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2008年9月に作成された記事

2008年9月30日 (火)

郡上八幡と長良川(5): 長良川流域

次の日は長良川(ながらがわ)の下流へと国道156号(越前街道)をドライブにしました。郡上八幡の南隣の美並(みなみ)町で休憩です。道の駅「美並」から見下ろす長良川でカヌーと鮎釣りを楽しむ人達が見えます。長良川鉄道沿いに曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の群生地を見つけました。

 

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美濃市に入ると長良川の川幅が広く流れも緩やかになって来ました。

 

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美濃市の町並みから長良川に接する小倉山に聳える小倉城が見えましたが、これは天守閣ではなく二層の模擬櫓のようです。徳川時代初期に金森氏の居城であった小倉城址は小倉公園になっています。この地の金森氏は清和源氏土岐氏の流れをくむ名門で飛騨一国を支配した金森氏(高山に居城を置いたが後に出羽国へ移封)の支流で、前述した郡上八幡の金森氏と同様です。跡継ぎが絶えたために慶長11年(1611年)に廃藩となりました。

 

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小倉山の反対側にある「うだつのあがる町並み」に入ってみました。昔の町並みが不自然なくらい綺麗に整備されて、まるで木曽路の馬籠宿のようです。ちなみに美濃市は私の好きな歌手(カラオケの歌として)のひとりである野口五郎さんの出身地です。

 

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さらに南下すると関市です。「関の孫六」に代表される刃物とうなぎ料理の町であるとともに日本の人口中心があります。長良川はこの関市で武儀川(むぎがわ)と津保川(つぼがわ)を集めてますます水量が豊かになってきました。津保川近くにある「百年公園」の名前に惹かれて立ち寄ってみました。岐阜県置県100周年を記念して造られた緑豊かな里山の雰囲気がある県営公園でした。

 

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岐阜市の金華山山頂に聳える岐阜城(左下の写真)を過ぎた墨俣(すのまた)には信長の美濃攻めで秀吉が築いた一夜城跡があります。さらに南下した羽島市で昼食にすることにしました。

 

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岐阜県の名物料理としては日本五銘飯のひとつである「さよりめし」以外に思い浮かびません。五大銘飯のうち深川めし忠七めしの感想を当ブログで紹介しています。「さよりめし」は岐阜県の山岳地方の郷土料理であると聞いていましたがどんなものかは知りませんでした。旅の前にインターネット検索で調べてみても、「さより」とは秋刀魚(さんま)のことであるとか、可児(かに)市の郷土料理のようだとかと言う断片的な情報しかヒットできません。私は名前から細身の海魚の「さより」を連想していました。諦(あきら)めかけた時についに見つけました。中日新聞の最近の記事です。「サヨリめし」を復活させるためにコンテストが近々開催されると言うものでした。

 

長良川と言えば鮎と鵜飼も有名ですが、適当な店が見つかりませんので、川魚料理の店「なまずや羽島分店」を選びました。東海道新幹線岐阜羽島駅の近くです。

 

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名前は「なまずや」ですが人気メニューは「ひつまぶし」と聞いて注文しました。名古屋が本場の鰻料理ですからちょっと心配しながら待ちました。かなり時間が経って運ばれてきた料理はボリュームがあります。まず一膳目をそのまま食べました。期待以上の美味しさです。薬味を入れて二膳目と三膳目、そして最後はお茶漬けで完食しました。

 

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店内を見回すと中日ドラゴンズの選手などの色紙が多数貼られています。

 

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そして店主の趣味のようですが店内のあちこちに大小さまざまな「菊花石」(きくかせき)が数え切れないほど置かれているのです。その珍しさに惹かれて見て回りました。いずれもかなり高価なもののようです。菊花石は岐阜県本巣市の名産で国の特別天然記念物に指定されていることを帰宅後に知りました。何の脈絡もありませんが今春、明治会館で見た天然記念物「さざれ石」も同じ岐阜県西部の揖斐郡春日町(現在の揖斐川町)産であったことを思い出しました。(続く)
 
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2008年9月29日 (月)

郡上八幡と長良川(4): 郡上八幡市街と日帰り温泉「宝泉」

市街地を流れる吉田川の河畔に向かいました。「新橋飛びこみ」で有名な新橋に近い道路沿いに神農薬師、北町大火記念碑、小坂歩岐馬頭観音などが並んでいます。

   

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さらに東へ歩くと武家屋敷跡と桜町枡形番所跡を通り過ぎた先の八幡神社裏手には小野湧水がありました。宗祇水とはちがい生活に利用されている素朴な湧水で塩ビパイプが印象的です。

   

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対岸に見える空飛ぶ円盤のような銀色の施設は総合スポーツセンターです。八幡城の天守閣からも良く見えました。新橋まで戻って対岸に渡ります。吉田川の岸伝いに「宮が瀬こみち」という親水遊歩道があります。

 

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新橋の袂(たもと)にある郡上八幡旧庁舎記念館の横には国重要無形民俗文化財「郡上踊発祥の地」の歌碑と「いがわ小径」があります。

   

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吉田川支流の乙姫川に近い八幡町島谷で願蓮寺(がんれんじ)と勝寺大門で知られる最勝寺などにも立ち寄りました。乙姫滝があるようですが立ち寄りを断念しました。

 

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日帰り温泉は奥美濃温泉郷郡上温泉宝泉(ほうせん)です。建物には長良川温泉と表示されています。郡上八幡市街地より長良川沿いに約4km南下、ホテル郡上八幡に併設された施設(利用料は650円)です。泉質は単純温泉(低張性弱アルカリ性温泉)で、神経痛、筋肉痛、間接痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみなどに効能があるそうです。

 

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石張りの内風呂には大浴槽、人工のラドン風呂、ジェットバス、ジャグジーバス、滝湯、水風呂がゆったりと配置されています。露天風呂からは長良川の清流が望めます。対岸の木立の中を走る長良川鉄道(旧JR越美南線)の列車音だけが聞こえ、空高くには秋の雲が浮かんでいました。

 

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ちょっと贅沢な貸切露天風呂のサービスもありますが4つの風呂がいずれも予約済みでした。宝泉では別途料金(500円)で大衆演劇が楽しめます。9月は樋口劇団の公演が掛かっていますが、次の開演は夜になるために、漏れてくる演歌の歌声から舞台を想像するだけにしました。(続く)

   

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2008年9月28日 (日)

郡上八幡と長良川(3): 郡上八幡市街

蕎麦の人気店「平甚(ひらじん)」でしばらく並んで遅い昼食になりました。小駄良川が吉田川に合流する場所の近くです。店内は風情がありますし、吉田川に面した側には昔使われていた水車が飾りとして残されていました。

  

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私は好物の「にしんそば」、同行者は名物の「もちもちざるそば」を注文しました。名前が気になったようで店員さんに質問しています。北海道幌加内産蕎麦粉と郡上の水で打っていると説明がありました。「もっちり」とした食感が名前の由来のようです。

 

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甘辛く煮たにしんは柔らかくて期待通りの美味しさですが、更科粉で打つ十割の手打ち蕎麦は香りが少なくて私の好みではありませんでした。宗祇水のすぐ近くの好立地とテレビ番組で紹介されたことが人気の理由のようです。同行者は「朴葉(ほうば)寿司」と「そば茶プリン」を土産に注文しています。私は前の喫茶店が気になりました。
 
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食後の腹ごなしに職人町と鍛冶屋町の古い町並みを歩きました。

 

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突き当たりにある長敬寺は城主遠藤慶隆の墓所があり、凌霜隊が揚屋(牢屋)から移されて4ケ月間謹慎したお寺です。門の脇にその説明文がありました。

 

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蓮生寺、鐘楼門が知られる向山の大乗寺、殿町の浄因寺を回りました。小京都とも呼ばれる八幡町には13の寺院があるのだそうです。

 

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さらに東の上柳町にある郡上藩侍会所跡から表通りに戻ると、郡上八幡博覧館で郡上おどりの実演が開催されていました。(続く)

 

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2008年9月27日 (土)

郡上八幡と長良川(2): 郡上八幡市街

天守閣の最上階からの展望を楽しみました。山に挟まれた地勢と東西北の三方向に伸びた逆T字型の町並みが見て取れます。東に伸びる国道472号で坂本峠を越えると昨年訪れた下呂温泉です。先ほど見た「山之内一豊と妻の像」が正面に見えます。
 
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城下へ下る途中で郡上藩御蔵会所跡の案内板を見た後は下柳町の古い町並みに入ってみました。7月中旬から9月上旬にかけての32夜に行われる郡上踊りが終わったばかりで静かな町に戻っていることを期待しましたが、あいにくと休日のため観光スポットには多数の団体客が古い町並みを声高に会話しながら歩いていました。

  

郡上八幡は水の町としても知られます。吉田川、小駄良川、乙姫川が長良川に合流する地にあるため水が豊かなのです。水舟(みずぶね)と呼ばれる二層あるいは三層になった水槽は上水道を中水道として再利用する独特の仕組みです。各家庭で使用するものですが観光用にも置かれていました。水路にも同様の使い方があるそうです。
 
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城下町プラザで小休止したあと、大手門跡と郡上おどり像を経て本町に戻りました。

 

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そばの人気店「平甚」で昼食にすることを考えていましたが、長い行列が出来ていましたので時間を調整するため、先に宗祇水(そうぎすい)へ立ち寄ることにしました。本町から石畳を小駄良川縁へ下りたところにあります。

  

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宗祇水(そうぎすい)は有名な湧水で日本名水百選の第1号に選ばれています。以前は周辺住民の「生活の水」でしたが現在は目玉の観光スポットになっています。

 

当ブログでは名水百選から、都内にある「御岳渓流」(青梅市)と「お鷹の道・真姿池湧水群」(国分寺市東元町)、神奈川県の「水の滝・滝沢川」(足柄上郡山北町)、静岡県の「柿田川湧水」(駿東郡清水町)、岐阜県の「長良川(中流域)」(美濃市・関市・岐阜市)、愛知県の「木曽川(中流域)」(犬山市)、高知県の「四万十川」、宮城県の「広瀬川」(仙台市)などを紹介しています。

 

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湧き水が5つに仕切られた水槽のエリアを順に流れる仕組みで、最上部が水源、次いで飲料水、米の洗い場、野菜の洗い場、さらし場の順です。宗祇水は白雲水とも呼ばれます。 

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朱に塗られた清水橋の下を小駄良川の豊かな清水が流れ、川岸には後ろに迫った山に押されて今にもせり出しそうな3階建ての住宅が並ぶ独特の景観です。(続く)
 
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2008年9月26日 (金)

郡上八幡と長良川(1): 八幡城

2008_09230002_2カーラジオから流れる早朝のラジオ放送を聴きながら東名高速道路を走りました。外は折からの台風13号の来襲で強い雨が降りしきっているため、走りなれた道も自然に緩やかな走行になっています。沼津を過ぎる頃には台風が通り過ぎていつもの穏やかな東名高速道路に戻り、浜名湖SAで東の空が明るくなりました。豊田JCTから東海環状自動車道を経由して美濃関JCTで東海北陸自動車道に入って約30km北上すれば郡上八幡ICに到着します。郡上踊りで知られる郡上八幡(現在は郡上市八幡町)には、以前から関心を持っていたのですが、訪れるのは今回が初めてです。

 

城下町の家並みがそのまま残っています。小駄良川(こだらがわ)の上流から引き入れた水が軒先を流れる水路の「御用用水」や「柳町用水」は防火目的も兼ねていたそうです。町割り(区画整理)は1660年頃に行われ、城下を防衛するため辻の突き当たりには寺が配置されています。北町と呼ばれる城下の三つの道筋はそれぞれ、柳町(侍町)、殿町(役所や家老屋敷)、職人町鍛冶屋町本町に分かれています。「美しい日本の歴史的風土100」選定委員会によって「城下町郡上八幡の町並み」が日本の歴史的風土100選のひとつに選ばれました。(郡上八幡市のhpを参考)

 

駐車場に車を停めて八幡山にある八幡城へ向かって歩きました。郡上御坊とも呼ばれる安養寺の境内を抜けると急な坂道になりました。右手に「にほんまんまんなか釈迦三尊臍(へそ)の堂」「およし観音堂」があります。
 
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しばらく坂道を上ると安養寺の本堂越しに郡上八幡市街と東海北陸自動車道が見えてきました。城山公園には「山之内一豊と妻の像」が立っています。郡上八幡は一豊の妻「ちよ」の生誕地(郡上八幡城主遠藤氏の娘)と伝えられますが近江の生まれとする説もあります。木立の間から天守閣が見えます。登口には車で5分と書かれていますので同行者は不満顔になりました。
 
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七曲りの自動車道を串刺しにするように登山道がほぼ直線に伸びています。丹後半島の玄武洞で見た筋状の岩肌が露出しています。10分ほどで天守閣下に到着すると山上の石垣と天守閣が眼前に拡がりました。石垣は野面積(のづらずみ)です。眼下に見える八幡町の町並みが北に伸びています。山陰の長良川に沿って延びる国道156号あるいは東海北陸自動車道を80kmほど北上すると世界遺産の白川郷に至ります。
 
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築城時に人力で運ばれた力石と歌碑が並んでいました。この高みからは吉田川に沿う城下町が良く展望できます。天守閣の入館料は300円です。現在の天守閣は昭和8年(1933年)に木造で再建されたもので、昭和57年(1982年)に石垣の改修、昭和62年(1987年)に城郭の大改修、平成2年(1990年)に高塀と隅櫓の改修が行われて綺麗な城が再現されました。城郭一帯の石垣すべてが県の史跡に指定され、天守閣は市の有形文化財に指定されています。
 
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天守閣内には八幡城の歴史が詳しく説明されていました。戦国時代末期の永禄5年(1559年)に遠藤盛数によって砦が築かれたのが郡上八幡城のはじまりです。井上氏に続いて金森氏が入部しましたが、金森氏の治世下の宝暦5年(1755)に過酷な重税にたまりかねた農民たちが幕府へ直訴などをくりかえす約4年に亘る大規模な農民一揆が起きたため12代城主金森頼錦はその責任を問われてお家断絶(宝暦騒動)に追い込まれました。私はこの一揆のことを学生時代に知り関心を持っていました。
 
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そして宝暦9年(1759)に丹後の宮津から青山氏が転封されて明治の廃藩置県まで続きました。青山氏は東京の地名の由来で紹介しています。幕末には官軍(新政府)側に付くか徳川方に付くかで選択をせまられた郡上藩は二分極の政策を同時進行させました。つまり藩は官軍に付く姿勢を表面に出しながら、脱藩者の名目で江戸屋敷に居た43人の若者たちを白虎隊の援軍として会津に送りこんだのです。これが郡上凌霜隊(りょうそうたい)です。徳川の親藩でありながら、時代のうねりには逆らえないことを悟った山国の小藩の苦渋の決断でした。
 
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今月の初め、会津若松の飯盛山を訪れた時に白虎隊士の墓の近くで凌霜隊の碑(下の写真)を見かけたことが今回の旅のもう一つの動機になりました。長岡藩や米沢藩が会津藩とともに戊辰戦争を戦ったことは良く知られていますが、意外にも郡上藩の名を飯盛山で見つけて興味を持ったのです。(続く)
 
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参考: 郡上一揆顛末記

 

郡上藩主の金森氏は国替えや江戸における役職・住居に多額な金を要したのが背景です。作物が育ちにくい土地のため百姓は貧しい生活に苦しんでいる時の増税通達でしたから百姓の反発を招きました。藩は課税方法のお墨付きを幕府の重臣(勘定奉行)から得た上での増税でしたが、農民による反発の強さに押された国家老は妥協する一方で、江戸に居た藩主は幕府の威光を借りるために美濃郡代代官に幕府の通達(実は権限外)を依頼しました。双方とも譲らないため事態は益々エスカレート、つまり郡上藩による弾圧と農民から藩主への嘆願書が続いたのです。

 

弾圧が余りにも激しさを増したため、北部の白鳥(しろとり)地区を中心とする農民一揆から脱落する「寝者(ねもの)あるいは寝百姓」が続出して、あくまでも新課税制度を拒否する「立者(たちもの)あるいは立百姓」は一時5000人余り居たものが500700人ほどに減少するなか、藩に内通する者さえ出るようになりました。このため農民は当時厳しく禁じられていた幕府への直訴(老中に直接訴える駕籠訴と目安箱に訴状を入れる箱訴)を決断します。

 

将軍家重の命により田沼意次(おきつぐ)、大目付と寺社・町・勘定奉行らが農民からの訴状を詮議した結果、幕府と郡上藩の役人が多数重い処分を受けました。当時の意次は1万石の大名に取り立てられたばかりでした。老中本多正珍(まさよし)・若年寄で美濃郡代代官青木次郎九郎・大目付曲淵英元(まがぶちひでもと)が罷免、勘定奉行大橋親義と若年寄本多長門守忠央(ただなか)は知行取り上げ(領地没収)となったのを始め、多数の幕府役人が処罰されました。

 

その多くが財政再建派(増税派)とも言われますし、田沼意次が忠央の領地(遠州相良藩1万5千石)を手に入れて相良城主になった後に藩主兼老中へと昇進していますから何やら臭います。また青木次郎九郎が郡代として担当した宝暦の治水(木曽・長良・揖斐の三川の治水工事、薩摩藩が命じられた)で検使を務めた目付牧野織部が詮議団の5名に入っているのも憶測を呼びます。この後、幕府は重商主義政策へと転換していわゆる田沼時代に入るのも偶然ではなさそうです。

 

郡上藩においても藩主は領地没収、重臣も死罪あるいは遠島の厳しい処分を受け、農民も獄門、死罪、遠島、あるいは獄中死が多数出ました。このように幕府の重臣までが重い処罰を受けたのは江戸時代に発生した一揆(3200件と言われる)で唯一のことだったようです。

 

この郡上一揆を岐阜在住の作家・演出家、こばやしひろし(小林宏昭)氏が百姓の立場から描いた創作劇「郡上の立百姓」(原題は郡上一揆)が2000年に「郡上一揆」(緒方直人主演)として映画化されています。

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2008年9月19日 (金)

東上野・松が谷・西浅草を散策

南東北地方へのドライブ旅に出掛ける少し前の8月下旬、定例の飲み会に出かけた場所は西浅草です。自宅から会場に直行するのも面白くありませんから東上野界隈を歩くことにして銀座線の稲荷町駅で下車しました。最初に向かったのは源空寺です。法然上人の名をとった寺名で分かるように浄土宗のお寺です。

 

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この寺には伊能忠敬など著名人の墓があり一度訪れたいと思っていました。伊能忠敬(いのうただたか)はあまりにも有名ですから説明が不要だと思います。忠敬が測量して作成した「大日本沿海輿地全図」は当時としては大変精度の高いものでした。

 

忠敬の銅像は以前訪れた深川と千葉県佐原市にありますが、忠敬が師事して測量・天文観測などを修めた江戸幕府の天文方であった高橋至時(よしとき)の墓がある源空寺に葬られることを忠敬自身が望んだそうです。忠敬の遺志通りに2人の墓が並んで建っていました。東河伊藤先生が忠敬、東岡高橋が至時です。この他にも至時の子で忠敬の地図を完成させた高橋景保(かげやす)や江戸時代の有名な侠客である幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)の墓があります。

   

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左衛門橋通りを北へ歩きました。訪れたのは松が谷3丁目の秋葉神社です。東京の地名の記事で紹介したように秋葉原の地名の由来となった神社です。明治時代に鉄道を建設するために秋葉原から現在の地へ移されました。小さな神社ですが境内は良く手入れされています。

 

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さらに東南方向に歩いてかっぱ橋道具街通りを横切ると、菊水通りで西浅草に入ります。右手に東本願寺があります。京都にある東本願寺の別院です。門徒である私は参拝するつもりでしたが5時を少し過ぎていたため門が閉まっていたのは残念でした。

 

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国際通りに出てぶらぶらしながら時間を潰したあとは飲み会の会場へ向かいます。

 

2008_08200053西浅草3丁目にあるお好み焼きの老舗、「浅草染太郎本店」です。1938年(昭和13)創業の老舗で戦前の面影を残した佇まいがあります。店内には空調設備はなく、扇風機が熱い空気をかき混ぜるだけです。

 

年代物の大型鉄板の前に座るとその熱気で外気の暑さを忘れます。一息入れた所で店内を見回すと著名人の色紙が数え切れないほど飾られていました。

   

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そのなかで気になる色紙を見つけました。永六輔さんの色紙に書かれた「しゅうまい天」と「パンカツ」です。しゅうまい天は切り餅で囲まれた「もんじゃ」(牛ひき肉、玉ネギ、ニンニク)のように見えますが口に入れると餅の感触がシュウマイ風で不思議な味です。パンカツは名前から推量した通りにパンと牛肉のカツでした。残念ながら夏季以外(9月~6月)限定のメニューだそうです。

 

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豚ロース焼き、サーモン焼き、いか・えび・帆立の海鮮盛り合わせ、お好み焼き、五目焼きそば(伏せた大皿で蒸らす)と続きます。多彩な料理はいずれも特徴があって飽きさせません。そしてデザートのあんこ巻きはさっぱりした美味しい味でした。

 

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2008年9月15日 (月)

奥の細道擬紀行(完) 仙台城址

国道457号を50kmほど南下すれば仙台です。「青葉城」と「五城楼」の雅称がある仙台城を2年ぶりに訪れ、前回と同様に伊達政宗像と土井晩翠の碑などを見て回りました。

  

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石垣の修復工事が完成したことの説明があります。前回訪れた時には満開の桜に見とれて気付きませんでした。

 

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広瀬川に架かる大橋を渡って欅並木の青葉通りを走り、銀杏とエンジュ並木で知られる晩翠通りを横切って、芭蕉の辻へ向かいました。これら二つの通りは定禅寺通りの欅並木と並ぶ仙台の代表的な並木道です。

 

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次の国分町通り(奥州街道)との交差点を左折すると大町通りと交差する角の生保会社前に奥州街道の道標と「芭蕉の辻」碑が並んでいます。芭蕉と言っても松尾芭蕉とは何の関係もないことと正式には「札の辻」であることが碑に説明されています。

 

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名の由来はさておき、芭蕉は奥州街道で仙台に入って国分町に宿泊していますし、仙台城の北にある亀岡八幡宮を訪れていますから、芭蕉の辻を通過したのは確かだと思われます。さらに仙台東照宮榴岡(つつじがおか)天満宮陸奥国分寺跡(薬師堂)などを精力的に訪れたあと、多賀城・石巻・松島へ向かって金華山道(塩釜街道)を進んだと見られることも傍証になりそうです。芭蕉は松島で伊達政宗の菩提寺「瑞巌寺(ずいがんじ)」に立ち寄っています。

 

芭蕉の辻は仙台城下の町割の基点となった場所で、会津市大町にあった道路元標と似ていますから、松尾芭蕉・蒲生氏郷・伊達政宗に縁の地を南東北地方に訪(たず)ねる欲張り旅の終点に決めました。

 

このまま東北自動車道に入るには時間が早すぎますから国道4号でしばらく南下することにしました。暗くなる前に宮城県を抜けられそうです。トラックの多いことが目に付きます。福島県国見町に入った頃には日がすっかり暮れましたので国見ICから東北自動車道に入りました。川口JCTまで276kmです。日が替わるまでまだ5時間以上もありますのでのんびり走ることにして吾妻PAで腹ごしらえです。喜多方を通過した時は機会がありませんでしたので吾妻PA内の喜多方ラーメン店で塩ラーメンを頼みました。同行者はコラーゲンたっぷりの鶏の白湯メンです。いずれも私好みのあっさりした味でした。

 

主要なSAやPAに立ち寄って時間調整をしながら浦和本線料金所に到着したのは12時3分前でした。ETCゲートの前にトラックの長い行列が出来ているのは通行料金の深夜割引のためです。12時の時報とともにその車列が一斉に動き始めました。

 

東京外環自動車道に入ると雨が降り始めました。いよいよ雨の帰宅かと思っていると、大泉ICを出る時には雨がすっかり上がっていました。やはり最後まで雨の間を縫うような幸運に感謝するドライブ旅になりました。総走行距離は約1340kmです。

 

<同行者のコメント> 山道ばかりのドライブは疲れます。温泉が待っていると思ってがまんしましたが旅館で日帰り温泉を断られた時はショックでした。でも那須の温泉は良かったです。それにソフトクリームとおまんじゅうが美味しかったことも大満足です。□

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2008年9月14日 (日)

奥の細道擬紀行(その10) 岩出山城址

奥の細道で芭蕉と曽良は平泉を訪れたあと、一関からこの岩出山までを一日で歩いたと伝えられます。曽良の日記から芭蕉達は南に下がった中新田と小野田を経由して尾花沢に向かう予定であったものを、回り道でしかも難所が多いと知って、鳴子経由に変更したとされます。あるいは義経が辿った道に関心を持ったのかも知れません。

 

岩出山駅から隣の有備館駅に至る道筋は岩出山伊達家が京の冷泉家から嫁を二度も迎えたためか古都の雰囲気が感じられます。城山公園に上ると岩出山城址がありました。伊達政宗が豊臣秀吉から謀反の嫌疑をかけられて米沢の領地を没収され岩出山に移った時に築城した城です。この顛末と釈明に際しての正宗の役者ぶりを蒲生氏郷関連の書物で面白く読みました。ちなみに政宗が移るまでは地方豪族の岩手沢城があったようです。

 

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一段高い本丸跡を囲むように拡がる二の丸跡はさくら広場、こども広場、南広場となり、その外側は学校になっていました。本丸跡南端の橋を渡った本丸の出丸跡に昭和39年(1964年)まで仙台城(青葉城)にあった伊達政宗のコンクリート像が立っています。直立不動の姿勢は仙台城にある政宗の騎馬像とはまったく異なるイメージです。むしろ琵琶湖畔の坂本で見た明智光秀像に似ているように思いました。

 

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眼下には江合川と岩出山バイパス(左下の写真)、江合川から取水した内川が城下を流れる様子(右下の写真)が見えました。内川は正宗が整備したと伝えられる用水で外堀の役割も果たしていたそうです。

 

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城の北側に「有備館」があります。元禄の頃に建てられた寄棟茅葺書院造りの簡素な建物で、現存する日本最古の学問所として、回遊式池泉庭園とともに国の史跡名勝に指定されています。岩出山城は政宗が交通の便がいい仙台に移った後も伊達一族の城として明治になるまで続いたそうです。戊辰戦争(東北戦争)で敗れた仙台藩が石高を半分以下に減封されて財政が壊滅状態になったために岩出山伊達氏が決意した蝦夷地開拓(現北海道当別町)の記念碑「越鳥南枝」(えっちょうなんし)が有備館横の公園に立っていました。映画「北の零年(ぜろねん)」の淡路・稲田家と事情は異なりますがやはり不本意な移民だったのでしょう。

 

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有備館の南側を流れる内川沿いの細い道を歩くと石畳の遊歩道「学問の道」に出ます。有備館に戻る途中に昔ながらの風情ある造り酒屋「森民酒造」を見かけました。

 

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岩出山に2軒あった旅人宿のうち芭蕉は「石崎屋」に止宿(ししゅく)したと言われます。場所を確認したくて飛び込みで尋ねてみました。幸いにも歴史に詳しい人で丁寧に説明してくださいました。芭蕉が一泊した宿の確かな記録はないそうですが石崎屋があった場所は石碑と芭蕉像に近い交番の向いにある保険会社の前辺りとのことでした。道路の拡幅工事で昔の様子は残されていませんから想像するしかありません。(続く)

   

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2008年9月13日 (土)

奥の細道擬紀行(その9) 尾花沢と銀山温泉から岩木山へ

翌朝は、小雨が降る中を、前日には見つけられなかった念仏寺跡(城山公園)に辿りつきました。城山公園の名が観光地図に記載されておらず、翁塚の別称であることを天童公園の案内板で知りました。翁塚に「古池や蛙飛びこむ水の音」「行末は誰が肌ふれむ紅の花」の句碑があり、隣には県指定有形文化財の旧東村山郡役所があります。
 

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天童公園(別称舞鶴公園)に上って有名な人間将棋会場と天童古城跡を散策しました。秀吉が伏見城で関白秀次を相手に小姓と腰元を将棋駒に見立てて野試合を楽しんだという故事に倣ったものであると説明されていました。

 

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県道22号(山形天童線)、120号(東根尾花沢線)、36号(新庄次年子村上線)を北上しました。東根松並木跡に立ち寄ったあと、村上市の隼橋(左下の写真)と大石田町の大橋(右下の写真)で最上川を渡りました。大橋では右岸に塀蔵が再現されていました。大部分はブロック塀に絵を書いたものですが珍しい風景です。尾花沢市に入りました。

 

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芭蕉は奥の細道で尾花沢と山寺の間(約30km)を往復しています。一関から平泉へ北上した時と同様にわざわざ訪れたのはよほど思い入れがあったのでしょう。尾花沢で芭蕉が7泊したと伝えられる養泉寺に立ち寄りました。その境内には芭蕉が詠んだ「涼しさを我やどにしてねまる也」と発句した「すゞしさを」歌仙の連句碑と涼し塚がありました。

 

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芭蕉はさらに北上して新庄市本合海(もとあいかい)から清川まで最上川を舟で下っています。「五月雨を集めて早し最上川」の句は有名です。その500年前に都落ちをする義経も最上川を遡ったそうで、芭蕉が一旦上陸した仙人堂に義経も立ち寄った可能性があると伝えられています。歴史のロマンを感じさせます。

 

仙人堂を訪れたい気持を押さえて、奥の細道のルートを逆に辿る計画通りに、県道28号(尾花沢最上線)で北東の最上町へ向かうことにします。走り始めてからふと銀山温泉の名を思いつくと抗しがたく東南に進路を変えました。301号(鶴子尾花沢線)と29号(尾花沢関山線)、さらに188号(銀山温泉線)を終点まで走った山奥の温泉地です。川沿いに温泉旅館が立ち並んでいます。右手奥にあるのが老舗の能登屋旅館です。

 

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さらに川を遡って歩くと銀山跡(白銀公園)ですが、気紛れで訪れた場所ですから、坑道の一部(疎水抗)を覘(のぞい)いただけで引き返しました。

 

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温泉街の手前に戻って日帰り温泉「しろがね湯」(入浴料500円)で入浴することにしました。崖際に建てられた狭小な建物で中がどうなっているかに興味がありました。この日は男湯が2階です。小さな脱衣場の先にほぼ三角形をした浴場の尖った部分に浴槽があります。泉質は含硫黄‐ナトリウム‐塩化物・硫酸塩温泉、源泉の泉温は61.4度です。掛け流しですが源泉が高温のため加水している旨が説明されていました。午前中ですから他に入浴客がなくて快適でした。

 

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県道188号、29号、国道347号を経由して県道28号に入って最上町へ向かいました。山刀伐(なたぎり)峠近く、旧道との分岐点にある駐車場に奥の細道の大きな標柱が立っています。その脇に奥の細道遊歩道の入り口がありました。山刀伐峠の名の由来は急峻な地形によるようです。

 

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最上町の赤倉温泉から国道47号で中山峠越えをすれば宮城県です。小深沢でも奥の細道遊歩道の入口を見つけました。尿前(しとまえ)関跡入口を過ぎると2年前に仙台周辺を旅行した時に訪れた大崎市鳴子地区(当時は鳴子町)です。尿前とは変わった名前ですが義経伝説とともに山裾を意味するアイヌ語とする説があります。このまま国道47号(羽後街道)を走るのも詰まりませんから脇道にそれました。並行するように「奥の細道ゆけむりライン」(JR陸羽東線の愛称)が走っています。

 

2008_09040308 川渡温泉駅近くで国道47号に戻ったところにあるドライブインで昼食です。名物の「ぶっかけうどん」を注文しました。伊奈庭うどんのように細いうどんにタレをかけると冷やし中華の感触があって私好みでした。

 

あ・ら・伊達の道の駅」を過ぎると同市岩出山地区です。その北はつい最近の地震で甚大な被害が出た栗原市と栗駒岳があります。大崎市は平成18年に鳴子町、岩出山町、古川市などが合併して誕生した新しい市です。町の中央を江合川(えあいがわ)が流れて昔から米と馬の産地だったそうです。「ささにしき」の産地としても知られます。

 

県道226号に入って江合川を渡ると岩出山(いわでやま)の町並みです。(続く)

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2008年9月12日 (金)

奥の細道擬紀行(その8) 山寺から天童温泉へ

県道5号(山形南陽線)と国道458号を北上、週末に「いもに会」が開催される山形市を抜けて天童市に入り、県道24号(天童寒河江線)と19号(山形山寺線)で「山寺」、正式名称は宝珠山阿所川院立石寺(りっしゃくじ)、へ向かいました。途中で芭蕉も歩いた山寺街道と合流すると県道19号は山形市に入りました。この山寺は芭蕉が代表句「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」を詠んだ場所です。石段を登った本堂(根本中堂)の正面左手に芭蕉の像と句碑がありました。

 

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山上の奥の院までは長い階段が続きました。「岩にしみ入(いる)」は凝灰岩の表面に出来た多数の風化穴による音響効果を表したものだそうです。

 

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雨が近いせいか蒸し暑くて汗が流れます。ご利益を期待しながら有名な「おびんずるさま」の頭を摩(さす)りました。

 

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奥の院(如法堂)まで1015段あり所要時間はおよそ1時間です。奥の院の左隣の大仏殿には金色に輝く阿弥陀如来像が安置されています。山上には5つの寺が建っています。三重小搭に立ち寄ったあと、納経堂と開山堂(岩の先端に建つ)の間を抜け五大閣で風に吹かれながら景観を楽しみました。五大閣は正徳4年(1714年)に再建された舞台造りのお堂です。その先は修行地として立ち入りが出来ません。

 

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眼下に見える県道62号(仙台山寺線)を東進して宮城県との県境にある二口峠(ふたくちとうげ)を二口林道で越えると2年前に訪れた秋保(あきう)大滝と秋保温泉に至ります。その時は大滝の先が通行止めでした。

 

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山形県側も山寺の先は一般車両の通行が出来ないようですが、もし可能ならば標高900mの二口峠を越えてみたいものです。通常は南の国道286号や山形自動車道、あるいは北の国道48号(関山街道、作並街道)の幹線道路を通行します。作並街道では渋滞の最後尾を確認しようと愚かにも作並温泉の西まで走ったことがありました。

   

山寺での汗を流すために日帰り温泉「天童最上川温泉ゆぴあ」に立ち寄ることにしました。県道24号で天童市に戻り、県道20号(山形羽入線)が県道23号(天童大江線)と交差する少し手前、最上川河畔に近い藤内新田にありました。第三セクターによる経営ですから入浴料も300円と格安です。泉質はナトリウム・塩化物温泉(食塩泉)で切り傷、火傷、慢性皮膚病、筋肉痛などに効能があるそうです。この日の男湯は「あさぎり」でした。大きな露天風呂は目隠しがありますから最上川は良く見えませんが開放感は十分です。内湯も大きな窓で開放感を演出しています。シャンプーやボティソープが備え付けられているのは有り難いです。外に出ると雲がかかった葉山(はやま、1462m)は辛うじて見えましたが古くから山岳修験の山として知られる出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)のひとつである月山(がっさん、1984m)は残念ながら雲の中でした。

 

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露天風呂に入っている時に雨粒が落ちてきましたので、尾花沢辺りまで行く予定を変更して天童市内に泊まることに決めました。会津市の飯盛山と山形市の山寺で時間を多めに要したことと、雨になりそうですから、止むを得ない決断です。晴れ男の神通力も今日はここまでのようです。

 

夕食は山形名物板蕎麦の老舗「水車生そば」に出掛けました。私は「元祖 いたそば」、同行者は「天ざるそば」を注文しました。「いたそば」は2人前以上のボリュームに驚かされました。店内は天童市らしく障子のさんにも将棋の駒がはめ込まれています。(続く)

 

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2008年9月11日 (木)

奥の細道擬紀行(その7) 桧原湖から米沢城址へ

県道69号(北山会津若松線)で喜多方市を通過して熊倉町熊倉から山道(旧米沢街道)に入りました。道地関屋の集落を抜け、柏木城址の案内板を過ぎた北塩原郵便局の近くで国道459号に合流します。柏木城は葦名氏の山城のひとつで伊達政宗の侵入に備えるために築かれました。

 

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旧米沢街道は大塩から最短距離の山道となり大塩峠と蘭峠を越えて桧原湖(ひばらこ)北岸へ向いますが、国道を少し走って南岸に近い道の駅「裏磐梯」で休憩しました。売店で売られていた焼きだんごと岩魚の塩焼が美味しそうです。同行者は山塩ソフトクリームを見つけました。塩味がさっぱりした一品です。

 

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桧原湖西岸に沿う県道64号(会津若松裏磐梯線、米沢スカイバレー)を走ります。

 

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細野に磐梯山の展望所がありました。最適スポットが足跡で示されているのが面白いです。その足跡を辿ると桧原湖越しに見事な磐梯山が見られました。

 

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さらに県道2号(米沢猪苗代線、西吾妻スカイバレー)で県境を越えました。最上川源流碑と不動滝に立ち寄ったあと、ほぼ真っ直ぐになって伸びる県道2号で山形県米沢市街地に入りました。桧原湖畔、東鉢山(とうばちやま)七曲り、白布峠越え(1404m)と変化に富んだ快適なドライブコースです。

 

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米沢城(舞鶴城・松ヶ岬城とも呼ばれる)は伊達政宗が生誕した場所ですが、正宗が陸前へ転封されると蒲生氏郷の所有となり、その後は上杉氏の家老で文武兼務の智将と言われた直江兼続、次いで石高を四分の一に減封された上杉景勝が会津若松から移って明治になるまで上杉家の城として続きました。景勝の意向に従い家臣の数を減らさなかったことで財政が逼迫、質素を宗とした上杉家の城は石垣や天守閣がなかったそうです。このため現存する堀以外には城跡の雰囲気はなく、現在は謙信公を祀る上杉神社と松ヶ岬公園になっています。神社参道には「毘」と「龍」の軍旗がありました。

 

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有名な上杉鷹山(ようざん)、本名治憲(はるのり)、は米沢藩の行政改革に成功し財政再建を成し遂げた名君で松岬(まつがさき)神社と上杉神社に銅像がありました。

 

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九州の小大名家(日向高鍋藩)から上杉家の養子に入り、17歳で第9代藩主となった鷹山は、守旧派重臣達の抵抗に屈することなく、武士・農民・商工業者を問わず「自助」と「互助」」、年配者への「扶助」の実践に努め、経済的にも精神的にも豊かな社会を実現したとされます。また学問を重視したことも良く知られています。35歳で家督を譲るときに次期藩主治広(はるひろ、義父の実子)に申し渡した伝国の辞があります。

   

一、国家は、先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にはこれ無く候

一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれ無く候

一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

   

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国の財政が逼迫(ひっぱく)して借金が天文学的な数字となった現在の日本国においても範(はん)と仰ぐべき偉人だと思います。(続く)

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2008年9月10日 (水)

奥の細道擬紀行(その6) 野口英世青春通りと飯盛山

朝の散歩に野口英世青春通りを歩きました。栄町のすぐ西の大町と中町を南北に結ぶ煉瓦舗装された洒落た通りには古い蔵屋敷などが並んでいました。野口英世が青春時代を過ごした場所なのだそうです。300m余りの道は早朝でもあり車の通行もほとんどなく散歩には快適です。

 

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野口英世青春館は喫茶店の2階にありましたがまだ開館していません。通りの南端近くにある野口英世青春広場に英世の銅像が立っていました。

 

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大町の国道252号との交差点に戻った時に蒲生氏郷の案内版と若松市道路元標を見つけました。国道が枡形に曲がっているのは昔の名残なのでしょう。

 

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昨夜「田季野」を訪れた時に気になる石垣を見掛けましたのでもう一度立ち寄ることにしました。若松城の廓内に入る甲賀町口廓門の石垣でした。

 

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宿泊先をチェックアウトして飯盛山に向う白虎通りを東に行き当たった駐車場に車を停めて歩きます。白虎隊記念館脇から有料のエスカレーターに乗りました。江ノ島のエスカに似ています。2つのエスカレーターを乗り継ぐと白虎隊士の墓が並んでいます。

 

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右手に進むと白虎隊士が自刃した場所に慰霊塔と少年像が立っていました。少年像が小手をかざして見る先には鶴ヶ城があります。紅白に塗られたNHKラジオの中継アンテナとちょうど重なるために見にくくなっています。

 

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会津戦争により鶴ヶ城は砲弾で大破したものの炎上はしてはおらず、前線から飯盛山に逃げ延びた白虎隊は市中の火災を天守閣が炎上したものと誤認したのです。直線距離で約3.5kmと近いのですが、鶴ヶ城の天守閣は思ったより小さく見えますから、敗走後の混乱時では止むを得なかったかも知れません。下りは別のコースを歩きました。偶然でしたが国指定重要文化財の「さざえ堂」に立ち寄りました。堂内の螺旋状スロープを上るといつのまにか下まで下りる不思議な仕掛けがあります。

 

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戸ノ口堰洞窟から豊かな水が流れ出ています。猪苗代湖から引かれた用水で白虎隊士もこのトンネルを抜けて逃れてきたのだそうです。

 

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参道入口の饅頭屋「小池菓子舗」で見つけた粟(あわ)饅頭を同行者が気に入って土産にたくさん買い込みました。店員さんの話ではJR只見線沿いの柳津町の饅頭なのだそうです。500mほど西方の白虎隊士が仮埋葬された妙国寺にも立ち寄りました。(続く)
 
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2008年9月 9日 (火)

奥の細道擬紀行(その5) 会津若松城と輪箱飯

県道131号(旧会津西街道、別名下野街道)と72号(会津坂下会津本郷線)を北上し、152号(橋本会津高田線)、59号(会津若松三島線)で東進すればいよいよ猪苗代湖北西の要衝である会津若松市です。磐越自動車道、JR磐越西線と只見線、日光街道、そして沼田から片品村と尾瀬沼を経る沼田街道も会津に至ります。

 

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現在は鶴ヶ城公園となっている若松城(鶴ヶ城)に北口から入り、北出丸の枡形(左下の写真)を通って西出丸の駐車場に車を停めました。梅坂から鐘撞堂を経て武者走り(右下の写真)の合理的な機能に感心しながら昭和40年に再建された天守閣に向かいます。現在は裏門になっていますが、蒲生氏郷の時代には表門であったことが説明されていました。1965年に再建された五層の天守閣(入場料500円)が悠然と聳(そび)えています。西側の観光案内所と東側の入場券売り場近くから撮影しました。

 

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天守閣内には歴代の城主が説明されていました。黒川城時代の葦名(あしな)氏と伊達政宗、鶴ヶ城と改めた蒲生氏郷、そして上杉景勝から加藤氏と城主が目まぐるしく変わりましたが、会津松平家となってからは幕末まで続きます。最後の藩主は戊辰(ぼしん)戦争時の会津戦争に敗れた松平容保(かたもり)です。圧倒的な勢力を有する新政府軍の攻撃を前に篭城したものの1ヶ月後に会津藩は降伏します。

 

最上階からは雲がかかる磐梯山や飯盛山(右下写真の右端)とともに会津盆地が見渡せました。見下ろすと平成12年に復元された南走り長屋と干飯櫓(ほしいやぐら)、本丸跡、茶室麟閣(りんかく)が見えます。干飯櫓から出て麟閣に向かいました。秀吉の不興をかい死罪を命じられた千利休の次男少庵を氏郷が会津で匿(かくま)った時に建てた茶室です。後に少庵は氏郷などのとりなしがあり秀吉に許されて千家茶道が再興されることになります。信長が本能寺の変で討たれると安土城に居た信長の妻子を匿って明智軍を相手に日野城で篭城したこととともに氏郷の人柄が偲ばれます。

 

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茶室の奥にある「荒城の月碑」から月見櫓跡と茶壷櫓跡に登ってみました。朱に塗られた廊下橋と五軒丁掘が眺められますが橋の先にある二の丸(現在はテニスコート)は鬱蒼とした木立に囲まれてその様子は窺えません。

 

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鶴ヶ城の北に広がる会津市内には追手町(おうてまち)、千石通り、馬場町通り、甲賀町通り、北出丸通りなど城下町らしい地名が残っています。JR会津若松駅はさらに北西の大町通りと白虎通りが交わる場所にあります。

 

この日の日帰り温泉として選んだのは鶴ヶ城東方の東山温泉庄助の宿「瀧の湯」です。県道325号(湯川大町線)の坂道を上った右手にありました。玄関前の駐車場に車を止めると愛想のよい番頭さんが出迎えてくれました。日帰り温泉の利用を申し出ると何としたことか予約客が多いのでと丁重に断られてしまいました。同宿のhpには午後8時まで利用可能と説明されていたのに残念です。

 

夕食は会津名物である輪箱飯(わっぱめし)の老舗「田季野(たきの)」へ出かけました。鶴ヶ城の横を通る国道118号と東山温泉へ向かう県道325号が交差する栄町ですからアクセスは容易ですが、表通りから路地を入った所ですから、地図がないと店にたどり着くのに苦労しそうです。時代を感じさせる店内は趣があります。

 

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私は欲張って「よくばり輪箱飯」(左下の写真)、同行者は「会津ミニ会席」(続く2枚の写真)を注文しました。同行者が苦手な駒(馬)刺し(最後の写真)が私に回ってきました。小露(こづゆ)と呼ばれる郷土料理(野菜の具が入ったスープ、朱色の器)は素朴な味でした。五大銘飯には入っていませんが評判通りの美味しい料理です。

 

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まだまだ訪れたい場所がありますので会津若松市内に宿泊しました。(続く)

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2008年9月 8日 (月)

奥の細道擬紀行(その4) 白河の関から大内宿へ

翌朝もまだ雨が降り続いています。朝風呂に入ったあと早朝の散歩をかねて殺生石のすぐ下にある那須温泉(なすゆぜん)神社に出掛けました。「生きる」と命名された樹齢800年の御神木と長い参道を進むと拝殿の手前に芭蕉の句「湯をむすぶ誓いも同じ岩清水」の句碑(翁石)が、そして左手には那須の五葉松(推定樹齢800年)がありました。源平屋島の合戦で有名な那須与一が扇を射るときに「南無八幡大菩薩」(菩薩神は源氏の氏神)や日光権現(日光二荒山神社の祭神)とともに地元の温泉神社大明神など多くの神に祈ったと言われます。まさに神頼みが成就したのでした。

 

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朝食を済ませる頃には雨が上がり雲の切れ間から日がさしてきたのはやはり大明神のご加護でしょうか。県道17号(那須街道)の急坂を下りました。一軒茶屋交差点から先に続く見事な赤松林を抜け、県道178号(稲沢高久線)へ移って伊王野に向かいます。県道72号(大田原芦野線、旧奥羽街道)と交差する寺子で「寺子の一里塚」に立ち寄りました。残念ながら近年になって移築されたもので風情はありません。芭蕉は那須湯本から遊行の柳に立ち寄り白河に向かう途中にこの近くを通過したのかもしれません。

 

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伊王野からは芭蕉と同様に昨日走った義経街道で白河に入りました。白河街道の終点であるとともに、江東区白河の地名の由来となった老中で白河藩主であった松平定信の諸領地でした。芭蕉も目的があってこの地に立ち寄っています。

   

福島県道76号となった義経街道をさらに走ると白河市街から15kmほど南にある「白河の関」に到着しました。以前訪れた同じ福島県いわき市にある勿来関(なこそのせき)や義経縁の念珠関(山形県鶴岡市)とともに奥州三古関と称されます。7世紀(大化の改新)の頃にはすでにこの関が置かれたようですが、江戸時代には正確な場所は忘れられており、藩主松平定信が寛政12年(1800年)に推定した場所のようです。

 

関跡と伝えられる小山には館跡と思われる空掘跡と白河神社があります。白河の関は勿来関と同様に和歌の歌枕として有名で、関跡の散策路脇には芭蕉(曽良)の句碑とともに有名歌人の歌碑があり、隣接する白河関の森公園内に芭蕉の句碑と像が立っていました。芭蕉は不確かな伝承に得心が行かなかった様子が伝えられています。定信が白河の関跡を定める111年前の元禄2年のことです。

 

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県道76号と国道289号で白河の市街地に入りました。ここから先は今回のテーマに関係ありませんが、回り道をすることにして、国道4号を横切り県道37号(白河羽鳥線)で羽鳥湖へ向かい田園地帯を快調に走ると山道に入ります。羽鳥湖畔を抜けて国道118号で下郷町へと向い、湯野上温泉で国道121号(日光街道)を10km弱南下すると「搭のへつり」に到着しました。大川(阿賀野川)に侵食された白い岩肌が見事な景観となっています。「へつり」とはこの地方の言葉で切り立った危険な崖を意味するそうです。

 

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吊り橋を渡って対岸に渡りました。

 

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湯野上温泉から県道329号(湯ノ上会津高田線)と県道131号(下郷会津本郷線、旧会津西街道あるいは下野街道)で次の目的地である「大内宿」まで走りました。今人気の宿場町です。日光今市と会津若松を結ぶ会津西街道(別名下野(しもつけ)街道)で会津に最も近い宿場町は街道沿いに茅葺民家が建ち並び江戸時代の面影を今に伝えています。観光地化した中山道の馬籠宿妻籠宿に比べると何かしら生活感が感じられました。余りの暑さのためか店の人が店先に水を撒(ま)いています。(続く)

 

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2008年9月 7日 (日)

奥の細道擬紀行(その3) 日帰り温泉「鹿の湯」と沼ッ原湿原

今日の日帰り湯は那須七湯の中で一番歴史がある1300年前に開湯された那須湯本温泉「鹿の湯」です。泉質は硫化酸性・含硫黄-硫酸塩温泉(硫化水素型/酸性低張性高温泉)で泉温は59.0℃です。白濁した湯は疲労回復、皮膚病、胃腸病に効用があるそうですから疲れを癒すのにはもってこいの温泉です。朝の8時から夕方の7時まで営業していることと、入浴料金が400円と格安なのも嬉しいです。

 

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湯治場の風情がある浴室に入りました。湯温が高くて薬効も強いので、後頭部に「かぶり湯」を何回もすることと「短熱浴」と呼ばれる入浴方法が勧められていました。つまり23分の入浴を繰り返して一回の入浴時間は15分程度を目安にするのです。20名ほどの入浴客がありますが浴槽の外で休憩する人が多くて混雑を感じさせません。

 

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2008_09030138 41度、42度、43度、44度、46度、48度と6種類の四角い浴槽が並んでいます。46度までの何とかは入れましたが、さすがに48度は痛くて入ることを断念しました。

 

ところがベテランの入浴客が「今日はぬるい」と言いながら温度計で測り始めました。そして「47度あるかどうかだなぁ」と言う。それに「湯の花が少なく色が薄い」とも・・・。

 

まだ陽が高いので一軒茶屋交差点から県道266号(中塩原板室那須線)で西に向かいました。那須塩原市に入ったところを右折して急な坂を上り、風力発電搭が並ぶナムコの施設を通り過ぎ、未舗装の道を上りきると沼ッ原湿原の駐車場です。熊笹に覆われた15分ほどの散策道を下りると湿原に到着しました。

   

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標高1230mの湿原に整備された木道を歩きながら水辺に咲く花や虫たちを撮影しました。サワギキョウ、キンミズヒキ、ヤマトリカブト、タムラソウ、ワレモコウ、オオカメノキ(赤い実)など秋の花々です。初夏にはニッコウキスゲが見られるそうです。

 

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県道266号を一軒茶屋交差点に戻る途中で見かけた「南ヶ丘牧場」にも立ち寄りました。親子連れや若い人達で混み合う観光用牧場にはマス・チョウザメ・水鳥が泳ぐ清流や、羊・山羊・うさぎ・孔雀と触れ合うエリア、乗馬コース、牛が寝そべる放牧場などがあります。同行者はと見るとさっそく濃厚な味と謳(うた)われたソフトクリームに舌鼓を打っています。

 

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この日は那須湯本温泉に宿泊しました。宿の温泉は鹿の湯とは違うほぼ透明な湯で、泉質は単純泉(中性低張性高温泉)です。ほとんど貸切り状態でもありゆるゆると湯を楽しんでいると急に強い雨音が聞こえて来ました。早朝の高速道路は小雨でしたが日中は晴れたり曇ったりと回復して晴れ男の面目躍如と思っていたのですが・・・。明日も何とかなるだろうと思うことにして久しぶりのカラオケを楽しみました。(続く)

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2008年9月 6日 (土)

奥の細道擬紀行(その2) 那須五峰の茶臼岳

那須高原道路に入りました。普通車の通行料金は360円です。有料道路の終点「那須岳山麓駅」で車を降りて那須岳ロープウエイに乗りました。山頂駅からは散策道が茶臼岳山頂へ向かっていますが100m余り歩くと急な登山道へと変わります。

 

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2週間前に登った富士山の9合目から頂上に至る登山道に似ていますが、ジグザグのコースではなく、こちらはほぼ直線的な滑りやすい上りですから登山靴を履かない人には難儀です。

 

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後半は岩場となり登山客だけになりました。黄色いペンキで画かれた印を頼りに岩場をよじ登ると火口脇の分岐点に到着しました。

 

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右手は峰の茶屋登山道で、左手前方に見える尖った岩場が茶臼岳(那須岳)山頂です。所要時間は約35分でした。那須岳神社の脇には1898mと表示されています。最高地点(1917m)は右手の大きな岩の先端を指すのでしょうか。

 

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山頂からの景色を楽しみました。すぐ北隣の剣が峰(1799m)と朝日岳、その先の三本槍岳1917m)に向かう登山道と峰の茶屋跡(避難小屋)が下方に見えます。(右上の写真) 三本槍岳の名の由来は昔、会津藩・那須藩・黒羽藩が領地を確認するために槍を立てたことによるそうです。先客がカメラを構える先は雲がかかる三倉山1854m)で、福島県との県境に連なる山のひとつです。

 

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しばらく休憩したあとはお鉢巡りをすることにしました。大きな溶岩石にひびが入って風化する様子が見られます。茶臼岳の火口は死火山のようですが、お鉢巡りの外側にある噴気口からは蒸気が音を立てて噴出していました。登山客へ時々アナウンスされていた天候の急変だけでなく有毒ガスへの注意も必要でしょう。下山道は富士山での教訓を活かして出来る限り緩(ゆる)やかなペースで歩きましたので、上りとほぼ同じ35分ほどでロープウエイの山頂駅に到着しました。

  

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車に戻って自動車道路の終点にある峠の茶屋に立ち寄った頃には急に雲が立ちこめてロープウエイ山頂駅が霞んできました。(続く)

 

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2008年9月 5日 (金)

奥の細道擬紀行(その1) 那須の東山道

久しぶりのドライブ旅です。遠出を控えていた8月が終わると暑さも一段落したようです。9日の東北自動車道路はガソリン高が今も続いているためか閑散としており、早朝とは言え渋滞も無く、2時間弱の快適なドライブで那須ICに到着しました。2ヶ月前に思い立ったテーマに従って蒲生氏郷と伊達政宗の足跡を探るとともに芭蕉が歩いた奥の細道を訪ねます。ドライブと言っても高速道路や主要国道の利用を最小限にして県道などの地方道を選んで走ることを今回の旅の拘(こだわ)りにしました。

 

那須ICから県道17号(那須高原線)・303号(黒磯高久線)・211号(豊原高久線)を経由、那須町役場前を通過して28号(大子那須線)で芦野へ向かうと国道294号(旧陸羽街道、奥州街道)との交差点近くに目的の場所があります。国道沿いにある遊行庵の駐車場に車を停めました。朝の6時を少し回った頃に人影のない畦道(あぜみち)を歩くと那須湯泉神社(上の宮)参道脇に長年植え継がれてきた「遊行柳」(ゆぎょうのやなぎ、別名を朽木の柳・枯れ木の柳など)が見えて来ました。一の鳥居前に同じように大きな柳がふたつ並んでいますが左側が遊行柳です。

 

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参道の左手に芭蕉の「田一枚植て立去る柳かな」、右手には蕪村の「柳散清水涸石慮々」と西行の「道のべに 清水ながるる柳影 しばしとてこそ立ちどまりつれ」の句碑が立っています。芭蕉が遊行柳に滞在したのは「田一枚植えて~」から推測して一刻(2時間)程度だったのであろうとする解説を読んだことがあります。芭蕉の句碑は風化が進んで判読が困難でした。右下の写真は上の宮の社殿近くから見た遊行柳です。

 

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せっかちな私はとても2時間をここで過ごす気にはなれませんので次の目的地へ向かいました。遊行庵前から旧道に入って那須歴史探訪館前の急な階段を上りました。芦野氏陣屋跡(別名御殿山・桜ヶ城)には県の天然記念物である高野槙(こうやまき)の巨木(樹齢400年以上)が聳えていました。築城記念に植えられたと伝えられます。

 

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国道294号を南下して芦野氏陣屋裏門に立ち寄ったあと、伊王野で伊王野城址(霞ヶ城址)を訪れました。脇道に入って正福寺脇の階段を上った小山の中腹に城址の石碑と馬頭観音堂があります。その脇に小さな湧き水を見つけました。

 

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県道28号と76号(伊王野白河線、旧東山道、義経街道)は翌日白河へと辿(たど)る予定でしたが、いつしか街道を走っていました。義経縁の「沓石(くついし)」を過ぎると福島県との県境にある追分峠の「追分明神」です。源頼朝が平家追討の旗を揚げたことを聞いた義経が奥州平泉から鎌倉へ駆けつける時にこの街道を通っています。期待していた彼岸花はやはり時季が早過ぎたようです。

 

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もと来た道を那須町役場前まで戻り、県道28号でさらに那須高原へと向かいます。JR東北本線黒田原駅の脇を抜けて国道4号を横切ると県道21号(湯本漆沢線)に変わりました。東北自動車道を横切ってなだらかな坂道を上ると一軒茶屋交差点から那須湯本の町並みに入ります。那須五峰が見えてきました。茶臼岳(1915m)、朝日岳(1896m)、鬼面山(1616m)、南月山(1775m)、黒尾谷岳(1589m)です。那須湯本温泉街を通り抜けると茶臼岳の麓が迫った湯川に「殺生石」がありました。退治された狐が岩となって今も恨みを吐き出しているのだそうです。(続く)
 
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注釈)区の最後は「露あつし」です。                    

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