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2010年1月に作成された記事

2010年1月31日 (日)

奈良仏教: 行基と道鏡(前編)

今年は平城京に遷都されてから1300年に当たることを記念して第一次大極殿正殿が再現されます。そしてJR東海のテレビCMが奈良をテーマに取り上げて雰囲気を盛り上げていますから、ブームとなっている「お伊勢参り(伊勢神宮参拝)」と同様に、平城遷都1300年祭で奈良が再び注目されるかもしれません。1997年に再現された朱雀門(すざくもん)と復元工事中の第一次大極殿正殿(だいごくでんせいでん)を2年前の記事「平城京」で紹介しています。

今回のブログ記事はその遷都1300年祭ではなく奈良時代の仏教とその時代を代表する高僧を取り上げて考察したいと思います。その中心人物は奈良時代のほぼ同じ時期に生きた行基(ぎょうき)と道鏡(どうきょう)の二人。ちなみに平安時代の空海(弘法大師)と最澄は当ブログですでに何度も取り上げています。

本題に入る前に日本における仏教の歴史を振り返ってみます。仏教は6世紀中頃、朝鮮からの渡来人によって日本に伝えられたとされます。当時の大和朝廷では饒速日命(にぎはやひのみこと)が祖先と伝えられる物部氏(もののべうじ)や天児屋命(あめのこやねのみこと)が祖とされ神事を司(つかさど)る中臣氏(なかとみうじ、後の藤原氏)など有力氏族は伝来の仏教に否定的でしたが、渡来人との関係が深い蘇我氏(そがのうじ)は仏教を積極的に支援しました。そして崇仏・廃仏論争が起こり、欽明(きんめい)天皇は仏教への帰依(きえ)を断念。この有力氏族間の争いはその子達である蘇我馬子と物部守屋の代まで続いて第二次崇仏論争となります。用明天皇も結論を出すことができませんが、587年に蘇我馬子が物部守屋を武力で滅ぼして仏教を支援する勢力が勝利すると、飛鳥寺四天王寺法隆寺などが建立されました。

さらに東大寺に大仏が建立されると内政の安定化を図る国家仏教の色彩が強くなります。この時代の仏教が奈良仏教とも呼ばれるのは平安時代に平安京で栄えた真言宗と天台宗(平安ニ宗)に対応させるためです。奈良仏教には6つの宗派、すなわち中国から招来され唐招提寺を建立した僧正鑑真(がんじん)を開祖とする律宗、良弁(ろうべん)の華厳宗(東大寺)、入唐(唐留学)して玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、三蔵法師)の教えを受けた道昭(どうしょう)の法相宗などがあり、東大寺を中心に教義を学ぶ仏教大学のカレッジ的な存在で、奈良時代以降の民衆救済を目的とした仏教の宗派とは異なります。ちなみに時代は少し下がりますが空海も東大寺に一時在籍しています。

そのなかにあっても道昭やその弟子とも言われる行基は各地で井戸を掘るなどの社会事業をしながら民衆に仏教を普及する活動を行いました。道鏡は行基のやり方を真似て聖に俗を持ち込んだと言われますが、その結果は後述するように大きく異なります。

ここから本題に入ります。668年に河内国(大阪府堺市)で百済系渡来人の一族に生まれた行基は農民のために田を開墾、溜池や橋を造るなどの社会事業を行いました。この事業を民衆を扇動する反政府的な活動と疑った朝廷は行基の活動を一時弾圧しますが、疑いの晴れた後は行基の民衆動員力を利用するようになり、聖武天皇が大仏を作ることを決定した時にも朝廷は資材と労働力を調達するために行基の人気を活用することになります。そして勧進(かんじん、寄付集め)の功績を認められた行基は僧の最高位である大僧正(だいそうじょう)になって大仏造営を行いますが、その完成を見ることなく749年に81才で病死。朝廷より菩薩(ぼさつ)の称号が与えられ行基菩薩と呼ばれた行基が入滅した3年後(752年)に東大寺の大仏が完成しています。

行基は入唐して僧正となった玄昉(げんぼう)、同じく僧正となった良弁などとともに僧正義淵(ぎえん)の弟子(でし)とされ、道鏡は同じ門下の弟弟子に当たります。また行基は法相宗開祖道昭の弟子であったとも言われます。

土木事業で功績を挙げた行基は渋温泉、湯田中温泉、山代温泉、山中温泉、東山温泉、塩江温泉などを開湯したとも伝えられます。有馬温泉とも縁があるとされることから「銀の湯」近くで行基像を見かけました。高松市にある空海が修行したと伝えられる塩江(しおのえ)温泉の「行基の湯」に立ち寄ったことを当ブログで紹介しています。

もう一人の道鏡は天皇位を狙った大悪人の怪僧として知られます。700年頃に河内国弓削(ゆげ、現在の大阪府八尾市弓削町)で生まれ、物部氏の流れを汲むと伝えられる弓削氏の出身であったことから、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれます。葛城山(かつらぎさん)に籠(こも)って修行し、僧正義淵(ぎえん)の弟子となると看病禅師(かんびょうぜんじ)として名を上げ、そして考謙上皇(こうけんじょうこう、女帝)の病気を治したことで、上皇のお気に入りになって次第に政治へ口を出すようになります。道鏡は少僧都、大臣禅師、太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)、次いで法王(ほうおう)にまで上り詰めます。法王位は聖徳太子が後世になって称されたことはありますが俗界の最高位である天皇に比肩(ひけん)する宗教界に前例のない最高位でした。

その3年後の769年に、「道鏡を天皇の位につけよ」という神託(しんたく)が豊前国(現在の大分県宇佐市)の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう、宇佐神宮)からあり、その確認のために和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡宮に勅使(ちょくし)として派遣されましたが、異なる神託を持ち帰りました。淳仁天皇(じゅんにんてんのう)を廃して重祚(ちょうそ、再即位)した称徳天皇(しょうとくてんのう、元孝謙天皇)は道鏡に皇位を継がせない旨を宣言してこの問題は決着します。そして天武系で最後となった称徳天皇が亡くなると道鏡は下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)の薬師寺(やくしじ)の別当(べっとう、補佐役)という低い地位に落とされて772年にその地で死ぬことになります。

この神託の存在そのものや内容・背景には諸説があるようです。和気清麻呂が大隈国(現在の鹿児島県)に流刑となり二度目の神託が否定されたことで道鏡が天皇位に就くことも不可能ではなかったと思われますし、天皇位を狙う大罪を犯したはずの道鏡は左遷されただけで一族も極刑に処せられていないことから、皇位をめぐる政争とその結果を正当化するために後付されたものとの見方が最近は有力のようです。流刑となっていた和気清麻呂は称徳天皇を継いだ天智系である光仁(こうにん)天皇の治世になると戻され、次の桓武(かんむ)天皇による長岡京遷都と平安京遷都で功績を挙げ、従三位(じゅさんみ)民部卿(みんぶきょう、現在の財務大臣)に任じられます。(続く)

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2010年1月24日 (日)

電気自動車元年(後編)

長々と電気自動車の講釈をしましたが120日から22日まで江東区有明の国際展示場(東京ビッグサイト)で開催された電気自動車の展示会「第1回EV・HEV駆動システム技術展」へ出掛けました。

注釈; HEVHybrid Electric Vehicle、ハイブリッド電気自動車)は内燃機関(エンジン)と電気モーターを組み合わせた自動車を指します。日本で実用化されたHVHEVがほとんどですから通常は両者を区別せずHVと呼ばれます。ちなみにトヨタのプリウスはシリーズ・パラレル方式(発進時や低速走行時はモーターのみを使い、中高速時には両者を組み合わせて動力とする)でガソリン消費を有効に減らすことができる複雑なHVJC08モード:30.4km/l1015モード:35.5km/l)、ホンダのインサイトはパラレル方式(エンジンが主動力でモーターはあくまでも補助動力とする)のシンプルなHV(JC08モード:26.0km/l、10・15モード:30.0km/l)です。また脱線してしまいました。

本題です。モーター、インバータ、二次電池、関連部品、充電設備のコーナーが並んでいました。その中から目に留まった展示品をいくつか紹介します。

注釈;インバータはモーターの回転数を制御する装置

YASKAWA(安川電機)のブースではEV用モーターとインバータを搭載したQMETドライブシミュレータで電気自動車のアクセル・レスポンスを体感できました。低速と高速モードの切り換えが円滑であることを強調しています。

 

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Nichicon(ニチコン)のEV用各種コンデンサとi-MiEVDC-DCコンバータ

 

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北陸電力と協力企業の共同ブースは電気コミュニティバス

 

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TORAY(東レ)の自動車用先端材料と富士電機の自動車用半導体

 

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TAKAOKA(高岳製作所)の急速充電器と自動車側の充電用ソケット

 

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人気が高いのはやはり電気自動車展示コーナーでした。多数の電気自動車が展示されているのを見るといよいよ電気自動車の時代が始まったと感じられます。各々の説明は省略しますが会場の雰囲気が写真から伝わるのではないかと思います。

ゼネラルモーターズ(GM)の燃料電池電気自動車シボレー・エクイノックス

 

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Takayanagimiluira

 

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タジマモーターコーポレーションのEVミニスポーツ

 

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三菱自動車工業のi-MiEV

 

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富士重工業のスバルプラグインステラとゼロスポーツのゼロEVセラビューバンLi

 

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タケオカ自動車工芸のミリュー

 

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私が期待した光岡自動車が出展していなかったのは残念でした。□

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2010年1月23日 (土)

電気自動車元年(前編)

昨年はエコカー減税が追い風となってハイブリッド車(HV)が人気を集め、トヨタのハイブリッド専用車「プリウス」が車名別売上台数で年間1位(208876台)に輝きました。このところ首位を独走していたスズキの軽自動車「ワゴンR」は僅差で2位に後退、そしてホンダのハイブリッド車「インサイト」も8位と健闘、ハイブリッド車の合計は34万7729台と登録車全体の11.9%とシェアを伸ばしました。

今年もエコカー減税とエコカー補助が継続されますから同様の傾向が続くと思われますが、昨年後半からハイブリッド車以外にも新しい動きが目立ってきました。それは電気自動車(EV)です。CO2排出対策としてはハイブリッド車(プラグイン・ハイブリッド車を含む)、BLUETEC技術などを用いるクリーンディーゼル車、燃料電池車、バイオエタノール燃料車、水素燃料車、そして電気自動車などがあることを当ブログの3年ほど前の記事で紹介しています。

未来の自動車にどの技術が選ばれるかは予断を許しませんが、燃料電池は実用化にまだ時間が掛かること、バイオエタノールは食料高騰への影響が懸念され、水素も供給インフラの課題が大きく、技術競争のトップグループから脱落しているようです。そしてハイブリッド車、クリーンディーゼル車、電気自動車の3技術が当面のライバルとして浮上しました。マニュアル車の多い欧州ではクリーンディーゼルが注目されていますが、オートマチック車が多い日本ではディーゼルに対する心理的な抵抗が強いこと、窒素酸化物(NOx)とナノ粒子(微細な燃えカス)の排出が多いこと(ガソリンエンジン車よりCO2の排出が少ない利点がある)など解決すべき課題が多いようです。

さて主題の電気自動車です。電気自動車は新しい技術のように思われるかもしれませんが実はガソリン車よりも長い歴史があるのです。ちなみに一番古い自動車は外燃機関を使う蒸気自動車。この蒸気自動車と同様に後発のガソリン車によって表舞台から駆逐(くちく)された電気自動車は、トロリーバス、遊園地やゴルフ場のカート、フォークリフト、早朝や深夜に使われる配送車など特殊な用途に限って使われてきました。その理由は走行距離や最高速度でガソリン車など内燃機関を動力とするものより劣っていたからです。エネルギーを蓄積するバッテリー(蓄電器)とモーターの性能および価格が弱点、つまりエネルギー当りの重量とサイズが大きく、かつ値段が高かったのです。

この電気自動車とガソリンエンジン車の利点を組み合わせた車がハイブリッド車(およびプラグインハイブリッド車)、名前のハイブリッド(異なる性質のもの組み合わせる)の所以(ゆえん)ですが、構造が複雑になり価格も高くなる弱点があります。電気自動車は原理的にガソリンエンジン車よりも構造が簡単なことから、上記の弱点が克服されれば従来のガソリンエンジン車を凌駕(りょうが)することが可能です。また企業のビジネス戦略から見るとハイブリッド車やクリーンディーゼル車の開発で出遅れた自動車メーカーは電気自動車に取り組まざるを得ないお家事情もあります。

バッテリーの課題はリチウムイオン二次電池の実用化で克服されつつあります。容量の小さなものは携帯電話やパソコンで数年前から使われているお馴染みの電池。また二次電池ではありませんが電気を大量に蓄えられるキャパシタも電気自動車に使うことができます。そして多数のメーカーから電気自動車がトライヤル的に発売され始めました。なかでも注目を浴びたのは米国ベンチャー企業Tesla社が発表したModel Sセダンで、発売は2011年の第3四半期の予定と報じられています。

日本で先行する三菱自動車は自社開発の電気自動車i- MiEV」を2006年に発売、昨年(2009年)には量産を開始、これをベースにした欧州向け電気自動車をフランスのPSAプジョー・シトロエンへOEM供給すると発表しました。大きなリチウムイオン電池を搭載した本格的な電気自動車として世界初と言われます。しかし課題はまだ残っています。価格が約460万円と高いことと充電に要する時間が約7時間(急速充電では80%まで充電するのに約30分)と長いことです。

もうひとつ注目したのは慶応義塾大学が開発した電気自動車「Eliica」(2003年発表)です。モーターを車輪の中に収容するインホイールドライブ方式(モーター総出力800馬力)を採用して最高速度は370km/hを達成しました。現状の2倍の航続距離300kmを目標に2013年の量産化を目指して2009年8月に発足した産学連携ベンチャー企業「株式会社シムドライブSIM-Drive)」が34の企業・自治体が参加する体制へと昨日付けで拡大されました。ここで開発される技術を使い参加メーカーがそれぞれ生産するオープンソースの新しい産業形態になるようです。(続く)

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2010年1月16日 (土)

富士山で奇蹟を祈る(その3): 二十曲峠

国道139号(富士パノラマライン)で富士吉田市へ向います。富士急ハイランド脇を通過して上宿交差点で国道138号(旧鎌倉往還)に入ると北口本宮富士浅間(せんげん)大社です。駐車場から歩く参道は年始客で混雑しています。

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富士山の伏流水を使う手水(ちょうず)が流れ出る龍の彫り物が印象に残りました。ご神木の「富士太郎杉」(推定樹齢1000年)は天然記念物に指定されています。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと、大山祇命(おおやまつみのみこと)とのこと。 

 

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突然、けたたましいサイレンの音とともに消防車が参道脇を走るのが見えました。すぐ近くに消防署があるようです。参道の北方、国道138号の反対側で消防車が放水するのが見えました。

 

浅間神社東交差点を右折して一直線の道を走ります。なだらかな勾配(こうばい)の吉田口登山道(県道701号富士上吉田線)で富士五湖道路を潜(くぐ)り自衛隊の北富士演習場に沿って坂道を上ると中の茶屋に到着。その先は未舗装の登山道になりましたが馬返しまでは車で行けるはずです。穴凹(あなぼこ)があちこちに開いていますから慎重にコース取りをしながら急坂を上ります。
   
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視界が突然開けると馬返しでした。車が10台ほど停まっており、登山姿の人が20人近く荷物をまとめています。ザイルを持っている人が多いことから岩場登りをしてきたグループのようです。

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女人天上(富士山遥拝所女人天上)は江戸時代に女性が富士山を遥拝できる山頂に一番近い2合目の眺望地点です。この時期にはダイヤモンド富士(日没)のポイントの一つになっていることから馬返しまで様子を見に来たのです。馬返しの周辺は高い樹木が茂っていて視界はありませんし、上空の雲は厚いようです。元F1レーサーの遭難が最近報じられたばかりですから、馬返しから3km近くもある女人天上へ登ってダイヤモンド富士を待つのは諦めて、次の候補地へ向うことにしました。

国道138号を山中湖方面に走ってその手前を忍野村方面へ反れました。県道717号で忍野村(おしのむら)から鹿留(ししどめ)林道へ向います。石割山(1413m)をかすめる「二十曲峠」(にじゅうまがりとうげ)がもう一つの候補地です。名前の通りに曲がりくねった山道が続いて日陰には溶けた雪が氷結している場所もありますから慎重に運転します。無事に二十曲峠へ到着、細長い公園のような場所に駐車しました。 

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まだ午後の2時で日没までたっぷり時間がありますから峠の周辺を徒歩で探索しました。鹿留林道は都留(つる)市へと続いていますが都留市側は雪が積もって通行止めになっています。小さな鳥居には大山祇の命を祀る「山の神」の名がありました。

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振り返ると忍野村の集落と富士山の裾野(すその)は確認できますが山頂付近はほとんど雲に覆(おお)われています。いつも聴いているTBSラジオの番組が流れる車内でしばらく休憩。時々車外へ出て思い出したように富士山の写真を撮りますが雲の様子はほとんど変化ありません。3時半になると番組が変わりました。 

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厚い雲の切れ間からかすかに太陽の光がこぼれてきましたがあっという間に通り過ぎてしまいます。そして気のせいかねずみ色の雲に白さが斑(まだら)に混じり始めました。ひよっとして可能性が出てきたのではないかと期待が高まります。私の祈りが通じたのでしょうか4時になると上空に青空が覘(のぞ)き始めました。そして横断幕を取り払うように富士山の手前を流れていた雲が薄れて行きます。そして富士山が見えてきました・・・!? しかしその形が変なのです。急な降雪で山頂の形が変わったのでしょうか。そんなはずはないとよく見ると富士山の山頂付近には帽子のような雲の塊が覆(おお)い被(かぶ)さっていたのです。 

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それでも青空にはその山頂へ近づく眩(まばゆ)い太陽が輝いています。あとは富士山が帽子を脱いでくれれば良いのです。まさに奇蹟が起ろうとしています。太陽がさらに山頂へ近づくと雲は横向きに被った鳥打帽(ハンチング帽)やベレー帽のようになり、そして正月のお餅のように横に伸びて行きます。雲が取れて欲しいと祈る私の念力が足りなかったのでしょうか、ダイヤモンド富士ならぬ「ダイヤモンド帽子富士」の瞬間を迎えました。写真がぶれないようにセルフタイマー・モードで何枚も撮影しました。

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太陽が姿を消すと急に薄暗くなってきました。隣で大きな三脚にカメラをセットした人はカメラに防寒カバー(?)を付けるとどこかへ行ってしまいました。その目的が理解できないだけでなく、無用心だなと思いましたが、道路が氷結する前に峠を下りることにします。坂道を下りきった内野集落を抜けると田園の先に富士山が広がっています。山頂を含めて富士山の全景が分かるほど雲が薄れてきましたが暗闇のベールも徐々に濃くなってきました。峠にカメラをセットした人はどうしたのだろうかと思いながら車を走らせると東富士五湖道路の山中湖ICです。中央自動車道で渋滞が始まったと伝える交通情報を聞いて御殿場方面へ向うことにしました。帰路は東名高速道路でと考えたのです。そして御殿場ICに入る直前に「秦野中井から17kmの渋滞」との交通情報が加わりました。もうちょっと早く伝えてくれれば・・・。レーン取りを上手く行うと渋滞のなかの運転も楽しく、厚木ICから大和トンネルまでの区間でちょっと徐行運転をしただけでした。

<同行者のコメント> 寒風に吹かれながら1時間以上もシャッターチャンスを待つなんて辛抱強いんですね。せっかく温泉で温まったあとに今度は2時間以上も峠に居座っていました。旦那さまが山の上で何やら呪いを唱える妖術使いだったことをはじめて知りました。ところで富士急ハイランドのジェットコースターを見ている私を気にもとめないで運転手さんはものすごいスピードで走り抜け、そして御殿場の素敵なフレンチ・レストランを見つけた私に以前立ち寄った蕎麦屋さんの話をしながら通り過ぎました。□

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2010年1月15日 (金)

富士山で奇蹟を祈る(その2): 紅葉台と富士眺望の湯「ゆらり」

もと来た道を戻って増穂IC近くの富士川大橋を渡り、県道4号で市川三郷(みさと)町に入りました。JR身延(みのぶ)線の芦川(あしがわ)駅脇の踏み切りを通過、県道36号(笛吹芦川市川三郷線)で山間に入り、徐々に高度を上げると路面が所々氷結しています。国道358号に入って上九一色の集落を抜け、精進湖トンネルを抜けると雪景色の精進湖(しょうじこ)に出ました。雲が掛かった寒々とした富士山が見えます。

 

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赤池交差点で国道139号へと左折、富岳風穴を抜けると紅葉台入口です。富士山が朝日に照らされて輝いていました。私の念力が2時間遅れで効いてきたようです。紅葉台(こうようだい)から見る富士山を期待しながら未舗装の悪路を1kmほど上りきると売店に併設された展望台がありました。入り口周辺は積もった雪が凍っています。

 

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客待ちで手持ちぶさたそうな店主さんに展望台の利用料金150円/人を支払い、周辺の山や施設を説明した案内書を手渡されて階段を上りました。

 

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屋上に出るとつい先ほどまでクリアーだった富士山が半分雲の中に入っています。雲が流されても次から次へと湧いてくるため富士山はなかなか全景を見せてくれません。

 

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見飽きたと言って同行者は下へ降りてしまいました。30分ほどが経過、「まだ撮影しているの。車に戻っているわよ!」と同行者の声が下から聞こえます。さらに10分ほど待つとかなり雲が取れてきました。

 

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「助さん、格さん、もういいでしょう」と水戸黄門の決め台詞を心の中でつぶやいて階段を下りました。富士山の中腹から次々と湧き出る雲が風に流される様子を見ていて今年のウィンフィル・ニューイヤーコンサートで指揮者のジョルジュ・プレートルさんが「素晴らしい!もう十分です!」とドイツ語で叫んで「常動曲」の演奏を終らせて聴衆を沸かせたことを思い出したのです。車内で待っていた同行者の物好きを揶揄(やゆ)する言葉に対し、「待てば海路の日和(ひより)あり」「慌(あわ)てる乞食(こじき)は貰いが少ない」、そして私の好きな言葉「念ずれば通ず」(一念通天)を並べる変梃(へんてこ)りんな受け答えをしながら紅葉台の悪路をゆっくり下りました。

 

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次の目的地は紅葉台から眼下に見えた富士眺望の湯「ゆらり」、冷えた体を暖めるのに好都合な場所です。道の駅「なるさわ」の裏手にある日帰り温泉で、宿初施設「富士緑の休暇村」が併設されています。石段を上った2階にある入口を入り、自動券売機で入泉料1200円/人を支払って受付に向います。タオルセットを受け取って、そのまま浴室へ向いました。入口は2階ですが浴室は螺旋階段で結ばれた1階にもありました。

 

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2階には大きなガラス窓越しに富士山が望める大浴槽「高見風呂」があります。露天エリアには壷湯「五右衛門風呂」が3つ、大き目の壷浴槽の中には踏み板や下駄ではなく木製のベンチが設置されていました。寒風に吹かれて肌寒くなり肩まで浸かると富士山が見えなくなりますが、内風呂との間にあるガラス窓に富士山がしっかり写っていますから、そのままの姿勢でしばらく湯を楽しみました。横のベンチに座る人が空くのを待っているようですから階下へ移動することにします。

石タイルが貼られた螺旋(らせん)階段の冷たさを足の裏に感じながら降りた1階には塩釜蒸し風呂と洞窟風呂が左右にありますが、その間を抜けて露天エリアの岩風呂へ向いました。壁面に岩をはめ込んで描かれた富士山が見事、こちらは熱めの湯で43-44度、左手にはジャグジーのように見えたジェット水流が噴出するジェットバス、右手には打たせ湯が付属しています。六角形をした温室風の施設が気になって入ってみました。「香り風呂」はこの週、オレンジの香り、38度と低めの湯ですがアロマテラピー効果があるそうです。これらの他に別途料金が必要となりますが、1階に砂むし風呂、3階にはかまど風呂や炭風呂など合計16種類の風呂があると説明してありました。

塩釜蒸し風呂と洞窟風呂に入ったあと内風呂で仕上げて休憩所でしばらく休みました。同行者が湯から上がって来ましたから、12時になるのを待って1階の食事処へ向います。私は好物のニシン蕎麦、同行者は蒸し鶏のクロス和え坦々麺と焼き海苔とチリメンサラダを注文。硬めで濃い味付けのニシン、ピリ辛の坦々麺、そしてドレッシングとシラスの味が美味しいサラダはいずれも期待以上でした。

   

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カウンターで料金精算をする私の横で同行者は肌に良いと説明されたものを何やら買い求めています。(続く)

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2010年1月14日 (木)

富士山で奇蹟を祈る(その1): 日出づる里(高下)

埼玉の城跡巡りの長文記事を書いていると好天が続く三連休も最終日、下り坂になるとの天気予報を聞きました。そこで連休明けの予定を繰り上げて次のドライブ旅に出かけることにします。今回のテーマは「ダイヤモンド富士」、天気の影響をもろに受ける自然現象ですから、早朝の空模様を気に掛けながらの決行です。これには私なりの理由がありますがそれは後で説明しましょう。

久しぶりの「七つ立ち」です。中央自動車道の双葉JCTから中部横断自動車道に入りました。現状の終点である増穂ICを出て国道52号(富士川街道)から県道406号の山道に入り、およそ20分(5-6㎞)で目的地に到着。予定した午前6時半を数分過ぎたところで時間の余裕は十分ありますがすでに車が2台停まっています。ここは増穂(ますほ)町高下(たかおり)にある関東の富士見百景に選ばれた「日出づる里(高下)」、山の傾斜地に造られた道路脇の細長いテラス(盛り土)です。

灯りが点在する増穂町の夜景から白み始めた東南方向に目を転じると、横に流れる低い雲の上に富士山の環雪部が浮かんでいます。このまま日の出を迎えればダイヤモンド富士が見られるのは間違いありません。

 

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地平線近くの雲が徐々に赤味を帯びてきました。三脚にセットしたカメラを十分チェック、あとはシャッターを押すだけと期待しながらその時を待ちました。この朝は富士山頂でカメラが三脚ごと転倒したような強風もありません。

 

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7時になると低い雲の小さな切れ間から朝日の強い光が漏れてきました。いよいよそのチャンス到来です。ブレ防止のためセルフタイマーの撮影モードにセット。

 

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ところがいつもの日の出とは何かが違うのです。低い雲の上に出た彩光が空一杯に広がらないのです。辛抱強く待ちます。そして太陽が現われました。しかしベールに包まれたよう。富士山頂ははっきり見えるのですがその後ろに薄い雲があるため、山頂近くで輝く太陽は肉眼でも見続けられるほど鈍い輝きで、まるで「おぼろ月」のよう。そして7時半頃には富士山の手前、雨ヶ岳(標高1772m)付近に薄い雲が広がって何とも冴えないダイヤモンド富士になってしまいました。富士山の山頂部がクリアーに見えたことで気を緩めて(念力を弱めて)しまったのが原因かもしれません。残念です。

 

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ここで解説です。太陽が富士山の頂上中央部に重なった状態をダイヤモンド富士と呼びます。朝日と夕日、一日2回の可能性があります。地軸の傾きのため、太陽が地平線を出る方角は夏至の頃に最も北に寄り、その後は方角が徐々に南に移動して冬至の頃に最も南になります。富士山の山頂とこの方角を結ぶ延長線上であればどこでもダイヤモンド富士が見られるはずです。そのうち冬至の頃に最も北の場所からダイヤモンド富士が見られる最適地が「日出づる里」なのです。大晦日と元日が正真正銘のダイヤモンド富士の位置関係でしたから、10日遅れのこの朝は「アラ還」(アラウンド還暦)ならぬ「アラ・ダイヤモンド富士」が見られることを期待したのです。

 

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「日出づる里」に隣接するように高村幸太郎の石碑が立っています。昭和17年に彫刻家で詩人の高村光太郎が馬の背にゆられてこの地を訪れたことが説明されていました。「ふりむく軒一杯の秋空に、びっくりする程大きな富士山が雪をかぶって轟くやうに眉にせまる。」と雄大な自然の美をこの地で歌ったそうです。左の文学碑には、私は読めませんでしたが、光太郎の直筆で「うつくしきものミ(満)つ」と書かれているようです。うつくしきものミつとは美しいものが3つあるということで、一つ目は富士山、二つ目は柚子、三つ目は住んでいる人の心の清らかさ、と言われます。(増穂町のhpによる)

 

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さらに道を進むと駐車場付きの大きなテラスがありました。「日出づる里農村公園」でこちらにもダイヤモンド富士を撮影する人の車が停まっています。機材を片付けているようです。一帯に柚子が実っていることに気付きました。そう言えば下の交差点で「ゆずの里」の看板を見かけました。県道406号の終点を確かめるために坂道を上ると三叉路の左手に「林道立石清水線起点」の標識があります。増穂町高下地区から鰍沢町(かじかざわちょう)十谷(じゅっこく)地区へと抜ける延長約4.3kmの林道です。

 

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右手に入るのは町営赤石高下林道で赤石地区まで約3km続くようです。(続く)

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2010年1月 9日 (土)

比企城館跡群(その3): 小倉城跡

日帰り温泉を堪能した後は最後の城跡に向います。「見晴らしの丘公園」がある仙元山(298.9m)の反対側にある小倉城跡へ行くためには時計回りと反時計回りのコースがありますが、ドライブの原則に従って反時計回りを選びました。ここで言う私の原則とは、左側通行の自動車にとって都合が良いことと、左に心臓がある人間にとって安心感があるコース取りです。屁理屈はともかく消防署(東)交差点を直進、JR八高線の上を跨いで青山陸橋(西)交差点を左折しました。

仙元山を左手に見ながら南下、県道30号(飯能寄居線)はときがわ町に入り、三叉路で県道171号(ときがわ坂戸線)にそれて東方向へ進みます。立ち寄ったことのある玉川温泉保養所はこの辺りだったと思いながら走ると「湯郷玉川」の看板を見つけました。名前が変わったのかそれとも新しい温泉が出来たのかと思いながらJR八高線の踏切を渡り、新玉川(西)交差点を左折、県道173号に入ります。嵐山町に入る直前、菩提の交差点を左折して1km余り走ると小倉集落に差し掛かりました。この辺りに違いないと左手の山裾を注意深く見ましたが、それらしき標識はおろか山に登る道も見当たりません。気がつくと槻川(つきかわ)を渡って嵐山町に入ってしまいました。道路脇に車が数台停まっています。もしやと思って車を停めると嵐山渓谷と大平山の案内図(緑のトラスト保全第3号地武蔵嵐山渓谷周辺樹林地)がありますがその地図では小倉地区が圏外となっているようです。

小倉城跡の探索を諦(あきら)めて仙元山の見晴らしの丘公園(203mのローラー滑り台がある)に上がって小川町周辺を眺めることにしました。ちょっとした峠を越えると見覚えのある国道254号の消防分署入口交差点に出ました。朝と同じルートを小川町まで走ります。消防署(東)交差点の少し手前に見晴らしの丘公園の案内表示を見つけました。西光寺の前を通過、山裾を回りこんで登り口に差し掛かると、何と言うことでしょうか! ゲートが閉まっており月曜日は休業と表示されていました。

このまま帰宅するのも心残りですからもう一度小倉城跡にチャレンジすることにしました。先ほどと同じ場所に到着。徒歩で探しましたがやはり見つかりません。ちょうど通りかかった年配の女性に尋ねることにしました。耳が遠いとのことで手のひらに指で文字を書きながら筆談をすると通じました。城山はもう少し戻ったところから登れることと石碑しかないことを教えていただきました。この情報が得られれば十分です。お礼を言って引き返しました。山の形から見て日枝神社の辺りから登れるのではと見当をつけました。日枝神社の石段を上りましたがその先は行き止まりで道がありません。

 

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自分の直感を信じて道のない傾斜地を登ると案の定、獣道(けものみち)のように踏み固められた尾根道に出ました。直感は確信に変わってどんどん登って行きます。400mほど登ると木漏れ日が明るくなり頂上が近いことを知りました。

 

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急な坂道を上りきったところでついに「北虎口」の案内板を見つけました。到着です。この尾根道は仙元山から嵐山渓谷に至るハイキングコースの一部になっているようです。

 

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右手の急斜面を登ると平らな場所に出ました。ここが本郭かもしれません。さらに先に進むと石碑が反対方向を向いて立っていました。「小倉城跡」と表示された一段低い場所が郭1(一ノ郭、本郭)で少し先まで広場が続きます。戦国時代に築城された松山城の支城で遠山右衛門大夫光景の居館跡と伝えられ、午前中に訪れた杉山城跡と菅谷館跡とともに国指定史跡「比企城館跡群」に指定されています。ちなみに武蔵遠山氏である光景は明智遠山氏である遠山金四郎景元(江戸町奉行で遠山の金さんと呼ばれた)と同様に美濃遠山氏の流れを汲んでいるそうです。

 

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右手に行くと「南虎口」で郭2(二ノ郭)へと続いていました。

 

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左手には石垣跡(この城の特徴である石積み)があり、その手前にも虎口のようなものがありました。解説図から見てこの東虎口は郭3(三ノ郭)へと続くと思われます。

 

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もう少し探索したいところですが道路脇に停めた車で待つ同行者が気になり下山することにしました。登って来た尾根道を下ると日枝神社の社殿裏に差し掛かりました。この尾根道はどこまで続くのかと進むと嵐山渓谷と小倉集落の分かれ道がありました。

 

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集落に向って直線的な道(木に目印がつけてある)を下りると墓地の裏に出ました。最初に城跡への入口を探した場所です。

 

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自動車道を200mほど歩いて車に戻ると同行者が車の外に出て待っていました。「遅い!」と言われるかと思いきや、「聖護院大根を頂けるんだって!」と声を弾ませています。話が飲み込めないでいる私に経緯を説明してくれました。畑仕事をする年配の男性といろいろ世間話をしたこと、そして食べきれない聖護院大根を土産にあげると言われたこと等。そこへ鎌を持った男性が現れました。収穫した聖護院大根を大きなビニール袋に入れていただいたあと同行者とともに立ち話になりました。戦時中には海軍で駆逐艦に乗る機関士だったそうです。小倉城跡まで登った話をすると車なら500mほど戻って林道に入ると楽に登れると説明してくださいました。おそらく南虎口へつながる道なのでしょう。早春には日枝神社の枝垂れ桜、秋には山の紅葉が綺麗で、それらを目当てに訪れる観光客が多いことも教えていただきました。そして玉川温泉保養所は経営が変わって最近名前も変更されたことも。

 

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日が傾いてきましたのでその親切な方にお礼を述べて小倉集落を後にしました。

<同行者のコメント> お城マニアの旦那様を待つ間に地元の方から昔話をいろいろ聞かせていただいたうえにご自慢の聖護院大根までいただきました。今年は正月そうそう縁起が良いようです。関越自動車道は渋滞が予想されるからと運転手さんが選んだ所沢経由のルートの大渋滞も気になりませんでした。□

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2010年1月 8日 (金)

おがわ温泉「花和楽の湯」

国道254号を小川町方面へ向います。拡幅工事が行われる国道の志賀交差点で旧道に入りました。前回と同じ大きな釣堀沿いのルートでちょっとした高みを超えると小川町です。町並みに入った消防署(東)交差点を右折、県道11号の陸橋で東武東上線を越えて最初の信号を左折しました。さらに次の信号を右折すると目的地のおがわ温泉「花和楽(かわら)の湯」(2004年オープン)が左手あります。交通整理する人の誘導に従って敷地内の駐車場に入って驚きました。営業開始時間の10時になったばかりなのに駐車場はほぼ満車なのです。左奥に数台の空きスペースを見つけました。

 

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小さな山を背にして建つ建物は和モダン、大晦日の朝のテレビ番組を見た同行者から聞いたように黒川温泉の雰囲気を取り入れて造られています。緩(ゆる)やかな勾配(こうばい)で左にカーブする石段を上がると入口です。俵を載せた大八車の奥にある大きな瓶(かめ)に蝋梅が生けられていました。新春らしい雰囲気が感じられる素心蝋梅(そしんろうばい)のようです。中国から渡来したロウバイ科の花木で蝋細工のような花が名の由来、英名のWinter Sweetはその香りからきているのでしょう。花言葉はゆかしさと慈しみ。花に見とれたちょっとの間にも入場者が次々に入って行きます。

 

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下足を抜けたカウンターには受付を待つ人の列ができています。後払いの料金は1350円と説明されました。日帰り温泉としては高めの料金設定ですが貸しタオルセット、館内着、岩盤浴利用が含まれて、時間制限もありませんから妥当かもしれません。そしてクーポン券を持参すると200円引きであることを知りました。迂闊(うかつ)でした。

 

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瓦工場の跡地に造られた日帰り温泉の館内は黒川温泉の旅館風に設(しつら)えられて入り組んだ廊下に特徴があります。そう言えば川崎駅近くの「志楽の湯」と似ています。「受け渡し処」でタオルと館内着の入ったビニール製手提げカバンを受け取って廊下の突き当たりにある浴室に向いました。男湯(殿湯)と女湯(姫湯)が向いあっています。脱衣場は狭いのですがロッカーは140もあり、受付で渡されたキーがロッカーを利用するために必要ですから、同時に入館できる人数を制限できるのでしょう。

 

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内風呂は井戸から汲み上げられる鉄分を含んだ鉱泉「金の湯」を使う大浴槽、水風呂と高温サウナ(むし風呂)、露天エリアには屋根が張り出した「帝(みかど)の湯」をはじめ、戦国湯巡り「風呂取り物語」として東屋にある浅めの「家康の湯」、つの岩風呂がつながった「信長の湯」と「秀吉の湯」と名付けられた計3つの岩風呂が上手く配置されています。露天風呂の「白金の湯」の泉質は強アルカリ性単純泉(ph10.1)、無色透明ですが硫化水素臭とヌメリが少し感じられます。「美人の湯」と呼ばれる所以(ゆえん)で、温度は37-38度と温(ぬる)めで長湯ができるように調整されています。

男湯と女湯の間にある岩盤浴「瓦黄房(がおうぼう)」にも入ってみました。記帳して順番を待つ仕組みですがちょうど名分空いており、30名ほどの人が横たわる薄暗い浴室内を注意しながらU字型に奥まで進みました。室温が高めに設定されているため直ぐに汗が噴出、入る時にアドバイスされたように15分ほどの利用に留めました。

 

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同行者と待ち合わせて貸切り風呂の手前で廊下を折れた休憩所「一休(ひとやすみ)」へ向いました。24畳ほどの広さがあり10名余りの人が思いおもいの姿勢で休息しています。11時半になりましたので早めの昼食にすることにしました。すぐ近くの食事処「楽膳」には順番を待つ人の列ができています。「カウンター席は空いていますが・・・」とのことで少し待つことに。分ほどでテーブル席に案内されました。私は田舎汁つけ蕎麦、同行者は天麩羅蕎麦と温泉たまごを注文。厨房が混雑していると言われて待つ間に足元が冷えてきました。周囲を見ると毛布などで湯冷めを防いでいる人もいます。

 

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それではと館内を探索がてら回廊で足湯の「道草」へ向かいました。うたた寝処「はなれ雲」やネイルサロン、手もみ処「はんなり」、アロマエステ「香来」などが続きます。昼時のせいか寒い回廊を歩いて足湯を訪れる人が居ないのか他には男性客がただひとり。大きな足湯は快適です。楽しんでいるうちに女性客も入ってきました。

 

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「奥の間」とカフェ&バー「花音(かのん)」の前を経由して楽膳に戻るとすでに蕎麦が配膳されていました。

 

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福井県産の玄蕎麦は期待通りでつけ汁も茄子や豚肉などの風味が私好みでした。食べ終わった12時過ぎには廊下に続く人の長い列がありました。わずか30分の違いですがやはり「早起きは三文の得」のようです。

 

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もう一度男湯に入ると先ほどまでの混雑が嘘のよう。露天風呂は貸し切りに近い状態でのんびりと湯を楽しみました。

 

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料金の精算をするために向ったカウンター近くのショップ「見上げ屋」で同行者は達磨の手ぬぐいを選びました。私が支払をしている間に同行者はカウンターに置かれたカバについて係りの人に質問をしています。箱根の天山で売られていたものだそうです。「平日はもっと空いていますからまたお出でください」と言いながら係りの人は礼状(割引券付き)を手渡してくれました。

 

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<同行者のコメント> 私が選んだ温泉は良かったでしょう。テレビの影響力は大変なものですね。お風呂で一緒になった方々もみなさんフジテレビで見たとおっしゃっていました。お湯が汚れていると指摘する人もいましたが芋を洗うような混雑ですからしょうがないと思います。また来ましょうね。(比企城館跡群 その3へ続く)

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2010年1月 7日 (木)

比企城館跡群(その2): 菅谷館跡

県道296号に出て嵐山町の中心部へ向います。嵐山三叉路で国道254号(旧道)に入り、嵐山駅(東)交差点を過ぎた上唐子北交差点を経由、国道254号バイパスを少し戻ると次の目的地である菅谷館跡(すがややかたあと)に到着です。そのすぐ手前の立派な施設が目に入って一時停止。独立行政法人国立女性教育会館NWEC:愛称ヌエック)、昨年11月の事業仕分けで話題になった施設でした。私は3年前、忠七飯を食べに隣の小川町を訪れた時に、予期しない(意外な)名前の施設を見掛けて気になっていました。長いエントランスと大きなゲートのある想像以上に立派な施設のようですが今回のテーマではありませんので先を急ぎます。

菅谷館跡の敷地にある「県立嵐山史跡の博物館」の駐車場に車を停めました。ちょうど9時になりましたが1月4日は休館のため車がほとんど停まっていません。前回通過した時に見かけた「国指定史跡菅谷館跡」の大きな石碑が交差点脇にありました。二重土塁と泥田堀の先は「三ノ郭」が右手に拡がっています。

 

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三ノ郭に建つ博物館沿いに続く真っ直ぐな道を歩くと三叉路に出ました。博物館を回りこむように左手に進むと「空堀道(からぼりみち)」、三ノ郭から二ノ郭に通じる連絡路と推定されると説明されています。道幅が狭く入り組んでいるために敵軍が容易にニノ郭に進入できないよう工夫されていたそうです。

 

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三叉路まで戻ると正面の小高くなった場所に石像「畠山重忠公像」が立っています。畠山重忠(はたけやましげただ)は平安時代末期から鎌倉期初頭にかけて活躍した桓武平氏の流れをくむ武将で、源頼朝の平氏打倒の旗揚げに参加、鎌倉政権樹立に大きな役割を果たしましたが、頼朝の没後は執権北条時政の謀略によって二俣川(現在の横浜市)で討たれました。その先のニノ郭は広場のようになっています。

 

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本郭に向うニノ郭内の道を進むと土塁で狭くなった虎口(こぐち、出入口)が迫り、その手前には深い堀が左右に伸びています。

 

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本郭の左半分は広場になっており右手にある林の中に細長い石碑が立っていました。

 

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近づいてみると「秩嶺蒼々槻川注々先賢之風山高水長」と書かれています。青々とした秩父の山々が遠望され、槻川(つきかわ)は美しく流れ、先賢の風は高い山であり水のように尽きることがないの意味でしょう。調べてみると陽明学者で右翼思想家の安岡正篤(まさひろ)氏が詠んだ漢詩でした。そう言えば女性教育会館前から二ノ郭と三の郭の間に抜ける砂利道に面して日本農士学校跡と財団法人郷学研修所(安岡正篤記念館)がありました。鎌倉武士の模範と言われた畠山重忠縁の場所に安岡氏が日本農士学校を設立、東京・小石川にあった八幡太郎義家公を祀る金鶏祀を金鶏神社として同敷地内に移しています。ちなみに畠山重忠公も産土神として祀られているそうです。昭和初期に安岡氏が開校した私塾「金鶏学院」の名も義家公に由来するとのこと

脇道にそれてしまいました。私は安岡正篤氏の信奉者ではありませんが城山三郎著「落日燃ゆ」を読んで感銘を受けた主人公廣田弘毅(元総理大臣)が安岡正篤氏の国維会と関係があったとされることから興味を持ったのです。本題に戻りましょう。

 

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本郭を横切ると「南郭」です。こちらにも大きな土塁と堀があります。

 

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細長い南郭を進むとニノ郭につながっているようですがもと来た道を引き返して堀沿いの二ノ郭に入ります。凸状に突き出た防御用の出枡形土塁を過ぎた弓なりのニノ郭の奥に何か大きな石組みが見えます。近寄ると忠魂祠(ちゅうこんし)でした。第二次世界大戦の戦没者を祀るものかと思いましたが、何と「西南戦争」以来、地元嵐山町出身者342柱の御霊を合祀したことが説明されています。

 

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もと来た道を戻って三ノ郭に入る林間の道を奥へ進むと蔀(しとみ)土塁があります。西ノ郭から二ノ郭の様子が見通せないようにするための目隠しでした。

 

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その先には三ノ郭の出入り口に正てん(土偏に占)門跡があり、三ノ郭側が西ノ郭側よりも約1m高くなった木橋が再現されていました。敵の侵入を困難にする工夫です。

 

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西ノ郭を横切ると小さな橋があって木立の先にはもう一つの駐車場が見えます。

 

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菅谷館跡の規模と縄張(郭の配置)は期待通りであったうえに予定しなかった国立女性教育会館と安岡正篤氏縁の地に巡り合うことができました。10時10分前になりましたので次の目的地へ向うことにします。(日帰り温泉へ続く)

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2010年1月 6日 (水)

比企城館跡群(その1): 杉山城跡

正月三箇日を自宅で過ごしたあとの1月4日に新年最初のドライブ旅へ出掛けました。日の出を待って自宅を出発、練馬ICから関越自動車道に入ります。年末に同行者から行ってみたい温泉が埼玉県にあると聞いたことで私が近いうちに訪れてみたいと考えていた埼玉県比企(ひき)郡の城跡巡りを思い立ちました。関越自動車道下り線は順調に流れており、8時頃には約50km先の嵐山小川ICを出ました。

県道296号の玉ノ岡中学校入口交差点を左折すると左手に小高い丘が見えてきました。どうやらこれが最初の目的地のようです。市野川を渡ると杉山城跡大手入口の案内板が左前方を指していました。積善寺へ向う狭い道を進みます。200mほど先の寺の右手に急な坂道が待ち構えていました。一気に上ると寺の裏手にあるちょっとした広場に出ました。右下方にあるのが玉ノ丘中学校のようです。

 

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車を停めて左手のなだらかな坂道を歩くと「出郭(でぐるわ)」の案内板が立っています。大手の前にある郭(くるわ)のことで一見すると無防備な空間のようですが土塁や溝を配することで大手へ直線的に進入できないような工夫がなされていたそうです。ちなみに郭とは曲輪(くるわ)とも呼ばれる土塁や土壁などで囲まれた場所を指し、江戸時代には丸と呼ばれました。つまり出郭は出丸のことなのです。

 

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大手口には、前方向が「外郭」、左手が「馬出し郭」と表示されています。坂道を木段で上ると左右に堀があり、左手へ直角に曲がる「横矢掛り」の先は大手(城の正門)です。横矢掛りは進入した敵を狭い通路に誘い込み横から矢で攻める仕組みのこと。

 

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大手から外郭に向かう堀には取り外し可能な木橋があったと説明されています。

 

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大手と「南三の郭」の間にあるのが「馬出郭」、南三の郭の虎口(こぐち、狭い入口のこと)に向うと堀の先にある左手の土塁にも横矢掛かりの機能を持たせています。

 

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南三の郭はかなりの広さがあります。土塁が行く手を曲げる「食い違い虎口」を上ると「南二の郭」、右手は「東二の郭」で左手は「井戸郭」に続きます。

 

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東ニの郭に向かう堀にも木橋が架かっていたようです。

 

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「本郭」(本丸のこと)との間には帯状の土塁「帯郭(おびくるわ)」があり、東ニの郭から一段低い場所に「東三の郭」が右手へと延びています。

 

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曲がりくねった堤防のような道を上ると階段の先に本郭の東虎口が待ち構えていました。本郭は平坦な場所で正面に史跡「杉山城跡」の石碑と説明文があります。その後ろの一段高くなった場所は櫓(やぐら)跡かもしれません。発掘調査の結果、15世紀末から16世紀初頭の頃に火災で廃棄されたことが分かったそうです。

 

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石碑の左手に小さな神社と石祠(稲荷社)がひっそりと祀られています。

 

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北方には雪を戴いた群馬の山々が望めました。左手に進むと「北二の郭」と「北三の郭」が北方向に細長く伸びています。

 

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南方向に進むと「井戸郭」、井戸跡がありました。南方向の視界が開けています。「南三の郭」の外側にある屏風状の土塁「屏風折り」の上を歩くと「馬出し郭」を経て「外郭」に戻りました。「屏風折り」の下は崖のように急な斜面が続いています。

 

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杉山城跡の規模はそれほど大きくはありませんが、山城の教科書(モデルハウス!?)のように土塁、堀、横矢掛けなどの防備が複雑に組み合わされた見事な縄張りがよく保存されている珍しい山城でした。築城された時期や城主などの詳細は分かっていないようで、参考として現地にあった説明文をそのまま引用させていただきます。

   

「国指定史跡 杉山城跡」(現地の説明文から引用)

2010_010400171_5 この城跡は、戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。総面積は約八ヘクタールにも及び、山の高低差を巧みに利用して十あまりの郭を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも屈指の名城と評価されています。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。「馬出(うまだし)」や「枡形(ますがた)」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛かり」の多用はその典型とされるものです。また、城の立地についても、北方に越畑(おっぱた)城高見城と連絡し、西方全体に鎌倉街道を見下ろすという絶好の条件を備えています。当時の社会情勢から判断して、松山城鉢形城とをつなぐ軍事上の重要拠点の一つであったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いのですが、地元では、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えています。(その2へ続く)

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2010年1月 3日 (日)

わが家の巣ごもり正月

今年も当ブログをご覧いただきましてありがとうございます。皆様はどのような正月をお過ごしになられたでしょうか。出歩くことの多いわが家は今年の三箇日も毎朝配達される年賀状を読みながらテレビで駅伝と音楽番組を観るだけの「巣ごもり正月」です。

大晦日には除夜の鐘ではなく「東急ジルベスターコンサート」(テレビ東京とBSジャパンで生中継)を聴いていました。15周年目のジルベスターコンサート2009-2010は初登場の大友直人氏指揮による東京フィルハーモニー交響楽団がホルストの名曲「木星(ジュピター)」をカウントダウン曲として演奏。2009年がガリレオが望遠鏡で天体観測してから400周年を記念する「世界天文年」であることによる選曲のようで、曲の演奏終了と同時に2010年を迎えました。

元旦はお屠蘇で新年を祝ったあと「ニューイヤー駅伝2010(全日本実業団駅伝)」(TBS系で放送)をテレビで観戦、毎年元旦の風物詩になっています。実力の伯仲するチームが競り合うレース展開がエキサイティングで好きなのです。昨年は1秒差で富士通が優勝、今年はその雪辱に燃える日清食品グループが下馬評通りでした。ルーキーの佐藤悠基さんが箱根駅伝で示した実力を遺憾なく第3区で発揮してトップに躍り出ると、後半は安定した走りで初優勝を飾りました。おめでとうございます。

お雑煮とお節料理だけを食べて過ごした元日の夜はもちろん「ウィーン・フィル ニューイヤー・コンサート2010」NHK教育テレビ)2010年の指揮者に選ばれたのは2008年に続いて2度目のジョルジュ・プレートル氏でした。昨年の指揮者バレン・ボイム氏も良かったのですが、一昨年に感激したプレートル氏の指揮振りが85歳を迎えた今年も健在でした。第1部の最初は小気味好い演奏の喜歌劇「こうもり」序曲、優雅なポルカ・マズルカ「女心」、骨太な演奏の「酒、女、歌」、ユニークな「常動曲」、第2部ではワルツ「ウィーンのボンボン」、ポルカ・マズルカ「心と魂」、オッフェンバックの「ラインの水の精」序曲、そして ヨハン・シュトラウスの代表作ワルツ「朝の新聞」を印象深く聴きました。

美術館内の彫像・絵画を前に踊るバレーダンサーが美しい。ポルカ「狩り」は軽快さに溢れ、演奏終了時に指揮者が銃を持ち出して・・・。楽団員全員から新年の挨拶があった後のアンコールは定番の「美しき青きドナウ」、ドイツからルーマニアまでの美しい風景が映し出されました。そして最後はお約束の「ラデツキー行進曲」、観客の手拍子を自在に指揮するのは見事、スタンディングオベーションによる歓喜のフィナーレを迎えました。今回、ダンサーの衣装をデザインしたのはバレンチノでした。デザイン画からドレスが出来上がるプロセスが、演奏の練習風景やフラワーアレンジメントとともに紹介されて楽しさに溢れる約3時間の音楽番組でした

例によって蛇足です。アンコール曲「美しき青きドナウ」の曲名を「美しく青きドナウ」と呼ぶことが多いようです。日本語としては後者の方が自然ですが、原題である"An der schönen blauen Donau"は美しく(かつ)青きドナウではなく、美しい「青きドナウ」と理解できますから前者が良いと思います。

12日は「箱根駅伝」(東京箱根間往復大学駅伝競争)。美しく冠雪した富士山に向って午前8時にスタート、昨年よりも早いペースのレース展開で波乱が予想されます。第2区では日本大学のダニエルさんが驚異の11人ごぼう抜きで2位に躍進して日本大学は出雲と全日本に続く大学駅伝三冠の可能性が出てきました。第5区の山登りは昨年と同じ東洋大学の柏原竜二さんが6人抜きの区間新記録更新で往路優勝に貢献、東洋大学の総合連覇に期待が高まる一方で日本大学はまさかの往路13位に終りました。

お昼過ぎにチビスケくん一家が遊びに来てくれました。元気に遊ぶチビスケくんの相手をしていると時間があっと言う間に過ぎてしまいます。午後5時からはチビスケくん一家と一緒に「ウィン・フィル ニューイヤー・コンサート2010」(NHK BShiで中継録画)を再び聴きました。チビスケくんの両親からウィーン旅行の思い出話を聞いていると出掛けてみたくなります。 注)13日の午前にもNHK総合テレビでダイジェスト版が放送

13日も再び「箱根駅伝」をテレビ観戦、復路も東洋大学が安定した走りで完全優勝を遂げました。駒沢大学が往路の8位から復路は最高タイムで挽回して総合2位になったことが印象に残ります。こうしてわが家の三箇日は穏やかに過ぎて行きました。午後7時からのNHKニューイヤーオペラコンサートを聴きながらこの記事を書いています。

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