郡上八幡と長良川(1): 八幡城
カーラジオから流れる早朝のラジオ放送を聴きながら東名高速道路を走りました。外は折からの台風13号の来襲で強い雨が降りしきっているため、走りなれた道も自然に緩やかな走行になっています。沼津を過ぎる頃には台風が通り過ぎていつもの穏やかな東名高速道路に戻り、浜名湖SAで東の空が明るくなりました。豊田JCTから東海環状自動車道を経由して美濃関JCTで東海北陸自動車道に入って約30km北上すれば郡上八幡ICに到着します。郡上踊りで知られる郡上八幡(現在は郡上市八幡町)には、以前から関心を持っていたのですが、訪れるのは今回が初めてです。
城下町の家並みがそのまま残っています。小駄良川(こだらがわ)の上流から引き入れた水が軒先を流れる水路の「御用用水」や「柳町用水」は防火目的も兼ねていたそうです。町割り(区画整理)は1660年頃に行われ、城下を防衛するため辻の突き当たりには寺が配置されています。北町と呼ばれる城下の三つの道筋はそれぞれ、柳町(侍町)、殿町(役所や家老屋敷)、職人町・鍛冶屋町・本町に分かれています。「美しい日本の歴史的風土100選」選定委員会によって「城下町郡上八幡の町並み」が日本の歴史的風土100選のひとつに選ばれました。(郡上八幡市のhpを参考)
駐車場に車を停めて八幡山にある八幡城へ向かって歩きました。郡上御坊とも呼ばれる安養寺の境内を抜けると急な坂道になりました。右手に「にほんまんまんなか釈迦三尊臍(へそ)の堂」「およし観音堂」があります。
しばらく坂道を上ると安養寺の本堂越しに郡上八幡市街と東海北陸自動車道が見えてきました。城山公園には「山之内一豊と妻の像」が立っています。郡上八幡は一豊の妻「ちよ」の生誕地(郡上八幡城主遠藤氏の娘)と伝えられますが近江の生まれとする説もあります。木立の間から天守閣が見えます。登口には車で5分と書かれていますので同行者は不満顔になりました。
七曲りの自動車道を串刺しにするように登山道がほぼ直線に伸びています。丹後半島の玄武洞で見た筋状の岩肌が露出しています。10分ほどで天守閣下に到着すると山上の石垣と天守閣が眼前に拡がりました。石垣は野面積(のづらずみ)です。眼下に見える八幡町の町並みが北に伸びています。山陰の長良川に沿って延びる国道156号あるいは東海北陸自動車道を80kmほど北上すると世界遺産の白川郷に至ります。
築城時に人力で運ばれた力石と歌碑が並んでいました。この高みからは吉田川に沿う城下町が良く展望できます。天守閣の入館料は300円です。現在の天守閣は昭和8年(1933年)に木造で再建されたもので、昭和57年(1982年)に石垣の改修、昭和62年(1987年)に城郭の大改修、平成2年(1990年)に高塀と隅櫓の改修が行われて綺麗な城が再現されました。城郭一帯の石垣すべてが県の史跡に指定され、天守閣は市の有形文化財に指定されています。
天守閣内には八幡城の歴史が詳しく説明されていました。戦国時代末期の永禄5年(1559年)に遠藤盛数によって砦が築かれたのが郡上八幡城のはじまりです。井上氏に続いて金森氏が入部しましたが、金森氏の治世下の宝暦5年(1755)に過酷な重税にたまりかねた農民たちが幕府へ直訴などをくりかえす約4年に亘る大規模な農民一揆が起きたため12代城主金森頼錦はその責任を問われてお家断絶(宝暦騒動)に追い込まれました。私はこの一揆のことを学生時代に知り関心を持っていました。
そして宝暦9年(1759)に丹後の宮津から青山氏が転封されて明治の廃藩置県まで続きました。青山氏は東京の地名の由来で紹介しています。幕末には官軍(新政府)側に付くか徳川方に付くかで選択をせまられた郡上藩は二分極の政策を同時進行させました。つまり藩は官軍に付く姿勢を表面に出しながら、脱藩者の名目で江戸屋敷に居た43人の若者たちを白虎隊の援軍として会津に送りこんだのです。これが郡上凌霜隊(りょうそうたい)です。徳川の親藩でありながら、時代のうねりには逆らえないことを悟った山国の小藩の苦渋の決断でした。
今月の初め、会津若松の飯盛山を訪れた時に白虎隊士の墓の近くで凌霜隊の碑(下の写真)を見かけたことが今回の旅のもう一つの動機になりました。長岡藩や米沢藩が会津藩とともに戊辰戦争を戦ったことは良く知られていますが、意外にも郡上藩の名を飯盛山で見つけて興味を持ったのです。(続く)
参考: 郡上一揆顛末記
郡上藩主の金森氏は国替えや江戸における役職・住居に多額な金を要したのが背景です。作物が育ちにくい土地のため百姓は貧しい生活に苦しんでいる時の増税通達でしたから百姓の反発を招きました。藩は課税方法のお墨付きを幕府の重臣(勘定奉行)から得た上での増税でしたが、農民による反発の強さに押された国家老は妥協する一方で、江戸に居た藩主は幕府の威光を借りるために美濃郡代代官に幕府の通達(実は権限外)を依頼しました。双方とも譲らないため事態は益々エスカレート、つまり郡上藩による弾圧と農民から藩主への嘆願書が続いたのです。
弾圧が余りにも激しさを増したため、北部の白鳥(しろとり)地区を中心とする農民一揆から脱落する「寝者(ねもの)あるいは寝百姓」が続出して、あくまでも新課税制度を拒否する「立者(たちもの)あるいは立百姓」は一時5000人余り居たものが500~700人ほどに減少するなか、藩に内通する者さえ出るようになりました。このため農民は当時厳しく禁じられていた幕府への直訴(老中に直接訴える駕籠訴と目安箱に訴状を入れる箱訴)を決断します。
将軍家重の命により田沼意次(おきつぐ)、大目付と寺社・町・勘定奉行らが農民からの訴状を詮議した結果、幕府と郡上藩の役人が多数重い処分を受けました。当時の意次は1万石の大名に取り立てられたばかりでした。老中本多正珍(まさよし)・若年寄で美濃郡代代官青木次郎九郎・大目付曲淵英元(まがぶちひでもと)が罷免、勘定奉行大橋親義と若年寄本多長門守忠央(ただなか)は知行取り上げ(領地没収)となったのを始め、多数の幕府役人が処罰されました。
その多くが財政再建派(増税派)とも言われますし、田沼意次が忠央の領地(遠州相良藩1万5千石)を手に入れて相良城主になった後に藩主兼老中へと昇進していますから何やら臭います。また青木次郎九郎が郡代として担当した宝暦の治水(木曽・長良・揖斐の三川の治水工事、薩摩藩が命じられた)で検使を務めた目付牧野織部が詮議団の5名に入っているのも憶測を呼びます。この後、幕府は重商主義政策へと転換していわゆる田沼時代に入るのも偶然ではなさそうです。
郡上藩においても藩主は領地没収、重臣も死罪あるいは遠島の厳しい処分を受け、農民も獄門、死罪、遠島、あるいは獄中死が多数出ました。このように幕府の重臣までが重い処罰を受けたのは江戸時代に発生した一揆(3200件と言われる)で唯一のことだったようです。
この郡上一揆を岐阜在住の作家・演出家、こばやしひろし(小林宏昭)氏が百姓の立場から描いた創作劇「郡上の立百姓」(原題は郡上一揆)が2000年に「郡上一揆」(緒方直人主演)として映画化されています。
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