大徳寺と蒲生氏郷(前編)
京都滞在の最終日は大徳寺を訪れました。北区紫野にあります。堀川通りから北大路に入りました。コインパーキングに車を停めて北大路を歩き、大徳寺前の交差点を右折すると、大徳寺の駐車場がありました。迂闊でした。同行者は駐車場を指差しながら「以前、来たことがあると」言います。咄嗟(とっさ)にはいつだったか思い出せません。
境内に入ると右手に勅使門、山門(金毛閣)、仏殿、法堂(はっとう)が一列に並んでいます。応仁の乱で荒廃したこの寺を復興したのが一休禅師でした。山門(三門)の復興に当たっては千利休(せんのりきゅう)が二階部分を寄進して、参拝者を見下ろす形で自らの像を安置したため、秀吉の怒りを買って切腹させられたとも伝えられます。
これらの建物と並行する石畳の参道は臨済宗大徳寺派大本山らしい凛とした雰囲気です。参道の行き当りにある方丈(右下の写真)には国宝の方丈玄関と唐門がありますが残念ながら拝観はできません。大徳寺の境内には20を越える搭頭(たっちゅう、寺院)があるそうです。そのうち大仙院、高桐院(こうとういん)、瑞峯院(ずいほういん)、龍源院(りょうげんいん)の4つは常時拝観ができます。
高桐院は方丈の前の参道を左手に進み、近衛家廟所と石田三成の墓がある三玄院を抜けて、さらに左手に入った所です。
紅葉の名所として知られる細川家の菩提寺です。細い参道を折れ曲がりながら入ると拝観者用の入口でした。庭は雨に濡れた苔と木々の緑が鮮やかです。
右手の庭に下りて釣瓶(つるべ)井戸の先へと進むと細川忠興など細川家代々の墓と細川ガラシャの墓が並んでいます。
緑色の紅葉もまた美しい彩です。
大徳寺は本能寺で倒れた織田信長の菩提を弔って羽柴秀吉が総見院を建立した寺としても知られますが、茶道に関連の深い寺です。千利休や国宝の茶道具をはじめ、茶道を愛好した織田信長の影響で臣下の豊臣秀吉、そして利休七哲(りきゅうしちてつ)でもあった細川忠興、高山右近と蒲生氏郷(がもううじさと)にも縁があります。
今回、大徳寺で最後に訪れたのは信長が建立した黄梅院(おうばいいん)です。勅使門近くまで戻って南へ80mほど歩いた所にありました。毛利輝元や小早川隆景など多くの戦国武将とともに蒲生氏郷の墓があるのですが、やはり拝観はできませんでした。開かれた門から僅かですが建物と庭が見えます。拝観できる日があればまた訪れたいと思います。
実は戦国武将の蒲生氏郷に興味を持ち、近頃は氏郷のことを書いた本を読み漁っています。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の天下人はもちろん、武田信玄、明智光秀、伊達政宗などの戦国武将が良く知られることに比べると蒲生氏郷の知名度は高くありませんが、何冊も本を読み進むにつれて興味深い人物であることが分かりました。信長の影響を受けて築城・町造り・商工業の振興に熱心で、高山右近と親交があったことでキリシタン大名(洗礼名はレオン)となりました。
大友・木村・有馬などのキリシタン大名が天正10年にローマへ派遣した有名な「天正の少年使節」と同様、蒲生氏郷も天正12年に家臣の山科勝成ら12人を、天正14年に竹村知勝らを、天正16年に異母弟の貞秀を、さらに18年には町野友重をローマへ派遣したと伝えられます。(池内昭一著「蒲生氏郷」より)
氏郷と秀吉が死去した後、大坂冬の陣が起こる前年の慶長18年にライバルの伊達政宗が家臣の支倉(はせくら)常長を正使としてローマに派遣した「慶長遣欧使節」も良く知られています。一昨年、宮城県の牡鹿(おが)半島をドライブした時に支倉常長が出港した牡鹿郡月ノ浦(現在の石巻市月浦港)を通過したことがあります。(続く)
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