悪人列伝(その4): 平将門
5人目は平将門(たいらのまさかど)です。歴史上の人物のなかで私が興味を持つ一人であり、当ブログではこれまでも神田明神、将門首塚、十九首塚で将門に触れています。「悪人列伝」の将門についての章では先ず藤原鎌足に始まる藤原氏の興隆に多くの紙面を割(さ)いています。天皇制が確立した奈良朝と平安朝初期において皇室との縁戚関係を頻繁に結んで権勢を強め、嵯峨天皇が死ぬと承和(じょうわ)の獄で常貞(つねさだ)親王を廃して藤原良房の妹が生んだ道康親王(文徳天皇)を太子に立て、それ以降も歴代の天皇に自家の娘を入内(じゅだい、内裏に入る)させ、その子を次代の天皇に擁立するという方法を踏襲し、いつの世にも権勢の座を占めた。そして天皇家は衰えてお飾り同然となり、皇族も無力のものとなったと解説する。
そのなかにあって宇多天皇が実力者の藤原基経(もとつね)が死ぬと菅原道真を引き立てることで藤原氏を抑えようとしたことを詳しく述べます。基経の長男で左大臣の時平の上位に付けようと宇多・醍醐天皇は道真を関白にと考えるが謙譲な性格であった道真は受けない。これを知った藤原氏は道真を失脚させるため濡れ衣を着せて大宰権師(だざいごんのそつ)に左遷することに成功、2年後に道真は九州の地で死ぬ。そして京では藤原氏に不幸が立て続けに起こったため人々は道真の怨霊であると恐れた。
長い時代説明の後にやっと平将門が登場。藤原氏専権のため中央貴族らは地方官となって赴任し、在任中に土台をこしらえて、任期が終るとそのまま土着して在地地主となることがはやった。平の姓を賜った高望(たかもち)王はその一人で藤原基経の家人となって上総介の位を得る。武士の起源と言われる人物のひとりで、その孫が平将門である。将門も青年時代に京に上って基経の子、忠平(ただひら)の家人となっている。著者は在地地主が武装した背景と坂東人気質について説明する。高望王の子孫は現在の茨城や千葉を中心とする地域に広がっていた。将門の通称は小次郎(三男を意味する)で、遺領相続争いなどで若い将門は一族との仲が悪くなったようである。これに嵯峨源氏と伝えられる常陸の武士、源護(みなもとのまもる)方との争いが絡み合う。初戦で源護の三人の子供は将門を狙うが逆に討ち取られてしまう。その後も源護や伯叔父たちとの争いは続くが戦上手の将門が勝る。
源護は京都に告訴する。将門は上京して事情を述べたことで、兵を動かしたことは咎(とが)められるが裁判に勝ち、その武勇は畿内に知られ、朝廷に慶事があって将門は罪を許される。坂東に戻った将門は伯父に大軍で攻められて始めて戦いに敗れるが次の合戦で将門が勝つと朝廷に働きかけた敵方に将門を捕まえるようにとの太政官符が出された。しかし兵力を持たない国守らは動かず将門に敗れて上京した従兄弟の平貞盛は太政官に訴えた。官符が無視されたことに怒った朝廷は将門の召喚状を貞盛に与えるが、それを受け取っても威勢が朝日の昇るようになっていた将門は上京しない。
そんな折に武蔵に赴任した権守興世王(ごんのかみおきよおう、桓武系の貴族)と介源経基(すけみなもとのつねもと、清和系貴族で源氏の始祖)が郡司と諍(いさか)いを起こしたのを将門が乗り出して収める。しかし脅された経基は帰京して3人が謀反を起こそうとしていると報告。将門の主人に当たる太政大臣藤原忠平は使者を将門に使わしたため意外な事態に驚いた将門は次第を認(したた)めた上書と坂東5ヶ国の国府の証明書を添えて送った。これを見た朝廷は疑いを解き、将門の武勇や人望を知り、将門を叙位任官して朝廷の役に立てようと考える。
しかしここで将門の運命が狂うことになる。常陸名家出身の藤原玄明(はるあき)という者が常陸の官物を強奪して返さないため常陸国府長官は太政官に訴えて追捕状(ついぶじょう)をもらい逮捕に向ったところ、玄明は威勢隆々の将門に庇護を求めた。親分肌の将門は不憫(ふびん)に思いこれを庇護したため常陸国府の長官との間がこじれて、両者の争いとなり、包囲された長官は降伏して印綬(いんじゅ、官職の証)を差し出す。興世王の進言を受け入れた将門は、関東諸国の他の国府からも印綬を出させて、それぞれの国司を任命する。そして将門は帝位について新皇(しんのう)となり、新国家成立の通告と自身の思いを忠平への鄭重(ていちょう)な手紙で述べている。将門謀反の報を信濃国府から受けた朝廷は大混乱に陥り、藤原忠文が征夷大将軍に任じられた。
前述の貞盛は藤原秀郷(ひでさと)を説いて将門に戦いを挑む。将門の軍が揃(そろ)わないうちに合戦がはじまり、しかも将門が背にしていた強い風の方向が途中で変わったのである。貞盛・秀郷連合軍は勢いを回復、立ち往生した馬上の将門はいずこからともなく飛んで来た矢に射抜かれた。著者は在地地主が不在地主と藤原氏の専権に対して反抗したと見る。これほど人気のあった将門が次第にその人気を失ったのは、江戸時代になると儒教が全盛をきわめ、大義名分の思想が社会常識となったために彼を単なる逆賊と見るようになったからであろうとする。筆者注釈: 戦後になると将門が再評価されるようになり、平将門を主人公としたNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」(原作は海音寺潮五郎著「平将門」)が1976年に放映されています。
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