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2007年9月に作成された記事

2007年9月28日 (金)

白川夜船-消えた六条大路-

鴨川に六条大橋がないことが気になりました。そう言えば京都で六条の名前をほとんど見聞きしません。平安京には東西方向に伸びる大路(おおじ)が一条から九条まであったはずです。帰宅後に調べてみました。

  

地図上で丹念に探すと堀川通から河原町通の間、1km余りの区間に狭い六条通を見つけました。その一部は車が通れないほど狭い生活道路になっているようです。平安京の大路は幅が八丈(約24m)あったそうですから、現在の道路は、六条通に限らず、ずっと狭くなっています。また南北に走っていた11本の大路で名前が残っているものは東洞院(ひがしのとういん)通、西洞院通、大宮通、木辻通の4本しかなく、道幅が約12mの小路(こうじ、22本あったそうです)では、富小路、高倉、烏丸、室町、油小路、堀川、猪熊、馬代(ばだい)の8本が現在の通りの名前に残っているだけです。

  

天皇の御座所や大極殿(だいごくでん)があった大内裏(だいだいり)の朱雀門(すざくもん)と九条大路の羅城門(らじょうもん、平安京の入り口)を結ぶメインストリートであった朱雀大路(幅は約84m)は千本通と名が変わっています。東端の東京極大路は現在の寺町通で、西端の西京極大路は西京極駅の辺りにあったそうですが、道路として残っていないようです。京都の町は、平安京が築かれた区域から東へずれて、地理に恵まれ住まいに適した左京寄りに発展したことと関係があるのかも知れません。余談です。九条通の南にある十条通は平安京の大路ではなく、大正時代になって作られた道路で、鳥羽通とも呼ばれています。また現在の御所は烏丸(からすま)今出川にありますが、平安京の北東の角に造られた天皇のご座所(里内裏)のひとつで1855年に造営されたものです。

  

本題に戻ります。六条と聞いて思い浮かぶのは、1歳で即位して5歳で退位させられた六条天皇(後白河法皇から譲位された二条天皇の皇太子)、六条判官(ほうがん、平安期の官職のひとつ)と呼ばれた源為義(保元の乱に敗れて処刑された)、そしてその孫で同じく六条判官と呼ばれた源義経の名です。いずれも敗者あるいは不幸な運命を辿った人達なのは偶然でしょうか。鴨川には六条河原刑場がありました。そして紫式部が書いた源氏物語に登場する六条御息所(みやすんどころ)は、光源氏に疎まれたことで、嫉妬心に取り付かれた女性として描かれています。生霊として他の愛人に災いをもたらしたと自らを恐れて出家しますが、やがて病を得て没します。死後も成仏できなかったことから、娘の中宮が供養したと源氏物語にあります。どうも六条には深入りしないほうが良さそうです。クワバラ・クワバラ!

  

最後はお上りさんの鵜の目鷹の目です。鴨川に架かる大橋には六条のほかに一条、八条、九条の名もありません。九条通は東山橋で鴨川を渡ります。ここで平安京と現在の京都市街の中心がずれていることを思い出しました。平安京の東端である東京極大路(現在の寺町通)は鴨川や河原町通りよりも西にありましたから、鴨川に架かる橋と大路の名が対応しないことに何ら不思議はないのです。鴨川でもうひとつ思い付きました。鴨川と加茂川です。出町柳駅近く、今出川通の橋は加茂大橋ですが、これはちょうどこの場所で加茂川と高野川(たかのがわ)が合流して鴨川と名が変わるためです。そう言えば神社の名前も上賀茂神社と下鴨神社となっています。

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2007年9月26日 (水)

白川夜船-北白川温泉-

7月に訪れたばかりの京都にまたやって来ました。京都駅から河原町通を上がり、御影堂門から東本願寺の境内に入りました。世界最大の木造建築と言われる御影堂は来年末まで修復工事が行われているため、阿弥陀堂に参拝しました。同行者は今回の企画には興味がないと別行動。比叡山から流れている川を見に行くと言ったのが良くなかったようです。
 

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七条通で鴨川へ向かい、鴨川左岸の川端通の並木道を歩きました。浅瀬では白鷺が餌を啄(ついば)んでいます。五条大橋を過ぎるとほどなく南座、そして四条大橋です。ふと六条大橋がないことに気が付きました。何故か気になります。
 
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四条大橋の右手一帯が祇園です。四条通に折れて東入ると八坂神社や父母が眠る大谷祖廟ですが、さらに鴨川にそって歩きました。橋の袂には出雲の阿国像と琵琶湖疏水の暗渠化にともなって造られた人工のせせらぎがありました。

 

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今回の目的はここ祇園で鴨川に合流している白川の流れを遡ることです。

  

祇園の町並みを流れる白川の清流で涼む若い女性たちを見ながらに川沿いの小道を散策しました。今では珍しくなった細い石橋を渡ってみました。

 

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東大路通の下を潜った白川は北へと流れが変わります。三条通を過ぎると琵琶湖疎水の豊かな流れに一旦吸収されてしまいます。ここは岡崎公園です。平安神宮の赤い大鳥居が聳えていました。

 

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疎水を南禅寺方面に辿ると琵琶湖疎水記念館がありました。白川の流れはここで疎水と分かれて北上します。記念館で一服したあと、白川通と交叉しながら流れる白川を辿りました。丸田町通を過ぎた馬場橋で白川は白川通から東へと離れます。
 
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休憩をかねて昼食にすることにしました。にしんそばの店「ときわ」が目に入りました。噴き出す汗をぬぐいながら熱いにしんそばを食べました。さっぱりした出汁と濃い目の味付けの「にしん」がマッチして、期待通りの美味しさでした。写真ではにしんがそばの下に隠れているのが残念です。
 

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今出川通を過ぎると白川は住宅地の中へと入って行きます。白川にそって北東へ向かうとほどなく北白川に差し掛かり、ここで北白川天神宮に立ち寄りました。

 

御影通が山中越え(阪本道)と名が変わると、白川の流れは山中越えを東へと向かい、比叡山の山麓に入ります。
 

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残暑でバテ気味になったため上り坂が厳しく感じられ、追い抜いていく路線バスが気になります。白川の源流は山中越えで滋賀県との境を越えた山中町にあり、その先は比叡山ドライブウエイにつながっています。葛(つづら)折りの先にやっと不動堂が見えてきました。京都駅から約13km、3時間半の行程です。

今回立ち寄る温泉は北白川地蔵谷町にある不老長寿の泉「北白川天然ラジウム温泉」です。関西一のラジウム含有量を誇る温泉との触れ込みに惹かれました。宿泊して湯治を楽しむのが良さそうですが、日帰り入浴も可能です。入浴料は1450円と高めの設定にもかかわらず、京で唯一の天然温泉であり、疲れた体を癒すことが出来るのは有り難いと思います。なお隣の不動院本堂に接する不動温泉もあります。こちらは入浴料が1350円と100円安くなっています。
 

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泉質はラジウム鉱泉(加温循環式)で無色透明無味無臭です。2階の風呂場にはなぜか浴室が2つあり、いずれの浴槽も旅館の風呂としては小さいのです。それでも他に入浴客がないので贅沢な湯です。

 

手前の浴室の大き目の窓はジャバラ(折り畳み)式で開放できますから露天風呂の雰囲気も感じられます。窓を開けている時にすぐ下のバス停留所でバスを待つ人と視線が合ってしまいました。裸ですみません。

 

広い休憩室で休んだあとにもう一度温泉を楽しみました。
 

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食事をする方には会席料理の寿セット(平日7,000円、土日休日500円増し)があります。山中越えは急な坂道ですから、足に自信がある方以外は市内から比叡山行きのバスを利用して地蔵谷で下車するのが良いでしょう。

 

白川の名前は川の砂(花崗岩の石英と長石)が白いことに由来し、この白川砂は銀閣寺の銀沙灘(ぎんしゃだん)や向月台として使われているそうです。

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2007年9月20日 (木)

砧公園と「成城の湯」

日頃のペースに戻って温泉巡りです。遊びに来てくれたオチビちゃんが一緒ですから近場(世田谷区)の砧(きぬた)公園と千歳台の「成城の湯」を訪ねることにしました。

砧公園は東名高速道路(東京IC)・首都高速道路(用賀出入り口)と環状8号が交差する用賀にあります。多摩川に近く自然環境に恵まれた都立公園で広い緑地と谷戸川が園内を流れていることが特徴です。戦前からの古い歴史があるため、くぬぎやサワラの大木、桜の木が園内のいたるところに茂っているのも魅力です。

 

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園内には他に競技場や美術館、そしてバード・サンクチュアリー、サイクリング・コースなどもあり、都立公園のなかでも多彩な楽しみ方ができる公園です。
 
 

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写真 左上はナスタチウム(金蓮花)  右上はアメリカディゴ  

 

環八外回りを北上した世田谷警察署のすぐ北、千歳台に日帰り温泉「THE SPA 成城」があります。今年5月に大手フィットネスクラブのセントラルスポーツがオープンしたセントラルウエルネスタウンの建物は、1階がUNIQLOで、2階がSPA3-4階がフィットネスになっています。地下駐車場はいずれかの施設を利用すれば2時間まで無料です。

2007_09150047 エレベータで2階に上がって面食らいました。エレベーター・ホールの先は靴を脱ぐのです。カーペットの色が少し変わっていましたが気がつかず、係りの人に注意されてしまいました。下足ロッカーは普通のコインロッカーです。館内着を受け取って奥へ進むと改札があります。フロントで渡された腕バンド(電子読み取り式)をSUICAの要領で翳(かざ)すとゲートが開きました。

コンパクトな脱衣場の先に内風呂があります。低めの天井と少し暗めの照明が落ち着いた雰囲気です。真ん中に天然温泉(黒湯、加温循環式)の大浴場、右手奥に水風呂と5種類のジェットバスが並んでいます。足裏専用、バブル、強力ジェットの3種はよく見かけますが、浮遊とフローティングは珍しい嗜好です。名前は同じ意味ですが、前者は背泳ぎで、後者はバタフライのように吹き上げるジェットの上に浮くと言うものです。スイミングに良く出かける私ですが要領を掴むのに時間が掛かりました。他に黄土サウナもありました。洗い場はコンパクトです。

露天エリアには十和田石の風呂(天然温泉、加温循環式)と美濃焼きの壺湯(天然温泉掛け流し)がありました。期待したよりも狭いスペースですが、上手く配置されており、真上に空が望めます。他に入浴客がいないので休憩用のベンチに寝転んでみると秋の澄み切った青空が視界に広がります。ジェット機がちょうど上空を通過しました。男湯は環八から遠い位置にあるためか環八沿いとは思えない静けさですが、重奏低音のような音が耳に残りました。

泉質はナトリウム-塩化物・炭酸水素塩温泉(低張性・弱アルカリ性・温泉)です。黒湯としては普通ですがぬめりがあって気持ちが良く、全体に温めの温度設定ですから、長湯ができそうです。ひとつ残念なことはスペースです。もう少し広いとよいと思います。帰りがけに貰ったパンフレットを見ると、女湯の方がかなり広く(1.5倍ほど)なっていました。来客数の違いかもしれませんが、フィットネス施設に併設された日帰り温泉だからだろうと推論して納得することにしました。

入館料金はオープン記念特別価格が8月以降の正規料金となって平日1,260円(土日祝日1,670円)です。さらに9月中は入館料金が10%引き、平日モーニング割引(1,050円)、1時間コース(平日840円、土日祝日1,050円)などキャンペーンンが行われていました。リラグゼーションエリア(お休み処)が3箇所もあり、別料金のヒーリングメニューが充実していますので、フィットネスをした後に入浴する人に向いているようです。

 

同じ環八沿いの瀬田温泉「山河の湯」や高井戸天然温泉「美しの湯」もフィットネスに併設されている点は似ていますが、料金の安さ、温泉らしい雰囲気、男湯と女湯がほぼ同じ広さであることから、日帰り温泉だけを利用する人には「美しの湯」をお勧めします。

<同行者のコメント> 砧公園は広々としていい場所ですね。一緒にでかけたオチビちゃんは思い切り遊べて喜んでいました。でも年齢制限があって温泉には入れませんので、一緒にユニクロで買い物をすることにしました。昼間の環八は往きも帰りも渋滞していました。何とかならないものでしょうか。

☆追記☆

2007_09150026 薀蓄です。砧は千歳とともに神奈川県の北多摩郡に属していましたが、明治26年に東京府に編入され、昭和11年に世田谷区に編入されました。地名の由来は「古く78世紀のころ、朝廷に納める布を衣板(きぬいた)でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれた」といわれています。(世田谷区のhpより)

谷戸川は世田谷の台地に出来た谷戸を流れる川であったことで名付けられたのでしょう。谷戸とは、新治(にいはる)市民の森」の記事で説明したように、雨水で浸食されて出来た窪地のことを指します。

南隣の岡本(岡の麓の意味)は国分寺崖線の下に位置します。東名高速道路で多摩川を渡って世田谷に入るときにこの地形がよく観察できます。谷戸川は岡本で丸子川に合流して、やがて田園調布で多摩川に注ぎます。

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2007年9月16日 (日)

芝から芝浦へ

難しいテーマで脳が溶けそうになった調査活動もやっと完了しました。いつになく高ぶった気持ちをクールダウンして当ブログを元のペースに戻すために都心の散策に出かけることにしました。

 

2007_10280087 地下鉄の大門(だいもん)駅で下車。所用で近頃よく利用する駅です。三田線と大江戸線が立体交差する複雑な構造のため、駅構内からいつもと違う出口を利用して大門交差点に出ると、方向の目印になるものがあまりないのでまごつくことがあります。唯一目立つものは東京タワーです。

その東京タワーに向かって歩きました。日比谷通りに行き当たったところにあるのが芝公園に囲まれた増上寺です。大門という地名もこの寺の総門に由来するそうです。
 
 

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増上寺は徳川将軍家の菩提寺として広大な敷地を有していましたが、かなりの部分が芝公園とホテルになったため縮小しましたが、それでも現在の広い境内に驚きます。二代将軍秀忠の霊廟を中心とする南廟(現在はザ・プリンスパークタワーの敷地)と六代将軍家宣と七代将軍家継の北廟(現在のプリンスホテル敷地)があった当時は日光東照宮を凌ぐとされたそうです。多くの建物が戦災で消失しましたが、戦災を免れた三解脱門(右上の写真の赤い門)は重要文化財に指定されています。

 

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昭和33年に実施された改葬により安国殿裏の一郭にまとめられ、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と6将軍のほかにも皇女和宮など将軍家縁の人達が葬られていました。尚、徳川家の霊廟は上野の寛永寺にもあります。

 

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写真は左上から霊廟の鋳抜門、旧方丈門(黒門)、惣門、東照宮です。増上寺に隣接する芝東照宮はもと家康を祀る増上寺安国殿でしたが、独立して神社化されました。

  

日比谷通りをJR田町駅の方向へ歩きました。国道15号(旧東海道)と合流する場所にある田町駅の構内を抜けて海岸の方向へ。運河に囲まれた島は再開発されて「芝浦アイランド」として注目されています。賃貸マンションの「エアタワーレジデンス」、分譲マンションの「グローブタワー」と「ケープタワー」が今年前半に完成しました。幼稚園と保育園が入る公益施設もあります。まだいくつかのビルが建設される予定だそうです。隅田川沿いの「石川島リバーシティ21」とならぶ大型住居施設で、生活に必要なものが敷地内に揃った東南アジアの高級マンションのような住宅施設です。

 

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運河の中に浮かぶような高層マンションを眺めたあとは、同じ敷地内の商業施設「エアーテラス」で休憩しました。水上バス乗り場の近くです。

 

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大丸ピーコックの店舗を中心に多くの洒落た店がならんでいました。同行者の希望で「BAGUS BAR」に入りました。バグースとはマレー語・インドネシア語で「良い」と言う意味です。アジアン・テイスト(実際は無国籍)の料理を提供するレストランでした。

 

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トマトソースのスパゲティとハヤシライスを注文しました。私がオーダーしたハヤシライスは甘めの味付けですが美味しく食べました。 ドリンクバーとサラダバーも楽しめます。アップテンポの音楽も店内のトロピカルなインテリアにマッチしています。興味を持った同行者が流れていた曲名を尋ねるとMaroons”She will be loved.”で、若いスタッフが選曲したものとのこと。少し手狭ですが快適なレストランでした。

<同行者のコメント> 増上寺ははじめてです。大殿のすぐ後ろに東京タワー全体が見えることに驚きました。隣の安国殿にある黒本尊と呼ばれる仏像はもともと金色だったのが香煙ですすけて黒くなったのだそうです。一身に苦難を受け止めたと尊ばれています。わが家の台所も薄汚れてだいぶ有難みがでてきました! ところであのマンションの家賃はいくらかしら。一度住んでみたいですね。

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2007年9月13日 (木)

雑記をもうひとつ: 嘘は罪

ふと古い歌が思い浮かびました。Billy Mayhewが作詞・作曲した戦前のジャズの名曲Its a Sin To Tell a Lie”です。この歌を知ったのは何時のことかはっきり覚えていませんが、同じ団塊世代の歌手、弘田三枝子のレコードで聴いた記憶がありますから、高校生の頃だったのでしょう。後に、テネシー・ワルツで知られるPatti Pageの歌を聴きました。

Be sure it’s true when you say I love you. 愛していると言う時は本当か確かめて

Its a sin to tell a lie.                  嘘をつくのは罪だから

Millions of heart have been broken,       どれだけ多くの心が傷つくことか

just because those words were spoken.   その言葉が話されただけでね

I love you, yes I do, I love you”         愛してる、そう、愛してる

If you break my heart, Ill die.           もし私を悲しませたら死んでしまうわ

So be sure its true when you say I love you.  だから本当か確かめてね

Its a sin to tell a lie.                  嘘をつくのは罪だから

私の拙訳で恐縮ですが、高校生だった私にはsinと言う言葉が理解できませんでした。赤尾のマメ単で覚えた似た意味を持つ英単語”crimeとの違いです。高校生にも容易に理解できる平易な英文のなかに一語だけ難解な言葉が入っていたことが印象に残っています。今になって分かりました。言葉は「言霊(ことだま)」であり、言葉は生きているのです。

この歌から連想して、高校1年の英語でケネディ大統領の就任演説を学んだことを思い出しました。中学で習わなかった言葉が続くため辞書と首っ引きで読んだのです。そして暗殺された直後にその演説の触(さわ)りにメロディを付けた「自由の賛歌」(Let us begin)が発表されたことも覚えています。演説のフレーズ毎にコーラスが輪唱のように続く嗜好が新鮮でした。

Together let us explore the stars.        ともに星を探検しよう

Together let us conquer the deserts,      ともに砂漠を征服しよう

Eradicate disease,                  病気を撲滅し、

Tap the ocean depths,               深海を開発し、

Together let us explore the stars.        ともに星を探検しよう

  

この歌には含まれていませんが一番有名なフレーズは、

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you

Ask what you can do for your country.

「ですから、わが同胞のアメリカ人の皆さん、あなたの国が何をしてくれるかを尋ねるのではなく、あなたが国のために何ができるかを尋ねてください」

Jfk_2 この演説草稿はケネディ自身が書いたわけではありませんが、ケネディの演説は今でも聴く人の心に響きます。写真(いずれも1990年頃に撮影)はワシントンにあるケネディの墓とケネディが暗殺されたダラスの教科書倉庫です。7階建てビルの6階右端からオズワルドによってライフルで狙撃されたとされます。長年立ち入りが禁止されていましたが、20年ほど前からこの事件に関する博物館(The Sixth Floor)として一般に公開されています。 

英語で印象に残る言葉がもうひとつあります。「傲慢な」と言う意味のarrogantです。「尊大な」あるいは「おうへいな」の日本語にも対応します。アメリカで仕事をしていた時に、アメリカ人幹部社員の一人が競合する他社を表現する言葉として用いたのです。意味は知っていましたが、アメリカ人の口からこの言葉が出たことが意外だったのです。

6th_floor_4 多かれ少なかれアメリカのビジネスマンはみな尊大だと思っていましたし、その有能な社員がいい意味で尊大、つまり挑戦的(aggressive)であるところを買っていたのです。アメリカにおいても顧客や世間から傲慢と見られることはやはり致命的なことでした。

 

最近の日本ではアメリカ的な考えが良いとする風潮がありますが、尊大さはいつか付けが回って来ることを最近のいくつかの事例が示しているようです。アメリカに限らず、傲慢さから発せられる言葉は害毒を撒き散らします。「どこがいけないのか?」と開き直るなどは、それ以前の問題で、大変に見苦しいことだと思います。

言葉は生きていることと、自らが発した言葉は自らに戻ってくることを、あらためて自戒しました。

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2007年9月11日 (火)

江戸太神楽

浜離宮恩賜庭園を訪れました。昨年末に続いて来日したニュージーランドの友人を案内して浅草から水上バスで隅田川を下ったのです。昨年の6月、いつもの同行者と一緒に逆のコースを日の出桟橋から浅草まで遡った船旅を当ブログで紹介しています。
 

今回は船もヒミコ号ではなく普通の遊覧船でした。下船した船着場から浜離宮恩賜庭園の池を廻り、お花畑で早咲きのコスモス(黄花コスモス)を見たあとに出口へと向かいました。「三百年の松」の前で大道芸のようなパーフォーマンスが見えました。
 

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二人組みで、女性が口上と曲芸を行い、男性は三味線の伴奏役です。和傘を使って湯のみ茶碗や升を回す芸を披露しています。   

 

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10数人の観客が集まっていました。バランス芸が続きます。水が入ったグラスを長い柄(竿)のついた台に乗せて、親指で保持したり、歯で支えたり、紐を使って自在にバランスを取ります。炎天下、しかも風がある状況での演技につい惹き込まれていました。 

 

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最後は、ご飯用の茶碗に水を注いで同様にバランスを取りました。そしてさきほどの紐を柄に巻きつけて回転させると、茶碗から水が勢いよく周囲に飛び出て、噴水や水芸を想わせる鮮やかさです。水に続いて紙ふぶきが舞えばフィナーレでした。曲芸の実演を観るのが初めてで、思わず祝儀をはずんでしまいました。そして二人の名前が仙吉さんと菊仙さんであることを知りました。 

 

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曲芸と言えば、テレビで おめでとうございますを連発する海老一染之助・染太郎兄弟の傘回しくらいしか知らない私は、帰宅後にさっそく調べてみました。太神楽(だいかぐら)十三代家元「丸一扇翁(まるいちせんおう)」社中の二人でした。そのホームページから江戸太神楽の歴史説明の冒頭をそのまま引用します。

 

”太神楽の起源は平安時代まで遡り、神社に伝わる「散楽」という曲芸がその源といわれています。元祖は尾州熱田(現在の愛知県)とする説と伊勢(現在の三重県)とする説があります。太神楽が人々の人気を集めたのは江戸時代になってからでした。”
 

2007_08260045 菊仙(きくせん)さんは日本伝統芸能の海外公演に参加したあと、平成10年に江戸太神楽十三代家元鏡味小仙(現在の丸一扇翁)に師事し、イベント・テレビ・ステージなどで活躍するベテランです。茶碗から水を飛ばすのは太神楽13曲のひとつ「水雲井の曲(みずくもいのきょく)」でした。

 

 


汐留の高層ビル街を抜けて、新橋から銀座八丁目辺りを案内しているうちにそろそろ夕食の時間になっていました。

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2007年9月 8日 (土)

からくり人形

0004自宅に篭もって取り組んでいる調査の下調べが順調に捗って報告書を纏める目処が立ちましたので、散歩がてら両国に出掛けることにしました。江戸東京博物館の「えどはく寄席特別企画」で「からくり人形」の実演があると知ったからです。

 

見ものはからくり人形の「連理返り」です。連理とは「連理の枝」の用例があるように「つながった」の意味で、「連理返り」を現代風に言えば連続バックテンでしょう。「日本からくり研究会」が30分余りの実演を行いました。 

 

0006_2 同研究会の東野進理事長が巧みな話術で解説と実演を始めました。まず「からくり儀衛門」こと田中久重さんが製作した「茶運び人形」です。鯨の髭(歯)で作られたゼンマイ仕掛けが動力であることと、3つの動作モードがあると説明されました。マニュアルと二つのオートマチックモードです。

 

マニュアル・モードでは歩く距離が予め調整できて、ちょうど客の場所まで運んで止まります。3つの茶碗を盆に戻すとその重さを感知して自動的にもとの位置まで戻りました。見事です。 

二つ目は「文字書き人形」で、こちらも同じぜんまい仕掛けです。座った人形が目の前に置かれた紙に筆を使って文字を書きました。「寿」です。五つの違う文字が書けるのだそうです。内部の構造も披露されました。木製の円盤に突起が付けられた「カム」構造がゼンマイで回転して、筆を運ぶと同時に首を滑らかに動かします。円盤を交換すれば他の文字や絵を書くことができる優れものです。とても150年以上前に作られたからくり人形とは信じられない高い精密さです。
 
 

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名前を聞いて思い出しました。田中久重(ひさしげ)さんは愛知万博に出展された万年時計「万年自鳴鐘(じめいしょう)」を開発した発明家であるとともに、明治8年に田中製作所(東芝の前身のひとつ、後の芝浦製作所)を創業した起業家でもあります。

連理返りは二つの人形が持つ引き合い棒(水銀を入れた容器)のバランスを上手く利用したからくり人形です。最上部からバック転をしながら階段を一番下まで連続して降りるのです。世界最大と言われる大きな人形(棒の長さが79.5cm)から小さな人形までが上手に演技しました。

 

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最後は屋形船です。小さな船に乗った船頭人形が櫓を漕いで進むゼンマイ仕掛けです。江戸時代に作られたもので、世界最小の「ゼンマイからくり」なのだそうです。

実演のあとには実演ステージに近寄ってからくり人形を間近で見ることができたことは貴重な経験でした。
 
 

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2007年9月 6日 (木)

雑記(その5): 歯磨きコーチング

奥歯を抜歯してインプラントを入れた経験を当ブログで紹介しましたが、今回はその後日談です。現在も数ヶ月に一度の頻度で歯の定期検診と清掃に通院しています。これまでも歯磨きの方法を細かく指導されて何とか合格点を貰えるようになっていましたが、インプラントを入れてからは歯磨きがさらに大変になりました。

インプラントの構造が自前の歯と異なるのがその理由です。歯と歯茎の間にできた窪みに歯垢が溜まりやすく、それを除くのが面倒なのです。従来から使っていた歯間ブラシに加えて、デンタルフロス(歯間掃除用の細い糸)が加わりました。奥歯で糸状のフロスを上手く使えるようになるまで数回に渡って指導を受けました。

それでも完全には歯垢を除去できないので、プラウトと言う先の尖った小型の歯ブラシが加わりました。これは奥まった場所(窪み)の歯垢を除去するのにとても便利です。

今は歯を磨く時にこれらを「弁慶の七つ道具」のように使っています。その手順を紹介しましょう。先ず通常の歯ブラシ(毛先の柔らかいもの)で歯茎および歯と歯の間を意識して磨きます。以前は何となく歯の表面を磨いていました。その欠点を指摘され、歯垢が溜まりやすい場所を良く磨くことと歯ブラシに力を入れすぎないことを指導されたのです。

次いで歯間ブラシで歯と歯の間に残る歯垢を除去します。さらにデンタルフロスでインプラントの人口歯と隣の歯の間およびインプラントの下を念入りに清掃し、最後にプラウトで窪みに残る歯垢を除去します。

そして仕上げは歯周病などを予防する薬用マウスウオッシュでウガイして完了です。一日に一回はこのフルコースの歯磨きをするようにしています。これに加えて食後は通常の歯ブラシと歯間ブラシだけに簡略化したコースを行います。時々は磨き癖が起きにくい電動歯ブラシも併用します。

まるで高級カメラや宝石を手入れするような歯磨は大変ですが、私はゴルフをプレーする要領でやっています。通常のブラシ(ティーショット)、歯間ブラシ(ラフからのセカンドショット)、デンタルフロス(バンカーショット)、プラウト(アプローチ)、マウスウオッシュ(パッティング)のすべてが上手く行くとすっきりして気持ちが良いのです。何かの都合でこれを怠ると歯の状態が気に掛かって落ち着きません。歯磨きに無頓着であった頃が嘘のようです。

歯磨きオタク(御宅)のように思われるかも知れませんが、この歯磨きルーチンをしばらく続けたところ、最近の健診で歯科衛生士から歯と歯茎の状態に及第点をもらいました。丁寧なコーチングを受けた成果がでて、ゴルフで言うボギーマンのレベルにまで上達しましたので、4ヶ月毎の定期健診コースに戻ることになります。

  

最近、歯医者さんのサービスが治療中心から予防・維持のサポートへと変化しているそうです。この機会にマウスピースを誂(あつら)えました。就寝時にはめて歯を保護するものです。あと数十年間、食事を楽しむために、歯を大切にして行きたいと思います。

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2007年9月 3日 (月)

雑記(その4): メガネを楽しむ

久しぶりに近所の眼鏡チェーン店へ出かけました。使っているメガネのワーヤーが切れてしまったためです。レンズを保持する透明なプラスチック製のワイヤーの修理は5分ほどで完了です。両眼とも無料でワイヤーを交換してくれました。感謝です。

 

 

 

 

 

 

 

私がメガネを使い始めたのは40歳になった頃でした。ワープロとパソコンで眼を酷使したためか近眼になり、しかも左右の視力に少し差があって不便を感じたのです。30歳代まではメガネとはまったく無縁でした。はじめてメガネをかけた時に視界が広がって驚いたことを覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

その3年後に視力が変わったため遠近両用のレンズに変えました。段差が見えないレンズが一般的になり始めた頃です。度が入ったレンズも下端ではほとんど度が入っておらず、目が慣れるまでに少し時間を要しました。そして50歳に近づくと老眼が加わり、遠近両用レンズは近視・老眼・弱い乱視を組み合わせた複雑なメガネになりました。

 

 

 

 

 

 

 

ここで困ったことは、私の好きなドライブには遠方に最適化したレンズが良く、ゴルフではティーアップしたボールの位置に合わせたく、書き物をする時はかなり近い距離にも楽に焦点が合わせられるレンズが欲しくなります。またメガネを頻繁にかけたり外したりするのも不便です。そこで現在は屋外用・室内用と2種類のメガネを使い分けています。

 

 

 

 

 

 

 

薀蓄です。古代から視力を補う天眼鏡に似たレンズのようなものがバビロニア(現在のイラク南部)、ローマ、中国などにあったそうです。ヨーロッパでは宗教的に異端視されたため、メガネが発明されたのはルネッサンスが始まった13世紀頃で、一般に普及するのは印刷技術により本が普及した15世紀頃だと言われます。日本にはフランシスコ・ザビエルが16世紀中頃にメガネを伝えたようです。望遠鏡はもう少し後の1607年(江戸時代初頭)で、ちょうど徳川家康が秀忠に将軍職を譲って大御所と呼ばれるようになった年です。(参考:メガネスタイルNavihp

 

 

 

 

 

 

 

現在のメガネは髪形や髭ほどではありませんが「プチ変身」の効果もあります。その機能に加えて、最近はファッションの要素が強くなり、この数年は小ぶりのレンズが流行っていますが、また大きなレンズが復活する時が来るかも知れません。私は屋外用には視界の広い大きなレンズ、室内用には小さめのレンズが入ったメガネを愛用しています。機能的にメガネより優れているコンタクトレンズは扱いが面倒ですし、まして角膜を手術する視力矯正法のシーレックはプロのスポーツ選手でもない私には無用です。

 

 

 

 

 

 

 

ただひとつ不便なことがあります。それは好きな温泉に入る時にメガネを外さなければならないことです。私のメガネは二つともプラスチック・レンズが入っていますが、それとは知らずに温泉でコーティングを傷めてしまった苦い経験がありました。プラスチック・レンズはアルカリ性と高温に弱いのです。最近は耐熱レンズが売られているそうですから、今度レンズを交換する時に探してみたいと思います。メガネとはこれからも良い付き合いをして行きたいものです。

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