江戸史跡散策: 日本橋界隈(後編)
前編の日本橋と日本橋室町では江戸時代から続く老舗巡りになってしまいましたが、日本橋室町から日本橋本町に入る辺りからいよいよ江戸史跡巡りらしくなります。
十軒店跡(じゅっけんだなあと)
五代将軍綱吉が京都の雛人形師10人を招いてお長屋10軒を与えたことに因むそうです。説明文にある両側町(りょうがわまち、りょうがわちょう)とは通りをはさんだ両側を町とする町組みのことで、計画的に町割された日本橋近辺の町に多い形式です。
江戸時代には鐘をついて人々に時刻を報(しら)せていました。この鐘は石町(現在の日本橋室町4丁目付近)にあったもので今は小伝馬町の十思(じっし)公園内に移されています。
夜半亭-与謝蕪村居住地跡-
石町時の鐘の近くです。江戸時代中期の画家で俳人でもある与謝蕪村(よさのぶそん)が夜半亭宋阿(そうあ)の内弟子として居住した場所であることが説明されていました。ちなみに蕪村は松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠のひとりで、諸国を旅したあと40歳を過ぎた頃、京都に移り住んで与謝を名乗りました。
室町3丁目交差点で国道17号(中央通り、旧中山道)から国道4号(国道6号および国道14号と重複、江戸通り)に入って東へ進むと本町3丁目交差点に首都高速1号上野線が見えて来ました。
首都高速の下は昭和通りです。関東大震災の復興事業として計画・建設された道路であることから昭和通りの名が付けられました。都道316号では日本橋本町から銀座8丁目までの区間を指し、さらに北の区間では台東区三ノ輪までが国道4号(旧日光街道)となります。
宝田恵比寿神社とべったら市
首都高速を潜った反対側の日本橋小舟町にあります。毎年10月19日と20日の「べったら市」は今に残る江戸年中行事の一つだそうです。恵比寿講の市でよく売れた米麹と砂糖で漬けた大根(べったら漬け)がベタベタしていることが名の由来だそうです。
宝田恵比寿と首都高速の中間にありました。寛永の頃(1640年頃)江戸大伝馬町佐久間家の下女お竹が出羽国(でわのくに、現在の山形県と秋田県)羽黒山の行者より大日如来の化身であると告げられたことが市中に広がり、多くの人がお竹を拝むために訪れたそうです。お竹が愛用したという井戸の跡に碑が建てられています。
牢屋敷は天正年間(1573~1591)に常盤橋門外におかれたのが最初で、延宝5年(1677)にこの地に移されました。江戸時代には全国最大の牢屋でしたが、明治8年(1875)に廃止されました。安政大獄では吉田松陰などが投獄されています。現在は小伝馬町の十思公園になっています。
幕末の長州藩士で思想家・教育者・兵学者であった吉田松陰は幕府が勅命(ちょくめい、天皇の命令)を得ないで日米修好通商条約を締結したことに激怒して老中首座の間部詮勝(まなべあきかつ)の襲撃を謀ったとして捕らえられ安政6年(1859)に伝馬町牢屋敷で処刑されました。隣の石碑に松陰直筆の辞世の歌が刻まれています。
区制40周年を記念して昭和62年に制定されました。公募によったそうですが、中央区と言えば銀座、銀座と言えば柳、だったのでしょうか? 一方、区のシンボルマークは日本橋と京橋の欄干擬宝珠(らんかんぎぼし)をデザインしたものです。ちなみに中央区は昭和22年(1947年)に日本橋区と京橋区が合併して誕生しました。
江戸日本橋界隈散策コースの終点とした三越は寛文12年(1637年)に三井高利が江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」として開業、330年以上の歴史がある老舗です。後に創業家の名前である三井と呉服店の屋号である越後屋を組み合わせて三越と名前が変わり現在に至っています。
日本橋界隈では、江戸時代を感じさせるものはほとんど失われて、わずかに石碑や案内看板だけが残ることを寂しく感じました。 (参考)中央区観光協会の資料 □
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