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2009年5月に作成された記事

2009年5月31日 (日)

旧東海道ドライブ旅(静岡県東部 その7): 薩埵峠と興津宿

由比駅を過ぎて右手の狭い道に入り案内標識に従って急坂を上りました。雨が強く降り始めました。

 

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東海道名主の館小池邸」と「東海道あかりの博物館」のある古い家並みが続く寺尾地区を抜けて道幅の狭い旧東海道は倉沢地区へと入りました。店先で大勢の人達が雨宿りをしています。「望嶽亭藤屋」を見学する順番待ちだったのかもしれません。ここが峠の登り口で標識は右手の急坂を示しています。いよいよ東海道の難所(景勝地)である薩埵峠(さったとうげ)に向かいます。

 

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人通りが絶えた急坂の道でみかん畑の中を走ると前方から軽トラックがやって来ました。車1台通過するのがやっとで擦れ違いは無理な狭い道です。この急坂で弱ったなと車を停めると、擦れ違いが出来る場所までバックしてくれました。ありがとうございます。視界が開けると薩埵峠碑と薩埵地蔵道碑があります。対向車が来ない間に撮影しました。眼下に東名高速道路がはっきりと見えますが薩埵峠から写された有名なポスターのアングルとはかなり違います。

 

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もう少し進むと予想以上に広い駐車場があり一番奥に薩埵峠山之神遺跡の碑が立っています。ゆっくり撮影ができると思ったのも束の間、まだ最高のアングルではありません。遊歩道を歩いてベストスポットを探す必要がありそうですが生憎降雨が続いているのでまたの機会にすることにしました。ベストスポットに設置された静岡市(旧由比町)のライブカメラがありますからこちらをクリックしてください。ライブカメラに写る左手の山に見える白っぽい部分が薩埵峠碑があった場所のようです。

 

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駐車場を出ると残念なことに道はすぐ下り坂になりました。由比から上った狭い道とは比べ物にならない快適な道で東名高速道路の脇を一気に下りて興津川(おきつがわ)の手前を左折すれば前方に国道1号が見えて来ました。国道1号の旧道に入って興津へ向かって走ると興津宿公園がありました。さらに走ると清見寺(せいけんじ)が右手の小高い場所に見えます。

 

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その駐車場脇に東海道五十三次で17番目の宿場である興津宿(おきつじゅく)の説明と清見関(きよみがせき)跡の表示がありました。清見関は東国への備えで天武天皇の在位中(673年-686年)に設置されたと伝えられます。

 

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2009年5月30日 (土)

旧東海道ドライブ旅(静岡県東部 その6): 由比宿

国道396号で蒲原駅前を通過すると東名高速道路と立体交差します。すぐ先にY字路が迫りますが由比宿(ゆいじゅく)の案内標識はいずれも右方向を示しており、一瞬迷いましたが、へそ曲りな私は旧道と思われる左手の道を選びました。

 

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確信がないままに走ると神沢川(かんざわがわ)を渡って蒲原から由比に入りました。狭い道をそのまま進むと右手に由比本陣公園が見えてきました。

 

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名前の通りに東海道五十三次の16番、目由比宿の本陣屋敷跡で、約1300坪の敷地内には本陣記念館や東海道広重美術館などがあります。塀の前にある馬の水呑場は他の宿場には見られない珍しいものであるとの説明書きがありました。

 

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向かい側が脇本陣の温飩(うどん)屋と正雪紺屋(しょうせつこんや)です。後者は江戸時代初期から続く紺屋(染物屋)で名前のように由比正雪の生家と伝えられています。(異説もあるようですが)

 

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由比(由井)正雪は江戸時代の軍学者で、江戸に3000人の門下生を抱えていたと言われます。幕府による大名の取り潰しで大量に(20-40万人と推定)発生した浪人の救済を訴えて、反乱を起こしました。今風に言えばリストラで職を失ったサラリーマンを支援するグループのリーダーです。反乱計画(由比正雪の乱あるいは慶安事件)が事前に発覚したため自刃して果てました。幕府の政策を変えさせた人物として知られます。

脇本陣羽根ノ屋、明治の郵便局舎(平野氏宅)、弥次さんと喜多さんらしき人形が出迎える「おもしろ宿場館」、加宿問屋場跡などがありました。

 

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由比宿を散策している間に雨が降り始めました。由比川を由比橋で渡ってJR東海道本線由比駅前を抜ける由比桜えび通りを走ると前方の山が迫ってきました。いよいよこの旅のハイライトである「薩峠(さったとうげ)」へと向かいます。

   

ちなみに由比は桜えびでも知られ、桜えびの直売所と桜えび料理の店が由比漁港近くの旧東海道沿いに並んでいました。

 

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2009年5月29日 (金)

旧東海道ドライブ旅(静岡県東部 その5): 蒲原宿

都心散策で小休止したあとは旧東海道宿場巡りの旅に戻ります。富士川橋の先は旧東海道に従って国道396号から反れて山沿いのルートを取り、富士川駅入口交差点で国道396号に戻りました。旧東海道はこの辺りからさらに山側に進んで、東名高速道路の下を潜り中之郷を通過してふたたび東名高速道路の上を通って蒲原に下りるコースを取りますが、時間を短縮するために県道396号をそのまま走ることにしました。東海道新幹線を潜ると右手に東名高速道路が迫って来ました。道なりに右へ大きくカーブすると静岡市清水区蒲原(かんばら)です。

 

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下り坂の途中、右手の鮮やかなオレンジ色の建物の脇に細い道が見えました。これが旧東海道に合流する道のようです。その道に入ると右手から来る道が旧東海道でした。蒲原宿東木戸を過ぎると街道筋らしい町並みに入りました。北条新三郎の墓(この奥)と表示されています。武田勢が駿河に侵攻した時に蒲原城で討ち死にした武将(北条早雲の孫)であることを知りました。またの機会に蒲原城址を訪れたいと思います。
 
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諏訪神社の近くに蒲原宿の標識と常夜燈がありました。巨大な4本の金属製パイプが道路の下を通っています。日本軽金属の第二発電所へ水を送るパイプでした。同社の蒲原製造所で使う電気を発電するための施設です。

 

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東海道五十三次で15番目の蒲原宿は宿場町の雰囲気が良く残る町並みです。黒塗りの建物と問屋場跡、本陣跡、高札場跡などの案内板が続きました。

 

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左手に伸びる御殿道は徳川家康がこの辺りに建てた蒲原御殿への道だったそうです

 

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ちょっと変わったところでは国登録文化財の「旧五十嵐歯科医院」です。町屋を大正3年に洋風に増改築した建物だそうです。

 

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西木戸の先も旧東海道が続きますが県道396号へ出て由比宿へ向かいます。

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2009年5月28日 (木)

九段-北の丸公園-竹橋エリアを散策

旧東海道のドライブ旅はまだ続きますが息抜きのショートブレイクです。昨日、千代田区の九段へ出掛けました。「クラウド・コンピューティング」のセミナーに参加するためです。長時間の聴講で疲れた頭を癒(いや)すために九段界隈を散策することにしました。会場のベルサール九段から地下鉄九段下駅方面に戻る途中に「滝沢(曲亭)馬琴 硯の井戸跡」の立て札をあるマンションのエントランスで見つけました。九段下駅近くの公園には一風変わったものが置かれています。台座に埋め込まれた説明を読むと「寿人遊星」は1986年にハレー彗星が接近したことを記念して作られた彫刻とのこと。

 

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ここは靖国通りの俎橋(まないたばし)の袂(たもと)です。変わった(読みにくい)名前は江戸時代に日本橋川(外堀)に架けられたこの橋が俎のように単純な形をしていたことによるとする説もあるそうですが由来ははっきりしないようです。現在の橋は首都高速の下を抜ける靖国通りの交通量の多さに合わせて鉄製に変わっていますが、やはり俎のように実用一点張りの形をしています。

靖国通りに出て九段坂を上ります。九段の地名の由来が説明されていました。

 

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北の丸スクエア・ビルの奥にある築土(つくど)神社の入口を探すと「北の丸スクエアザ・テラス四季彩の庭」が目に入りました。ビルのオープン・スペース(公開空地)に作られた四季を通して花木を楽しめる小さな庭園です。ヤマボウシの花は咲いていますが築土神社へ至る石段は工事中のため残念ながら通行止めになっていました。

 

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東京理科大学前を過ぎた田安門交差点の先が靖国神社です。これまでは拘(こだわ)りがあるため、1度だけ参拝したことがあり、今回で2度目になります。

 

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第一鳥居の先に伸びる広い参道は昔のままのようです。大村益次郎像を過ぎて道路を渡ると第二鳥居と神門があり、その先が拝殿と本殿です。拝殿にお参りしたあと、次回は何年後になるであろうかと複雑な想いで退出しました。

 

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靖国神社の参道入口から見えた塔を目指して靖国通りの横断歩道橋を渡りました。千代田区の花である桜などのタイル画が床に貼られています。レンガ造りの八角形の塔は屋根の上に風見鶏が付いています。名前や説明書きが見つかりません。

 

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竹橋に向かうため靖国通りの坂道を下り始めると行き交う若者達が花束を手にしています。それも一人だけではなく途絶えることなく続く若者達がみな花束を持って黙々と北の丸公園に向かって歩いて行きます。不思議に思って眺めているとダフ屋と思しき男性が「入場チケットはまだあるよ!」と人並みに呼びかけています。ダフ屋のひとりに聞いてみることにしました。返ってきた答は「ザドと言う有名な人の追悼コンサートで倉木麻衣が歌うんだよ」とのこと。

「ザド、ザド、ザド・・・、座頭市!?」と頭で反芻(はんすう)しても「ザド」の意味が分かりません。もう一度ダフ屋さんに聞くのも気がひけます。「若い人」「花束」「追悼」の連想ゲームで分かりました。「ZARD(故坂井泉水さん)」の三回忌追悼コンサートのようです。私の子供が好きなテレビ・アニメ番組「名探偵コナン」の主題歌やヒット曲「負けないで」「揺れる想い」などで人気のある歌手であることは知っています。これらの作詞も手掛ける豊かな感性と透明感のある歌声に強いインパクトを感じ、メディアへの露出が少ないためミステリアスな印象があり、そして2年前に突然亡くなったことも覚えています。

田安門を入ると大勢の人が白い紙バッグを提(さ)げており、そこには「ZARD」とだけ書かれています。

 

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日本武道館に近づくと入場待ちの群衆が武道館を取り囲んでいまいした。人々が持つのはテント村で販売されているZARD CONCERT GOODSを詰め込んだ紙袋なのでしょう。武道館にはZARD What a beautiful memory 2009の看板が掲げられ、建物の周りを半周した場所には献花台が置かれていました。

 

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人の多さに圧倒されて北の丸公園を後にしました。お祭りのように屋台(露店)が歩道に並んで営業しています。その先では「坂井泉水さんの記念館を作りましょう!」と募金活動が行われていました。地下鉄九段下駅やその先の神保町駅方面からも人の列が続いています。九段下交差点を右折して内堀通りに入りました。昭和館の巨大な建物と九段会館のクラッシクな建物が不思議なコントラストになっています。堀端を歩きました。清水門入口の先は清水濠と竹橋が続きます。

 

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平川橋の袂を抜けると前方からジョギングをする人達が次々と走ってきます。若い人ばかりではなく私と同年代の年配者も混じっていました。その人達に感心しながら大手濠沿いに歩くと前方に見覚えのあるビルが見えて来ました。友人との会食によく利用するホテルです。12階のレストランから見える皇居周辺の景色が夕闇に包まれて夜景に変わって行くのが楽しみです。1年振りに会う友人たちと杯を重ねながら、ピアノの生演奏 が静かに流れるなか話が弾み、気が付けば2時間半が経過していました。会話の楽しさと心地よい酔いが全身を包み込んでくれます。

 

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2009年5月27日 (水)

旧東海道ドライブ旅(静岡県東部 その4): 原宿と吉原宿

原駅入口を過ぎました。原の地名は浮島沼がつくりだした浮島ヶ原に由来し、原宿は東海道五十三次の13番目の宿場で東町西町で構成されていたそうです。先ほど渡った踏み切り近くの大塚辺りが東の端だったのでしょう。東海道で一番小さかったと言われる原宿は街道一の「富士山の眺め」で有名です。現在は浅間神社前に原宿の標識があるだけです。

もう一度JR東海道線の踏切を渡ると東柏原交差点で県道380号に吸収されました。東田子の浦駅前交差点を通過しながら、もうすぐ「田子の浦」だと期待しましたが、無情にも県道は海岸線から段々離れて行くようで、田子の浦は一向に見えません。変則的なT字路の檜交差点で旧東海道は県道330号と分かれて県道170号に入ります。

 

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木之本神社が左手に見えます。どうも行過ぎたようで100mほど戻りました。良く見るとT字路角のお蕎麦屋さんの店先にある案内標識が踏切を渡るようにと表示しています。

 

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指示された通りに進むとJR東海道本線の踏み切りがありました。その先が日本製紙の工場で行き止まりのように見え、道が続くと思われる左手には路線バスが止まっています。恐る恐る踏み切りを渡る間、バスが待っていてくれました。吉原駅北口交差点から河合橋を渡ると国道139号に吸収されましたが、富士由比バイパスの下を右折して県道171号(旧東海道)が続きます。左手に左富士神社が見えます。ここが有名な左富士のようです。向かいの酒屋さんの軒先には杉玉(酒林)が吊り下げられています。

 

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次の交差点角に左富士の石碑と旧東海道五十三次の14番目である吉原宿の標識が並んでいました。道なりに進むと吉原本町に入り、岳南鉄道の踏切を渡ると吉原本町通りでした。中央駅交差点を左折して県道22号に入り、次の信号を右折すると錦町北交差点で国道139号に吸収されます。旧東海道は道なりに右斜め前方の細い道へと続くようですが、一方通行のようですからそのまま国道を走り、青島交差点を右折して国道396号に入りました。吉原宿でも旧東海道の複雑なルートを車で辿るのは大変です。

 

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河原宿と表示された交差点の名が気になりますがそのまま通過しました。ここから先の旧東海道は5kmほど直線コースです。

 

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前方に富士川橋が見えてきました。この近くに富士川の渡し場跡があることを思い出し、対向車線が車で溢れていることにも気後れせず、信号のある交差点で強引に右折しました。雁堤(かりがねづつみ)の名にも惹かれたのです。雁が連なって飛ぶ型に似ていることが名の由来であると説明されていました。

 

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周辺を適当に走り回ったものの渡し場跡は見つけられませんでした。後で調べると富士川橋の袂(たもと)にある水神社の境内と対岸にも「富士川渡船場跡」の石碑があることを知りました。準備不足が残念です。

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2009年5月26日 (火)

旧東海道ドライブ旅(静岡県東部 その3): 沼津宿

旧東海道(県道145号)に戻りました。狩野川(かのがわ)支流の黄瀬川(きせがわ)を渡ると沼津市に入り、東下石田で県道380号に吸収されました。国道414号と交差する三園橋を通過すると沼津市の中心部に入ります。県道は大手町交差点へ向いますが旧東海道は横断歩道橋のすぐ先を左斜め前方の脇道(川廓通り)に入ります。川廓通りはカラータイルで舗装されて美しい佇(たたず)まいです。沼津城郭に接した道に付けられた川廓(かわぐるわ)の由来が説明されていました。

 

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水神社を過ぎた右手の中央公園は沼津城址(本丸跡)でした。県道380号の交差点に「大手町」の名が残っています。大手町交差点の少し北側に城岡神社もありました。ここに沼津城の二の丸があったそうです。

 

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「さんさん通」(県道159号)を南下、通横町交差点を右折して御成橋通りに入ります。さらにその先を左折して県道160号で本町を南下、静岡銀行の角を右折、永代橋通りで浅間町へとジグザグの道が続きました。やはり城下町ならではです。東海道五十三次で12番目の宿場である沼津宿は「さんさん通り」から「本町」辺りにあったようです。注意して探したのですが沼津宿跡の表示を見つけられませんでした。写真はさんさん通の沼津駅方面と、本町からアーケード名店街(上本通商店街)を振り返って撮影しました。

 

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浅間神社のある浅間町交差点を左折して旧東海道から反れました。千本松原に立ち寄るためです。乗雲寺と東方寺の間を抜けて千本浜道で観音川を渡ると松林に入りました。この複雑なルートが県道160号の全線です。通横町交差点からの総延長がわずか900mの県道でした。道は左にカーブしますが行止まりの脇道に入って海岸に出ることにしました。千本浜公園に一際目立つ像があります。今川・武田と北条の戦いで刈り払われた松原跡に千本の松苗を植えたと伝えられる増誉(ぞうよ)上人でした。先ほど通過した乗雲寺の開祖でもあると説明されていました。

 

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護岸の上に立つと千本松原と千本浜で遊ぶ人達を見ることができます。伊豆半島方面は生憎の曇天で霞んでいますが、右端が大瀬崎です。

 

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浅間町交差点まで戻って西へ向かう旧東海道(県道163号)に入りました。大手町から直進して来た県道330号と斜めに交差する西間門交差点を直進すると道幅が急に狭くなり旧東海道らしくなりました。八幡神社に「沼津藩領境榜示杭」の立派な石碑があります。「従是東」とだけ書かれています。つまりここから東が(沼津藩領)ということですが、沼津藩領と書かれた部分が明治時代に折れて無くなったのだそうです。

 

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片浜駅入口を過ぎると一直線の道がJR東海道本線の踏切を通過します。右手に見えるのは愛宕山でしょう。残念ながら富士山は雲の中で見えません。

 

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2009年5月25日 (月)

旧東海道ドライブ旅(静岡県東部 その2): 伏見一里塚と柿田川湧水群

旧東海道を西へ走ります。広小路町で県道145号に変わりました。境川橋手前の秋葉神社の大木が目に入りました。車を降りて確認すると三島市の保存木の「ムク」で、推定樹齢250年と説明されています。この秋葉神社が三島宿の西見附跡でした。

 

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すぐ先の境川橋の下を流れる境川は伊豆国と駿河国の境界で、この川に架けられた樋(とい)が千貫樋(せんがんどい)です。天文24年(1555年)に北条氏・武田氏・今川氏が和睦した時に北条氏から贈られた木製の樋で、関東大震災の時に崩落したので現在の鉄筋コンクリート製に改められたと説明されていました。橋からは境川と交差する千貫樋が良く見えません。適当に撮影したため写っていませんがコンクリート製の樋がもう少し上を横に伸びています。もっと調べたい気持ちもありましたが先を急ぐ旅ですから諦(あきら)めることにしました。駿東(すんとう)郡清水町の新宿に立派な常夜灯がありました。弘化元年(1846年)の建立と説明されています。

 

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800mほど車を走らせると旧東海道の一里塚が道の両側にありました。右手が「玉井寺一里塚」、左手が「宝池寺一里塚」で、これらが対を成して「伏見一里塚」と呼ばれ、日本橋から29番目(113.9km)にあたると説明されています。宝池寺一里塚の形があまりにも整い過ぎていると思えば昭和60年(1985年)に原寸通りに復元されたそうです。

  

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ひとつ先の信号で国道1号と交差しますから、ここで道草を食うことにします。宝池寺沿いに近道をして国道1号に入りました。三島方面に400mほど戻ると見覚えのある公園が見えてきました。柿田川公園です。公園を行過ぎた所に駐車場の看板を見つけて右折、ずっと奥まで入った公営駐車場に車を停めました。

 

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案内に従って遊歩道を時計回りに歩きました。「八つ橋」「湧き間」「湧水広場」「湧水第2展望台」「湧水第1展望台」と続きます。

 

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綺麗な清水が湧き出ている様子をカメラに収めました。水量も豊かなのですが昔の記憶と一致しません。見る方向が違いますし湧き出し口がもっと集まってダイナミックだったはずです。国道1号の下を通って大量の水が流れてくるように見えたのです。
 
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第1展望台から駐車場に戻る途中で「第2展望台にも行きますか?」と声を掛けて下さった係りの人に私の疑問をぶつけると、「水道局の管理する場所でしょう」との答えが返って来ました。そこで対岸から見た光景を思い出しました。駐車場から国道1号に出て水道局と思(おぼ)しき方向へ回り込んでみました。泉水源地と表示されたゲートは見つかったのですが残念ながら「立入禁止」でした。特定日だけに一般公開されるそうです。

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2009年5月24日 (日)

旧東海道ドライブ旅(静岡県東部 その1): 三嶋大社と三島宿

東名高速道路や国道1号をよくドライブしますが、静岡県内は通過するだけのことが多いので、今回は思い立って静岡県東部の旧東海道を三島宿から丸子宿まで宿場巡りをすることにしました。この3月下旬に京都から国道1号で鈴鹿峠越えをしたことと、つい先日は小田原と箱根に出掛けたことが旧東海道巡りの動機付けになりました。

     

出発地は三島市、東海道五十三次で11番目の宿場「三島宿」です。箱根峠(10番目の箱根宿)を越えた旧伊豆国にありました。宿場跡を尋ねる前に訪れたのは三島を代表する三嶋大社(伊豆国一の宮)です。国道1号で箱根越えをした時に参拝したことがあります。創建時期ははっきりしないそうですが、奈良・平安時代の記録に残っており、中世以降は源頼朝をはじめとする武士の崇敬を集め、東海随一の神格があるそうです。

 

朝の7時に到着した三嶋大社境内の駐車場はまだ開いていませんので、鳥居の向かい側にあるコインパーキングに駐車しました。旧東海道(現在の県道22号)から大鳥居を潜ると右手に「たたり石」がありました。旧東海道の中央にあって行き交う人の流れを整理する役目を果たしていましたが、旅人が増え通行の妨げになるとして移そうとすると、様々な災いが生じたことからこの名前が付けられたそうです。その近くに晩年を沼津で過ごした若山牧水の歌碑がありました。

   

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2つの神池の間に伸びる石畳の参道を歩きました。枝垂れ桜が両側に続きます。左手の厳島(いつくしま)神社に珍しい形をした石灯篭があります。蘭渓灯籠と呼ばれるそうです。この厳島神社は北条政子が勧請したと伝えられることが説明されていました。

 

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総門(外構えの門)を通り抜け、さらに神門を潜ると舞殿(ぶでん)があります。神門に飾られた彫刻が見事でした。舞殿の右手に国指定天然記念物の金木犀(きんもくせい)が聳(そび)えています。樹齢は1200年を越すそうです。

 

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その奥に国の重要文化財に指定されている拝殿(はいでん)・幣殿(へいでん)・本殿(ほんでん)があります。その構成は伝統的な神社建築ですが屋根が仏閣建築の様式であるこの社殿は約130年前の安政年間(1850年代)に造営されたものだそうです。

 

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拝殿に参拝したあと「神鹿園」に立ち寄りましたが鹿の餌を売る売店はまだ開いていません。しばらく鹿たちとにらめっこをしたあと三嶋大社を退出しました。

 

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旧東海道を400mほど西に進んだ本町交差点付近に三島宿があったようです。旧東海道を挟んだ両側に世古本陣跡碑樋口本陣跡碑があり、その復元図が案内板に説明されていました。下田街道と甲州街道がこの近くで交差していたようです。

 

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交差点の大社寄りに「つるべっ子」の人形があります。平成18年に三島商工会議所が設置したものでした。三嶋大社前から本町を経て広小路踏み切りまでの800m区間で電線の地下化が行われていて、すっきりした町並みになっています。写真は本町交差点から広小路方面を撮影しました。地下化工事はまだ完了していないようです。

 

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<同行者のコメント> 朝早くに出発したドライブ旅は街道巡りのようです。山歩きの靴は要らないとのことですから助手席からの景色を楽しみたいと思います。

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2009年5月21日 (木)

日比谷通り散策: 日比谷公園~芝公園(後編)

富国生命ビルのオープンスペースにも彫像が置かれていました。「風の花」「凱風」「風の戯れ」の3体です。いずれの名前にも「風」が入っているのはビル風が強いことと関係があるのでしょうか。

 

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すぐ隣の日比谷シティに不思議なオブジェがありました。時をメロディーで告げるカリヨンの鐘でした。カリヨンというのは、複数のベルを組み合わせて、メロディーを奏でるようにしたものを言うそうです。風の音が邪魔をしていますがこんなメロディ が流れました。

   

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西新橋交差点に面して建つ新日本石油ビル前には「希望」と書かれた黄金の像がありました。「人類に火を与えるプロメテウス像」であると説明されていました。その雰囲気が私にはちょっと微妙な印象を与えます。

 

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新橋5丁目の松岡田村町ビルでローマの彫像を見つけました。「アンティノウス像」は1798年に古代ローマ外港であったオスティアで発見された2世紀初期の石像です。ちなみにアンティノウスは第14代ローマ皇帝ハドリアヌスに寵愛された美しい小姓なのだそうです。同じ姿の像がバチカン宮殿にもあることが説明されていました。

 

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バチカン宮殿と言えばアメリカ映画の「天使と悪魔」が全世界で同時に封切りされ、前作の「ダ・ヴィンチ・コード」と同様に、人気を博しているようです。御成門交差点脇で「空飛ぶ円盤」のようなオブジェが目に入りました。眞坂雅文氏の「連山夢想」です

 

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その先に芝公園が広がります。東京タワーが間近に見えました。

 

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入ってすぐ右手に「開拓使仮学校跡」の石碑を見つけました。みなと図書館の脇に何故か「お台場の石垣石」が置かれていました。

 

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二天門」は徳川吉宗が享保2年(1717)に建立した有章院霊廟の門で、戦災で唯一焼け残った建物です。重要文化財に指定されていますが、塗装が剥げ落ちて、無残な姿でした。日比谷通りの向かい側では江戸時代の番所跡とされる一帯に松原が復元されていました。

 

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地図を見ると芝公園がドーナツ状に続くなかに増上寺を挟んでプリンス系ホテルが2つ並んでいます。増上寺の旧境内がいかに広大であったかが良く分かります。なお増上寺について当ブログの記事で紹介しています。□

 

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2009年5月20日 (水)

日比谷通り散策: 日比谷公園~芝公園(前編)

所用で日比谷へ出掛けた折に日比谷通りを散策しました。出発地は日比谷交差点です。交差点の周辺は皇居の日比谷濠、ザ・ペニンシュラ東京(ホテル)、その左手には都選定の歴史的建造物のDNタワー21(旧第一生命館)、右手には日比谷マリンビル、そして手前が日比谷公園です。旧第一生命館(2番目の写真の左下)は終戦直後に連合国最高司令官総司令部(GHQ)が置かれました。そして日比谷公園は幕末までは松平肥前守などの屋敷地で、明治初年に陸軍練兵場となりましたが、明治36年(1903年)に公園として一般に開放されました。

 

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日比谷通り(都道409号)を日比谷公園沿いに歩くと音楽が聞こえてきました。その音に導かれた先は小音楽堂です。水曜コンサートの横断幕が目に入りました。演奏する楽団は警視庁音楽隊、純白の制服が良く似合いますが、ちょっと暑そうに見えます。

 

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そのサウンドも紹介しましょう。

演奏曲: 「その1」「その2」「その3「その4」「その5」 

 

公園内のバラが見事に咲いていました。写真の順に、ベルナールビュッフェ、モーリス・ユトリロ、グリマルディ、ミスター・リンカーン、芳純、フランス・アンフォ、マリコーン、シャルトルーズ・ドゥ・パルム、クイーン・オブ・スウェーデン、ザ・ダーク・レディ、メイナルゴニス、ゴールド・バニーです。

 

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日比谷公園の向かい側にはオープンスペースの日比谷パティオがあります。パティオとは人々が集まる場所(公園や広場)なのだそうです。ショップやアートとライブ音楽に使われるコンテナがいくつも置かれた前衛的な空間でした。その先の日本生命日比谷ビルのオープンスペースに「話をする人」の像、そして帝国ホテルと続きます。

 

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帝国ホテルの隣は大和生命ビルです。明治初期に鹿鳴館があった場所ですが、今はオフィスビルが建ち、鹿鳴館跡の石碑が残るだけです。

日比谷通りを横断して日比谷公園側に戻ると日比谷公会堂の入口に「烏帽子石(えぼしいし)」がありました。江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣に使われていた石を移設したものと説明されていました。

 

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富国生命ビルの高層階に上ると日比谷公園の全景を望むことができました。噴水の先が先ほどの小音楽堂、手前の建物は日比谷公会堂と背中合わせに建つ市政會館です。元東京市長の後藤新平氏が創立した東京市政調査会の建物として昭和4年(1929年)に落成しました。平成11年(1999年)、都の歴史的建造物に選定されましたが、現在もオフィスビルとして使われています。(続く)

 

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2009年5月17日 (日)

日帰り温泉「天山・一休」と小田原漁港

石垣山を下山して国道1号に戻った時はまだ8時半、箱根に向かう国道はもう渋滞が始まっていますが、三枚橋交差点から旧道に入るとこちらの道はまだ空いています。曲がりくねった坂道ドライブを楽しみました。旧東海道沿いの早雲寺と湯本温泉街を抜けると、奥湯本入口バス停の近くに右手へ入る急な下り坂が見えました。日帰り温泉「天山湯治郷」の入り口です。

湯本地区では「ひめしゃらの湯」「弥次喜多の湯」とともに人気の高い日帰り温泉ですが、週末の混雑でも知られますから、いつも通り過ぎていました。今回は平日の早朝ですから立ち寄ることにしたのです。早川の両岸にいくつも駐車場が並ぶことでその人気度が分かります。早川を対岸に渡って施設に近い場所に車を停めました。すでに数台の先客があります。朝9時のオープンまで15分ほどを車内で待機しました。

9時丁度にお寺の鐘がなると「天山」の門が開けられて並んでいた客が中へ招き入れられるのが見えました。階段を少し上がったところにある券売機で入館券(1200円)を購入して、さらに上にある建物へ向かいました。

 

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休憩処の先にある階段を下りるよう案内されました。傾斜地を利用して建てられた建物の反対側に男湯と女湯が並んでいます。脱衣場には多数のロッカーが並び、その横にある畳敷きの休憩処は間仕切りがなく露天風呂エリアにつながり、オープンな雰囲気です。水風呂を取り囲むように左手から屋根付の岩風呂、傾斜地に2段構成になった露天岩風呂、右手には半露天の檜浴槽が2つ、と合計5つの風呂が並んでいます。

 

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掛け湯のあと右手の檜風呂に入るとかなりの熱さ、どうも順番を間違えたようです。左手の岩風呂へ移動するとこちらは温めでした。隣の岩風呂も同様です。一段高くなった場所の岩風呂にも入りました。湯が間欠的に落ちる「打たせ湯」はややもの足りません。泉質はナトリウム塩化物泉とアルカリ性単純泉の2種類がありました。

檜風呂にもう一度入ったあと畳敷きの休憩処でしばらくリラックスしました。この施設には、渡り廊下でつながった別棟に食事処の「山法師」と「楽天」、休憩処の「ざしきぼっこ」などがあり、また宿泊客には逗留湯治施設の「羽衣」もあるようです。

まだ時間がありますから同じ敷地内の日帰り温泉「一休」もはしごをすることにしました。11時にオープンすると説明されましたので、待つ間にまだ人気のない中庭を早川縁まで歩いてみました。11時近くに「わたり湯」利用券をフロントで買い求めました。「天山」の利用客はわずか100円で「一休」(通常料金1000円)も利用できるのが嬉しいです。ちょうど11時になると鐘がなりました。9時に聞こえたのはお寺の鐘ではなくて「天山湯治郷」の時を知らせる鐘だったようです。「一休」へ向かう階段の近くにある立派な鐘楼の鐘がかすかに揺れていました。機械仕掛けで突く仕組みになっているようです。

 

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開放的な「一休」の施設は下足箱が有料(50円)です。受付に利用券を渡すと係りの人が目を凝らして確認しています。そう言えば利用券には発券した時間が刻印されており、20分以上経過すると無効になると注意書きがありました。長い廊下を奥まで進んだところが男湯でした。脱衣場が露天風呂エリアとつながっているのが珍しく、ロッカーも有料(100円)であることが意外でした。中央の長方形の浴槽を挟んでその両側にも浴槽が並んでいます。右手の浴槽は周辺の山の展望が楽しめます。オープン直後のこの時間帯は入浴客が他に2人ほどで貸切り風呂のように快適です。

 

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「天山」「一休」とも朝の利用客は少なくて良いのですがちょっと気になったことがありました。「天山」で無料であった下足箱と脱衣ロッカーが「一休」では有料となっていることです。もうひとつは感心したことですが、洗い場に固形石鹸だけが置かれていました。川の水を汚染することが少ない(環境への)配慮なのだそうです。

国道1号で小田原市街へ戻り、東海道線のガードを潜った早川口交差点を右折、新早川橋を渡ったところを左に入ると小田原漁港と魚市場がありました。この魚市場の食堂で新鮮な魚を食べる心積もりです。駐車場はすでに満車、食堂内も大変な混雑です。

   

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私は「市場のまぐろ丼」、同行者は「おさしみ丼」を注文しました。ボリュームたっぷりで美味しかったのですが、実は「上さしみ定食」にも惹かれて難しい決断でした。

 

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<同行者のコメント> 朝から温泉に入るのは久しぶりです。しかも2箇所の温泉に続けて入ることになりましたのでちょっと疲れました。そして魚市場の食堂に入るのもはじめてでした。でもご飯を残してしまってごめんなさい。

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2009年5月15日 (金)

石垣山一夜城

連休の喧騒(けんそう)が過ぎ去るのを待ってドライブ旅に出かけました。まず選んだのが近場の小田原です。これまで箱根や伊豆のゲートウェィとして通過するのが常でしたが一度立ち寄りたいと思っている場所がありました。小田原市街を見下ろす石垣山です。もともとは笠懸山(かさがけやま)と呼ばれていましたが天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた時に本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになったそうです。一夜城と言えば秀吉が最初に築いた一夜城を岐阜県大垣市の墨俣に訪ねたことがあります。

前口上はこれくらいにして石垣山の一夜城に向かいます。国道1号で小田原市街地を抜けて箱根方面へ車を走らせました。東海道新幹線を潜った板橋交差点を左折、ターンパイク入り口をさらに左折して新幹線脇の道から案内標識に従って山道(石垣山農道)に入りました。みかん畑が続きます。見晴の良い道で国道1号、小田原厚木道路、西湘バイパスが一望できます。そして小田原城が朝靄の彼方に薄っすらと望めます。

 

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急坂を上りきったところに一夜城歴史公園がありました。まだ朝の7時と早い時間ですが未舗装の広い駐車場にはすでに2台ほど車が停まっています。石垣山(一夜城)入口の石段を登りました。長い坂道が木立を縫(ぬ)って続きます。

 

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南曲輪(くるわ)の石垣を見ながら進むと芝生公園のように整備された二の丸(馬屋曲輪)に出ました。ちなみに曲輪とは城郭内にある一定区画を分かつ区域で、郭(くるわ)とも書きますが、江戸時代以降は丸と呼ばれました。

 

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左の高台は本丸(本城曲輪)です。枡形(ますがた)にある門の基台跡を抜けてさらに登ると本丸が広がりました。今通って来た二の丸が眼下に展望できます。本丸の物見台から小田原城が望めるかと期待しましたが朝靄(もや)のためか海岸線がわずかに見えるだけで残念です。本丸の奥にはさらに小高くなった場所がありました。この天守台が一夜城内の最高地点(標高261.5m)です。

 

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天守台の先を一段下がった場所に西曲輪がありました。

 

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二の丸に戻って櫓台跡(やぐらだいあと)脇を右手に進むと北曲輪です。ここにも展望台があり、箱根に向かう国道1号を走る車が眼下に見えました。案内図には駒ケ岳などが描かれていますが・・・。

 

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少し引き返したところで左手の階段を下りると見えてきました。立派な石垣です。井戸曲輪を取り囲むように築かれています。階段をさらに下りるとすり鉢状をした蟻地獄の底にある井戸まで降りることができました。僅かですが清水が湧き出ています。400年以上前に造られた井戸がまだ枯れていないのは奇跡的です。沢を立派な石垣で囲む井戸の存在から北条氏との長期戦にも十分耐えられる山城であったことが分かります。

 

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何より驚かされたのは小田原城の石垣が崩れた関東大震災など幾多の天災にもびくともしなかった石組みの見事さです。しかも使われている岩は平城の石垣のように形を整えたものではなく自然石のままで様々な形をしています。案内板には近江坂本の安太衆(あのおしゅう)による野図積(のずらづみ)とのことです。安太衆が組み上げた石垣はこれまでに訪れた近江の坂本の町の石垣安土城彦根城でも見ています。

最後に南曲輪から西曲輪まで外周を歩いてみました。ここにも見事な石垣が残されていました。

 

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1時間ほど一夜城跡を散策したあと駐車場に戻りました。その脇にある早川一夜城きらめきガーデンには春の花が満開でした。草を刈る機械の音が一際大きく響きます。

 

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3万とも4万ともいわれる人手を動員して約80日を掛け築いた石垣山一夜城は秀吉が天下人へと上り詰めたことを象徴するものでした。小田原城から見えないように築城して完成後一夜のうちに周囲の樹木を伐採したことで小田原城に籠城する北条軍の戦意を喪失させ、まもなく小田原城開城に至ったと伝えられます。

 

<同行者のコメント> 朝早くにどこへ連れて行かれるのかと思っていると車が停まったのは山の上でした。一夜城なのだそうですが今は石垣が残っているだけです。城跡をくまなく歩き回って旦那さまはいかにも満足そうです。そう言えば、城跡を訪ねる趣味が最近流行っているそうですね。わが家ではずっと前からブームですが・・・。

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2009年5月 9日 (土)

江戸史跡散策: 日本橋界隈(後編)

前編の日本橋と日本橋室町では江戸時代から続く老舗巡りになってしまいましたが、日本橋室町から日本橋本町に入る辺りからいよいよ江戸史跡巡りらしくなります。

 

2009_04230015 十軒店跡(じゅっけんだなあと)

五代将軍綱吉が京都の雛人形師10人を招いてお長屋10軒を与えたことに因むそうです。説明文にある両側町(りょうがわまち、りょうがわちょう)とは通りをはさんだ両側を町とする町組みのことで、計画的に町割された日本橋近辺の町に多い形式です。 

 

  

2009_04230020 石町(こくちょう)時の鐘

江戸時代には鐘をついて人々に時刻を報(しら)せていました。この鐘は石町(現在の日本橋室町4丁目付近)にあったもので今は小伝馬町の十思(じっし)公園内に移されています。 

 

 

 

 

2009_04230021 夜半亭-与謝蕪村居住地跡-

石町時の鐘の近くです。江戸時代中期の画家で俳人でもある与謝蕪村(よさのぶそん)が夜半亭宋阿(そうあ)の内弟子として居住した場所であることが説明されていました。ちなみに蕪村は松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠のひとりで、諸国を旅したあと40歳を過ぎた頃、京都に移り住んで与謝を名乗りました。 

 

2009_04230023 室町3丁目交差点で国道17号(中央通り、旧中山道)から国道4号(国道6号および国道14号と重複、江戸通り)に入って東へ進むと本町3丁目交差点に首都高速1号上野線が見えて来ました。

 

  

 

 

 

2009_04230024 首都高速の下は昭和通りです。関東大震災の復興事業として計画・建設された道路であることから昭和通りの名が付けられました。都道316号では日本橋本町から銀座8丁目までの区間を指し、さらに北の区間では台東区三ノ輪までが国道4号(旧日光街道)となります。

 

 

 

2009_04230030 宝田恵比寿神社とべったら市

首都高速を潜った反対側の日本橋小舟町にあります。毎年1019日と20日の「べったら市」は今に残る江戸年中行事の一つだそうです。恵比寿講の市でよく売れた米麹と砂糖で漬けた大根(べったら漬け)がベタベタしていることが名の由来だそうです。  

 

 

2009_04230027 於竹大日如来井戸跡

宝田恵比寿と首都高速の中間にありました。寛永の頃(1640年頃)江戸大伝馬町佐久間家の下女お竹が出羽国(でわのくに、現在の山形県と秋田県)羽黒山の行者より大日如来の化身であると告げられたことが市中に広がり、多くの人がお竹を拝むために訪れたそうです。お竹が愛用したという井戸の跡に碑が建てられています。 

 

2009_04230046 伝馬町牢屋敷跡

牢屋敷は天正年間(15731591)に常盤橋門外におかれたのが最初で、延宝5年(1677)にこの地に移されました。江戸時代には全国最大の牢屋でしたが、明治8年(1875)に廃止されました。安政大獄では吉田松陰などが投獄されています。現在は小伝馬町の十思公園になっています。  

 

2009_04230050 吉田松陰終焉の地

幕末の長州藩士で思想家・教育者・兵学者であった吉田松陰は幕府が勅命(ちょくめい、天皇の命令)を得ないで日米修好通商条約を締結したことに激怒して老中首座の間部詮勝(まなべあきかつ)の襲撃を謀ったとして捕らえられ安政6年(1859)に伝馬町牢屋敷で処刑されました。隣の石碑に松陰直筆の辞世の歌が刻まれています。 

2009_04230055 中央区の木と花

区制40周年を記念して昭和62年に制定されました。公募によったそうですが、中央区と言えば銀座、銀座と言えば柳、だったのでしょうか? 一方、区のシンボルマークは日本橋と京橋の欄干擬宝珠(らんかんぎぼし)をデザインしたものです。ちなみに中央区は昭和22年(1947年)に日本橋区と京橋区が合併して誕生しました。  

 

2009_04230097 日本橋三越本店

江戸日本橋界隈散策コースの終点とした三越は寛文12年(1637年)に三井高利が江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」として開業、330年以上の歴史がある老舗です。後に創業家の名前である三井と呉服店の屋号である越後屋を組み合わせて三越と名前が変わり現在に至っています。

 

 

日本橋界隈では、江戸時代を感じさせるものはほとんど失われて、わずかに石碑や案内看板だけが残ることを寂しく感じました。    (参考)中央区観光協会の資料  □

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2009年5月 8日 (金)

江戸史跡散策: 日本橋界隈(前編)

日本橋に出かけた折、日本橋室町、日本橋本町、日本橋小舟町(こぶなちょう)から日本橋小伝馬町まで史跡を求めて散策しました。出発地はもちろん日本橋川に架かる日本橋です。各写真のタイトルをクリックするとその場所を地図上で確認できます。

[日本橋に関するブログ記事] 東京の地名 江戸町奉行所 日本橋高島屋

 

2009_04230005 日本橋魚河岸跡  

徳川家康の江戸入府後、摂津から漁民が佃島に移り住んで漁業を営みました。幕府への上納が仕事でしたが、残った鮮魚を一般に販売するようになったのが日本橋魚河岸の始まりだそうです。龍宮城の住人である魚がすべてこの魚河岸に集まったようであったことから乙姫の像が乙姫広場に飾られています。 

 

2009_04230098 2016年東京オリンピック    

オリンピックの誘致に成功するとこの首都高速道路は撤去されるのでしょうか?

 

前回の東京オリンピックからもう45年の歳月が経ったのですね。ついこの前の出来事のように思い出されます。 

 

 

 

2009_04230087 日本橋を語る数字 

三越の向かい側、日本橋室町東プロジェクト用地のフェンスに日本橋の歴史が簡潔に説明されています。未来のことも書かれているのは意気込みの表れでしょうか。 

 

 

  

 

2009_04230104 コレド日本橋  

1662年(寛文2年)に近江商人の初代木村彦太郎(父は京の材木商、母方が近江の材木商)が日本橋へ進出して小間物店「白木屋」を創業、越後屋(現在の三越)や大丸とともに江戸三大呉服店のひとつとなりました。1903年(明治36年)に日本最初の洋風デパートとなった白木屋は関東大震災など幾多の困難に遭遇して1967年(昭和42年)には東急百貨店日本橋店となります。

 

2009_04230107業績不振に陥ったため1999年(平成11年)に白木屋以来336年の歴史に幕を閉じました。白木屋は昭和7年(1932年)の大火と昭和30年頃の乗っ取り事件で有名になりました。後者をモデルにした小説「乗っ取り」(城山三郎著)を読んだことがあります。今は跡地に曲面がユニークなコレド日本橋(日本橋一丁目ビルディング、地上20階、2004年オープン)が聳えています。  

 

2009_04230108 日本橋高島屋  

1831年(天保2年)に京都で古着・木綿商(屋号「たかしまや」)として創業。1933年(昭和8年)に日本橋店を開店。2006年(平成18年)に東京都の「歴史的建造物」に認定されたことに続き、開店から七十六年がたつ建物が百貨店として初めて重要文化財に指定されることが決定しました。手前はお茶と海苔の老舗「山本山」本店です。

 

2009_04230003 榮太樓總本舗(えいたろうそうほんぽ) 

屋台で金鍔(きんつば)を売っていた井筒屋を改め、1857年に日本橋西河岸に榮太樓として創業された菓子商で、金鍔(きんつば)、甘名納糖(あまななっとう)、榮太樓飴(あめ)、玉だれなどを販売しました。現在も創業地に本社を構えています。生菓子、焼菓子、あんみつなども人気があります。

 
2009_04230008 奈良まほろば館(番外編)  

名前の通りに奈良県のアンテナショップです。マスコットの「せんとくん」と現在上野の東京国立博物館で展示中の国宝「阿修羅像」の大きな写真が目を惹きました。来年(2010年)が平城遷都1300年記念で盛り上がっているこのショップは他県のショップのような物産販売だけでなく奈良の歴史と観光案内のイベントが中心のようです。

 

2009_04230009 日本銀行本店本館  

大判・小判を管理していた江戸時代の金座跡に明治29年(1896年)に建てられました。本館(旧館)の建物は明治時代の貴重な本格的洋風石造り建築として国の重要文化財に指定されています。 

 

 

 

 

2009_04230088 三井本館 

三井住友銀行や中央三井信託銀行が入るこのビルは旧三井財閥の本拠(直系企業を収容する建物)でした。関東大震災で被害を受け昭和4年(1929年)に建て替えられました。平成10年(1998年)にオフィスビルとしては初めて国の重要文化財に指定されています。7階には三井記念美術館が平成17年(2005年)に開館しています。

 

2009_04230072 日本橋三井タワー 

三井本館のデザインを受け継ぎ、日本橋地区の再開発で、平成17年(2005年)に竣工した地上39階、地下4階のランドマークタワーです。大半がオフィス用ですが高層階(30-38階)にマンダリンオリエンタル東京(ホテル)、1階と2階の一部に千疋屋総本店、地下1階はレストランとショップが入居しています。 

 

2009_04230013 千疋(せんびき)屋総本店

天保5年(1834年)創業の高級果物店です。武蔵の国埼玉郡千疋の郷(現在の埼玉県越谷市千疋)出身の初代弁蔵が江戸の葺屋町(現在の日本橋人形町)に果物と野菜類を商う店を創業、慶応3年(1867年)に日本橋本町(室町)に移転しました。日本橋の再開発にともない日本橋三井タワーに日本橋本店をオープンしました。(続く)

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2009年5月 4日 (月)

アイフォーンは携帯電話!?

外出先で公衆電話を探すのが大変だと零(こぼ)すメカに弱い同居人が唯一興味を示した電子機器がアイフォーン(iPhone)です。息子たちからアイポッド・タッチ(iPod touch)を見せられた上に、彼らが相次いで携帯電話をアイフォーン(ソフトバンクモバイルの名称はアイフォーン3G)に乗り換えたことも影響したのかも知れません。

アイフォーンを購入

2009_05030098 そして、わが家にもアイフォーンが登場しました。アイポッド・タッチと同じデザインですが、アイポッド・タッチがデビューした時の鮮烈な印象に比べると、見慣れたせいか斬新さを感じなくなりました。加えてわが家のアイフォーンは一世を風靡したプロレスラーのデストロイヤーが被(かぶ)っていたマスクにも似た黒いソフトケースに入れられたため、「闇夜にカラス」の状態になってしまいました。そこで販売店で貰った白い犬のストラップを付けたことでやっとその所在が分かるようになりました。例のテレビCMに登場するお父さん役の犬と同様にこの犬のフィギュアは肩を両側から押すといろんな「台詞」 (せりふ)を喋るところが面白いです。「台詞」をクリックするとその音声が聞けます。

使ってみました

2009_04300094 早速、アイフォーンの電源を入れることにしました。電源スイッチらしきものは見当たりません。それではと画面の下のヘコミを適当に押すとディスプレイが点灯して地球の画像とデジタル時計の待ち受け画面が現れました。オープニング・デモかとしばらく待っても変化がありません。そこで気付いてタッチパネルのロック解除と表示された部分を指で右方向へスライドさせるとトップ・メニュー画面(ホーム画面)に切り替わりました。常時電源が入っていますから誤動作防止のためのロック機能があったのです。

(注釈)初期のスリープモードから脱するには本体上部にある小さなスイッチ(Sleep-Wakeボタン)を押すのが本来のやり方で、画面下のスイッチはホーム画面に戻るホームボタンでした。

2009_04300095 このメニュー画面が出ればマックファンOBの私は、説明書が無くても(事実付属していない)、迷わず操作ができました。左下の電話アイコンに触れると電話の画面が出ますし、計算機・時計・カメラも同様です。ヤフー・YouTube(ビデオ共有サイト)・Safari(ブラウザ)・マップ・天気のアイコンにタッチすればそれぞれのインターネット・サイトにアクセスできました。何てことはありません! マックPCと同じテイストの操作です。

そして設定アイコンにタッチして同居人のPC用メール・アカウントを(ついでに私のメール・アカウントも)設定して基本機能はほぼ完全に使える状態になりました。アイフォーン・ユーザー専用のメール・アドレスは今のところ不要なので設定しません。

アイフォーン利用者の息子からは電源消費を抑えるためにメール機能とWi-Fi(無線LAN)機能を使わない時にオフにして置く(不要な電波を出して本体を暖めない)ことをアドバイスされました。なるほど!!

不便なこと

でも不便なことがひとつありました。通常の携帯電話のように電話番号のコピーを販売店でやってくれませんので自分で対応するしかないのです。専用のソフトウエアをダウンロードする方法を販売店で教えられましたが、同居人が電話連絡する相手はまだ限られますから、手入力で簡単に済ませられました。

もうひとつ面倒なことは基本機能以外を利用するためにPC用ソフトウエア「アイチューンズ」(iTunes)が必要なことです。幸いにもそのソフトはポッド・キャスティングを聴くため既にパソコンに入れてありましたから専用のUSBコードで接続すればOKです。

PCファイルのダウンロード

2009_04300092例えばPC内の写真ファイルや音楽ファイルをアイフォーンにダウンロードするにはアイチューンズを使うファイル同期化の手順が必要です。アイポッド・タッチとアイフォーンの先輩利用者であるもうひとりの息子にその手順の教えを乞うことで上手く行きました。

写真と音楽のファイルだけを同期化するつもりでしたが、メールのアドレス帳とWebのブックマークも同時に同期化されたため、かなりの件数のアドレスとブックマークを一気に入力することができました。同居人に不要なアドレスを削除すれば全ての作業が終了です。しかし同期化機能をここでオフにしなかったため、アイフォーンをパソコンに接続する度に自動的に同期化が行われ、PCのアドレス帳やブックマークが逆に影響を受ける(削除される)失敗を仕出かしてしました。

付属機能に弱点も・・?

唯一、気になったことはカメラの解像度が200万画素と低くて感度もあまり良くない(他の携帯電話に見劣りする)ことです。つまり薄暗い室内での撮影やマクロ撮影(接写)が苦手! これはあくまでもカメラ機能を重視する日本製携帯電話との比較においてであって本質論ではありません。むしろ動画撮影ができないこと(専用のシェアウェアがあるようです)が弱点かもしれません。そしておサイフ携帯機能もありません。市販のケースにはSUICAを入れるポケットを付けたものが売られているのはご愛嬌です。

超小型ネットワーク・パソコン!

以上の設定作業をしてみて分かりました。アイフォーンは携帯電話と言うよりも超小型のネットワーク・パソコンなのです。電話機能はその付属メニューのひとつに過ぎません。電話を掛けるには、先ず待ち受け画面を表示させて、ロックを解除、電話メニューを選択する、の3ステップが予備動作として毎回必要です。アイフォーンが携帯電話として不完全だと指摘する人が居るのはこれが理由なのでしょう。

アイフォーンはブラックベリーに代表されるスマートフォンとして分類されることもありますが、私はブラックベリーとは製品のコンセプトが異なるように思います。何と言ってもGUI(操作画面のグラフィック表示)が違います。パソコンで言えばマックとウインドウズの違いで、画面の小さな携帯端末では使い勝手に大きな差が出ます。そして大容量のハードディスクの存在です。アイフォーンなら記憶容量を気にしないで、写真・音楽ファイルはもちろん、携帯電話回線あるいはWi-Fiを経由してアプリ・ソフト(有償・無償)をダウンロードすれば実に多彩な娯楽・ユーティリティ機能が楽しめます。

アプリケーションを気ままにダウンロード

アプリ・ソフトにはゲームに加えて辞書・電車の乗り換え案内・高速道路料金の検索など実用的なものが多いのですが、私のお気に入りは「アイビール(iBeer)」と「水準器(dual Level)」です。前者は魔法のビヤマグで、アイフォーンを傾ければいろんな銘柄のビールを「グビッ!」と味わう気分が楽しめます。そして水準器は2方向の傾きを正確に知ることができる優れものです。これらの発想はいずれも私の好きなアナログ感覚であることが素晴らしいと思います。もちろん同居人の好きな「数独」もあります。

 

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一ヶ月ほど前の331日にはSkype for iPhoneがリリースされてスカイプ(無料電話)がアイフォーンで利用できるようになり、今年の夏にはソフトウェアをさらに強化したアイフォーン3が提供(既存ユーザーは無料)されるそうですから楽しみです。

アップルらしい魅力に溢れた製品でした!!

このアイフォーンさえあれば、長距離ドライブ旅に出掛ける時に、これまでのようにノート・パソコンを携行する必要はもうありません。ここでついに気付きました。アイフォーンの機能をいろいろ調べているとつい夢中になってしまい、いつの間にか自分のアイフォーンのような気分になっていたのです。それではこの辺で持ち主に返却することにしましょう。いやはや、アップル病、恐るべし!!

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2009年5月 1日 (金)

鬼怒川のグライダーと大谷磨崖仏

国道293号に入って宇都宮市へ向かいました。当初の計画にはなかったのですが、八方ヶ原に立ち寄れなかったことで時間に余裕ができたため、その代わりに大谷(おおや)を訪れようと思い立ったのです。鬼怒川に架かる氏家大橋を渡って宇都宮市に入る時に同行者が飛行機を見つけました。良く見るとグライダーです。さっそく橋の袂から簡易舗装の細い道に乗り入れるとすでに先客が大きなカメラを構えています。軽飛行機に牽引されてグライダーが空高く舞い上がるのが見えます。河川敷に造られた鬼怒川滑空場でした。長野県諏訪市の車山近くに霧ヶ峰滑空場があったことを思い出します。

 

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飛び立つ場所を見たくなってさらに進むと未舗装のジャリ道になりました。グライダーが数機と軽飛行機が1機、そしてグライダー用トレーラーなどが河川敷の滑走路(ゴルフ場のフェアウェイのような緑地)に並んでいます。

 

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我々だけでなく数組のギャラリーが車を停めて様子を眺めています。しばらく待つと目の前を軽飛行機に牽引されたグライダーが走りぬけて空中へと上昇して行きました。気がつくとすでに30分以上が経っていました。慌てて大谷へと車を走らせます。

 

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東北自動車道と日光宇都宮道路を潜ると大谷石で有名な大谷町ですが、その手前の岩原町で左手に聳える奇岩が目に飛び込んで来ました。それに惹かれて脇道に入ると、石切り場を巡る狭い道に迷い込んでしまい、ここでも時間をロスしてしました。

国道を逸れると大谷の奇岩群「御止山」(おとめやま)が迫力で迫ります。大谷寺を通過して大谷石資料館へ向かうと駐車場はほぼ満車の状態です。車を停めて資料館に向かうと受付の女性が申し訳なさそうに「入館は4時までです」と言う。20分ほど過ぎていました。石切り場跡に残された巨大な地下空間をテレビ番組で見たことがあり、ぜひその場所に立ってみたかったのです。グライダーに夢中になったことが仇になりました。資料館横の建物周辺に正装をした人達を見かけました。結婚式があるようです。自らの無計画さを悔やみながら大谷寺(大谷観音堂坂東札所第十九番)に向かいました。

 

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日本最古の石仏がある大谷観音堂は午後5時まで参拝できますので滑り込みセーフでした。建物に覆われた岩壁に立体的に彫られた本尊の千手観音は弘法大師自らの作と伝えられるそうです。同じ建物内の左手にはやはり岩壁に彫られた伝薬師三尊と伝釈迦三尊像が並び、その様子は迫力があります。これらは大分県臼杵市の臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)とならぶ磨崖仏で、いずれも国の重要文化財に指定されています。大谷寺は縄文時代の横穴住居跡に弘法大師が810年に開いたと伝えられる古刹で、その宝物館には縄文人の人骨(11000年前と推定)が展示されていました。

 

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大谷寺の反対側にある大谷公園には平和観音像がありました。高さ27mの石像は戦後になって平和を祈念するために造られたそうです。鋸山の日本寺にある大仏(高さ31m)と百尺観音(高さ30m)には僅かに及びませんが階段を上って背後から見るとその大きさを実感できました。地下空間を体験できなかったことは心残りですが、栃木県の矢板市、さくら市、宇都宮市を巡る楽しいドライブ旅になりました。

 

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<同行者のコメント> 石でかこまれた地下空間を見てみたかったです。時間に遅れたのは運転者さんがグライダーに夢中になったからですよ。でもグライダーが飛ぶ姿は優雅で一度乗ってみたくなりました。

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