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2010年2月28日 (日)

悪人列伝(その3): 伴大納言

伴大納言義男(とものだいなごんよしお)は参議伴国道(とものくにみち)の第五子といわれるがその素性はよくわからないと筆者は書き始めました。佐渡で生まれた好学で才気のある青年が佐渡の国司か郡司に目をかけられたことで書生に取り立てられ、その紹介状を持って都へ上ったとする説を紹介。若い頃に佐渡に流されていた国道はすでに亡くなっていたが国道の遺族は好意をみせて、義男が邸に滞在するのを許したうえ、目端が利いて骨惜しみをしない義男を国道が佐渡に居た時に生まれた子として朝廷に届けたと推察する。最も可能性のあることとしながら小説的に過ぎると認めて弱冠(じゃっかん、元服のこと)前の経歴は不明と断っています。

朝廷の文書を管理する校書殿に勤務することになった義男は従四位であった国道の第五子であることから21歳での初叙を従七位下と推定。といってもその下には8階級もあり、貴族の子弟でなければ達するのに3-40年はかかる地位で、義男は国道の子になりすましたことで大変有利なスタートをしたのである。勤務ぶりも天皇にまで知られるほどで10年後の31歳になると正六位相当の大内記へと8階級昇進。平均すると毎年昇進したことになるのは彼の才腕と努力を語るものであろうと著者は述べる。記録によると義男は「残忍刻薄な性質で、弁口が達者で、役目に明察果断で、機敏であった。ただ寛裕高雅さがなく、人を傷つけ、人の欠点を弾劾排斥して遠慮会釈もなかった。権勢欲が熾烈で、上の人のごきげんとりが巧み」といやな性質だが、官僚としては出世型であるには違いないと著者は分析。

さらに毎年確実に昇進して34歳で最高官庁である太政官の右少弁という弁官にまで達する。分かりやすく言えば朝廷の文書を扱う部門の管理職。右少弁は6人居る弁官の最下位であるが2年後には弁官局内で義男を除く5人が全部罪人となる大疑獄が起こった。これを告発したのが義男である。詳細は省くがこの事件は法隆寺の僧が少納言登美直名(とみのなおな)を官物の払い下げに関する不法行為で太政官に訴えたもの。義男を除く5人はこの訴状を受理しようとしたところ義男だけが反対した。義男は直名と親しい仲で助けようとしたとみられる。5人は多数決で押し切って審議を始めようとすると義男は人を使って違法であると太政官長官に訴えさせた。義男は訴状に年月日が記載されていない、人を告訴したものは誣告(ぶこく)であった場合に告げた罪にあたる刑に処せられるから告訴者を拘禁すべきものをしなかった、僧が訴訟する時には僧衣を脱ぐべきであるがそうしなかった、寺院に関する訴えは僧綱所(そうごうしょ)で受理すべきであるが他の弁官はそうしなかったことを理由に挙げた。

5人はいずれについても現実を踏まえた正論で答えたが、義男は100年も経っている法律の条文を強引に当てはめ、しかも公罪ではなく私罪であると指摘した。前者は公事に係わる罪で、後者は私利私欲に係わる罪でより重い刑が科せられる。法律の専門家5人が下した鑑定は公罪と私罪でまちまちではあるが義男に有利な内容となった。朝廷で行われた公家から専門家への質問も詭弁(きべん)を弄(ろう)したもので公家によるものではなく義男がその背景にあると著者は見る。そして義男の狙い通りに私罪が決まり5人は弁官の地位を去る。裁判後も時の仁明天皇の覚えがめでたい義男の昇進は続き、翌年に従五位上となり、右中弁に昇進している。さらにその翌年に従四位下へ三階級特進、右大弁となる。その翌年には従四位になったあとは3年ほど昇進しない踊り場から正四位下、翌年に従三位になると国史「続日本後記」の編纂官の一人に任命されている。正三位、さらには中納言に任じられ、54歳で大納言になる。奈良朝に旅人が大納言になって以来、大伴氏で大納言になったのは義男だけである。

義男がさらに昇進するには右大臣を狙うしかないが全盛期の藤原氏が太政大臣と右大臣を抑えているので、左大臣であった嵯峨天皇の皇子源信(みなもとのまこと)を失脚させて順繰りで右大臣に這い上がることを義男は考えた。信の伝記によると義男は無記名で投書して左大臣源信が弟の中納言融(とおる)らと共謀して反乱を起こそうとしていると書き立て、世間に噂を流したが、この時は格別のことはなく治(おさ)まった。そうして大伴氏が献上した応天門とその周辺が焼失する事件が起こる。応天門は大内裏八省院の南面正門で、事が上手く運ばないことで義男が焦り、源信に罪を擦り付けようとしたのである。異常性格であり真の伴氏の生まれでない素性によると著者は述べる。

義男に動かされた右大臣藤原良相(よしみ)は兵を出して源信邸を包囲した。これに驚いた兄で太政大臣の藤原良房(よしふさ)は清和天皇に急ぎ申し出て、調査した結果、根もないこととして源信は許された。そしてその数ヵ月後に義男が放火犯人であると訴え出たものがある。宇治拾遺には放火の目撃者であった男が告訴をためらっていると、この男の子供が義男の家来の子供と喧嘩した時に別の家来が子供に暴力を振い、しかも義男の威光を笠に着たことが腹に据えかねて告訴したとする。裁判となっても義男はなかなか白状しないので義男の息子が白状したと嘘を告げたことで義男は罪に服し、伊豆に流された翌々年に58歳で死んでいる。「犯罪者は皆変質者だという学説があるが、義男はたしかに変質者であったようだ。あまりにも権勢にたいする欲望が強すぎたという点で。」と著者は結言する。

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