): 難解な言葉

言葉についての話題をいくつか紹介しましょう。まず「外郎(ういろう)」です。外郎売りの口上が滑舌(かつぜつ)の練習に良い早口言葉としてテレビで紹介されました。高校生の頃、演劇部に所属していた私は日々滑舌に励んだことを懐かしく思い出します。外郎売りの口上にはいろいろな変形があるようです。その一例を掲載するサイトを見るにはここをクリックして下さい。

Photo_4 口上だけでなく外郎の名にも興味を持ちました。「ういろう」と言う変わった名前は名古屋の餅菓子として知られていますが、実は透頂香(とうちんこう)という名の薬のことで、戦国時代から小田原の外郎屋で売られていたのだそうです。外郎の名称は中国からの渡来人の名前(陳外郎)に由来します。

説明と写真は株式会社ういろうのhpより引用しました。

 

 

 

米粉で作られた餅菓子である「ういろう」は、この薬に似ている、あるいはこの薬を服用するときの口直し用に作られたとの説がありますが、いずれにしてもこの薬にちなんで名付けられたのだそうです。小田原市内の国道1号沿いで見かける城のような構えの店が「外郎屋」です。

次は「白川夜船」です。四文字熟語のクイズを楽しんでいた同居人から助けを求められました。ヒントの「熟睡すること」で思い浮かばなかったようです。私はこの言葉の意味は承知していますが、その語源までは知りませんでした。調べてみると、京見物をした人が白川の感想を訊ねられ、行ってもいないのに川のことだと思い「白川は夜船に乗っていたのでよく分からない」と答えたことが由来でした。

当初は「知ったか振り」をすることを意味しましたが、現在は記憶がないほど熟睡することを指すようになったとのこと。比叡山から祇園まで流れる白川と言う鴨川の支流もありますが、白川の地名は左京区岡崎周辺のことで、花売りで有名な白川女は北白川の女性を指します。外郎売りの口上にもこの「白川夜船」が登場するのは奇遇でした。

三つ目です。店屋物(てんやもん、てんやもの)とは飲食店から出前で頼む料理のことですが、わが家の同居人は三文字熟語のクイズでも苦戦していました。よくオーダーするピザの宅配(デリバリー)のことですよ! 暴飲暴食、無銭飲食、弱肉強食、無芸大食など、食に関する四文字熟語が思い浮かびます。牛飲馬食、鯨飲馬食(げいいんばしょく)、無為徒食、も時々見かけますが、暖衣飽食(だんいほうしょく)、縮衣節食(しゅくいせっしょく)となると難しくなり、さらに頼芸求食(らいげいきゅうしょく)、悪衣悪食(あくいあくしょく)、解衣推食(かいいすいしょく)、発憤忘食(はっぷんぼうしょく)、に至っては読み方も覚束無(おぼつかな)くなります。興味のある方は辞典でその意味を調べてみてください。

物識顔の私に逆襲したくなったのでしょうか、同居者は意外なことを言い出しました。

"「胃がもたれる」って言うけど、胃はどこにもたれるの?"

さて困りました。「胃が凭れる」とは消化不良で食べたものが胃に溜まった不快な状態を指しますが、改めて何故そう言うのかと聞かれると答えられません。確かに、凭れると言えば、何かに寄りかかることを指すのが普通です。ついにお茶を沸かしました。謎々(クイズ)に答えられない時に使う田舎の言葉で、降参を意味します。

ギブアップしたままでは悔しいので調べてみました。国語辞典には、物に寄りかかる、食物が消化されないで重く感じられる、人に頼る・甘える、と三つの意味が説明されています。これでは解決になりません。漢和辞典も引いてみました。「凭」(もたれる、ひょう、よる)はひじかけ(几)とゆだねる(任)を組み合わせた漢字で、「寄りかかる」の意と書かれています。イライラが募ります。

インターネットで検索しても見つかりません。それではと書棚の奥から広辞苑(昭和51年発行第二版補定版)を取り出して調べることにしました。「凭れる」は口語体で、語源の「凭る」(もたる)は「持つ」に受身の助動詞「る」が付いた言葉であると説明されています。やっと理解できました。ちなみにもう一つの「凭れる」は「凭れ掛かる」と言えば意味の違いがはっきりします。胃ではなく、頭の方が凭れた(?)ひと時でした。

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2007年8月27日 (月)

雑記(その2): ディセプション・ポイント

ダン・ブラウンが書いた三作目のサスペンス小説を読みました。「天使と悪魔」「ダ・ヴィンチ・コード」に続くものです。ちなみにディセプション(Deception)とは「欺くこと」の意味です。

 

北極の氷のなかから発見された隕石をアメリカ大統領の命令を受けた政府調査機関に所属する美貌の女性主人公レイチェルが調査に向かい、そこで感じた疑問のために命を狙われるという筋立てです。ダン・ブラウン一流の書き方で、実在する政府組織や最新の技術用語を駆使しています。この手法に抵抗を感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、私はと同様にダン・ブラウンの世界に引き込まれてしまいました。

 

冒頭シーンにMEMS(メムス、超小型電子機械技術)や超小型飛行ロボットを登場させ、前作よりもさらに科学技術が前面に出た形で、小説の小道具として使われています。MEMSは実用化されつつある最新のハイテク技術で現実にもセンサーや光通信の分野で使われていますし、後者は血管内など狭い空間や人に気づかれずに移動できる超小型ロボットのことです。

 

今回はNASA(アメリカ航空宇宙局)が重要な役回りで、例によって短期間の出来事が息をも継がせぬスピーディーさで展開して読者を引き付けるのはさすがです。この小説も類型的ですが、それを承知で読む人は先に期待しながら読み続けられます。水戸黄門のドラマほどではなくても一度嵌(はま)ると抜けられなくなるのです。

 

写真: NASAのケネディ宇宙センター(左 1989年12月28日撮影、右 NASA資料)
 
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ホワイトハウスのシーンも登場します。10年以上前ですが見学ツアーに参加したことがあります。もちろん大統領の執務室など重要な部屋には入れませんでしたが、一般客(外国人を含む)が大統領府の建物に入ることができることは不思議です。911以降は少し厳しくなったようですが・・・。アメリカ以外にも、ドイツ、マレーシア、韓国、ペルーなどで同様の見学ができるようですが、日本では代議士の紹介がある人か有名人しか首相官邸を見学あるいは訪問ができないそうです。もっとも今流行のバーチャルツアー(ビデオによる紹介)は誰でも利用できますから、興味のある方は官邸のhpにアクセスすると良いでしょう。
 
手に汗を握る展開の後はいつもの謎解きとお決まりの決着が待っていました。他の作よりも結末が容易に推測できる点はもの足りませんが、それでも十分に楽しめました。前二作と同様にお勧めしたい本です

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2007年8月25日 (土)

雑記(その1): 後になって感じること

今夏の暑さは異常ですね。関西旅行から戻ったあとは温泉巡りを小休止しています。極暑日が続くので外出を控えることにしたことと、ちょっと難しいテーマについての調査依頼があったためです。レポートをまとめるのに1ケ月ほど掛かりますから、ちょうど秋風が吹き始める頃までになるでしょう。それまではつれづれなるままに、気分転換を兼ね、思い浮かんだテーマで雑文を書くことにしました。最初は「飛行機」です。

「関西旅行記」の連載ブログ記事を書き終える直前の今週月曜日に那覇空港で中華航空機の炎上・爆発事故が発生しました。幸い死傷者がなく安堵しましたが改めて航空機事故の怖さを感じます。

仕事上の必要性と旅行好きが相まって飛行機をよく利用しますが、国内の某航空会社から登録マイレージが50万マイル(80km)になったとの通知が届きました。地球を20周した計算になります。他の航空会社の利用分を加えると、おそらく地球を30周くらいはしたことになるでしょう。国際線だけでも利用回数が数百回になります。

80days_2 一番記憶に残るのは7年前に世界一周の出張をしたことです。成田からドイツのフランクフルト、南アフリカのヨハネスブルグ、アメリカのマイアミ、アトランタ、そしてポートランド(機体の故障で緊急着陸)を経由して成田に戻る6日間のコースでした。総飛行距離は約26,800マイル(約42,900km)で今になって考えれば無茶なものです。

世界一周と言えば、飛行機が無い時代の小説「80日間世界一周」が映画化されています。海外旅行がイギリスでブームになった時代が舞台でした。現在ではどうでしょうか。最新鋭の旅客機は最高巡航速度が時速1000km前後ですから、乗り継ぎ時間を入れても2日間弱で世界を一周できる計算になります。

  

Voyager実際に挑戦した人がいて、民間航空機だけを利用した早周りで44時間6分の記録が1980年にギネスブックへ登録されたそうです。また無着陸無給油による世界一周飛行は1986年にルタンとイエーガーの二人がプロペラ機のボイジャーで達成した飛行距離40,244km、飛行時間94分が有名です。(写真はNASAの資料より)

本題に戻ります。私は幸運にもほとんど事故らしいものに遭遇したことはありません。唯一の事故は当ブログでも紹介しましたが、バンコックの空港を離陸する時に車輪がパンクして出火する事故でした。大事には至りませんでしたが、脱出時の様子は今回の事故と重なります。

重大な航空機事故が記憶に残っています。お盆で帰省するために家族と高速道路を走っていた時のことです。羽田発大阪行き国内便の航空機が行方不明になったとラジオのニュースが伝えました。今から22年前、1985812日の夕方のことです。航空機事故で史上最悪の日航ジャンボ機墜落事故は520名の犠牲者が出る大惨事でした。

利用する頻度が少なくなってみると大地から浮いて飛ぶ飛行機が不安になってきました。国際線で飛び回っている頃にはまったく感じなかった(実際は考えないようにしていた)のですが・・・。他の交通機関と比較して安全だと言われる飛行機も、一旦事故が起こると他とは比較にならない惨事に繋がります。熾烈な競争が続く航空業界にあっても航空会社には安全の確保に最優先で取り組んで欲しいと思います。

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2007年8月23日 (木)

西国街道(その5) 美人湯「祥風苑」

いよいよ今回の旅を締めくくる温泉です。高槻には「美人湯」と呼ばれる日帰り湯「祥風苑(しょうふうえん)」があります。京街道巡りの後半から別行動をしていた同行者もこの温泉の名前を聞いて合流しました。

2007_08040295国道171号の今城町交差点から芥川ぞいに北上しました。約3km先の摂津公園手前でT字路となり、それを右折して塚脇橋を渡ったところに祥風苑がありました。「摂津峡花の里温泉」美人湯祥風苑の入浴料は800円(会員700円)です。

2階建ての建物は、1階が受け付けと食事処、2階が内湯と野天風呂、そしてマッサージルームがあります。内湯は天然温泉の大浴槽と電気風呂、マッサージ浴槽は多彩で「脊浴」「腹浴」「胸浴」「肺臥浴」「脇臥浴」「腎臥浴」の6種、遠赤外線サウナ、冷水風呂がそれほど広くないスペースに配置されています。洗い場も小さめです。ガラス戸を出た野天風呂はゆったりとした岩風呂です。

2007_08040296_2 階段で屋上へと上がりました。開放感のある空間が広がります。「天空大温泉」「信楽焼きの壷湯」、さらに足底刺激と寝台もあります。泉質はアルカリ性純重曹泉(正式にはアルカリ性ナトリウム-炭酸水素塩泉)で、地下1,350mから自噴する源泉の温度は42度と説明されています。重曹の含有量が多いぬめりのあるアルカリ温泉は肌が滑らかになる感触です。湯量は1日600トンと豊富です。階段を上がり降りする手数を除けば温泉好きに向いています。「関西随一療養温泉」と自称するだけのことはあります。高槻市の郊外、摂津峡公園に近い立地も良いと思います。

2007_08040297 この高槻市から帰路につきました。名神高速と東名高速のドライブも順調で無事に帰宅できました。今回は光秀の足跡を追って滋賀へ、そして京都と大阪の間は何度も往復しましたので、走行距離は約1,600kmに伸びました。旧街道はいずれも道幅が2-3mと狭い区間が多く、駐車はもちろんのこと、対向車とのすれ違いにも難儀しました。自動車を駐車場に停めてから徒歩・自転車で巡ることをお勧めします。

<同行者のコメント> 安土城を見に行くはずでしたが、いつも以上に寄り道が多くて、なんだか変だと思っていました。彦根城の天守閣は階段が急でした。昔の人は袴を穿いて上り下りしたのでしょうか。再現模型をみると安土城にも急な階段がありました。4階までの吹き抜けや上部を廻る回廊と中ほどには舞台もあったことに驚きました。すごいお城だったのですね。高槻の美人湯では屋上にある露天岩風呂にも入りました。効果があると良いのですが・・・。ソフトクリームが美味しかったです。(終)

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2007年8月22日 (水)

西国街道(その4) 高山右近

芥川宿は山崎の合戦で活躍した高山右近の高槻城下にありました。その高槻城も、明治に入って旧国鉄の東海道本線が敷設される時に取り壊されて石資として使われたため、その遺構はほとんど残っていません。昭和の初頭には阪急京都線もほぼ同じルートに建設されて交通の便が良くなったことで高槻や茨木などの旧宿場町がさらに発展することになります。城跡公園には復元された石垣の一部と高山右近の銅像があるだけのようですから、今回は立ち寄らずに通り過ぎることにしました。

 

ここで西国街道巡りを小休止して、高山右近というユニークな人物を紹介します。

 

高山右近はキリシタンであることから数奇な運命をたどった興味深い存在です。父の高山友照とともに下克上で高槻城主になりますが、荒木村重の反乱を鎮圧しようとした信長の命に従わず城主の地位を返上してしまいます。この行動は結果として信長の信任を得ることになり再び高槻城主となり、信長が倒れた後は山崎の合戦で秀吉の勝利に貢献したことで加増され、その後の論功で明石6万石を与えられます。

 

しかし後に秀吉がキリシタン禁制令を出すと、他の大名が棄教するなか、またもやその地位を返上してしまいます。その後は高山右近に好意を持つ小西行長や前田利家の居候(客人)として過ごします。徳川幕府がキリシタン追放令を出すと、慶長19年(1614年)に当時スペインの統治下にあったフィリピンに脱出し、12月にマニラへ到着した直後に病を得て、翌年初めに没します。大名の地位よりもキリシタンとしての信仰を貫く一生を送った人なのです。

 

ちなみにフィリピンとはスペイン人がフィリッペ二世にちなんで付けた国名です。それまでは「ルソン(呂宋)」と呼ばれアジアと中近東の中継貿易で栄えました。現在もルソン島の名として残っています。小学生の頃(昭和31年)に聴いたラジオ番組・新諸国物語「風雲黒潮丸」の主題歌にも登場しました。黒潮騒ぐ海超えて、風にはためく三角帆、目指すは遠い夢の国、ルソン、アンナン(ベトナム)、カンボジア、遥かオランダ、イスパニア(スペイン)の歌詞を思い出しました。

 

次回はいよいよ上方(かみがた)旅行記の最終回です。

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2007年8月21日 (火)

西国街道(その3) 桜井駅跡と芥川宿

明智光秀に縁の地を巡る旅のエピローグとして、山崎の合戦で秀吉軍の先鋒として大いに武名をあげた高山右近の居城があった高槻まで足を伸ばすことにしました。

旧西国街道をほぼ辿る府道67号で小泉川に架る小泉橋を渡って山崎宿に入りました。山崎宿は山城国と摂津国の国境にある宿場ですが、史跡はほとんど残っていないようです。

2007_08040291_2 島本町の桜井に入り小さな道標を見つけました。「右 柳谷」、「左 西ノ宮そうじ寺」「右 京 伏見山崎道」と書かれているようです。伏見山崎道とは京市中に入らないで伏見へ至るもう一つの西国街道でした。

 

伏見では大津へ抜ける街道(奈良街道または大津街道)に繋がる京街道の脇道でもあります。光秀は勝竜寺城を脱出してこの街道を大津へ向かったのです。 

2007_08040292_2 すぐ先の公園内に「桜井駅址」の碑を見つけました。律令制度の時代から街道駅があった場所で国の史跡に指定されています。

 

楠木正成が後醍醐天皇の命により現在の神戸市で足利尊氏を迎え撃った「湊川の戦い」に出陣する時に親子の別れをした場所とされます。青葉茂れる桜井の里の辺りの夕まぐれと唱歌に唄われ、戦前の皇国史観教育に利用されました。同じ公園内に「滅私奉公」と大きく書かれた石像も見かけました。

 

高槻駅手前で府道67号は旧街道をそれて駅を大きく迂回するルートをとりますが、そのまま旧街道を直進しました。

2007_08040293 高槻駅を過ぎた芥川町3丁目の角に「芥川一里塚」がありました。ここから「芥川(あくたがわ)宿」です。200mほど先の右手奥に教宗寺があります。1287年に建立された古い寺で芥川宿の古い絵図にも描かれていたとの説明がありました。

 

さらに200mほど進むと芥川に差し掛かりました。ここが芥川宿の西端だったようです。現在は、狭い道が複雑に絡み合った信号のない堤防上の五差路のため、車の通行には最大の難所でした。

 

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芥川橋を渡った先の西国街道は一方通行のため進入禁止です。堤防上の道にそれて国道171号へ迂回しました。(続く)

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2007年8月20日 (月)

西国街道(その2) 山崎の合戦

「山崎の合戦」の地である京都府大山崎町は現在も東海道新幹線、東海道本線、阪急京都線、名神高速道路(トンネル)、国道171号、府道67号が天王山と淀川(桂川)に挟まれた200mほどの狭い場所に犇(ひしめ)いています。大阪府側の島本町にも山崎の地名が残っており、こちらにはサントリーの山崎蒸溜所があります。

山崎の合戦では明智光秀にとって想定外の悪条件が重なりました。羽柴秀吉が予想外に早く京の近くまで戻ったこと(中国大返し)と、味方が期待したように集まらず、秀吉軍が3万6千あるいは4万と言われたのに対して、光秀側は1万6千と半数に満たなかったことです。光秀は山崎の狭隘の地で迎え撃つ予定だったと思われますが、秀吉に山崎と天王山(高さ270m)を押さえられ、両軍が衝突したのは山崎の手前、長岡京市との境界近くを流れる円明寺川(現在の小泉川)でした。

 

下の写真は、左が光秀軍本陣の右手から見た天王山、右が小泉川に架かる府道67号(旧西国街道)の小泉橋です。
 

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2007_08040319_3一旦は山崎まで進出した光秀はなぜか小泉川の手前まで後退して御坊塚(境野古墳群)に陣を敷いたと言われます。おそらく山崎村と結んだ「禁制」(戦場にしないとの約束)を意識したのでしょう。

 

御坊塚はサントリー京都ビール工場の裏手にあり、御坊塚(境野古墳群)と光秀本陣跡の標識がありました。

 

高さが10mほどの塚に上ってみました。残念ながら木立や竹藪が茂っているため天王山方面はよく見えません。 
 
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これに対する秀吉軍は先鋒の高山右近が高槻城から山崎村に駆けつけ、狭隘な地から南山城国(現在の長岡京市)へ出る山崎村を確保しました。これにより両軍は小泉川を挟んで対峙することになります。この布陣が勝敗に大きく影響したと考えられ、戦上手の光秀が山崎の合戦で自ら不利な布陣を行ったのはやはり解せません。
 

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秀吉軍が押さえた天王山は戦略上の重要拠点ですが戦況にはさほどの影響を与えなかったようです。秀吉が本陣としたのは天王山中腹の宝積寺(ほうしゃくじ)でした。宝寺(たからでら)や大黒天宝寺の別名があります。

 

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2007_08040331_5 宝積寺は天王山山麓の急坂をかなり上った場所にありますが、想像したような展望はありません。山門脇から、木立の隙間越しに、淀川対岸の樟葉駅周辺だけが何とか見えました。 

光秀による指揮の巧みさで序盤は優勢に展開して戦死者の数は秀吉軍の方が多かったと伝えられますが、桂川沿いの戦線を突破された光秀軍は雪崩を打って敗走します。圧倒的な兵力と士気の高さが秀吉軍の勝因だったと思われます。(続く)

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2007年8月19日 (日)

西国街道(その1) 勝竜寺城址

関西旅行のフィナーレは西国(さいごく)街道です。京街道の北側(淀川右岸)を並行して南西へ進み、大阪を経由することなく西国へ向かう街道でした。古くは山陽道とも呼ばれて九州の大宰府まで延びていました。中国地方でも山陽道を西国街道と呼ぶことがあるようです。現在は旧街道と交叉しながら京都と神戸を結ぶ国道171号と、ほぼ旧街道をなぞる府道67号西京高槻線となっています。最初の宿場は山崎宿(大山崎町)、次が芥川宿(あくたがわしゅく、高槻市)でした。

西国街道は京都市南区(東寺近くにあった羅城門、小説や映画「羅生門」のモデル)が起点で、桂川を渡ると向日(むこう)市に入ります。ここには長岡京の大極殿がありました。長岡京はこの向日市と隣の長岡京市一帯に築かれた都で、784年に桓武(かんむ)天皇によって平城京から遷都されましたが、わずか10年で平安京へ再遷都されます。その理由は諸説があって定かではないようです。

東寺口から国道171号を約8km走って長岡京市に入りました。左遷された菅原道真が大宰府へ向かう途中に名残を惜しんだと言われる場所に長岡天満宮が祀られています。今回はこの天満宮ではなく勝竜寺(しょうりゅうじ)城址を訪れました。
 

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この城は明智光秀の三女たま(お玉)が嫁いだ細川忠興の居城です。発掘調査が行われた後、平成に入って城が復元されました。国道171号の勝竜寺交差点を右折し、さらに落合橋手前を右折した住宅地に勝竜寺城公園があります。昔の城の雰囲気を残しながら多聞櫓や掘割もよく復元されていました。
 
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城の横を通る道がガラシャ通りと名付けられているのは都内の春日通りと同じ理由です。また脱線します。春日局は徳川三代将軍家光の乳母ですが、明智光秀の家老であり山崎の合戦後に処刑された斉藤利三の娘のお福です。嫁ぎ先の稲葉正成の子孫が後年に淀藩主となりましたから春日局も淀城に因縁があります。先に訪れた京街道沿いの淀城は、桂川を挟み2kmたらずと近い位置で、山崎の合戦に備えて光秀が城の守りを強化したようです。 

この勝竜寺城は明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の合戦(天王山の戦い)で明智光秀が拠点とした城で、敗色が濃厚となった時点で一旦城内に篭りますが、夜陰に乗じて北門から脱出します。近江の坂本城へ逃れる途中に伏見の醍醐寺と六地蔵に近い小栗栖(おぐるす、現在はおぐりすと呼ぶ)で農民に竹槍で刺されて負傷し(異説もあるようですが)、自害したと伝えられます。

ここまでお読みになった方はもうお気づきと思いますが、今回の旅の本当の目的は明智光秀に縁のある場所を訪れることでした。昨年の秋に日光を訪れて以来、明智光秀に興味を持ち始めたのです。

最初の彦根城はカモフラージュで、これまでに何度も訪れています。光秀の没後40年経った1622年に井伊家によって築かれた城ですから光秀との接点はありませんが、築城に当たっては琵琶湖畔の佐和山城や大津城などの石垣や資材が移築されたようですから無関係とは言えませんが・・・。大阪城はもちろん石山本願寺跡です。

 

勝竜寺城公園の北方、JR長岡京駅の西側を旧西国街道が通っていました。

 

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今も旧家と旧街道がよく保存されています。(続く)

  

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2007年8月16日 (木)

京街道(その6) 大阪城物語

東海道の終点(京街道の起点)である京橋に近い大阪城を訪れました。あらためて説明する必要もない著名な城ですから、今回はその歴史から辿ってみようと思います。

まず7月28日から8月5日まで本丸で特別公開されている重要文化財の「金蔵(きんぞう、かなぐら)」を見学しました。金貨と銀貨を保管した場所で、江戸と大阪の2ケ所にあったそうです。駿府城や甲府城にも小規模な金蔵があったようですが現存するのはここ大阪城だけです。内部は床板の一部が外されており防火・盗難防止策を見ることができました。時代劇のように「御金蔵破り」が一件発生したことをボランティアガイドの方から聞きました。外部者ではなく内部の犯行だったそうです。金蔵の入館料は200円、天守閣入館料(600円)とのセット券は700円に割引されます。

 

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天守閣の内部は8階建てです。最上階の展望台(外に出られます)以外は豊臣秀吉に関する展示物で埋め尽くされていました。重要文化財が展示される3階と4階は撮影禁止。現在の大阪城は徳川幕府によって再建されたものです。城内の説明によると大阪城の経緯は次の通りです。

 

1496年に山科本願寺の別院(大坂御坊)として建立され、山科本願寺が焼き討ちにあってからは、石山本願寺となりました。寺といっても堀・塀・土塁が築かれた城砦でしたが、信長によって本願寺はこの地を追われます。1583年、この跡地に秀吉が大坂城を築城しました。信長の安土城をモデルとしながらも、それを凌駕することを目指したのだそうです。大天守は5層で金銀の装飾が施されていたようです。大坂冬の陣でも落城はしませんでしたが、内堀までが埋め立てられて、実質的に本丸だけの裸城になってしまいます。そして大坂夏の陣で落城することになります。

 

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1619年に幕府直轄領となって大坂城が再建されました。豊臣家の威光を払拭するために、まったく違った大坂城が造られました。普請は各大名に命じて行わせ、近畿の廃城や瀬戸内海の石切り場から集められたそうです。天守閣は1665年に落雷で焼失してしまいます。1868年(明治元年)に鳥羽伏見の戦いに敗れた15代将軍慶喜は大坂城を脱出し、大坂城の大半が焼失し、2度目の落城を迎えます。明治時代には陸軍の軍用地となり、昭和6年(1931年)に古い資料に基づいて天守閣が復元されました。戦災で甚大な被害を受けた大阪城は平成7年から9年に改修工事が行われて現在の大阪城になりました。(大阪城のhpを参考にしました)

金蔵以外にも古い建物を見ながら大坂城を歩いてみました。まずは大手門です。何度か修復されていますが昔の様子を残しています。大手門を挟んで南北にある白壁の土塀、六番櫓、多聞櫓、千貫櫓(落とした者に千貫文与えても惜しくないと信長が言った本願寺の櫓に因む)、乾櫓(戌亥の方角、西北)、焔硝蔵(火薬庫)、金明水井戸屋形、桜門、一番櫓などは重要文化財です。そして大手見付石、模様積みの石垣、本丸の高石垣、算木積みの石垣なども見て歩きました。安土城や坂本城のような野面積みがないことと築城に関わった大名の家紋が刻印されているのが特徴です。

 

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継がれた柱や石組みなど大坂城には多数の謎があるようですが、私にとっての謎は城の名前、つまり古くは「大坂城」であったものが「大阪城」となった理由です。坂本城がある大津市の阪本も同様です。調べてみると江戸時代に縁起が良いとして大阪が使われはじめ、明治元年大阪府が設置された時に大阪に統一されたそうです。読み方も時代劇では「おおざか」と濁音でしたが、今では「おおさか」と変わりました。

大阪城公園の「太陽の広場」を中心に、天守閣・本丸広場と青屋門広場で7月28日から8月5日まで開催されたオオサカキングは今年で4回目を迎える毎日放送の夏祭りです。見たことのない番組キャラクター、フードコートなど大阪の雰囲気が溢れて大阪城全体が夏祭りで盛り上がっています。そして放送局として力を入れた"SAWAYAKA" LIVE 「爽!SO!そう!」には50組以上のアーティストが出演します。

 

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大阪城の西の丸、二の丸、本丸を散策したあと、休憩するつもりで青屋門広場のステージ会場に入りました。炎天下にも拘らず多くの人が集まると、司会者の笑福亭テッペイさんがコテコテの大阪弁で場を盛り上げます。「グックル」の登場です。ボーカルの慎之介君とキーボードの徹也君のデュオに打楽器のコンガが加わりました。なかなかの実力派で5曲を聴きました。次いで登場した「サンタラ」は女性と男性のデュオで、こちらも打楽器のカホンが参加しています。特徴のある歌声は日吉ミミを思い出させます。顔立ちも似ているように思いました。1時間近く観客席に座っていると強い日差しで熱くなったペットボトルのお茶を飲んでも熱中症になりそうです。

 

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公園内の大阪城ホールでは松任谷由美さんの「ユーミンスペクタクル シャングリラⅢ」公演が開催されています。木陰を選びながら京橋口を出て先ほど城内から観た乾櫓、千貫櫓、六番櫓を眺めながら西外堀と南外堀に沿って歩きました。

 

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大阪城巡りはこれで終わりですが、番外として「難波宮跡」へも行ってみました。機会があれば紹介したいと思います。NHKの館内を抜けて谷町駐車場へ戻りました。大変ユニークなシステムの地下駐車場でしかも料金が一日1000円で頭打ちなのも魅力です。

 

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旅はまだまだ続きます。

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2007年8月15日 (水)

京街道(その5) 守口宿と佐太あい宿の湯

府道13号を南下しました。枚方大橋から先は淀川を少し離れた直線道路として守口市に入り、大日(だいにち)交差点で国道1号と合流して松下電器本社前を通過、守口市役所と三洋電機本社を左に見ながら左折すると日吉公園がありました。

 

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三洋電機の裏手角から細い路地に入ると京街道です。一見すると路地裏のようですがベージュ色のカラー舗装がされていることで確認できました。コンクリート壁に京街道の文字が書かれています。車がやっと通行できる狭い道を注意しながら進むと、当時の佇まいは希薄になっていますが、古い街道の雰囲気は感じられます。道標の「のざき」は大東市野崎、野崎参り(野崎観音、慈眼寺)で知られます。「野崎参りは屋形船で~」

 

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文禄堤(京街道の起源)碑、本町橋、古い建物は中華料亭「追立」と徳永(何の店か不明)などを弓形に反った街道で見掛けました。本町2丁目の端の曲がり角にある「守口宿の案内板」に詳しい地図が描かれています。

 

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八島交差点で府道158号(守口門真線)に入ったところには守口宿の様子を今に伝える史跡が残っています。難宗寺角に御仮泊所の石碑があり、道路の反対側には「東海道守口 左京 右大坂」と彫られた道標がありました。京街道で「東海道」の道標を見つけたのはここ1箇所だけです。難宗寺には明治天皇が鳥羽伏見の戦い後の大阪親征時に宿泊されました。近くにある盛泉寺(じょうせんじ)前にある「幻の大阪遷都」の案内板を興味深く読みました。NHKの「その時歴史が動いた」でも取り上げられたテーマです。

 

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室町時代後期にあった守口城の本丸跡に建てられたのが難宗寺で、二の丸跡が盛泉寺になったのだそうです。余談です。この二つの寺はいずれも浄土真宗で、江戸時代に本願寺が東西に分かれた時に、盛泉寺(東御坊)が難宗寺(西御坊)から分かれたのだそうです。八島交差点に戻る途中に目に入った古い屋敷は大塩平八郎縁の書院がある「白井氏邸」です。

 

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2007_08040166国道1号を京都方面に引き返すと大日駅手前に大阪市庭窪浄水場を見かけました。

 

さらに2kmほど進むと寝屋川市に入る直前、金田町4丁目交差点の左手に「ユーバス守口店」がありました。枚方市の極楽湯と同じ郊外型スーパー銭湯です。

 

ロビーはこれと言った特徴がありませんが、天然温泉のユーバスには風呂好きな客に向けた多彩な嗜好があります。料金も大浴場だけを利用する420円のコースとすべての風呂を利用できるロイヤル温泉入浴(700円)、そして会員には朝風呂ロイヤル(午前中は500円)とかけこみロイヤル(深夜は500円)の割引がありました。

 

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大浴場は広々とした洗い場と大きな浴槽、ジャグジー、ジェットバス、電気風呂などがあります。ロイヤル料金では、ジェット寝風呂、エステ風呂、歩き風呂、エステ座り湯、水風呂、塩を使うミストサウナ、赤外線サウナ、さらに露天エリアでは「天神の滝」が流れ落ちる岩風呂が二段になっており、打たせ湯、露天デッキと寝転び湯、源泉のままの壷湯と多彩な風呂が提供されるのが嬉しい。

 

新宿の十二社天然温泉で味をしめたことでここでも低温源泉の壷湯をたっぷりと楽しみました。水風呂以外はすべて天然温泉を使用していると説明されています。918m堀削して「大阪層群下部層」から湧き出た湯の泉質は単純温泉(低張性-弱アルカリ性-低温泉)、温度は33.6度と低い。源泉の名「佐太あい宿の湯」は、京街道の守口宿と枚方宿の間の佐太にあった旅人休憩宿「間宿(あいしゅく)」に因んで命名されたそうです。歴史を感じさせる名称と湯滝のある施設は私好みのスーパー銭湯でした。(続く)

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2007年8月14日 (火)

京街道(その4) 枚方宿と極楽湯

淀川の堤防上を伸びる府道13号を走り、枚方大橋の手前、桜町交差点で右折して淀川河川敷の「淀川河川公園」を訪れました。広大な園内で安藤広重が描いた「くらわんか舟」の浮世絵碑とくらわんか舟とおぼしき模型を見つけました。

 

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堤防を横切って堤防下に下りると狭い生活道路に入りました。枚方市は京街道筋を整備するとともに道標や案内板を設けて散策しやすくしています。西見附跡の先に市立枚方宿鍵屋資料館がありました。江戸時代に枚方宿の船宿として栄えた「鍵屋」を歴史資料館として改装したもので、かつての面影をそのまま残す貴重な建造物です。この周辺には船番所跡、本陣跡、古い民家などが集中しています。

 

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京阪の線路に沿って枚方宿の町並みが続きます。ベージュ色にカラー舗装されていますので間違えることはありません。枚方公園駅から枚方駅方向に進みました。駅前のビオルネ構内では車が進入禁止です。府道
13号へ迂回してラポール枚方前交差点から京街道へ戻りました。街道を真っ直ぐ進み問屋役人邸跡を過ぎると淀川支流天野川の堤防に行き当たりました。ここが東見附跡で枚方宿の東端です。

 

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堤防上の府道13号で楠葉まで戻ります。この地域は比較的新しい住宅地でマンションが目立ちます。左前方に見えるのは天王山でしょう。楠葉交差点を右折して京阪のガードを潜る。樟葉駅横の脇道に入って折れ曲がった道を進むと京街道の真新しい道標を見つけました。路面も枚方宿と同様にベージュ色のカラー舗装がされて一般道の黒い路面と際立っていました。

 

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ここまで来たのは楠葉に大阪市水道局の取水場があるからです。狭い京街道の先に広い施設がありました。施設内では何か工事が行われているようですが全貌が見えないために淀川の堤防
(府道13号)に上がってみました。

 

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枚方市の日帰り温泉へ向かうことにしました。樟葉駅から府道18号を南下、船橋交差点を左折して東山方面へと向かいました。中の池公園を過ぎた交差点を左折したところに目当ての「極楽の湯」枚方店がありました。住宅地に接した工業団地に「ゆ」のマークが目立ちます。2階建ての駐車場と門構えのある施設はなかなかのものです。自動販売機でチケットを購入すると入館料は390円と格安でした。タオルや館内着のレンタルがあります。施設内は想像したよりも広々としています。

 

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内湯は体育館のような高い天井が温水プールへ来たような印象を与えます。男湯と女湯の仕切りが土塀のようにデザインされていることはスーパー銭湯らしさを表しています。普通湯の気泡風呂と電気風呂、日替わり湯(ハッカ葉)、エステバス、座り湯、寝湯、ジェットバス、水風呂が並んでいます。

 

露天エリアには岩風呂が二つあり、こちらは1000mの地下から湧き出た天然温泉です。無色透明の湯でした。蒸し風呂は暗い照明と熱い蒸気が小振りのサウナに充満してなかなかのインパクトがあります。夕涼み用かと思わせる御座が敷かれたスペースやベンチには大勢の人が休憩していました。泉質はナトリウム・カルシウム塩化物温泉(低張性・弱アルカリ性・低温泉)、つくも(九十九)の湯源泉の温度は31.5度とのこと。

家族連れが圧倒的に多く、海水浴帰りのような若い女性グループや勤め帰りの若い男性なども見かけました。ロビーには食事処もあり、家族で楽しむためのスーパー銭湯に徹していることと、温泉が少ない大阪にあって格安の天然温泉であることが人気の秘密でしょう。ゆっくり温泉を楽しみたい私は早々に引き上げましたが、夕方でなければまた違った印象だったかも知れません。工業団地から出てくる勤め帰りの車で渋滞が始まっていました。(続く)

旅行後記: 樟葉と楠葉

樟葉駅周辺では「楠葉」と「樟葉」の二つの表記があり不思議でした。「くずはモール」「くずはタワーシティ」など平仮名で「くずは」と表記する施設もあります。帰宅後に調べると意外な理由でした。もともとは「楠葉村」でしたが明治22年に隣の「船橋村」と合併する際の抵抗を和らげるため「樟葉村」としたそうです。この後に開通した京阪の駅は「樟葉駅」となり、小学校も「樟葉」でした。昭和なって枚方町と合併した時に村名の樟葉が消滅(字名の楠葉は影響されず存続)したため、戦後に設立された中学校は「楠葉」を採用しています。小学校と中学校が異なる漢字を使っていることは珍しいと思います。

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2007年8月13日 (月)

京街道(その3) 淀宿

伏見の大手筋通りから国道1号の大手筋交差点を横切って府道13号(旧京阪国道)に入りました。定規で引いたような直線道路を4kmほど進むと京都競馬場です。すぐ先の納所(のうそ)交差点を左折して京阪淀駅へ向かい手狭な駅前にあるコインパーキングに車を停めました。すぐ横の稲葉神社境内の駐輪場にあふれる自転車とバイクの間を抜けると淀城址でした。現在は公園になっています。
 
 

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それでも内堀の一部と石垣が淀城の様子を残しています。左手に一段と高くなった石垣が天守跡ですが何故か立ち入り禁止になっていました。この城は江戸初期に築城され長く淀藩稲葉家の居城でした。山崎の合戦で使われた古淀城は、この場所ではなく、少し北方の納所付近にあったそうです。名前から連想する秀吉の側室茶々(淀殿、淀の方)の淀城は古淀城を修築したものと伝えられます。淀殿の名は居城であった淀城に由来するものですが後世になって付けられたとする説があります。
 
 

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淀川の名前の由来は川の流れが遅くて水がよどんでいたことから付けられたと言われています。また地名の淀も室町時代までは伏見の港である伏見津(ふしみつ)と同様に淀津(よどのつ)と呼ばれました。

2007_08040083_4 徳川期の淀城は伏見城や古淀城などを移築して二代将軍秀忠の命によって築城されました。城の周囲を宇治川、桂川、木津川に囲まれた水城だったそうです。

 

稲葉神社は、妻が春日局となり自身も譜代大名となった稲葉正成を、後に淀藩主となった子孫が祀ったものです。稲葉家は明治になるまで10万石の大名(淀藩主)として約150年も続きました。

 

現在は堀のほとんどが埋め立てられて当時の水城の様子が窺い知れません。また淀城下を抜けていた京街道の淀宿の史跡は残念ながら何も残されていませんでした。

府道13号は八幡市に入ると左手に大きくカーブして宇治川と木津川を御幸(ごこう)橋で渡ります。今春に背割堤の桜を見に来た場所です。

 

「岩清水八幡宮」は御幸橋正面の男山にあり、筒井順慶に纏わる日和見の故事「洞が峠(洞ヶ峠)を決め込む」の場所はこの男山の南側、大阪府枚方市との境界にあります。ただし筒井順慶が「洞ヶ峠」まで出陣した事実はなく、明智光秀が合戦前に大和から来るであろう縁戚の筒井順慶を出迎えるために洞ヶ峠まで赴いたようです。(続く)

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2007年8月12日 (日)

京街道(その2) 伏見宿

伏見は京都に近く、城下町、宿場町、門前町、そして酒造りなどいくつもの顔をもっています。現在は伏見区として京都市に属していますが、伏見市として独立していた時もあるのです。伏見桃山陵と秀吉が築城した伏見城、延長された東海道(京街道)の宿場町、伏見稲荷・城南宮・御香宮神社など史跡が多い地です。地名の由来は豊かな地下水「伏水(ふせみず)」と言われます。

2007_08040093 醍醐寺と六地蔵宿に立ち寄ったあと、京阪宇治線六地蔵駅の先で外環状線に入り、桃山東口の交差点をさらに右折すれば伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)です。広大な御陵に明治天皇が祀られています。秀吉が築城した伏見城の本丸跡に築かれたものです。隣接地には殉死した乃木大将を祀った乃木神社があります。

この伏見城は関が原の合戦時に東軍の城であったため炎上・落城しました。家康が復旧工事を行い伏見城は復活しますが、後に家康が隠居すると廃城となり取り壊されます。この時に建物が京都の寺社や大名に与えられ、天守は二条城、石垣は淀城や大阪城の修復に使われました。大手門は伏見の御香宮神社の山門、西本願寺の唐門、櫓は福山城の伏見櫓、江戸城の伏見櫓(二重橋の後方に聳えている)、大阪城の伏見櫓(第二次世界大戦時に焼失)などに移されました。城址に桃が植えられて桃の名所となったことで桃山の地名ができたのだそうです。

大正時代になると城址のほとんどが明治天皇陵となったため、元の場所には城の痕跡はないとされます。現在の伏見城は少し離れた花畑の跡に1964年に建てられた遊園地内の模擬天守で、桃山にあることから伏見桃山城と呼ばれています。2003年に閉園されると同時に城も閉鎖となり、訪れた時には異様な雰囲気が漂っていました。安土城の壮麗な復元を見た直後であり、京都周辺に残る建物から往時の伏見城を想像すれば良かったと悔やまれます。周辺の桃山町に豪華な邸宅が立ち並んでいることにも驚きました。

 

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御香宮(ごこうのみや)神社の山門に立ち寄ったあと、竹田街道を下がり、京街道の始点である京橋手前を左手に折れると、坂本竜馬とおりょうで知られる船宿寺田屋がありました。その並びは観光コースとなっており、黄桜と月桂冠の見学用施設がありました。伏見には歴史のある酒蔵が多数あり、黄桜と月桂冠のほかにも、キンシ正宗、松竹梅、美山などの銘柄で知られる27の蔵元が酒造組合に加盟しているそうです。

 

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伏見宿は伏見城の外堀であった豪川(ほりかわ)と宇治川(淀川)を利用する川港でもありました。鉄道が開通して一度は衰退しますが昭和初期には水運の利点が見直されて活況を呈するようになります。しかし再び衰退の道をたどり、伏見港は昭和43年に埋め立てられて伏見港公園となっています。平成に入ると十石舟と三十石舟が復活されて遊覧船として活躍しています。十石舟は月桂冠大倉記念館裏(弁天橋の下)乗り場から宇治川派流で
三栖閘門(みすこうもん)までの往復コースを遊覧できます。

 

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1929年
(昭和4年)に建造された三栖閘門は伏見城外堀であった濠川と宇治川の水位差を調整する閘室を持つ水門です。パナマ運河で使われているものと原理は同じです。なお三十石舟のコースも同じですが、乗り場は寺田屋前の寺田浜で、季節限定で運行されているようです。次の機会にはぜひ十石舟に乗ってみたいと思います。(続く)

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2007年8月11日 (土)

京街道(その1) もうひとつの東海道

国道1号に戻って大津市大谷町の逢坂山関跡碑を見たあと山科大塚交差点から旧奈良街道(大津道または大津街道とも呼ばれる)に入りました。江戸期初頭に延長された東海道(伏見街道)はここから伏見宿を経て大阪へ至ります。

 

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太閤秀吉が晩年に催した「醍醐の花見」で知られる醍醐寺に立ち寄りました。すぐ先の六地蔵宿を抜ければ伏見宿です。

 

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伏見から先は京街道(大阪街道とも呼ばれる)と名前が変わりました。伏見の大手筋通りから府道13号京都守口線(旧京阪国道)で淀城跡がある淀へ。現在は京都競馬場があることで知られます。宇治川と木津川の御幸橋を渡ると今春に訪れた岩清水八幡宮のある八幡市で、ここから京街道は淀川の左岸を枚方・守口へと向かいます。

2007_08040181 京街道は秀吉により大阪城と淀城・伏見城を結ぶ最短ルートとして淀川左岸の堤防道(文禄堤)として建設されました。江戸時代に入ると幕府の公用道路として参謹交代の大名も利用しました。経済的地位が高まった大阪を重視した幕府は、それまで三条大橋を終点としていた東海道を大阪まで延長して、京街道が東海道として正式に認められました。これにより東海道53次は伏見、淀、枚方、守口の4宿が加わって57次となりました。しかし京都や大阪では東海道とは呼ばれず、京街道あるいは大阪街道の名がそのまま使われています。東国の徳川家康よりも太閤秀吉の方に親しみを感じていたからかも知れません。

残念なことに京街道の面影を残す景観はかなり失われていますが、枚方市では京街道筋を整備するとともに道標や案内板を設けて散策しやすくなっていました。

守口市でも同様によく整備され、旧京街道の碑、文禄堤跡、本町一・二丁目の町並みが残っていました。大阪市内では大阪城京橋口近く、京街道の終点である京橋の袂にある日本経済新聞社裏手に大阪城の石垣遺構が保存されていました。なお東海道の終点は後年になって京橋から高麗橋まで延長されます。

次回以降は京街道の各宿場を紹介しましょう。(続く)
 
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2007年8月 8日 (水)

近江路の城(その3) 坂本城址

安土を出発しました。守山宿を過ぎた草津宿で中山道が東海道と合流します。国道1号の瀬田川大橋を渡った国道口交差点を左手に反れて「瀬田の唐橋」と「石山寺」に立ち寄りました。瀬田の唐橋は近江八景のひとつに数えられる景勝地であるとともに交通と軍事の要衝でもあり、古くは当時都であった大津宮に在(あ)った大友皇子(おおとものみこ)と一旦東国に脱出した大海子皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が皇位をめぐって争った壬申(じんしん)の乱(672年)の戦場になりました。近くの石山寺は紫式部が源氏物語の着想を得た場所と伝えられます。

 

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大津市街地に入り国道161号で三井(みい)寺方面へ向かいました。梵鐘(三井の晩鐘)が有名で、108の煩悩にちなんだ突起(乳)があることが特徴です。
国宝が10(64)重要文化財が42(720) ある名刹です。

今回は三井寺をパスして先を急ぐことにしました。琵琶湖の西岸を7-8km北上すると阪本に到着です。阪本は比叡山に登る阪本口があることで知られます。麓で広大な規模を誇る日吉大社の脇から比叡山阪本ケーブルで延暦寺の近くまで上ることができます。

 

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比叡辻から南へ1km下がった坂本城址公園(北大津湖岸緑地)に坂本城址碑と光秀像がありました。琵琶湖畔には後世のものかもしれませんが石垣の跡が残っています。本丸跡の碑は、比叡辻の近く、ハイテク企業キーエンスの施設前にありました。

 

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宣教師
ルイス・フロイスが安土城に次いで華麗な城であると伝えたとの説明書きがありました。その当否はさておき、築城の才があった光秀による坂本城には大天主と小天主があったそうです。坂本城は光秀の訃報を聞いた娘婿明智左馬助秀満が退去した直後に炎上します。その後、修復されて丹羽長秀に与えられますが、後に廃城となり、大津城の築城時に資材として使われたようです。

光秀の像と並んで光秀の句碑「われならで 誰かは植えむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風」がありました。信長に託した足利幕府の再興など理想世界への思いと比叡山焼討ちなど信長の冷徹な命令への服従が複雑に絡み合っていたのでしょう。文武に卓越した能力を持つ光秀は異例の速さで抜擢を受け近江坂本城主として五万石の大名に取り立てられますが、その志のために自らを悲劇へと導くことになります。

 

後世の作り語(家康の饗応時に信長から叱責された話)は論外として、領地を2度変更された光秀の私憤による謀反とは考えにくいと思います。足利幕府の崩壊、比叡山延暦寺の焼き討ち、石山本願寺との戦い、そして高野山攻めで不本意ながら重要な役割を担ったことは下地になったかも知れません。謀反人の汚名を着ることになっても朝廷を蔑(ないがし)ろにし始めた信長を排除しなければとの思いが強い動機になったのではないでしょうか。

 

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日吉大社の北にある西教寺にも立ち寄りました。坂本城から移築された城門(県道に面した山門)と光秀・内室煕子(ひろこ)の墓が本堂の左手にありました。光秀はこの寺の檀徒だったそうです。本堂下から陽光で輝く琵琶湖が望めました。

旅はまだ続きます。

 

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2007年8月 7日 (火)

近江路の城(その2) 安土城址

国道8号(北国街道)は旧中山道よりも琵琶湖寄りのルートですが、中山道の宿場であった高宮町と愛知(えち)川(現在は合併により愛荘町)の中宿交差点のすぐ先で合流して安土町に入ります。ちなみに中山道と並走するこの区間の北国街道は朝鮮通信使が江戸と往来するために利用したことから朝鮮人街道とも呼ばれたそうです。琵琶湖西岸を敦賀へ向かう北国海道が西近江路と呼ばれたように、北国街道は東近江路とも呼ばれました。時代によって呼び名が変わったようで近江の街道名は複雑です。

西生来(にししょうらい)町交差点を右折して安土駅へ向かい、駅裏口にある「城郭資料館」(入館料200円)に立ち寄りました。安土城のひな形(1/7と1/20の縮尺)を見ると安土城への期待が大きく膨らみます。なお1/20縮尺のひな形は電動で二つに別れる仕掛けがあります。

 

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次いで訪れた「信長の館」(入館料は500円)には1992年にスペインで開催されたセビリア万国博覧会に出展された安土城天主の5階と6階を原寸で復元した模型が展示されています。信長は天守閣ではなく天主閣と命名したそうです。

 

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模型と言っても実物かと思わせる豪華さで、天界をイメージしたとされる正八角形の5階は朱と黄金に輝いています。上の6階は正方形で、外側は金箔が貼られ、内側は黒漆塗りで、中国の道教と儒教の教義が描かれています。宣教師のルイス・フロイスが安土城の天主はヨーロッパの城にない壮麗さがあると絶賛したと伝えられていますが、一年前にヨーロッパの城巡りをした経験のある私も同感です。注)館内はフラッシュ禁止

 

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いよいよ安土城跡のある安土山です。
総見寺が徴収する入場料(拝観料)の500円を支払いました。

 

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大手道の一直線に伸びる長い石段を登りました。上部では葛折(つづらおり)になっていますが全長は180mもあるそうです。短期間で築城されたためか石仏や石塔も石材として使われていました。黒金門には自然石を利用した野面(のずら)積みされた石垣が二の丸の高石垣へ繋がっています。多様な工法が使われたようで、穴太(あのう)積みが代表的と説明されていました。この門から先は直角に何度も曲がる路が続きます。後世の城郭では常識となる枡形の原型なのでしょう。

 

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信長廟は二の丸跡に建つ供養塔です。本能寺で信長の遺体が見つからなかったことから秀吉が供養のために建てたとされます。

 

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琵琶湖面から約110m(標高約200m)の安土山山頂の天主閣跡には大きな礎石だけが並んでいました。

 

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2007_08040054 城郭資料館と信長の館で見た安土城天主のひな形と天主上部の復元を思い浮かべました。今は周囲の木立に阻まれて視界は良くありません。北の方角だけが開けていました。(右の写真)山頂を吹き抜ける涼風が汗を吹き飛ばしてくれるようで気持ちがよい。築城当時は琵琶湖の地形を巧みに利用して三面の堀としましたが、昭和に入ってそれらは埋め立てられて小さくなった「西之湖」と「伊庭内湖」だけが残っています。

安土城の建設と同時に創建された総見寺跡にも石垣が残っていました。ここからは「西之湖」が良く見えます。築城当時は天主からの眺望もこれ以上だったのであろうと想像しながらしばし見とれていました。総見寺の仁王門にある金剛力士立像は国指定重要文化財です。ちなみに現在の総見寺は大手道の右手にあります。仁王門から石段を下りて、左手のハイキングコースのような路を歩くと大手門の入り口に戻りました。大手門前の駐車場からこのコースを1時間半ほどで廻れました。

 

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旅行前に安土城について調べたところ、文書による記録が少ないことと発掘調査が続いているために、全容はまだ解っていないようです。このためにいくつかの論争があります。

2007_08040038_3 安土城天主に火をはなったのは、明智光秀の娘婿である明智秀満とする説と信長の次男である織田信雄(のぶかつ)とする説などがあります。私は宣教師の記述がある後者が有力ではないかと思います。秀吉の天下になると安土城は廃城となります。徳川治世下では信長の清洲城と岐阜城がいずれも取り壊されて名古屋城と加納城の築城のための資材として使われたように、前の権力者の威光を残さないことが背景にあったと推測されます。

2つ目は信長の天下布武の拠城が安土に築かれた理由です。京都に近いこと(当時1日で移動できる距離)、東国や北国を結ぶ街道が多数あったこと、何と言っても琵琶湖に面した場所は防備に適していることが挙げられます。琵琶湖の水運も利点であったのかも知れません。京都市中や郊外でなかったのは朝廷と距離を保つ政治的な配慮によるものでしょう。

もうひとつの疑問は大手道に入った左右にある屋敷跡です。左手が羽柴秀吉、右手が前田利家の館跡と伝えられています。いずれも「伝何々邸」と書かれた碑がありました。秀吉はともかく前田利家の方は腑に落ちません。柴田勝家や明智光秀ならば納得できるのですが・・・。窓口の方に聞いてみました。「江戸時代からの伝承ですが、前田利家邸については時々同じようなことを質問されます。当時の前田利家は確かに格が下でしたね。」と親切に答えてくれました。天主に近づくにつれて織田家縁の人達や森蘭丸の邸跡があったのは自然だと思います。(続く)

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2007年8月 6日 (月)

近江路の城(その1) 彦根城

「思い立ったが吉日」と関西地方への旅に出ました。当ブログで紹介した「お江戸日本橋の唄」に習って早立ちです。車の少ない早朝の東名高速を順調に走り、ヘッドライトを消したのは掛川IC付近です。その後も快適なドライブが続き、名神高速の彦根ICを降りて彦根城に到着したのはちょうど午前8時でした。

大手門近くの駐車場に車を停め、堀端を歩いて大手門橋から天守閣へと向かいました。長い坂道を上って枡形を抜けると天秤櫓(国の重要文化財)です。両側に隅櫓を配した姿が天秤に似ていることで付けられたユニークな門です。一見すると左右対称のようですが、よく観察すると左右の櫓の意匠が微妙に違い、石垣も左右で石積みの方法が異なります。右側の高石垣が牛蒡(ごぼう)積みで、左側の整然とした石垣は幕末近くに修理された落とし積みと説明されていました。

 

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堀切に架けられた廊下橋を渡り、時報鐘と太鼓門櫓(重要文化財)を抜けて本丸跡に入ると天守閣が聳えていました。小ぶりですがいくつもの様式を組み合わせた屋根と牛蒡積みの石垣に特徴があり、なかなか見応えがあります。牛蒡積みは雑な積み方に見えますが自然石を使った強固な工法なのだそうです。時間が早すぎたようで天守閣の入り口で係りの人がまだ準備中です。

  

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本丸跡をぶらぶらしていると「どうぞ」と声が掛かりました。さっそく天守に入ると、立派な梁が目に入りました。そして急な階段で最上階の3階へ上がると、琵琶湖と彦根市を見渡すことができました。

 

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2007_08040015ほかには見学者がなく天守からの展望をゆっくり楽しみました。残念ながら3階の廻縁(まわりえん)には出られません。

彦根城は、姫路城や松本城、そして先日訪れた犬山城とともに天守閣が国宝に指定された数少ない城です。多聞櫓も国宝であり、西の丸三重櫓と佐和口多聞櫓は国の重要文化財に指定されています。

 

2007_08040001江戸期初頭に築城された彦根城は戦に使われたことがなく、彦根藩の権威を示す存在だったようです。築城に際しては近江の佐和山城(石田光成の居城)、長浜城(羽柴秀吉の居城)、大津城(京極家)などの石垣や用材が使われたと伝えられます。

 

城内には世界遺産を目指すスローガンとマスコット猫「ヒコニャン」が溢れ、内堀で白鳥がのんびり泳いでいました。(続く)

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2007年8月 5日 (日)

阿久悠さんを悼む

7月下旬から2週間ほど関西旅行をしている間に私が好きな作詞家阿久悠さんが逝去されました。NHKの追悼番組を観て偉大な作詞家であったことを再認識するとともに、私よりもひとまわり近く年長の阿久悠さんの感性の豊かさにあらためて驚きます。

阿久悠さんのhpでプロフィールを覘くと、広告会社でCM製作に携わったあと放送作家となります。そして作詞家としてデビューしてからの40年間で5000曲以上を作詞し、6800万枚を越えるシングルレコード(あるいはCD)を売り上げたことは他者の追従を許さない実績です。小説家としても出色で、代表作の「瀬戸内少年野球団」は夏目雅子さんの主演で映画化されています。

曲のレパートリーも演歌、ポップス、アニメと幅広いのです。代表曲はレコード大賞を獲得した「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」「雨の慕情」、そしてカラオケで人気の高い「津軽海峡冬景色」「時代遅れ」「熱き心に」「時の過ぎ行くままに」「もしもピアノが弾けたなら」「居酒屋」「舟歌」「嫁にこないか」でしょう。

清純派歌手向けの「コーヒーショップで」「思秋期」「ロマンス」「狼なんか怖くない」、異色な曲は「絹の靴下」「白い蝶のサンバ」「どうにもとまらない」「ざんげの値打ちもない」「笑って許して」、そして大ヒットしたのはピンクレディの「ペッパー警部」「UFO」やフィンガーファイブの「個人授業」「恋のダイヤル6700」、アニメ主題歌の「宇宙戦艦ヤマト」「ピンポンパン体操」などもあります。

忘れられないのは「ジョニーへの伝言」と「五番街のマリー」の詩の斬新さです。

“ジョニーが来たなら伝えてよ”

”二時間待ってたと”

”割と元気よく 出て行ったよと”

”お酒のついでに話してよ ・・・・・” 

日本語を大切にした阿久悠さんの詩は平易な言葉を使いながら、無駄な修飾語を削ぎ落として、最初の1行でドラマのような情景を聴く人に思い浮かべさせます。これからもカラオケで阿久悠さんが作詞された「勝手にしやがれ」「また逢う日まで」「もしもピアノが弾けたなら」などの曲を楽しもうと思います。

ご冥福をお祈りします。

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