奈良仏教: 行基と道鏡(後編)
前編では奈良仏教の知識がない私が調べた内容を書き出したため読みにくい長文になってしまいました。調べるうちに興味を持った道鏡をもっと深く知りたくなった私は黒岩重吾著「弓削道鏡」(文春文庫 上下巻)を読むことにしました。純愛と政争がこの小説のテーマです。古代史に造詣の深い黒岩重吾氏らしく時代背景が詳細に述べられているため、予備知識が少ない私は上下二冊の長編を読むのが苦労でした。あらすじを簡潔に記述することはさらに至難の技ですから、前編で紹介した行基と道鏡以外の主な登場人物を史実に基づいて紹介しながら、作者による脚色と思われる点に触れたいと思います。ちなみに作者自身は、「道鏡に関して信じるに足る文献は僅かであり、小説に書いたほとんどがフィクションである」とあとがきで断わっています。
道鏡の最初の師である円源法師は作者がこの小説のために創作した人物で、道鏡の人格形成と進路に大きな影響を与えたことになっています。円源(えんげん)は役小角(えんのおづぬ、えんのおづの)の縁戚で弓削にある村人の寄進で建てられた小さな寺の住職に設定され、知人である行基(ぎょうき)を通じて道鏡を僧正義淵(ぎえん)に弟子入りさせます。
円源が尊敬する役小角は、通称を役行者(えんのぎょうじゃ)、7世紀(飛鳥時代から奈良時代)に生きた人物で修験者の開祖、葛城山(現在の金剛山)で修行、弟子の讒言(ざんげん、悪意のある告げ口)により謀反(むほん)の罪で伊豆大島へ遠島(流刑)されましたが2年後に許されて奈良へ戻ります。小説では円源の口から道鏡に語られる形で登場、道鏡はその影響を強く受けて山中で修行を行いました。
道鏡が飛鳥(あすか)にある龍蓋寺(りゅうがいじ、岡寺とも呼ばれ飛鳥寺や石舞台古墳に近い)で僧正義淵(ぎえん)に師事した時、義淵はすでに80歳を過ぎていたとされます。小説では行基が紹介したことになっていますがこれも作家の創作でしょう。一流氏族とは無縁であった道鏡がどのような経緯で最高位にあった義淵の弟子になれたのか不思議に思われます。それは措(お)くとして小説では義淵が道鏡に常人ではないものを感じて最後の弟子にすることを認めました。行基、良弁、玄昉(げんぼう)などの高僧を一門から輩出させた優れた人物だったからでしょう。道鏡が弟子入りを認められた翌年に没しています。小説ではこれを道鏡の幸運としています。名ばかりとはいえ義淵の弟子になったことは道鏡の人生を大きく変えることになります。
良弁(ろうべん)は義淵門下で道鏡の兄弟子に当たります。聖武天皇の覚えがめでたく東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)の寺主となった良弁を頼って道鏡は金鐘寺で修行をします。当時全国的に天然痘が大流行していましたが道鏡はその患者宅を訪れて看病・心の安らぎを与える活動をしています。そんな道鏡の活動を良弁は許すとともに修行をさらに積んで呪力を高めれば看病禅師(かんびょうぜんじ)になることが出来るであろうと告げ、救済活動で人に知られるようになった道鏡を時の右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)や僧正玄昉に引き合わせます。行基亡き後は出世して大僧都となり50歳になった道鏡を宮廷内にある内道場の看病禅師に推薦しました。
玄昉(げんぼう)は二度も入唐(唐留学)して法相宗を学び多くの経典を持ち帰ったことで僧正に任じられます。聖武天皇の母である藤原宮子の病気を祈祷により回復させたことで出世しますが、その人格に対する批判があり、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると筑紫観世音寺の別当に左遷、その翌年に任地で没しました。小説では看病禅師になりたいと言う道鏡を師事させて道鏡のその後の生き方に大きな影響を与えた人物として描いていますがこれも作者の創作です。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は706年に生まれた奈良時代の公家(くげ)、知力と容姿を兼ね備えて皇族の覚えもめでたく、749年に大納言に昇進、760年には公家として異例の太政大臣(だいじょうだいじん、だじょうだいじん、太師)まで出世しますが、後ろ盾であった光明皇后(聖武天皇の皇后で藤原不比等の娘、つまり仲麻呂の叔母)が没すると関係の悪化した孝謙上皇や上皇に気に入られた弓削道鏡と対立、巻き返しを図りますが謀反を企てたとして近江国で官軍に破れて処刑されました。
吉備真備(きびのまきび)は奈良時代の政治家、遣唐留学生として唐で多くの学問を学び玄昉とともに時の聖武天皇などから取り立てられますが、藤原仲麻呂によって玄昉に続いて筑紫へ左遷されます。考謙上皇の計らいによって遣唐副使として再度唐に渡り、帰路には船が難破するものの、中国人高僧の鑑真を伴なって帰国、その功績を認められて都で昇進を続けて仲麻呂の追討などで功績を挙げます。称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と道鏡のもとで地方豪族出身者としては異例なことに大納言から右大臣にまで出世。小説のなかでは玄昉が道鏡を真備に紹介した時に、学問の師として真備に親しみを持つ阿倍皇太子(後の孝謙天皇)と道鏡が出会ったこと、道鏡は上位者に出世した後になっても唯一実力を認めた(一目置いた)人物として描かれています。
考謙上皇(称徳天皇)は天武系聖武天皇の娘(内親王)、男子が幼くして亡くなったことで史上初の女性皇太子となります。聖武天皇に譲位されて孝謙天皇として即位、母の光明皇太后の甥である藤原仲麻呂を新設された紫微中台(皇太后の生活支援をする家政機関)の長官に任命。これが契機となり仲麻呂は淳仁(じゅんにん)天皇のもとで皇族以外では初めて太師(太政大臣)に任ぜられ、実質的に仲麻呂の傀儡(かいらい)政権が出来上がると、次第に考謙上皇は仲麻呂と不和になります。その後、病を得た上皇は看病禅師であった道鏡を寵愛するようになり、これを諌(いさ)めた淳仁天皇を孝謙上皇は退位させ称徳天皇として重祚(再即位)します。しかし病が悪化して770年に崩御。天智系の白壁王が光仁天皇として即位します。小説では道鏡が最後まで看病したとしていますが、史実は異なり、道鏡は付き添うことが許されなかったようです。
和気清麻呂(わけのきよまろ)は備前国(現在の岡山県)出身の中級官僚(従五位下)でしたが、称徳天皇の傍に女官として仕える姉の法均尼(ほうきんに)、俗名は和気広虫(わけのひろむし)が病弱を理由に辞退したため宇佐八幡宮の神託を確認する勅使の代行に任じられる。小説では姉の法均尼を通じて右大臣吉備真備の血縁者である従三位の女官吉備由利(ゆり)から暗示するような言葉を聞き、都を出ようとする時に出会った真備から激励の言葉とともに「神は心にあり」と告げられます。これも作者の創作でしょう。前編で述べたように初回と異なる神託を持ち帰った清麻呂は大隈に流されますが、小説では宇佐八幡宮からの使者がそれは偽りの神託であると述べたためとしています。これも史実ではなさそうです。清麻呂に限らず関係者に対して厳しい処分が出来なかったのは別の理由があったのではないかと思われます。
この小説を読み終えて連想した人物が豊臣秀吉でした。下層階級から最高位を得た生涯が似ているだけではなく、上昇志向が強く自分を取り立ててくれる人に恵まれて才能を発揮したこと、弟以外に頼る血縁者が居なかったこと、人を惹き付ける能力に長けていたこともよく似ています。そして動乱の時代にあって最後には一族郎党が没落したことも同じ。「弓削道鏡と考謙上皇(称徳天皇)の永久(とわ)の情愛」と「考謙上皇/道鏡と藤原仲麻呂の政争」の2つを軸として弓削道鏡の生涯を描いた黒岩重吾氏のこの長編小説は他の古代史小説とともに平成4年に菊池寛賞を受賞しています。□
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