先週水曜日(7月15日)に今年の芥川賞と直木賞が決まりました。芥川賞は磯崎憲一郎氏の「終の住処」(ついのすみか)、直木賞は北村薫氏の「鷺と雪」です。芥川賞でひとつ思い出したことがあります。
今から10数年前に東南アジアのある国に出張した時のことです。取引先との会食の場で現地の若い幹部が日本人作家の村上春樹氏を絶賛したのです。私は酒が入っていたせいか、村上龍氏と取り違えて頓珍漢(とんちんかん)な受け答えをしただけで、もっぱら聞き役に回って話題が他へ移ることを待っていました。
帰国してはじめて知りました。村上春樹氏は1948年生まれで私と同世代と言っていい年齢です。1979年に「風の歌を聴け」で作家デビュー、アメリカ文学からの影響を強く受けた都会派の作家で、村上龍氏(1952年生まれ)とともに注目されたそうです。「限りなく透明に近いブルー」(1976年)で芥川賞を受賞した村上龍氏の華やかさに比べると知名度は高くなかったようですが、デビューが3年ほど遅かった村上春樹氏も「風の歌を聴け」で数年後に芥川賞候補に選ばれています。1987年に発表した「ノルウェイの森」は400万部以上を売り上げるベストセラーになったことも知りました。その後も「羊をめぐる冒険」などの作品が英訳されて海外でも人気の高い作家になったようです。
そこで村上春樹氏の作品をデビュー作の「風の歌を聴け」を手始めに何作か読んでみました。平易な文体ではあるのですが英文を和訳したような言葉使いには馴染めませんでした。アメリカ文化への憧憬(しょうけい、どうけい)が再び強くなり始めた1970年代初頭の雰囲気を良く伝える一方で、日本人にとっては非日常とも言えるアメリカ的な存在(カタカナ言葉で表記)が溢れていることには抵抗がありました。そしてそれらの小説をすっかり忘れ去ってしまいました。
風の歌を聴け
今年5月に発刊された「1Q84」で再燃した村上春樹ブームに触発されて村上春樹氏の小説を読み返してみたくなりました。「風の歌を聴け」は大学生の主人公が海辺の街(著者が中学に通った芦屋市を想定か?)へ夏休みの帰省中に、3年前の春に大学へ入った時に出会った通称を「鼠」という金持ちの息子と二人が入り浸るジェイズ・バーで交わす会話と、そのバーで偶然知り合った正体の知れない若い女性と交わす会話が交錯して物語を綴(つづ)っています。8月のわずか19日間の出来事です。学生運動が最後の盛り上がりを見せたあとは跡形もなく消え去った1970年の設定でした。主人公が交差点であるかのように、通りかかった人と短時間に交わす会話が続きますが、その人たちは皆、それぞれの目的地に向かって交差点を離れて行くのです。
そして8年後の後日談が短く続きました。結末ではありません。自らの近況と「鼠」が相変わらず小説を書き続けていることを短く伝えます。冒頭に触れた米国人作家デレク・ハートフィールドが再び登場しました。彼の小説との偶然の出会いとその墓を訪ねてアメリカに渡ったことがこの小説を書くことにつながったとあとがきを締めくくりました。
10数年が経過して心の余裕が私に生まれたためか、それとも日本語が少しずつ変わっているのか、今回は比喩的な表現を多用する文体への抵抗感も少なく一気に読み終えました。しかしテーマの難解さは前回感じた時とほとんど変わっていません。「鼠」や「若い女性」との会話もほとんど相手が主導権を持っている(つまり主人公の主体的な会話はなくてもっぱら聞き役に徹している)のです。生い立ちのところでその性格に少し触れているのですが・・・。枝葉をすべて削ぎ落とした記述はすべて観念の世界の出来事のようにも思えてきます。
1973年のピンボール
次に読み返したのは「1973年のピンボール」(1980年)で、「風の音を聴け」の続編と言える小説です。主人公は1972年に友人と一緒に英仏文の翻訳事務所を渋谷で開いています。前作と似て正体不明の双子姉妹が主人公のアパートに居ついて奇妙な同居生活が始まったことが回想されました。1973年の秋、大学を追い出された「鼠」は遠く離れた主人公の田舎町にあるジェィズ・バーでバーテンのジェイと過ごす時間以外は親が買ってくれたマンションの一室で孤独な日々を送っています。
主人公の日常に戻って仕事場での様子とともに工事業者がアパートの部屋に残していった古い電話用配電盤に興味を持つ双子との会話が細かく描写されます。次いで「鼠」がジェイズ・バーでピンボールにのめり込んだ様子が丹念に描かれます。一方、主人公も東京でピンボールの「スペース・シップ」に凝った1970年とその翌年2月にゲーム・センターが閉鎖されてピンボールと別れを告げたことを回想します。
ある日、主人公は「スペース・シップ」が無性に懐かしくなり、偶然紹介されたピンボールに詳しい大学講師にその行方を調べてくれるように依頼しました。大学講師はピンボールの所在まで連れて行きますが、なぜか主人公ひとりだけを「スペース・シップ」に会わせると所有者と約束したと言うのです。三年ぶりに再会した「スペース・シップ」を前に昔の恋人と再会したような会話が続いたあとは静かにその場を後にします。居候をしていた双子も新たに旅立ってゆくことになります。
「鼠」は不用品の売買で偶然知り合った女性と別れていました。長い逡巡(しゅんじゅん)のあとで「街(別の世界)」へ出ることを決心してジェイにそれを告げます。そして安らぎの場所を求めて・・・。
羊をめぐる冒険
3冊目は「羊をめぐる冒険」です。三部作の3作目は1970年11月25日に始まります。絶望的な大学生活を続けていた主人公が偶然知り合った年下の女性との不器用な会話が描写されます。そして三島由紀夫事件をさり気なくテレビに登場させます。1978年の7月、その女性が交通事故で死んだことを人伝に知ります。そして主人公が1ヶ月前から別居していた妻と離婚するシーンが続きました。
離婚して2ヶ月後に知り合った耳のモデルをする女性との会話に変わり、その女性が予言めいて口にした「羊の冒険」が始まります。主人公たちが経営する事務所に奇妙な依頼(要求)が持ち込まれたのです。そして依頼者の大邸宅に招かれました。
そのしばらく前のことです。行方が分からなくなっていた「鼠」から5年ぶりに手紙が届けられました。彼の住所は書かれていません。半年後に届いた2通目の手紙には同封した「羊の写真」を人目につくところに持ち出してほしいとの依頼が書かれています。
依頼者の邸宅で主人公は羊にまつわる不可思議な要求を突きつけられます。思案の結果、事務所を辞めてガールフレンドと探し物があると思われる北海道へと旅立ちます。1週間以上を無為に過ごした後に身近な場所で出会った「羊博士」から探し物の所在を教えられます。長い列車旅で山奥の小さな町に辿り着き、さらに山奥深くにある牧場へと分け入りました。そこは間違いなく捜し求めていた場所でしたが予期した人の影は見えません。立派な山荘でうたた寝から目覚めた主人公はガールフレンドの姿がないことを知るのですが、それでも待ち人が戻ることを待ち続けます。翌朝、「羊男」が突然現れて女性を追い返したことと、主人公はもう二度と彼女に会えないことを告げた。
一人ぼっちの生活が1週間以上続きました。3度目の雪が降った12日目に再び「羊男」が現れて主人公の言葉を相手に伝えられなかったと告げた時に、主人公は「明日には引き上げる」と伝えます。1ヶ月の依頼期限がもう迫っているのです。その夜、待ち人の声が聞こえました。闇のなかでふたりの長いながい会話が始まりました。
そして・・・
村上春樹氏は海外での高い評価に比べるとこれまで国内の文壇における評価があまり芳しくない珍しい作家です。その評価の乖離にも拘らず、出版不況の最中にあっても、何百万部も売り上げる村上春樹氏の人気の秘密をもっと知りたくなりました。上記の3作のほか、「ノルウェイの森」や「世界の終りとハードボイルド・ワンダー・ランド」などの旧作を読み返すだけではなく、最新作の「1Q84」も読んでみようと思います。
最近のコメント