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2007年8月 8日 (水)

近江路の城(その3) 坂本城址

安土を出発しました。守山宿を過ぎた草津宿で中山道が東海道と合流します。国道1号の瀬田川大橋を渡った国道口交差点を左手に反れて「瀬田の唐橋」と「石山寺」に立ち寄りました。瀬田の唐橋は近江八景のひとつに数えられる景勝地であるとともに交通と軍事の要衝でもあり、古くは当時都であった大津宮に在(あ)った大友皇子(おおとものみこ)と一旦東国に脱出した大海子皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が皇位をめぐって争った壬申(じんしん)の乱(672年)の戦場になりました。近くの石山寺は紫式部が源氏物語の着想を得た場所と伝えられます。

 

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大津市街地に入り国道161号で三井(みい)寺方面へ向かいました。梵鐘(三井の晩鐘)が有名で、108の煩悩にちなんだ突起(乳)があることが特徴です。
国宝が10(64)重要文化財が42(720) ある名刹です。

今回は三井寺をパスして先を急ぐことにしました。琵琶湖の西岸を7-8km北上すると阪本に到着です。阪本は比叡山に登る阪本口があることで知られます。麓で広大な規模を誇る日吉大社の脇から比叡山阪本ケーブルで延暦寺の近くまで上ることができます。

 

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比叡辻から南へ1km下がった坂本城址公園(北大津湖岸緑地)に坂本城址碑と光秀像がありました。琵琶湖畔には後世のものかもしれませんが石垣の跡が残っています。本丸跡の碑は、比叡辻の近く、ハイテク企業キーエンスの施設前にありました。

 

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宣教師
ルイス・フロイスが安土城に次いで華麗な城であると伝えたとの説明書きがありました。その当否はさておき、築城の才があった光秀による坂本城には大天主と小天主があったそうです。坂本城は光秀の訃報を聞いた娘婿明智左馬助秀満が退去した直後に炎上します。その後、修復されて丹羽長秀に与えられますが、後に廃城となり、大津城の築城時に資材として使われたようです。

光秀の像と並んで光秀の句碑「われならで 誰かは植えむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風」がありました。信長に託した足利幕府の再興など理想世界への思いと比叡山焼討ちなど信長の冷徹な命令への服従が複雑に絡み合っていたのでしょう。文武に卓越した能力を持つ光秀は異例の速さで抜擢を受け近江坂本城主として五万石の大名に取り立てられますが、その志のために自らを悲劇へと導くことになります。

 

後世の作り語(家康の饗応時に信長から叱責された話)は論外として、領地を2度変更された光秀の私憤による謀反とは考えにくいと思います。足利幕府の崩壊、比叡山延暦寺の焼き討ち、石山本願寺との戦い、そして高野山攻めで不本意ながら重要な役割を担ったことは下地になったかも知れません。謀反人の汚名を着ることになっても朝廷を蔑(ないがし)ろにし始めた信長を排除しなければとの思いが強い動機になったのではないでしょうか。

 

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日吉大社の北にある西教寺にも立ち寄りました。坂本城から移築された城門(県道に面した山門)と光秀・内室煕子(ひろこ)の墓が本堂の左手にありました。光秀はこの寺の檀徒だったそうです。本堂下から陽光で輝く琵琶湖が望めました。

旅はまだ続きます。

 

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