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2010年3月に作成された記事

2010年3月31日 (水)

iPhoneがラジオに!

緊急入院していたわが家のパソコンは軽い外科手術が成功して昨日自宅に戻りました。自覚症状がすっかりなくなって後遺症もなさそうですから一安心です。房総のドライブ旅の続きに戻る前に先週末のトッピクスを一つ掲載しましょう。
 

先に紹介した「ラジコ」や「サイマルラジオ」などを利用してPCでラジオ放送を楽しみながらiPhoneでこのサービスが利用できないことを残念に思っていました。そしてついにiPhoneがラジオになる日が訪れました。月25日からサイマルラジオが聴けるようになったのです。専用のアプリケーション・ソフトウェア「コミュニティFM for iPhone」(i-コミュラジApple Storeからダウンロードするだけです。ベータ版(350円)を提供するのは携帯電話関連のアプリを販売するフライトシステムコンサルティング社。
 

2010_03310030 さっそくダウンロードしてみました。Apple Storeで「コミュニティFM for iPhone」を検索してクリックすれば10秒ほどでダウンロードが終了、利用規約にOKとすれば完了です。そしてメニュー画面でi-コミュラジをクリックすると選局画面が表示され、この画面から好きな局をザッピング(選局)して聴くことができます。

現在は全国のコミュニティFM(ミニFM)のうち9局(札幌・三角山放送局、帯広・FM-JAGA、仙台・RADIO3、湘南ビーチFM、水戸市・FMぱるるん、鴻巣・FMこうのすフラワーラジオ、FM浦和 REDSWAVE、福知山・FM CASTLE、福井県野々市町・FM N1)だけのサービスですが今年の夏にはこの団体(CSRA)に加盟する35局のすべてが聴けるようになるそうです。
 

2010_03310029 音声だけでなく番組表、地元の天気予報(日本気象協会)や地域情報、様々な画像情報も提供されるのはiPhone向けにピッタリのサービスで、全国のどこへ旅行しても空間を超えてリアルタイムにコミュニティFM局を楽しむことができますから、ドライブ旅に新しい楽しみを与えてくれるでしょう。

ちなみに「ラジコ」は配信にアプリケーション・ソフトウェアのFlashを採用していますのでiPhoneから利用できません。その理由は、アップル社の方針のようですが、iPhoneFlashをサポートしていないことです。「ラジコ」のhpに掲載されるQ&AにはiPhoneなどのモバイル対応も検討中とありますから期待しています。

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2010年3月27日 (土)

ノルウェイの森

村上春樹さんの代表作「ノルウェイの森」(講談社文庫・上下巻)を読みました。題名はビートルズの楽曲から採られたもので、これまでに読んだ村上作品(羊をめぐる冒険世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドなど)では題名が小説のテーマを暗示していたのと異なります。冒頭のシーンで主人公のワタナベトオル(37歳)がドイツに到着した時にボーイング747(ジャンボ)機内に流れた曲でした。そして18年前の回想が始まります。学生運動が最高潮に達した1968年から2年後の1970年までのことを

2009_11230007 恋愛小説の形をとっていますが「人間の生と死」がテーマ、生と死が対極にある、あるいは死が生の一部として潜在するとの考えを扱っています。それまでの村上作品とは異なってありふれた舞台設定と普通の人物が登場しますが、読み進むとやはりどこか普通ではありません。すべての登場人物が主人公である「僕」を通してしか関わりを持たないのです。

比喩(ひゆ)の多い文体は村上春樹さんならではですが、「木樵(きこり)女」の表現(上巻P.130)が気になりました。煙草の火を乱暴に消した同級生の小林緑に向って主人公が言った言葉です。著者の造語のようで辞書をひいても出てきません。樵(きこり)のように粗雑な女性という意味でしょうか。そして時間を持て余した主人公がヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を所在なげに読むシーンがありました。私は青年の清純な恋心を描いたアンドレ・ジードの「狭き門」を意識しましたが、主人公が死に至る「車輪の下」がこの小説に相応しいと著者が考えたようです。

2008_04100010 簡単にストーリーを紹介しましょう。東京の私大に進学した主人公が高校生の時に自殺した同級生キズキの恋人「直子」と偶然再会、次第に惹(ひ)かれますが、1年後に直子は女子大を突然休学して帰郷してしまいます。そして4ヵ月後、2人は京都郊外の療養施設で再会、直子は心を病んでいたのです。その療養所で主人公は直子と同室で年長のレイコさんに会います。彼女はピアノを専攻した元音大生でギターでバッハのフーガやビートルズの「ミッシェル」「ノルウェイの森」などを弾いてくれました。

主人公が入った学生寮の先輩で東大生の永沢さんとその恋人の女子大生ハツミさんも登場、主人公に好意を持つ二人との不思議な付き合いが高校時代のキズキと直子との関係を連想させます。永沢さんはカリスマ性を持った人物で外交官になり海外に出ることを考えていますが、人との係(かか)わりにはほとんど興味を持たず、異性は刹那(せつな)的な性の対象でしかありません。

2009_06180049 冬休みに再び京都を訪れた主人公は直子が幾分回復しているように感じますが、直後に症状が悪化して直子が他の専門病院へ入院したことを知ります。そして夏になると直子は自殺してしまいます。愛するものを亡くした哀しみを癒(いや)すことはできないと考え始めた主人公は、生の一部としての死に引きずり込まれて、当てもない一人旅に出ました。

しかしレイコさんが療養施設を出て別の地で生きようと決心したことが主人公に再び生を意識させます。そして最後に同級生の小林緑が生の力を与えることを連想させて物語が終るのは「ねじまき鳥クロニクル」で近所に住む休学中の女子高生笠原メイの存在と重なりました。

2007_07170055 「人と距離を置く人」「人を傷つける性癖の人」、そして「人を傷つけたことで自分が深く傷つく人」など様々な人物を登場させ、悩み苦しみながらも自分以外の人との係わりなしには生きられないのが人間であると描くのは「ねじまき鳥クロニクル」と同じです。村上作品を「ノルウェイの森」まで読み進んできた私ですが性描写の多さは気になります。しかし読後に救いを感じさせるのはやはり村上春樹氏の作品です。

「ノルウェイの森」は国内発行部数が累計で1000万部を超え、36の言語に翻訳された世界的なベストセラーで、今年後半には映画化されて国内で公開されるようです。

写真は上から早稲田大学(大隈講堂)、四谷市ヶ谷、新宿(伊勢丹)。

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2010年3月24日 (水)

ラジオ、はじめて物語

AMラジオのサイマル放送を紹介した先週の記事がきっかけとなりラジオの歴史を振り返ってみました。ラジオでまず思い浮かぶのは徳永英明さんの「壊れかけのRadio」(1990年)、懐かしい曲はカーペンターズのYesterday Once More」(1973年)、映画では三谷幸喜監督の「ラジオの時間」(1997年)という一風変わった作品もありました。ラジオとは英語で無線(Wireless)あるいは放射能(Radioactive)の意味があり、アマチュア無線(Amateur Radio)やラジコン(ラジオコントロール、無線操縦)にも使われる言葉ですが、一般的にはラジオ放送あるいはラジオ受信機の意味に用いられています。

黎明期から全盛期へ

最初のラジオ放送は1920年(大正9年)にアメリカでスタート、5年後の1925年(大正14年)には日本でもNHKの前身である東京放送局が放送を始めています。これらは中波の電波を使うAM放送で、90年後の現在に至るまでそのままの形で続いています。そして世界の何処においても同じラジオ受信機が使えるのも便利です。注)ただし周波数配置は南北アメリカ大陸だけが10kHz間隔ですから、米国で購入したわが家のデジタル同調式チューナーでは、日本が1978年に9kHz間隔へ変更したため、関東地方にある放送局のうちAFN(810kHzの米軍放送)しか正常に受信できません。

中波に続いて電波が遠距離に届きやすい長波や短波を使ったラジオ放送も開始されましたが変調方式はAM(振幅変調)でした。放送局(送信所)に近ければ受信機は鉱石ラジオなど極めて単純なものでも実用になりましたが、再生式ラジオの次には感度の良いスーパーヘテロダイン方式の受信機が使われました。そして1952年(昭和27年)にNHKが東京の第1放送と第2放送の2局を使ったステレオ放送を一部番組で開始。

雑音の影響を受けやすいAM方式に対して、FM(周波数変調)方式は雑音に強いのですが、広い周波数帯域が必要であるため周波数の高いVHF(超短波)帯の電波が使われました。このFM放送もやはりアメリカで1938年(昭和13年)に始まり、日本では1957年(昭和32年)にNHKが実験放送(本放送は1969年)を、1960年(昭和35年)にはFM東海(現在のエフエム東京の前身)が実験放送を開始しました。ステレオ放送が開始されたのは1963年のFM東海とNHK(東京)です。

1992年(平成4年)にはAM放送でもステレオ番組の放送が始まりました。しかしステレオ化した放送局数が限られたため市販された受信機が少なく(受信機の回路図を放送局が配布するほど)て敷居が高く、後には専用の受信機が増えましたが、この方式が雑音に弱かったことで普及するには至りませんでした。それに加えて景気低迷が続いたこともあってステレオ化された局のほとんどがモノラル放送に戻っています。

デジタル化

21世紀に入るとラジオもデジタル化とインターネット化が始まりました。地上デジタルラジオ放送、衛星ラジオ放送、インターネットラジオなどです。地上デジタルラジオ放送は2003年(平成15年)に東京と大阪で試験放送を開始しましたが、現状の地上アナログラジオ放送(AMおよびFM)との差別化が難しいために試験放送は今年で終了(本放送への移行は中止)と決まりました。これは地上波テレビのようにデジタルへ移行する国の政策がないことも背景にあります。

衛星ラジオ放送には衛星テレビ放送に付属する音声サービス(BSデジタル音声放送)と通信衛星(JCSAT-2A)を使う専用放送「MUSIC BIRD」の2種類があります。前者は2000年(平成12年)に放送が始まりました。通常の衛星テレビ放送を受信する設備でそのまま利用することができて便利でしたが採算が取れないことから2007年に中止。わが家の衛星放送が受信できるテレビのリモコンには衛星放送のモード選択に「テレビ」「ラジオ」「独立データ」の3つのボタンがあります。しかし現在は「ラジオ」のボタンを押してもまったく反応がありません。

後者のサービスはPCM衛星デジタルラジオとも呼ばれて、現在「MUSIC BIRD」がサービスを行っています。CDよりも高音質(Bモードはサンプリング周波数48kHz、16ビット符号化、再生上限周波数24kHz)、しかもチャンネル数が156もありますから選択に困るほど。利用するには専用のアンテナ(衛星テレビ放送用とほぼ同じ大きさ)と受信機を準備して加入申し込み(有料サービス)を行うことが必要です。

インターネットラジオは配信方式に「ダウンロード」や「ストリーミング」など様々な種類があります。「ダウンロード」方式(ポッドキャストなど)はダウンロードに時間がかかるため聴くまでかなりの時間を待たなければならないことが欠点、「ストリーミング」方式はダウンロードしながら聴けるため待ち時間が少なくて済みますが、インターネット回線が遅い場合には音が途切れることもあります。

私が現在注目しているのは先の記事で紹介した「ラジコ」と1年前にサービスを開始したコミュニティFM(ミニFM)局の「サイマルラジオ」です。「ラジコ」は地域限定のサービスですが、「サイマルラジオ」は全国のコミュニティFM局を自由に聴くことができます。沖縄・石垣島の「FMいしがき」や札幌の「三角山放送局」など数十局が「サイマルラジオ」に参加しています。そのリーダー格の「湘南ビーチFM」はFM局並の高品質の音声(128Kbps)をインターネット経由で楽しむことができます。外国語の得意な方は、海外にインターネットラジオが多数ありますから、世界ラジオ巡り(米国英国BBC独バイエルン放送協会など)が簡単に出来ます。昔、雑音に埋もれた海外の短波放送局を探したことが嘘のようです。ラジオ放送の新しい楽しみ方を満喫したいと思います。

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2010年3月21日 (日)

南房総の花と灯台(外房編Ⅰ): 「伊戸だいぼ工房」から平砂浦へ

安房国一の宮の洲崎神社を通り過ぎると県道257号(房総フラワーライン、南安房公園線)は東へと方向を変えます。ちょうど昼時になりましたから海の駅「伊戸だいぼ工房」に立ち寄りました。広い駐車場の先に漁師直売所と食事処「漁師茶屋」があります。

 

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同行者は一番人気の海鮮ちらし、私は日替わりさしみ定食を注文。窓の外には海鮮バーベキュー席があり、もう少し暖かくなれば磯遊びやヒジキ狩りも出来るようです。伊戸(いと)地区の漁協組合員が5年前にオープンした店で、当初は直売所と体験観光で営業する予定でしたが、道の駅「とみうら枇杷倶楽部」からのアドバイスで食堂も営業することにしたそうです。気になった名前の「だいぼ」(大謀)は定置(ていち)網のこと。

 

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海鮮ちらしは見た目に鮮やかで、刺身には「ほうぼう」(魴鮄、竹麦魚)の尾頭(おかしら)が付いています。ちなみに「ほうぼう」はカサゴの仲間で、胸鰭(むなびれ)を使って海底を歩くことができる、つまり方々(ほうぼう)歩き回ることから名付けられたそうです。鳴き声によるとする異説も。いずれのメニューも魚が新鮮で期待通りの美味しさでした。

 

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伊戸だいぼ工房の北側にNTTドコモのエコタワーが建っています。太陽電池を利用する環境に優しいエコロジー携帯電話基地局でした。

 

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道路脇に菜の花のベルトが続く県道257号(房総フラワーライン、日本の道100選)を東へと走りました。

   

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館山CCを通り過ぎた右手にある平砂浦(白砂青松の渚100選)の砂浜に花が咲いていることを期待したのですが、ハマヒルガオ(浜昼顔)にはまだ季節が早すぎました。来月になればハマエンドウなども咲くのでしょう。

 

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砂防林の中へと伸びる海岸遊歩道の脇に水仙と鈴蘭水仙(スノーフレーク)がわずかに咲くだけで、大きな波が押し寄せる砂浜にもほとんど人影はありません。

 

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ちなみに海浜植物の群生地として知られる平砂浦はスターウォッチング、サンセットウォッチング、そしてサーフィンの人気スポットでもあるそうです。(続く)

 

 

<<お知らせ>> 記事の途中ですが残念ながら続編の投稿をしばらく休止することになりました。ブログ記事を作成しているパソコンが過労で入院、再開は来月になりそうです。それまではサブのモバイル・パソコンを使って別の記事を投稿したいと思います。

 

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2010年3月20日 (土)

南房総の花と灯台(内房編Ⅲ): 館山から洲崎まで

県道302号(内房なぎさライン)で館山市に入って船形(ふなかた)漁港に立ち寄りました。金毘羅神社前から 300mほど沖の平島にある「船形平島灯台」がよく見えます。船形平島灯台と金毘羅神社はいずれも小さいくて典型的な漁港の風景でした。

 

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平島の右手後方に見える変わった形をした島は富浦町の雀島です。このアングルから私には島の形が雀のように見えましたが名の由来は不明なのだそうです。

   

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館山市の北条海岸に沿って走りました。地中海をイメージした海岸通り(内房なぎさライン)の完成予想図のような看板と工事が進む道路脇の様子にはまだ大きな差があります。館山大橋が架かる平久里川にサギとカモメなどが群がっていました。

 

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県道250号に入ると宮城交差点のT字路に差し掛かりました。海上自衛隊の館山航空基地があるのです。どちらに進むか迷いましたが、やはり地図による事前サーベイで心積もりした場所を選びました。県道257号(房総フラワーライン、南安房公園線)から少し入った館山航空基地の西端に近い大賀海岸の防波堤です。ここから沖ノ島に立つ「館山港沖島灯台」の展望を期待したのですがそれらしきものは見当たりません。館山航空基地の先端をかすめるように位置する沖島は全体を見渡せるのですが、灯台は地上高9.5m(標高11m)ですから、海側の低い場所に建っているようです。灯台の役割から見て海側に開けた場所にあるの当然のことですが・・。先ほどのT字路を右折して基地の海側を沖ノ島まで行く必要があったのです。

   

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この灯台を見に行くのはまたの機会にして、浜辺に咲いているハマダイコン(浜大根)を撮影しました。

 

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県道257号を西へと走っていると左手の高みに水仙が群生しているのを発見して一枚撮影しました。

 

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房総半島が西方へサイの角のように伸びた先端にある洲崎(すのさき)にも立ち寄りました。灯台前バス停の脇から狭い道に入ります。「洲埼灯台」の下にある弥平の有料駐車場に車を預けました。灯台までの階段を上ると50mほど。この灯台は南房総で西端に位置します。庚申山(こうしんざん)に立つ白亜の円筒形灯台は高さが14.8mと中型ですが、灯火の位置は海面から45.1mもあるそうです。

 

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この灯台は東京湾入口の東端を示す標識で、三浦半島の剣埼(つるぎざき)灯台とともに東京湾の浦賀水道を出入りする船舶の目印であると説明されていました。下の写真は菜の花越しに見る海水浴場のある坂田と波佐間(はさま)など東方面と西方の展望がきく「夕日が丘富士見台」です。この日は残念ながら・・。

   

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ちなみに地名の「洲崎」と灯台の名前の「洲埼」は異なる漢字が使われます。剣埼灯台も同様、その理由は3年前の記事「埼玉県の地名」で説明しています。

<同行者のコメント> アクアラインを出て最初に車が止まった場所には何もなくてびっくり、その後は菜の花ばかりを見て歩くことに。それに千葉の灯台を探すドライブがまた始まったようで、急な山道や狭くて車が通り抜けられない海岸の路地へ車で入って行く旦那様にはハラハラしました。□

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2010年3月19日 (金)

南房総の花と灯台(内房編Ⅱ): 道の駅「とみうら枇杷倶楽部」

国道127号で南房総市富浦町に入るとユニークなデザインの道の駅「とみうら枇杷倶楽部」がありました。花摘み、いちご狩り、食事などの日帰り観光による町の活性化を目指して富浦町が出資した第3セクターです。枇杷倶楽部の名は富浦町名産の枇杷(びわ)から名付けられたようで、出荷規格外の枇杷を地元農家から購入、枇杷の果肉を利用したジャム・缶詰・ソフトクリーム、枇杷の葉を利用したびわ葉茶、びわカレーなど様々なオリジナル商品を販売しています。ちなみに枇杷倶楽部は2000年に開催された「道の駅グランプリ2000」で最優秀賞を獲得したそうです。

   

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よく手入れされた花壇には春の花咲き乱れています。

 

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川縁(べり)まで歩くと南の方向に菜の花畑が山の麓まで広がっているのが見えます。「きらりばし」を渡って対岸にある菜の花畑の中を歩きました。

 

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3月20日~22日の3日間は「菜の花まつりファイナル」と銘打ったイベントが予定されているそうです。

 

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隣接地にはお魚市場やお百姓市場など地場産品を売る店が並んでいます。

 

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道路の反対側にある「元気倶楽部」(公民館)に足湯を求めて立ち寄りましたが残念なことにこの日は休業でした。(続く)

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2010年3月18日 (木)

南房総の花と灯台(内房編Ⅰ): 保田から勝山へ

久しぶりに南房総をドライブすることにしました。この日はあいにくの曇天、東京湾アクアラインの木更津金田ICを出て最初に向った先は菜の花畑「花ほたる」です。南伊豆町と同様に休耕田を利用したものですが既に閉園していて更地になっていました。夏にはひまわりを楽しめるそうです。(写真は海ほたるから見た川崎の風の塔と木更津方面)

 

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国道16号から国道127号(内房なぎさライン)に入って南下すると広い中央分離帯に菜の花が黄色いベルトとなって続きます。

 

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魚料理「かなや」、浜金谷のフェリー乗り場と鋸山ロープウェイ前を通り抜けたJR内房線保田(ほた)駅のすぐ先にある保田交差点を左折して県道34号(長狭街道)に入りました。富津館山道を潜って保田川に沿って東進、横根峠で鴨川市に入る少し手前を右折して南下すると道路の舗装工事が行われていてローラーが地ならしする前の不安定な路面と固めた後の硬い路面に注意しながら通過、小さなトンネルを抜けると佐久間ダムに出ました。「をくずれ水仙郷」はこの近くのはずと見回しましたが見つけられません。12月から2月までが見ごろでダム湖周辺の水仙も花の時期が終っており水仙をパスして次の目的地に向います。県道に出る前に菜の花が咲く里山の風景がありました。

 

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県道184号(外野勝山線)の快適な道を西に走っていると小さな標識に「江月方面」と手書きされているのを見つけました。江月という地名を見て「江月水仙ロード」があるはずと思わず田舎道へ入りました。枝分かれする道は折れ曲がり、行き止まりがあったりしながら山へと登って行きます。どうも江月は山の向こう側のようで、向う見ずな私ですが、軽トラ用に造られた狭い農道をそれ以上突き進むことを断念しました。

鋸南町(きょなんまち)のJR内房線安房勝山駅東側に菜の花畑が山の麓まで続いています。その一部では田植えの準備なのでしょう、トラクターで菜の花を倒していました。

 

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国道127号に出て大黒山(だいこくやま)方面へ向いました。車を停めて名もない小さな岬へ出ると1kmほど沖合に浮島が見えます。左手の穴が開いた島が「大ボッケ」、その左が「小ボッケ」、いずれもユニークな形をしています。目当ての「勝山浮島灯台」は浮島の上に立っているはずですがこの岬からは見えません。それではと大黒山へ登ることにしました。大黒山は昔、勝山城があった場所で、石橋山の戦いに破れた源頼朝が真鶴半島から安房国へ逃れた際に従臣した地頭安西氏の出城だったと説明されています。階段がよく整備されていますが急な昇り道が大黒山を一周するように続いて鹿児島の指宿にある開聞岳(かいもんだけ、海抜922m)に登ったことを思い出します。

 

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10分ほどで山頂(標高75m)に到着、コンクリート製の展望台に上がると周囲がよく展望でき、浮島の上に「勝山浮島灯台」が見えました。案内板に水戸光圀も鎌倉へ行く途中に大黒山へ立ち寄ったこと、北条水軍と戦った里見水軍、東京湾に入る鯨を見つけて合図する州崎から勝山まで拡がる昔の広域看視システムが説明されていました。

 

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勝山漁港の後ろにそびえる大黒山の頂上に見える城のようなものが展望台です。

 

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薀蓄です。里見水軍とは上野国(こうずけのくに)清和源氏新田氏の流れを汲む里見氏が海賊を基盤に作った海軍。里見氏は鎌倉幕府軍に破れたため安房国に移って安房国や上総国を勢力下に置いた室町時代後期の大名で、滝沢馬琴の作になる「南総里見八犬伝」のモデルになりました。ちなみに大黒山から5kmほど東南に位置する南房総市の富山(とみさん、標高350m)の中腹には「伏姫籠穴」があるそうです。(続く)

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2010年3月15日 (月)

パソコンがラジオに! 「ラジコ」がスタート

今日(3月15日)の早朝からパソコンでラジオ放送が聴けるようになりました。と言うと「何を寝ぼけたことを!何年も前からパソコンでラジオ番組を聴いているぞ!」とおっしゃる方がいると思います。その通り、これまでもパソコンでラジオ番組を聴くことができました。USBメモリーのようなFM/AMラジオチューナーをパソコンにセットすればラジオ番組が聴けますし、インターネットラジオやストリーミング、そして人気のポッドキャスティングなどを利用すればパソコンでラジオ番組を聴くことができました。しかし前者はパソコンをアンプとスピーカとして使うもの(パソラジ?)であり、後者はラジオ番組をコンテンツとしてダウンロード(あるいはストリーミング)するものです。

今回のテーマに取り上げのはこれらとは一線を画したラジオ放送。つまり通常のラジオ放送(中波およびFM)をリアルタイムで同じ内容を配信するサイマル(同時)放送なのです。サイマル放送とはNHK総合テレビのように地アナ・地デジ・BS-2(衛星放送)で同時に放送される形態を言います。これまで何故行われていなかったのでしょうか?視聴率が低下することを懸念する民放ラジオ局が及び腰であったことと、放送であるラジオと通信であるインターネットの間に放送法などのバリア(障壁)が在るからなのです。

今回、新しいサービス「IPサイマルラジオ」が可能になったのは、広告収入が景気低迷や広告メディアとしてのインターネットが成長したことによって減少したため民放ラジオ局が積極姿勢に転じ、規制当局も放送法の規定を大きく逸脱しないことを条件に認可したことで実現したようです。またこのサービスには都市部の一部でラジオが聴きにくい状況を改善するとの大義名分があります。実際はローカル局へ配慮したためかサービスエリアは制限されています。具体的にはパソコンの所在地をIPアドレスで推定して利用の可否が判断されるようです。サイマル放送は、地域密着型のコミュニティFMですでに行われていますが、大手のラジオ局では始めての試みなのです。

都市部でラジオが聴きにくいとはどう言うことでしょう。例えばビル内やマンション内では部屋によってラジオ放送の電波が入りにくいことがあります。またラジオ電波が強くても近隣にもっと強い雑音電波を出すものがあるとか、同じ部屋でテレビなど雑音電波を出す電気機器が使われている時もラジオが聴き難くなります。もちろんラジオが手元になければラジオ放送を聞くことが出来ません。実際は都市部だけでなくラジオの送信所からそれほど遠くなくても山間地などでは同様に聴きにくい状況がありそうで、こう言った環境の聴取者も同様に救済されると思われます。

余談になりますが、子供の頃からラジオが大好きで、アマチュア無線にものめり込んだ私にとって雑音は大敵でした。アマチュア無線では「CQCQ」(誰か聴いていませんか?)とマイクに向かってがなりたて、夜中はモールス符号を用いる電信(CW)で「トンツー」と電鍵をたたいて、雑音に埋もれそうな弱い応答信号に耳を傾けていました。そして20年以上前からは交信結果を記録する業務日誌にパソコンを利用、キーボードで文字通信を行うラジオテレタイプ(RTTY)やパケット通信(AX.25プロトコル)にもパソコンを使うようになるとパソンコンが発生する電波雑音に悩まされました。当時のパソコンは現在のものと違って強烈な雑音発生器でした。接続コードのシールドを強化したり、雑音を吸収するフェライトコアを入れたりと、悪戦苦闘したことを覚えています。現在はインターネットを利用するインターネットアマチュア無線(VoIP技術を利用して交信相手の近くの局を中継局とするEchoLink、言わばキセル交信)まで登場しています。これではアマチュア無線の交信とは言えないのではないかと「JAのコールサイン」を持つ老アマチュア無線家(OT、いやOM)は思うのですが・・・。

ここまで読んでも「それで?」あるいは「何が良いか分からない」と思った方には無駄な情報だったようです。お疲れ様でした!

一方、興味を持たれた方は「ラジコ(radiko)のhp」にアクセスすると良いでしょう。このhpで聴きたい放送局をクリックするだけで利用できますから簡単、特別なソフトウエアや設定は不要です。また当面はパソコンだけですが、アップルのiPhoneandroid(Google製OS)を採用する携帯電話向けのサービスも検討されているそうです。

ちなみにこのサービスで聴けるラジオ局は首都圏(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)でTBSラジオ、文化放送、ニッポン放送、TOKYOFM、J-WAVE、InterFM(エフエムインターウェーブ)の6局とインターネットラジオのラジオNIKKEIの計7局。近畿圏(大阪府、京都府、兵庫県、奈良県)も同様に6局。今日始まったのは試験配信で、半年後の9月に実用化配信(本サービス)が予定されています。

一番早い時間にラジコによる放送を始めたのはTBSラジオ(JOKR)で、午前3時半過ぎに試験電波(電波によるものとまったく同じ内容)が流れ、午前4時からは通常番組「あなたへモーニングコール」(出演者は竹井志織さん)がスタートしました。最初に流れた曲はチューリップの「心の旅」、想像していた以上にクリアなステレオサウンドを聴きながらこの記事を書いています。貴重品であるAMステレオ受信機を持っていなくてもAM(中波)ラジオのステレオ番組が楽しめるのです

と、すべて良いことずくめのようですがラジオ放送と聞き比べて数秒遅れていることに気付きました。地デジ(ワンセグを含む)と同様に時報も遅れるのです。ですから時計を合わせる目的にはアナログのテレビやラジオ、あるいは時報のタイミングが補正されている衛星テレビ放送のいずれかを利用するのが良いでしょう。

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2010年3月13日 (土)

LED新時代

昨日の3月12日まで有明の国際展示場(東京ビッグサイト)で開催された展示会「LEDNext Stage 2010」へ出掛けました。「IC CARD WORLD」「SECURITY SHOW 2010」など計8つの展示会が同時開催されていて東ホール・西ホールとも大変な混雑です。

2010_0311led0059 LEDとはLight Emitting Diodeの略で「発光ダイオード」のことです。半導体素子に電流を流すと発光するエレクトロルミネッセンス効果を利用するもの。つまり電気エネルギーを光エネルギーに直接変換できる素子で、今注目される有機ELもその仲間です。1962年にアメリカで世界初のLEDが開発されました。天皇陛下がご成婚された3年後、東京オリンピックが開催される2年前、つまり50年近くも前のことです。最初のLEDは目に見えない赤外線を発光するものでリモコンなどへの応用に限られました。

2010_0311led0044 次いで赤色LEDが開発されると電球よりも消費電力が少なく寿命が長いことで表示用に使われました。LED表示を採用した世界初の腕時計は1970年に発表された米国ハミルトン社(スイスのスウォッチ・グループに買収)の「パルサー」(その後ブランド名をセイコーに売却)です。赤色以外にも様々な色を発光するLEDが開発され、20世紀末になると青色LEDが日本で開発されて、ついに光の三原色(赤青緑)が揃(そろ)いました。これによってあらゆる色を表示できるのはもちろん、白色光を作り出すことが出来、テレビや照明への応用が現実のものとなりました。

2010_0311led0039 歴史的な説明はこれくらいにして、なぜ「LEDが新時代を迎えた」と言われるのかについて解説しましょう。LEDには多くの優れた特徴があります。小型、長寿命、そして発光効率が良くて省エネなのです。電子機器の表示ランプ(表示器)、テレビなどの赤外線リモコン、携帯電話や液晶テレビのバックライト、交通信号機のランプ、電光掲示板(広告看板)、自動車のヘッドライト、防犯灯など用途を挙げると切りがありません。

最近、LEDテレビと呼ばれるものが増加していますが、これは白色LEDを液晶テレビのバックライトとして使うもので、三色のLEDを表示に使う大型街頭テレビなどとは異なるものです。これまでバックライトとして使われてきた蛍光管よりも消費電力が少なく、色の表現力を向上できるため、高級テレビを中心に採用されているのです。これについてはCEATEC展示会の記事で紹介しています。

2010_0311led0036 そしてエコへの関心が高まりLED電球(電球型LEDと言うべきでは?)が注目されています。LED電球は白熱電球はもちろん蛍光灯よりも長寿命です。しかしエネルギー効率ではまだ蛍光灯に及ばず、もう少し時間がかかりそう。電気代だけを気にする方は電球型蛍光灯のほうが今のところお徳、電球の取替えが大変(あるいは面倒)な方はLED電球が向いているでしょう。照明用としてLEDが優れているのは小型である(点光源に近い)ことで自由な照明デザインが可能になることだと思います。

2010_0311led0033 あと数年すれば光るものがすべてLEDを採用する時代が訪れるかもしれません。そして面光源である有機EL照明もコストの課題が解決されると実用化で先行した点光源的なLED電球とともに使われるでしょう。右の写真はLED電球のカットモデルです。

東ホール奥の展示会場はカラフルな照明をしたブースが立ち並び、商品化されたLED電球やLED表示器が多数展示されていましたが、開発中の技術もあるため写真撮影が出来ない展示コーナーもありました。

2010_0311led0046 蛇足です。大手電気メーカーが白熱電球の製造を中止し、家電量販店がその販売を取り止めるようですから、これからは白熱電球が切れるたびに電球型蛍光灯やLED電球に置き換えることは避けられません。そしてブラウン管テレビ(BS・CSにも対応)をまだ使っているわが家はそろそろLEDテレビ、それとも一足飛びに3D対応のLEDテレビにしようかと楽しみながら悩んでいます。

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2010年3月11日 (木)

栃木の小京都(最終回): 天然温泉「鹿島園」と佐野ラーメン

足利市の市街地から県道40号で東へ向います。電線が地中化された風景は清々しく感じられて良いですね。当ブログでは電線のない町並みを折に触れて紹介しています。栃木市、宮城県大崎市岩出山、静岡市清水区三島市、長野県中野市など。

 

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県道67号に入った八椚町(やくぬぎちょう)交差点を左折、大小山(だいしょうやま)や起床峠から続く山の裾野に大きな鹿島園ゴルフ練習場が見えてきました。日帰り温泉「鹿島園温泉の利用者はその横を通り過ぎて一旦敷地奥にある宿泊施設「鹿島園の宿」の近くまで行ってから戻る形で施設入口の前に駐車できます。建物外観の印象はやや猥雑(わいざつ)、失礼! 内部もいっぱい貼られた張り紙が目に付きました。

   

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一階の自動券売機で入館券を購入、料金は500円と銭湯並みに安い。那須や鬼怒川など有名な温泉地が多数ある栃木県ですがいずれも県北部に集中、南部には地下から汲み上げる比較的新しい温泉が少数あるだけ。そのためか家族連れの客に結構人気があるようです。浴場は階段を下りた地下一階にありますから窓がほとんどない脱衣場と浴室はちょっと息苦しく感じますし、建物内は一昔前のヘルスセンターの風情です。掛け流しされる湯(地下1500mから1日19万リットル湧出)の泉質は単純泉(弱アルカリ性低張性温泉)、無色透明で無味無臭、泉温は40.5度と説明されています。やや温めの湯から上がったあとに肌が滑らかになるように感じたことと身体もほてってきましたから良質の湯なのでしょう。浴室内には温泉風呂、泡風呂、水風呂の他に小振りのサウナがありました。

 

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平成11年(1999年)の開業であることが館内に掲示されていた新聞記事で知りました。まだ11年しか経過していませんがもっと古びて見えます。施設の維持補修が十分ではないようです。それはともかく、浴室で気になったのがタイル張りの床が滑りやすかったこと。脱衣場に近い洗い場周辺だけですからシャンプーが床に流れているようです。同行者も同じことを言っていましたから構造的な問題かもしれません。時々清掃する必要があると思います。

 

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帰りがけに館内案内を見て2階に露天風呂のあることに気がつき、受付の人に確認すると、「入館券を買えば自由に両方の風呂に入れる」との答えが返ってきました。露天風呂とは言っても写真から想像すると展望風呂のようです。温泉に入っている間に外が暗くなっていましたので断念。それに館内着がありませんから地下1階と2階を往復するのは面倒そう・・・。今回は辛口のコメントになりましたが低料金で豊富な掛け流しの温泉を利用できるのは地元の人には嬉しいことと納得しました。

すっかり日が暮れた県道67号(例幣使街道)を佐野市方面に走りました。進行方向に満月が大きく見えて朝方の強雨が嘘のよう。山登りに夢中になったため今回も時間配分に失敗(1時間もオーバー)、心積もりしていたイタリア料理店「ぽるか」(足利市役所近く)へ戻る気になれません。佐野市と言えばそうだ「佐野ラーメン」があると、これもいつものことですが、予定を柔軟に変更。佐野ラーメンの情報を仕入れていませんので飛び込みです。暗い道が続いた県道67号の浅沼町交差点で県道9号へと右折すると電飾がいっぱいの賑やかな雰囲気にかわりました。佐野ラーメンの店を探しながらゆっくり走行していると、左手に「石焼ラーメン火山」、右手に「佐野青竹手打麺 めん一番」の2店を見つけました。前者は佐野ラーメンではなさそうと判断して後者の駐車場に入りました。マツモトキヨシとスーパー・ヤオコーへのエントランス道路の脇です。

 

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私はさっぱりした「塩ラーメン」(あっさりすりゴマ入り)、同行者は超おすすめと書かれた「生姜ラーメン」(薄醤油味)を注文しました。店の看板に手打ち麺と書かれて入口脇に麺打場もあったことから注文を受けてから麺打をしているのかと思うほど時間が掛かりました。この日に訪れた先々を思い出しながら待つ間に客が次々と入店して外で待つ人も現れました。およそ20分後に配膳された塩ラーメンは見た目どおりにあっさり味で、チャーシューが柔らかく、平麺は固めで幅が広いものが混じって微妙な食感も・・。生姜ラーメンも家族連れに人気がありそうな薄味で同行者も気に入ったようです。

 

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ラーメン以外にもギョーザだけでなくチャーハンまでメニューにあることは意外でした。

<同行者のコメント> 二つ目のお寺でも駐車場で長く待たされ、ほかに一台停まっていた車が居なくなると人の気配がなくなって心配でした。丹後半島の灯台の時と同じです。足利学校は外から見ただけで残念。温泉はお湯が良かったと思いますがもう少し小奇麗だといいですね。浴室も滑りやすくて大変。ラーメン屋さんではあんな熱いどんぶりを2つも運ぶ女性の店員さんに驚きました。ラーメンは美味しかったです。□

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2010年3月10日 (水)

栃木の小京都(その2): 織姫神社と足利氏の遺構

次に向ったのは織姫神社1300年の歴史と伝統を誇る織ものの町である足利の守護神として奉った神社です。県道40号で足利市の市街地へ走って市役所の少し手前の交差点から消防署の前を通過。鍵の手になった交差点を通り過ぎればあとは案内表示に従って織姫観光道路で両崖山中腹にある織姫公園まで上るだけです。公園の駐車場から歩くと昭和に入って再建された銅葺き朱塗りで均整の取れた美しい神殿が見えてきました。夜景の名所と言われるだけあって市街地と渡良瀬川がよく見えました。

 

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駐車場に戻る途中で大山阿夫利神社参道入口の名を見かけました。神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社と同じ名前が気になり参道の石段を上りたくなりましたが、もう4時をだいぶ過ぎていますので断念せざるを得ません。帰宅後に調べると足利市では五穀豊穣の神である阿夫利神社を信仰する大山講が江戸時代から盛んに行われていたそうですが伊勢原市の大山阿夫利神社との関係は分かりません。大山阿夫利神社をこの地に招来したのか、それとも祭神が同じ大山祇大神(オオヤマツミノカミ)だからでしょうか。雨降山大山寺は奈良時代の良弁僧正によって天平勝宝4年(西暦752年)に阿夫利神社の神宮寺(神社に付属する寺院)として建立されたことも知りました。

市街地に入って太平記館の駐車場に車を停めました。広い昭和通りの反対側が堀をめぐらせた足利学校です。 平安時代後期もしくは鎌倉時代初期に創設されたと伝えられる日本最古の高等教育機関は室町時代になるとよく整備され、16世紀初頭になると生徒が3000人を超えたことが1550年(天文19年)にフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介。足利学校は1872年(明治5年)まで続いたそうです。現在の建物は落雷により消失してしまった江戸時代の様子を復元したもので国の史跡に指定されています。(足利観光協会のhpより) 案内標識に従って入口に向いましたが午後4時までの開館時間を40分も過ぎていました。

 

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タイル舗装された洒落た道を歩いて足利氏宅跡鑁阿寺、ばんなじ)へ向いました。道の脇にある小さな公園に足利幕府を開いた足利尊氏(たかうじ)の銅像がありました。

 

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鑁阿寺は源姓足利氏2代目義兼が建久7年(1196)邸内に持仏堂を建て、守り本尊として大日如来を祭ったのが始まりで、3代目義氏が堂塔伽藍(がらん) を建立し足利一門の氏寺としたそうです。本堂(大御堂)、鐘楼、経堂(一切経堂)が国の史跡に指定されています。(足利観光協会のhp) 屋根のある太鼓橋を渡り山門を潜(くぐ)りました。周囲を堀と土塁がめぐる鎌倉時代の武家屋敷の雰囲気があります。

 

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ほぼ正方形の敷地は本堂を中心に4つの門からアクセスできる配置になっています。本堂は修理のためにシートで覆われており、その右手前には鐘楼、左手前には多宝塔、その奥に経堂が立ち並んでいます。

 

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大銀杏(天然記念物)がひときわ目を惹(ひ)きました。推定樹齢は約550年、周囲9m、高さ約30mと説明されています。鐘楼の前にあるのは弘法大師像です。(続く)

 

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2010年3月 9日 (火)

栃木の小京都(その1): 行基上人縁の浄因寺

映画が好きな私は昨日のアカデミー賞授賞式をWOWOWの生中継(朝から約5時間)で楽しみながら観ました。前評判が高かったのは「アバター」と「ハート・ロッカー」ですが、つい先日アバターを見た私はアバターが何部門で受賞するかに興味がありました。結果はハート・ロッカーが作品賞・監督賞をはじめとする6部門を受賞して圧勝。ちなみにアバターは3部門の受賞に留まりました。「ハート・ロッカー」(The Hurt Locker)という題名は英語に自信のある私にも意味が分かりません。調べてみると兵隊用語で「棺おけ」のことでした。イラクにおける米軍爆弾処理班の38日間の活動を描いた作品です。監督賞を受賞したのはキャスリン・ビグローで女性として始めての快挙です。この作品は2008年の製作ですが日本では3日前(3月6日)に封切りされたばかりです。

授賞式では舞台に登場する俳優達の会話も楽しめました。二人の司会者が元夫婦であり競合する2作品の監督に触れ、時限爆弾付きのプレゼントへのお返しに「トヨタ車」を送ったとのブラックジョークをさりげなく言い、「美しい女優のプレゼンター(オスカー受賞者を伝える役)を紹介する、美しくない女優には飽きたからね・・。」と関西のお笑い芸人のような危険な言葉も。感動的な受賞者の挨拶のあとには「実は今の原稿を書いたのは私です」と言うなど、もう大変です。プレゼンターも「映画とは美人とオタクが作るもの」ときわどい表現、アメリカならではのスピーチが飛び交います。

下世話な話題としては司会者が触れたように上記2作品の監督が元夫婦であったことと、ハート・ロッカーのプロデューサーの一人が電子メールで事前運動をしたため授賞式への出席を禁止される処分を受けたことなどで、例年以上の盛り上がりになったと思います。ただ受賞作品のなかでちょっと気になったのは長編ドキュメンタリー部門で受賞した「ザ・コーヴ」(入り江の意味)。和歌山県太地町(たいじちょう)で地元漁民がイルカを捕獲するシーンを隠し撮りしたもの。環境保護団体が資金援助したこの映画はシーシェパードによる過激な捕鯨反対活動と二重写しになります。夜にも字幕付きの再放送を観てしまいアカデミー賞漬けの一日になりました。

余談が長くなりました。栃木県へのドライブ旅の後半に戻ります。県道202号で石灰鉱山(羽鶴鉱山)を抜け、県道200号を経由、国道293号に入って南西方向に走ると20kmほどで小京都と呼ばれる足利市に到着しました。藤原秀郷の流れを汲む藤原姓足利氏が領した荘園が足利庄で栄え、源氏の源頼朝によって藤姓足利俊綱が滅ぼされると、源姓足利氏が領有したことで清和源氏義家流・足利氏の発祥地としても知られます。フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と呼んだ有名な足利学校があります。

市街地へ入ったところで県道40号と県道284号を経由して行道山浄因寺(ぎょうどうさんじょういんじ)へ向います。断崖絶壁に囲まれた山中にあることから「関東の高野山」とも呼ばれ、713年(和銅6年)行基上人の開創と伝えられる名刹です。車1台がやっと通行できる狭い道を上りました。

 

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20台分ほどの広さがある駐車場に車を停めて石段を上がりました。この寺から大岩毘沙門天・両崖山(りょうがいさん)・織姫神社・足利学校を経て足利駅まで続くハイキングコース(全長9.0km)の案内があります。

 

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長い石段の先にある山門前に「参拝拝観は4時で終了します」と書かれた立て看板を見つけました。3時を少し回ったところでセーフ、この寺へ先に来たことが正解でした。2つ目の山門、鐘楼、そして本堂が続きます。

 

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参道から山頂にかけて続く大小様々な石仏は3万3千体もあるとのこと。数えた人の根気にカウントするのが好きな私も脱帽!

 

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平らな場所を経由して急な坂道を上りきると突然視界が開けました。浄因寺の奥の院である四十九院(実際は岩場)には50cmの「寝釈迦」が横たわる涅槃台(ねはんだい)と石仏群が祀られています。写真で想像していたよりもずっと小さな石仏です。

 

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本堂前まで降りて眺望絶景と想像される茶室「清心亭」の下まで歩きました。巨石の上に建てられた清心亭へ渡るために架けられた空中橋「天高橋」は葛飾北斎が「足利行道山雲のかけ橋」として描いたもので、山形県山形市の山寺と似た雰囲気があります。ちなみに手すりがある橋は鉄製のようです。

 

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奥の院へ至る参道はそれほど長くはありませんが駐車場に戻るまで40分ほどかかっていました。(続く)

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2010年3月 7日 (日)

栃木の小江戸(最終回): 出流山満願寺

県道32号を栃木ICまで戻り、さらに直進して13kmほど走りました。県道202号から山の中に分け入ります。三峰山山麓の広大な石灰鉱山(三峰鉱山)を抜けた次の目的地は出流山満願寺(いずるさんまんがんじ)、弘法大師が820年(弘仁11年)この寺へ立ち寄った時の作とされる千手観音菩薩をご本尊とする板東十七番札所である真言宗智山派の密教寺院です。今から1200年前、天平神護元年(765年)に日光山を開いた勝道上人(しょうどうしょうにん)によって開創されました。幕末には倒幕の志士が立て籠もった出流山天狗事件があったことが伝えられています。油伝味噌で聞いた太平山に立て籠もった水戸天狗党とは別のもので薩摩藩浪士と農民による騒乱のようです。

名物の手打ソバ屋が立ち並ぶ参道を抜けて堂々とした造りの山門(仁王門)を入った駐車場に車を停めました。薬師堂と本堂の大御堂(おおみどう)にお参りしたあとは拝観料300円を払って奥の院を目指しました。往復1.5kmと表示されています。

 

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御沢(おさわ)沿いに建つ如蓮堂と女人堂を過ぎると前方に山小屋のようなものが見えて来ました。

 

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木製看板のカウントダウンも1番「ん?」を示しています。

ここで薀蓄(うんちく)です。御詠歌(ごえいか)とは仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌として曲に乗せて唱えるものです。寺院には各々固有の御詠歌があり、満願寺の御詠歌は「ふるさとを はるばるここに たちいづる わがゆくすゑは いずくなるらん」で、本堂から奥の院に向う道筋に並ぶ木製看板には御詠歌の文字ではじまる参拝者への励ましの言葉が記されていました。例えば如蓮堂前の木製看板には18番の「ち」で「ちかい立て距離あろうとも喜びの汗」、そして最後の1番が「ん」。奥の院への道を上りながら御詠歌を唱えられるようになっていたのです。

  

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小屋の前に修行の場である大悲の滝(落差8m、出流川の源泉)があり、急な石段を100段あまり上った奥の院は展望台のような建物です。

 

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奥にある「大悲の岩窟」(鍾乳洞)には鍾乳石で自然に出来た「十一面観音菩薩」があり子授け・安産・子育ての霊験あらたかであると信仰を集めているそうです。照明のスイッチを入れると高さが4m以上もある十一面観音菩薩の後姿が浮かび上がりました。鍾乳石がこの高さになるには5万年以上もかかると推定され、県の天然記念物に指定されているとの説明があります。寺に入る前に石灰鉱山を通過したことから分かるようにこの地域は石灰岩の地質で山口県の秋吉台と同様に水で浸食されやすいのです。

 

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奥の院のさらに先には大日霊窟(れいくつ、岩屋)があります。修行の場のようですが鉄梯子(はしご)が傷んでいるので登って中を覗(のぞ)くこともできません。

   
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大師霊窟と聖天堂への案内があります。細い道を進むと崖っぷちの獣道のような道がどんどん上方へ伸びています。ほんの一瞬だけ私の心に不安が生まれましたが信心深い私の決心は変わりません。雨は止んでいますが滑りやすい足元に注意しながら歩くと急な石段が見えました。大師霊へ上る折れ曲がった石段はかなり痛んでいますので登山靴が欲しくなります。大師霊窟に掛けられた鉄梯子も使えそうにありません。四国遍路をした時に空海が修行したと伝えられる高知県室戸岬の御厨人窟(御蔵洞)と愛媛県にある岩屋寺の穴禅定(あなぜんじょう)を思い出します。

 

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崖沿いの細い道を聖天堂へ向って歩き始めると後から来た登山姿の男性が「先へ進めますか?」と聞いてきました。「はじめてで分かりません・・」と答えながら私の直感はゴーサインを出しています。岩をくり抜いて建てられた聖天堂が見えてきました。聖天はもともとヒンドゥー教の神様で仏教(密教)に取り入れられて夫婦和合と子授けの神として信仰されているそうです。堂の前から長い石段を下りると奥の院へ向う道に出ました。

 

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ユニークなデザインの鐘楼脇を経由して駐車場まで戻ると出発してからすでに1時間が経過しています。

 

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<同行者のコメント> 雨が降っても旦那さまはドライブに出掛けると・・・。何も見えないのに山の展望台へ何度も上ったのはうちの旦那さまならでは、雨が降る阿蘇山へ同じ日に二度も登ったことを思い出しました。田楽茶屋さんにあった調度品がすてきで思わず皮の羽織に触ってしまい、田楽の味噌が美味しくてお土産に買い求めました。そして満願寺では旦那さまが1時間も戻ってこないのでずいぶん心配しましたよ。□

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2010年3月 6日 (土)

栃木の小江戸(その3): 三度目の謙信平へ

日光例幣使街道を市中心部へ向ったところにあるのが550年以上の歴史を持つ旧家「岡田家」(江戸時代は畠山氏の陣屋)で岡田記念館として一般に公開されています。代官屋敷の看板が掛かる立派な門を入ると4000坪に及ぶ広大な敷地がありました。岡田嘉右衛門の表札の隣に「電話一番」と表示され、岡田家の住所は嘉右衛門町1番地と名前が町名になっており、この地で一番の旧家であることが分かります。これから連想して、「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」と歌うCMソングを思い出しました。

 

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ここで電話番号についての薀蓄(うんちく)です。電話交換手が手動で通話先に繋(つな)いだ時代は1番など短い番号に人気がありましたが、100年余り前(日本では大正15年/1925年に東京の京橋電話局が開局)に自動交換機が導入されるとダイヤルを回転するのが楽な1111番、そしてタッチトーン(NTTのプッシュホン)の時代になると語呂の良い番号が好まれました。例えばアート引越センターの「0123」や伊東温泉ハトヤホテルの「4126」(よいふろ)などが有名です。アメリカでは社名をそのままダイヤルできる番号がよく使われます。と言うのはアメリカの電話機には数字とともにアルファベットがダイヤル上に表示されているからです。日本でも携帯電話にはこの表示(0と1を除く)があります。気がついていましたか? 私が興味を持つ自動車の人気あるナンバープレート(ライセンスプレート)も同様で、アメリカではあなたの名前など関心のある名称を表す6文字前後の英数字(私ならONSNMN)がナンバープレートに使えます。 

さて本題に戻ります。「蔵の街遊歩道」から栃木市役所へ向いました。市役所別館(大正10年竣工)は国の登録有形文化財、その脇に巴波川(うずまがわ)と漕渠(そうきょ、運河)で結ばれて水運に使われた県庁堀(県庁があった時の名残)と栃木県議会発祥の地の石碑があります。案内板にはそれらの説明とともに明治17年に県令の三島通庸(みちつね)が強引に県庁を宇都宮に移したと書かれて地元住民の怨嗟(えんさ)の声がストレートに表現されていました。

 

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山車会館とちぎ蔵の街美術館に立ち寄ったあと、再び塚田歴史伝説館の前を通過して太平山に向いました。早朝に2度も立ち寄った謙信平からの景色は「陸の松島」とも呼ばれるそうですから少しでも良い展望を期待して再々チャレンジです。

 

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永野川を渡る場所から見ると太平山から水蒸気が立ち上っていますが視界は大分良くなったようです。期待しながら鳥居を潜って国学院大学付属校と六角堂の前を通過して謙信平に到着しました。

 

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展望台の最上階に上ると見えました! 地平線にはまだ雲が残っていますが早朝の五里霧中とは大違いの素晴らしい展望です。

 

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いつものことと車の助手席で寝ていた同行者にはカメラの小さなディスプレイ画像を見せても私の感激が伝わらなかったようです。(続く)

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2010年3月 5日 (金)

栃木の小江戸(その2): 太平山神社から日光礼幣使街道へ

太平山神社へ向いました。徳川吉宗が建てた立派な「随神門」には、表に左右大臣、裏側に仁王像があり、寺院として栄えていた頃の名残であると説明されています。この山門から長い石段が続いています。

 

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53代淳和(じゅんな)天皇の御代(823-833年)に太平山神社が造営されたそうです。雨で滑りやすい石段を子供のように段数を数えながら上るとおよそ250段もありました。先ほどまでの寒さが嘘のよう。勅旨門をくぐった本殿には太平山神社の主祭神である瓊瓊杵命(ににぎのみこと)・天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)・豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)が祀られています。

 

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石段を下りて見晴台に向います。大きく迂回する急な道を上ると太平山神社脇に出ました。石段が苦手な方はこちらから太平山神社の本殿へ楽に行けます。振り返ると栃木市方面の視界がかなり開けはじめました。太平山神社で好天を願ったことが叶えられたようです。雨は続いていますが山の木々から水蒸気が立ち上っているのが見えます。

 

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見晴台入口まで戻ると先ほど上って来た道がいつの間にか工事のため通行止めと表示されています。止むを得ず太平山遊覧道路(約7000本ある桜の名所)を謙信平へと逆戻り、再び謙信平の展望台に立つと霧が少し薄れて下界が薄っすら見えます。

 

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謙信平の先にある六角堂(市指定有形文化財)へ足を伸ばすことにしました。太平山が寺院であった時の別当寺で本尊は慈覚大師作と伝えられる県内で一番古い木造彫刻の虚空蔵菩薩(県指定有形文化財)です。明治時代後期に暴風雨で崩壊した時に京都頂法寺の六角堂を模し堂宇を建立したため通称六角堂と呼ばれています。

 

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真っ直ぐな下り坂を下りると国学院大学付属校前に出ました。県道269号をそのまま栃木市街地へ戻ってカラー舗装された道に入ります。この日光例幣使街道は東照宮に幣帛(へいはく、神に奉献するもの)を奉献する京からの勅使(日光例幣使)が通った道です。中山道の倉賀野宿(高崎市)から日光坊中まで続いていました。江戸日本橋と日光坊中を結ぶ日光街道の西に位置します。

市街地から少し離れた街道沿いにある創業天明年間の味噌屋「油伝(あぶでん)味噌」に立ち寄って専用駐車場に車を停めました。午前10時半を回ったところです。店内で味噌田楽を食べるつもりですが改装中との表示がでています。「田楽」と書かれた左手の建物の障子戸を開けて田楽を食べたい旨を伝えると「少し早いですが大丈夫です」との返事。同行者と一緒にストーブが焚(た)かれる店内へ入って驚きました。まるで博物館のように懐かしい調度品が置かれていたのです。

 

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ハンドルの付いた磁石式電話機と中破・短波が受信できるラジオ。後者にNATIONAL DIALの表示がありますから松下電器(現在のパナソニック)が1950年代に販売したラジオ用部品キットを他のメーカーが組み立てたものでしょう。スーパーヘテロダインの表示には懐かしくて涙がこぼれそう。アナログ人間に必須アイテムのマジックアイ(同調表示器)もしっかり付いています。他に古い金銭登録機や頑丈な鍵が付いた銭函(ぜにばこ)、そして小池の文字が書かれた袢纏(はんてん)のようなものが・・・。

 

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田楽を待ちながら興味深げに店内を眺める我々に老主人が話しかけてくださいました。電話は何番でしたかと問えば「当時は32番でした」、銭函は店先に置いたもので上部の投げ入れ口には手が入らない仕組みがあり、金銭登録機は大正時代のもので今もお金の収納に使っていること、そして半纏と見えたものは皮製の羽織(扇子の家紋付)であることを詳しく説明。さらに油伝が250年ほど前に創業した油屋で創業者の伝兵衛の名をとって屋号の「油伝」としたこと、150年ほど前に味噌製造や質屋を始めたこと、私の詮索に答えて栃木の地名の由来(水明宮の説)、幕末に水戸天狗党(尊王攘夷過激派)が放火したことで蔵が建てられたこと、川の流れを変えて水害がなくなったこと、市内の観光施設についてと、ボランティアの観光ガイド役を務めていただきました。

注文した「田楽盛り合わせ」は豆腐・里芋・コンニャクの3種、「伝兵衛もち」は私の好きな五平餅と形が似ていますがよくついたもちに田楽盛り合わせとは異なる味付け(ゴマ風味)の味噌が使われて、いずれも期待通りの美味しさです。

 

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戸外に出て明治時代の油伝味噌の様子を伝える絵図と立ち並ぶ蔵や味噌工場の様子、そして私が興味を持った水琴窟も説明してもらいました。明治23年頃とほぼ同じ規模の建物は国の登録有形文化財に指定されています。

 

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油伝味噌の本業は現在も味噌製造ですが無添加味噌の味を知ってほしいと田楽茶屋を始めたのだそうです。皆様にもお勧めしたい観光スポットでした。(続く)

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2010年3月 4日 (木)

栃木の小江戸(その1): 蔵の街から謙信平へ

土砂降りの東北自動車道を走りました。利根川を渡って館林ICと佐野藤岡ICを過ぎた栃木ICで県道32号へと右折して3kmほど走れば栃木市の中心部に差し掛かります。栃木市は県の名前と同じですが栃木県の県庁所在地は宇都宮市。明治初期の廃藩置県で出来た栃木県と宇都宮県が合併した当初は県庁が栃木町(現在の栃木市)に置かれましたが後に宇都宮へ移されたそうです。ちなみに栃木町は下野国(しもつけのくに)の国府が置かれていた場所で栃木の地名は栃の木に由来するとされます。

歴史のある栃木市の市街地には江戸時代から明治時代にかけて巴波川(うずまがわ)が水運に利用されたことで蔵や商家が多く残っており「蔵の街」として知られます。日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)の宿場町として盛えた商都で「小江戸」の別名を持っています。

蔵の街第1駐車場に到着したのは午前7時半と早朝のため電線が地中化されてすっきりした目抜き通り(県道3号と県道11号)には車や人の影は疎(まば)らです。

 

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観光施設が開くのは午前9時以降ですから雨が降りしきるなか近くの神明宮に参拝することにしました。下野(しもつけ)国総鎮守のこの神社は地元で「栃木のお伊勢さま」と呼ばれているようです。帰宅後に神明宮のhpで確認すると、応永10年(1403)に栃木城内神明宿(現神田町)で創建されたと伝えられるようで、栃木の地名はこの神明宮の屋根ぐしの千木(ちぎ)から出たとも言われていると説明されています。

 

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巴波川に向いました。幸来橋の袂(たもと)にある塚田歴史伝説館には「木材回漕問屋」と表示されています。案内書きによると塚田家は江戸後期から巴波川の舟運で栄えた豪商で川沿いに黒塀と白壁土蔵が120mに及んでいるそうです。その脇に「舟のりば」の看板がありますから舟遊びができるのでしょう。

 

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川沿いを散策したいところですがまだ雨が降り続いていますので、時間調整を兼ねて次の目的地を先に訪れることにして車を走らせました。幸来橋の先で県道75号から県道269号(太平山公園線)へと左折すればあとは一本道です。

国学院大学の付属校前から急な坂道になりました。右手の細い道にそれて曲がりくねった道を走って「見晴台」と「太平山(おおひらさん)神社」の案内表示を過ぎると大平山の謙信平(けんしんだいら)に関東平野の展望が広がるはずですが・・・。念のために三層の展望台に昇ってみましたが五里霧中、ここでは「広さ五里にもわたる深い霧の中に居ること」(広辞苑)とする本来の意味です。案内板には関東平定をめぐって北条氏康(うじやす)と争った上杉謙信が近くの大中寺住職虎渓和尚の斡旋で和議に応じたことと太平山に登って関東平野の広さに目を見張ったという故事が謙信平の地名の由来と説明されています。ちなみに晴れていれば見える地域は3月29日から栃木市になる大平町とその西隣の岩舟町、南隣の藤岡町(同じく栃木市と合併予定)の先は利根川、さらに埼玉県や茨城県へと続き、筑波山はもちろんのこと富士山まで望めるはずです。 注釈)大平町と太平山はなぜか字が異なります。

 

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栃木市出身である山本有三氏の文学碑を見て回っていると道路を挟んで展望台の反対側にある数件の土産物屋で開店準備がはじまったようです。最初に店が開いた日の出屋さんで名物の「三色だんご」を求めました。車に戻って冷え切った身体に一息付かせながらさっぱりした甘みがほどよい団子を食べました。

 

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焼鳥や卵焼きも太平山(謙信平)の名物のようです。(続く)

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2010年3月 2日 (火)

悪人列伝(その5): 藤原純友

奈良時代に中央集権としての天皇の権勢が最高に達したが、その末期には制度の根底である土地制度が崩れはじめたと著者は指摘する。すなわち土地公有制度にひびが入って、私有地である荘園(税を免除される勅旨田・寺田・神田と本来課税されるべき墾田・賜田・功田)の課税逃れが増えてきたことを挙げる。つまり朝廷の収入(祖・庸・調などの税金)が激減したのである。当然王朝政府の力は弱まったが天皇から公家達に至るまで荘園の持ち主であったため改革は進まなかった。その中にあって改革に熱心であった醍醐(だいご)天皇に学者の三善清行(みよしきよつら)が上奏した意見書にその問題点と対策が明確に示されていたことを詳しく引用。現代にも通じる国家の存立に係わる問題である。そして藤原純友(すみとも)が活躍した瀬戸内海で海賊が横行していた状況と背景を分析する。

 

そして純友が登場。通説では藤原北家出身とされるが伊予の出身者で藤原良範の養子とする説も紹介。つまり伴大納言と同じであり、上京して出世の道を求めたことは平将門と同じで、純友は京で出会った将門と親しくなったとの伝説を説明する。頭脳優秀でカンの鋭い人物であったと著者は考える。上述した荘園主義政治の問題に加えて中国で起こった安禄山の変など東アジアが動揺する状況も詳しく解説、それらが海賊の跋扈(ばっこ)につながったとする。さて純友は順調に昇任して伊予掾(じょう)という伊予国で3番目の高官(従七位上相当)に任じられ、海賊退治の役目をする間に海賊との関係が深まったのではないかと著者は想像する。純友が居た伊予国喜多郡(現在の大洲市など)の不動倉(郡の米貯蔵庫)から米が盗まれた事件を機に海賊の頭領となる。唐突に感じられるが著者は海賊の多くが自らの領地を取り上げられた地方の小豪族であった事実を挙げて純友に彼らが従ったことは不自然ではないとする。

 

平将門が関東に新帝国を建てたことは京のみならず伊予まで聞こえたようでしばらく歴史の表から消えていた純友が瀬戸内海周辺国で勢力を蓄えて上京することを計画する。この動きを知った朝廷は将門への対応に追われていたため従五位下(貴族の最下位)に叙(じょ)することで懐柔(かいじゅう)しようとする。これを受けながら純友が淡路の兵器庫から兵器を強奪して船で京に向いつつあるとの報告を受けた朝廷は京を襲撃しようとしていると判断した。混乱する京を襲撃する好機であったが純友は上京しない。将門が討ち取られたことを知ったようである。ここで朝廷側は攻勢に出るが讃岐に押し寄せた純友勢は国司軍を打ち破る。純友の舟は1500艘(そう)もあったとされるが朝廷の軍勢によって次第に追い詰められ、純友が頼みとする幹部の藤原恒利(つねとし)が逃走して降伏、伊予を逃れた純友は九州の大宰府を攻撃してこれを占領した。

 

朝廷の征討軍が向うと博多に移って抵抗するがついに大敗した純友は小舟に乗って伊予に逃れ帰ったものの伊予の警固使に殺されてしまう(獄中で死んだとの説も)。著者は将門の乱と純友の乱は起こるべくして起こったとする。二人が敵としたのは天皇家ではなく摂関政治であり民を苦しめた荘園制度であったと言う。しかし二人が天皇家に対する逆賊とされて後世長く指弾されたのはいたし方ないことであったとも。二人の最盛期には京都朝廷は実に危うく、歴史に「もし」(将門がもう十日生き延びて純友が京に攻め上がること)があるならば、京都朝廷は瓦解していたことは確かである。幸運によって未曾有(みぞう、みぞうゆうとは読まない!)の大難をまぬがれることができた朝廷に対する日本人の信仰と天皇家の存在を決して否定しない武家政治という制度が日本にできたのもこの二人の反乱があったからとその意義が大きいことを著者は強調する。□

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2010年3月 1日 (月)

悪人列伝(その4): 平将門

5人目は平将門(たいらのまさかど)です。歴史上の人物のなかで私が興味を持つ一人であり、当ブログではこれまでも神田明神将門首塚十九首塚で将門に触れています。「悪人列伝」の将門についての章では先ず藤原鎌足に始まる藤原氏の興隆に多くの紙面を割(さ)いています。天皇制が確立した奈良朝と平安朝初期において皇室との縁戚関係を頻繁に結んで権勢を強め、嵯峨天皇が死ぬと承和(じょうわ)の獄で常貞(つねさだ)親王を廃して藤原良房の妹が生んだ道康親王(文徳天皇)を太子に立て、それ以降も歴代の天皇に自家の娘を入内(じゅだい、内裏に入る)させ、その子を次代の天皇に擁立するという方法を踏襲し、いつの世にも権勢の座を占めた。そして天皇家は衰えてお飾り同然となり、皇族も無力のものとなったと解説する。

 

そのなかにあって宇多天皇が実力者の藤原基経(もとつね)が死ぬと菅原道真を引き立てることで藤原氏を抑えようとしたことを詳しく述べます。基経の長男で左大臣の時平の上位に付けようと宇多・醍醐天皇は道真を関白にと考えるが謙譲な性格であった道真は受けない。これを知った藤原氏は道真を失脚させるため濡れ衣を着せて大宰権師(だざいごんのそつ)に左遷することに成功、2年後に道真は九州の地で死ぬ。そして京では藤原氏に不幸が立て続けに起こったため人々は道真の怨霊であると恐れた。

 

長い時代説明の後にやっと平将門が登場。藤原氏専権のため中央貴族らは地方官となって赴任し、在任中に土台をこしらえて、任期が終るとそのまま土着して在地地主となることがはやった。平の姓を賜った高望(たかもち)王はその一人で藤原基経の家人となって上総介の位を得る。武士の起源と言われる人物のひとりで、その孫が平将門である。将門も青年時代に京に上って基経の子、忠平(ただひら)の家人となっている。著者は在地地主が武装した背景と坂東人気質について説明する。高望王の子孫は現在の茨城や千葉を中心とする地域に広がっていた。将門の通称は小次郎(三男を意味する)で、遺領相続争いなどで若い将門は一族との仲が悪くなったようである。これに嵯峨源氏と伝えられる常陸の武士、源護(みなもとのまもる)方との争いが絡み合う。初戦で源護の三人の子供は将門を狙うが逆に討ち取られてしまう。その後も源護や伯叔父たちとの争いは続くが戦上手の将門が勝る。

 

源護は京都に告訴する。将門は上京して事情を述べたことで、兵を動かしたことは咎(とが)められるが裁判に勝ち、その武勇は畿内に知られ、朝廷に慶事があって将門は罪を許される。坂東に戻った将門は伯父に大軍で攻められて始めて戦いに敗れるが次の合戦で将門が勝つと朝廷に働きかけた敵方に将門を捕まえるようにとの太政官符が出された。しかし兵力を持たない国守らは動かず将門に敗れて上京した従兄弟の平貞盛は太政官に訴えた。官符が無視されたことに怒った朝廷は将門の召喚状を貞盛に与えるが、それを受け取っても威勢が朝日の昇るようになっていた将門は上京しない。

 

そんな折に武蔵に赴任した権守興世王(ごんのかみおきよおう、桓武系の貴族)と介源経基(すけみなもとのつねもと、清和系貴族で源氏の始祖)が郡司と諍(いさか)いを起こしたのを将門が乗り出して収める。しかし脅された経基は帰京して3人が謀反を起こそうとしていると報告。将門の主人に当たる太政大臣藤原忠平は使者を将門に使わしたため意外な事態に驚いた将門は次第を認(したた)めた上書と坂東5ヶ国の国府の証明書を添えて送った。これを見た朝廷は疑いを解き、将門の武勇や人望を知り、将門を叙位任官して朝廷の役に立てようと考える。

 

しかしここで将門の運命が狂うことになる。常陸名家出身の藤原玄明(はるあき)という者が常陸の官物を強奪して返さないため常陸国府長官は太政官に訴えて追捕状(ついぶじょう)をもらい逮捕に向ったところ、玄明は威勢隆々の将門に庇護を求めた。親分肌の将門は不憫(ふびん)に思いこれを庇護したため常陸国府の長官との間がこじれて、両者の争いとなり、包囲された長官は降伏して印綬(いんじゅ、官職の証)を差し出す。興世王の進言を受け入れた将門は、関東諸国の他の国府からも印綬を出させて、それぞれの国司を任命する。そして将門は帝位について新皇(しんのう)となり、新国家成立の通告と自身の思いを忠平への鄭重(ていちょう)な手紙で述べている。将門謀反の報を信濃国府から受けた朝廷は大混乱に陥り、藤原忠文が征夷大将軍に任じられた。

 

前述の貞盛は藤原秀郷(ひでさと)を説いて将門に戦いを挑む。将門の軍が揃(そろ)わないうちに合戦がはじまり、しかも将門が背にしていた強い風の方向が途中で変わったのである。貞盛・秀郷連合軍は勢いを回復、立ち往生した馬上の将門はいずこからともなく飛んで来た矢に射抜かれた。著者は在地地主が不在地主と藤原氏の専権に対して反抗したと見る。これほど人気のあった将門が次第にその人気を失ったのは、江戸時代になると儒教が全盛をきわめ、大義名分の思想が社会常識となったために彼を単なる逆賊と見るようになったからであろうとする。筆者注釈: 戦後になると将門が再評価されるようになり、平将門を主人公としたNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」(原作は海音寺潮五郎著「平将門」)が1976年に放映されています。

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