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2007年8月 7日 (火)

近江路の城(その2) 安土城址

国道8号(北国街道)は旧中山道よりも琵琶湖寄りのルートですが、中山道の宿場であった高宮町と愛知(えち)川(現在は合併により愛荘町)の中宿交差点のすぐ先で合流して安土町に入ります。ちなみに中山道と並走するこの区間の北国街道は朝鮮通信使が江戸と往来するために利用したことから朝鮮人街道とも呼ばれたそうです。琵琶湖西岸を敦賀へ向かう北国海道が西近江路と呼ばれたように、北国街道は東近江路とも呼ばれました。時代によって呼び名が変わったようで近江の街道名は複雑です。

西生来(にししょうらい)町交差点を右折して安土駅へ向かい、駅裏口にある「城郭資料館」(入館料200円)に立ち寄りました。安土城のひな形(1/7と1/20の縮尺)を見ると安土城への期待が大きく膨らみます。なお1/20縮尺のひな形は電動で二つに別れる仕掛けがあります。

 

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次いで訪れた「信長の館」(入館料は500円)には1992年にスペインで開催されたセビリア万国博覧会に出展された安土城天主の5階と6階を原寸で復元した模型が展示されています。信長は天守閣ではなく天主閣と命名したそうです。

 

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模型と言っても実物かと思わせる豪華さで、天界をイメージしたとされる正八角形の5階は朱と黄金に輝いています。上の6階は正方形で、外側は金箔が貼られ、内側は黒漆塗りで、中国の道教と儒教の教義が描かれています。宣教師のルイス・フロイスが安土城の天主はヨーロッパの城にない壮麗さがあると絶賛したと伝えられていますが、一年前にヨーロッパの城巡りをした経験のある私も同感です。注)館内はフラッシュ禁止

 

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いよいよ安土城跡のある安土山です。
総見寺が徴収する入場料(拝観料)の500円を支払いました。

 

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大手道の一直線に伸びる長い石段を登りました。上部では葛折(つづらおり)になっていますが全長は180mもあるそうです。短期間で築城されたためか石仏や石塔も石材として使われていました。黒金門には自然石を利用した野面(のずら)積みされた石垣が二の丸の高石垣へ繋がっています。多様な工法が使われたようで、穴太(あのう)積みが代表的と説明されていました。この門から先は直角に何度も曲がる路が続きます。後世の城郭では常識となる枡形の原型なのでしょう。

 

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信長廟は二の丸跡に建つ供養塔です。本能寺で信長の遺体が見つからなかったことから秀吉が供養のために建てたとされます。

 

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琵琶湖面から約110m(標高約200m)の安土山山頂の天主閣跡には大きな礎石だけが並んでいました。

 

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2007_08040054 城郭資料館と信長の館で見た安土城天主のひな形と天主上部の復元を思い浮かべました。今は周囲の木立に阻まれて視界は良くありません。北の方角だけが開けていました。(右の写真)山頂を吹き抜ける涼風が汗を吹き飛ばしてくれるようで気持ちがよい。築城当時は琵琶湖の地形を巧みに利用して三面の堀としましたが、昭和に入ってそれらは埋め立てられて小さくなった「西之湖」と「伊庭内湖」だけが残っています。

安土城の建設と同時に創建された総見寺跡にも石垣が残っていました。ここからは「西之湖」が良く見えます。築城当時は天主からの眺望もこれ以上だったのであろうと想像しながらしばし見とれていました。総見寺の仁王門にある金剛力士立像は国指定重要文化財です。ちなみに現在の総見寺は大手道の右手にあります。仁王門から石段を下りて、左手のハイキングコースのような路を歩くと大手門の入り口に戻りました。大手門前の駐車場からこのコースを1時間半ほどで廻れました。

 

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旅行前に安土城について調べたところ、文書による記録が少ないことと発掘調査が続いているために、全容はまだ解っていないようです。このためにいくつかの論争があります。

2007_08040038_3 安土城天主に火をはなったのは、明智光秀の娘婿である明智秀満とする説と信長の次男である織田信雄(のぶかつ)とする説などがあります。私は宣教師の記述がある後者が有力ではないかと思います。秀吉の天下になると安土城は廃城となります。徳川治世下では信長の清洲城と岐阜城がいずれも取り壊されて名古屋城と加納城の築城のための資材として使われたように、前の権力者の威光を残さないことが背景にあったと推測されます。

2つ目は信長の天下布武の拠城が安土に築かれた理由です。京都に近いこと(当時1日で移動できる距離)、東国や北国を結ぶ街道が多数あったこと、何と言っても琵琶湖に面した場所は防備に適していることが挙げられます。琵琶湖の水運も利点であったのかも知れません。京都市中や郊外でなかったのは朝廷と距離を保つ政治的な配慮によるものでしょう。

もうひとつの疑問は大手道に入った左右にある屋敷跡です。左手が羽柴秀吉、右手が前田利家の館跡と伝えられています。いずれも「伝何々邸」と書かれた碑がありました。秀吉はともかく前田利家の方は腑に落ちません。柴田勝家や明智光秀ならば納得できるのですが・・・。窓口の方に聞いてみました。「江戸時代からの伝承ですが、前田利家邸については時々同じようなことを質問されます。当時の前田利家は確かに格が下でしたね。」と親切に答えてくれました。天主に近づくにつれて織田家縁の人達や森蘭丸の邸跡があったのは自然だと思います。(続く)

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コメント

初めまして
近畿はお城がたくさんあっていいですね
羨ましいです

投稿: あまひろ | 2007年8月11日 (土) 06時09分

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