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2008年3月12日 (水)

大和路: 古墳時代から大和政権へ(前編)

久しぶりに奈良を訪れました。同じ古都である京都に比べると訪ねる機会は少ないのですが、京都とは違う魅力がある場所です。この奈良の地に日本で最初の王権が誕生したことは大変興味深いと思います。日本が世界史にはじめて登場した邪馬台国(倭国)はロマンが感じられるためか江戸期や戦後にもその場所についての論争がありました。私の好きな松本清張氏の著書(北九州説)や有明説を唱えた宮崎康平氏の著書を読んだことがあります。現在に至っても九州説と畿内説の間で決着をみていません。

  

邪馬台国が中国の「後漢」や「魏」に朝貢(ちょうこう)した3世紀中頃以降、大和政権が「東晋」や「宋」への朝貢を始める5世紀までの約150年間は日本が中国史に登場することがなかったため「幻の4世紀」と呼ばれる歴史の空白期間が存在することが古代の日本史を曖昧なものにしています。緩やかな権力集団が日本の各地に存在する中で大和政権が西日本を統一するに至った経緯は後世になって編纂された「古事記」と「日本書紀」(いわゆる記紀)に拠るしかありませんでしたが、近年になると考古学が発展したことで徐々に古代の状況が明らかにされ始めています。訪れる前に古墳時代から大和政権(大和王権とも呼ばれる)について少し調べてみました。

  

2008_03110132 奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡は弥生時代末期から古墳時代前期のものと推定される前方後円墳が多数あり、その規模は大和に当時から有力な勢力があったことの証左です。

  

中でも有名な箸墓古墳(はしはかこふん)は3世紀後半のものであるとされます。これ以降、前方後円墳が西日本に広まったようです。写真は箸墓古墳と考古学者樋口隆康氏(邪馬台国大和説を唱える京都大学名誉教授)の歌碑です。

  

4世紀から5世紀にかけては前方後円墳が東日本にも拡大しました。昨年訪れた埼玉県行田市の稲荷山古墳もこの時代のものと見られ、「獲加多支鹵大王(雄略天皇と推定される)、辛亥年(471年と推定)七月」の文字が記された金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が出土しており、大和政権の影響力が5世紀には埼玉県まで及んでいたことが分かります。

  

この時期は朝鮮半島や中国との交流が深まったこともあり、養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術が渡来人によって日本にもたらされました。しかし大和政権はまだ国を統一するには至っていなかったようで、筑紫・出雲・吉備・播磨・伊勢・尾張などの豪族が従わなかったとされています。

  

2008_03110052_25世紀から6世紀にかけて朝鮮半島で諸国間の争いが激化し、国内でも越前(あるいは近江)の勢力を背景とする継体天皇が大和政権を507年に継承しました。写真は枚方市の交野(かたの)天神社境内にある継体天皇が即位したとされる樟葉宮跡伝承地です。

  

継体天皇の即位後も北九州の磐井(いわい)氏が大和政権に反乱した「磐井の乱」(527年、継体天皇が百済に援軍を派遣したことに関連)が発生するなど国内は不安定な状態でしたが、諸勢力を制圧した推古天皇以降はいわゆる大和政権が国家としての基盤を確立することになりました。(続く)

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