奥の細道擬紀行(その7) 桧原湖から米沢城址へ
県道69号(北山会津若松線)で喜多方市を通過して熊倉町熊倉から山道(旧米沢街道)に入りました。道地と関屋の集落を抜け、柏木城址の案内板を過ぎた北塩原郵便局の近くで国道459号に合流します。柏木城は葦名氏の山城のひとつで伊達政宗の侵入に備えるために築かれました。
旧米沢街道は大塩から最短距離の山道となり大塩峠と蘭峠を越えて桧原湖(ひばらこ)北岸へ向いますが、国道を少し走って南岸に近い道の駅「裏磐梯」で休憩しました。売店で売られていた焼きだんごと岩魚の塩焼が美味しそうです。同行者は山塩ソフトクリームを見つけました。塩味がさっぱりした一品です。
桧原湖西岸に沿う県道64号(会津若松裏磐梯線、米沢スカイバレー)を走ります。
細野に磐梯山の展望所がありました。最適スポットが足跡で示されているのが面白いです。その足跡を辿ると桧原湖越しに見事な磐梯山が見られました。
さらに県道2号(米沢猪苗代線、西吾妻スカイバレー)で県境を越えました。最上川源流碑と不動滝に立ち寄ったあと、ほぼ真っ直ぐになって伸びる県道2号で山形県米沢市街地に入りました。桧原湖畔、東鉢山(とうばちやま)七曲り、白布峠越え(1404m)と変化に富んだ快適なドライブコースです。
米沢城(舞鶴城・松ヶ岬城とも呼ばれる)は伊達政宗が生誕した場所ですが、正宗が陸前へ転封されると蒲生氏郷の所有となり、その後は上杉氏の家老で文武兼務の智将と言われた直江兼続、次いで石高を四分の一に減封された上杉景勝が会津若松から移って明治になるまで上杉家の城として続きました。景勝の意向に従い家臣の数を減らさなかったことで財政が逼迫、質素を宗とした上杉家の城は石垣や天守閣がなかったそうです。このため現存する堀以外には城跡の雰囲気はなく、現在は謙信公を祀る上杉神社と松ヶ岬公園になっています。神社参道には「毘」と「龍」の軍旗がありました。
有名な上杉鷹山(ようざん)、本名治憲(はるのり)、は米沢藩の行政改革に成功し財政再建を成し遂げた名君で松岬(まつがさき)神社と上杉神社に銅像がありました。
九州の小大名家(日向高鍋藩)から上杉家の養子に入り、17歳で第9代藩主となった鷹山は、守旧派重臣達の抵抗に屈することなく、武士・農民・商工業者を問わず「自助」と「互助」」、年配者への「扶助」の実践に努め、経済的にも精神的にも豊かな社会を実現したとされます。また学問を重視したことも良く知られています。35歳で家督を譲るときに次期藩主治広(はるひろ、義父の実子)に申し渡した伝国の辞があります。
一、国家は、先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
国の財政が逼迫(ひっぱく)して借金が天文学的な数字となった現在の日本国においても範(はん)と仰ぐべき偉人だと思います。(続く)
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