« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月に作成された記事

2010年2月28日 (日)

悪人列伝(その3): 伴大納言

伴大納言義男(とものだいなごんよしお)は参議伴国道(とものくにみち)の第五子といわれるがその素性はよくわからないと筆者は書き始めました。佐渡で生まれた好学で才気のある青年が佐渡の国司か郡司に目をかけられたことで書生に取り立てられ、その紹介状を持って都へ上ったとする説を紹介。若い頃に佐渡に流されていた国道はすでに亡くなっていたが国道の遺族は好意をみせて、義男が邸に滞在するのを許したうえ、目端が利いて骨惜しみをしない義男を国道が佐渡に居た時に生まれた子として朝廷に届けたと推察する。最も可能性のあることとしながら小説的に過ぎると認めて弱冠(じゃっかん、元服のこと)前の経歴は不明と断っています。

朝廷の文書を管理する校書殿に勤務することになった義男は従四位であった国道の第五子であることから21歳での初叙を従七位下と推定。といってもその下には8階級もあり、貴族の子弟でなければ達するのに3-40年はかかる地位で、義男は国道の子になりすましたことで大変有利なスタートをしたのである。勤務ぶりも天皇にまで知られるほどで10年後の31歳になると正六位相当の大内記へと8階級昇進。平均すると毎年昇進したことになるのは彼の才腕と努力を語るものであろうと著者は述べる。記録によると義男は「残忍刻薄な性質で、弁口が達者で、役目に明察果断で、機敏であった。ただ寛裕高雅さがなく、人を傷つけ、人の欠点を弾劾排斥して遠慮会釈もなかった。権勢欲が熾烈で、上の人のごきげんとりが巧み」といやな性質だが、官僚としては出世型であるには違いないと著者は分析。

さらに毎年確実に昇進して34歳で最高官庁である太政官の右少弁という弁官にまで達する。分かりやすく言えば朝廷の文書を扱う部門の管理職。右少弁は6人居る弁官の最下位であるが2年後には弁官局内で義男を除く5人が全部罪人となる大疑獄が起こった。これを告発したのが義男である。詳細は省くがこの事件は法隆寺の僧が少納言登美直名(とみのなおな)を官物の払い下げに関する不法行為で太政官に訴えたもの。義男を除く5人はこの訴状を受理しようとしたところ義男だけが反対した。義男は直名と親しい仲で助けようとしたとみられる。5人は多数決で押し切って審議を始めようとすると義男は人を使って違法であると太政官長官に訴えさせた。義男は訴状に年月日が記載されていない、人を告訴したものは誣告(ぶこく)であった場合に告げた罪にあたる刑に処せられるから告訴者を拘禁すべきものをしなかった、僧が訴訟する時には僧衣を脱ぐべきであるがそうしなかった、寺院に関する訴えは僧綱所(そうごうしょ)で受理すべきであるが他の弁官はそうしなかったことを理由に挙げた。

5人はいずれについても現実を踏まえた正論で答えたが、義男は100年も経っている法律の条文を強引に当てはめ、しかも公罪ではなく私罪であると指摘した。前者は公事に係わる罪で、後者は私利私欲に係わる罪でより重い刑が科せられる。法律の専門家5人が下した鑑定は公罪と私罪でまちまちではあるが義男に有利な内容となった。朝廷で行われた公家から専門家への質問も詭弁(きべん)を弄(ろう)したもので公家によるものではなく義男がその背景にあると著者は見る。そして義男の狙い通りに私罪が決まり5人は弁官の地位を去る。裁判後も時の仁明天皇の覚えがめでたい義男の昇進は続き、翌年に従五位上となり、右中弁に昇進している。さらにその翌年に従四位下へ三階級特進、右大弁となる。その翌年には従四位になったあとは3年ほど昇進しない踊り場から正四位下、翌年に従三位になると国史「続日本後記」の編纂官の一人に任命されている。正三位、さらには中納言に任じられ、54歳で大納言になる。奈良朝に旅人が大納言になって以来、大伴氏で大納言になったのは義男だけである。

義男がさらに昇進するには右大臣を狙うしかないが全盛期の藤原氏が太政大臣と右大臣を抑えているので、左大臣であった嵯峨天皇の皇子源信(みなもとのまこと)を失脚させて順繰りで右大臣に這い上がることを義男は考えた。信の伝記によると義男は無記名で投書して左大臣源信が弟の中納言融(とおる)らと共謀して反乱を起こそうとしていると書き立て、世間に噂を流したが、この時は格別のことはなく治(おさ)まった。そうして大伴氏が献上した応天門とその周辺が焼失する事件が起こる。応天門は大内裏八省院の南面正門で、事が上手く運ばないことで義男が焦り、源信に罪を擦り付けようとしたのである。異常性格であり真の伴氏の生まれでない素性によると著者は述べる。

義男に動かされた右大臣藤原良相(よしみ)は兵を出して源信邸を包囲した。これに驚いた兄で太政大臣の藤原良房(よしふさ)は清和天皇に急ぎ申し出て、調査した結果、根もないこととして源信は許された。そしてその数ヵ月後に義男が放火犯人であると訴え出たものがある。宇治拾遺には放火の目撃者であった男が告訴をためらっていると、この男の子供が義男の家来の子供と喧嘩した時に別の家来が子供に暴力を振い、しかも義男の威光を笠に着たことが腹に据えかねて告訴したとする。裁判となっても義男はなかなか白状しないので義男の息子が白状したと嘘を告げたことで義男は罪に服し、伊豆に流された翌々年に58歳で死んでいる。「犯罪者は皆変質者だという学説があるが、義男はたしかに変質者であったようだ。あまりにも権勢にたいする欲望が強すぎたという点で。」と著者は結言する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月27日 (土)

悪人列伝(その2): 藤原薬子

中臣鎌足にはじまる藤原氏にはその子である不比等(ふひと)の四子から興(おこ)った藤原四家(南家、北家、式家、京家)があるが、そのうち式家が奈良朝末から急激に勢いを得たのは考謙上皇(称徳天皇)のあとを継いだ光仁天皇(白壁王)を推した藤原百川(ももかわ)の存在に因(よ)ります。著者はこの章で藤原百川の辣腕家(らつわんか)振りを詳しく述べるとともに藤原薬子(くすこ)がその兄清成の孫娘であることを家系図で紹介。光仁天皇の子、桓武(かんむ)天皇の遷都にも触れて、薬子の父である藤原種継が長岡を視察後に造営使に任命されて新都を造営中に暗殺される経緯を説明。桓武天皇の弟である早良(さわら)親王が遊幸(遊行)を好む桓武から任された政務を種継に批判されたことを恨んだとする説を紹介、筆者は桓武と相良の反目に藤原氏と大伴・佐伯氏など古い豪族との権力闘争にあると見る。これにより早良親王は淡路へ流される途中に河内で絶命、大伴氏一族も処罰されます。長岡京が造営なかばで平安京に再遷都された理由は不明としながらも、和気清麻呂が密かに献言したとの記録を引用、相良の怨霊(おんりょう)に対する恐れが強かったことによるとの説を筆者は支持。なお桓武天皇は相良親王に崇道(すどう)天皇を追称しています。

薬子(くすこ)が登場するのもやはり後半になってから。桓武天皇の子、安殿親王(あてしんのう)の妃である帯子(たらしこ、百川の娘)が病死したのちに同じ式家の中納言藤原縄主(ただぬし)と結婚した薬子は長女が選ばれて安殿に仕える宮女として東宮御所入したことで自分も宮女として仕える。詳しい記録が失われているとして薬子の年齢を詮索(せんさく)、32あるいは33歳と見た。薬子は娘のご亭主的立場にある9歳ほど歳下の安殿親王(皇太子)と通じ、これを知った桓武天皇に東宮御所を追い出された。その間に中納言で東宮大夫(とうぐうだいぶ、東宮御所長官)であった藤原葛野麻呂とも男女の関係となっている。桓武天皇は葛野麻呂を太宰大弐(だざいのだいに、次官)として九州へ去らせたあとに薬子の夫である縄主を八年間も東宮大夫の任に当たらせた。安殿が皇位について平城(へいぜい)天皇として即位するとすぐ薬子を宮中に入れている。平城天皇は薬子が死ぬまでの5年間縄主を大宰大弐として九州に留め置いた。筆者はこれを薬子が平城を説得したものとみる。遣唐使の任を全うした葛野麻呂は従三位に叙せられ、桓武の死後は東宮大夫に返り咲いていたが、1年後には地方政治を観察する観察使任じられたことを平城天皇の嫉妬かもしれないと解釈。

薬子の父、種継(正三位中納言)が太政大臣を追贈されたのも薬子の計らいとみる。病気がちになった平城天皇は嵯峨天皇への譲位を決意、退位して平城(奈良)へ移って宮殿を造営する。しかし嵯峨天皇が政策を見直すとこれに反発して上皇の詔(みことのり)を出す。上皇の命令を受けて都を平城(奈良)に戻そうと動く一方で嵯峨朝廷は壬申の乱に習ったのか東国を固めた上で乱暴な振る舞いが目に余った薬子の兄仲成(なかなり)を捕えて、薬子の罪も非難する詔を発布した。さらに坂上田村麻呂を大納言に昇任させて武(軍事力)を固めた。平城上皇と薬子は奈良にいる部下を引き連れて東国へ向おうとしたが田村麻呂が宇治と山崎の両橋および淀を固めたため平城の宮に戻る。平城上皇は髪をおろし、薬子は毒を仰いで死んだ。この事変のために最も栄えていた式家は急速に衰えて、これまであまり権勢があったとは言えない北家の隆盛時代が到来、その流れは現代にまで五摂家(ごせっけ)として続くことになる。

美貌は女の天与の財産であるが美人薄命と言うようにその人の運命の起伏が大きい。古来女性で悪人と伝えられる者で美貌でなかった者はないと著者は言う。美貌は他の能力と違って人間の最も弱いところに訴えることによって力となるものであるから、美人で政治上の最高位に上った人が古来よく言われないのは世の東西を問わないとする。女の悪人たる資格は美貌だけではなくすぐれた才気と旺盛な権勢欲の三つ、これらを兼備した女性は大抵の場合悪人となる。薬子はこの資質を持っていたと言えるが、その運命を決定的にしたのは彼女が平城に逢ったこと、不運な出逢いであったとする。「ぼくはあわれむべきか、にくむべきか、自らよくわからないのである」と筆者は結んでいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月26日 (金)

悪人列伝(その1): 蘇我入鹿、弓削道鏡

作家海音寺潮五郎さんの「悪人列伝」を読みました。先に奈良仏教を調べるとともに黒岩重吾著「弓削道鏡」で道鏡のことを詳しく知ったことから悪人とされた歴史上の人物に関心を持ったのです。「悪人列伝」にはもちろん道鏡も含まれています。「列伝」とは個々の人物の一生やその時代を複数書き並べたものです。

 

明治時代中期から流行し始め、森鴎外さんや幸田露伴さんなど著名作家が積極的に取り組んだことで「史伝文学」というジャンルが人気を集めました。幸田露伴さんは源頼朝、平将門、蒲生氏郷、源為朝、武田信玄などの「史伝」を明治末期から昭和初期にかけて発表しています。この「史伝」を後年になって復活させたのが海音寺潮五郎さん。ちなみに「史伝」は歴史小説と異なり、歴史的資料をもとに著者の推測によって文学化したもので、著者による創作を極力排除した史実の上に成り立つ文学です。

 

昭和34年(1959年)から娯楽雑誌「オール讀物」に連載された海音寺潮五郎さんの「武将列伝」は悪源太義平(源義平)、黒田如水、楠木正儀、斉藤道三、勝海舟、徳川家康などのべ33人の歴史上の人物が描かれています。そして「悪人列伝」は「武将列伝」に続く形で「オール讀物」に掲載されました。「武将列伝」の2作目に登場する悪源太義平は源義朝の長男で頼朝と義経の異母兄に当たりますが、悪源太(あくげんた)の「悪」は「剛の武者」の意味で現代語の「悪」とは異なります。

 

さて本題です。「悪人列伝」(古代編)に収録された歴史上の人物は上記の雑誌に掲載された24人から奈良時代と平安時代の6人(蘇我入鹿、弓削道鏡、藤原薬子、伴大納言、平将門、藤原純友)が選ばれています。当ブログで紹介した蘇我入鹿、弓削道鏡、平将門についてはある程度の知識を持っていたため楽しみながら読むことができ、そして残りの3人については新鮮な驚きを持って興味深く読みました。巻末の解説文で文芸評論家の磯貝勝太郎氏がこれらの史伝から人生智を得られるだけでなく人間学を学ぶことも出来るとしたことは首肯(しゅこう)できます。著者がまとめた時代背景と人物像をできるだけ伝えようと努力したため長文になりすぎた人物もありますが、6人のうち興味のある人物の記述だけでも拾い読みしていただければ幸甚です。

 

蘇我入鹿

 

蘇我(そが)氏は葛城山の東麓地方を本拠とした豪族ですが、河内の石川地方から進出してその地に住みついたと伝えられます。すなわち瀬戸内海水運(あるいは朝鮮との交易)に影響力を持つことで渡来人とも深い関係があったようです。朝廷の大蔵(財産)を管理する役目を得たことで勢力を拡大、天皇家との婚姻関係で天皇家に次ぐ権力を手に入れます。「行基と道鏡」の記事で書いたように物部氏を滅ぼしたあとは他の豪族を圧倒して天皇と並ぶ存在になります。祈祷力(巫女的な力)が天皇(当時は大王と呼ばれた)の重要な資格であった時代です。蘇我氏の勢力が最も拡大した蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子の時代には甘樫(あまかし)の岡に邸宅を二つ営んで蝦夷の家を上の御門(みかど)、入鹿の家を谷の御門と呼び、入鹿のことを王子(みこ)と呼ばせたとの記録を著者は引用します。

 

蘇我入鹿が山背大兄王(やましろのおおえのおう、聖徳太子の子とされる)一族を殺してしまうと、大和豪族の中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中大兄皇(舒明天皇と女帝皇極天皇の子)を押し立てて蘇我氏を倒すことを計画。朝鮮使節の受入れを偽って蘇我入鹿を誘(おび)き出して殺害したのが乙巳(いっし)の変(大化の改新)、天皇家と並ぶ大豪族がすべて滅びたことで天皇制が確立します。つまり入鹿父子が悪人とされたのは、天皇家に対して不臣であり、別王朝を立てたからですが、この非難は天皇制が確立した以後の倫理を基準にしての非難であると著者は言います。さらにその古代社会においては歴史の自然の流れであったに過ぎないと思うと述べています。

 

弓削道鏡

 

海音寺潮五郎氏による史伝の常としてこの章でも歴史的背景、孝謙天皇と藤原仲麻呂について半分の紙面を割いて詳しく述べて、道鏡が登場するのは後半になってからです。「弓削道鏡」の記事と重複しますので詳しい説明を省略、この章のポイントのみを説明します。著者は道鏡が物部氏の子孫であると解釈、義淵(ぎえん)僧正の弟子となり葛城山(かつらぎさん)で苦行を極め、考謙上皇が近江の保良宮(ほらのみや)で病気になった時に、道鏡の評判を聞いて、これを呼んだとの記録を引用しています。この後も恵美押勝(藤原仲麻呂が考謙天皇からもらった名前)についての記述が続きます。押勝と疎遠になった考謙上皇が道鏡と親しくなり、道鏡を太政禅師に任命、これを辞退する道鏡の辞表を却下したことに言及。たとえ後に野心家になったにしても、空恐ろしくなったというのが自然の感情であろうと著者は擁護します。

 

道鏡に対する愛情が高まる一方の称徳天皇考謙上皇が再即位)は河内の弓削寺に参詣し、道鏡を太政大臣禅師に任命、河内和泉両国の調(ちょう、税金)を一年間免除、道鏡を法王に任命。そして称徳天皇はこの地に西京(副都の由義宮、ゆげのみや)を建設します。称徳天皇が没した後は道鏡が先帝の寵臣(ちょうしん)であるというので、朝廷はこれを殺さず、下野(しもつけ、現在の栃木県)の薬師寺別当(補佐役)として左遷します。道鏡事件はもちろん、恵美押勝事件についても天皇専制権絶頂の時に考謙のような人が皇位にあったために起こったことと著者は言います。そして考謙の愛人になったばかりに二人とも悪人になったしまったと同情するとともに、道鏡を悪人にする考えは鎌倉時代になって出たと著者は推定します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月24日 (水)

春の訪れを告げる花椿

昨日は3月下旬の陽気になり、春を感じさせる柔らかな雲と暖かい日差しの下で、月例のゴルフコンペを楽しみました。その前日のことですが、伊豆へのドライブ旅で時間がなくて見逃した椿の花を求めて、近くの公園まで散歩に出掛けたのです。片道30-40分のルートにアップダウンの坂道が続きますからゴルフの準備運動になったはずですが私のスコアが芳しくなかったのはひとえに練習不足のせいでしょう。

2010_02220013_2 椿(つばき)はその字が示すように春を代表する花木(かぼく)です。昔の人は鰆(さわら)と同様に季節を象徴するものと考えたのだと思いますが、漢字を誤って用(もち)いたため中国語では別の花木をさすようです。椿は鎌倉時代から室町時代にかけて一世を風靡(ふうび)した春の花で、華道や茶道が流行したこの時代に公家、僧侶、武士たちの間で愛され、その時代に栄えた城下町を中心に広まりました。これを東アジアに来た宣教師のカメルさんがヨーロッパに持ち帰ってヨーロッパでもブームになり、この宣教師の名がそのまま花の名前「カメリア」になったそうです。

2010_02220009 日本の椿は藪椿(やぶつばき)が原種で、学名をカメリア・ジャポニカと言うように日本固有種、花が咲く期間は長く、早咲きのものは10月から、遅咲きのものは4月まで観賞できるようです。花が散る時は花びらが一枚ずつではなく花全体がポロリと落ちる特徴があります。また開花した後に出来る実には油分が多くて椿油が採られることも良く知られます。椿の仲間には小振りの花を咲かせる侘助(わびすけ、花言葉は簡素・控えめ)は風情があることから人気があります。広辞苑によれば名前の由来は朝鮮から侘助という人が持ち帰ったことによるとしていますが、茶道のワビ(侘)とスキ(好)の複合語である、あるいは千宗易の下僕の侘助にちなむとする説も。

2010_02220004 花言葉辞典によると椿の花言葉は「理想の愛」「謙遜」、赤い椿は「控えめな愛」「気取らない美しさ」、白い椿は「申し分のない愛らしさ」「理想的な愛情」「冷ややかな美しさ」です。また「つばき」の読み方の由来は「光沢がある」という意味の古語である艶から「艶葉木(つやはき)」と呼ばれたから、葉に厚みがある意味の「厚葉木」、強い葉っぱの木の意味の「強葉木」など多くの説があります。

2010_02220041 椿の花の形は一重が多いのですが八重咲きなど多様、花の色も白色から桃色、そして赤色や紫色まで多彩なことが相まって椿の魅力となっています。上の写真は園内で見つけた形状の異なる4種類の花です。

椿の花で私が連想したのは花椿を商標登録した化粧品会社の資生堂です。椿油が古くから髪の毛を美しくする髪付け油として使われたことと関係があるのではと思って調べてみました。やはり大正4年(1915年)に商標登録された花椿は当時人気商品であった「香油花椿」をモチーフとしてデザインされたそうです。その他にもこの会社が明治5年に銀座で創業した時に出雲との縁を深めようと街路に出雲椿(藪椿)を植えたことでこの通りが「花椿通り」と呼ばれるようになったと言う話もあるようですから、やはり椿と縁の深い会社のようです。

公園内には椿の花が咲き始めていました。2月下旬から3月上旬が最盛期でしょう。

 

2010_02220091 
2010_02220092_2  

 

 
その他にも春の花が咲いています。
 

白梅
2010_022201042010_02220022 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紅梅

2010_02220087 
 
 
 

 
 

 
 
 




福寿草(ふくじゅそう)
2010_02220035









 
 
 
 
蝋梅(ろうばい)
2010_02220084
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
サンシュユ   

2010_02220058 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
<同行者のコメント> 旦那さまは花の撮影で忙しく公園内を歩き回っていましたが、私はあちこちにある池でカルガモたちがそれぞれつがい(夫婦)で仲良く泳ぐのを眺めていました。昨年の秋に訪れた時と同じ風景です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月21日 (日)

ツイッターをはじめました

最近、とみに流行しているのがツイッターです。ブログ歴が4年半になる私は、メッセージの送り手と受けての距離が近すぎるSNS(Social Network Service)には興味がなく、日記のように日々の想い出や想いを書き留めるブログ一筋で来ました。しかしブログやSNSとは異質な「ツイッター」には以前から関心を持っていました。そして私が利用するブログサービス「ココログ」が今月からブログとツイッターの連携を開始したのを機にツイッターへ加入することにしました。ニュース報道によるとツイッター発祥の地である米国ではオバマ大統領などの著名人がツイッターを利用、2008年に日本語サービスが始まったことで日本でもソフトバンクの孫社長、楽天の三木谷社長などIT企業トップ、芸能人、そして鳩山首相をはじめとする政治家も使っていると報じています。

ツイッター(Twitter)とは「さえずる、ペチャクチャしゃべる、クスクス笑う」という意味の英語です。つまり不特定多数の人がお喋(しゃべ)りできる仕組みのこと。もちろん人のお喋りを聞くだけの寡黙(かもく)な利用者も多いようです。初心者の私はまだその範疇(はんちゅう)を出ていませんが・・。

ツイッターを知るにはその公式ナビゲーターを読むのが早道です。そこに説明されているようにツイッターを利用するための手続き(登録の仕方)は至って簡単。ブログの登録と同様に、ログイン画面で名前・ユーザー名・パスワード・メールアドレス(Twitterからの連絡用)を入力するだけです。名前は本名でもニックネームでもかまいません。ユーザー名はログイン時やユーザーページのURLに使われるものでアルファベットを使います。この入力の後に、不正なアカウント作成を防止(ネットへのアクセス元確認)するため、画面上に表示された英単語を2つ入力する必要もあります。これらの入力が完了すれば自動的にアカウントとユーザーページが作成されて直ちに利用可能となります。なお利用料金が無料であることも魅力。

ツイッターは利用者の「つぶやき」をひたすら更新するシンプルな Webサービスです。ユーザー登録(上述)を行うと自分専用のページが作成され、そこから「つぶやき」を発信できます。個々のつぶやきにはユニークな URLが付与され、読む人を限定する条件設定をしなければ、誰でも読むことができます。ブログよりも手軽に書き込みができる(小さなブログのようなサービスである)ことから「ミニブログ」と呼ばれることもあります。 

登録した直後にツイッターからメールで送られて来る「ユーザーページのURL」を経由、あるいは直接「ログイン用URL」にアクセスすればあなたもツイッターの利用者です。日本ではツイター利用者のことを「ついったー」と呼ぶようです。ツイッターのログインにアクセスしてログインをクリック、ユーザー名とパスワードを入力すると「いまどうしてる?」「いまなにしてる?」あるいは「What happening?」「What are you doing?」などと聞いてきますから140字以内の短いつぶやきを日本語あるいは英語で入力してください。あなたが入力したつぶやきは世界中のツイッター利用者が読むことができます。つぶやきを読むだけでしたらツイッターに登録しなくても、ツイッターのホームページにアクセスしてユーザー名で検索すれば、そのつぶやきを読むことができます。例えば私のつぶやきは私のユーザー名である「onsendaisuki_dr」で検索するか、私のつぶやきに直接アクセスすれば読むことが出来ます。また同じホームページでキーワードを入力すれば通常のインターネット検索と同様にその言葉を使った「つぶやき」を見つけることも出来ます。

世界中で何千万人もが利用するツイッター上のつぶやきは、上述したように名前やキーワードで検索して選び出すことができますが、自分をフォロー(受信者)に指定すればそのつぶやき(発言)が自動的にあなたのユーザーページに送信されて来ます。同じ趣味の人や気が合う人が見つかればその人やグループに限定してつぶやきを送ること(ダイレクトメッセージ)も可能です。様々な利用方法(設定投稿フォローコミュニケーション)が可能ですから工夫すればあなたの希望にピッタリの使い方ができるでしょう。初心者の私はまだ良く分かっていませんので現在模索中です。

最後にツイッターを使っている著名人を適当にリストアップしますのでアクセスしてみると今現在の行動や考えが分かって面白いかもしれません。カッコ内のユーザー名をクリックするとそのつぶやきにアクセス出来ます。

孫正義(masason

三木谷浩史(hmikitani

鳩山一郎(hatoyamayukio

茂木健一郎(kenichiromogi

吉田照美(tim1134

伊集院光(HikaruIjuin

小島慶子(kirakira954

多くの地方自治体、企業、新聞社、放送局などもツイッターを利用、そして変り種としては、渋滞情報を提供する関東(KantoJutaiBot)や関西(KansaiJutaiBot)など、天気予報のウエザーマップ(wm_osaru)や日本気象協会(tenkijp)、地震速報(earthquake_jp)もあります。

英語の得意な方はオバマ大統領(BarackObama)、ビル・ゲイツ(billgates)、映画監督マイケル・ムーア(mmflint)などにアクセスすると良いでしょう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月19日 (金)

南伊豆・早春の花巡り(第3部) 河津川の河津桜

三番目は河津川沿いの河津桜です。訪れた2月6日から「河津桜まつり」が開催されていました。この河津へ桜を見に来るのは3度目ですから会場の様子は知っているつもりでしたが河津駅を過ぎた会場の奥にカーネーション見本園(12月20日-5月9日開催)があることに気付きました。大看板の裏は大きな駐車場と仮設公衆トイレがあります。

 

2010_02060397   

 

日が傾いてきましたので河津中学校の脇から河津川沿いの桜並木「菜の花ロード」だけを歩くことにしました。先に訪れた青野川に比べると、こちらの河津桜は年季が入って見事で、開花状況も四-五分とやや進んでいるようです。

 

2010_02060398 
2010_02060399 
2010_02060400 
2010_02060402   

 

そして川側の桜並木と反対側のところどころで咲く菜の花がトンネルのように見えます。

 

2010_02060404 
2010_02060406 
2010_02060407 
2010_02060408   

 

初日にもかかわらず花見に訪れる観光客が多く、土産物屋や飲食物を売る屋台はかなり賑(にぎ)わっています。駅前方向へ伸びる桜並木にも足を伸ばしたいところですが、日は山陰に隠れ始めましたので、帰路に着くことにしました。

 

2010_02060410 
2010_02060415 
2010_02060416   

 

大室山山麓(さくらの里)の寒桜、小室山公園の椿、熱海梅園なども時間に余裕があれば立ち寄る候補地と考えていましたが今回は残念ながら時間切れです。伊東市に入って赤沢日帰り温泉館を2kmほど過ぎた「あかざわひものセンター」に立ち寄りました。これまでも国道135号を走る時に大きな赤沢観音が気になっていた場所です。
 
2010_02060418 2010_02060421
   
   

夕闇が迫る国道135号ではいつものようにノロノロ運転がはじまりました。伊東市の中心部を抜けるとやっと順調に流れはじめ、熱海を過ぎると海岸線が灯りの点線となって見えます。小田原近くでふたたびノロノロ運転がはじまったところで迷わず西湘バイパスの石橋ICに入りました。思ったよりも車の少ない西湘バイパスと小田原厚木道路を利用して午後7時半頃に帰宅できました。

帰宅後に観た午後10時のテレビ番組は西湘バイパスが事故のため閉鎖されていることを伝えました。インターネットのニュースをチェックすると石橋IC近く(100mほど東)で午後時過ぎに正面衝突事故が発生したのだそうです。我々が通過したわずか1時間後のこと。上り車線を走るワゴン車が対向車線にはみ出して下り車線のワンボックスカーに衝突したようです。この場所は渋滞する国道135号(上り)から西湘バイパスに入った直後の片側一車線区間で中央分離帯にはプラスチック製のポールが並んでいるだけ。そして首都高速道路のようにコンクリート壁が両側にあるため狭く感じました。

渋滞する国道135号から西湘バイパスの直線的な区間に入ってスピードを急に上げたことが事故の背景にあるのではないかと推測しました。私の40年以上に亘る運転経験からこの場所のように運転モードが大きく変わる時には細心の注意を払って運転する必要があると考えます。事故の危険性があるだけでなく、ねずみ捕り(交通取締り)も見通しが良くなった直線区間で・・・。事故に遭われた方々は本当にお気の毒です。 

<同行者のコメント> 水仙はきれいでしたが桜はまだ早すぎました。旦那さまに連れられてこれまで何度もつぼみの河津桜を見に出掛けています。今回は花が少し咲いていましたが・・。でも帰りに魚の干物をいっぱい買えましたから満足です。□

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月18日 (木)

南伊豆・早春の花巡り(第2部) 青野川の菜の花と河津桜

二番目は下田市の南西に隣接する南伊豆町の青野川です。金谷旅館の千人風呂を日帰り湯で利用した時に休憩室に置かれた地元新聞で前日の2月5日から始まった「みなみの桜と菜の花まつり」の記事を読み、その会場へ立ち寄ることにしたのです。河津桜の本場である河津町よりも後発の花見スポットで、川沿いに約1000本あるという河津桜が二・三分咲き、広さ約3ヘクタールの休耕田を利用した菜の花畑は五分咲き、3月10日まで開催されるとその記事は伝えていました。

国道136号を西方へ7-8km走った日野(ひんの)交差点で青野川沿いに出ました。国道と青野川に挟(はさ)まれた田圃(たんぼ)が黄色い花で覆(おお)われています。

 

2010_02060369   

 

さっそく菜の花畑に向いました。木道が花畑の中に設置され、「菜の花ウェディング」と書かれた看板があります。ここで挙式できるそうですが、2月初旬は肌寒いからでしょう、それらしき様子はまだありません。木道を奥まで歩くと青野川の堤防に出ました。

 

2010_02060349 
2010_02060351 
2010_02060367 
2010_02060353   

 

堤防上には河津桜の並木が続いていますがまだその蕾(つぼみ)は固いままです。新聞記事にあった二・三分咲きの表現は!? 誇大表現ではと、ちょっとがっかり!! 

 

2010_02060359 
2010_02060354   

 

朱で塗られた出会い橋を渡ると仮設駐車場にまつり会場の案内図があります。

 

2010_02060360   

 

車に戻って青野川沿いの国道136号を走りました。案内図を参考にして桜の様子を観察すると、桜の花がちらほら咲いているのが見えますので、「青野川ふるさと公園」の駐車場に車を停めて堤防上を歩きました。こちらのエリアでは河津桜が木によって二・三分咲きと言えなくもありません。

 

2010_02060390 
2010_02060392 
2010_02060385 
2010_02060373 
2010_02060383   

 

期待を膨らませて加畑橋のひとつ手前の宮前橋まで歩きましたが、その先も咲き具合に変化は見られません。写真は宮前橋から対岸の上流方向を撮影したものです。

 

2010_02060389 

 

予定していなかった青野川であまり時間を過ごすと本命の河津町に立ち寄る時間がなくなりそうです。急いで下田方面へ引き返しました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月17日 (水)

南伊豆・早春の花巡り(第1部) 爪木崎の野水仙

肩の凝る記事がまた続きましたので、リラックスしていただけるよう、南伊豆へのドライブ旅で撮影した花の写真を紹介します。見やすくするために写真サイズをいつもより大き目にしました。三部作の最初は下田の爪木岬(つめきざき)、野水仙が群生することで有名な場所です。1220日に始まった水仙祭りは131日に終わって、とうに最盛期を過ぎたと承知していましたが、人の混雑はないだろうと考えたのです。

下田市の市街地から起伏のある須崎半島の道を走りました。須崎御用邸前を過ぎて純白の灯台が見えると爪木崎の駐車場に到着です。爪木崎公園には期待した以上に多くの水仙が咲いていました。

 

2010_02060280 
2010_02060282 
2010_02060279 
2010_02060283   

 

散策路で爪木崎先端の高みに上がると溶岩が固まってできた俵磯(たわらいそ)と呼ばれる柱状節理(ちゅうじょうせつり)と爪木崎灯台が見えます。柱状節理は田原の滝(山梨県)と玄武洞(兵庫県)で見たことがあります。そして爪木崎灯台(昭和12年完成)は塔高が17.3mで約25km先まで光が届くと説明されています。

 

2010_02060291 
2010_02060301   

 

沖合に伊豆七島のうち、大島、利島、新島、三宅島、御蔵島、神津島が並んでいるのが見えます。そして式根島と鵜渡根島(うどねしま)の姿も。ずっと右手には南方10kmの沖合にある小さな神子元島(みこもとしま)と明治3年に完成した日本最古の洋式石造り灯台である神子元島灯台(塔高23m)が望めました。

 

2010_02060304   

 

北に目を転じると伊豆半島の丘陵地帯に風力発電施設が多数並んでいるのが見えます。浅間山(せんげんさん)山麓の東伊豆町風力発電所(3基)と東伊豆町奈良本の別荘地近くにあるCEF伊豆熱川ウインドファーム社の風力発電所(10基)のようです。

 

2010_02060308   

 

灯台から続く坂道を下りて水仙が咲き乱れる花畑の中の散策路を歩きました。

 

2010_02060299 
2010_02060316   

 

強い風が最近吹いた影響でしょうか、水仙が渦を巻くようになぎ倒された場所があります。歌碑「抱かねば 水仙の揺れ やまざるよ」(岡本眸、ひとみと読みます)にある女性らしく優しい歌に納得しました。

 

2010_02060319 
2010_02060312   

   

散策路を一周して駐車場へ戻る途中、爪木崎花園にも立ち寄りました。ハボタン(花キャベツ)、ノースポール、ストック、そしてキンセンカが咲く花壇で面白いオブジェ(木製の農夫)を見つけました。

 

2010_02060341 
2010_02060339   

   

温室内に入ってみました。青いバナナや不思議な形をしたトックリラン、そしてハイビスカス、アブチロン(赤と黄色のツートーンカラー)、クラッスラ、オジギソウ、ブーゲンビリアなど鮮やかな花々が美しく咲いています。写真はクラッスラとブーゲンビリア。

 

2010_02060327 
2010_02060331   

 

高温多湿の温室内ではカメラのレンズが雲って撮影が大変でした。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月13日 (土)

人気映画「アバター」を立体映像で観る

立春を過ぎて雨水(うすい)が近くなってもまだ冬の寒さが居座っています。そんな折ですが同居者に誘われて昨日ラゾーナ川崎へ映画を観に出掛けました。「タイタニック」(1997年製作)を超えるペースで観客を動員している「アバター」(2009年12月23日封切り)は、もう少し待てば混雑が解消するのではないかと期待していましたが、相変わらず高い人気を維持しているようです。下の写真は左がミューザで右がラゾーナ

 

2010_02120002 2010_02120005

 

ジェームズ・キャメロン監督が「タイタニック」の成功から12年の沈黙を破って昨年末に公開した「アバター」は3D(立体)映像とVFX(視覚効果)の最新技術を駆使したことで注目されました。文明人(地球人)の強欲と傲慢(ごうまん)に満ちた侵略行為に対してジャングルと共生する未開人(地球人の感覚からは遅れて見えるパンドラ星に住むナヴィ)がいかに自らの地を守ったかを描いています。パンドラは地球に最も近い(4.4光年の距離にある)恒星アルファ・ケンタウリの惑星ポリフェマスの衛星で、大気は毒性を持つため人間の居住には適さない(詳細はオフシャルサイトにあるTRAILERの特別映像「パンドラの全て」を参照)、そして主人公ジェイクは戦闘のため下半身不随となった元海兵隊員で亡き兄に代わってパンドラで働くことになった設定で物語が始まります。
 

2010_02120022_2「アバター」はインターネット上の仮想空間で使われるキャラクタ化された自分の分身のことですが、その由来はインドのヒンズー教における神の化身「アヴァターラ」を英語式にアバターと呼んだこととされます。映画に登場するアバターは地球人とナヴィのDNAを組み合わせた肉体のことで、それを操作する意識(つまり人間の頭脳)を必要とします。ストーリーの詳細はオフシャルサイトに掲載される予告編を参照してください。

映画「アバター」には通常の映画と同じ2(二次元)のスクリーンと3D(立体映像)が楽しめるデジタル3DおよびIMAX 3Dの種類ありますが、やはり最も迫力があるIMAX 3Dを選びました。これが上映される映画館は日本で僅か4箇所、東急系109シネマズの川崎・菖蒲(埼玉県)・名古屋・箕面(大阪府)のみです。同居者と私はわが家に一番近い109シネマズ川崎のIMAX 3D(あえて吹き替え版)をネットで予約しました。吹き替え版にしたのは立体映像に集中したかったからです。
 

2010_02120015この映画を観た感想を述べる前にIMAXと3D技術を簡単に説明しましょう。IMAX(アイマックス)はカナダで開発された映写技術で2Dと3Dのいずれでも迫力ある映像を大型スクリーンに映し出すことができます。もともとは70mmフィルムを水平方向に移動させる(一画面当たりのフィルム面積を増やす)ことで70mm映画より映像品質を大幅に向上する技術で、湾曲したドーム型スクリーンとスクリーンに接近・階段状に設置された座席とを組み合わせ、視界全体を包み込むようにすることで鑑賞者は画面の中に入り込んだように感じられる超弩級(ちょうどきゅう)の迫力映像なのです! 20年ほど前にアメリカでスペースシャトルのIMAX映画を観たことがあります。唯一の欠点はフィルムを大量に必要とするために上映コストが高いことでした。

2010_021200212008年以降は映像をデジタル化したデジタルIMAXがその問題を解決しましたが、残念ながらデジタル映写機の性能がまだ十分ではないため、従来のIMAX相当の大型画面にはまだ対応出来ません。つまり映像の解像度は通常の映画と同じなのです。109シネマズが採用したIMAXはテキサス・インスツルメンツ社製のDLPデジタルプロジェクタ(明るさを増すために2台設置)を使用します。2010_02120028DLP(Digital Light Processing)は家庭用プロジェクタに使われる液晶よりも構造が複雑なため高価ですが性能が極めて高く映画の映写には打ってつけの方式です。しかし原理的に光の透過量が少ないため明るさを十分確保できないことが唯一の技術的欠点かもしれません。そして109シネマズのIMAXスクリーンは、通常のスクリーンをIMAX用に改造したもので、IMAX用としては大きさが十分とは言えません。
 

立体映像を見るためにIMAX 3Dでは専用の眼鏡を使いますが、映画用3D技術にはIMAX 3D方式の他に、Dolby 3D方式(交互に映写される左右の映像を波長分光フィルタ眼鏡で見る)とReal D方式(同じく円偏光フィルタ眼鏡で見る)などがあります。ちなみにテレビ(ビデオ)では上記と同様に偏光フィルタ眼鏡を使う方式や電子シャッターが付いた眼鏡を使う方式、そして眼鏡を使わず裸眼で見られる3D方式もあります。
 

2010_02120018当ブログの常として技術説明が長くなりました。ポップコーンを食べながらIMAX 3Dで観る「アバター」は立体映像の完成度が高く、超弩級の迫力サウンド(音の圧力を身体で感じる)も素晴らしく、映画館の設備を120%活かした高品質の映画でした。そしてストーリー展開も分かりやすく、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(ケビン・コスナー監督・主演)と類似した舞台設定、中国映画の「レッドクリフ」(ジョン・ウー監督)に似た戦闘のスペクタクル・シーン、そして「風の谷のナウシカ」(宮崎駿監督)を連想させるハッピーエンドも楽しめました。エイリアン映画が懐かしい女優シガニー・ウィーバーをアバター計画担当の博士役で登場させたことも面白いと思います。エンデイングに流れたロマンチックな主題歌 I See You (あなたが見える)もこの映画にマッチしていました。

2010_02120037 人気に違わず魅力に溢れた映画でしたがあえて気になった点を挙げれば、シーンが切り替わった時には意識してピント合わせをしないと映像が一時的にボケたように見えた(感じた)ことと、吹替え版においてもナヴィの人達が話す言葉は字幕として画面の右端に立体的に表示されましたが、それが時々見えにくくなったことでしょう。映像中央のピント位置と字幕のピント位置が違うためかも知れません。そして立体映像を3時間近く見続けた後は満足感とともに疲労感がありました。ずっと昔のことですが、一見すると無意味な平板画像を寄り目にしてじっと見つめると、人物や模様が浮かび上がって見える仕掛け(ステレオグラムだったと思います)を体験した時に似た脳の疲労でしたから、IMAX3D映画を観るには私の頭脳(大脳皮質)がやや能力不足なのでしょう。

午前11時に始まった「アバター」(上映時間2時間41分)が終わると午後2時近くなっていました。映画を観た興奮と昼食時間をかなり過ぎていたために珍しく空腹感を感じて同じ川崎ラゾーナ内4階にあるレストラン街でトンカツ屋に入りました。京都三条「名代とんかつかつくら」で私は本日のおすすめ膳「ひと口ヒレかつと海老カツ膳」、同行者は「麦とろとんかつ膳」を注文、各種ソースとすりゴマを掛けて美味しく食べました。

 

2010_02120050 2010_02120046

 

<同行者のコメント> 私が選んだ映画はとても面白かったです。そして大きな音が身体に響いて迫力がありました。次の3D映画が四月に上映されるようですからまた来ましょうね。すったゴマとタレで食べたトンカツが美味しかったです。両方を混ぜたゴマダレにトンカツを付けて食べるべきですが、私はタレを適当にかけたあとゴマをたっぷり振りかけました。すり鉢にゴマが残るともったいないと思ったのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月10日 (水)

行基菩薩と吉田松蔭(後編): 河内温泉「金谷旅館」

冷え切った身体を暖めるために日帰り温泉へと急ぎました。蓮台寺温泉から1km弱、蓮台寺駅近くにある河内(こうち)温泉の一軒宿「金谷旅館」は天神神社へ向う途中に前を通っていますから迷うことはありません。金谷山を背景とする緑に囲まれた二千坪の敷地に江戸時代末期から130年以上続く老舗旅館では「千人風呂」があることで知られます。立ち寄り湯(日帰り湯)も可能で以前から利用したいと思っていました。

 

2010_02060234   

 

門を入ったところにある駐車場は宿泊車用と表示されていますので左手奥の広い駐車場に車を停めました。立ち寄り湯が利用可能となる朝の10時になったところですがすでに車が数台停められています。宿泊者用駐車場の横に天文台らしき建物があり、ガラス窓越しに中を覗くと立派な天体望遠鏡が・・・。

 

2010_02060236_2 2010_02060235

 

表玄関を入った下足箱の先にあるカウンターで利用料金(1人1000円/2時間)を支払って長い廊下を進みました。右手の休憩所に雛人形が飾られています。

 

2010_02060237   

 

廊下はその先で二手に分かれ、直進すると男性用の脱衣所、右手が女性用の脱衣所へ続きます。千人風呂の名前の割に脱衣所は小振りですが、宿泊者用の脱衣所が隣にありますから、結構多くの人が同時に利用できそうです。

 

2010_02060248 2010_02060243

2010_02060238 2010_02060239
 
湯気で雲ったガラス戸を開けて千人風呂へ入ると、細長い浴室にも湯気が充満して視界がありません。小さな窓が少し開けられているにも係わらず巨大な浴槽から立ち上る湯気が浴室の奥まで見通すのを妨げています。目を凝らすと浴槽は3つに仕切られて左手にある小さな浴槽と右手に長く伸びる2つの浴槽がありました。一つ目は床がコンクリート製の檜(ひのき)浴槽で温めの湯が掛け流し、右手の長大な檜浴槽(床も檜製)は横木で二つに仕切られており、手前の浅めの浴槽(エリア)に滔々(とうとう)と流れ落ちた大量の湯が隣の深めエリア(浴槽)へ流れることで湯の温度を上手く調整する仕組みがありました。浅めのエリアに女性の彫像が並んでいます。浴室内は撮影が困難でしたので金谷旅館のパンフレットから千人風呂の写真を転載させていただきました。 

 

Photo_2 大正4年に造られた「千人風呂」は平成14年に改装されて日本一の総檜大浴場(15mx5m)となったそうです。混浴が可能ですが明るい日中に利用する女性客は見当たりません。ちなみに女性客は千人風呂でバスタオルを着用しても良いことが説明されていました。後先になりましたが泉質は弱アルカリ性・低張性で無色透明。

 

千人風呂で身体を暖めたあとは、右手奥の木戸を開けて露天エリアへ移動、木製の階段を上り下りして露天風呂に入りました。一番目の浴槽と同様に床がコンクリート製で滑り難いのは良いのですが・・・。木の葉が浮かぶ露天風呂に打たせ湯が勢いよく落ち、一番奥には泡風呂も。建物や植え込みで囲まれていますから見晴らしはまったくありませんが青空を見ながら冷風に吹かれるのは気分の良いものです。
 

湯から上がると同行者は天文台のことを若い従業員に聞いています。若主人が建設したもので宿泊客はこの設備で天体を見ることができるそうです。廊下に撮影された月や星の写真が飾ってありました。

 

2010_02060247  2010_02060245

 

この旅館はほかに茶室、アート&ダンスホール、家族風呂の「一銭湯」(2箇所)もあるようです。玄関前の庭に三椏(みつまた、三又、三枝)の花が咲いていました。

 

2010_02060251 2010_02060250

 

昼食には金谷旅館が経営する蕎麦屋を選びました。下田駅南口近くの本郷(駅南)交差点角に建つユニークな形をしたログハウスで、蕎麦屋の「ダイニング黒潮」は2階にあるのですが、気がつけば一階の欧風料理「ダイニング ログ 下田」に・・。同行者と私は「魚介盛りだくさんのぺペロンチーノ」と「野菜たっぷりピッツア」をシェア、いずれも期待通りに美味しくて大満足でした。

 

2010_02060261_2 2010_020602562010_02060255

 

向かい側の浅間神社に下田富士の石碑を見つけました。

 

2010_02060263 2010_02060264

 

市街地を南下、吉田松蔭が拘置された「平滑の獄跡」に建つ郷土資料館と「吉田松陰拘禁の跡碑」がある中央公民館に立ち寄りました。私と同じ様に写真を撮る人が・・。

 

2010_02060269 2010_02060267 

 

<同行者のコメント> 温泉街の狭い道に車を乗り入れる運転手さんは立ち往生したらどうするつもりだったのでしょうか。温泉は浴槽が広く湯も柔らかくて気持ちが良かったです。混浴と聞いていましたので他に人が居ないか大声で聞こうかと思いましたがやはりやめました。お昼に食べたピザとパスタの味は私好みで美味しかった。□

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年2月 9日 (火)

行基菩薩と吉田松蔭(前編): 蓮台寺温泉

2010_02060185_2 行基菩薩縁の場所を求めて久しぶりに伊豆の下田へドライブすることにしました。もちろん早春の花も目的に入っています。混雑を避けて早朝に出発、東名高速道路・小田原厚木道路・西湘バイパスを経て国道135号に入って根府川駅近くを通過した江之浦付近で日の出を迎えました。真鶴半島の先に伊豆大島が朝日に照らされています。下田まで行くには伊豆スカイラインを利用するのが便利ですがまだ凍結の心配があるため観光地が続く海岸沿いの道を選択したのです。

  

2010_02060210_2真鶴、湯河原、熱海、網代、宇佐美、伊東、そして東伊豆を過ぎると河津町です。このまま国道135号を進むと下田市の繁華街が待ち構えていますので河津川沿いの県道14号で山間地に入り、河津バガテル公園前を通過する抜け道で国道414号に出て、伊豆急の蓮台寺駅前から旧道で蓮台寺温泉に向います。蓮台寺川脇の道を800mほど進むと最初の目的地である天神神社に到着、蓮台寺温泉の西の外れの蓮台寺公会堂前の空き地に車を停めさせていただきました。 

高台に向って長い石段(117段ほど)が伸びています。鎌倉期の創建と伝えられる神社で、境内に国指定有形重要文化財で運慶作と伝えられる「大日如来坐像」が安置されています。

 

2010_02060193 2010_02060207

 

大日如来は本名を摩訶毘廬遮那仏(マカビルシャナブツ)と言い真言密教の最高仏です。天平勝宝の頃(750年代)に行基が創建した蓮台寺という寺があり、承久年中(1220年頃)に廃寺となったと伝えられます。その場所は天神神社の近くとも伝えられますが定かではないようです。この大日如来は蓮台寺の本尊であったと伝えられます。

 

2010_02060194 2010_02060199

 

像の高さは約110cm、檜の寄木造り、豊かな肉付きの顔が印象敵で胸の前で智拳印を結んでいいます。同じ収蔵施設には江戸初期の作と言われる市指定文化財の四天王像も安置されていました。

 

2010_02060202 2010_02060203
   
参拝したあとに境内を清掃する地元の方々から話を聞かせていただきました。事前に調べた内容を確認できたことに加えて、蓮台寺があったと推定されるもう一つの場所やこの朝の冷え込みは下田で珍しいことも。境内には白梅や枝垂れ紅梅が咲いています。

 

2010_02060205 2010_02060209

 

地元の方から教えていただいた吉田松陰縁の旧村上邸へ向いました。直線距離では100mほど、専用の駐車場に車を停めて足湯の前から松蔭通りに入りました。

 

2010_02060212 2010_02060215
 
石畳の「湯の華小路」に面して「吉田松陰寓寄処」(県指定文化財、料金100円)はペリーの黒船でアメリカへ渡ろうとして下田を訪れた時に、手の皮膚病を治療しようと蓮台寺温泉に立ち寄って漢方医と出会い、その自宅に匿(かくま)われたそうです。松蔭縁の品々と松蔭の行動を説明する資料が展示されています。 

 

2010_02060223 2010_02060225
   
 

ガイドの方から松陰の下田での足取りを地図上で解説していただきました。旧村上邸の正面にある地元住民の共同風呂は松陰が湯治した場所なのだそうです。

 

2010_02060224 2010_02060226

 

松蔭が隠れ住んだ屋根裏部屋、そして松陰も入った風呂が残っていました。

  

2010_02060218_6 2010_02060220

2010_02060219_4 2010_02060227
 
石畳の遊歩道「湯の華小路」沿いには蓮台寺温泉の旅館が並んでいます。行基菩薩が約1300年前に発見したと伝わる歴史ある温泉は湯量が豊富で下田温泉の旅館やホテルにも供給されているそうです。蓮台寺温泉には日帰り温泉のサービスもある蓮台寺荘石橋旅館などがありますので立ち寄りたいところですが、私が是非入ってみたい温泉が近くにあるため、ここでは玄関付近を撮影するだけにしました。(続く)

 

2010_02060231 2010_02060232

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 1日 (月)

奈良仏教: 行基と道鏡(後編)

前編では奈良仏教の知識がない私が調べた内容を書き出したため読みにくい長文になってしまいました。調べるうちに興味を持った道鏡をもっと深く知りたくなった私は黒岩重吾著「弓削道鏡」(文春文庫 上下巻)を読むことにしました。純愛と政争がこの小説のテーマです。古代史に造詣の深い黒岩重吾氏らしく時代背景が詳細に述べられているため、予備知識が少ない私は上下二冊の長編を読むのが苦労でした。あらすじを簡潔に記述することはさらに至難の技ですから、前編で紹介した行基と道鏡以外の主な登場人物を史実に基づいて紹介しながら、作者による脚色と思われる点に触れたいと思います。ちなみに作者自身は、「道鏡に関して信じるに足る文献は僅かであり、小説に書いたほとんどがフィクションである」とあとがきで断わっています。

道鏡の最初の師である円源法師は作者がこの小説のために創作した人物で、道鏡の人格形成と進路に大きな影響を与えたことになっています。円源(えんげん)は役小角(えんのおづぬ、えんのおづの)の縁戚で弓削にある村人の寄進で建てられた小さな寺の住職に設定され、知人である行基(ぎょうき)を通じて道鏡を僧正義淵(ぎえん)に弟子入りさせます。

円源が尊敬する役小角は、通称を役行者(えんのぎょうじゃ)、7世紀(飛鳥時代から奈良時代)に生きた人物で修験者の開祖、葛城山(現在の金剛山)で修行、弟子の讒言(ざんげん、悪意のある告げ口)により謀反(むほん)の罪で伊豆大島へ遠島(流刑)されましたが2年後に許されて奈良へ戻ります。小説では円源の口から道鏡に語られる形で登場、道鏡はその影響を強く受けて山中で修行を行いました。

道鏡が飛鳥(あすか)にある龍蓋寺(りゅうがいじ、岡寺とも呼ばれ飛鳥寺石舞台古墳に近い)で僧正義淵(ぎえん)に師事した時、義淵はすでに80歳を過ぎていたとされます。小説では行基が紹介したことになっていますがこれも作家の創作でしょう。一流氏族とは無縁であった道鏡がどのような経緯で最高位にあった義淵の弟子になれたのか不思議に思われます。それは措(お)くとして小説では義淵が道鏡に常人ではないものを感じて最後の弟子にすることを認めました。行基、良弁、玄昉(げんぼう)などの高僧を一門から輩出させた優れた人物だったからでしょう。道鏡が弟子入りを認められた翌年に没しています。小説ではこれを道鏡の幸運としています。名ばかりとはいえ義淵の弟子になったことは道鏡の人生を大きく変えることになります。

良弁(ろうべん)は義淵門下で道鏡の兄弟子に当たります。聖武天皇の覚えがめでたく東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)の寺主となった良弁を頼って道鏡は金鐘寺で修行をします。当時全国的に天然痘が大流行していましたが道鏡はその患者宅を訪れて看病・心の安らぎを与える活動をしています。そんな道鏡の活動を良弁は許すとともに修行をさらに積んで呪力を高めれば看病禅師(かんびょうぜんじ)になることが出来るであろうと告げ、救済活動で人に知られるようになった道鏡を時の右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)や僧正玄昉に引き合わせます。行基亡き後は出世して大僧都となり50歳になった道鏡を宮廷内にある内道場の看病禅師に推薦しました。

玄昉(げんぼう)は二度も入唐(唐留学)して法相宗を学び多くの経典を持ち帰ったことで僧正に任じられます。聖武天皇の母である藤原宮子の病気を祈祷により回復させたことで出世しますが、その人格に対する批判があり、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると筑紫観世音寺の別当に左遷、その翌年に任地で没しました。小説では看病禅師になりたいと言う道鏡を師事させて道鏡のその後の生き方に大きな影響を与えた人物として描いていますがこれも作者の創作です。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は706年に生まれた奈良時代の公家(くげ)、知力と容姿を兼ね備えて皇族の覚えもめでたく、749年に大納言に昇進、760年には公家として異例の太政大臣(だいじょうだいじん、だじょうだいじん、太師)まで出世しますが、後ろ盾であった光明皇后(聖武天皇の皇后で藤原不比等の娘、つまり仲麻呂の叔母)が没すると関係の悪化した孝謙上皇や上皇に気に入られた弓削道鏡と対立、巻き返しを図りますが謀反を企てたとして近江国で官軍に破れて処刑されました。

吉備真備(きびのまきび)は奈良時代の政治家、遣唐留学生として唐で多くの学問を学び玄とともに時の聖武天皇などから取り立てられますが、藤原仲麻呂によって玄に続いて筑紫へ左遷されます。考謙上皇の計らいによって遣唐副使として再度唐に渡り、帰路には船が難破するものの、中国人高僧の鑑真を伴なって帰国、その功績を認められて都で昇進を続けて仲麻呂の追討などで功績を挙げます。称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と道鏡のもとで地方豪族出身者としては異例なことに大納言から右大臣にまで出世。小説のなかでは玄昉が道鏡を真備に紹介した時に、学問の師として真備に親しみを持つ阿倍皇太子(後の孝謙天皇)と道鏡が出会ったこと、道鏡は上位者に出世した後になっても唯一実力を認めた(一目置いた)人物として描かれています。

考謙上皇(称徳天皇)は天武系聖武天皇の娘(内親王)、男子が幼くして亡くなったことで史上初の女性皇太子となります。聖武天皇に譲位されて孝謙天皇として即位、母の光明皇太后の甥である藤原仲麻呂を新設された紫微中台(皇太后の生活支援をする家政機関)の長官に任命。これが契機となり仲麻呂は淳仁(じゅんにん)天皇のもとで皇族以外では初めて太師(太政大臣)に任ぜられ、実質的に仲麻呂の傀儡(かいらい)政権が出来上がると、次第に考謙上皇は仲麻呂と不和になります。その後、病を得た上皇は看病禅師であった道鏡を寵愛するようになり、これを諌(いさ)めた淳仁天皇を孝謙上皇は退位させ称徳天皇として重祚(再即位)します。しかし病が悪化して770年に崩御。天智系の白壁王が光仁天皇として即位します。小説では道鏡が最後まで看病したとしていますが、史実は異なり、道鏡は付き添うことが許されなかったようです。

和気清麻呂(わけのきよまろ)は備前国(現在の岡山県)出身の中級官僚(従五位下)でしたが、称徳天皇の傍に女官として仕える姉の法均尼(ほうきんに)、俗名は和気広虫(わけのひろむし)が病弱を理由に辞退したため宇佐八幡宮の神託を確認する勅使の代行に任じられる。小説では姉の法均尼を通じて右大臣吉備真備の血縁者である従三位の女官吉備由利(ゆり)から暗示するような言葉を聞き、都を出ようとする時に出会った真備から激励の言葉とともに「神は心にあり」と告げられます。これも作者の創作でしょう。前編で述べたように初回と異なる神託を持ち帰った清麻呂は大隈に流されますが、小説では宇佐八幡宮からの使者がそれは偽りの神託であると述べたためとしています。これも史実ではなさそうです。清麻呂に限らず関係者に対して厳しい処分が出来なかったのは別の理由があったのではないかと思われます。

この小説を読み終えて連想した人物が豊臣秀吉でした。下層階級から最高位を得た生涯が似ているだけではなく、上昇志向が強く自分を取り立ててくれる人に恵まれて才能を発揮したこと、弟以外に頼る血縁者が居なかったこと、人を惹き付ける能力に長けていたこともよく似ています。そして動乱の時代にあって最後には一族郎党が没落したことも同じ。「弓削道鏡と考謙上皇(称徳天皇)の永久(とわ)の情愛」と「考謙上皇/道鏡と藤原仲麻呂の政争」の2つを軸として弓削道鏡の生涯を描いた黒岩重吾氏のこの長編小説は他の古代史小説とともに平成4年に菊池寛賞を受賞しています。□

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »