西国街道(その4) 高山右近
芥川宿は山崎の合戦で活躍した高山右近の高槻城下にありました。その高槻城も、明治に入って旧国鉄の東海道本線が敷設される時に取り壊されて石資として使われたため、その遺構はほとんど残っていません。昭和の初頭には阪急京都線もほぼ同じルートに建設されて交通の便が良くなったことで高槻や茨木などの旧宿場町がさらに発展することになります。城跡公園には復元された石垣の一部と高山右近の銅像があるだけのようですから、今回は立ち寄らずに通り過ぎることにしました。
ここで西国街道巡りを小休止して、高山右近というユニークな人物を紹介します。
高山右近はキリシタンであることから数奇な運命をたどった興味深い存在です。父の高山友照とともに下克上で高槻城主になりますが、荒木村重の反乱を鎮圧しようとした信長の命に従わず城主の地位を返上してしまいます。この行動は結果として信長の信任を得ることになり再び高槻城主となり、信長が倒れた後は山崎の合戦で秀吉の勝利に貢献したことで加増され、その後の論功で明石6万石を与えられます。
しかし後に秀吉がキリシタン禁制令を出すと、他の大名が棄教するなか、またもやその地位を返上してしまいます。その後は高山右近に好意を持つ小西行長や前田利家の居候(客人)として過ごします。徳川幕府がキリシタン追放令を出すと、慶長19年(1614年)に当時スペインの統治下にあったフィリピンに脱出し、12月にマニラへ到着した直後に病を得て、翌年初めに没します。大名の地位よりもキリシタンとしての信仰を貫く一生を送った人なのです。
ちなみにフィリピンとはスペイン人がフィリッペ二世にちなんで付けた国名です。それまでは「ルソン(呂宋)」と呼ばれアジアと中近東の中継貿易で栄えました。現在もルソン島の名として残っています。小学生の頃(昭和31年)に聴いたラジオ番組・新諸国物語「風雲黒潮丸」の主題歌にも登場しました。”黒潮騒ぐ海超えて、風にはためく三角帆、目指すは遠い夢の国、ルソン、アンナン(ベトナム)、カンボジア、遥かオランダ、イスパニア(スペイン)”の歌詞を思い出しました。
次回はいよいよ上方(かみがた)旅行記の最終回です。
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