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2010年2月26日 (金)

悪人列伝(その1): 蘇我入鹿、弓削道鏡

作家海音寺潮五郎さんの「悪人列伝」を読みました。先に奈良仏教を調べるとともに黒岩重吾著「弓削道鏡」で道鏡のことを詳しく知ったことから悪人とされた歴史上の人物に関心を持ったのです。「悪人列伝」にはもちろん道鏡も含まれています。「列伝」とは個々の人物の一生やその時代を複数書き並べたものです。

 

明治時代中期から流行し始め、森鴎外さんや幸田露伴さんなど著名作家が積極的に取り組んだことで「史伝文学」というジャンルが人気を集めました。幸田露伴さんは源頼朝、平将門、蒲生氏郷、源為朝、武田信玄などの「史伝」を明治末期から昭和初期にかけて発表しています。この「史伝」を後年になって復活させたのが海音寺潮五郎さん。ちなみに「史伝」は歴史小説と異なり、歴史的資料をもとに著者の推測によって文学化したもので、著者による創作を極力排除した史実の上に成り立つ文学です。

 

昭和34年(1959年)から娯楽雑誌「オール讀物」に連載された海音寺潮五郎さんの「武将列伝」は悪源太義平(源義平)、黒田如水、楠木正儀、斉藤道三、勝海舟、徳川家康などのべ33人の歴史上の人物が描かれています。そして「悪人列伝」は「武将列伝」に続く形で「オール讀物」に掲載されました。「武将列伝」の2作目に登場する悪源太義平は源義朝の長男で頼朝と義経の異母兄に当たりますが、悪源太(あくげんた)の「悪」は「剛の武者」の意味で現代語の「悪」とは異なります。

 

さて本題です。「悪人列伝」(古代編)に収録された歴史上の人物は上記の雑誌に掲載された24人から奈良時代と平安時代の6人(蘇我入鹿、弓削道鏡、藤原薬子、伴大納言、平将門、藤原純友)が選ばれています。当ブログで紹介した蘇我入鹿、弓削道鏡、平将門についてはある程度の知識を持っていたため楽しみながら読むことができ、そして残りの3人については新鮮な驚きを持って興味深く読みました。巻末の解説文で文芸評論家の磯貝勝太郎氏がこれらの史伝から人生智を得られるだけでなく人間学を学ぶことも出来るとしたことは首肯(しゅこう)できます。著者がまとめた時代背景と人物像をできるだけ伝えようと努力したため長文になりすぎた人物もありますが、6人のうち興味のある人物の記述だけでも拾い読みしていただければ幸甚です。

 

蘇我入鹿

 

蘇我(そが)氏は葛城山の東麓地方を本拠とした豪族ですが、河内の石川地方から進出してその地に住みついたと伝えられます。すなわち瀬戸内海水運(あるいは朝鮮との交易)に影響力を持つことで渡来人とも深い関係があったようです。朝廷の大蔵(財産)を管理する役目を得たことで勢力を拡大、天皇家との婚姻関係で天皇家に次ぐ権力を手に入れます。「行基と道鏡」の記事で書いたように物部氏を滅ぼしたあとは他の豪族を圧倒して天皇と並ぶ存在になります。祈祷力(巫女的な力)が天皇(当時は大王と呼ばれた)の重要な資格であった時代です。蘇我氏の勢力が最も拡大した蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子の時代には甘樫(あまかし)の岡に邸宅を二つ営んで蝦夷の家を上の御門(みかど)、入鹿の家を谷の御門と呼び、入鹿のことを王子(みこ)と呼ばせたとの記録を著者は引用します。

 

蘇我入鹿が山背大兄王(やましろのおおえのおう、聖徳太子の子とされる)一族を殺してしまうと、大和豪族の中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中大兄皇(舒明天皇と女帝皇極天皇の子)を押し立てて蘇我氏を倒すことを計画。朝鮮使節の受入れを偽って蘇我入鹿を誘(おび)き出して殺害したのが乙巳(いっし)の変(大化の改新)、天皇家と並ぶ大豪族がすべて滅びたことで天皇制が確立します。つまり入鹿父子が悪人とされたのは、天皇家に対して不臣であり、別王朝を立てたからですが、この非難は天皇制が確立した以後の倫理を基準にしての非難であると著者は言います。さらにその古代社会においては歴史の自然の流れであったに過ぎないと思うと述べています。

 

弓削道鏡

 

海音寺潮五郎氏による史伝の常としてこの章でも歴史的背景、孝謙天皇と藤原仲麻呂について半分の紙面を割いて詳しく述べて、道鏡が登場するのは後半になってからです。「弓削道鏡」の記事と重複しますので詳しい説明を省略、この章のポイントのみを説明します。著者は道鏡が物部氏の子孫であると解釈、義淵(ぎえん)僧正の弟子となり葛城山(かつらぎさん)で苦行を極め、考謙上皇が近江の保良宮(ほらのみや)で病気になった時に、道鏡の評判を聞いて、これを呼んだとの記録を引用しています。この後も恵美押勝(藤原仲麻呂が考謙天皇からもらった名前)についての記述が続きます。押勝と疎遠になった考謙上皇が道鏡と親しくなり、道鏡を太政禅師に任命、これを辞退する道鏡の辞表を却下したことに言及。たとえ後に野心家になったにしても、空恐ろしくなったというのが自然の感情であろうと著者は擁護します。

 

道鏡に対する愛情が高まる一方の称徳天皇考謙上皇が再即位)は河内の弓削寺に参詣し、道鏡を太政大臣禅師に任命、河内和泉両国の調(ちょう、税金)を一年間免除、道鏡を法王に任命。そして称徳天皇はこの地に西京(副都の由義宮、ゆげのみや)を建設します。称徳天皇が没した後は道鏡が先帝の寵臣(ちょうしん)であるというので、朝廷はこれを殺さず、下野(しもつけ、現在の栃木県)の薬師寺別当(補佐役)として左遷します。道鏡事件はもちろん、恵美押勝事件についても天皇専制権絶頂の時に考謙のような人が皇位にあったために起こったことと著者は言います。そして考謙の愛人になったばかりに二人とも悪人になったしまったと同情するとともに、道鏡を悪人にする考えは鎌倉時代になって出たと著者は推定します。

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