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2008年3月に作成された記事

2008年3月31日 (月)

赤坂サカス(続編): ミッション・インポッシブル

数日後に再び赤坂サカスを訪れました。所用で出掛けると同居者に言ったのが運の尽きです。すかさず「サンジャポテトを赤坂サカスで買って来て!」と同居者が言う。「ナンジャそれは?」と訊けば、「サンジャポのポテトよ!」と返って来ました。「サンジャポ」とは日曜日午前中に放送されるTBSのテレビ番組「サンデージャポン」のこと。赤坂サカスのTBSショップでこのポテトを売っているのだそうです。前回、訪れた時に買いそびれたので何としても欲しくなったとのこと。

桜が開花したとニュースが伝えていましたので「渡りに船」と引き受けました。前回は寒緋桜など2-3本の桜を除くと花が咲いていませんでした。所用を済ませたあと千代田線赤坂駅で下車、赤坂サカス内はもう勝手が分かっていますから大階段「Media Stairs」を上ってさくら坂に直行しました。
 
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期待通りに桜が開花しています。
 

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若木が多いので並木と呼ぶには迫力不足ですが7部咲きくらいでした。
 
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桜を撮影したあとは人で混みあうサカス坂を下ってTBSショップに向かいました。前回よりも行列が長くなったようです。20分ほど待って入店すると店内は買い物客が一杯です。人を掻き分けるように店内を2周しましたが目当てのものが見つかりません。ちょうど客が途切れたキャッシュアーの男性にサンジャポテトの場所を訊くことにしました。その答えは何と言うことか、「売り切れです。次回の入荷日は分かりませんが取り置きしますか?」でした。
 
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売り切れとは! これでは「子供の使い」にもなりません。そしてあの言葉を思い出してしました。”MI”です。映画のミッション・インポッシブル(不可能な任務)ではありません。厳しい上司から昔よく言われた「ミッション・インコンプリート(任務未達成)」です。辛い思い出が蘇ってブルーな気持ちになり、重い足を引きずって家路に着きました。
 
同居者から何と言われるか分かりませんので地下鉄に乗る前に電話で状況を報告しました。「あら、そーなの。サンジャポテトは一番人気だからかしら・・・。」とまったく屈託がありません。これには気が抜ける思いでしたが何時かは「サンジャポテト」を手に入れようと心に決めました。

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2008年3月30日 (日)

赤坂サカスと麻布十番温泉(後編)

すぐ先にもうひとつの長い行列ができています。こちらは"VELO TAXI"(ベロタクシー)です。この自転車型人力車は環境問題などの対策としてドイツのベルリンで開発されたものです。ちなみにVELOは、ドイツ語で自転車の意味で、欧州だけでなく日本国内の主要都市でも運用されているようです。フェスタ期間中はミッドタウン間あるいは赤坂周辺を周遊するサービスを無料で提供しています。これはいいなと並んでいると係員が先客の質問に「待ち時間は1時間ぐらいでしょう」と答えているのが聞こえました。強風が吹く寒空で1時間も待つのは辛いので諦めることにします。
 
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プチ薀蓄(うんちく)です。"VELO TAXI"は人力車をベースにした日本の輪タクがモデルだと思います。東南アジアでも広く使われていますが名前は国によって様々で、シンガポールのトライショーの他にも、シクロ(ベトナムとカンボジア)、サムロー(タイとラオス)、べチャ(インドネシアとマレーシア)、サイカー(旧ビルマのミャンマー)、トライシクル(フィリピン)と多様です。英語または現地語を使った造語が大半で、トライショーは三輪車ですし、サイカーはサイドカーのことです。

 

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最近は、車の規制と観光政策に熱心なシンガポールを除くと、他の国では繁華街から姿を消しているそうです。20-30年前、タイ、ビルマやインドネシアなどでは三輪自転車とともにダイハツ製の小型三輪車「ミゼット」を改造した乗り合いタクシー「トゥクトゥク(タイやビルマ)、バジャイ(インドネシア、右上の写真)」も使われていました。私も時々利用しましたが、最近は交通渋滞の原因あるいは後進性の象徴と見られるとして繁華街から自転車型タクシーとともに追放されてしまったようです。左上の写真はタイのサムロー、右上の写真はビルマのトゥクトゥクです。

 

赤坂サカスのオープンで、同じ赤坂の東京ミッドタウン、六本木の六本木ヒルズ、そして渋谷区神宮前の表参道ヒルズが、ほぼ並行する赤坂通り(都道413号)と六本木通り(都道412号)に沿って立地することになりました。それぞれの間は500mから2kmほどと徒歩圏内ですから、すべてのスポットを回っても約5km、半日強の散策コースです。

 

赤坂Bizタワーから300mほど東に歩いた日枝(ひえ)神社に参拝しました。鳥居の先は長い階段が続きますがエスカレーターも利用できます。日枝神社は江戸期以前から山王宮(守護神)として祀られ、太田道灌が江戸城を築城する時に川越の日枝神社(山王社)から分祀したと伝えられます。二代将軍徳川秀忠によって江戸城内から現在の場所に移され、明治期には皇室によって祈願所となったそうです。御祭神は大山咋神(おほやまくひのかみ)です。(日枝神社のhp) 山王鳥居(さんのうとりい)と呼ばれる鳥居の形と神使とされる猿(神猿像)が狛犬に代わって置かれているのがユニークです。
 

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「山王鳥居とは?」: 山王鳥居(合掌鳥居とも呼ぶ)は滋賀県大津市坂本にある山王総本宮日吉大社の鳥居が起源で、山王信仰の「山の字」を表す、あるいは神仏習合を表すとされます。大己貴神(おおなむちのかみ)を祭る西本宮の鳥居と琵琶湖畔の鳥居(山王祭神輿の乗船桟橋)が山王鳥居で、大山咋神を祀る東本宮に入る鳥居は普通の明神鳥居でした。異なる形の鳥居が混在する理由は分かりません。日枝神社、日吉神社、山王神社の名が付く神社が全国に3000以上あるそうです。ちなみに日枝は比叡山(ひえいざん)の古名である日枝山(ひえのやま)に由来します。

 

新しいものが生まれる一方で惜しまれながら無くなるものもあります。3月末で閉館する「麻布十番温泉」です。溜池山王駅から南北線に乗って麻布十番駅で下車しました。大江戸線麻布十番駅も最寄り駅です。麻布十番通りを六本木ヒルズ方面へ300mほど歩くと、六本木ヒルズから鳥居坂を下り切ったところに「麻布十番温泉」があります。

 

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ビルの1階には温泉銭湯「越の湯」もありますが、目当ての日帰り温泉施設「麻布十番温泉」は階段を上った3階です。1949年に掘削された温泉で地下500mから汲み出される黒湯で知られます。泉質はナトリウム-炭酸水素塩泉 で重曹泉に分類されており、24度の冷鉱泉が温められています。料金の1260円を支払って入館しました。

 

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鄙(ひな)びた雰囲気の施設です。2-3人が入ると一杯になる小さな浴槽に溢れる黒湯の色は横浜の綱島温泉「東京園」の湯に近い濃さです。熱めの湯ですから長湯は無理ですが何度も黒湯を楽しめます。隣にあるスチームサウナは私には熱過ぎました。

 

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温泉を出たあとは舞台付きの大広間でゆくり休憩ができました。

 

麻布十番温泉と越の湯を閉館するのは従業員の老齢化と設備の老朽化が理由であると入口に書かれていました。前述した綱島温泉についても一時は60軒以上もあった旅館の最後の一軒がなくなるとのニュースをつい最近聞きました。日帰り温泉の「東京園」は健在のようですから安心です。近いうちにまた訪れたと思います。

 

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<同行者のコメント> 新宿での買い物に付き合ってくれるのは久しぶりです。うれしいのですがやはりその後はお決まりのコースでした。赤坂サカスのTBSショップでオチビちゃんとコチビちゃんのお土産を買いました。TBSテレビの番組宣伝キャラクターBooBo(ブタのブーブ)のクッキーなどです。

 

温泉からの帰り道、麻布十番通でお洒落な雰囲気のMont Tharbor(モンタボー)に入りました。メロンパンが有名のようですが私はブラジルのチーズパン(ポンデケージョ)、ゴボウをトッピングしたパン(名前は忘れました)、カボチャを練り込んだパンなどを適当に選びました。タピオカの粉で作るポンデケージョは旦那さまがブラジルに出張したときに食べて美味しかったと聞いたことがあります。「チーズ味が強くて・・・」と言うと、「パン生地が薄くてモチモチ感がなく、しかも冷えているから本来の味ではないよ」との返事が。なぁ~んだ! それを先に言ってほしかったわ。

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2008年3月29日 (土)

赤坂サカスと麻布十番温泉(前編)

同居者の買い物に付き合って新宿へ出掛けたあと、古墳と名刹ばかりではなく目新しいものも好きな私は、前日の320日に誕生したばかりの赤坂サカスへ回りました。

 

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東京メトロ赤坂駅の改札口を出たところが赤坂サカスのエントランスです。立派なパンフレットを手渡されました。案内に従ってBizタワーに向います。グルメの店が多くて選ぶのが大変でしたが、商用で10数回訪れたことがあるシンガポールの名前に惹かれて海南鶏飯(ハイナンチーファン)に入りました。 

 

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私は海南鶏飯(蒸し)、同行者はフライドホッケンミー(福建麺)をオーダー。看板料理のシンガポール風チキンライスは期待通りの美味しさです。出張した時に街中の屋台でよく食べたシンガポール料理の味を思い出しました。同行者は微妙な顔をしています。「ラクサ(ピリ辛のシンガポールヌードル)にすれば良かったかしら」と呟いているようです。

 

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赤坂Bizタワーは高さ約180mの超高層ビルで、地下1階から地上2階までがグルメとショップ46店舗が入居、地上4-38階はオフィスになっています。外に出ると様々な施設が建ち並んでいます。TBS放送センター、赤坂BLIZ(ライブハウス)、赤坂ACTシアター、サカス広場、赤坂ギャラリー、赤坂ザ レジデンスなどです。赤坂サカスが命名された由来は「新しい赤坂文化の花を咲かす、人々の笑顔を咲かす、夢を咲かす」なのだそうです。(赤坂サカスのhp) そしてこの赤坂の地名の由来とすぐ近くにある繁華街の一ツ木通りについては当ブログで紹介しています。

 

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敷地内を結ぶさくら坂とサカス坂を歩いてみました。さくら坂には東京ミッドタウン行きの無料シャトルバス(4月6日までのオープニングフェスタ期間中だけ運行)が停まっています。同じ三井不動産が開発したエリアだからでしょう。さくら坂に植えられた100本ほどの桜の花は寒緋桜など数本を除くとまだ先のようです。
 

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サカス坂には地方放送局のフードコートが10店舗ほど並んでいます。行列が出来ている店がありました。何かと見れば某化粧品会社が発売するミネラルウォーター「栗駒深層水」の無料配布コーナーでした。一昨年訪れた栗駒の名に惹かれて列に並ぶと1時半ちょうどに配布が始まりました。後ろにはさらに長くなった列が出来ています。

 

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サカス坂の下にあるTBSラジオの特設スタジオでは私が良く聴く午後の番組「ストリーム」が生放送中でした。小西克哉さんと松本ともこさんのテンポの良い語り、そして「チャレンジ70!!」担当の桐畑トールさんがスタジオの前で今日も何やら課題へ懸命に取り組んでいました。もう一人の出演者、辛酸なめ子さんはそのユニークな名前と独特の語り調子のままに不思議な存在です。(続く)
 
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2008年3月27日 (木)

大和路のドライブ旅: スーパー銭湯「ゆららの湯」

大和路ドライブ旅を締めくくる日帰り温泉は奈良のスーパー銭湯「ゆららの湯」です。八条にある奈良店に立ち寄る予定でしたが、西大寺の近くにも押熊店があることを思い出して急遽変更することにしました。西大寺に参拝したあと県道52号(奈良精華線)で押熊へ向うつもりが県道1号を二条町交差点まで行過ぎてしまいました。この交差点では左折できませんので、先の佐紀町交差点から県道751号(木津平城線)を北上して、大分遠回りになりましたが「ならやま大通り」で何とか押熊交差点にたどり着きました。ゆららの湯のhpで見た地図によればこの交差点の近くにあるはずです。

   

直進すれば約500mで目的地に到着できたのですが、何を血迷ったか、この交差点を左折してしまいました。その先で左方向が西大寺との案内標識を見つけて戻り始めていることに気づきました。ここで引き返すべきでしたが、右方向へ進もうと山勘(勘ナビ)で走り続けていると住宅地の狭い道に迷い込んでしまいました。気がつけば近鉄奈良線の「あやめ池駅」前です。なんと西大寺駅の隣駅まで戻っていたのです。

   

自宅を出掛けるときに旅程表と立ち寄り先の情報を携行することに気をとられて、広域地図を自宅に置き忘れてしまった咎めがここで出ました。駅前の交番で道順を聞こうとしましたが警ら中で警官は不在です。それではと駅のコンビニで奈良市の地図を買い求めることにしました。交番前に停めた車にもどる途中、車で待機していた同行者がジェスチャーでお巡りさんが戻ったことを告げています。そのお巡りさんは詳細な地図を使って詳しく道案内してくれ、交番横の道を真っ直ぐ進んで丁字路に行き当たったら右折するとすぐ先の右手にあるはずだと教えてくれました。

 

2008_03110320_2教えられた通りに走って行き当たった道路が先ほど押熊交差点まで走った「ならやま大通り」でした。右折して700mほど走ると「ゆららの湯」の大きな看板が右手にあります。見知らぬ場所を地図無しでドライブすることはこれまでよくありましたが、交番で道を教えてもらったのは今回が初めてです。購入した地図で調べるとジグザグのコースを取ってしかも行過ぎていました。

 

「ゆららの湯」は典型的なスーパー銭湯です。ただ手前の建物にある食事処から入浴施設がある奥の建物へ行くためには一旦屋外に出る必要があるのが珍しいと思います。入館料は650円と格安で、その日の男湯はバリ島風の南国湯でした。石が多用された高温と中温の温泉岩風呂が並び、南国風の屋根と滝がアクセントになっています。天然湧き出し温泉の泉質は単純温泉-低張性・弱アルカリ性低温泉(32.2度)でさっぱりした肌触りです。そのほかには足湯、ミストサウナと遠赤外線サウナもありました。女湯は純和風大露天風呂で男湯とは対照的なデザインだったようです。

   

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貰ったパンフレットによると押熊店は「ならやまの湯」、姉妹店の奈良店は「朱雀の湯」との別名が付けられて、共通するキャッチフレーズが「のおんびりええわぁ」とのこと。高温の温泉が少ない奈良市周辺では「ゆららの湯」などの加温温泉に人気があるようです。ちなみに奈良県の高温温泉は南部の吉野以南に集中し、美人の湯で知られる十津川温泉や上湯温泉などが有名です。

 

走りまわったお陰で奈良市北西部の地理に詳しくなりましたので、ゆららの湯のあとは迷わず県道52号に入って神功皇后陵称徳(孝謙)天皇陵に立ち寄りました。神功皇后は仲哀天皇の皇后で朝鮮へ出兵する途中に応神天皇を産んだと伝えられます。大和武尊が父とするとされる仲哀天皇と卑弥呼とも言われる神功皇后については実在を疑う説があるようです。[神功皇后陵の衛星写真]

    

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2008_03110324_2 称徳天皇(女帝)は天武系最後の天皇です。父である聖武天皇の譲位で孝謙天皇として即位しましたが、藤原仲麻呂が推して即位した淳仁天皇を「仲麻呂の乱」後に廃して、自ら称徳天皇として重祚(ちょうそ、再即位の意)しました。天武系に後継者が居なかったため、京都に遷都した桓武天皇の父、光仁天皇から天智系に戻って現代まで続いています。[称徳天皇陵の衛星写真]

 

奈良からの復路には名阪国道経由のルートを選びました。県道52号と県道1号(奈良生駒線)から国道24号を南下、横田町交差点から和爾下(わにした)神社前交差点を経て名阪国道(国道25号)に入りました。ちょうど日が暮れて辺りが暗くなった頃です。

 

2008_03110325_3 名阪国道は高速仕様の一般国道で最高速度が60kmに制限されています。高峯山近くで急な登りカーブが続きました。その先はほぼ一直線になり伊賀市を通過、亀山市から有料の東名阪自動車道に入れば、あとは高速道路をひた走るだけです。四日市JCTで片側3車線の伊勢湾岸自動車道に逸れて豊田JCTで東名高速道路に入ると片側2車線が極端に狭く感じられます。

 

休憩を取りながら東名高速道路を順調にドライブして日付が替わる頃には到着も間近です。スピードを調整しながら12時を過ぎたことを確認して東名高速道路を降りました。もちろんETC割引(4割引き)を意識してのことです。今回のドライブ旅は大和路ドライブの約500kmを入れて総走行距離が約1,500kmでした。

  

<同行者のコメント> 修学旅行で行ったことがある奈良公園で鹿が見られると思いましたが毎日古墳とお寺巡りが続いて退屈でした。高松塚古墳のことは聞いたことがありますが他の古墳はさっぱり分かりませんし、杉花粉がひどいシーズンですから車から出ないで待機していました。でも初めて訪れた平城宮の跡が広くてびっくりです。わが家の運転手さんも道に迷うことがあるのですね。意外でした。それにしてもずっと車を運転していて飽きないのでしょうか。□

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2008年3月26日 (水)

大和路のドライブ旅: 平城京(後編)

2008_03110306_2薬師寺は平城宮の西を通る県道52号(奈良精華線)から県道9号(奈良大和郡山斑鳩線)を2km余り南下した場所にあります。天武天皇が皇后(天智天皇の皇女で後の持統天皇)の病気平癒を祈願して創建した寺で、観音池と近鉄橿原線に挟まれた境内には当時のまま残る東塔の他に1976年以降に金堂、西塔、中門、回廊が復興されました。[衛星写真]

    

本尊は国宝の釈迦如来坐像と聖観音菩薩立像(りゅうぞう)で、他にも国宝の薬師三尊像の薬師瑠璃光如来・日光・月光(がっこう)菩薩立像、僧形八幡神立像、神功皇后坐像、仲津姫坐像など白鳳時代(飛鳥時代後期)から平安時代初期の彫像(国宝・重文20数点)が安置されています。

   

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次いで唐招提寺(とうしょうだいじ)を拝観しました。[衛星写真] 来日した唐の高層鑑真和上(がんじんわじょう)が開いた寺で、奈良時代に建立された金堂と平城京の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築した講堂が現在まで残っています。いずれも国宝に指定されています。本尊は講堂に安置される重要文化財の弥勒仏坐像です。

  

2008_03110309_3 昭和35年に復元された南大門を入りました。金堂は2009年秋まで解体修理が続く平成大修理のため工事用建屋に覆われて拝観はできませんが、金堂の仏像は講堂に移されて展示されていました。国宝の盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)、千手観音立像、薬師如来立像、梵天(ぼんてん)立像、帝釈天(たいしゃくてん)立像、四天王立像など数え切れません。

 

講堂を出たあとは松尾芭蕉の句碑、御影堂(みえいどう、みえどう)、礼堂東室(らいどうひがしむろ)、そして国宝の経堂、宝堂、舎利殿(唐招提寺唯一の重層建造物で鼓楼とも呼ばれる)などを見て回りました。御影堂に安置される国宝の鑑真和上坐像は残念ながら拝観できません。写真は講堂(左下)と宝堂と奥の経堂(右下)です。

    

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旅のフィナーレは西大寺(さいだいじ)です。現在の西大寺は住宅に囲まれて、東西十一町・南北七町と伝えられる往時の伽藍の広大さは窺えません。西大寺駅横の踏み切りを渡って東門近くの駐車場から境内に入りました。[衛星写真]

 

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四王堂、本堂、愛染堂が建ち並んでいました。現在の本堂(重要文化財)は江戸期に建立されたものだそうです。本尊は十一面観音像(四王堂)、釈迦如来立像(本堂)、愛染明王坐像(愛染堂)でいずれも重要文化財に指定されています。その他にも重要文化財として聚宝館の行基菩薩坐像などが安置されています。

  

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2008_03110316_4 鎌倉時代に再興された伽藍の中心となった東塔跡の巨大な基壇と礎石から奈良時代の西大寺を想像してみました。高さが約45mの五重塔であったと伝えられます。

 

これと並んでいた西塔は平安時代に雷火で消失し、東塔も室町時代の戦火で焼失したことが説明されています。「JR東海のCM」では幻の塔を強調してミステリアスに紹介していました。

  

境内にある幼稚園は園児が帰宅する時間帯で賑やかです。

  

<関連情報> 遷都の目的とは?

 

記事本文の繰り返しになりますが、本格的な京(都城)は藤原京(710-740年)が最初で、平城京(710-740年)、恭仁京(740-744年)、難波京(744-745年)、平城京(後期、745-784年)、長岡京(784-794年)と長くても40年で遷都されています。今回のドライブ旅で訪れた都は、推古天皇の飛鳥宮、持統天皇の藤原京、元明天皇の平城京のいずれもが女性天皇(女帝)の築造によることは偶然でしょうか。頻繁に遷都が行われた背景に触れてみます。

元明天皇による平城京遷都は蘇我氏から藤原氏へ朝廷の権力が移行した後に行われました。元明天皇の子と孫である文武天皇および聖武天皇はいずれも藤原不比等の娘を妃に迎えています。文武天皇の母元明天皇(天智天皇の皇女)は文武天皇が亡くなった後に即位、文武天皇の姉である元正天皇(女帝)を経て聖武天皇へと継承されるまで政治的な不安定要因が存在したことが遷都の背景にあったのかも知れません。

聖武(しょうむ)天皇が京都府木津川町の恭仁京と大阪市の難波京、そして滋賀県甲賀市信楽町(しがらきちょう)の紫香楽宮(しがらきのみや)と短期間(5年間)に遷都を4回も繰り返した理由は定かではありません。藤原一族から天皇の権力を取り戻す政治的な理由だけではなく、天皇が唐の都を真似たことや大仏建立の目的などが考えられるとする説があります。紫香楽宮はわずか5ヶ月で放棄されましたが、平城京に匹敵する本格的な都「甲賀宮(こうかのみや)」の計画があったことが最近の宮町遺跡の発掘で明らかにされつつあるようです。

一方、桓武天皇による長岡京・平安京への遷都は、水陸の交通の便が良いことが理由と記録されていますが、山背(山城)国の勢力との関係、あるいは強くなり過ぎた平城京の仏教勢力の影響を排除する目的を遷都の理由とする説があります。平安京への再遷都は長岡京での川の氾濫や疫病などによるとする説、あるいは平安京遷都への抵抗を和らげるための仮遷都であったとする説などがあって定かではありません。

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2008年3月25日 (火)

大和路のドライブ旅: 平城京(前編)

持統(じとう)天皇・文武(もんむ)天皇・元明(げんみょう)天皇の三代に渡る都であった藤原京から710年に元明天皇によって平城京(へいじょうきょう、へいぜいきょう)へ遷都されました。大和政権がその基盤を確立するまで遷都が頻繁に繰り返されましたが、いよいよ奈良が日本の都になったのです。一時、聖武(しょうむ)天皇によって京都府木津川市加茂町の「恭仁(くに)京」と大坂の「難波(なにわ)京」に都が移さたことはありますが、784年に桓武(かんむ)天皇によって長岡京へ遷都されるまで70年ほど奈良に都が置かれました。中国の都に倣って中央の朱雀大路(幅約74m)の両側に左京と右京が配置されています。

 

東西の大路は一条(南と北)大路から九条大路までがありました。右京は西一坊大路から西四坊大路まで、左京には東一坊大路から東七坊大路までがあり左右が非対称です。そして東四坊から東は五条大路以北だけと変則的でした。

 

平城宮(大内裏)前の朱雀門は1997年に復元され、大内裏(平城宮跡)、朱雀大路の発掘により羅城門の両側にあった羅城(城壁)跡や十条大路が計画されていたことなどが明らかにされました。建築された寺院も多く、東大寺、西大寺、興福寺、薬師寺、大安寺、法隆寺が南都七大寺と呼ばれています。その他に唐招提寺や春日大社なども良く知られています。

 

今回は奈良観光の定番である東大寺、興福寺、春日大社はパスして、世界遺産に登録されている平城京遺跡の平城宮(大内裏)跡・東院庭園・朱雀門、薬師寺、唐招提寺、そして左京外の東大寺と並ぶ寺であった右京の西大寺を訪れました。

 

2008_03110293_4 奈良市役所の北で国道24号(バイパス)が大きくカーブするのは平城宮跡を迂回するためだったようです。国道の法華寺東交差点から入り、法華寺を北側に回り込んだ県道104号(谷田奈良線)に沿う場所に平城宮跡がありました。東西約1.3km・南北約1km(120万平米余り)の広さがあります。広い駐車場に車を停めて遺構展示館から大極殿跡に向って歩くと、東西46m・南北24mの立派な基壇が再現されていました。基壇の上からは野原のような朝堂跡の遥か彼方に再建された朱雀門が見えます。

   

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朱雀門の位置が大極殿跡の真南ではないことが気になりました。

 

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駐車場近くのこの大極殿跡(第二次大極殿)とは別に大極殿(第一次大極殿)が西側にもあったのです。右下の写真のように大きな仮設建物の中で文化庁による「大極殿正殿」の復元作業が行われていました。南北320m・東西180mの範囲が築地回廊で囲まれた大極殿があったようです。第一次大極殿は元明天皇が藤原京から遷都した時に建てられた最初の大極殿で、第二次大極殿は聖武天皇が難波京から平城京に再遷都された時に築造されたことを知りました。[大極殿の衛星写真]

   

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東院庭園を訪れました。平城宮が東に張り出した場所の南部にあります。[衛星写真] 発掘調査のあとに平成9年に再現された東院庭園は逆L字型の池を巡る回遊庭園で、中央の朱に塗られた建物と池に敷き詰められた白い小石のコントラストが印象的でした。この庭園では儀式や宴会が行われたと説明されています。

   

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同じく平成9年に再現された朱雀門から再建中の大極殿が正面に見えました。門の両側に築地も再現されています。振り返ると朱雀大路も県道1号までの区間が再現されていました。道幅が約74mもありますから、まるで広場のようです。[衛星写真]

 

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2008年3月24日 (月)

大和路のドライブ旅: 聖徳太子と斑鳩宮(後編)

国道25号の法隆寺前交差点から法隆寺に向い、寺に一番近い駐車場に車を停めました。南大門から入り、中門へと進みました。国宝である西室(僧房のこと)の三経院に回ったあと西院伽藍(さいいんがらん)に入りました。[衛星写真] 法隆寺は世界最古の木造建築で推古天皇とその甥の聖徳太子が607年に建立されたと伝えられます。法隆寺は670年に全焼したため、7世紀末から8世紀初め(持統・文武・元明天皇の藤原京時代)に再建されたことは発掘調査で遺構が発見されたことから確かだとされます。

 

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廻廊に囲まれた伽藍は左手に五重塔、右手に金堂が並び、そして正面には大講堂がある法隆寺式配置です。南大門と西院伽藍にあるすべての建物は現在残る世界最古の木造建築で国宝に指定されています。ただし大講堂と南大門など一部の建物は後に火災にあって再建されたようです。中門は入母屋造りの二重門で左右に金剛力士(仁王)像が安置されています。現在は通行が止められており、廻廊左手の入り口から入ることになっていました。大宝蔵院と東院伽藍を含む拝観料は1000円です。

 

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金堂は入母屋造りの二重仏堂で、金銅釈迦三尊像、金銅薬師如来座像、金銅阿弥陀如来坐像、四天王像などの仏像が安置されていますが、拝観した日には西院伽藍奥の上御堂(かみのみどう、左下の写真)でこれらの仏像が公開されていました。法起寺と法輪寺の三重塔と同様に7世紀の建築様式だそうです。

  

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この金堂と並ぶ五重塔は日本最古の木造塔で、初層(1階)には塑像(粘土で作られた像)が多数安置されていました。これらの塑像も国宝に指定されています。

 

2008_03110224右手奥の鐘楼近くの廻廊から金堂と五重塔を見上げるアングルで撮影しました。JR東海のCMに使われたアングルの真似(パクリ)です。そのCM映像はここをクリック。

 

聖徳太子像を安置する東室の聖霊院と寺宝を保管する網封蔵を抜けて平成10年に完成した大宝蔵院に向いました。東と西の宝蔵には夢違観音像、玉虫厨子、金銅阿弥陀三尊像、九面観音像など多数の宝物が安置されていました。中央の百済観音堂には飛鳥時代を代表する国宝の百済観音像が安置されています。樟(くすのき)の一本造りの仏像(高さ約2m)です。

 

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東大門を潜って東院伽藍(上宮王院)に向います。[衛星写真] 天平時代の高僧である行信僧都(ぎょうしんそうず)が聖徳太子の遺徳を偲んで天平10年(738年)頃に建立したとされます。僧都は僧正に次ぐ位です。さきほど中宮寺を拝観した時に潜った四脚門から国宝の夢殿に入りました。

 

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廻廊に囲まれた八角形の夢殿には聖徳太子孝養像などが安置されていました。聖徳太子等身の秘仏救世観音像(国宝)は残念ながら見られません。春と秋に期間限定で公開されるようです。

 

2008_03110234北側の「絵殿・舎利殿」は太子の一代記を描いた壁画と太子の掌中から出たと伝えられる舎利(釈迦の遺骨)が安置されているそうです。

 

中宮寺の入口近くにある北室院表門の奥にある本堂と太子殿には残念ながら入ることができません。

 

聖徳太子の実在を疑う説もあるようですが、厩戸皇子(うまやとのみこ)が実在した人物であることは確かでしょう。後世になって付けられた聖徳太子の尊称とともに、太子に纏わる逸話や業績の多くはどうも後世になって創作されたもののようです。先のブログ記事で紹介した一休禅師と同様でしょう。

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2008年3月23日 (日)

大和路のドライブ旅: 聖徳太子と斑鳩宮(前編)

聖徳太子は飛鳥時代初期を代表する人物のひとりで、用明天皇を父に、蘇我馬子の娘を母とする皇太子でした。継体天皇にはひ孫にあたります。妃の一人も蘇我馬子の娘であり、叔父であり義父でもある蘇我馬子とは極めて近い関係にありました。叔母である推古天皇の摂政として仏教の普及と文化の発展に務めたことで知られます。この聖徳太子縁の地、斑鳩の法起寺を訪れました。[衛星写真] 国道24号から県道249号(大和郡山環状線)で大和郡山市を経て斑鳩(いかるが)町に向いました。県道9号(奈良大和郡山斑鳩線)に入って小泉交差点を過ぎれば左手に塔が見えてきました。

  

2008_03110283法起寺(ほうきじ、ほっきじ)は別名岡本寺あるいは岡本尼寺とも呼ばれています。聖徳太子が法華経を講説された岡本宮を太子の遺言で寺に改められたと伝えられ、法隆寺、中宮寺、四天王寺などを含む太子御建立七大寺のひとつであり、法隆寺とともに世界遺産に指定されています。

  

現在の法起寺は江戸期に唯一残っていた三重塔が修復され、講堂と聖天堂が再建されて再興されたものです。西門から入ったところで拝観料300円を納めました。重要文化財に指定された本尊の十一面観世音菩薩(10世紀後半頃の作)は昭和57年に新設された収蔵庫に安置されています。

   

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飛鳥時代の法起寺は表門(南大門)から見て右に三重塔、左手に金堂が配置される法起寺式伽藍配置で、法隆寺や法輪寺とは逆になっています。三重塔は日本最古の三重塔で国宝に指定されています。金堂の跡地には1863年に建立された聖天堂と鐘楼跡がありました。訪れる人も少なく落ち着いた寺です。

   

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次いで700mほど西にある法輪寺に立ち寄ったあと中宮寺に向いました。池を半周して迂回する道を南に1kmほど走り、右手の狭い道に入って中宮寺と思しき土塀にそって進みました。中宮寺があるはずですが法隆寺の夢殿の入口です。車を停めるスペースがありませんし修学旅行者の学生が歩いていますから、一旦法輪寺から来た道に戻って、徒歩で探すことにしました。

   

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東側には「この入口からは拝観できません」と書かれた中宮寺の立て看板があり、北側の入口は中宮寺の関係者専用のようです。再び夢殿の入口に来てしまいました。よく見ると小さな中宮寺の案内板があり、夢殿に入る手前を左手に進むように表示されています。夢殿を回りこむように歩くと中宮寺でした。

   

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中宮寺本尊の国宝弥勒菩薩像が有名です。菩薩像の微笑みは「古典的微笑」としてエジプトのスフィンクスとダビンチ作のモナリザと並んで2008_03110289世界の三大微笑像と呼ばれているそうです。日本最古の刺繍である天寿国曼荼羅繍帳も国宝に指定されています。(中宮寺のhp) 

 

飛鳥時代の中宮寺は聖徳太子が601年に造営した斑鳩宮を中央に法隆寺と対称的な位置に創建された寺で、現在の位置よりも500mほど東の県道9号沿いにあったものが室町時代に法隆寺東院の一部を借りて再建されたのだそうです。

 

聖徳太子が没した後は、天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が天皇家を凌ぐ力を持つに至った蘇我入鹿を暗殺した「乙巳(いっし)の変」と「大化の改新」を成し遂げて天皇中心の律令体制を築きました。そして百済の再興を支援するために出兵した白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れたため北九州などの防衛を強化するとともに近江の大津に遷都しています。

  

天智天皇の没後、実子大友の皇子と実弟大海人の皇子が皇位をめぐって争った「壬申(じんしん)の乱」(672年)に勝利した大海人の皇子が天武天皇として即位します。天武天皇が行った政策および没後に制定された「大宝律令(たいほうりつりょう)」(701年)により律令国家として新しい体制に移行することになりました。同時に国名が倭国から日本へ変更されるとともに都も飛鳥に再遷都(672年)されます。高市郡明日香村岡にある伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)が飛鳥京跡とされます。(続く)

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2008年3月22日 (土)

大和路のドライブ旅: 藤原京

雷丘(いかづちのおか)から橿原(かしはら)市方面に北上しました。藤原京は持統天皇によって建設された日本で最初となる中国風条坊制(じょうぼうせい)の道路を配した都です。日本書紀では新益京(あらましのみやこ)と呼ばれていたそうです。694年に飛鳥から遷都されてから710年に平城京へ遷都されるまで16年間、持統天皇・文武天皇・元明(げんみょう)天皇三代に渡る都でした。この三代のうち持統天皇と元明天皇は女帝です。京極大路が発見されたことで東西・南北とも5km以上あったことが判明し、平城京や平安京を凌ぐ規模とされます。ぜひ訪れたいと思っていた場所でした。

 

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ほぼ中央にある藤原宮(橿原市高殿町)から見て、真北に耳成山(みみなしやま)、東南に天香久山(あまのかぐやま、香具山とも表記)、西南に畝傍山(うねびやま)が位置します。畝傍山がやや西にあるため厳密には二等辺三角形と言うべきかも知れません。藤原京はこれら大和三山を内に含み、朱雀大路を中心に左京に4坊、右京に4坊、南北は12条があったようです。大和三山は万葉集によく詠まれています。下の写真は大極殿(だいごくでん)跡越しに望む耳成山、朝堂院(ちょうどういん)跡から見た天香久山と畝傍山です。

    

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現在、藤原宮跡は史跡公園になっています。[衛星写真] 臨時駐車場から公園内を歩くと天皇の座位があった大極殿の基壇(土壇)跡と官吏が執務した朝堂院跡が残っています。基壇とは土を突き固めた盛土のことで中国からもたらされた工法です。それまでの日本では土台なしに穴を掘って柱を建てる掘立(ほったて)工法でした。今も掘っ立て小屋にこの用例が残っています。900m四方の敷地は塀で囲まれ、東西南北のそれぞれに門が3ヶ所、計12の門があったそうです。(一番上の写真参照)

   

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余談ですが、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」は世界遺産への登録を目指して政府が登録リストに追加しました。高松塚古墳やキトラ古墳なども含まれています。

 

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橿原神宮にも立ち寄りました。神武天皇が即位したとされる橿原(かしはら)宮跡に明治23年に創建された神武天皇を祀る神社で畝傍山の裾野に広大な境内があります。

 

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すぐ北側には神武天皇陵があります。神武天皇が即位したとされる場所(諸説がある)付近に幕末から大正期にかけて円墳が築造され、昭和期に入って皇紀2600年祭に際して現在の規模の方形塚に拡大されました。

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2008年3月21日 (金)

大和路のドライブ旅: 飛鳥寺

飛鳥寺を訪れる前に、甘樫丘(あまかしのおか)を経由して、雷丘(いかづちのおか)の近くにある豊浦寺(とゆらでら)跡と古宮(ふるみや)遺跡に立ち寄りました。

 

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推古天皇が即位した場所は蘇我氏の邸宅があった豊浦宮(とゆらのみや)とされ、現在の向原寺周辺と言われています。

 

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土壇が残る古宮遺跡は推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)跡とされていましたが、雷丘の発掘で宮跡とみられる発見があったため、現在は蘇我氏に関る庭園との見方が有力になったと説明されていました。この時代の宮は天皇の住居(宮殿あるいは皇居)であり、一代一宮の慣行があったようです。京(都城)が造られるようになるのは藤原京が最初です。

 

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橿原神宮前駅の方向に1km余り進んだ左手に孝元天皇陵がありました。[衛星写真] 池の周りを回りこんだ所が入口です。天皇陵としては珍しく丘の上まで階段で登ることができます。丘の上には他の天皇陵と同様な鳥居と石造りの柵が廻らしてありました。

  

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飛鳥寺跡を訪れました。飛鳥寺(あすかでら)は日本最古の仏教寺院で、対立する物部守屋(もののべのもりや)を打ち破った蘇我馬子(そがのうまこ)によって587年に建てられたとされます。東西200m、南北300mの広さがあったそうです。

 

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本尊は国の重要文化財の銅造釈迦如来坐像(通称飛鳥大仏)で、609年に開眼供養されてまもなく1400年を迎える日本最古の仏像のひとつと言われます。1196年に落雷による火災で痛んだために顔の修復跡が痛々しく感じられました。その両側に聖徳太子孝養像と阿弥陀如来坐像が安置されています。現在の飛鳥寺は江戸時代に再建されたもので、規模が大幅に縮小されて、名前も安居院(あんごいん)と変わっていますが、一般には飛鳥寺と呼ばれています。
 

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安居院の西の門を出ると旧飛鳥寺の西門跡と蘇我入鹿首塚がありました。権勢を極めた蘇我入鹿が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、晩年は藤原鎌足と呼ばれる藤原氏の祖)に暗殺された乙巳(いっし)の変で馬子の首が飛鳥板蓋宮の大極殿から約600m北にあるこの場所まで飛んで来たとの言い伝えがあります。首塚の後方は甘樫の丘です。

 

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2008_03110130飛鳥坐(あすかにいます)神社
の前を通って藤原京へ向うことにしました。道路工事現場のように交互通行の信号があり4分ほど待たされました。どこかに押しボタンがあるのか探してしまうほど長い待ち時間でした。

 

蛇足です。これまでの説明には明日香と飛鳥が混在して紛らわしいのですが、1956年に旧高市郡阪合村、高市村、飛鳥村の三村が合併をして明日香村になったことがその理由です。つまり明日香は戦後になって出来た地名で、枚方市の樟葉と同様です。

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2008年3月20日 (木)

大和路のドライブ旅: 飛鳥の古墳(後編)

周遊歩道は車が走るには幅が狭すぎますが、歩く人がほとんど居ないため、そのまま進みました。周遊歩道脇の鬼の雪隠(せっちん)は短時間停車して何とか撮影できましたが、丘を登った場所にある鬼の俎(まないた)は残念ですがパスしました。

 

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少し先で自動車道に出たところが天武・持統天皇陵です。[衛星写真] 2人の天皇が合装されたのは夫婦だったからでしょう。古代律令国家としての大和政権の基礎を確立したこれら二人の天皇の陵としては小規模(形状は珍しい五段築造八角墳)であることが意外でした。三輪王朝を始めたと言われる崇神天皇陵や同じ飛鳥に宮を置いた継体天皇陵(摂津国)の規模とは比べようもありません。古墳時代末期に築造されたためでしょう。前方後円墳ではなく高松塚のように円墳が造られるようになった時代です。

 

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明日香村役場を過ぎた石舞台古墳へ向いました。[衛星写真] 有名な観光スポットのため広い駐車場にバスが並び、修学旅行の学生で石舞台地区公園は賑やかです。石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされ、巨大な石組みの中に入ることができます。蘇我馬子は飛鳥時代の有力政治家で、欽明天皇・用明天皇・崇峻天皇・聖徳太子と外戚(姻戚)にあり、また推古天皇(女帝)は姪に当たるなど権勢を極めました。

 

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役場近くに戻って周遊歩道に入り、飛鳥王朝の皇居があったとされる伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡に向かいました。飛鳥には飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥浄御原宮など多くの宮が造営されたと見られていますが、各々の場所はまだ明らかではないようです。伝飛鳥板蓋宮が有力な候補のひとつです。

 

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酒船石(さかふねいし)と亀形石造物に立ち寄りました。明日香民俗資料館のすぐ近くです。酒船石は緩やかな坂道を上った竹林の中にありました。不思議な形をした窪みが造られています。

  

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この丘の真下に亀形石造物があることから両者を関連付ける話を聞いたことがあります。ボランティアの方が色々説明して下さいました。亀形の石造物の精緻な細工、湧き水、渦巻状に並べられた石などです。発掘されたエリアはかなり広かったそうですがその大半が埋め戻されて現在の形になったことや酒船石と連携する仕組みには否定的な考えも聞くことができました。
 
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2008年3月18日 (火)

大和路のドライブ旅: 飛鳥の古墳(前編)

国道169号をさらに南下して明日香へ向いました。途中で三輪の大神(おおみわ)神社に参拝しました。国道脇に大鳥居(高さ約32m)が聳えています。昭和59年に昭和天皇が参拝されたことを記念して鋼板製の鳥居が建てられたそうです。すぐ横の駐車場に停めて参道を歩きます。二の鳥居まで約700mもありました。

 

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石段を上った拝殿まではさらに200mです。三輪山をご神体として大物主神(おおものぬしのかみ)を祀る神社です。今年1月に参詣した金刀比羅宮にも大物主神が祀られていました。拝殿の後方には三ツ鳥居があるそうです。埼玉県の三峯神社で見たことがあります。このタイプの鳥居は三輪鳥居と呼ばれ珍しいものです。三峯神社が日本武尊の東征神話に縁の場所とされますから、三輪王朝景行天皇の皇子とされる日本武尊の影響があるのかも知れません。

 

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二の鳥居脇の福神堂で三輪そうめん(素麺)を食べることにしました。まだ初春ですが「そうめん」の味を楽しみたくて冷そうめんを注文、かき氷が入った竹の容器に盛られたそうめんは昼食に十分なボリュームで美味しく食べました。他の客は暖かい「にゅうめん」を頼んでいるようです。ちなみに「にゅうめん(煮麺)」とは字の通り煮たそうめんのことです。
 
 

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国道165号から国道169号に入って橿原神宮を過ぎると4kmほどで明日香村にある国立飛鳥歴史公園に到着です。先ず飛鳥歴史公園館に立ち寄りました。飛鳥の歴史と遺跡が紹介されています。

  

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次いで高松塚古墳に向いました。発見された石室(せきしつ)の内部に描かれた壁画(国宝に指定)の劣化が懸念されて封印されていますから立ち入りが出来ません。

 

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その隣にある高松塚壁画館でその石室(考古学では石槨、せっかく)の原寸大模型と壁画の再現摸造模写および発見当初の忠実な模写を見ることができました。石室は凝灰岩(ぎょうかいがん)の表面を漆喰(しっくい)で塗り上げ、壁面に人物群像、天井には星宿(星座)が描かれています。鎌倉時代に盗掘者が開けた石室の穴(およそ60cmx30cm)も紹介されていました。

 

7世紀後半から8世紀初頭の築造と考えられると館内に説明されていましたが、最近の発掘調査では藤原京の時代(694年~710年)であることが明らかになったそうです。被葬者は明らかになっていません。天武天皇の皇子とする説などがあります。

 

飛鳥歴史公園を南端まで歩くと文武(もんむ)天皇陵がありました。[衛星写真] 小規模な円墳です。高台から明日香の地がよく見渡せます。

 

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少し戻った飛鳥駅に近い欽明天皇陵猿石から飛鳥周遊歩道を辿ることにしました。[衛星写真]

 

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欽明天皇陵は明日香で唯一の前方後円墳です。猿石は欽明天皇陵と隣接する吉備姫王墓(きびひめおうぼ)内に4体置かれています。江戸期に近くの水田から発見されたものがこの場所に置かれたそうです。渡来系と思われる猿石は明日香村に数ヶ所あるようです。(続く)

 

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2008年3月17日 (月)

大和路のドライブ旅: 三輪山周辺の天皇陵と纒向遺跡

木津ICを出て国道24号線のバイパスで奈良市内を通過してさらに南下すると大和郡山市、国道25号に入って東進すると天理市です。

 

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国道169号を南下した柳本町で崇神天皇陵に立ち寄りました。[衛星写真] 崇神天皇は三輪王朝(山之辺王朝)を創めた天皇です。

 

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柳本交差点から崇神天皇陵へ入る道が整備されています。天皇陵の南側にそって舗装道路が櫛山古墳の脇を抜けて龍王山の方向へ伸びていました。工事用のトラックが出入りするために路面がかなり傷んでおり、所々に鉄板などが敷かれていますので引き返すことにしました。国道の反対側に伊射奈岐神社があります。崇神天皇の命により創建された神社で、国産み神話で知られる伊弉諾尊(イザナギノミコトあるいはイザナキノミコト、伊邪那岐とも表記)と伊弉冉尊(イザナミノミコト、伊邪那美や伊弉弥と表記)を祀っています。山の辺の道は万葉集でよく詠われる三輪から崇神天皇陵や景行天皇陵を経て奈良に至るわが国最古の道です。

 

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国道169号を約1km南下した景行天皇陵にも立ち寄りました。[衛星地図] 景行天皇は日本武尊の父親とされます。天皇陵の北側には「上の山古墳」があります。

 

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桜井市に入った巻向駅近くでJR桜井線を陸橋で越えると箸中です。巻向駅を中心に広がるのが古墳時代前期初頭(3世紀初頭から中頃)に築造されたと見られる纒向遺跡(まきむくいせき)です。今回のドライブ旅のハイライトのひとつである纒向遺跡には、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、纒向石塚古墳、東田(ひがいだ)大塚古墳、ホケノ山古墳、そして代表格の箸墓古墳など、20数基の古墳が存在するそうです。

 

箸中交差点の箸墓古墳(箸中山古墳)[衛星写真]は卑弥呼の墓ではないかとも言われますが、宮内庁は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓」として管理しているため立ち入りが禁止されています。前方部が大きく開いた古いタイプの前方後円墳です。全長約280m、後円部の高さ約30mの規模は抜きんでています。池越しに全景を望むことができます。細い道で回り込むと鳥居が立っていました

  

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県道10号で田原本町方面に1kmほど進むと、纒向小学校を取り囲むように石塚古墳 [衛星写真]勝山古墳 [衛星写真]矢塚古墳 [衛星写真]東田大塚古墳 [衛星写真]が並んでいました。衛星写真で見ると良く分かりますが、これらの古墳は田畑によってかなり侵食されています。

 

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勝山と矢塚古墳は後円部と前方部の比率が2:1のいわゆる纒向型前方後円墳です。一方、東田大塚古墳は全長120m以上のうち前方部が50m以上と長いことが最近の発掘調査で判明、別形式である可能性が高いことが3月5日に発表されました。3世紀後半に造られたと推定される箸墓古墳も前方部の形状から別形式とされます。同じ場所にあっても時代とともに形状が変化したのはエジプトのピラミッドに様々な形があることと似ています。ちなみに埼玉県行田市にある稲荷山古墳の前方後円墳(5世紀後半から7世紀初めまで)は前方部が極端に長く、その前面が扇のように広がっていました。

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2008年3月16日 (日)

大和路のドライブ旅: 一休寺といちご狩り

2008_03110086_2 国道171号で高槻市に戻り、国道170号で淀川対岸の枚方市へ、国道1号(枚方バイパス)と国道307号で丘を越えると京都府京田辺市に入りました。

 

急に狭くなった道路幅から京都府であることが分かります。曲がりくねった国道で河内峠を越えると1kmほどで京奈和(けいなわ)自動車道の田辺西ICです。

 

京田辺と言えば「一休さん」が有名です。このまま奈良に向うのも心残りですから一休寺に立ち寄ることにしました。インターチェンジから2kmほどの近さです。JR片町線(学研都市線)の京田辺駅近くの府道22号を経由しました。一休寺の案内に従って左折、一本道を600mほど入った所に広い有料駐車場があります。

   

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一休禅師が晩年の25年間住んだ寺で、師恩に報いる意味で酬恩庵(しゅうおんあん)と自身で命名されましたが、一般には一休寺と呼ばれます。一休禅師墨蹟碑を過ぎて参道を歩きました。拝観料は500円です。庫裏(くり)、方丈、本堂、一休禅師木像など数多くの重要文化財があります。展示された写真の紅葉風景が見事でした。宝物殿には一休禅師縁の品々が展示されています。墨書の美しさに目を惹かれました。方丈に置かれた輿(こし)は一休禅師が81歳で京都市北区紫野にある大徳寺の住職になられた時に酬恩庵から通うために使われたのだそうです。直線距離でも20km以上ありますから通勤は大変だったことでしょう。

   

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頓智話の「一休さん」で知られる一休禅師は室町時代の禅僧一休宗純で、後小松天皇のご落胤とも言われます。下の写真にあるように宮内庁は皇子としています。伝えられる頓智話は江戸時代に作られたもので一休禅師とは関係がないようです。すぐ近くに能楽発祥の地とされる薪(たきぎ)神社がありました。

  

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府道22号と並行するバイパスのような道路(山手幹線)に入って同志社大学京田辺キャンパスを横切りました。道路を挟んで尖塔が美しい礼拝堂と向き合う正門から少し入った場所に継体天皇の筒城宮があったとされます。

  

道草のついでに京田辺市から隣の精華町へ向いました。府道22号に戻り、祝園(ほうその)駅の手前を右手に入った川西観光いちご園を訪れることにしました。ここは京都府内で有数のいちご園でビニールハウスが何棟も並んでいます。入園料1100円を支払うと5番のハウスを案内されました。長さが40-50mもある大きな温室です。

   

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畝(うね)の数が7つありました。畝の両側に苺(いちご)が実っていますから12列もある勘定です。季節的には少し早かったようですが赤く色付いた苺を何十個も食べました。昼食後でもありお腹がいっぱいになったことと温室内の暑さに閉口してギブアップです。苺狩りに夢中になって厚着をしていることを失念していました。

   

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京奈和自動車道(国道24号バイパス、愛称どんぐり街道)の精華下狛ICから終点の木津ICまで丘陵地帯を抜けて奈良市に入ります。京都縦貫自動車道と同様に対面通行の有料道路ですがトラフィックが少なく快適でした。

 

以下は余談です。京奈和自動車道は名前の通り京都・奈良・和歌山を結ぶ道路として建設中です。最初に開通した京都府城陽市から木津市の区間は「京奈道路」(一番上の写真の標識に小さく表記)と呼ばれています。高速道路仕様であることは京都縦貫自動車道と同じですが、異なる点は京奈道路は一般国道の扱い(国道24号のバイパス)であることです。名前も自動車道路脇には「どんぐり街道」の標識が多数ありますが国道24号の標識はありません。また名称には高速道路を意味する自動車道ではなく「道路」が付いている何とも不思議な道路です。

  

木津ICを出ると県境です。ここ奈良市歌姫から大和郡山市横田の区間は「大和北道路」(高速仕様)として開通しています。国道24号バイパスの扱いですがこちらは無料の一般国道です。大和郡山市から橿原市の区間は「大和御所道路」の一部として開通していますから、京奈道路(片側一車線)に続いて大和北道路と大和御所道路(いずれも片側2車線)を利用すれば実質的には高速道路区間となっています。

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2008年3月15日 (土)

大和路のドライブ旅: 継体天皇と河内国

奈良に入る前に大阪府枚方市に立ち寄ることにしました。継体天皇が507年に即位して約10年間滞在した場所とされる樟葉宮(くずはのみや)を訪れるためです。

2008_03110017 今回も七つ立ちです。トラックで溢れる東名高速道路から名神高速道路に入りました。関ヶ原ICに差し掛かると雪が降り始めました。彦根から八日市までは雪景色です。瀬田東JCTで京滋バイパスに入り、巨椋池(おぐらいけ)JCTで第二京阪に反れると八幡東ICです。京都府八幡市から一般道路で隣接する大阪府枚方市に入りました。

京阪本線樟葉駅の北東、楠葉丘2丁目の狭い道で交野天神社(かたのてんじんじゃ)に向いました。市境にある楠葉中学に隣接して周辺の住宅地とは隔絶されたような木立に囲まれた神社です。

 

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境内を抜けた貴船神社に「此附近継体天皇楠葉宮址」の石碑が残されていました。継体天皇が507年に即位した場所とされ、日本書紀によれば10年以上に渡ってこの楠葉宮に留まったとされます。長い間大和へ入らなかった理由は定かではありませんが、何らかの支障が大和に存在したのでしょう。楠葉に宮を置いたのは継体天皇の即位を支援する豪族がこの地に居たからと考えられます。京田辺市多々羅都谷(みやこだに、同志社大学キャンパス内)の筒城宮(つつきのみや)と長岡京市今里(いまざと)の弟国宮(おとくにのみや)を経て、即位してから約20年後の526年に天香久山近くの桜井市池之内にあったとされる磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)へ宮を移しました。

 

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樟葉宮との表記もありますが楠葉との違いについては京街道の記事で触れています。交野天神社の参道(現在は商店街)は京街道へと一直線に伸びていました。

次いで訪れたのは高槻市です。京街道散策で何度も往復した府道13号と国道170号で15kmほどの距離です。直線距離では8km足らずですが淀川に架かる橋が少ないのでかなり遠回りになります。西国街道の芥川宿から西方へ約2km進んだ氷室町一丁目の角に道標が3つあり、「右 石川 見山 妙見道」「右 芥川 山崎 京都 左 豊川 池田 神戸」「右ハ妙見 すく惣持寺 すくそう寺 道」「右 妙見道」と刻まれています。

 

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右手の妙見道に入るとすぐ前方に「今城塚古墳」が広がりました。[衛星写真] 工事用と思われるフェンスに囲まれています。説明看板には古墳を復元するのではなく公園として整備中であるとありました。

 

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撮影している時に声を掛けていただいた地元の方から話を聞くことができました。かなり長期に渡って工事が続いていることや大量の土砂が運び込まれて現在は立ち入りが出来なくて残念なことなどです。

 

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古墳の北側にある今城塚公民館に飛び込みで尋ねたところ古墳の詳細な資料を戴きました。高槻市から茨木市にかけての地域に古墳群や遺跡が多数あることが説明されています。この摂津国にも継体天皇を支持する有力豪族が存在したのでしょう。

 

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西国街道をさらに2kmほど西進した茨木市東太田4の藍野学院短大と藍野病院に接するように「太田(おおだ)茶臼山古墳」がありました。

 

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西国街道から参道を100mほど入った場所は宮内庁が継体天皇陵とする「三島藍野陵」です。[衛星写真] 継体天皇陵は今城塚古墳とこの太田茶臼山古墳が候補とされますが、宮内庁の見解と今城塚を有力視する考古学者の見方が異なります。2km程しか離れていない二つの古墳はいずれも周濠を廻らした立派な前方後円墳です。墓の所在地も大和でなく摂津国であることには何か理由があったのでしょう。

 

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西国街道は東太田4交差点から先が一方通行になっています。雲見坂を下りる途中にある道標は「左 京 ふしみ道」「右 とん田 ミしま田 道」と読めました。

 

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2008_03110083右手に入ると延喜式内社の太田神社がありました。200mほど進んだ鳥居脇に立ち入り禁止の表示と防犯カメラが設置されている旨が書かれています。Uターンをするスペースもありませんから入り口近くの住宅地まで200mほど後退しました。西国街道の左手は1段低くなっており、東芝大阪工場の広大な敷地が拡がっています。

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2008年3月13日 (木)

大和路: 古墳時代から大和政権へ(後編)

2008_03110149 712年に編纂された古事記は神話に始まっていますが、皇国史観に基づいてすべてが史実とされた戦前とは異なり、現在は初期天皇の系譜も神話とする考えが定着しました。神話としてよく知られるものは、天孫降臨、スサノヲノミコト(漢字表記は複数あり)のヤマタノオロチ退治、出雲におけるオオクニヌシノミコト(大国主命)の国譲り、神武東征などがあります。その解釈についての定説はありませんが、これらの土地が「幻の4世紀」を考える上でヒントになるかもしれません。

 

ヤマタノオロチの体内から出たクサナギノツルギ(草薙剣)はヤマトタケルが東国遠征に携行したとされ、尾張国の熱田神宮に祀られています。出雲には大国主命を祀る出雲大社があり、吉備には吉備神社が存在するなど、有力な豪族が存在した場所には現在まで続く神社が祀られています。考古学の成果では、島根県斐川町(ひかわちょう)で発見された荒神谷(こうじんだに)遺跡から大和をはるかに凌ぐ300本以上の銅剣が出土しています。また出雲地方の古墳が前方後円墳ではなく「前方後方墳」であることも大和の支配下にはない勢力が存在した証左と考えられます。

 

2008_03110153_7 西日本を統一しつつあった大和政権も、崇神天皇に始まる三輪山の麓に古墳を造った王朝、応神天皇の河内王朝、そして前述した北陸出身の継体天皇が樟葉宮(大阪府枚方市)で即位するなど目まぐるしく変化します。(写真は桜井市柳本町にある崇神天皇陵)

 

「記紀」においてはこの過程の説明に不自然な点が多く様々な勢力争いがあったことを窺うことができます。後世になって「万世一系(ばんせいいっけい)」を正当化するために作られた話と考えるのが自然でしょう。史実が勝者に都合が良いように改竄される例は後世でも多く見られます。

 

上記のように、「神話」、「豪族の対立」、「大和政権による国家統一」に続いて、「大化の改新」(646年、蘇我入鹿が暗殺された645年とする説もある)を経て律令制度による中央集権国家が成立します。次回以降は考古学の発見(大和の古墳群)と歴史が客観的になり始めた継体天皇から天武天皇までの大和政権に縁の場所を探索します。□

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2008年3月12日 (水)

大和路: 古墳時代から大和政権へ(前編)

久しぶりに奈良を訪れました。同じ古都である京都に比べると訪ねる機会は少ないのですが、京都とは違う魅力がある場所です。この奈良の地に日本で最初の王権が誕生したことは大変興味深いと思います。日本が世界史にはじめて登場した邪馬台国(倭国)はロマンが感じられるためか江戸期や戦後にもその場所についての論争がありました。私の好きな松本清張氏の著書(北九州説)や有明説を唱えた宮崎康平氏の著書を読んだことがあります。現在に至っても九州説と畿内説の間で決着をみていません。

  

邪馬台国が中国の「後漢」や「魏」に朝貢(ちょうこう)した3世紀中頃以降、大和政権が「東晋」や「宋」への朝貢を始める5世紀までの約150年間は日本が中国史に登場することがなかったため「幻の4世紀」と呼ばれる歴史の空白期間が存在することが古代の日本史を曖昧なものにしています。緩やかな権力集団が日本の各地に存在する中で大和政権が西日本を統一するに至った経緯は後世になって編纂された「古事記」と「日本書紀」(いわゆる記紀)に拠るしかありませんでしたが、近年になると考古学が発展したことで徐々に古代の状況が明らかにされ始めています。訪れる前に古墳時代から大和政権(大和王権とも呼ばれる)について少し調べてみました。

  

2008_03110132 奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡は弥生時代末期から古墳時代前期のものと推定される前方後円墳が多数あり、その規模は大和に当時から有力な勢力があったことの証左です。

  

中でも有名な箸墓古墳(はしはかこふん)は3世紀後半のものであるとされます。これ以降、前方後円墳が西日本に広まったようです。写真は箸墓古墳と考古学者樋口隆康氏(邪馬台国大和説を唱える京都大学名誉教授)の歌碑です。

  

4世紀から5世紀にかけては前方後円墳が東日本にも拡大しました。昨年訪れた埼玉県行田市の稲荷山古墳もこの時代のものと見られ、「獲加多支鹵大王(雄略天皇と推定される)、辛亥年(471年と推定)七月」の文字が記された金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が出土しており、大和政権の影響力が5世紀には埼玉県まで及んでいたことが分かります。

  

この時期は朝鮮半島や中国との交流が深まったこともあり、養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術が渡来人によって日本にもたらされました。しかし大和政権はまだ国を統一するには至っていなかったようで、筑紫・出雲・吉備・播磨・伊勢・尾張などの豪族が従わなかったとされています。

  

2008_03110052_25世紀から6世紀にかけて朝鮮半島で諸国間の争いが激化し、国内でも越前(あるいは近江)の勢力を背景とする継体天皇が大和政権を507年に継承しました。写真は枚方市の交野(かたの)天神社境内にある継体天皇が即位したとされる樟葉宮跡伝承地です。

  

継体天皇の即位後も北九州の磐井(いわい)氏が大和政権に反乱した「磐井の乱」(527年、継体天皇が百済に援軍を派遣したことに関連)が発生するなど国内は不安定な状態でしたが、諸勢力を制圧した推古天皇以降はいわゆる大和政権が国家としての基盤を確立することになりました。(続く)

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2008年3月 4日 (火)

啓蟄

明日は啓蟄(けいちつ)です。寒さの厳しかった冬がいよいよ終わります。ゴルフ場の芝生に緑が戻りゴルフコンペで久しぶりの準優勝と今春は順調な滑り出しです。「大山道探索」の記事はちょっと長すぎましたのでここで気分一新をしたくなりました。

2008_02290012 地下鉄半蔵門線の青山一丁目駅を降りて赤坂御用地に沿い外苑東通りを信濃町駅方面に歩きました。所用で明治記念館を訪れるためです。JR信濃町駅で降りる方がずっと近いのですが赤坂御用地の石垣と百合の木が続く歩道が好きなのです。百合の木の並木は甲州街道の四谷付近で見かけたことがあります。すぐ左手の明治神宮外苑にある絵画館前の銀杏並木を当ブログで紹介しています。

 

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外苑東通りと権田原坂(安鎮坂)が交わる権田原(ごんだわら)交差点の角に明治記念館の入口があります。これまでも何度か訪れたことがあります。門を入るとすぐ右手に「憲法記念館」の石碑(徳川家達公爵の書)があります。説明によれば明治記念館の本館は元赤坂仮皇居内(現在迎賓館がある場所)にあった建物で、帝国憲法制定時に会議場として使われ、明治神宮外苑の造営(大正15年竣功)に当って現在の場所に移設されたそうです。戦後は明治神宮の結婚式場となり現在に至っています。

 

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庭園には昭和41年に行われた大改修時に創建当時の菊花紋入り鬼瓦(獅子口)と昭和43年に奉納された天然記念物「さざれ石」(石灰質角礫岩、かくれきがん)が置かれていました。

 

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横の植え込みでは梅がほころび、椿の花も今が最盛期です。芝生も植え替えられて、まるで人工芝のように青々と綺麗でした。

 

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春を待ちきれず、またドライブ旅に出ることにします。

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2008年3月 3日 (月)

大山道探索: 伊勢原市(大山参詣)

追分駅から下社駅まで大山ケーブルカーを利用すれば阿夫利神社(あふりじんじゃ)下社はすぐ近くです。伊勢原カントリークラブ越しに平塚と茅ヶ崎の市街地が望めます。相模湾の先は三浦半島南総です。

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2008_02180141真新しい石段を上ると下社の本殿です。境内には屋根から下ろされたと思われる雪が残っていました。

 

 

 








大山山頂(標高
1253m)には阿夫利神社の奥社がありますが、振り返ると伊勢原と藤沢、鎌倉方面が開けて、江ノ島もはっきり見えます。左手前は先ほど前を通った東海大病院でその先が寒川神社ですから、藤沢へと「田村通り大山道」が伸びているのでしょう。

大山道(矢倉沢往還)は残念ながら死角に入っています。大山道の高台からは大山が良く見えたのですが・・・。やはり奥社あるいは見晴台まで上る必要がありそうです。

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参詣したあとは二重滝がある二重神社から見晴台まで歩くつもりでしたが、積雪で足元が悪いので断念しました。これまで何度か参詣したことのある阿夫利神社ですが大山道を探索しながらのドライブは良い思い出になりました。石段下には「西の茶屋」の下社店があります。

阿夫利神社は永く雨降山大山寺(あぶりさんおおやまでら)と呼ばれていましたが明治初年の神仏分離により現在の大山阿夫利神社に戻されたそうです。(同神社のhp) 江戸時代に盛んだった大山講は大山寺への参詣だけではなく、大山全体が信仰の対象だったのでしょう。当時は多数の宿坊がありましたが、その大半が旅館に変わって現在は51軒(大山旅館組合のhp)あるそうです。分離された大山寺は明治初年に阿夫利神社下社の場所から少し麓に近い現在の場所に移されました。

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大山ケーブルカーの不動前駅で下車して大山寺にも参詣しました。

 

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本堂の左手に地上高が約11mもある青銅製の宝筐印塔(ほうきょういんとう)、八大童子と倶利伽羅の滝などがあります。

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駐車場から旅館街を少し下りた所に今日の日帰り湯である「こまや旅館」がありました。急な坂を上った場所に車を停めました。こまや旅館は古びた建物です。玄関を入ると温泉旅館らしく賑やかな飾り立てがありましたが人気は感じられません。年配の女性にお風呂をお願いしました。入浴料金は1050円(タオル付き)です。二階に誘われました。貴重品用ロッカーに手荷物を入れて浴室に向います。 

 

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案内する女性に従って細くて長い廊下を何度も曲がりながらどこまでも進みました。そして男湯と女湯の分岐点に差し掛かりますがその先も廊下を23度曲がりました。まさに迷路です。脱衣場は左右に2箇所あります。右手の脱衣場の奥は内湯のようですが施錠されていて利用できません。

左手の脱衣場は旅館の建物にそぐわない新しさです。露天風呂と書かれた引き戸を開けた半露天の浴室も最近造り直されたようで明るく清潔な感じです。目隠しの板壁の上下が広く開いているので開放感は十分です。鈴川越しに山と民家が見えて快適です。

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浴槽の角にある湯口から湯が豊かに流れる掛け流しです。泉質はカルシウム・ナトリウム-塩化物・硫酸塩泉で無色透明です。Ph9.2ですがさっぱりした湯でした。少し熱めの湯は冷たい外気にはちょうど良い。源泉の温度は29度で加温されていますが加水・循環・消毒はしていないと説明されています。

2008_02180010_2 十分に温まったあとは休憩室に向いました。3間が続いた和室でおよそ30畳の広さがあります。窓際の椅子にはマッサージ器が置かれていて自由に利用できるのはありがたいのですが機能的には十分とは言えないのが残念です。同行者はと見ると横になっていました。湯が熱かったそうです。もう一組のカップルが入って来ました。山歩きをしたのか濡れた服の話をしています。

 

<同行者のコメント> とても車が通れそうにない細い道の連続で何度もハラハラしました。運転者さんは何やら資料を見ながらあれこれ考えています。後ろから車が来ないかと心配でした。大山はずっと昔(20年以上前)ですが一番下の子供を背負って山頂まで登ったつらい経験があります。山頂では市価の数倍(200-300円も)した缶ジュースが高く感じなかったことを思い出しました。ショイコにいっぱい背負って登る人を見かけたからです。今回は山歩きをしなくてすみましたが温泉が熱くてグロッキーになってしまいました。初めての経験です。□

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2008年3月 2日 (日)

大山道探索: 伊勢原市(その3)

子易(こやす)の比比田神社にも参拝しました。

 

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子易上で県道611号(大山坂戸線)は左の新道へ迂回しますが直進する大山道で三の鳥居を潜りました。大山駅バス停で県道と一緒になり、鈴川沿いの宿坊(旅館)街を抜けて阿夫利(あぶり)橋を渡ると、第2駐車場が大山道探索ドライブの終点です。車を停めて鈴川沿いの坂道を歩きました。

 

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道は二手に分かれます。右手の石段を進みました。コマの絵が描かれたタイルがはめ込まれている「こま参道」は石段を上るとコマの数が増えて行きます。歩いた目安なのでしょう。みやげ物店、豆腐料理屋、宿坊などが並んでいます。

 

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ちょうど昼食時になりましたので「西の茶屋本店」に入り、ユバ丼セットとユバそばを注文しました。一段高くなった奥の席からはガラス戸越しに裏口のようなものが見えます。

 

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店員の若い女性に訊くと昔は表玄関だったものが関東大震災で鈴川沿いの参道が崩落したために店を横切るように石段の参道が造られたのだそうです。そのために現在の石段参道の両側に同じ店が並ぶことになったとも説明してくれました。下の写真は西の茶屋本店の旧玄関と阿夫利神社の旧参道です。

 

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店員さんに勧められたことで配膳されるまで店の内外を撮影しました。折からの冷え込みで氷柱が出来ています。そして池の鯉もじっとして動きません。

 

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ユバ丼はユバがたっぷり入った鍋とご飯が別になっています。湯葉丼と言えば箱根湯本駅前の「直吉」が有名ですが、この店のゆば丼も美味しかったです。湯豆腐や田楽にも心が動いたのですがゆば丼にして正解でした。同行者も湯葉が添えられたざるそばを美味しそうに食べています。

 

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参道脇の龍神さんにお参りしたあと雲井橋を渡り、右手に折れて大山ケーブルカーの追分駅へ向いました。(続く)
 
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2008年3月 1日 (土)

大山道探索: 伊勢原市(その2)

東海大学付属病院の巨大な建物が眼前に聳えます。病院の駐車場にそって進むと市米橋右手前の畑の奥に「せきどめ地蔵」があります。大山道の道標を見つけました。

 

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市米橋を渡った耕雲寺で梅が咲いていました。交差点を直進したため大山道から外れてしまったようです。

 

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県営伊勢原峰岸団地前を過ぎると東名高速道路に行き当たりました。大山道は分断されていますのですぐ左手のトンネルで東名高速道路を潜ります。

 

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東名の側道脇に東〆引(しめひき)の道標があります。「右 いゝやま道」「左 ひなた道」、中央に 「七五三引村」と書かれています。七五三引はしめひきと読むようです。

 

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この先は未舗装の車がやっと通れる狭い道になり、千石堰用水にそって進みました。今回辿った大山道のなかでは川崎市溝口の「ねもじり坂」や横浜市青葉区の「石塔坂」と同様に道幅が狭く車にとっての難所です。

  

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三所石橋供養塔を過ぎると左手にカーブ、S字型の狭い路をさらに進むと「台の道標」がありました。「上り大山道」、寛政11年(西暦1799年)と記されています。

 

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右折した広い道で上粕屋神社へ向います。途中の交差点角に七人塚を見つけました。太田道灌が主君である上杉定正に謀反の疑いを掛けられて暗殺された時に、これを防ごうとして討ち死にした家臣7名の墓と伝えられます。もとは上粕屋神社の境内にあったそうです。川越(河越)城跡で銅像を見た太田道灌(本名が資長)は、江戸城、岩槻城を築くなど上杉家の重臣として関東一円で活躍した後に、この相模の国で非業の死を遂げたのです。源氏の流れを汲む家系と言われます。

   

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粕屋神社に立ち寄ったあと、石倉橋交差点で県道611号(大山板戸線)に入りました。交差点の右手に不動明王を兼ねた石倉橋の道標と双体道祖神があります。道標には「此方 ひらつかみち」「左 青山道 あつぎ道 戸田道」「右 い世原道 田むら道 江乃島道」「此方 はたのみち」と彫字されています。大山まではもう一本道です。

 

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石倉橋交差点から大山道を外れて県道611号(大山坂戸線)を南下した東名高速のすぐ北に二の鳥居があります。この道は東海道の辻堂四ツ谷から寒川神社の近くにあった相模川「田村の渡し」を経て大山へ向う「田村通り大山道」です。つまり東海道から大山詣(もうで)をする人達向けのコースです。大山道は子易(こやす)明神比比多(ひびた)神社を過ぎるとなだらかな上り坂になりました。 (続く)

  

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