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2009年10月に作成された記事

2009年10月30日 (金)

無駄とは?

無駄について考えました。辞書には「役に立たないこと」「効果・効用がないこと」と説明されています。語源を調べると、無駄の「駄」は馬に背負わす荷の意味ですが、無駄とは荷が無くて馬が余っている状態であるとする説がありました。つまり有益ではない部分を指すのです。駄目(だめ)と言う言葉もあります。これは囲碁用語、双方の境界にあってどちらの地にも属さない場所を指し、ここに石を置いても自分の地にならず無駄になることから、やっても無駄なこと、してはいけないことを意味するようになりました。

現在、新しい政権下で無駄を排除するために予算の見直が行われています。無駄を無くすことについては誰しも総論では賛成するのでしょうが、無駄とは何かについては意見が分かれるようです。当事者や関係の深い人たちは無駄ではないと主張します。短期的な視点か長期的な視点かでも見方が異なります。インターネット記事の中には自動車のハンドルに遊びがあることになぞらえて「徹底した無駄排除は硬直した社会を造りかねない」とする的外れな見方や、例え無駄であっても「景気浮揚効果があれば良い」とする乱暴な意見も見受けられます。非論理的で情緒的な意見だと思います。しかし明らかに無駄と分かる支出であってもそれで恩恵を受ける人たちには決して無駄ではなく既得権あるいは死活問題と考えるでしょう。限られた予算を有効に使うために総花的な考えを廃して優先順位付けするのが政治だと思います。

時間軸の視点も重要です。効率化の判断には社会環境や経済情況が変化することを考慮する必要があります。身近な例ですが、個人が手持ち資金を金融商品に投資するとします。見込み利回りの高い金融商品を選べば資産を最も効率良く増やすことが出来るはずですが、長期に亘(わた)って経済環境(利回り)が変わらないことが前提条件です。しかし高利回りには高いリスクが伴うのです。単利と複利でも後者の方が計算上は中長期で利回りが有利になるはずですが結果がその通りになる保証はありません。投資評論家と称する人が毎月分配型(単利)の投資信託が不合理であると指摘したのを覚えています。しかしこの見方は一面的です。利息を元本に自動的に組み込む再投資型(複利)は投資額と利息の両方が基準価格の変動に影響されます。このリスクを回避するには毎月分配型に投資しておいて基準価格の上昇局面が続くようであれば利息を再投資に回せば良いのです。ただし手数料や課税を考慮した最終利回りで判断する必要はありますが・・・。

ビジネスでも同様です。10年ほど前から「選択と集中」が企業経営に重要であると喧伝(けんでん)されましたが、これもハイリスク・ハイリターンの経営戦略ですから最良とは限らず、市場環境が変われば最悪の選択だったことになり兼ねません。飛ぶ鳥を落とす勢いだった企業が数年後に凋落する事例は事欠きません。やはり長期的な経営理念に基づいた俊敏な経営判断が不可欠だと思います。個人も同様で、気紛れではなく自分の価値観に従って行動する必要があると思います。流行に流されないことが重要でしょう。例えば、商品を購入する時には、選択を急がず慎重に良いものを選び、出来るだけ長く使うことが良いと思います。「今がお買い得」などと言うキャッチコピーに惑わされないことです。つまり無駄とは自分の価値観に合わない物(事)へその時の流行や物珍しさで飛びつくことだと思います。そして物を所有することが目的ではなく、それを長く楽しむことを目的とすれば、自ずと無駄が減るのではないでしょうか。

身近な例でもう少し説明します。外食や買い物の回数を減らすことも生活から不要不急の出費を排除するうえで有効かも知れませんが、そればかりでは息が詰まりそうです。むしろ毎日あるいは毎月継続する出費を押さえることが効果的であり、逆に収入はスポット的なものでもコツコツと努力して得ることが良いと思います。定期収入が増えることや一発勝負の宝くじに当選するのは確かに嬉(うれ)しいことですが、いずれも現実には可能性が低いでしょう。やはり当ブログの記事「お金は大事」で紹介した上杉鷹山が言う「入るを量りて出を制す」の精神が大事だと思います。

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2009年10月28日 (水)

懐かしい海外の想い出

目黒区の自由が丘へ出かけました。昼食は端(はな)から久しぶりの「とんき」と決めていましたが覚えていたはずの場所が見つかりません。ブルーバール街と自由が丘デパートの間の道を往(ゆ)き来して探すとブルーバール街の2階へ向かう狭い階段にはシャッターが下りていたのです。開店時間の12時を10分ほど過ぎています。開店すると暖簾が掛かる場所には営業時間を示す案内板があるだけです。何か突発的なことが生じて臨時休業になったのかもしれません。私が就職で上京した頃には給料日にちょっと贅沢をして自由が丘で「とんきのトンカツ」を食べるのが楽しみでした。それ以来、自由が丘を訪れる時にはよく立ち寄ってきました。その当時からご主人がひとりでトンカツを揚げていましたから今はかなりのお年なのでしょう。休業の理由は気に掛かりますが今回は諦めることにしました。目黒駅近くの「とんき」も当ブログで紹介しています。

 

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49 ふと見上げると向かい側の自由ヶ丘デパート2階にベトナム料理の看板が見えました。そうだ! トンカツがなくてもベトナム料理があったのです。ベトナムといえば13年前にビジネス開拓のため出張、首都のハノイ市と最大都市のホーチミン市に1週間ほど滞在して強い印象を受けました。写真でホーチミン人民委員会庁舎と「ホーおじさん(初代大統領)像」の前に立つ笠地蔵は私です。

 

ベトナムらしくかなり時間が掛かりましたがビジネスは順調に立ち上がってくれました。そしてフォーと春巻きなどのベトナム料理が私の好物になり、ベトナムに限らず東南アジアへ出張する時にはよくベトナム料理の店を探したものです。アメリカにもベトナム料理の店が多かったのは多数のベトナム難民がアメリカへ移住したからでしょう。

   

2009_10250032 ベトナム料理「QUAN AN TAM」(クァンアンタム)の店内はベトナムらしい装飾品とベトナム音楽で雰囲気を盛り上げています。手渡されたメニューはまるで分厚いアルバム帳のようです。すべての料理が大きな写真入りで紹介されているのはベトナム料理店らしい。同行者と私はメニューの多さで迷った末に「キャベツとエビのサラダ(ゴイ・トム)」と「牛肉のフォー(フォー・ボー)」を選びました。2匹のトイフードルは本物です。

   

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先に配膳されたサラダは酸味が利いて食欲を増進させる美味しさです。牛肉のフォーはベトナム料理にしては珍しい少しコッテリした味で、柔らかい牛肉とフォーがマッチして結構なボリュームですが完食できました。久しぶりのベトナム料理を堪能して海外出張に忙しかった当時を思い出しました。

 

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思い出と言えば、1024日(土)にTBS系で放送された「世界・ふしぎ発見」のテーマはシリアの「パルミラ遺跡」(世界遺産)でした。25年ほど前にシリアの首都ダマスカスを訪問した時にシリア砂漠の悪路を車で片道4時間も走った場所を懐かしく回想しました。何もない砂漠の中に突然現れた遺跡の規模と長い石柱の列に圧倒された記憶があります。その時にはほとんど何も無かった遺跡周辺に、今はパック旅行に組み入れられて増加した観光客を相手に、商売をする人たちの住宅が増えたことを知りました。

さらに最近は発掘が進んで多くの発見があり、その中から2002年に発見された地下のお墓(地下墓)が詳しく紹介されました。私が訪れた当時はまだ発見されていませんからはじめて見る光景です。副葬品は、男性が闇を照らすランプ、女性は化粧道具、であることは現代人にも納得できます。地下墓にある宴会をする彫像は墓地(永遠の家)では家族が一緒であるとの考えを象徴するものだそうです。そう言えば別のテレビ番組が青森県の墓地では宴会をする風習があることを紹介していました。

パルミラの歴史です。2000年前に東西のシルクロードを結ぶシリア砂漠のオアシスに栄えた商業都市(ローマ帝国の属領)は「シルクロードのバラ」と呼ばれました。3世紀になるとローマ帝国から分離してパルミラ王国となりますが海のシルクロード(インド洋・アラビア海からエジプトを経由するルート)の発展により衰退へと向ったためにクレオパトラの再来と言われた美しい女王ゼノビアがペルシャからローマ帝国の東部諸州を守るとの口実でエジプトまで出兵、一時はエジプトを占領しました。しかし勢力を回復したローマ帝国よって鎮圧されてパルミラは滅亡することになります。

8 後日談です。シリアとヨルダンを複数回訪問した私は後にアメリカの入国審査で長い尋問を受けることになりました。パレスチナ極左過激派や日本赤軍などの活動が活発であった時代です。パルミラの写真を掲載したいところですがハードディスクのトラブルで失ってしまったのは残念です。右の写真は雰囲気が似ているヨルダンのアンマンにあるローマ時代の遺跡です。

 

<同行者のコメント> 大理石の破片を持ち帰ったのはひょっとしてこの遺跡からですか? 漬物石にも使えませんでしたし、何かの呪いがあるといけませんから、そっと処分しておきました。20年ぶりのカミングアウトです。

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2009年10月25日 (日)

秋の草花

わが家の近くにあるお気に入りの公園に出掛けました。昨年11月下旬に訪れた時は時期外れでしたが、今回は1ヶ月以上も早いので、まだ秋の草花が見られることを期待できそう。園内には多くの来訪者、なかでも幼児を連れた母親のグループが目立ちます。10月も中旬になると夏から初秋にかけて咲いた花が終って寂しげな園内ですが、それでも慎ましやかに咲く花々がありました。(1013日撮影)

最初に目に入ったのはホトトギス(杜鵑)、池を巡った先には稲刈りが終った稲田と秋を代表するススキが黄金色に光っています。

 

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ワスレナグサ(勿忘草)は青色が普通ですがここでは白っぽい花、同じ水辺にミゾソバ、愛らしいキツリフネ(黄釣船)、そしてアザミ(薊)は秋を象徴する花です。

 

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ここでちょっと長い余談です。勿忘草は西洋原産の草花です。この花の名前は昔、ドイツの騎士が恋人のためにこの花を摘もうとしてライン川に押し流されてしまった時に岸に花を投げて”Vergiss-mein-nicht(私を忘れないで)の言葉を残したことが由来と伝えられます。ちなみに英語でも同様に"Forget-me-not"と呼ばれています。 

私は古い映画「忘れな草」(原題はVergiss-mein-nicht1959年西ドイツ・イタリア・スイス合作)を思い出します。ローマに向う機中で偶然知り合った中年のイタリア人テナー歌手と若いドイツ人女性との切ない恋の物語を主人公が歌う美しい曲が彩ります。クライマックス・シーンで主人公が切々と歌う「忘れな草」は観る者の涙を誘い、そして悲しい結末と思われたあとに感動的の瞬間が・・。

本題に戻ります。黄色が鮮やかなセイタカアワダチソウ(背高泡立ち草)が風雨で横倒し、水辺に自生するミゾソバ(溝蕎麦)は先端が薄紅色をした花がまだつぼみです。

 

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秋なのにアジサイ(紫陽花)が小さな花を咲かせていました。その近くには花が終ったヤブミョウガ(薮茗荷)の実が熟して青紫色に変わりはじめています。葉の形が茗荷に似ていることから付けられた名前です。

 

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2009_10130053_2 同行者がクモ(蜘蛛)を見つけました。彼女が蜘蛛の巣の端に触れると巣(ネット)の中心でじっとしていた蜘蛛が驚くほどの素早さでその方向に移動、餌ではないと知るとまた素早くホームポジションに戻りました。その合理的な行動パターンに感心!

キンモクセイ(金木犀)も秋を代表する花です。小さなオレンジ色の花が密集して咲いていました。強い芳香を放つので人によって好き嫌いが分かれます。少し先にあるオケラ(朮)の花は時期を過ぎて枯れていました。山菜(食用)あるいは生薬に利用される草花です。古い言葉で「一文無し」のこともオケラ(螻蛄)と言いますがこちらは昆虫のケラ(バッタの仲間)のことです。前から見た姿が万歳をしているようであることを由来とする説がありますが定かではないようです。今はほとんど使われない表現(死語)かもしれません。

 

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リンドウ(竜胆/龍胆)は残念ながらまだ蕾(つぼみ)です。「りんりん、りーんどうは濃紫(こむらさき)、姉さの小袖も濃紫、濃紫、ハーイのハイのハイ♪」の歌詞が浮かびました。亡くなった母が大好きだった島倉千代子さんの代表曲の一つである「りんどう峠」(西条八十作詞・古賀政男作曲、昭和30年)はデビュー曲でヒットした「この世の花」に続く2曲目です。そして同居者と一緒に訪れた九州の黒川温泉では旅館「夢龍胆」に宿泊したことも思い出しました。クララ(眩草、苦参)はマメ科の夏の花で枯れて黒っぽくなった実が大豆に似ています。生薬に使われますが根には毒があるそうで、これを噛むと苦くてクラクラすることからその名があります。

 

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カマキリと毛虫をみつけました。この毛虫は何の幼虫でしょうか。ここでも蜘蛛が巣を作っています。

 

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キツリフネの花に身体を入れて蜜を集めるミツバチがいます。そして秋といえばコスモス、中でもキバナコスモス(黄花コスモス)が華やかで花言葉は「野性美」です。

 

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<同行者のコメント> 今度はオチビちゃん、コチビちゃん、チビスケくんたちと一緒に来たいです。

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2009年10月22日 (木)

一歳の誕生日

チビスケくんがはじめての誕生日を迎えました。小さな赤ちゃんがすくすく育っていつの間にか表情豊かで活発な男の子になりました。しかも誕生日を控えた1-2週間で掴(つか)まり歩きから手を使わないで歩き回るまでに急成長。そして誕生日の翌日、お父さんとお母さんはお母さんの実家で催すことにした誕生パーティに我々を招待してくれました。当日のチビスケくんは大勢の人に囲まれていつも以上にハイテンション。

 

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でも誕生日にお決まりのセレモニーには興味がなさそうで、せっかくお母さんが手作りしたバースディケーキを手掴(てづか)みして格好のおもちゃと化しています。

 

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そして洒落た市販のケーキ(新宿TAKANO製)は大人用で、プレートに格好良く書かれたチビスケくんの名前ですが掲載前に画像処理で消去しました。

 

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チビスケくんの名前を旗にプリントしてお子様ランチ風に作られた薄焼き玉子に包まれた散らし寿司もちょっとなめて「これは何じゃ?」とそっぽを向いてしまいました。はじめて味わう酢の味を受け付けなかったようです。お母さんの海よりも深い愛情を込めた料理に無頓着(むとんちゃく)なチビスケくんは赤ちゃん用せんべいを食べながら広い部屋中を歩き回ってご機嫌そのもの。一方、お母さんは折角の料理を食べない主役にがっかりして半ベソ状態に・・・。

同居人と私からはチビスケくんにグリーティングカードとプレゼントを贈りました。でもチビスケくんの関心は他にあるようです。レースのカーテンを使った「いないいないばあっ!」で盛り上がり、何度も何度も笑い転げています。こちらの遊びを気に入ってくれたことに気を良くした同居人はチビスケくんが飽きるまで相手をしながら楽しんでいました。

メインイベントはチビスケくんが風呂敷でくるんだ約1.8kgもある紅白のお餅(一升餅)を背負って歩く儀式です。歩くことの楽しさを知ったばかりのチビスケくんですが、一升餅の重さのため体のバランスが取れなくて、パニック状態に陥ってしまいました。大人達の囃子(はやし)声に急(せ)かされて泣きながら4歩・5歩と歩いて終了です。チビスケくん、お疲れ様。でも、もう一つ大きく延ばされた餅があります。餅踏みにも挑戦させられたチビスケくんは、初めて経験する足裏の気持ち悪い感触に驚いて、すぐお餅から下りてしまいました。草鞋(わらじ)があれば・・!? 難行を2つも強いて本当にご免なさい

 

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ちなみに一升餅とは昔から1歳の誕生日に背負うと「一生食べものに不自由しない」「一生丸く長く生きられる」「大地をしっかり踏みしめる」ことを子供に願う風習です。チビスケくんは何度も尻餅をつきました(1回はもんどりうって仰向けに転んだ)ので早々と家を出ることは無さそう。お母さん、良かったね。この紅白のお餅はお母さんのご両親が前夜に手作りされたもので帰宅する時に半分いただきました。きっと我々にもご利益があることと思います。

儀式が終わったあとは出産に立ち会ったお父さんが撮影したチビスケくんの誕生直後のビデオを改めて見せてもらいました。そして私が最近撮影したチビスケくんの写真で大人たちが盛り上がっていると、自分の写真と気付いたのか、チビスケくんは手を伸ばしてそれを掴み、何枚もの写真を握りつぶしてしまいました。次回はもっと格好いい写真を撮るからね! この誕生パーティでは応援団たちが美味しいご馳走を食べ、チビスケくんの話題で盛り上がり、大いに楽しむ会になっていました。誕生パーティの趣旨を理解したかどうかは別にしてチビスケくんもたっぷり楽しんでくれたでしょう。

日を改めて誕生日の記念写真を撮ることになりました。いとこのオチビちゃんとコチビちゃんも誕生日に記念写真を撮影してもらったフォトスタジオです。3年前の写真をスタジオの人から見せてもらって昔話で盛り上がっている横で、チビスケくんの目がキラリと光ったようです。目に入った玩具に向ってこの1-2週間でマスターした歩行能力をフル回転、音楽を奏でる玩具のボタンを押しながらハイテンションに!

 

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フォトグラファーはそのチャンスを逃さず撮影を開始します。私も撮影の邪魔にならないように注意しながらシャッターを押しました。ボール遊びや椅子に寄り添い立ち、そしてレースのカーテンを見つけるとお得意の「いないいないばあっ!」を披露、兎が跳ねる押し車を上手く動かすと自分で拍手しています。自慢しているのかな? それとも大人たちに拍手を促しているのかな? イエローキャブに跨(またが)るのは未体験ゾーンでチビスケくんは不安そう。乗せられるとすぐ下りてしまいました。高みから足を伸ばして下りるのは自宅のアスレチック(保護用のバリアー)で鍛えた彼の得意技なのです。

 

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両親に抱かれてのポーズは、カメラ好きの両親に毎日撮影されているので、落ち着いたものです。しかし両親に手をつながれて歩くポーズに移ると早足で歩くためフォトグラファーも撮影が大変そう。

 

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最後は全員でお決まりのポーズ。「上手く撮れましたよ!!」とのフォトグラファーの言葉にただの付き添い役である私と同居人も期待が高まりました。

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2009年10月20日 (火)

「かっとなる症候群」を考える

ついかっとなって犯したとする犯罪が毎日のように報道されています。かっとなって相手に暴言を吐いた、自棄(やけ)食いや自棄買いをするのならまだしも、幼い子供に暴力を振るったとか、見ず知らずの人を刃物で刺したなどの凶悪事件も枚挙(まいきょ)にいとまがありません。それも若い世代だけではなく思慮分別を備えているはずの年配者にも広がっているそうです。

「かっとなる」と似ている言葉に「腹が立つ」や「頭にくる」「鶏冠(とさか)にくる」「切れる」などがあります。いずれも怒りの感情ですが内容は異なります。かっとなるは瞬間的な感情と表情の変化であることが多く、腹が立つは徐々に憤りが募(つの)る様子で必ずしも表情に現われるとは限りません。「頭にくる」とそれを強めた「鶏冠にくる」も「かっとなる」に似ていると思います。一方、切れるは「切れ者」や「切れ目」などの用例はありますが「怒る」の意味は辞書に載っていません。俗語のようで、堪忍袋の緒(お)が切れる、あるいは怒った時にこめかみや額に青筋が立って今にも血管が切れそうな様子(よく漫画に登場)、などを語源とする説があります。いつから使われるようになったか知りませんが私の子供の頃には聞いたことが無かったと思います。その語感も責任回避あるいは他人に責任を擦(なす)りつけるようで嫌な響きの言葉です。

さて、人はどうして「かっと」なるのでしょうか。人の仕打ちが我慢できなくなって生じる感情は「腹が立つ」の方ではないでしょうか。「かっと」なるのは自分でも分からない突然湧き上がる(噴出する)感情でしょう。精神科医でも脳生理学者でもない私には専門的なことは分かりませんが脳の働きと何か関係がありそうです。

よくカリウムが不足すると怒りっぽくなると言われます。カリウムなどの電解質が不足すると筋肉と神経の働きに悪い影響を与えて、「こむら返り」(足がつる)が起こりやすくなるとの説明を聞いたことがあります。実際、私もゴルフ中に足がつって大変な思いをした経験がありました。それは脱水症状とカリウム不足が原因だったのかもしれません。その他にも偏食やインスタント食品が増えたことで若者が怒り易くなったとする俗説もありますがその当否は分かりません。

少し調べて見ました。人が精神的な衝動(しょうどう)をコントロールできるのは前頭前野(前頭葉の一部で脳の司令塔といわれる部位)が正常に機能しているからで、衝動を押さえられない人はこの領域が機能低下を起こしているのだそうです。しかし、この前頭前野と呼ばれる器官は時間とともに変化する性質があり、訓練次第で大幅に改善することが可能で、読書や計算がその活性化に有効であると言われます。昔から教育の基本と言われた「読み書き・算盤(そろばん)」は理にかなっているようです。

英語で「かっとなる」に相当する言葉を私の30年に亘る海外出張や5年間のアメリカ暮らしで聞いた記憶がありません。念のために和英辞書で調べましたがfly into a rageと出ています。ピンときませんのであれこれ探すと”see red"が見つかりました。「血を見る、あるいは血が上る」が語源で西洋の言語にほぼ共通する表現であることを知りました。flip outburnflameなどの俗語も使われるそうですから私は聞き逃していたのでしょう。英語の表現はさておき、アメリカ人にも瞬間湯沸し器のような情緒不安定な人はいますが、なぜか日本企業のように怒りで理性を失う社員はほとんど見たことがありません。陰では怒りまくっているのかも知れませんが人前ではそれを見せないように教えられている、つまり感情のコントロールを失ったら負けであることを教育と経験で知っているのでしょう。甘えを許さない社会と言えるかもしれません。

私が若い頃には社内で自分の意見が通らないと直ぐかっとなって怒り出し、テーブルをひっくり返すように会議を引っ掻き回す先輩がいました。「俺は聞いていない」が常套句(じょうとうく)だったと思います。しかし当時の日本企業ではこれを生真面目(きまじめ)として大目に見ていたようです。かっとし易い人に対しては、まったく相手にしないか、その人の天敵(不思議なことに居るのです)を利用するのが効果的な対処法だったと思います。少し前のこと、元首相が退陣会見で記者の質門に腹を立てて思わず発した言葉がその年の流行語大賞にノミネートされたことがあります。つい最近も某県の知事が市長の発案に「聞いていない! 県の協力はいらないのだろう」と不快感を示しました。これを見ると日本社会には地位が高くても大人気ない人がまだ存在するようです。

最近読んだ曽野綾子著「善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか」(祥伝社、平成18年初版)の第2章「知らない」ことの不幸から文章を引用します。『男でも女でも、かっとなる人はまず弱い人である。かっとなった時に人間は攻撃的になり、あたかも強者の如く見える。しかしそれはヒステリー以外の何ものでもない。弱い人間は正視し、調べ、分析するのを恐れる。自分自身もその対象にされて分析されるのを恐れるからである。しかし本当に強ければ、怒る前にまず対象に関する冷静なデータを集め始める。その対象が好きか嫌いか、などということはずっとずっと後のことでいい。好くにも嫌うにも、認めるにも拒否するにも、まず知ることである。』と、「かっとなる」人を一刀両断。

そして第3章不完全のすすめで、『本当の意味で強くなるにはどうしたらいいか。それは一つだけしか方法がない。それは勝ち気や、見栄を捨てることである。(中略)勝ち気や見栄を捨てた時、人間は解放される。(中略)自分の弱点をたんたんと他人に言えないうちは、その人は未だ熟していない人物なのである。』と助言しています。

私は曽野綾子さんほど厳しく人を見る力を持ち合わせていませんが「かっとなる」についての考えには首肯(しゅこう)します。頭脳に機能障害を持つ人は治療が必要ですし、頭脳の訓練をしてこなかったために生活習慣病として「かっとなる症候群」を患(わずら)った人は生活改善(自らの感情をコントロールする訓練)をすることが不可欠でしょう。座禅や写経も有効な方法と言われますが「他力本願」志向の私はまだその効用を理解できていません。その代わりに私は相田みつを氏の言葉「いいことは おかげさま わるいことは 身から出たさび」を心の中で呟(つぶや)いています。

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2009年10月15日 (木)

IKEAで見つけた面白いもの

久しぶりにIKEAへ出かけました。チビスケくん一家の買い物に便乗したのです。目当ての商品があるわけでもなく物見遊山(ものみゆさん)気分で広い店内を見て回りました。見ているだけで楽しくなる商品に満ち溢れて、まるでアミューズメント・パークに居るよう。目に留まったものを思いつくままに紹介します。

 

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台所用品エリアで収納棚の扉と流し台の引き出しが気に入りました。高級自動車のドアや後部トランクのように吸い込まれるような感触で確実に閉まってくれるのです。しかもマグネットのように嫌な粘着感はありません。蝶番(ちょうつがい)と組み合わされたシンプルなダンパーの作用を確認しながら、つい何度も開け閉めしてしまいました。
 
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子供の飯事(ままごと)用なのでしょうか、小型ですがリアルなキッチン台がありました。以前、オチビちゃん用に手作りしたものと比べものにならない凝ったもの。その悔しさからか「飯事道具としてはちょっとやり過ぎではないか?」と呟く自分に気がつきました。ここは素直に感心すべきでしょうか。

収納棚の内部照明やIHレンジ用保護カバーも機能的です。

 

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広いテーブルにもなる折りたたみ式のサイドテーブルもシンプルで使いやすそう。

 

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ロール紙を引き出しながら使う簡単な「お絵かき」セットも面白い。ロール紙を押さえる横木がほど良い重さに設計されています。オチビちゃんとコチビちゃんがわが家へ遊びにきた時に役立ちそうと買い求めました。これまでは広告紙やカレンダーなどの裏側をお絵描きに使うため大量に保存していたのです。キャンバス型もありましたがこちらは重量が足りないため安定性が気になります。

 

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ベッド(スプリングマットレス)のスプリングが変わった仕組みになっています。弓形に反った木材が多数使われていました。何とも言えない自然な感触です。

 

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ロープでいくつものループを作ったものが堆(うずたか)く積み上げられていました。何だろうと手に取ると実はハンガーでした。添付された写真に使用例が説明されています。

 

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縄梯子(なわばしご)までありました。子供用でしょうか? それとも大人も? バランス感覚が養(やしな)えると説明されています。ちょっと微妙な商品。

その近くで不思議な形をしたものを見つけました。弓形に大きく反った木材を2つ組み合わせています。何と、シーソーでした。両端にストッパーが付いています。試してみましたがバランスを取るのが意外と難しく上級者向けかもしれません。

 

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他にも一杯面白いものがありましたが歩きくたびれました。ちょうどチビスケくんの両親が買い物を終えたよう。レジカウンターへ向かう途中にある大型商品の保管庫はまさに倉庫そのものです。

 

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一階の出口からエスカレーターで階上の駐車場に向う時にチビスケくんのお父さんが押すカートが気になりました。通常のエスカレーターのような階段状ではなく、かなり急なスロープが付いた動く歩道タイプですから、すべり落ちないように保持するのは重くて大変だろうと思ったのです。ところが手を離してもカートはエスカレーターに吸い付いたように動きません。よく見ると車輪がエスカレーターの溝と噛み合っているようです。

 

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駐車フロアに出て車輪を点検してやっと分かりました。円盤状の車輪と簡単なゴム製ストッパーの組み合わせが巧みにストッパー機能を果たしているのです。すばらしいアイディアにしばし感心!

<同行者のコメント> 変なものばかり探していたのですね。せっかくのIKEAですから、ご自分の部屋の模様替えに必要な家具を見つけてほしかったのに・・・。

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2009年10月10日 (土)

苦しい時の神頼み

信心深いと自称する私は旅先で神社仏閣にお参りして日々の幸せを感謝しています。その日に起きた些細(ささい)なことも感謝すれば喜びが広がるように感じます。そんな私にも時には困ったことが起きて、どうすべきか判断に迷うこともありますが、悩みぬいた末はサイコロで決めることにしています。とは言っても実際にサイコロを振るわけではありません。心の持ち方なのです。この考えは今から40年ほど前にある恩師から教えられたものです。あれこれ考えても決められない時はサイコロで決めるのが合理的であると言うのです。その時は理系の教授なのに何と言う不合理なことを・・・と思いましたが、社会人として経験を積むうちにその意味を理解できるようになりました。

仕事上の問題でしばしば眠れない夜がありました。考え抜いた末に辿(たど)り付いた結論は、人間が決められない場合には人間を超越した存在(神?)の審判を仰ぐしかないと言うことです。例えば山頂に降った雨粒がどちらに流れ落ちるかを人間が予測することはできません。これを予測しようとするのは正に徒労です。この考えに従えば自(おの)ずから悩みも半減します。利点は、行動に移すタイミングを失(しっ)しない、あるいは優柔不断に陥(おちい)らないことです。そして後悔することが少ないのです。 

2008_12060530 今回のテーマに取り上げた神頼みとは神に祈って加護を願うことで、昔は「神仏頼み」と言ったそうです。この言葉の起源は蒙古軍が来襲した「元寇」(げんこう)時に鎌倉幕府が各地の神社仏閣に蒙古調伏(ちょうぶく、仏の力で悪魔を滅ぼす)を加持祈祷(かじきとう)させたことによると伝えられます。「神風」の言葉が生まれたのもこの時です。先日放送されたNHKの「日本と朝鮮半島の2000年」(第5回、9月29日放送)で海外から見た元寇について興味深い解釈を紹介していました。

 注釈: 写真は四国遍路旅(第1回第2回第3回)の当ブログ記事から抜粋

2008_01130200_2現代以上に厳しい決断を迫られた戦国武将には神頼みをした人物が多いようです。当ブログに登場した武将を挙げてみます。桶狭間(おけはざま)の戦いに臨む織田信長は熱田神宮に戦勝を祈願しました。関東の戦国覇者であった北条早雲が制定したとされる北条家家訓は冒頭に「可信佛神事(仏神を信じ申すべき事)」とあり、それに続いてその在り方を具体的に述べています。仏門に帰依した武将であったことが背景にあるのでしょう。平家物語に登場する那須与市(なすのよいち)は1185(文治1)年、屋島の戦いで海に浮かぶ小船に付けた扇の的を一射で射落とした弓の名手と伝えられます。義経の命令に従った与一は矢を射る前に「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現、宇都宮、那須温泉(なすゆぜん)大明神、願はくばあの扇の真中射させてたばせ給へ」と心で唱えたと伝えられます。縁のある神仏を並べ立てて祈ったことは欲張りの私とちょっと似ています。もうひとりは上杉謙信。自分を毘沙門天(びしゃもんてん)の生まれ変わりと信じて、戦の前には必ず毘沙門天に祈願したと伝えられます。

2008_05210198話を転じます。かなり前の新聞に面白い意見が掲載されていました。議員を抽選(くじ引き)で選ぶアイディアです。暴論のように聞こえますが傾聴に値する考え方だと思います。議員になりたい人を選ぶ時には選挙が民主的な方法と考えられていますが、これは2000年前のローマ帝国でも悩ましい課題だったようです。それは知名度の高い人や声の大きい(目立つ)人が選ばれる傾向があり、必ずしも民意を合理的に反映しているとは限らないからです。くじ引きであれば一種のサンプリングですから民意の縮図である確率が高いのです。

2008_05210060_2 日本で男女を問わない普通選挙権が認められて60年以上が経過しましたが議員選びの意識は向上したでしょうか。戦後の熱気が冷めてからは、無関心層が増加し、最近はむしろ白ける人が増え続けていたようです。昨年発生した世界的な金融・経済危機の影響が深刻になったことで選挙に対する考えが変わる兆候があるとも伝えられますが、日本では議員選びやリーダー選びにまだ神頼みが必要なのかもしれません。

2008_12060431選挙はともかく、私にとっての神頼みは上述したように無用な悩みから開放されることです。思い詰めても良い結論に導かれるとは限りません。大いに悩んだ後は一歩引いて冷静に判断するのが良いと思うのです。人の意見を聞くことは有用ですが、下手をすると人の意見でさらに混乱が深まるか、その意見への反発から自らの思い込みに拘(こだわ)り続ける結果になり兼ねません。むしろ自分の意見を人に聴いてもらう方が良いと思います。そうすると思い込みが自分に見えてくることがあるからです。

相田みつを氏が残した多くの言葉から「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」と「いいことは おかげさま わるいことは 身から出たさび」の2つが身に沁(し)みます。人間は合理的でも論理的でもなく、やはり同氏が言う「人間だもの」なのですから。人は「他力本願」(阿弥陀仏による救済、自分は生かされていると感謝)と「自力本願」(自分の力に頼って修行)の間を揺れ動く存在なのかもしれません。いずれにしても御利益(ごりやく)を期待するだけの神頼みの効果はどうも期待薄のようです。

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2009年10月 8日 (木)

CEATEC JAPAN

106日(火)から10日(土)まで第10CEATEC JAPAN(シーテック・ジャパン、デジタル家電ショー)が幕張メッセで開催されています。セミナーを受講するのが主目的ですがその合間を利用して初日の展示会場を駆け足で歩いてみました。昨年のCEATECとはできるだけ違う視点から私が興味を持ったテーマを紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

最初はNICT(独立行政法人情報通信研究機構)のブースで見つけた超臨場感音響システムと裸眼立体映像ディスプレイ、いずれもマニアックな技術です。前者は演奏者を球状に取り囲むように設置した26台のマイクロフォンで演奏を収録、小型の球体に取り付けられた26個の小さなスピーカから再生する仕組みです。つまり演奏家が3人の場合は計78chの音響システムになります。演奏者の前後左右の音を忠実に表現するだけでなく、演奏者の動きも忠実に再現できる優れた音響技術でした。

 

 

 

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もう一つは特殊な眼鏡を使わないで立体映像を見ることができる技術で超臨場感システム(gCubik+i)と名付けられています。水槽をイメージしたディスプレイに映る魚に触れるとその魚が取り込まれてガラス箱内に立体映像として映し出されました。表面の小さなレンズ状のものが回折効果を生じて立体映像に見せているそうです。写真では立体映像が表現できない(原画通りにボケて見える)のが残念。隣のコーナーで大掛かりな裸眼立体映像ディスプレイのデモが行われていました。こちらは映像品質も申し分なく、顔を左右に動かしたり立ち位置を変えると見る角度も変わる自然な立体動画です。

 

 

 

 

 

 

 

KDDIブースはFMBC(携帯電話とテレビの融合)をテーマにしています。出先から携帯電話を使いテレビ・ニュースや番組を選んで帰宅後にサーフィン視聴できる仕組みです。これは便利で使えそう。もう一つは家族の好みに合わせた番組を自動的に選んでくれるもの。居間に集まった家族(携帯電話で認識)に共通する好み・関心事に合う番組をシステムが選んで提供してくれるそうです。チャンネル争いを避けようとするアイディアかも知れませんが「余計なお世話」、お仕着せのテレビ番組視聴は真っ平です。

 

 

 

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NTTドコモのブースに展示された新しい技術から、不要となった間伐材(かんばつざい)で作った携帯電話のボティ(TOUCH WOOD)と眼で操作できるイヤフォンを紹介します。前者の完成度は高くて欲しくなりました。後者は障害を持つ人に朗報ですが目つきが悪くなりそうなことが玉にキズ。その他にも高性能フェムトセル基地局の家庭内利用はいろいろなアイディアが浮かびそうな面白い技術だと思います。

 

 

 

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ALPSの「タッチでデータコミュニケーション」(電界通信)は最近注目される人体通信の一種です。握手しただけで自分の個人情報をコピーされないように注意する必要があるかもしれません。それはさておき、私は抵抗膜式タッチパネルを応用したボタンが一つしかないリモコンに注目、iPhoneと共通する操作感が気に入りました。

 

 

 

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村田製作所のブースは大混雑、目当てはもちろんムラタセイサク君(2005年デビュー)とムラタセイコちゃん(2008年デビュー)の自転車に乗るロボットです。毎年、確実に成長している様子が見られてCEATECには欠かせない存在です。一輪者に乗るムラタセイコちゃんの人気は大変なもので今や兄を凌駕(りょうが)しています。難しい技を難なくクリアーしましたが付き添う人は今年も心配そうに見守っていました。

 

 

 

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日産ブースにも大変な人込みがありました。昨年も出展された衝突しないロボットカーが売りです。この技術が交通渋滞の解消に役立つと良いと思います。ここで思いました。蟻も長い行列を作りますが衝突する様子は見受けられません。童謡「おつかいありさん」では蟻同士がぶつかっていますが蟻の行動を研究すれば何かヒントが?

 

 

 

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東芝はCELL REGZAを大々的にアピールしています。IBM・ソニーと共同開発したCELLプロセッサーを採用したテレビです。美しい黒色の再現など画質向上と多チャンネル録画機能が大幅に強化されたそうです。プレゼンテーションも気合が入っていました。

 

 

 

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パナソニックは3D(立体)テレビとフルハイビジョンの4倍の解像度(4K2K)を持つプラズマディスプレイを前面に押し出しています。専用眼鏡を使う3Dテレビは予想以上に自然な立体映像が見られました。同ブースはその他に低消費電力の次世代パネルやLED電球などエコ家電技術を総合的にPRしていました。

 

 
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三菱電機は迫力ある有機EL方式スケーラブルディスプレイ(155インチの大型画面)をブースの中央に配置しています。スケーラブル有機ELディスプレイとは小さな有機ELディスプレイを縦横にいくつも張り合わせたもので、三菱電機が得意とするオーロラビジョン(屋内外に設置する大型スクリーン)と同じカテゴリーでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

ソニーも3D対応 BRAVIA(技術参考展示)を大々的にショーアップしています。Panasonicと同様に眼鏡を掛けて観るタイプの3Dテレビです。アメリカで人気の立体映画(DVDビデオの再生)に対応するもので、両社は来年(2010年)にそろって国内発売すると見られます。

 

 

 

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シャープも60Full HD D TVのデモの他、LEDランプをバックライトに使用するLED AQUOSLED電球など、エコ・ポジティブ カンパニーを標榜していました。

 

 

 

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最後に紹介するのはYAMAHAブースです。昨年も紹介したVOCALOID(歌声合成技術)を使ってヒューマノイド(人型)ロボットがピアノ演奏に合わせて歌うのがポイントです。また同ブース内に設置された「セカイカメラ」はピアノ演奏の情報を拡張現実空間に浮かび上がらせるサブ的な扱いですが大変興味深い技術です。位置情報と組み合わせることで画像に貼り付けたエアタグ情報をiPhoneで読み取ることが出来るもので、将来 大化(おおば)けする可能性を秘めた技術だと思います。
 
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2009年10月 7日 (水)

谷根千と坂道(最終回): ふたたび根津・谷中、そして池之端「六龍鉱泉」へ

東京メトロ千代田線で根津駅まで戻りました。言問通りを谷中方面へ歩いて善光寺坂(信濃坂)を上りました。

 

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坂を上りきった上野桜木交差点角にある下町風俗資料館(旧吉田酒店跡)は古い店舗が再現されていました。酒屋らしい店内には古いポスターや写真が貼られています。

 

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店先のスペースには「道草」と題して東京芸術大学彫刻科修士2年生5名の作品が展示されています。下の写真は「White Drops」「侵食する森」、右上の写真に見える石のベンチのような「輪郭の断片」と積み上げられた金色の箱「バリケード」も作品でした。

 

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信号の向かい側に古びた喫茶店「カヤバ珈琲」を見つけて入ってみました。ドアを開けると満席で1-2分待ちました。意外にも和モダンの内装です。窓際に古い写真(昭和51年撮影)を見つけた同行者は「名探偵コナン」振りを発揮して聞き込みを開始、さっそく店員さんに質問攻めです。30年ほど前に開店した喫茶店の経営者が数年前に亡くなって3年前まで閉店していたものを現在のオーナーが引き継いたのだそうです。店の名前は前の経営者の名前をそのまま使っていることも。30年前の写真と見比べると僅かですが外装も手直しされていることに気付きました。

 

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上野桜木交差点から南に歩くと東京芸術大学に行き当たります。

 

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信号を右折してキャンパスの外周に沿って歩くと護国院大黒天ですが、道路を挟んだ向かい側に変わった店を見つけました。同行者はさっそく店内へ。その名も「群言堂」(ぐんげんどう)、石見銀山(いわみぎんざん)に本店がある店の上野桜木支店でした。衣服と木綿雑貨を主に陶器などが地階の店舗へと立体的に展示されています。
 
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上野高校に沿って清水坂(しみずざか、別名暗闇坂)を下りたあと上野動物園に沿って道なりに右折するとT字路に差し掛かります。

 

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2009_09220239 清水坂のカーブ脇に奇妙な建物がありました。正体不明です。交番があるT字路を左手に折れて右手の路地に入ると今回の日帰り温泉に選んだ六龍鉱泉(温泉銭湯)がありました。ここは根津と谷中に接する台東区池之端です。3時半のオープンに合わせて5分前に到着するとすでに人の気配が・・・。男湯と女湯に分かれた下足箱の先のガラス戸を開けると男女共有のカウンターがあります。料金450円を払うと再び男女に分かれます。脱衣場にはロッカーが70以上もありますがゆったりとしたレイアウト、高い天井、綺麗に磨き上げられた床はレトロで落ち着いた雰囲気があります。

 

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浴場は明り取りがあるさらに高い天井、白を基調としたタイル張りの床、カラン周辺に明るいブルーのアクセント、天井は明るいブルーに濃い目のブルーがアクセントとなり、開放感とともに清潔感があります。奥の壁に描かれた見事なタイル画が目を惹きました。定番の富士山ではなく錦帯橋に似た太鼓橋が描かれ、女湯の方は茅葺(かやぶき)の古民家のようです。女湯との仕切りにはスイスの湖のようなタイル画が・・。

カランは40近くあり、洗い場の奥に続く浴槽は大小の2つが並んでいます。大きい方は温めの湯ですがそれでも43-44度と熱め、小さい方は高温湯で45-46度もあり、湯を撹拌(かくはん)する木製の道具までありました。洗い場で汗を洗い流したあとにまず温めの湯に入りました。私にはちょうど良い温度です。湯は黒湯、色とヌメリはまずまずで十分満足できる品質です。高温湯に入ると驚くほどの熱さではありませんがしばらくすると体が熱(ほて)ってきました。浴槽から出て休憩した後、温めの湯に長めに入りました。同じ池之端にある「水月ホテル鴎外荘」の温泉にも昨年立ち寄っています。

<同行者のコメント> 「谷中から逆のコースで歩けば良かったのに」と私が言うと、ガイドさんは「これでいいんだ」との返事が。何かこだわりがあるのでしょうか。根津駅へ戻ったガイドさんが谷中霊園の方へ歩きはじめました。坂道をいっぱい歩いたのにさらに墓地めぐりかと心配、でも上野方面に曲がって一安心。今回は珍しいことに喫茶店へ2度も入りました。どうも時間調整だったようです。そうそう、温泉はすごく熱かったですよ。常連さんに言われて水を足した浴槽のすみっこにじっと入っていました。□

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2009年10月 6日 (火)

谷根千と坂道(その3): 谷中

蕎麦の大島屋の角を左折してよみせ通りに入って谷中へ向います。この通り辺りが一番低地で、反対の南方向は「へび道」ですから、やはり藍染川の跡なのでしょう。同行者が面白いものを見つけました。指人形(パペット)の笑吉、オリジナル指人形の制作と人形劇の店です。ちょうど人形劇が上演されていました。

 

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「黒胡麻まんじゅう」と「10円まんじゅう」の幟(のぼり)が立つ丸福饅頭の店先でハーレーダビッドソン(三輪タイプのトライク)を見かけました。

 

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300m余り北へ歩くと右手に谷中銀座の雑踏がJR日暮里駅方面に続いています。

 

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テレビで紹介されたのでしょう、「谷中メンチ」(肉のサトー)、「元気メンチカツ」(肉のすずき)、「ちょんまげいも」(たまる)、「鮨魚て津」などの店が混みあっていました。

 

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谷中商店街を抜けると荒川区に入って「夕焼けだんだん」が続きます。平成2年に石段が改装された時に公募で付けられた名前とのこと。谷中銀座から続くこの石段の名前としてピッタリ、昭和の時代を懐かしく思い出させるネーミングです。

 

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夕焼けだんだんの石段を上った左手にダージリン日暮里店がありました。直進すると日暮里駅へ下りて行きますが延命寺と大黒天経王寺の間を左折して谷中尾根道に入ります。初音のみち(諏訪台通り)と呼ばれています。上野公園から北西に伸びるのが谷中台地で、日比谷入江を埋め立てるためにこの台地の土が使われたそうです。谷根千の街はこの台地の周辺に位置すると言えます。そして谷根千の西側にあるのが本郷台地で東京大学などがあります。

 

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啓運寺と養福寺を過ぎると浄光寺(雪見寺)が右手に見えてきました。その手前を左手に下りるのが日暮里富士見坂です。今でも富士山を眺めることが出来る都心の貴重な場所として知られます。とは言っても1999年に建てられたマンションが少し邪魔をしているようです。この日は雲が邪魔をしていたのが残念。ちなみに日暮里は昔、日暮の里(ひぐらしのさと)と呼ばれた眺望に優れた場所だったそうです。少し進んだ右手の諏方(すわ)神社は長野の諏訪大社の分社で御祭神も同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)が祀られています。左手の第一日暮里小学校の校門前に高村光太郎書「正直親切の碑」がありました。彫刻家で詩人の高村光太郎氏が卒業した学校と説明されています。ちなみに「フクロウ」の彫刻は石彫家飯田雅光氏の作とのこと。

 

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諏訪台通りが行き当たる道灌山と呼ばれる西日暮里公園からJR西日暮里駅が見えました。その地下は東京メトロ西日暮里駅です。(続く)

 

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2009年10月 5日 (月)

谷根千と坂道(その2): 千駄木

クランク状に折れ曲がった路地を抜けると不忍通りの千駄木2丁目交差点に出ます。交差点を直進して根津神社の裏門に向って坂を上りました。この坂は根津裏門坂と分かり易い命名です。ツツジの名所として知られる根津神社には以前訪れています。
 

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根津神社の反対側にある日本医科大学と付属の救命救急センターの間の路地(藪下通り)に入り、大学の裏手に回りました。同大学の図書館との間にある坂(石段)はその名も「解剖坂」、大学病院の裏にある坂として出来すぎた名前です。
 

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2009_09220048 散策路の案内図で見かけた夏目漱石旧居跡にも足を伸ばしました。現在は日本医科大学14号館(橘桜会館)になっています。 

解剖坂を下りて藪下通りを北へ歩きました。緩やかにS字形にカーブする上り坂になり汐見小学校が見えてきました。左手の石段が「おばけだんだん」と名付けられているようです。建て込んだ住宅地には他にも狭い石段があります。私にはそちらの方が「おばけだんだん」の名に相応しいように思われました。
 

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不忍通り(千駄木本通り)に出てCafé de Crie(カフェドクリエ)で一休みです。オープンカフェであることが気に入りました。テラス席が空いています。常連客らしき人達が引っ切り無しに出入りする繁盛店のようです。注文するために店内へ入るとタバコの煙が・・・。喫煙者の溜まり場になっているのでしょうか。分煙だとありがたいですね。レモンとコーヒーで知られるポッカの子会社が関東を中心に約150店舗をフランチャイズ展開するカフェ・チェーンのようです。
 

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インドカレー料理の「ダージリン千駄木店」で軽い昼食です。ルネ千駄木プラザの向かい側にあるインド風の外装を施した店に入りました。細長いビルの屋上に像の飾り物が目立ちます。1階は象の姿をした神様やインド風の置物とパッチワーク様のタペストリーを配したインパクトの強い内装です。私はキーマカレー、同行者はチキン・ドピージャを注文しました。ナンが期待通りの美味しさで大満足です。3年ほど前に開店したそうで、1階と2階が店舗になっており、千駄木の他に日暮里と代々木にも姉妹店があるとカルカッタ出身の若いインド人店員さんが説明してくれました。 

ずっしり重い器(うつわ)が気に入りました。外側は銅板の叩(たた)き出しで内側は鉄に鍍金(めっき)したもののようです。映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」に登場したイエス・キリストの聖杯(の候補)に雰囲気が似ています!? 太陽神殿(映画のロケ地はペトラ遺跡)に辿(たど)り着いたインディになったつもりでその器に注がれた水を飲みましたが奇蹟は・・・。同行者もこの器に興味を示しています。
 

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東京メトロ千駄木駅の地上は団子坂下交差点です。団子坂(都道452号)が西から東へと下って行きますが昔の様子は窺(うかが)えません。潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名があるそうです。谷中が間近で散策する人が急に増えたように感じられました。台東区に入る四つ角に枇杷橋跡(合染橋)の立て看板があります。夏目漱石の小説「三四郎」で主人公の三四郎が美弥子と団子坂を下って谷中の菊人形を見に行くシーンに登場した橋のようです。谷中へ向う「さんさき坂」は車の渋滞が始まっていました。下町の洋食屋として人気がある"Ryu"には「只今お時間をいただいております」の張り紙が・・・。
 

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少し手前に昔の雰囲気を留める「菊見せんべい総本店がありました。同行者はお土産に煎餅(せんべい)を買い込んでいます。明治時代と変わらない繁盛振りです。(続く)
 

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2009年10月 4日 (日)

谷根千と坂道(その1): 根津

下町散策の定番コースに出掛けました。谷根千とは谷中・根津・千駄木をまとめて呼ぶ言葉で、文京区から台東区に跨(またが)る地域を指します。谷中は寛永寺などお寺が70以上と多く、根津は日比谷入江の奥で昔船着場があったことと、千駄木は東京大学が近いことから多くの文人が住んだ町として知られています。今回の記事はこの地域に多い坂をテーマにしました。

東京メトロ千代田線根津駅の1番口を出てから歩き始めました。谷根千からは外れますが言問(こととい)通り(都道319号)の弥生坂(やよいざか)を上って文京区弥生2丁目へ向いました。弥生貝塚を訪れるためです。弥生土器が発見された場所で、縄文時代に続く弥生時代の名の由来となりました。現在は東京大学工学部のキャンパスになっています。そのためか「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑はキャンパスの外、言問い通りの交差点角(弥生二丁目バス停付近)に立っています。ちなみに弥生の地名はかつてこの地にあった御三家水戸藩の中屋敷内に立てられた歌碑の水戸徳川家9代目斉昭(なりあきら)公が詠(よ)んだ弥生(三月)の景色の歌に由来するそうです。

 

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根津1丁目交差点まで戻って、不忍(しのばず)通りに入り、上野方面に100mほど歩くと左手に「茶房はん亭」と「はん亭根津」がありました。総欅(けやき)造りの三階建、手すりを設けた風情ある明治時代の日本家屋です。関東大震災にも耐えたそうで、文化庁の登録有形文化財に指定されています。根津の「はん亭」は串揚げで知られますが明治時代は下駄で有名な爪皮屋だったそうです。ちなみに爪皮(つまかわ)とは下駄の先に掛けて泥や雨水などを防ぐもので爪掛けとも呼ばれます。昭和50年代に現在のはん亭になりました。(はん亭のhpより) 江戸時代に船着場があった根津は、日比谷入江の海水が引いたあとに陸地が現れ、不忍池に注ぐ藍染川(あいぞめがわ)が残り、明治に入ってその藍染川が道路(不忍通り)となったそうです。

 

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不忍通りを引き返して、駒込方面へと歩き、根津小学校を回りこむように路地へ入りました。東京大学農学部キャンパスとマンションに挟まれた狭い場所に階段があります。根津1丁目から弥生町1丁目へ登る「お化け階段」で、上りと下りで段数が異なると言われます。階段は最近改修されたようで広くなっていました。上り下りしながら子供のように段数を数えてみましたが・・・。

 

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階段を往復した後は再び不忍通りに出ました。以前、ツツジ見物で訪れたことがある根津神社へ向かう根津神社入口交差点の少し先に「根津のたいやき(高級鯛焼本舗柳屋根津店)がありますが開店までにまだ時間がありました。同行者は数日前、わが家の近所に開店した鯛焼店で1時間も並んで買い求めた白い鯛焼き(右下の写真)と食べ比べたかったようで残念そう。

 

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2009_09220024 根津神社入口交差点を右折すると前方に台東区谷中の「あかぢ坂」が見えます。地主であった渡辺治右衛門が「あかぢ貯蓄銀行(旧第二十七国立銀行であった東京渡辺銀行と同系列の銀行、昭和金融恐慌で経営破綻)」の頭取であったことから付けられた名前のようです。 

手前にある甘味処の芋甚(いもじん)もまだ開店前でした。その脇から路地に入ったところには人気の居酒屋「根津の甚八」があります。俳優の名前と同じですがあの池波正太郎氏が気に入った店だけあって外見からも風情(むしろ寂寥感)が感じられました。近いうちに入ってみたいと思います。近くで鉢植えのナスの実と花を見かけました。

 

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文京区と台東区の境界に沿って歩きました。この辺りでは一番低い場所で、藍染川が流れていた跡地なのでしょう。

 

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前方の視界が急に悪くなりました。へび道の入口のようです。名前の通りに曲がりくねった路地が続きます。そこで待つと言う同行者を置いてへび道を辿(たど)ってみました。写真撮影に困るほどのくねり方です。地図で確認すると300m以上、13ないし14のカーブがあるようです。帰宅後に調べてみると曲がりくねっているのはやはり藍染川が暗渠(あんきょ、地下水路)化されてそのまま路地になったためでした。好奇心の旺盛な方にはお薦めの場所です。(続く)

 

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2009年10月 2日 (金)

英語を学ぶ

国連総会における鳩山首相のスピーチをテレビ・ニュースで観て思うことがありました。国連加盟国に概ね好評であったチャレンジングなCO2削減目標(2020年までに1990年比で25%削減)とともに鳩山首相の英語にも注目したのです。流暢(りゅうちょう)とまでは言えませんが、アメリカの大学院に留学されただけあって、きちんとした英語を話されたことです。外交の場では母国語でスピーチすべきとする意見もありますが、フランスや中国の元首などが母国語でスピーチするのと異なり、英語で話されたことは良かったと思います。聞く人に話し手の想い(感動を与える)と人となり(品格)が伝わる効用があるからです。ちなみにフランス語と中国語は英語・ロシア語・スペイン語・アラビア語とともに国連での公用語です。戦勝国である常任理事国(米・英・仏・露・中)の言語と母国語とする国が多いスペイン語とアラビア語が採用されたようです。

 

鳩山首相のスピーチを聞いていて何故か、同様に海外留学経験がある前首相のことに思いが至りました。昨秋の国連総会での演説は冒頭(約10秒間)のみ英語でしたがお世辞にも上手いとは思えません。日本語と同様に聞き取り難く、また日本語を直訳したような奇妙な表現もありました。英語を話す能力は語学力そのものですから母国語である日本語の水準を超えることはまず無いと言っても良いでしょう。つまり日本語や英語に限らずコミュニケーション力の弱いスピーチは有用ではないと思うのです。

 

前置きはさておき、私と英語の関係を振り返ってみます。教育熱心な両親の影響で小学校の時は書道と珠算の塾に通った私は、中学に入ると英語塾に通うことができました。今では珍しくないことですが50年前の日本では稀(まれ)なことだったのではないかと思います。ましてや経済的に余裕のなかったわが家では困難だったはずです。その経緯を憶えていませんが私が無理にねだったのでしょう。その成果は如実に現れて英語が私の得意科目になりました。しかし進学した隣り町の高校(県下一の進学校)で最初の洗礼を受けました。中学の英語の試験でほぼ満点を取るのが当たり前だった私ですが最初に受けた試験で50点も取れなかったのです。井の中の蛙(かわず)であった私は大変なショックを受けて英語との格闘が始まりました。当時の高校生に必携の「赤尾の豆単」(旺文社の英語基本単語集)を端からはしまで暗記するとことに努めて、3年間で6000語近くを覚えました。そしてイディオム(慣用句)も手当たり次第に記憶しました。このお陰で大学受験では英語科目を難なくクリアーできました。

 

英語の読み書きを出来るようになった私ですが英語での会話はほとんどできません。そこでデパートの配達や家庭教師などのアルバイトで得たお金を使ってYMCAの英会話学校に通うことにしましたが、その成果を確認出来ないうちに就職のため上京しました。会社生活にも慣れた2年目から自由が丘の英会話個人塾(英国人の先生)に通い始めましたが相変わらず上達は遅々としたものだったと思います。思い切ってリンガフォンの英会話教材(レコードとテキスト)を1ヶ月分の給料を叩(はた)いて購入したもののやはり手応えがほとんど感じられません。その後、社内教育の一環として英会話の初級から上級までのコースを受講した私は少しずつですが手応えを感じ始めたことを覚えています。長い時間を掛けることではなく集中して学習することが上達の秘訣であることも知りました。そして最初の試練(チャンス)が訪れました。

 

30歳になった時に始めての海外出張をすることになったのです。私が設計したシステムの契約交渉が目的です。東南アジアの某国に向かった私は1ヶ月に亘(わた)る交渉を通訳なしに英語で行ったのです。交渉相手の責任者は父親の年齢に近い人で英国留学の経験があったようです。その人との触れ合いが私に英会話に必要なことを教えてくれました。テクニックではないのです。自分の考えを相手へ真摯(しんし)に伝えようとする熱意の重要さです。この経験が私にとって大きな自信になりました。東南アジアの国々だけでなく、英語を母国語とする国でも多くのことを学びました。英語と米語の違いや東南アジアに固有の英語があることなど英語の多様さです。

 

自信がつくと英語への関心がさらに深まり、米国の映画は英語モードで観ました。そしてFENのラジオ放送(旧極東放送、現在のAFN米軍放送)を聴いたり、、アマチュア無線での交信もラバースタンプ(ゴム印、決まり文句)だけではなく雑談をするように努めました。しかし英語圏のある国で招待された知人宅では小さな子供が「どうしてこの人はあんなにゆっくり話すの?」と父親に言うのを漏れ聞いてショックでした。当時は英語を正確に話そうとしていたため会話のテンポが遅かったのです。それでもしばらくすると大勢の前で英語によるプレゼンテーションが出来るようにまでなりました。そして40歳台前半の5年間を過ごした米国でさらに英語は上達したようです!? ここでも最初は試練が待ち受けていました。マクドナルドのカウンター(ドライブスルーはもちろんのこと)で私の注文が店員に通じないのです。訛(なまり)の強い地方だったこともありますが、私の英語はテンポが遅すぎて相手にされなかったのでしょう。滞在中にそのテンポも少しずつアップしたようです。

 

苦節40年で英語を不自由なく話せるようになりましたが日本語訛(なまり)はとうとう抜けませんでした。これまで50年に亘(わた)る英語との付き合いは現役を退いた今も続いています。英文資料を調査・分析してレポートを作成したり、英文ニュースの要旨を日本語でまとめる仕事に生かされているだけでなく、時々再会する海外の友人との会話も英語で楽しめます。不思議なことですが、英語との付き合いが長くなるほど、日本語への関心も強くなりました。言葉は生きている存在であることが興味深いのです。そして英語を学ぶことは手段であることを再認識、「英語を学ぶ」ではなく、「英語で学ぶ」ことに本当の楽しさがあることを最近になって知りました。

 

予定より1ヶ月ほど遅れて9月23日に放送されたNHKドラマスペシャル「白洲次郎」(最終回 ラスプーチンの涙)を観ました。半年間も待った甲斐がある優れた最終回でした。

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