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2009年9月に作成された記事

2009年9月30日 (水)

ユニバーサル・スタジオ・ジャパン

オチビちゃんとコチビちゃんの両親に誘われてユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に出掛けました。阪神高速16号大阪港線から天保山JCTで同湾岸線5号に入り、同北港JCTをさらに2号淀川左岸線に反れて、ユニバーサルシティ出口を出ると広大な駐車場です。正門に近い場所から埋まりはじめていました。USJは大阪を代表するアミューズメントパークで、9月3日から11月3日までの2ヶ月間はマジカル・ハロウィーンが開催されているようです。今回は写真でUSJの楽しさをお伝えします。

天気に恵まれたものの残暑が厳しく、午前中は元気一杯だった小さな二人は午後になると疲れが出始めたようです。予想した通りに人気スポットには長い行列が出来て1時間待ちがあちこちで・・・。そして私が誘った「ピーターパンのネバーランド」ショーでは、強い日差しと熱くなったウッドデッキに座ったため、二人ともグローキーになってしまいました。ごめんなさい。このUSJは莫大な借入金が経営を圧迫していることから入場料や売店で売られる物品が高いのは止むを得ないとしても、休憩場所や接客への配慮に欠ける点があることと食事が美味しくないことが気になりました。経営建て直しのため経営陣(と資本構成)が大阪市の主導する第三セクターから民間に変わったことで最近は経営がやや持ち直したようですが、サービス面ではまだ改善の余地がありそうです。

目玉イベントの一つとして開催されていたのは「ウォーターワールド」のスタントショーです。20年前に子供達と一緒に訪れたフロリダ州オーランドのディズニー・ワールド(エプコットセンターやマジックキングダムなどがある)のMGMスタジオで開催されていた「インディ・ジョーンズ・スタント・スペクタキュラー(失われたアーク)」のショーを思い出しました。ちなみに現在もほぼ同じ内容で開催されているようです。帰宅後にその時のビデオを久しぶりに観ました。下の写真はそのビデオからアナログ的にキャプチャした静止画像で画質が良くありません。ショーの雰囲気を伝えるビデオの音声 も添付します。

 

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さて本題です。正門とチケットセンターを抜けてUSJに入場しました。全部で9つあるエリアの写真を順に紹介します。(ランド・オブ・オズは省略)

 

ハリウッド・エリアのアーケードを抜けて右手に入るとハローキティのフォトコーナー

 

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次いでスヌーピー・スタジオ

 

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アミティ・ビレッジでジョーズを背景に写真撮影、そしてウォーターワールドへ

 

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ジュラシック・パークで昼食

 

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サンフランシスコ・エリア

 

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ニューヨーク・エリアはスパイダーマンと古い町並み

 

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ラグーンでピーターパンのネバーランド

 

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最後はハリウッド・エリアでお土産を買ってUSJでの楽しい一日が終りました。

 

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2009年9月26日 (土)

四天王寺と天然温泉「香里長者の湯」(後編)

天王寺区内の興味深いスポットをもう少し訪れることにして府道30号(谷町筋)を北上しました。ちなみに天王寺の地名とJRの駅名は四天王寺の略称のようです。地下鉄谷町九丁目駅の少し手前に生国魂神社(いくくにたまじんじゃ、愛称いくたまさん)の参道が見えます。左手(西)へ向う参道から鳥居を潜って境内に入りました。正面に拝殿とその後方に本殿が並び、生国魂造りと呼ばれる本殿の屋根は重厚で迫力があります。社伝によると神武天皇が東征で九州から難波津(なにわつ)に着いた時に石山崎(元石山本願寺、現在の大阪城)に生島・足島神を祀られたのが御鎮祭のはじまりとのこと。豊臣秀吉による大阪城築城に際して現在の地に移されたそうです。

 

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境内の北側に多くの末社が祀られていました。天満宮、住吉社、文楽の守護神である浄瑠璃神社、建築関係者が崇拝する家造祖神社、鞴(ふいご)の神を祀ることから金物業界に崇拝される鞴神社などが並んでいます。境内には芭蕉の句碑、井原西鶴像、上方落語発祥の地碑、水戸藩士川崎孫四郎自刃の所碑などがありました。

 

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次いで向ったのは東高津宮(ひがしこうずぐう)、天王寺区内かと思いましたが中央区に少し入ったところでした。右折して入った住宅地にある狭い境内には王仁博士を祀る王仁神社や白豊稲荷、心願成就のとしまいり石などが所狭しと並んでいます。

 

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ここは仁徳天皇とその皇后である磐之姫命(いわのひめのみこと)を祭神とする神社で、昔は仁徳天皇社(平野社)と呼ばれていたそうです。元の場所は大阪城の近くであったそうですが、大阪城築城時に現在の近鉄上本町駅の場所に移されましたがそこに駅が造られることになり、現在の東高津町に再遷宮されています。

 

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仁徳天皇の皇居である高津宮(たかつみや)は大阪城付近にあったとする説が有力のようですが、明治32年(1899年)の仁徳天皇1500年祭に際して高津宮址を東高津北之町(現餌差町府立高津高校内)として碑が建てられたそうです。東高津宮の北西、高津1丁目にある難波高津宮も大阪城が造られる時に現在の場所に遷宮されています。四天王寺と大阪城が南北に位置する上町(うえまち)台地は昔、西を瀬戸内海、東を河内湾に接する岬のような土地でしたが、河内湾と瀬戸内海に面した地域が淀川などの運ぶ土砂によって徐々に埋め立てられたことで現在の大阪平野に変化したと推定されるそうで、難波津があった1500年以上前の様子を想像することは困難になっています。四天王寺から始めた天王寺界隈の散策はいつしか大阪城へと向っていました。今回は時間切れのためここで打ち止めとします。

そして日帰り温泉には3年前にオープンした天然温泉「香里長者の湯(水春東香里店)」を選びました。天王寺から20kmほど北東の大阪府寝屋川市にありますが思い切って訪れることにしました。上町筋を北上して2年前に訪れた難波宮跡(難波宮跡公園)と大阪城の脇を通過、府道30号(谷町筋)の東天満交差点で国道1号に入り、大日交差点を直進して府道18号に入るルートです。旧東海道(京街道)を巡った時にこのエリアは何度も通過していますから簡単に辿(たど)れます。

寝屋川市の中心部を過ぎた北かわち皐が丘高校の先にある信号を右に入りました。取り付け道路は新しく整備されたもののようで、水春の敷地内には広めの駐車場を埋める多数の車が停まっています。

 

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平日料金は700円とリーズナブル、ロビーも広めで、右手に食事処、左手に浴室が配置されています。「来る人来る人みんなみんな福の神」の言葉が客を迎えます。

 

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脱衣場を抜けた内湯には白湯・ぬる湯・冷水風呂・スーパージェットバス・リラクゼーションバス・腰掛湯・炭酸湯・寝ころび湯など多彩な浴槽が並んでいます。
 
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内湯と露天エリアとの間はガラス戸が開け放たれて開放感があります。露天エリアには源泉掛け流しの岩風呂が上下に2つ、その岩風呂の周辺に壺湯も4つと足つぼの小道が配置されています。決して広くはありませんが立体的な配置で入浴客を飽きさせない趣向が施されていました。地下1200mより湧き出た温泉で、泉温37℃、湧出量485リットル/分、泉質はナトリウム-塩化物温泉、溶存物質の多く含まれる療養泉であると説明されています。

食事処「水春亭」は十分な広さがあり、ガラス窓も広くて開放感があります。遠くに見えるのは生駒山脈のようです。メニューも多彩で楽しめました。この施設の2階は岩盤処となっていますが同行者は興味がないようなので利用しませんでした。

 

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<同行者のコメント> 町の中のお寺は人が多くて私は休憩所の売店で土産物を探すだけになりました。南大門から歩いて探したうどん屋さんが見つからず、わが家の運転手さんは「この辺にあるはず・・・」とつぶやきながら車で走ってやっと見つけました。ご自慢の勘ナビはどうしたのでしょう。温泉は新しくて気持ちがよかったです。

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2009年9月25日 (金)

四天王寺と天然温泉「香里長者の湯」(前編)

府道28号は高石市から堺市を経て大阪の天王寺に至る幹線道路で、大阪市内では「あびこ筋」と呼ばれるそうです。JR天王寺駅近くの陸橋を越えると四天王寺。谷町筋に入って西大門を過ぎた交差点から境内へ向います。駐車場に車を停めて境内を散策しました。六時堂から北鐘堂、講堂、金堂、五重塔、中門(仁王門)、南大門(正門)へ至るコースを進み、一旦南大門を出て四天王寺の全景を眺めました。南大門の近くに熊野権現礼拝石がありました。昔、熊野へ行く人がここで旅の無事を祈ったそうです。

 

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四天王寺は推古天皇の時代に聖徳太子によって創建されたと言われます。物部氏に対して形勢が不利であった聖徳太子が四天王を安置する寺を建てることを請願され、勝利した後に建立されたと伝えられます。伽藍(がらん)配置は「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれる南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、中国や朝鮮に見られるものと四天王寺のhpに説明されています。

つい最近のことです。NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」(第3回2009年628日と第4回同726日に放送)で仏教が日本に伝来した経緯が詳しく解説されました。日本で最初に建てられた仏教建築が飛鳥寺と言われ、韓国にあった王興寺(ワンフンサ)と建築様式が類似していることと発掘された舎利器と多くの装身具から、百済からの渡来人が指導して建てられたことが確認されたと紹介していました。四天王寺だけでなく後に建立された法隆寺や百済大寺(詳細は不明)も百済の影響を強く受けているそうです。ちなみに韓国の定林寺(チョン二ムサジ)址に一直線の伽藍配置が残っているそうです。この番組を見て四天王寺を訪れてみたくなりました。

四天王寺は先の戦災で消失した伽藍が1963年に現在の鉄筋コンクリート製で再現されたものです。再び南大門から境内に入ると中門の仁王像、そして中門越しに五重の塔の最上部および先端にある相輪と水炎だけを見ることが出来ます。

 

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しかし五重塔と金堂の全景は回廊の西重門を入らないとその姿を見ることができません。シンプルな伽藍配置は形式として美しいのですがその弱点から法隆寺のように五重塔と金堂を左右に配置する形式が後の主流になったのではないかと思われます。西大門(極楽門)を入ると金堂と五重塔が左右に並んでいるように見えますが・・・。

 

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その奥にある講堂と六時堂(国指定の重要文化財)の間には鐘楼・石舞台(同)・亀ノ池があります。

 

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遅い昼食は南大門から東南へ200mほど歩いた喜久三亭川福(きくさんていかわふく)に入りました。大阪で本格的な手打ち讃岐うどん(讃岐うどんの関連記事:東かがわ市観音寺市)が食べられると聞いたからです。五叉路の角に建つ変形の建物はそれほど広くありませんが時間が遅いためか空(す)いていました。私は「づっぽううどん」、同行者は「天づっぽう」を注文しました。少し待たされたうどんは腰があり、お裾分(すそわ)けして貰った天ぷらもサクサク感があるもので、いずれも期待通りの美味しさです。ちなみに「づっぽう」とはうどんを竹筒(づっぽう)に盛ることによるようです。(続く)

 

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2009年9月22日 (火)

仁徳天皇陵と堺の百舌鳥古墳群(後編)

大仙公園の周囲を迂回して次の履中(りちゅう)天皇陵へ向います。綺麗にタイル舗装された道を陵に沿って進みました。

    

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行き止まりと思われた場所から履中天皇陵の全貌が見えました。
 
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曲がりくねった路地を辿れば拝所に行けそうですがそのまま府道34号に出て反対側の濠沿いの道に入りました。この道は直ぐに右折して履中天皇陵から離れて行きます。

 

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左折して線路沿いの道を走りました。府道61号で踏み切りを渡れば良かったのですがJR阪和線百舌鳥(もず)駅まで走ってしまい渋滞に遭遇しました。しかも右折禁止ですから方向転換を兼ねて先ほど訪れた仁徳天皇陵の東側の道に入りました。案内ボランティアの方に薦められた遊歩道が真っ直ぐ続いています。車はどこまで行けるかと思いながら進むと、仁徳天皇陵を回(めぐ)る遊歩道の案内標識のところから国道310号に押し出されるようです。車でも仁徳天皇陵の外周の約2/3を辿ることができました。それに仁徳天皇陵は巨大な二重濠に囲まれていますから正面の拝所を除けば遊歩道を歩いて一周しても2つの濠の間にある堤しか見えないので十分満足できました。

 

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百舌鳥駅脇の踏切を渡った直ぐ先で右折して線路沿いを次の「いたすけ古墳」へ向います。道が狭く一方通行が多いエリアです。反正天皇陵とほぼ同じくらいの中規模の古墳が「いたすけ公園」から良く見え、白鷺が濠に美しく映えています。住宅が古墳に接して建っている部分があるため古墳に近付けるのは全体の2/3ほどでした。

 

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狭い道を抜けて甚興神社の近くから御廟山古墳脇に出ました。御廟山古墳は車が通行できるタイル舗装の道がほぼ半周したところで府道197号に押し出されました。

 

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最後の目的地である「ニンザイ古墳」へ向います。府道28号と交差する百舌鳥八幡南交差点を過ぎて右手の路地に入るとニンザイ古墳に出ました。府道に近いエリアは墓地になっており、広い濠に囲まれたニンザイ古墳が静かに横たわっています。

 

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百舌鳥古墳群では仁徳天皇陵と履中天皇陵に次ぐ天皇陵に相応しい規模(墳丘の長さが290m、日本で8番目の大きさ)です。ニンザイの名前が変わっていますが堺市のhpによれば陵(みささぎ)が語源と考えられるそうで、前方部が大きく広がったその姿は、百舌鳥古墳群の中でも最も精美で、周りには陪塚とされる古墳が3基あると説明されています。天皇陵に指定されていないことが不思議です。濠で釣りをする人を見掛けました。天皇陵に指定されていませんから構わないのでしょうか。徒歩であればニンザイ古墳をほぼ一周できますが車は一方通行があって困難です。

 

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堺市の古墳巡りはこのニンザイ古墳で終ります。百舌鳥八幡南交差点まで戻って府道28号で大阪市へ向いました。

<同行者のコメント> 高い展望台から古墳が良く見えました。私にはこれで十分なのですが、運転手さんはその一つひとつを丹念に見て回りました。古墳を歩いて見に行く人には残暑が気にならないようですが暑い車の中で待つ身は大変です。

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2009年9月21日 (月)

仁徳天皇陵と堺の百舌鳥古墳群(前編)

阪神高速15号堺線を快調に走って終点の堺出口から堺市役所へ向いました。南海高野線東堺駅に近い市役所の21階にある展望ロビーが最初の目的地です。堺市周辺地域はもちろん、大阪市から生駒山まで360度を展望することが出来ます。21時までオープンしていますから夜景のスポットとしても人気があるようです。そして入場が無料(駐車場は有料)であることも嬉しいです。今回展望ロビーを訪れた目的は高所から仁徳天皇陵など堺市の百舌鳥(もず)古墳群を俯瞰(ふかん)するためです。

期待に違(たが)わず南方向の眼下に巨大な仁徳陵古墳の全貌を手に取るように見ることができました。その後方にニンザイ古墳、御廟山(ごびょうやま)古墳、いたすけ古墳、右手後方に履中(りちゅう)古墳まではっきり確認できます。堺市には4世紀後半から5世紀後半に造られた古墳が47基残っていますが、この一帯には100基を越える古墳があったそうです。(堺市のhp

 

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展望ロビーを回遊すると北東方向にツインビル(複合施設ベルマージュ堺)と生駒山を背にした反正陵(はんぜいりょう)古墳、真北には阪神高速15号堺線と府道30号の先に大阪市の中心部が確認できました。

 

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(注釈)展望ロビーでは古墳としての名称を用いて説明されていますが、以下の文中では宮内庁が天皇陵とする場合にはその表現を用います。

駐車場を出て俯瞰した古墳群を巡(めぐ)ることにしました。ツインタワービルを目印にしながら、堺東駅前を通過して北花田口交差点を右折しようとしましたが、南海高野線を越える陸橋に入れませんので行過ぎました。高速道路沿いに回りこんで陸橋を越えると田出井町西交差点の先に方違(ほうちがい)神社が右手に見えます。境内の駐車場に車を停めさせていただきました。崇神(すじん)天皇の勅願で創建されたと伝えられ、摂津・河内・和泉の境に位置するため古来より方災除けの神として信仰されてきたと説明されています。平安時代は熊野詣での通過地点であったとも。境内に神功(じんぐう)皇后御馬繋松之碑が立っていました。ちなみに堺の地名は三国の境に由来するそうです。神社の所在も北三国ヶ丘町でした。

 

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境内を斜めに横切る道を歩きました。反正天皇陵(田出井山古墳)と敷地を接しています。綺麗に整備された歩道で陵を一周してみることにします。小さな天王古墳と鈴山古墳が続きますがいずれも陪塚(ばいづか、主人の墓に従う従者の墓)と考えられると説明されています。反正天皇陵の正面に出ました。宮内庁の案内板には反正天皇百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみさぎ)と表示されています。反正天皇は仁徳天皇の第三皇子です。この陵にはかって二重濠のあったことが確認されているそうですが、規模が小さいため大きなニンザイ古墳を反正天皇陵とする説もあるようです。

 

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住宅地に取り囲まれている陵を一周して方違神社に戻りました。神社の前を通るのは長尾街道、日本書紀にも記述された堺(難波)から飛鳥に至る古い街道だったそうです。田出井町交差点を右折して府道2号から国道310号に入りました。左手に仁徳天皇陵が見えてきました。信号のある交差点を左折すると目の前が丸保山古墳でした。

 

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2009_09050457 仁徳天皇陵の濠にそって進むと学校らしき施設に出ました。良く整備された遊歩道が濠にそって続きますが車は入れません。徒歩で辿(たど)ってみようかと考えているとその施設(府立だいせん聴覚高等支援学校)の方が車は一方通行で陵の周辺は進めないと教えて下さいました。「実はここに車を停めて徒歩で行きたいのです」とも言えませんので教えられた道順で国道310号(中央環状線)へ戻り、その反対側にある陪塚永山に足を伸ばしました。濠が釣堀になっていることに驚かされました。

 

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国道310号と府道30号(一条通)から府道197号(御陵通)へと大きく迂回すると前方に仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)が見えました。道路の反対側は大仙公園です。陵の正面に駐車場があることを見つけました。数台ほどの狭いスペースですが幸運でした。
 

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写真を撮り始めるとボランティアガイドの方が声を掛けて下さいました。車のナンバープレートを見たようで「遠くから大変ですね」の労いの言葉のあと、資料を使って丁寧に説明してくださいました。私のなけなしの知識と奈良の古墳群や高槻の継体天皇陵を巡(めぐ)ったを話しながら貴重な解説を聞くことができました。陵の周囲は車で辿(たど)れないのが残念と言うと短時間であればここに車を停めて歩いたらどうかと親切に薦めてくださいました。丁重にお礼を述べて車を発進させました。まだ先が長いのです。

 

下の写真は内濠(上段)と外濠(下段)です。ちなみに内濠を間近に見られるのは内堤が平らなこの拝所だけです。(続く)

 

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2009年9月19日 (土)

仏の顔は何度?

昔、お釈迦様が生まれた釈迦国の隣にコーサラと言う強大な国がありました。お釈迦様を尊敬するこの国の王からの申し出に対して釈迦国の王は非礼(その詳細は省略)をもって対応したため、後年その非礼を知った王子が王となった時に釈迦国を滅ぼそうと出兵しました。これを聞いたお釈迦様は街道の枯れ木の下で座禅をしてコーサラ国王の兵を待ちます。その姿を見た王は「なぜ茂った木の下ではなく枯れ木なのですか?」と問うと、お釈迦様は「枯れ木でも親族の陰は涼しいのです」と答えて自分も釈迦国の出身であることを暗に伝えたのです。王は撤兵します。しかし怒りが収まらない王は再度出兵するとお釈迦様はまったく同じ行動を取ります。これが三度続きました。そしてお釈迦様はそれが釈迦国の因縁(運命)であると悟った(諦めた)ことで、四度目にはお釈迦様の姿がなく、コーサラの王は釈迦国を滅ぼしました。

この出来事から生まれたのが「仏の顔も三度」です。どんなにおとなしい、情け深い人も、たびたび無法なことをされれば、ついに怒る、の意味(岩波国語辞典)に使われます。いかに慈悲深い仏様と言えどもその顔を三度も撫(な)でられれば腹を立てるの意味とする辞書もあります。ちなみに「仏の顔も三度まで」の表現は正しくないとされますが、言葉の由来を考えると、あながち間違いとは言えないと思います。しかしお釈迦様は、三度で諦めたのであって、決して怒ったわけではありません。

この3週間は政権交代のニュース報道で持ち切りです。総理大臣が猫の目のように3度も交代したことが要因のひとつであったと報道されています。この諺通りにおとなしい国民がついに怒ったのでしょう。あるいは因縁としてこれまでの政権政党を諦めた(見放した)のかも知れません。

2009_09190053わが家にも「仏の顔も三度」がありました。昨日(9月18日)、三洋電機がドラム式洗濯乾燥機の再リコールを発表したのです。三度の無償点検・修理(リコール)後も発火事故が続き、4回目(実質的には5回目)のリコールに。その対象である9機種の約28万台のうち、4機種の約16万6千台は、部品交換などでは対応できないため、同等の新製品と交換するとしています。

わが家の洗濯機もまさにその4機種のひとつでした。これまで火災が怖いからと乾燥機能を使わないでいた同居者には朗報ですが、交換されるのは来年3月までの予定とのことですから、当分はこれまで通りの不便が続きます。ここで思いました。日本の消費者は信じられないほど忍耐強いようで5度目のリコールが発表されるまで訴訟や不買運動があったとは聞きません。5度目の顔とはまさに仏様以上の慈悲深さです。

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2009年9月15日 (火)

旧東海道ドライブ旅: ゴールは熱田神宮

国道1号の熱田神宮南交差点近くで南に折れる旧東海道を離れて北へ向うと熱田神宮の正門(南門)です。午前10時半で昼食にはまだ早いのですが正門前の「あつた蓬莱軒神宮店」には開店を待つ人達がすでに10人近く並んでいます。同店の駐車場に車を停めて最後尾に並びました。幸いなことに長いベンチの端に2人分のスペースが空いています。同行者がさっそく隣のご婦人と話し始めました。静岡からいらした方でグループの代表としてひとり並んで待っていらっしゃるとのこと。他のメンバーは熱田神宮へ参拝されているのでしょう

11時になると店員さんが人数の確認と席の希望を聞いて回ります。1階が椅子席で2階は座敷になっているようです。開店時間は1130分と聞いていましたが15分には店内に案内されました。椅子席を希望する人が多いのか2階へ上がると私達が最初のようです。ふたりとも「ひつまぶし」を注文しました。瞬く間に席が埋まって行きます。

  

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20分ほど待つと配膳されました。蓋を取ると期待通りの鰻が顔を見せました。ひつまぶしの作法に従って、そのまま、薬味入り、茶付け、の順に美味しく食べました。

 

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長く伸びた待ち行列の横を抜けて熱田神宮へ向います。前回参拝したのはいつだったか思い出せませんが境内は以前のままのようです。

 

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小さな橋を渡って参道を本宮へと歩きます。左手に見える弘法大師お手植えと伝えられる大楠(おおくす)は樹齢千年以上とのこと。

 

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拝殿前に横断幕が張られていました。拝殿の屋根が葺(ふ)き替えられたばかりのようで赤銅色に光っています。旅の無事を感謝してお参りしました。そして身内の健康もお礼させていただきました。ちなみに御神体は日本武尊が東征に携行したと伝えられる草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。

 

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退出は完成間近の神楽殿前から、ならずの梅、明治期以前の貴重な建物である西楽所(にしがくしょ)を抜けると、こちらまで信長塀が伸びていました。

 

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信長塀は織田信長が桶狭間出陣の際、熱田神宮に祈願して大勝したことからお礼に寄進した塀であり、土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねたもので、日本三大塀のひとつと説明されていました。自分に従わない仏教徒達を徹底的に弾圧し続けた信長もこの時は神頼みだったのです。

宝物館に気づいて覗(のぞ)いてみることにしました。入口を入ったロビーに真柄太刀(まがらたち)が展示されていました。朝倉家臣の真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうざえもん)が姉川の合戦で使ったとされる巨大な刀で刃長が221.5cmもあるそうです。長さもさることながら刀身だけの重さが約4.5kgと重いことにも驚かされました。

 

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2009_0906usj0267警備詰所近くでカラフルな鶏を見かけました。ひょっとしたら名古屋コーチン(名古屋種)かも知れません。帰宅後に調べてみました。鮮赤色で単冠の鶏冠(とさか)、赤栗色の眼、鮮赤色の耳朶(じだ)、淡黄褐色の嘴(くちばし)、鉛色(灰色)の脚、羽色はバフ色(淡い黄褐色)が基調、そして雄は羽色がやや赤味が強く、尾羽は緑黒色である特徴がいずれも当てはまるようです。ちなみに名古屋コーチンは中国産の「バフコーチン」(九斤)という名前の鶏と尾張の地鶏を交配させて明治時代に作られた品種で、名前のコーチンは中国産のその鶏に由来するそうです。(名古屋コーチンのhpより) 

2009_0906usj0273 正門から出た所で路面に面白い消火栓の蓋を見つけました。お城と鯱(しゃちほこ)がデザインされて、名古屋市の市章である丸に八の字もしっかり入っています。丸に八の字は市章としてユニークな意匠ですが、明治時代に市章を決める際 適当な候補がなく、尾張藩(尾張徳川家)の略章をそのまま借用したのだそうです。

  

 

<同行者のコメント> 宿場巡りの旅がやっと終るようです。最初は静岡県の宿場と聞いていましたがいつのまにか愛知県に入っていました。このままでは旦那様の好きな京都まで行くのではないかと気が気でなかったのです。と言うのは急に車を停めてどこかへ行ってしまう運転手さんを暑い車内で待つのは辛(つら)いからです。それでも面白かったのは運転者さんがあちこちで、まごついたり、がっかりしていたことです。出発前に立ち寄る先を調べるだけではなく、その様子を想像したメモも作成しているらしくて、実物がそのイメージと違った時の反応だったようです。そして旅の最後に美味しいひつまぶしを食べられてとても良かったです。でも愛知県には温泉がないのですか?

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2009年9月14日 (月)

旧東海道ドライブ旅(岡崎から熱田まで): 宮宿

旧東海道(県道222号)は笠寺一里塚に差し掛かりました。江戸日本橋から八十八里です。東側(右手)の一里塚だけが残っており一里塚に茂る榎の巨木が見事です。

 

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一里塚の400mほど先に笠覆寺(りゅうふくじ、笠寺観音)があります。真言宗の名刹で名古屋二十一大師霊場第十六番、尾張四観音のひとつです。天平年間(729年から)に禅光(あるいは善光)上人が開基した寺(当初は小松寺と呼ばれた)で十一面観世音が安置されています。多宝塔を過ぎて西門を出ると笠寺商店街に出ました。

 

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旧東海道(県道222号)を挟んだ山門の反対側に玉照姫泉増院があります。小松寺の開基からおよそ200年後のこと、長者の家に仕える美しい娘が荒れ果てたお堂で雨に濡れる観音様を可愛そうに思い自分の笠をかぶせたところそのご利益か、後日関白・藤原基経公の息子である中将・藤原兼平公がその娘を見初めて妻(玉照姫)に迎えました。兼平公と玉照姫は結ばれた縁を観音様に感謝して大きな寺を建立、小松寺を改めた笠覆寺(笠寺観音、笠寺)と地名の由来になったと説明されていました。

 

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笠覆寺の西門前は一方通行ですから車は手前で左折して名古屋環状線の笠寺西門南交差点を経由する必要がありました。旧東海道へ戻って名鉄本笠寺駅近くのガードを潜ります。建て込んだ地域を通過して山崎川の呼続橋を渡ると旧東海道は左手に向います。松田橋交差点で名古屋高速空港線を潜ると国道1号に合流しました。

 

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JR東海道本線を陸橋で越えて新堀川の新熱田橋を渡ると熱田区に入ります。国道1号の道幅が急に広くなりました。旧東海道はその手前の内浜交差点から陸橋に入らず熱田橋を渡りますがその先は一方通行で進入できません。名鉄河和線のガードを潜ったところに伝馬町一里塚跡、伝馬町の商店街、ほうろく地蔵などがあるようですが今回はパスすることにします。いよいよ東海道五十三次の41目、宮宿(宮の宿、熱田宿)です。国道1号の伝馬町東交差点と伝馬町交差点を過ぎた熱田神宮南交差点を左折して国道247号に入りました。この交差点を右折すると熱田神宮、旧東海道はこの交差点の少し南を同様に左折して七里の渡しへと向います。

 

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旧東海道は国道247号を斜めに横切って路地に入りますが車は右折できませんから内田橋北交差点を経由する必要があります。右手に脇本陣格の旅籠屋の跡に建つ丹波屋住宅(市有形文化財)と明治中期に建てられた元料亭の熱田荘が並んでいました。
 
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道路を挟んで「宮の渡し公園」が広がっています。ここが七里の渡し舟着場跡です。

 

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復元された熱田常夜灯と時の鐘が船着場の雰囲気を醸し出しています。

 

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七里の渡しは宮宿と桑名宿を海路で結ぶ旧東海道で唯一の区間です。その距離が七里(所要時間は約4時間)であったことからその名があります。陸路でないのは両宿の間は木曽川・長良川・揖斐川の河口に近く湿地帯であったためでしょう。織田信長が鎮圧に梃子摺(てこず)った長島一向一揆の拠点となった長島城や願証寺がある長島は湿地帯であったことを何かで読んだことがあります。事故や犯罪が起こる可能性のある海路を避けるため脇往還(街道)として佐屋街道があったそうです。愛西市佐屋宿までは陸路でその先はやはり三里の渡しで桑名宿に向ったとのことですが、海よりも天候に左右され難(にくい川を利用するこちらのルートの方が安心だったようです。

 

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この宮宿を今年5月中旬に三島市の三嶋大社から始めた東海道五十三次を辿る長いドライブ旅の終点とすることにしました。旅の無事を感謝して熱田神宮に参拝するため宮の渡し公園から旧東海道を逆に辿ると、先日は混雑のためにうなぎ料理の「ひつまぶし」を諦めたあつた蓬莱軒の前に出ました。裏手の駐車場に本陣跡の案内板があったことを思い出します。その説明によると2箇所あった本陣は赤と白を付けて区別され蓬莱軒裏にあったのは赤本陣(西本陣)の方で、戦災によって遺構はまったくないことも書かれていました。ちなみに白本陣(東本陣)は伝馬町の中ほどにあったそうです。
 
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2009年9月13日 (日)

旧東海道ドライブ旅(岡崎から熱田まで): 鳴海宿 

四つ木交差点を過ぎると平部北交差点です。その南西の角に平部町常夜灯がありました。ここが東海道五十三次で40番目、鳴海宿の東の入口だったそうです。

 

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さらに400m余り進んで扇川に架かる中島橋を渡ると鳴海宿の中心部に差し掛かります。間の悪いことに旧東海道はここで通行止めです。この週末(829-30日)に名古屋市内で開催されている「にっぽんど真ん中祭り」の会場が鳴海にもあったのです。瑞泉寺の手前を右折して迂回、鳴海小学校の脇から本町交差点に出ました。ここまでが交通規制の対象、つまり鳴海宿の中心部がすべて通行できません。徒歩で回ろうかとも考えましたが大変な人出のようですから諦めて先に進むことにしました。

 

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前回のドライブ旅で藤川宿と岡崎宿をパスして旧東海道の街道筋をロケハン(下検分)したように、今回も名古屋市熱田区の宮宿まで街道筋を下見しながら走ることにしました。宮宿で楽しみにしていたあつた蓬莱軒本店(ほうらいけん、蓬莱陣屋)の「ひつまぶし」も大変な人の列を見て諦めました。炎天下での2時間待ちはとても無理です。

 

2009_0906usj0278 次の週、改めてこの区間に挑戦しました。出発地は交通規制に遭った鳴海宿の瑞泉寺です。祭が終った鳴海宿は人通りが少なく正しい判断だったと思われました・・・。

風情のある千代倉家の建物が駐車場に挟まれてポツンと建っています。この千代倉家は街道筋で有数の名家ですが、旧東海道に面しては小さな建物(玄関跡)が残るだけです。しかしその後ろには広い屋敷があるそうです。鳴海は隣の有松と同様に絞りの産地であると聞きましたが町並みには更地が目立って寂しげです。

 

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萬福寺入口の先にある枡形(曲の手)を過ぎたところに東問屋場跡があるはずです。

 

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目印の名古屋市緑生涯学習センター(旧鳴海町役場跡地)周辺を汗をかきながら徒歩で探しましたが見つかりません。

 

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その先の本町交差点には脇本陣跡高札場跡があるはずです。ところが商店が建て替えられたり、更地になったりしており、いずれも見当たりません。撤去されたようです。

 

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交差点を横断して松尾芭蕉縁の誓願寺へ向いました。山門の前、車道側に芭蕉供養塔の案内板と周辺の観光案内表示が立っていました。誓願寺の境内に日本最古の芭蕉供養塔があるそうですが見つかりません。その代わり大きなソテツを見つけました。

 

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観光案内にしたがって本町交差点の坂を北に上って根古屋城跡(鳴海城址)に足を伸ばすことにします。しかしそこにあったのは天神社(旧成海神社跡)、日本武尊を祀る古い神社でした。伝承によれば日本武尊が東征の帰路に鳴海に立ち寄り、ここから海路で熱田へ向ったそうです。日本武尊の歌碑がありました。「鳴海浦を見やれば遠し火高地にこの夕潮にわたらへむかも」と解説されていますから何とか理解できますが、原文は万葉仮名のようで読めません。ふと疑問に思いました。日本武尊は万葉仮名を書いたのでしょうか? それはともかく帰宅後に調べると根古屋城址碑は天神社境内にあったようです。炎天下を歩き回って集中力が落ちていました。道路の反対側(西側)に城址公園がありますが、そこが西の城郭だったようで、根古屋城は思ったよりも大きな城でした。信長に攻められて落城しなかった今川方の出城はここだけだったそうです。

 

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2009_0906usj0305 天神社の東にある砦公園にも立ち寄ってみました。善照寺砦跡と説明されています。桶狭間の戦いで今川方が守る鳴海城に備えて信長が築いた三砦(丹下砦、中島砦、善照寺砦)のひとつで、桶狭間に今川義元を奇襲する直前、信長はこの砦の下に兵を集結したことも。ちなみに中島橋の近くには中島砦跡の石碑があるようですが丹下砦跡には何も残されていないそうです。

 

本町交差点に戻って旧東海道(県道222号で)の作町交差点を道なりに右折しました。城址を探し歩くうちに本町交差点と佐久町交差点の間(三重銀行の近く)に鳴海宿本陣跡があることをすっかり忘れていました。気付いたのは光明寺の近くにある丹下町常夜灯に立ち寄った時です。鳴海宿では史跡の表示がほとんどなかったことで僅か800mを戻る気力が失せていました。

 

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三王山交差点を過ぎて旧東海道は天白川に架かる天白橋を渡り南区に入ります。

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2009年9月12日 (土)

旧東海道ドライブ旅(岡崎から熱田まで): 間の宿 有松

国道1号の一里山町新屋敷交差点を過ぎたところで旧東海道は右手に反れますが右折できませんのでそのまま国道1号を走ります。工業団地入り口交差点の先で旧東海道は国道1号を横切って左手に向いますがやはり国道1号を辿りました。富士松駅前を過ぎた今川町交差点で旧東海道は国道1号を斜めに横切って右手へ入って行きますので、ここでは右折して旧東海道に入り境川に架かる境橋を渡りました。ここが三河国と尾張国の境です。

 

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関西へドライブする時にいつも利用する伊勢湾岸自動車道の下を潜りました。その豊明ICと名鉄豊明駅前を通過して池下交差点の手前を左に反れると阿野一里塚がありました。道の左右に一里塚が残っています。今は植え込みのようになっていてひと目見ただけでは一里塚と気づき難いのですが、「国指定史跡阿野一里塚」と書かれた大きな標識がありますから見過ごすことはないでしょう。左手(南側)の一里塚には地元の森市雪(いっせつ)が詠んだ「春風や坂をのぼりに馬の鈴」の句碑が立てられていました。
 
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200mほど先、豊明小学校の前に「名残りの松」が一本聳(そび)えていました。旧東海道の松並木のうち豊明に残る数少ない松であると説明されています。小学校前を旧東海道はなだらかな上り坂となって名鉄前後(ぜんご)駅の方向へ続きます。前後駅とは変わった名前ですが間米(まごめ)村の前の郷に当たることから「前郷(ぜんごう)」と呼ばれたものが「前後」に変わったとの説明を見かけました。間米村(現在は中京競馬場がある間米町)は江戸時代になって出来た開拓村ですからさらに新しい集落だったのでしょう。ちなみに前後駅は市の名前を冠した豊明駅よりも主要な駅だそうです。

 

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旧東海道は国道1号と約3km並行したあと競馬場入口交差点で国道1号と合流して名鉄名古屋本線のガードを潜ります。中京競馬場駅を過ぎた信号のある交差点を左折しました。旧東海道から離れますが桶狭間古戦場の案内標識を見つけたのです。100mほど先の左手に桶狭間古戦場跡と今川義元之墓がありました。桶狭間(おけはざま)の戦いは上洛する駿河の戦国大名今川義元の大軍を織田信長が10分の1程度の軍勢で対戦、数では劣勢でしたが敵本陣への奇襲で今川義元を討ち取って、大勝利したことで知られます。なお今川義元の目的は上洛ではなく三河国と尾張国東部の支配権を確立することであったとする説もあるようです。そして桶狭間の戦いは豊明市の桶狭間古戦場跡だけでなく名古屋市緑区の桶狭間などでも戦闘が行われた(戦場が広い地域)とも言われます。
 
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国道1号に戻ると直ぐ名古屋市緑区有松町に入りました。500mほど進んだ大将ヶ根交差点で旧東海道は右手(県道222号)へと入って行きますが右折禁止ですからもうひとつ先の桶狭間交差点で右折しました。間の宿・有松の古い町並みが緩やかにうねる道筋に続いています。旧東海道沿いに有松山車(だし)会館と寿限無茶屋(会館の隣、手打ちうどんが有名)がありました。有松の地名は松が茂る(有った)からと言う俗説もありますが新町(あらまち)が訛(なま)って有松になったとする説が有力のようです。

 

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この有松は「絞り」で知られるように絞りを商う店が多数軒を並べながら時代を感じさせる店構えを守っています。有松鳴海絞会館服部家住宅(井桁屋)、岡家住宅、小塚家住宅、仲濱商店久田駅前店、有松絞りを始めた竹田家住宅、唐子山車車庫、神功皇后車山車車庫などがよく保存されて昔の様子を伝えているのが嬉しいです。

 

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有松絞りとともに山車の車庫が多いことから有松天満社秋季大祭(通称山車まつり、毎年10月に開催)の賑わいが想像できます。東町の布袋車(ほていしゃ)、中町の唐子車(からこしゃ)、西町の神宮皇后車(じんぐうこうごうしゃ)の3台があるようです。美しい町並みを楽しみながらゆっくり進みました。

 

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そして祇園寺(ぎおんじ)で有松宿の町並みが終りました。祇園寺の前に東海道五十三次二代目松の碑があります。樹齢300年の松から採種して育てたものであると説明されていました。有松宿には新しい建物も一部含まれていますが、これほど見事に昔の雰囲気を維持している宿場町も珍しいと思います。欲張り過ぎかもしれませんが電線を地下化すれば申し分ありません。撮影のアングルを工夫しても電柱と電線が・・・。

  

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2009_0906usj0309祇園寺のすぐ先には工事中のコンクリート製陸橋が見え、江戸時代から現代に引き戻されました。まだ地図には載っていませんので調べると名古屋高速道路の名古屋南JCTと高針JCTを結ぶ道路(名古屋環状2号線、国道302号)のようです。名鉄の踏み切りと手越川に架かる鎌研橋(かまとぎばし)を渡ったところで振り返って有松宿で最後の一枚を撮影しました。

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2009年9月11日 (金)

旧東海道ドライブ旅(岡崎から熱田まで): 知立宿(池鯉鮒宿、ちりゅうじゅく)

旧東海道は矢作橋を渡り切ったところで国道1号から右手にそれますが右折はできそうにもありませんから国道1号をそのまま辿りました。安城市に入った尾崎東交差点を右前方へ進んだ熊野神社前、鳥居の左手に一里塚跡の石碑と鎌倉街道跡の案内板をみつけました。ここにも鎌倉街道があったことに驚きます。鳥居の右手には予科練の記念碑も見かけました。第一岡崎海軍航空隊跡で予科練習生揺籃(ようらん)の地であるとの説明があります。

 

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永安寺に雲竜の松がありました。この見事な松は県指定の天然記念物だそうです。

 

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明治川神社交差点を過ぎるとそれまでところどころにしか見られなかった松が立派な並木となって続いています。「東海道の松並木を守ろう」と書かれた棒標を見かけました。来迎寺町交差点に「元禄の道標」の案内板と無量寿寺(むりょうじゅじ)の道標があります。800mほど北にある無量寿寺には在原業平縁の八橋かきつばた園と芭蕉の句碑「かきつばた我に発句(ほっく)のおもいあり」があるそうです。

 

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来迎寺一里塚は直径11m/高さ3mの大きさがあり、代々松が植えられていると説明されています。旧東海道の両側に一里塚が残っているのは珍しいとも。道路に面しているのは南側の一里塚で、北側の一里塚は民家の裏手、駐車場に接していました。

 

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衣浦豊田道路の牛田ICの手前にも無量寿寺の道標がありましたが、その後ろに明治用水の案内板を見かけました。明治維新の頃に開削された最初の近代的農業用水です。先ほど通過した明治川神社には明治用水の功労者が祀られているそうです。明治用水へ寄り道したい誘惑に抗して車を発進させました。牛田IC前を抜けると左手に知立松並木の案内板がありました。幅7m、長さ約500mにわたり凡そ170本の松が植えられているそうです。すぐ先に馬市の句碑と万葉の歌碑が並んでいます 

 

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御林交差点で国道1号と交差、交差点脇に東海道五十三次の39番目、池鯉鮒宿の新しい標識が立っていました。旧東海道はその先を左手にそれて町並みに入って行きます。(右下の写真) 民家の前に小振りの常夜灯がひっそりと立っていました。

 

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知立駅北交差点の付近に池鯉鮒宿本陣跡があるはずです。炎天下を徒歩で探しましたが見つかりません。それではと名鉄知立駅に向いました。知立宿の案内看板があるのではないかと考えたのです。しかし期待に反して何もなく、駅前の涼しげな噴水を幼い兄弟が興味津津に眺める様子を撮影しました。気を取り直して注意深く探しながらさらに歩き回りましたがそれでも本陣跡を見つけられません。知立宿には松並木以外は残っていないのかと半ば諦めた気持ちで戻った車をスタートさせました。

 

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100mほど進んだ右手に明治天皇行在所跡の碑が見えて車を停めました。本陣跡が見つからなくては知立宿の記事が画竜天晴(がりょうてんせい)を欠いてしまうと未練を感じながら明治天皇行在所跡の碑を撮影しました。コンクリート製の巨大な施設(防火水槽のようです)は何だろうかと見回していると石碑らしきものがもうひとつ見つかりました。近寄ってみると池鯉鮒宿本陣跡の碑と秋葉常夜灯でした。もう少しで通り過ぎる(見過ごす)ところでした。

 

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西町交差点(国道155号)を過ぎたところを右手の脇道に入りました。知立神社の標識を見たからです。知立神社は、三河国の二の宮で、東海道の三大社のひとつだそうです。狭い道の奥にある知立神社(池鯉鮒大明神)は国の重要文化財である多宝塔が知られます。私は多宝塔から拝殿に向う石橋と鯉の噴水が気に入りました。そして社務所前にさざれ石を見つけました。外苑にある知立公園には花しょうぶが3万株もあるそうですが残念ながら今は季節外れです。秋葉神社と知立公園の間に芭蕉の句碑を見つけました。ここ知立ではなく江戸深川で詠んだ句「不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市 (ふだんたつ ちりゅうのしゅくの もめんいち) 芭蕉翁」の句碑です。岡崎宿の記事で触れた三河木綿の市を読んだ句と説明されていました。

 

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蛇足: 池鯉鮒宿とは変わった宿場名です。この地、知立は鯉や鮒が泳ぐ池や沼地が多かったことから池鯉鮒とも表記されていましたが旧東海道の宿場が置かれた時に風雅な池鯉鮒が宿場名に採用されたと思われます。そして旧東海道が鎌倉街道よりもやや南のルートに設定されたのは平坦地が多いため鳴海から岡崎に至る街道として既に人の往来があったことによるようです。

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2009年9月10日 (木)

旧東海道ドライブ旅(岡崎から熱田まで): 岡崎宿(後編)

伝馬通1丁目交差点で二十七曲りは南に折れ伝馬通りと並行する若宮通りに入りますがここも一方通行です。そのまま伝馬通りを進むと篭田公園が右手に見えました。

 

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公園の前から南(左手)に伸びる道の中央分離帯に籠田総門跡の碑を見つけました。

 

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旧東海道は籠田公園の中を抜けていたようですが、車は迂回ルートで連尺通りに入り本町1丁目を過ぎたあと、複雑なルートで材木町2丁目に出ました。
 
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材木通りを西進した材木町で唐弓弦(とうゆみづる)の古い看板を見かけました。唐弓弦は綿打ちの道具で三河木綿の産地であった岡崎らしい看板です。

 

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旧東海道はすぐ先の柿田橋の手前を左に折れます。車がやっと通れるかどうかの狭い道でした。二清橋が工事中で伊賀川を渡れません。柿田橋まで戻って対岸の道を進みました。旧東海道は二清橋から西進するのですが、国道1号に出る場所が面倒ですから、直進して龍城橋交差点から国道1号に出ることにしました。

 

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国道1号に一旦入った旧東海道は八帖(はっちょう)交差点の一つ手前の路地を左折します。ここも八帖交差点を経由して国道248号へ左折する迂回路を選び、中岡崎町交差点で旧東海道に戻りました。愛知環状鉄道のガードを潜ると八帖町に入ります。

 

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ここは八丁味噌の蔵元である「まるや」と「カクキュー」が八丁通り(旧東海道)沿いに並んでいます。岡崎城から八町(約870m)離れた場所にあったことから八帖村(八丁村)と名付けられ、そこで作られる味噌なので「八丁味噌」と呼ばれるようになったそうです。八丁蔵通りは味噌蔵が立ち並ぶ風情のある路地(右下の写真)です。

 

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NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」の舞台になったことを記念するモニュメントがあちこちに見られます。旧東海道は道標のある丁字路を右折します。

 

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国道1号に出ると矢作橋で大規模な工事が行われていました。二十七曲りの西の端にある矢作橋は旧東海道で一番長かったと言われます。この橋の上で豊臣秀吉(日吉丸の時代)と蜂須加小六が出会ったという伝説(当時はまだ矢作橋が架けられていない)にしたがって矢作橋の欄干にその様子を再現した「出合之像」が設置されているはずですが、車列の流れに押されて確認できませんでした。工事中はこの像が一時撤去されていることを帰宅後に知りました。

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2009年9月 9日 (水)

旧東海道ドライブ旅(岡崎から熱田まで): 岡崎宿(前編)

国道1号を1km弱走った岡町神馬崎交差点の先で左手に入ると美合松並木が僅かですが残っています。道幅が狭くなった旧東海道は山綱川に架かる高橋を過ぎると矢作川(やはぎがわ)の支流である乙川(おとかわ)に行き当たりました。乙川沿いに国道1号まで迂回して大平橋を渡りました。乙川の上流は国の天然記念物であるゲンジボタルの生息地として知られます。乙川の清流で釣りをする人達を見かけました。

 

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2009_09050084 対岸の大平川水神社脇から旧東海道に入って200m余り進むと大平町東交差点で国道1号を横切ります。交差点の手前に東海道五十三次の38番目、岡崎宿の案内板を見つけました。

男川小学校西交差点に「つくて道」「東海道」と表記された道標がありましたが「つくて」とは聞き慣れない名前です。帰宅後に調べると愛知県北東部の南設楽郡作手村(現在の新城市)のこととのようです。100mほど先、岡崎大平郵便局の角を入ったところに西大平藩陣屋跡があるはずです。時代劇に登場する大岡越前守が1万石の大名となった西大平藩陣屋の一部を再現したものだそうですが今回は先を急ぐことにしました。

 

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200mほど先に大平一里塚(国の指定史跡)がありました。底部が菱形をした南側の一里塚は当時の様子を良く残していますが北側の一里塚は昭和3年に道路改修のために取り壊されたと説明されています。今は常夜灯だけが残っていました。

 

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旧東海道はほどなく国道1号に合流します。車は進入できませんので大平町新寺交差点へと迂回しました。東名高速道路の岡崎ICを過ぎた岡崎インター西交差点で旧東海道は右手にそれて行きます。松並木を撮影したくて県道26号へと右折、高架橋脇に車を一時停止することにしました。松並木は県道26号を挟むわずかな区間が残るのみで期待外れでした。気を取り直して岡崎宿の二十七曲に向いました。

 

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根石町交差点を右折、100m余り先に「岡崎城下二十七曲り」の石碑がありました。三角形をしたロータリー状の道に囲まれた敷地に作られた真新しく立派なものです。石碑の表面が綺麗に磨かれているため写り込みで見にくい写真になってしまいました。

 

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すぐ先の若宮町2丁目交差点に最初の標柱とモニュメントがありました。二十七曲りの方向と距離が表示されています。これを辿(たど)れば二十七曲りも容易に走破できると考えたのも束の間、幾多の苦難が待ち受けていました。若宮通りを次の標柱がある両町角へ向うと、150mほど先の若宮1丁目東交差点で一方通行の進入禁止、もう1本北側の脇道を西に進みましたがこの道も両町2丁目交差点で跳ね返されました。止む無く伝馬通りに出て、伝馬通りと旧東海道の間を往きつ戻りつの繰り返しです。逆方向に辿れば何の問題もないのですが・・・。こんなところにも性格が出るようです。

 

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伝馬通5丁目交差点からは直線の広い道が続きます。伝馬交差点伝馬通1丁目交差点に挟まれた商店街には、車道側に多数の可愛らしい石彫と立派な道標があり、ここが岡崎宿の中心部であったことが想像できます。ちなみに田中吉政はこの二十七曲りが作られた当時の岡崎城主、風情のある商店は紙屋さんと肉屋さんです。

 

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伝馬通1丁目交差点のコンビニ前に本陣と脇本陣の説明、その向かい側に西本陣跡碑が立っていました。この辺りが二十七曲りの中間点のようです。(続く)

 

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2009年9月 8日 (火)

旧東海道ドライブ旅(岡崎から熱田まで): 藤川宿

夏休み(8月)の交通渋滞が終るのを待ちかねて旧東海道を巡るドライブ旅の再開です。東名高速道路の音羽蒲郡ICから国道1号に出て、前回ドライブしたルートを辿って本宿(もとじゅく)を通過すると西三河に入ります。名鉄名古屋本線の名電山中駅付近では旧道が国道の右側(舞木松並木)を伸びていますが1km余り先の舞木町西交差点で国道に吸収されます。さらに700mほど進んだ市場町交差点の先で旧東海道(県道327号)は左手にそれますが見過ごしてしまいそうな脇道です。すぐ先に東海道五十三次で37番目、藤川宿の東棒鼻がありました。

 

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東棒鼻を左手に入って曲手(かねんて、枡形)を抜けた所に常夜灯があります。

 

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ほぼ一直線の藤川宿に高札場跡、問屋場跡、本陣跡が続きます。藤川宿は宿場の様子が良く保存されているだけでなく、訪れる人のために立派な駐車場が整備されているのは嬉しいことです。

 

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藤川宿第二資料館になっている脇本陣跡の裏手に石垣跡が残っています。
 
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藤川宿の西の端である西棒鼻(藤川小学校前)の近くに閻魔堂と芭蕉の句碑「ここも三河 むらさき麦のかきつばた」が続きます。

 

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一里塚(閻魔堂の西40m)、吉良道道標吉良上野介縁の吉良へ向かう道、左手)、右手に進んで名鉄の踏み切りを渡ると藤川松並木(約1km、約90本)が続きます。藤川町西交差点で国道1号に合流しました。その手前にある大きな常夜灯が目を惹きます。

 

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