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2008年3月26日 (水)

大和路のドライブ旅: 平城京(後編)

2008_03110306_2薬師寺は平城宮の西を通る県道52号(奈良精華線)から県道9号(奈良大和郡山斑鳩線)を2km余り南下した場所にあります。天武天皇が皇后(天智天皇の皇女で後の持統天皇)の病気平癒を祈願して創建した寺で、観音池と近鉄橿原線に挟まれた境内には当時のまま残る東塔の他に1976年以降に金堂、西塔、中門、回廊が復興されました。[衛星写真]

    

本尊は国宝の釈迦如来坐像と聖観音菩薩立像(りゅうぞう)で、他にも国宝の薬師三尊像の薬師瑠璃光如来・日光・月光(がっこう)菩薩立像、僧形八幡神立像、神功皇后坐像、仲津姫坐像など白鳳時代(飛鳥時代後期)から平安時代初期の彫像(国宝・重文20数点)が安置されています。

   

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次いで唐招提寺(とうしょうだいじ)を拝観しました。[衛星写真] 来日した唐の高層鑑真和上(がんじんわじょう)が開いた寺で、奈良時代に建立された金堂と平城京の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築した講堂が現在まで残っています。いずれも国宝に指定されています。本尊は講堂に安置される重要文化財の弥勒仏坐像です。

  

2008_03110309_3 昭和35年に復元された南大門を入りました。金堂は2009年秋まで解体修理が続く平成大修理のため工事用建屋に覆われて拝観はできませんが、金堂の仏像は講堂に移されて展示されていました。国宝の盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)、千手観音立像、薬師如来立像、梵天(ぼんてん)立像、帝釈天(たいしゃくてん)立像、四天王立像など数え切れません。

 

講堂を出たあとは松尾芭蕉の句碑、御影堂(みえいどう、みえどう)、礼堂東室(らいどうひがしむろ)、そして国宝の経堂、宝堂、舎利殿(唐招提寺唯一の重層建造物で鼓楼とも呼ばれる)などを見て回りました。御影堂に安置される国宝の鑑真和上坐像は残念ながら拝観できません。写真は講堂(左下)と宝堂と奥の経堂(右下)です。

    

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旅のフィナーレは西大寺(さいだいじ)です。現在の西大寺は住宅に囲まれて、東西十一町・南北七町と伝えられる往時の伽藍の広大さは窺えません。西大寺駅横の踏み切りを渡って東門近くの駐車場から境内に入りました。[衛星写真]

 

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四王堂、本堂、愛染堂が建ち並んでいました。現在の本堂(重要文化財)は江戸期に建立されたものだそうです。本尊は十一面観音像(四王堂)、釈迦如来立像(本堂)、愛染明王坐像(愛染堂)でいずれも重要文化財に指定されています。その他にも重要文化財として聚宝館の行基菩薩坐像などが安置されています。

  

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2008_03110316_4 鎌倉時代に再興された伽藍の中心となった東塔跡の巨大な基壇と礎石から奈良時代の西大寺を想像してみました。高さが約45mの五重塔であったと伝えられます。

 

これと並んでいた西塔は平安時代に雷火で消失し、東塔も室町時代の戦火で焼失したことが説明されています。「JR東海のCM」では幻の塔を強調してミステリアスに紹介していました。

  

境内にある幼稚園は園児が帰宅する時間帯で賑やかです。

  

<関連情報> 遷都の目的とは?

 

記事本文の繰り返しになりますが、本格的な京(都城)は藤原京(710-740年)が最初で、平城京(710-740年)、恭仁京(740-744年)、難波京(744-745年)、平城京(後期、745-784年)、長岡京(784-794年)と長くても40年で遷都されています。今回のドライブ旅で訪れた都は、推古天皇の飛鳥宮、持統天皇の藤原京、元明天皇の平城京のいずれもが女性天皇(女帝)の築造によることは偶然でしょうか。頻繁に遷都が行われた背景に触れてみます。

元明天皇による平城京遷都は蘇我氏から藤原氏へ朝廷の権力が移行した後に行われました。元明天皇の子と孫である文武天皇および聖武天皇はいずれも藤原不比等の娘を妃に迎えています。文武天皇の母元明天皇(天智天皇の皇女)は文武天皇が亡くなった後に即位、文武天皇の姉である元正天皇(女帝)を経て聖武天皇へと継承されるまで政治的な不安定要因が存在したことが遷都の背景にあったのかも知れません。

聖武(しょうむ)天皇が京都府木津川町の恭仁京と大阪市の難波京、そして滋賀県甲賀市信楽町(しがらきちょう)の紫香楽宮(しがらきのみや)と短期間(5年間)に遷都を4回も繰り返した理由は定かではありません。藤原一族から天皇の権力を取り戻す政治的な理由だけではなく、天皇が唐の都を真似たことや大仏建立の目的などが考えられるとする説があります。紫香楽宮はわずか5ヶ月で放棄されましたが、平城京に匹敵する本格的な都「甲賀宮(こうかのみや)」の計画があったことが最近の宮町遺跡の発掘で明らかにされつつあるようです。

一方、桓武天皇による長岡京・平安京への遷都は、水陸の交通の便が良いことが理由と記録されていますが、山背(山城)国の勢力との関係、あるいは強くなり過ぎた平城京の仏教勢力の影響を排除する目的を遷都の理由とする説があります。平安京への再遷都は長岡京での川の氾濫や疫病などによるとする説、あるいは平安京遷都への抵抗を和らげるための仮遷都であったとする説などがあって定かではありません。

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