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2008年7月に作成された記事

2008年7月26日 (土)

新宿副都心のビル群(後編)

議事堂通りの右手は先ほどNSビルから見た京王プラザホテル、前方には同じく新宿住友ビルと新宿アイランドがあります。高層ビルとして大先輩格の新宿住友ビル3角形の独特のフォルムを持つことから「三角ビル」とも呼ばれています。ビル内に最上階まで三角形の吹き抜けがあるのはNSビルのモデルになったのでしょうか。

(写真:左下は議事堂通りの北方向、右下は同じく南方向)

 

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京王プラザ(左下)に隣接する新宿三井ビルは真っ黒に塗られたまさに異色のビルで、日本一の高さを誇った新宿住友ビルを抜いて日本で最初に200mを越えた高層ビルです。新宿センタービルと工学院大学の間に一際ユニークなビル(右下)を見つけました。モード学園コクーンタワーでした。好き嫌いが分かれそうな近未来的なデザインを持つこのビル(地上50階建て、高さ203.65m)は今年10月末の竣工が予定されています。

 

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右手の新宿三井ビルの奥には新宿野村ビルと損保ジャパンビルが並び(左下)、前方は北通りに面した新宿アイランドです。円柱形の新宿アイランドホール(右下)と半地下の円形パティオ(左下2段目)がアクセントになっています。

 

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北通り沿いには奇抜なデザインの天文時計がある塔(オベリスク)と水が流れる人工的な池もありました。その池の中に真っ白な大理石のようなオブジェ(パブリックアート)が並んでいます。その表面に何やら手書きで文字が書かれているのを見つけ(右下の写真)、今話題になっている落書きかと思いましたが、良く見るとデザインの一部のようです。残念ながら判読できません。イタリア人のデザインですからイタリア語かもしれません。高層ビル街のなかにあってなぜかホットできる空間でした。

 

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北通りを新宿中央公園に向かうと、L字形をしたハイアットリージェンシー東京と緩やかな曲面に特徴があるヒルトン東京のデザインが対照的です。

 

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公園通りに入って新宿中央公園前を通り過ぎるとNSビルからも見えた新宿パークタワーです。西新宿のビルとしては都庁に次ぐ高さを誇る高層ビルで、三角屋根を持つ高さの異なる3つのビルを組み合わしたデザインです。32階以上には「パークハイアット東京」が入居しています。甲州街道(国道20号)と首都高速の新宿出入口に囲まれたビル街の一番外れに位置します。

 

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2008_07080074高速道路の高架下に西参道口交差点の名がありました。明治神宮の西参道への入口です。都庁前駅へ戻る途中に見かけた佐鳴(さなる)予備校のユニークなビルを最後に紹介します。同社は東海地方を中心に約170校を展開する予備校最大手だそうです。ガラス張りの高層部とクラッシクな石造り風の低層部を組み合わせたデザインです。改築予定の東京中央郵便局もこんなイメージに変わるのでしょうか!?□

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2008年7月25日 (金)

新宿副都心のビル群(前編)

西新宿のNSビルを訪れる機会がありました。地下鉄大江戸線都庁前駅の最寄りで、都議会議事堂の下にある地下通路を利用すると便利です。外見は何の変哲もない30階建てのビルですが、エントランスから一歩中に入るとその空間に驚かされました。30階までが吹き抜けになっているのです。そしてその壁面には大きな振り子時計がアクセントになっていました。29階には東西を結ぶ空中通路(連絡橋)があります。

 

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専用のエレベーターで30階へ上がると西新宿のビルが展望できました。東南の代々木駅方向にビル群が見えます。真っ黒な新宿マインズタワー、白い縁取りの代々木ゼミナール、中央のエンパイア・ステート・ビルに似ているのはNTTドコモ代々木ビルで、いずれも隣の渋谷区にあります。南隣は新宿ワシントンホテルと文化女子大学、そして明治神宮と代々木公園の先には代々木競技場の第一体育館(代々木オリンピックプール)・第二体育館とNHK放送センターがよく見渡せます。

  

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北方向は左手に都庁の第一本庁舎、正面に都議会議事堂、新宿住友ビル、新宿三井ビル、京王プラザビル、そして一番奥の新宿アイランドが小さなガラス窓から辛うじて見えますが、それ以外の方向はオープンスペースからの展望がありません。

 

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所用を済ませたあと、西新宿のビル巡りを急に思いつきました。議事堂通りを北へ向かって歩くと、「ふれあい道路」との立体交差を過ぎた場所から都庁2つのビルが見えます。横浜のランドマークタワー(295.8m)が出来るまではこの第一本庁舎(243m)が日本一の高さを誇っていました。(続く)

 

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2008年7月20日 (日)

東京ステーションシティ

慌しい日々が続くなか、所用があって東京駅日本橋口のサピアタワーに出掛けました。JR東京駅は八重洲口と日本橋口の再開発が進んだことで見違えるようなビル街に変貌しています。江戸町奉行所跡を訪ねた時に工事中だった場所です。さらに丸の内側も駅前の新丸ビルや丸の内オアゾに続いて、歴史のある東京中央郵便局(ゆうちょ銀行本店)の建て替えが発表されました。東京駅丸の内駅舎も改装工事が進んでいます。戦災で破壊されて2階建てになった現在の駅舎を大正3年に竣工した時と同じ3階建てとし、北口と南口に吹き抜けドームを持つ美しい駅舎に復元するものです。これに合わせて駅前広場も整備されるようです。

 

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昼の休憩時間を利用して東京駅周辺を歩いてみました。サピアタワー20073月竣工、JR東日本の子会社が所有)の名はラテン語で知性を意味するサピエンスから付けられたようです。人間の学名である「ホモサピエンス(知恵のある属)」と同じです。日本橋口を挟んでこのサピアタワーの向えがわに建つのは丸の内トラストタワーN館(森ビルから分離した森トラストが保有)です。すぐ南側には今年11月に竣工予定の「丸の内トラストタワー本館」の外装がほぼ出来上がっていました。

 

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八重洲口で一際目立つのは八重洲口駅舎の両側に聳えるツインタワービル「グラントウキョウ」(200710月Ⅰ期竣工、JR東日本と国際観光会館が所有、全体は2012年竣工の予定)です。ノースタワーの低層部には大丸東京店の新店が入居しました。サウスタワー200711月竣工)と結ぶ中央デッキ「グランルーフ」の建設が計画(2013年竣工予定)されています。

 

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意外なことに、これら施設の住所はいずれも八重洲ではなく丸の内一丁目です。ノースタワーの場所にあったはずの北町奉行所の跡は残念ながら今回も見つかりませんでした。またサウスタワーの南隣はパシッフィクセンチュリープレイス丸の内(PCPM2001年竣工、32階、150m)ビルで八重洲口再開発の先陣を切って完成しましたが東京ステーションタワーには含まれませんし、右上の写真のように八重洲口からはサウスタワーに隠れて見えません。別の日にこのPCPMビルを訪れる機会がありましたので、その時の写真を掲載します。東京駅構内と東京国際フォーラムが一望できました。

 

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八重洲北口の改札前の先にある北自由通路で丸の内北口に出ることができます。一階と地階があり、八重洲口側の1階からはキッチンストリート(Kitchin Street)へ、地階からは黒塀横丁に入ることができます。今回は見送りましたが、中央改札口を入ると地下のグランスタ(GRANSTA)と1階丸の内口寄りのDila東京など巨大な「駅中(エキナカ)商店街」が出現しました。

 

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丸の内北口から地下鉄丸の内線の方面に進んだ行き当りが「丸の内オアゾ」(三菱地所他が所有)です。変わった名前を調べると「オアゾ(Oazo)」とはエスペラント語でオアシスの意味なのだそうです。エスペラント語とは今どき珍しいと思いました。旧国鉄本社跡などを再開発して2004年に竣工したガラス張りのユニークな建物です。

 

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丸の内駅舎は工事用の白い塀で囲まれています。その塀に東京駅の歴史とこれからの計画「東京ステーションシティ」が説明されていました。東京駅が復元される一方で、東京中央郵便局(丸の内二丁目)は平凡なデザインの高層ビル(ガラス張りの38階)に立て替えられると625日に発表されました。低層部には現在の局舎の外壁が残されて東京駅との調和を図るそうですが東京の顔がもうひとつ消えることは残念です。丸の内駅舎の後に見える建物は左からグラントウキョウ・サウスタワー、PCPMビル、そして東京中央郵便局南隣の東京ビルディングです。

 

追記: 東北縦貫線

東京駅-上野駅間に新たな線路を追加する計画が進んでいます。東北新幹線が東京駅に乗り入れるため1973年に廃止された東北本線の東京駅-上野駅間が東北新幹線の上部に線路を増設することで復活し、これまで上野駅止まりである宇都宮線(東北本線)、高崎線、常磐線の一部列車が東京駅まで乗り入れたり、東海道本線と相互直通運転が行われるのです。後者は湘南新宿ラインと同様の機能です。今年5月に着工され、2013年度の開通が予定されています。(JR東日本のhpより)

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2008年7月15日 (火)

身体の健康と学習効果

同居者を無理やり誘って健康セミナーに出掛けました。成人病についての話を聞いたあとは、ストレッチ体操の指導と成人病の簡単なチェック法である「血液のさらさら度検査」です。私の血液はさらさら度にまったく問題がありませんでした。プリントアウトされた測定値のグラフも正常値の範囲に、しかもほぼ中央に、入っています。これは偏(ひとえ)に若い頃に病歴のある私のために同居者が作ってくれる食事のお陰なのですが、飲酒の常習者である反面、スイミングなど身体を動かすことが好きなことも少しは貢献していると思います。気を良くすると人間は不思議なもので、さらに泳ぐ距離が伸びてきました。昨年までは40分で800mを目安としていましたが、深酒をしていなければですが、最近は2倍に近い距離が目安になっています。

スピードが2倍になったのではなく、休憩時間が短くなり、続けて泳ぐ持久力が付いてきたのです。これまでは呼吸が苦しくなると距離の限界としていましたが、最近はどこまでも泳げそうな気がします。もちろん筋肉が疲労すればそれ以上泳ぐことはできませんが。スイミングによって四国の歩き遍路に耐えられる持久力を付けたいと思います。そして、もし叶うことならばゴルフのスコアアップにも役立ってほしいものと欲の深いことを考えています。スイミングは持久力の強化に役立ちますが、実はもっと大きな効用があることが分かりました。それは精神的なストレスの解消です。カウンセラーの説明では、血液のさらさら度を悪化させる要因は食事の他にストレスがあるそうです。

スイミングの体験から思い至りました。スイミングもゴルフと同様に、ある日突然身体がレベルアップを理解することがあることです。これは語学の習得でも体験しています。つまり練習量はリニアー(練習時間に比例)ですが、その成果(上達曲線)は階段状であると感じることです。これは心理的なものなのでしょうか? あるいは花粉症の発症のように閾値効果(しきいちこうか、蓄積量が一定値を超えると変化する)のようなものがあるのでしょうか? 学習についての専門的なことは分かりませんが、私はいずれの学習・練習においても似た経験をしています。具体的には、外国語ではある日突然に相手の話すことが翻訳しなくても理解できるようになり、無線通信のモールスコードがそのまま判読できるようになり、ゴルフではボールのコントロールが可能であることが分かり、水泳では身体の動きと推進力の関係が体感できるようになったことなどです。一番分かりやすいのは自転車に乗れるようになった瞬間ではないでしょうか。

しかし、まだコントロールする方法が分からないことが一つあります。それは私の大好きなアルコールです。アルコールの場合は学習効果の階段(ステップ)が相当高いのでしょうか、それとも学習効果そのものが存在しないのでしょうか。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください。

<同居者のコメント> うちの旦那さまは血液のさらさら度チェックの結果がよくてご満悦です。同じ生活をしている私が要注意なのはどうしてでしょうか。わがままな旦那さまからストレスを受けていることが原因だと思います。いえ、そうだと確信しています。ストレス解消のため、もっと趣味に打ち込むことを決めました。

付記: 今年も月下美人によく似た孔雀サボテンが美しい花を咲かせてくれました。(6月18日撮影)
 
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2008年7月13日 (日)

紀尾井町の庭園

東京メトロ永田町駅を降りると、弁慶堀越しにグランドプリンスホテル赤坂(旧名称赤坂プリンスホテル)の新館が聳(そび)えていました。紀州徳川家の上屋敷跡に建築家丹下健三氏の設計で1983年に建てられた40階の建物です。弁慶堀に架る弁慶橋を渡ると紀州屋敷跡の石碑と案内板がありました。同じ敷地内にある旧館は、日韓併合で宮家となった旧李王家の邸宅であったものが戦後になって売却され、西武グループが1955年に赤坂プリンスホテルとして開業した建物です。

   

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紀尾井町通りの反対側はホテルニューオータニです。東京オリンピックを控えて外国人客の受け入れ施設を作る必要があった政府からの依頼で当時大谷重工業社長の大谷米太郎氏が紀尾井町の伏見宮邸跡地に建設したホテルです。ホテル開業直後に経営不振に陥った大谷重工業は1977年に大阪製鋼と合併して合同製鐵となり、現在は新日本製鐵の関連会社となっています。故大谷米太郎氏は波乱万丈の人生を送った人です。本業の製鉄会社を手放すことにはなりましたが、日本を代表する高級ホテルとして直営ホテルと多数のグループホテルを国内外に有する企業として今も健在です。

伏見宮邸は、もとは加藤清正の下屋敷で後に彦根藩井伊家の中屋敷であった場所に、明治初期に建てられましたが、その庭園がホテルの庭として保存されています。傾斜地を巧みに利用した日本庭園を休憩時間に散策しました。同様に傾斜地を活かした殿ヶ谷戸庭園(国分寺市)や小石川後楽園(水戸家上屋敷跡)よりも起伏があります。

 

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鴨や鯉を見ながら池を巡りました。朱に塗られた太鼓橋を渡ると茶屋風レストランの石心亭です。散策路は急な下り坂になりました。先はオフィスビルのガーデンコートへと続きますが、左手に折れるとこの庭のシンボルである大きな滝へと至ります。

 

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滝越しに見える本館の最上階にある回転ラウンジがこのホテルのシンボルで、映画「人間の証明」の舞台になったことでも知られます。開業の10年後には40階建の別館ホテルニューオータニ・ガーデンタワー が開業し、さらに1991年には賃貸オフィスなどが入る30階建のホテルニューオータニ・ガーデンコートもオープンしました。同時に浮世絵のコレクションを展示するニューオータニ美術館がこのビルの6階に開館しました。

 

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庭に咲く花々です。

 

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紀尾井坂を挟んだ上智大学四谷キャンパスは尾張名古屋藩尾張徳川家の中屋敷の跡地で、東京の地名の記事で書いたように紀尾井町の地名の由来となりました。

   

   

<追記> グランドプリンスホテル赤坂旧館(2008年11月18日)

 

11月上旬、このホテルの新館を訪れる機会がありました。弁慶橋の袂に機動隊が出動していて物々しい雰囲気です。

   

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所用のあとに別館の長い廊下を通って旧館に向かいました。諏訪坂を挟んで麹町中学校がある閑静な場所です。現在は結婚式場と仏料理レストラン「トリアノン」になっています。秋の叙勲が発表された直後で特別展示会が別館で開催されていました。勲章の伝達式もこのホテルで行われるようです。

 

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2008年7月 8日 (火)

名古屋 丸ごと散策(完): 徳川園と東山スカイタワー

名古屋城の東門を出て300mほど東に歩いた東大手駅で名鉄瀬戸線に乗りました。始点の栄町からこの駅までが地下区間で、この駅も名古屋城外堀の地下にあります。3つ目の森下駅で下車しました。徳川美術館と徳川園を訪れるためです。この周辺は戦災を免れたために古い町並みが残っています。徒歩で10分ほど歩いた徳川美術館は徳川家康の遺品をはじめ尾張徳川家の貴重な宝物が展示されていました。

 

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隣接する徳川園は典型的な大名庭園です。大きな池の龍仙湖を巡る回遊庭園は期待したよりも平凡でしたが、奥に入ったところに虎の尾や大曽根の滝などがあり、思いのほかの広さと静かな佇まいが気に入りました。

 

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まだ時間に余裕があるので大曽根駅から地下鉄名城線に乗りました。本山駅で東山線に乗り換えて東山公園駅で下車、東山公園内の東山スカイタワーに向かいました。動物園脇の坂道を1km余り上ると海抜80mの高台に建つ80mの塔があります。

 

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雨もすっかりあがって薄日が差してきましたので標高180mの展望室からは、御嶽山・乗鞍山・伊吹山など遠方の山々は見えませんが、名古屋の市街地が一望できました。足元には東山公園の遊園地、西方には名古屋駅前の高層ビル、東方には植物園の先に東(ひがし)名阪自動車道が手にとるように見えます。

 

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2008_05310304_2 東山タワーを降りて地下鉄星ヶ丘駅方面に歩いてみました。長細い駐車場を抜けて自動車道に沿って下り坂を10分ほど歩くと繁華街に出ました。

 

スロープを美しいテラス風に設(しつら)えた洒落た店舗は「星が丘テラス」、その隣は三越星ヶ丘店でした。再び地下鉄に乗って名古屋の中心部へ向かいます。

 

友人との会食を終えて新幹線で帰路につきました。発車間際に慌てて最後の一枚を撮影したためブレてしまったのが残念です。

 

2008_05310308満ち足りた一日を振り返りながら窓の外を眺めていると、高速で流れて行く夜景が映画「2001年宇宙の旅」のラストに登場した他銀河へのワープ(光速移動)シーンに似て見えました。高速道路のドライブや飛行機では体験できない楽しさに気づきます。

 

雨の中を10数kmも歩いたためでしょうか、それとも会食で弾んだ会話と少し過ぎた酒量が原因かもしれませんが、走馬灯のように流れる夜景はいつの間にか私の意識から遠退いて行きました。□

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2008年7月 7日 (月)

名古屋 丸ごと散策(3): 名古屋城

地下鉄市役所駅から地上に出ると目の前が日本三名城のひとつである名古屋城、これまで何度も訪れたことがある場所です。右手の東門が近いのですが、やはり正門から入ることにして左手の出来町通りを西に歩きました。観光客を案内するガイドの日本語や英語があちこちで聞こえます。正門を入りました。入場料は500円。期待していた西の丸展示館は雨とは言え人の気配がありません。何と閉館中でした。残念です。土砂降りの雨のなかで国指定天然記念物の榧(かや)の巨木(樹齢600年以上)だけを撮影して天守閣に向かいました。

 

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2008_05310217_2 途中で重要文化財の西北隅櫓「戌亥櫓(いぬいやぐら)」が6月1日まで特別公開中であるとの案内板を見つけましたのでその方向へ向かいました。現存する3つの隅櫓の一つ、深井丸エリアにある西北隅櫓は三層の立派な櫓です。清洲城天守閣の資材を使ったことから清洲櫓とも呼ばれます。

  

石落しの仕掛けは外敵を鉄砲で撃つのが目的だったとガイドの人が説明してくれました。櫓は物見や武器・食料の貯蔵庫としても使われたそうです。(5月31日撮影)

 

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深井丸エリアから内堀越しに大天守閣と小天守閣が良く見えます。2つの天守閣が橋台でつながる珍しい形式です。名古屋城は昭和5年(1930年)に天守閣をはじめとする城郭24棟が国宝に指定されましたが、そのほとんどが戦災で消失しました。現在の名古屋城の天守閣と正門は戦後になって観光目的で再建されたもので国宝の指定は受けていません。深井丸展示館と旧天守閣の礎石を経て「不明門」(別名あかずの門)から本丸エリアに入りました。
 
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秀吉の無き後、豊臣家との対立に備える東海道の防衛拠点として家康は尾張徳川家を置き、信長の最初の居城であった那古野城跡にその居城として名古屋城を築城することを決めました。慶長15年(1010年)に石垣など基本構造が完成し、同17年(1012年)に天守閣も完成しました。そして本丸が完成した同20年(1615年)の「大坂夏の陣」で豊臣家は滅びます。名古屋城は名古屋台地の西北端に築かれたため、前述したように、その東と南の広いエリアを使って大きな城下町が建設されました。名古屋台地の西側を南北に流れるのが先ほど渡った堀川です。
 

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2008_05310234_2 名古屋城と言えば金の鯱(しゃちほこ)、名古屋の象徴でもありますが、一階に原寸大の模型が展示されていました。雄と雌があるそうです。盗賊の石川五右衛門がこの金鯱の鱗(うろこ)を盗もうとしたと伝えられるのは講談話です。 

エレベータを利用すれば一気に最上階の展望室です。あいにくの雨ですが名古屋駅前の高層ビルをはじめ名古屋市内が良く見えます。北東には名城公園が広がっています。正門、大天守閣、小天守閣とともに戦災に遭った本丸御殿の再建が決まり、近々その工事が始まるそうです。

 

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小天守の東南に大天守の展望階から見下ろした本丸御殿の礎石と井戸がありました。

 

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国重要文化財の表二之門を出て二の丸跡に向かいました。信長の最初の居城であった那古野城(なごやじょう)跡、加藤清正の石曳きの像、二の丸庭園、二の丸東庭園、東南隅櫓(国重要文化財)などを見て回る頃には雨があがっていました。(続く)

 

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2008年7月 6日 (日)

名古屋 丸ごと散策(2): 大須から名古屋城へ

100m道路を越て大須に入りました。浅草観音と津観音とともに日本三大観音と呼ばれる大須観音と電気街がある名古屋を代表する繁華街の一つです。

2008_05310153 ここで薀蓄です。大須観音は1236年(嘉禎2年)頃、後醍醐天皇が尾張国中島郡長岡庄大須郷(後に美濃国となり現在は岐阜県羽島市桑原町大須)に観音堂が創建したのが起源(14世紀に真福寺と改称、その後近くの現在地に移転)と伝えられます。ちなみに大須の地名は木曽川と長良川の砂州があったことに由来すると考えられます。

 

大須観音のhpによれば、徳川家康が名古屋の街を建設するに際して慶長12年(1612年)にこの真福寺にあった宝生院を現在の地に移したことで、一般には大須観音と呼ばれています。寺号は北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)で、明治時代の火災で焼失して再建されましたが、戦災でも消失しましたため1970年に本堂が再建されています。真言宗智山派別格本山として弘法大師像があり、また大正琴の発祥地でもあることからその碑が境内に建っていました。
 
 

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この大須には東京と大阪に進出して話題になったリサイクル店「コメ兵(ひょう)」の本店があります。半田市の米屋さんの分家が古着屋として名古屋に進出したのが起源だそうです。「いらんものはコメ兵に売ろう」のキャッチフレーズで知られます。最近はブランド品の扱いが中心のようです。もうひとつ大須の名物がありました。「大須ういろ」(商品名)です。名古屋は「外郎(ういろう)」の本場ですが、小田原が発祥の地とする説を以前紹介しています。コメ兵本店から大須本通りを1ブロック北へ行った赤門通りとの角に「大須ういろ」本店があります。(写真は観音通りの大須北店) ちなみに名古屋には青柳総本家が発売する「青柳ういろう」もあって人気を二分しているようです。

 

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大須は電気街としても知られますが東京の秋葉原や大阪の日本橋のように電気店が一箇所に集中しているわけではなく、一味違う名古屋ムード!?に溢れています。

 

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万松寺通りから仁王門通りに入ってパフォーマンスがよく行われると聞いた招き猫広場へ行くと何やら行列が出来ていました。よく見ると「和牛ステーキ丼」(400円)の立て看板があります。ちょうど昼時で心が動きましたがここは我慢です。

 

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すぐ近くの大須3丁目にある「矢場とん本店」で念願の味噌カツを食べることにしていたからです。「名古屋コーチン(鶏肉)」「味噌煮込みうどん」「きし麺」「ひつまぶし(鰻料理)」とともに名古屋を代表するグルメのひとつです。「矢場とん」は終戦直後の昭和23年に創業した味噌カツの老舗です。

  

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矢場とん・デビュー客向けの「みそかつ丼」を注文しました。注文を受けた店員の掛け声にスタッフ全員が確認の返事をしたり、伝票も手書きと、アナログ感が一杯です。味噌だれをたっぷりと掛けたみそかつ丼は、見た目には味が濃そうですが実際は食べやすい味で、期待を裏切らない美味しさでした。ここは名古屋弁で「どえらいうみゃ~」と言うべきでした。次回は矢場とん東京銀座店で「わらじとんかつ」に挑戦したいと思います。

矢場地蔵尊がある清浄寺にお参りしていると急に雨足が強くなってきました。名古屋城まで歩く予定を急遽変更して、100m道路(若宮大通)の頭上に続く名古屋高速3号東山線を潜った矢場町駅から地下鉄に乗って北上、市役所駅で下車しました。市役所と愛知県庁のはるか先に雨に煙るテレビ塔がぼんやりとかすんで見えます。(続く)
 
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2008年7月 5日 (土)

名古屋 丸ごと散策(1): 名古屋駅から白川公園へ

日本経済が沈滞する中にあって名古屋経済圏は活気があります。高度成長期やバブル期には注目されなかった名古屋企業の借金を嫌う愚直なまでの身の丈経営が、激動のグローバル経済に翻弄されず、その真価を発揮しています。代表企業のトヨタ自動車に地元経済が牽引されていることは確かですが、それだけでは説明できません。得意分野に専念する名古屋的な経営が不確実で変化の激しい現在のグローバルな経営環境に適合しているからでしょう。今年1月に発刊されたビジネス書「戦略のパラドックス」(マイケル・E・レイナー著)を読んでそう思います。しかし経済学や経営学のテーマは当ブログの範疇外ですから、堅苦しい前口上はこれで打ち止めです。

とは言っても本題に入る前に、名古屋のことをもう少し理解したいと思います。言葉に興味がある私は、各地の方言にも関心を持っていますので、名古屋弁についても調べています。10年以上前のことですが、笑説「大名古屋語辞典」(清水義範作、発売元学習研究社)というゲーム・ソフト(Mac用)を購入したことがあります。学習研究社や角川文庫から同名の本(清水義範著)が出ているようですが、生の発音を聞くことができるパソコン・ソフトは貴重な存在でした。同じ頃に購入した「必修大阪弁集中講座」なるゲーム・ソフト(Mac+Windows用、発売元テイチク)も笑いながら楽しめました。

またまた薀蓄で恐縮ですが、名古屋弁は尾張弁がベースとなって江戸時代初期に新興都市であった名古屋に流入した人々の言葉の影響を受けて出来上がった比較的新しい言葉のようです。隣の三河弁をベースに上方(近畿地方)の言葉とミックスして出来た江戸弁(江戸言葉)と成立の状況は似ています。ちなみに現代の共通語は武家が用いた江戸言葉をベースとして明治期に作られた言葉なのです。

テレビ番組でタモリさんがからかう名古屋弁には独特の表現とアクセントがあります。タモリさんが言う語尾の「みゃー」や「ぎゃー」は正確には名古屋弁ではないようです。共通語の「~しよう」は「~まいか」あるいは「~めぁか」、「みやあ」は共通語の「見なさい」です。「~してまう」(してしまう)、「~してかん」(してはいけない)、「~しとる」(している)は音が省略されたもので、「~せん」(否定の意味)などが使えればかなりの名古屋弁通と言えるでしょう。「~でかんわ」(~だから駄目だ)は共通語の「たまらない」と同様に否定的な意味にも肯定的な表現にも使われます。ここまでくればネイティブのレベルでしょう。

音が強調される場所も共通語より少し後ろですから、なだらかな共通語よりも尻上がりの印象になります。疑問形では語尾が長くなる(伸びる)傾向があります。また古い言葉が多く残っており、「往生こく」(苦労する)、「勘考する」(考える)、「たわけ(田分)」(愚か)などがあります。「たわけ者」の表現は時代劇に良く出てきます。武士や百姓が複数の子供たちに土地を分けて没落することを諌める言葉が語源のようです。信長などが良く使った言葉かもしれません。

さて、長いイントロのあとはいよいよ本題です。所用で訪れた名古屋散策のキーワードは名古屋弁の「どえらい(どえりゃぁ)」で、意味は「ものすごい」です。今の若者言葉はこれを縮めた「でら」。大阪弁では「めっちゃ」や「ごっつい」に相当するのでしょう。つまり名古屋が誇るスポットを巡るのが今回の目的です。

2008_05310096 出発地は名古屋駅です。駅ビルとして世界一の高さを誇るJRセントラルタワーズ(オフィスタワー:51階建・245m、ホテルタワー:54階建・226m)、高島屋・松坂屋・近鉄・名鉄の各百貨店、その近くにトヨタが入るミッドランドスクエア(46階建、230m、最上部は247m)が聳えています。東京以外で唯一元気な名古屋を象徴しているようです。この名古屋駅前が従来の広小路・伏見ビジネスエリアと栄商業エリアから独立した名古屋の新しい複合機能エリアとして台頭しています。

 

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駅前の地下街(テルミナとサンロード)は昭和28年に日本で最初に造られた「地下街のメッカ」なのです。約17万平米の総床面積はもちろん今も日本一です。

 

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地下街(ユニモール)を東へ500m余り歩き、国際センタービルで地上に出ました。桜通りの桜橋で堀川を渡ると伏見通りが交差する日銀前交差点(丸の内2丁目)です。ちなみに堀川は名前が示すように江戸時代初期に名古屋の町が造られた時に開削された運河です。平安京造営時に開削された京都の堀川と同じです。

 

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伏見通りを南下すると所々に駐輪場のある自転車専用レーンが工事中でした。そうでした、名古屋は道路の先進地でもあるのです。右手には名古屋を代表する劇場「御園座」があります。歌舞伎と演劇の上演はもちろん、歌手のコンサートなどが開催されます。

 

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美術館と科学館のある白川公園の横で伏見通りは100m道路(若宮大通)と交差します。100m道路(100m通りとも呼ぶ)は戦災からの復興時に建設された当時としては「どえらい」道幅の道路でした。両端の自動車用レーンの間が防災用の広い緑地公園になっており、現在は高架の高速道路(最後の写真)が走っています。この100m道路(若宮大通)はテレビ搭が建つ同じく100m道路の久屋大通と中区矢場町でT字型を構成しています。これら2つの100m道路の総延長5833mも日本一です。(続く)

 

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2008年7月 2日 (水)

アナログの世界

梅雨の晴れ間に友人のホームコース「葉山国際CCでゴルフをすることになりました。何度もプレイした場所です。横浜横須賀道路(通称横横道路)を逗子ICで降りて逗葉新道に入り、三浦半島中央道路で湘南国際村に向かう途中、三浦半島で一番高い大楠山方向へ急坂を登るとクラブハウスに着きます。このゴルフ場の魅力は何と言ってもエメラルドコースOUT 5番のティーグラウンドから相模湾(江の島から富士山まで)と東京湾を同時に展望できることでしょう。美しい丘陵コースはアップダウンやハザード(危険区域)が多いのですが、広めのフェアウェイに助けられて、まずまずのスコアで楽しいゴルフになりました。横横道路での往き返り、朝比奈IC(鎌倉への入口)を通過する時に数日前に訪れたばかりの鎌倉が思い出されました。

 

そのせいか帰宅後にテレビ番組表で「大仏」の文字が目に入りました。628日にNHK BS2で再放送された番組「大仏に挑む~平成の仏師 技と心~」です。京都の仏師松本明慶(みょうけい)氏が総白檀(びゃくだん)で作る大仏の製作過程を丹念に収録した番組で、観ているうちに仏像作りの世界に惹き込まれていました。

 

最初に彫った縮小版の仏像から大きな大仏を作る技法は正にアナログ(相似)なのです。加えて、仏が宿るとされる白檀(インド原産の香木)は大きな原木が得られないため、レゴブロックのように多数のパーツを接着剤で組み上げた(デジタル的に作られた)荒削りの大仏をさらに彫刻するのです。硬い白檀は強靭なノミの刃をも破損させます。

 

ここで久しぶりの薀蓄です。情報の分野では、指折り数えると言う意味のデジタル(語源はラテン語のディジットあるいはデジタス)に対比する形で、アナログが連続して変化する量を意味します。その語源はギリシャ語のアナロギスモス(類似あるいは相似の意)で、英語のアナロジー(類推、類似)はその派生語です。アナログとデジタルはそれぞれ異なる特徴がありますから、どちらが優れているとは一概に言えません。身近な例では、LPレコードと音楽CD、銀塩フィルムを使うカメラとデジタル・カメラの比較が分かりやすいでしょう。さらに蛇足ですが、情報理論で見れば両者は表現上の違いがあるだけでその内容は基本的には同一です。

 

高さ約4mの大仏を彫るために使われたアナログ技術とデジタル技術の要素を組み合わせたハイブリッド手法が見事です。アナログ技術の洗礼を受けたあとデジタル技術の世界で育ったエレクトロニクス技術者の私はその手法に"ストン"と得心が行くのです。

 

仕上げとしての眼きり(大仏に眼を彫って命を吹き込む)はそのハイライトでした。2006年春に広島県宮島の大願寺にその大仏(不動明王半迦像丈六大佛)が納められました。140年振りに大願寺に戻った大仏に向かって一心不乱に祈る人達の姿が印象に残りました。そして仏師の技と人々の心が大仏を作ることを知りました。

 

この松本明慶氏は同じ年に西国八十八ヶ所霊場出開帳御本尊八十八体を納めています。これは仏師としてはじめての偉業だそうです。ちなみに大願寺(正式名称は亀居山方光院大願寺)は明治の神仏分離令で厳島神社から分離した真言宗の古刹で、この寺の秘仏厳島弁財天は弘法大師の作と伝えられる日本三弁財天の一つです。大仏の写真は宮島のhpから転載させていただきました。

  

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ゴルフのスランプから脱しつつある私は相撲と同様にゴルフも心技体が重要であると思うようになりました。ゴルフの上達とは直接関係ありませんが、「空海の風景」を読み終わったら、また四国遍路(次回は高知県の予定)に出掛けようかと思います。ただ今回のゴルフで直射日光の暑さにバテ気味になった私は真夏の四国遍路に耐えられる確信が持てません。そして、
暑さが峠を越える初秋まで待とうか、あるいは四国よりも少しは涼しいであろう東北地方を先にして、会津と仙台蒲生氏郷と伊達政宗の足跡を訪ねようかと逡巡(しゅんじゅん)しています。本質はやはりアナログ人間なのです。

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