« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »

2010年7月に作成された記事

2010年7月31日 (土)

日本ロマンチック街道のドライブ後記 マンホールの行方追跡

2010_07160356 四万温泉から長野原町へ向う途中に一時停車した暮坂峠で同行者がマンホールを見つけました。峠の道路にマンホールとは考えてみれば不思議ですが同行者はマンホールの蓋(ふた)にNTTと書いてあると言うのです。
 
 

2010_07160355 気にも留めないで峠を降り始めると同行者は路傍に不思議なマークが書かれた標識を指差して何かと私に聞くのです。小学生の頃から地理が得意だった私は地図に使われる記号は知っているつもりですが見たことのないものです。 
 

どうも数百メートル毎に設置されているようです。積雪時に路肩を示す赤と白に塗り分けたポールとはまったく違うものなのです。もちろん日本ロマンチック街道の標識であるはずもありません。「地下鉄漫才」のようにマンホールと標識が気になった私が注意深く観察するとどうもマンホールの場所を赤色の矢印が示しているようです。

ここまでヒントをもらえば鈍い私にも分かりました。NTTが埋設した通信用ケーブルを保守点検する時に使用するマンホール(正しくはハンドホール)に違いありません。閃(ひらめ)きはすぐさま確信へと変わりました。不思議な記号が書かれた標識にはNTTと表示されているものも混じっています。

2010_07160371 峠を下りきって白砂川(しらすながわ)の吾妻橋(あづまばし)へ差し掛かった時に車を路肩に停めて私の推測を検証することにしました。ハンドホールの丸い蓋(ふた)には確かにNTTと表記されています。
 
 

2010_07160369 歩いて橋の袂(たもと)まで行くと確かにありました。黒い硬質ビニール管路(直径10数センチ)が地中から引き出されています。
 
 
 

2010_07160366 橋桁(はしげた)に沿って長く伸びる管路は約2メートル間隔で支持金具を使って固定されています。
 
 
 
 

2010_07160370 所どころに金属製の缶(かん)のようなもの(クロージャー)が付属しています。おそらくハンドホールと同様に点検保守用の構造物なのでしょう。
 
 
 

2010_07160379 橋を渡りきるとプラスチック製管路は再び地中に入ります。 
 
 
 
 

2010_07160381 そして路面にハンドホールが出現しました。
 
 
 
 
 

対岸のT字路で県道55号は国道292号に行き当たりますが私は間違いなく左へ向うと予測しました。右は草津町方面、左は長野原町方面だからです。私の予想通りにハンドホールは長野原町方面へと続いています。

白砂川の支流である水戸沢川(みとさわかわ)に架かる花園大橋(かぞのおおはし)を渡った途端マンホールが見当たらなくなりました。路肩に車を停めて徒歩で探索することにします。吾妻橋のように橋桁にプラスチック製管路は見当たりません。橋を渡る直前で進路を変えるはずがないと考えた私は周囲を見回してついに見つけました。

2010_07160385 下ばかり見ていたからすぐに気がつかなかったのですが橋の袂(たもと)にある電信柱に沿って太いケーブルが立ち上がっています。この先は地下埋設ではなく架空ケーブル区間になっていたのです。この辺りから積雪量が少なくなるためかもしれません。
 

2010_07160387 謎は解けましたが花園大橋は橋桁の下に通信ケーブル用の管路が設置してあるに違いないと電信柱の近くにある階段を下りました。橋桁を下から見るためです。階段の下には狭い舗装道路がありました。
 
 

2010_07160388 橋脚(きょうきゃく)にケーブルを収容する金属性に見える管路(直径数センチ)と接続箱が設置されています。
 
 
 
 

2010_07160389 橋脚を回り込むと確認できました。同じ材質と思われる管路が橋桁の下部に取り付けられています。
 
 
 
 

2010_07160390 それと並行して東京電力管路と表示された太い金属性管路が3本も設置されていました。
 
 
 
 

車に戻ってさらに調査を続行します。架空ケーブルはどこまでも続くように思われましたが約3km先で長野原町に入る頃には再びハンドホールが出現。積雪量が架設の理由ではなく、何か道路の都合があるのかもしれないと思い直しました。国道292号は曲がりくねってトラックの交通量も多くなってきましたから10km余り続いたハンドホールの追跡調査はここで打ち切りです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月30日 (金)

日本ロマンチック街道 別所温泉の北向観音・大師湯と佐久の鯉料理

どしゃ降りのなかを抜けて国道143号で増水した千曲川を渡り、県道65号・県道177号・県道82号を辿(たど)る複雑なルートで、信州の鎌倉と呼ばれる別所温泉の北向(きたむき)観音へ向いました。

 

2010_07160481 2010_07160482 2010_07160484   

 
   

 
 
北向観音(現在の本坊は常楽寺、本尊は千手観音菩薩)とは長野市の善光寺と対になる由緒ある寺です。つまり善光寺は南向き、北向観音は北向きなのです。そして善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすということで、善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうと言われます。

上田城址から眺めた山々に向って走ると下小島交差点で地面から伸びる大きな虹が見えます。午後6時近くになっていましたのですぐ近くの駐車場が無料で利用できました。土産物店などが立ち並ぶ参道の先で石段を登ると北向観音の本堂があります。本堂脇からまだ虹がかすかに見えます。

 

2010_07160488 2010_07160505 2010_07160492   

 
   
 
 
本堂は善光寺と同じ棟の形がT字形をした「撞木造り」です。ちなみに撞木(しゅもく)とは鐘などを打ち鳴らすT字型の棒のこと。右手前にある愛染カツラの大木は樹高約22m、周囲約5.5mと見事です。

 

2010_07160491 2010_07160494 2010_07160493   

 
   
 
 
この大木を見下ろすように急な傾斜地に立つ愛染堂の前には芭蕉の「観音のいらか見やりつ はなの雲」句碑、夕焼け小焼けの歌碑、北原白秋氏の歌碑がありました。

 

2010_07160495 2010_07160498 2010_07160499   

   
   

 
境内の奥にも出口がありましたのでそちらへ向うと旅館「かしわや(柏屋)本店」につるし雛(びな)が飾られています。店の人に誘われるままに見物させていただきました。「全国つるし飾りサミット」が7月10日から8月8日まで開催されていたのです。日本三大つるし飾りの福岡県柳川・静岡県稲取・山形県酒田と信州上田を一堂に展示する催し物でした。常楽寺美術館でも7月19日から国宝美術展が開催される予定ですが訪れたのはその3日前で残念でした。

 

2010_07160504 2010_07160501 2010_07160502   


   
   
この日の日帰り温泉は別所温泉の外湯(共同浴場)「大師湯」(右上の写真)です。北向観音堂建立のためにこの地を訪れた慈覚大師(円仁)が好んで入浴したことから「大師湯」となったと言われます入浴料は150円と格安。脱衣所と浴室は広くはありませんが天井が高くて明るい色調のタイル張りが清潔な感じがして好感が持てます。掛け流しの湯も豊かで飲泉もできます。泉質は単純硫黄泉(低張性アルカリ性高温泉、PH8.8)、泉温は44.4度で、美人の湯(つまりアルカリ性の温泉)とも呼ばれるようです。

別所温泉の外湯は大師湯の他にも大湯(木曽義仲と葵御前縁の葵の湯)と石湯があります。そして上田電鉄別所温泉駅と県道82号をはさんだ反対側に出来て間もない公共温泉「あいそめの湯」を見かけました。ここでプチ薀蓄です。別所温泉は日本武尊が東征の折に発見した伝えられ、平安時代には清少納言が枕草子の中で有馬の湯(兵庫県)・玉造の湯(島根県)とともに「七久里の湯」(別所温泉の古名)を三名泉として賞賛した信州最古の温泉ですが、信濃北条氏が別院として使っていたことから「別所」という名前が付けられたと伝えられます。

国道18号で東御市と小諸市の中心部を抜けた平原交差点まで戻り、昼食のために「職人館」へ向った国道141号を再び走りました。佐久IC西交差点を左折して佐久ICの入口を通過、佐久IC東交差点を右折すると岩村田(いわむらだ)の市街地です。岩村田交差点を左折、最初の交差点を右折して路地に入り、佐久ホテルの前を通過すると右前方の公園の先に明かりが見えました。

佐久鯉料理・鰻・御食事処「岩田村宿三河屋」は鯉(こい)と鰻(うなぎ)を売りにする地元の庶民的な料理店です。一階は座敷席が中心ですがテーブル席も3卓ありました。座敷席は先客で一杯ですから空いているテーブル席を選びました。
 

2010_07160507 2010_07160513 2010_07160514   

   
   
 
私はぜひ食べてみたかった元祖鯉丼を迷わずに決めましたが、突然この店に連れてこられた同行者は あれこれ迷った上で鯉あらい定食を選びました。鯉のあらいに小鉢・お吸い物・香の物が付いているようです。

鯉丼は鯉を焼いた香ばしさとタレの味が期待通りで、添えられた生姜の味が鯉丼のコッテリ感を上手く調和、美味しい吸い物との組み合わせに満足しました。同行者が注文した鯉のあらいは歯ざわりが良くて私の箸がテーブルの上を往復。そして味噌好きな私は「鯉こく」も食べてみたくなりました。

ここで食後の一服代わりの裏話です。佐久の「職人館」で昼食をしている時にデジカメのバッテリーが残量不足を示す赤色表示に変わりました。今回も思いつくままに撮影して撮影枚数が400枚を超えていましたが、バッテリー容量(580枚撮影可能)にはまだ余裕があると思っていましたから、突然のアラームは驚きです。そう言えば出発前にフル充電することを忘れていました! まだ半日が残っていますから無駄な撮影を控えて騙(だま)しだましで撮影することに。そして最悪時には同行者が持つ旧型アイフォーンで撮影することも覚悟しましたが、フラッシュの使用を極力控えたことで、何とか最後(500枚強)まで撮影できました。

日本ロマンチック街道のドライブを満喫して佐久ICから上信越自動車道で帰路につくことに。小降りだった雨は群馬県に入る頃には止んで快適なドライブを楽しみながら無事に帰宅できました。総走行距離は約840kmです。

<同行者のコメント> 川に面した小さな外湯の建物は見栄えはしませんが建物の中はきれいでとても良いお湯でした。佐久市ではお昼に田んぼの中のおそば屋さんへ行きましたが、夕食も同じ佐久市の中心部にある鯉料理屋さんでした。鯉のあらいは思っていたよりも色が赤いのが意外、もっと白い色だと思っていました。運転手さん、長いドライブをご苦労様でした。いつも思うのですが運転ばかりしていて飽きないのですか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年7月29日 (木)

日本ロマンチック街道 上田城址

東御市(とうみし)を経て国道18号で上田市へ向います。東御市は湯の丸高原のレンゲツツジが有名です。上田市に入って信濃国国分寺跡に立ち寄りました。信濃国分寺資料館の駐車場に駐車させていただきました。旧信濃国国分寺跡の広大な敷地は国道18号とJR上越線によって無残に切り取られています。講堂跡、金堂跡、回廊跡、塔跡を巡りました。
 
2010_07160455 2010_07160456 2010_07160457 
 
 
 
 
 
 

塔跡の高みから国分寺跡の敷地が見渡せ、中門跡の石積みが線路の反対側に見えます。国道18号の反対側に現在の信濃国分寺の仁王門から参道が続きます。アマチュア無線の立派なタワーも聳(そび)えていました。
 
2010_07160462 2010_07160464 2010_07160463          
国分一交差点のY字路を左前方へ向かう国道141号に入って、中央一交差点を左折、JR上田駅前を右折して市道で上田城址に到着。広い駐車場から上田城址の石垣と櫓(やぐら)が2つ見えました。
 
2010_07160465 2010_07160469 2010_07160467         
 
真田幸村と真田十勇士の幟旗(のぼりばた)が風にはためいていました。大手1丁目交差点から入ると二の丸跡まで車で入ることができます。巨大な真田石がある大手門の先が真田神社で、その右手が本丸跡です。
 
2010_071604732010_071604702010_07160475          
南櫓(やぐら)から長野新幹線と千曲川越しに右手は別所温泉と夫神岳(おがみだけ、標高1250m)、中央の尖った山は独鈷山(とっこさん、標高1266m)がよく見渡せました。左手は美ヶ原でしょう。
 
2010_07160472 2010_07160476 2010_07160471          
薀蓄です。上田城は甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸によって1583年(天正11年)に築城された平城です。真田家は一族存続のためにあらゆる手立てを講じたことが良く知られています。武田家が滅亡した後は、徳川家康と手を結びますが裏切られ、次いで上杉景勝と同盟します。その時に幸村は人質となって直江兼続と出会いました。第一次上田合戦では上杉との関係があったことで家康を撃退、上杉が秀吉に臣従することになると真田昌幸もそれに従い幸村は秀吉の人質として大阪城へ送られます。

しかし秀吉は真田昌幸に家康の与力となるように命じます。これは大きな屈辱でしたが従うほかはありません。そして信幸・幸村兄弟は豊臣と徳川の陣営に分かれて組み込まれて関が原の戦いでは西軍と東軍に別れて戦いました。西軍側に付いた昌幸・幸村父子は20倍の軍勢を持つ徳川秀忠軍に攻められて上田城に籠った第二次上田合戦となりますが、真田側は持久戦に持ち込んだため関が原の戦いが始まってしまい、秀忠軍は上田城攻略を諦(あきら)めます。

昌幸・幸村父子が秀忠軍を足止めにしたにもかかわらず西軍は敗北、家康は両名を切腹させようと考えましたが、信幸などが嘆願したことで高野山近くの九度山に蟄居を命じられます。昌幸が死んだ後に起こった大阪冬の陣で幸村は徳川方を相手に奮闘、夏の陣では大阪城の堀が埋められていたためた幸村は大阪城を出て徳川本陣まで攻め込み一旦は敗走させますが多勢に無勢で討ち取られてしまいました。

昌幸・幸村父子と幸村の子大助の活躍を描いた歴史小説「真田三代記」が江戸時代に人気を博しました。幸村の名はその小説で使われた真田信繁の通称です。大正時代に書かれた「真田十勇士」では猿飛佐助・霧隠才蔵根津甚八・三好清海入道などが実在の家来をモデルに創作されました。甲賀忍者の猿飛佐助と伊賀忍者の霧隠才蔵は忍術比べをしたライバル、三好清海入道は大きな鉄棒を持つ力持ち、だったと記憶しています。子供の頃に南総里見八犬伝などと一緒に漫画で読んだ記憶があります。

真田氏本城跡も訪れたくなって国道144号で烏帽子岳(えぼしだけ、上田市と東御市の間にある標高2066mの山)を目指して走りました。上田菅平IC入口を過ぎた下原交差点を右折、県道176号に入って、県道175号へと左折、坂道を上って真田町本原に到着。この辺りに真田氏本城跡があるはずです。廣山禅寺脇に広山寺古墳を見つけましたが真田氏本城跡は見当たりません。脇道へ入るところに真田氏歴史館の標識がありましたので探してみましたがこれも見つかりません。
 
2010_07160478 2010_07160479 2010_07160480 
 
 
 
 
 
 
急に大粒の雨が降ってきましたので探索を断念して次の目的地に向うことにしました。帰宅後に調べると真田氏歴史館真田氏本城跡は400mほど先にありました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月28日 (水)

日本ロマンチック街道 佐久市の「職人館」と小諸城址

日本ロマンチック街道から離れますが小諸市の御幸町交差点を左折して県道78号で佐久市へ向いました。同行者が希望する蕎麦と創作料理の「職人館」で昼食です。千曲川に沿って走り、耳取南交差点を右折して県道44号へ入って千曲川を渡り、国道142号に入りました。諏訪と白樺湖の名前が案内標識に出始めました。
 
2010_071604122010_071604142010_07160413 
 

 

 

 
 
 
八幡西交差点で旧中仙道が国道142号に合流します。軽井沢の追分交差点付近でも旧中仙道の標識と中山道69次資料館を見ています。高崎宿から追分宿(現在の軽井沢町追分)まではほぼ国道18号に沿ってきた旧中仙道は追分から南にそれて佐久市の岩村田宿を経由する直線的なルートを通っていたようです。ちなみに追分(おいわけ)の名は中山道と北国街道の分岐点であったことに由来します。中山道に限らず古い街道筋には追分の地名が各地に残っています。

新望月トンネルを抜けた望月交差点(旧中仙道望月宿への入口)を左折、県道151号を南下、最初の交差点を左折して天神トンネルを抜け、県道151号が右に折れ曲がる春日小交差点を直進して市道に入ると800mほど先の左手です。ルートは複雑でしたが何とか職人館へ到着できました。

 

2010_07160417 2010_07160419 2010_07160421 
 
 
 
 
 
 

無農薬・地野菜などこだわりの店は民家をそのまま使用しています。かなりの人気店のようですでに多くの客がありました。私は「みまき豆腐」がのった「霙(みぞれ)そば」を、同行者は「山葡萄ドレッシングのそばサラダ」を注文しました。ちなみに「みまき(御牧)豆腐」は天然のにがりと地元大豆のみを使用した豆腐で作久市の東御市(とおみし)の特産品で、大豆の風味が生きているのが特徴とされます。

同行者のそばサラダの方が先に配膳されましたので味見をさせてもらうと正に創作料理で私にはドレッシングの味が強い洋風味でした。それでも霙そばを待つ間に半分近く平らげてしまったようです。かなり待った霙そばは見た目にはとてもシンプルです。まずみまき豆腐を箸で取って味わうとしっかりした味があります。そして薬味を入れて混ぜ合わせて食べるとまろやかな味がして夏向きの蕎麦でしたが、「みまき豆腐」の風味がそばにやや勝っているようです。蕎麦の味も混ぜる前に味わうべきだったかもしれません。そうは言っても私好みのさっぱりした味には満足、新しい蕎麦の味を提供する人気店は期待通りでした。

 

2010_07160423 2010_07160436 2010_07160437 
 
 
 
 
 
 
元来たルートを逆に辿(たど)って御幸町交差点から国道18号で小諸城址を目指します。大手門公園内にある小諸城大手門から本陣主屋跡(休館中)、旧脇本陣「条屋」跡、小諸本陣(問屋場)跡を回りました。

 

2010_07160441 2010_07160442 2010_07160443 
 
 
 
 
 
 

次いで懐古園(小諸城址)に向いました。有料駐車場から歩いて三の門を潜り、三ノ門料金所で入園料300円を支払い二の丸跡の石垣に沿って坂道を上ります。若山牧水の歌碑に続いて南丸と北丸の間を抜けると右手に弓道場があり、和弓の練習をする人たちが見え、太鼓橋(黒門橋)を渡ると本丸跡に懐古神社があります。本丸の石垣の上に登ってみました。

 

2010_07160451 2010_07160450 2010_07160445 
 
 
 
 
 
 
左手の社務所脇を下りると広い馬場に出ます。ここは桜の名所のようです。高浜虚子の句碑や藤村句碑を過ぎると天守台の石垣がそびえるのが見えますが石積みが少し痛んでいるようです。

 

2010_07160446 2010_07160447 2010_07160448 
 
 
 
 
 
 

園内をゆっくり散策したところですが、午後に入ると天気予報通りに雲が増えて、遠雷も聞こえ始めましたので駐車場へ戻ることにしました。料金所近くの懐古館の脇を抜けて「惜別の歌」歌碑にも立ち寄りました。島崎藤村が作詞・藤江英輔氏が作曲した歌声喫茶で人気が高かった歌はもともと中央大学の学生歌でした。私も高校時代に演劇部の練習の合間にロシア民謡などに加えてこの歌を歌ったことと、映画俳優の小林明さんの特徴ある歌声も思い出しました。

 

2010_07160449 2010_07160452 2010_07160454 
 
 
 
 
 
 
余談です。原曲(中央大学学生歌中央大学音楽研究会グリークラブの歌声)には無かった4番が後になって付け加えられたため異なる4番の歌詞が存在まします。歌碑には「君の行くべき 山川は 落つる涙に 見えわかず そでのしぐれの 冬の日に 君に贈らん 花もがな」(英輔書)となっていますが、私の覚えている歌は「君がやさしき なぐさめも 君が楽しき 歌声も 君が心の 琴の音も またいつか聞かん この別れ」です。

島崎藤村の「若菜集」にある「高楼」(たかどの、嫁に行く姉を妹が見送る時の対話形式の詩、上田市の西隣の青木村にある田沢温泉を藤村が訪れた時の作)の8節のうち4節が引用されて「惜別の歌」となりました。前者が7節からの引用で出征する友へ送る言葉にふさわしく、後者は6節からの引用でロマンチックな印象を与えます。ちなみに「惜別の歌」の題名は東京女子高等師範学校(現在の御茶の水女子大学)の女学生から出征する中央大学の学生に送られた「高楼」の抄物(しょうもつ)に付けられました。

ところで天守台近くに歌碑がある藤村の「千曲川旅情の歌」は小諸城址に相応(ふさわ)しいと思うのですが、藤村が小諸に住まいした時の作とは言え、小諸とは無縁な「惜別の歌」の歌碑が置かれていることを不思議に思います。1963年の映画化では仙台(青葉城)が舞台として使われたことへの対抗意識によるものでしょうか。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月27日 (火)

日本ロマンチック街道 群馬県道55号と軽井沢ルート

朝風呂を楽しんだ後は国道353号を戻って県道55号に入り、黒塗りの鉄橋(天然橋)を渡って上沢渡川に沿って高度を挙げます。

 

 

 

2010_07160347 2010_07160348 2010_07160349 
 
 
 
 
 
 

 

暮坂峠には若山牧水の詩碑と銅像がありました。

 

 

 

2010_07160351

 

2010_07160350 2010_07160354 
      
  

 

峠を少し下りたところに詩碑がいくつも続きます。その1つは「牧水清水」と名付けられていました。先客に薦められて湧き水を小さなペットボトルにいただきました。

 

 

 

2010_07160357 2010_07160360 2010_07160361 

 

 
 
 
 
 
 

 

さらに高度を下げると六合(くに)地区に入ると朱に塗られた大きな鉄橋(吾嬬橋)が目に入りました。そして少し下流の一段低くなった場所に風情のある鉄橋がもうひとつ架かっているのが見えます。この旧吾嬬橋(あづまばし、全長69m、幅2.5m)は白砂川にかかる群馬県最古の道路鉄橋のひとつです。群馬県渋川市と勢多郡北橘村を結ぶ「旧・坂東橋」として1901年(明治34)に利根川に架設されましたが、1959年(昭和34)に架け替えられた際、この場所に移設された1スパン分のペンシルバニア型トラス鉄橋(ペチット型トラス)です。

 

 

 

2010_07160364 2010_07160365 2010_07160377 

 

 
 
 
 
 
 

 

白砂川を旧吾妻橋で渡って国道292号に入りました。ここで日本ロマンチック街道は草津経由の北ルートと軽井沢経由の南ルートの二手に分かれますが、今回は白砂川沿いに南下して長野原町に入り、長野原草津口駅の先で日本ロマンチック街道は国道145号で西へ向います。

 

 

 

 

 

 

 

ここで少し寄り道をすることにしました。国道145号を東進した八ツ場(やんば)ダムの工事現場を巡ってみたくなったのです。前回、草津温泉を訪れた時に吾妻川沿いのこの国道(この区間も日本ロマンチック街道に入っている)を逆方向へ走っています。東吾妻町に入ると前方に巨大なコンクリートのオブジェ(ダム湖の両岸を結ぶ橋)が見えてきました。前回来た時にはまだ橋脚しか出来ていなかったのですが、あれから3年余りが経過して外観はほぼ出来上がっていました。吾妻川の下流に架かる古い橋から工事中の湖面2号橋(仮称、来年3月完成予定)を撮影しました。ちなみに3本架かる橋のうち湖面3号橋(付け替え国道145号3号橋)は昨年5月に完成しているようです。

 

 

 

2010_07160384 2010_07160392 2010_07160396          

 

工事用のトラックに追い立てられるように戻りました。国道145号の羽根尾交差点を左折して国道146号を南下、長野原町の北軽井沢を通過して長野県軽井沢町に入り、小浅間山の脇を抜けると高度を下げて軽井沢の星野温泉トンボの湯)を通過しました。

 

 

 

2010_07160397 2010_07160398 2010_07160400   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2004年には軽井沢から逆のルートで、旧三笠ホテル、鬼押し出し、白糸の滝、雪山賛歌で有名な鹿沢温泉の紅葉館、湯の丸高原(池の平湿原)、浅間山を一周するドライブをしています。そして嫌な記憶も思い出してしまいました。その時の写真は大半をパソコンの故障で失ったため過去のブログ記事にも掲載していないのです。

 

 

 

2010_07160401 2010_07160403 2010_07160406          

 

思い出に浸(ひた)りながら中軽井沢交差点で国道18号へと右折して西進、御代田町(みよたまち)を経由、浅間山が遠退くと小諸市(こもろし)に入りました。(続く)

 

 

 

2010_07160409 2010_07160410 2010_07160411

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月26日 (月)

日本ロマンチック街道 四万川と四万温泉「積善館」(その3)

翌朝は薄明るくなるのを待って不思議な雰囲気がある「ロマンンのトンネル」と山荘の廊下を抜けて一番奥にある佳松亭の「杜(もり)の湯」へ向いました。傾斜地に建つため延べで8階建の構造になっていますので、前日の館内ツアーで見て回ったはずですが、立体迷路のようで迷いそうになりました。

 

2010_07160303 2010_07160306 2010_07160307          

「杜の湯」の露天風呂と大浴場で早朝の爽快な気分を堪能しました。

 

2010_07160308 2010_07160318 2010_07160310 2010_07160316 2010_07160311 2010_07160313   

 
       
 
 
 
 
 
朝食もボリュームが程よい箱弁当で残さず食べることができました。
 
2010_071603202010_071603242010_07160329 
      
 
 
朝の散歩に出てみました。昨夜の豪雨で新湯川の水かさが少し増えているようですがその他は昨日と同じ佇(たたず)まいです。館内ツアーの説明で聞いた中之条からの旧街道が四万温泉へ入る道を辿(たど)ってみることにしました。積善館の慶雲橋を渡って表通りを横切ると狭い道(落合通り)はほぼ真っ直ぐに200mほど続いて四万川の落合橋まで続きます。コンビニとは無縁の世界で、スマートボール・射的場や飲食店のほかに、「温泉郷美術祭」の作品が屋内外に何点か展示されています。
 

 

2010_07160336 2010_07160337 2010_07160338 2010_07160339 2010_07160340 2010_07160343   
      
 
 
 
 
 
 
 
その先は急な山道に変わりますので引き返して四万川と新湯川の合流地点周辺にも足を伸ばしました。
萩橋(はぐばし)の袂(たもと)から石段を下りると石造りの共同浴場「河原の湯」がありました。
 
2010_071603452010_071603442010_07160346_2  
   
      
四万温泉には積善館などの温泉旅館の他に日帰り温泉「清流の湯」(町営、500円)や共同浴場も記事で紹介した「こしきの湯」
と「河原の湯」の他に「御夢想(こむそう)の湯」「塩の湯」「上の湯」「山口露天風呂」(いずれも寸志)もあります。いずれも安い料金で四万温泉の湯が楽しめますからお薦めだと思います。

<同行者のコメント> 朝早くから走りまわって写真を撮影している運転手さんは大変ですね。お昼に食べたおきりこみは野菜が一杯入っているうえにうどんが柔らかくてとても美味しかったです。そして旦那さまがお気に入りの積善館へ。この次泊まる時には露天風呂に近い新館の方にしてくださいね。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月25日 (日)

日本ロマンチック街道 四万川と四万温泉「積善館」(その2)

新湯(あらゆ)地区に戻りました。この日に宿泊する積善館は四万温泉の最も古い温泉旅館で、本館の建物は300年前の面影を残している日本最古の温泉宿とされます。映画「千と千尋の神隠し」に登場する湯屋のモデルになったとも言われます。松山の道後温泉本館でも似た話がありましたが・・。

新湯川に架かる朱塗りの慶雲橋を渡って元禄4年に建てられた県重要文化財の本館玄関を入りました。廊下橋を興味深く眺(なが)めて午後3時半頃にチェックイン。車は新湯川沿いの指定されたスペースに駐車、予約時に車であることを通知しています。
 
2010_07160233 2010_07160230 2010_07160235 
 
部屋に入った時に「4時から館内案内ツアーがある」とのアナウンスが流れるのを聞き、是非にと飛び入りで参加しました。
 
2010_07160236 2010_07160245 2010_07160248 
 
積善館の副社長さんから20分ほどのプレゼンテーションを受けた後、館内ツアーで奥の佳松亭(かしょうてい)から山荘、そして手前の本館まで複雑に通路でつながった館内を見て回りました。明治時代の本館との違いなどの説明を受けました。そして吉永小百合さんが映画のロケで訪れた時の逸話(いつわ)などを聞くのも楽しい。
 
2010_07160249 2010_07160251 2010_07160253 2010_07160260 2010_07160262 2010_07160266 
 
興味深い催しが終ったのはまだ5時を少し回ったところで、午後6時からの夕食まだ時間がありますから、何はともあれ浴場へ向いました。本館1階の浴室「元禄の湯」(自然湧出泉)は昭和初期に建てられたものでコンクリート製、その上の2階と3階が木造の客室になっています。泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物硫酸塩泉で無色透明で、源泉の温度は78度と高い。
 
2010_07160274 2010_07160269 2010_07160297 
 

日帰り温泉サービスが午後5時で終了していますので入浴客はほとんどありません。入り口を入ったところにある脱衣場はオープンスペース。アーチ型の窓と高い天井が大正ロマンを感じさせる浴室内には小さな浴槽が5つ並んでおり、浴槽の中央からお湯が沸いて浴槽から静かに溢れています。浴室内の右手には一人用の蒸し風呂が2つ並んでいました。雰囲気は道後温泉本館の「霊(たま)の湯」と似ていますし、浴槽が並ぶ様は那須湯本温泉「鹿の湯」や草津温泉の「大滝の湯」に雰囲気が似ています。
 
2010_07160298 2010_07160299 2010_07160301 
 
夕食に出された2段重ねの箱弁当は予想通りに控えめのボリュームで私にはちょうど良い塩梅(あんばい)でした。部屋に戻ってビールを呑みながらうたた寝をする。目が覚(さ)めると滝のよう瀬音がやけに騒々しいと思っていると同行者が「土砂降りよ。洪水や土砂崩れは大丈夫?」と聞く。温泉に入って夕食も済ませた私は余裕がありますから「上流に大きなダムがあるから洪水の心配はないよ。もし崖崩れがあったら山荘へ通じるトンネルへ逃げ込めば良い・・・。」と適当な返事をしながらビールをもう一杯。午後9時頃には普通の雨音になりました。
 
2010_07160282 2010_07160284 2010_07160286
 
「館内ツアーで見た写真では宮崎駿監督がもっと良い部屋に泊まっていたわ。本館は見学だけにして佳松亭に泊まりたかった」と同行者から苦情らしき言葉が・・。今回の宿泊プラン選びが気に入らなかったようです。そして「露天風呂に行ってくる」と言う同行者。ぶつぶつ言いながらどうも露天風呂に入ることを考えていたようです。 

私はその心配が杞憂(きゆう)であったことに安堵(あんど)しながら本館の「岩風呂」(混浴可)で湯を楽しむことに。岩風呂の写真(少し上段)が湯気で甘いピントになったことはご容赦ください。長いドライブとなった初日の終りには心地よい眠りが待っていました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月24日 (土)

日本ロマンチック街道 四万川と四万温泉「積善館」(その1)

高山村を経由して中之条町に入りました。日本ロマンチック街道は伊勢町下交差点から国道145号に入って、伊勢町上交差点からは国道353号(四万街道、長野街道)となって四万川沿いに北へ向い、さらに県道55号に入って西へ向いますが、ここでちょっと道草です。国道353号をそのまま走って四万(しま)温泉に向いました。四万発電所の水圧管路とその水を貯水する中之条ダムを通過します。 

 

2010_07160169 2010_07160227 2010_07160222        

鷹ノ巣沢近くの四万の甌穴(おうけつ)群は川の渦巻き状の流れにより、石や砂が同じところを回り、川底の岩盤と接触して侵食されてできた丸い穴のことです。数万年もの年月を経て自然が作り出した芸術と言われて県の天然記念物に指定されています。

 

2010_07160170 2010_07160172 2010_07160174          

四万(しま)温泉の案内標識があるY字路で右手の県道239号(四万街道)にそれて四万温泉街に入りました。温泉街は手前から温泉口、山口、桐の木平、新湯(あらゆ)、ゆずりは、日向見(ひなたみ)地区に分かれています。日向見地区は四万温泉の発祥の地として日向見温泉と呼ばれることもあるようです。四万温泉の硫酸塩泉は四万もの病に効く事が由来とする説があるそうです。

 

2010_07160177 2010_07160179 2010_07160181          

月見橋を渡って桐の木  平地区の商店街を抜けてさらに進むと新湯地区です。四万川に新湯川が合流する場所が四万温泉の中心部のようです。ちょうど昼時になりましたので予定する店の所在をバスの発着所にある地図で確認しようと思いましたが見つけられません。少し戻ったところに温泉協会案内所があったことを思い出しました。中には入って訊(たず)ねると親切に教えてくれました。月見橋を渡らないで進んだ右手でした。駐車は難しいので四万川沿いにある無料駐車場に停めることを勧められました。しかし月見橋の手前の駐車場は満車ですから目的地へ向うと2-3台が停められる駐車スペースに空きができました。

この日の昼食はお食事処「ふくだ」に決めていました。急なスロープを歩いて上ると民家をそのまま食堂にした店があります。ガラス戸の奥に人影が見えますので開けようとすると、もう1つのガラス戸から入るように言われました。注文をしようとすると「おっきりこみでいいですね?」と先に聞かれてしまいました。他には客の姿はありませんが奥の調理場から野菜を切る音や天婦羅を揚げる音がいつまでも聞こえてきます。

 

2010_07160182 2010_07160183 2010_07160187          

群馬県出身の総理大臣や芸能人の色紙がたくさん飾られているのが目に入り、同行者と一緒に知っている名前を探すと、吉永小百合さん、毒蝮三太夫さん、渥美二郎さん、ペドロアンドカプリシャスなどを見つけました。30分近くが経って色紙を眺(なが)めることにも飽きた頃、やっと配膳されました。思ったよりもボリュームがあります。野菜がたっぷり入った「おきりこみ」と野菜かきあげ天婦羅は昔懐かしい味です。

 

2010_07160188 2010_07160191 2010_07160193          

十二分に満足して食べ終わると女将さんとの四方山話になって、お切り込みの造り方や以前釣堀も経営していたことなどを面白く聞きました。

四万川の左岸を遡りました。四万ゆずりは荘の足湯の少し先にある展望台から「小泉の滝」の遠景を楽しんだあと四万ダムへ向います。

 

2010_07160196 2010_07160198 2010_07160200          

日向見(ひなたみ)公園から巨大な四万ダムを見上げられます。

 

2010_07160205 2010_07160206 2010_07160208          

日帰り温泉「四万こしきの湯」前を通過して四万川を堰(せ)き止めてできた奥四万湖を周回してみました。赤沢橋を渡ると水量の少ないダム湖(奥四万湖)に流れ落ちる水が大きな滝になっているのが見えます。

 

2010_07160209 2010_07160210 2010_07160212          

ブノウ沢から小さな滝が流れ落ちてダム湖へと続いています。一方通行になっているダムの上から、鋸山の地獄覗きほどではありませんが、肝試しに見下ろしてみました。

 

2010_07160216 2010_07160220 2010_07160221 
 
 
 
 
 
 

国道353号に入って奥四万トンネルを抜けると摩耶ノ滝の標識(1.1km)がありますが車を停めるスペースはありません。さらに日向見トンネルと湯薬師トンネルを抜けると小倉ノ滝の標識(1.6km)があります。地図では小倉ノ滝近くまで車で行けそうに見えましたが国道からは侵入できないようにガードレールが設置してありました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月23日 (金)

ちょっと中休み: パソコンの大掃除

近頃わが家のパソコンは動作が不安定になっていました。ブログ記事を長々と書いたりネット検索であれこれ調べ物をしたりと酷使(こくし)し過ぎたためかも知れません。タスクを実行している途中に、フリーズこそしないものの、時々立ち止まって考え込んでしまうのです。Windows OSに付属するスキャンディスクやデフラグを定期的に行い、ソフトウェアのアップデートを必ず行うとともにウィルスとスパイウェアのチェックも怠(おこた)っていませんが、パソコン内にゴミがかなり溜(た)まったようです。そこで久しぶりにファイルとソフトウェアの大掃除(おおそうじ)とハードウェアの能力アップを行うことにしました。

まずCドライブの大掃除です。「マイドキュメント」フォルダにある写真・ワード・エクセルなど増え続けるファイルはDドライブとUSB接続の外部HDDに定期的に移していますが、必要なソフトウェアを間違って削除した失敗に懲(こ)りたため、ほとんど使わないソフトウェアがCドライブにまだいくつも残っています。またプログラムのアップデートは自動的に(あるいは手動で)Cドライブの空き領域を減らし続け、毎日何十通も届くメールはいつの間にか何千通にも達してCドライブを圧迫します。使わないソフトウェアと古くなった受信メールを思い切って削除するとCドライブの空きスペースが少し増えました。

これだけでは不十分ですから抜本的な対策としてCドライブの容量を圧迫するInternet Explorerの一時ファイルと「マイドキュメント」フォルダも標準設定のCドライブから余裕のあるDドライブに設定変更しました。その方法はそれほど難しくありませんので、具体的な手順を以下に説明します。

<Internet Explorer> 
Internet Explorerを立ち上げて、「ツール→インターネットオプション→閲覧の履歴を設定→フォルダの移動→Dドライブを指定」の手順で操作すれば再起動して設定の変更は完了です。

<マイドキュメント>
「スタートを左クリック→マイドキュメントを右クリック→プロパティ→移動→移動先としてDドライブを指定→新しいフォルダの作成→名前を付ける(My Documents)→OK→はい」の手順で操作すればDドライブに新設されたMy DocumentsフォルダにCドライブのMy Documentsフォルダにあったすべてのファイルが自動的に転送されます。そしてCドライブにあったMy Documentsフォルダは削除されます。

Microsoft Outlook
Microsoft Outlook
(メール用ソフト)の保存フォルダも同様にDドライブに移せますが、不要な受信メールは出来るだけ早めに削除するようにしていますから、100Mないし200Mのサイズとそれほどの大きさではありませんので、今回は変更しないことにしました

上記の変更方法を詳しく知りたい方はMicrosoft At HomeマガジンMicrosoft Office サポートを参照してください。

次のステップはパソコンを購入した状態のままで使っているRAM(512MB)の容量アップです。つのスロットに1GBRAMを入れれば合計2GBまで増やすことが出来るのですが、これまで使ってきたRAMに愛着がある(本当は捨てるのが勿体ない)ので1GBRAMを追加するだけに留めました。

そしてレジストリとスタートアップのチェックに愛用しているGlary Utilitiesの機能をフル活用してWindowsのシステムファイルが損傷していないかをチェック、Internet Explorerの不正変更を修正、ダウンロードされたActiveXで破損したものも削除しました。

ここまで大掃除をするとわが家のパソコンは買った当時のようにサクサクと動きます。インターネット・アクセスのスピードを測ってみると、これまで30Mbps程度でFTTH(光アクセス)としてはちょっと遅いなと思っていましたが、何と50Mbpsまで改善されています。これなら文句は付けられないスピードでしょう。

パソコン本体の大掃除が終ると不具合が発生して1年半も使用を中止していたLAN接続の外部HDD(容量500GB、以下LAN-HDDと表記)を何とか使えるようにしたくなります。説明書をしっかり読み直しました。LAN-HDDにアクセス出来なくなった時の対策として指示されているリセット操作を行うとSTATUSランプが緑色の点滅を始めました。何かの動作を行っている状態を示しています。しかしいつまで待っても状態が変わりません。立ち往生しているようです。

説明書にはこの状態は、起動中、シャットダウン中、チェックディスク時、本製品設定中、ファームウェアアップデート中、USBおよびeSATA機器の取り外し、マウント中、バックアップ処理中、といっぱい可能性が記載されていますから、どの状態なのかを簡単には判定できません。注釈; eSATAExternal Serial ATAの略で外付けドライブ向けに定義されたUSBに似たインターフェース規格

LAN-HDDにアクセスできない問題を先ず解決することにしました。取り扱い説明書によれば機器背面のリセットボタンを2秒間押せばアクセス用パスワードが解除されるとありますから実行してみました。STATUSランプが点滅から点灯に変わるとパスワード無しでアクセスできました。しかしHDD内にはFAX接続用のファイルがあるだけでデータ用のファイルが見当たりません。以前発生したトラブルで消去されてしまったのでしょうか。

とはいっても、専用ソフトウェアのMagic FinderLAN-HDDの状態をなんとか確認できるようにはなりました。それではと、ミラーリング(冗長構成)用のeSATA-HDD(容量500GB)を押入れから取り出して専用ケーブルで接続すると何やら動き出してLAN-HDDSTATUSランプ(赤色)とeSATAランプ(橙色)が両方とも点滅をはじめて、ピーピーとアラーム音まで鳴り始めました。1年半前とまったく同じ状態が再現されて、あの時の恐怖が甦(よみがえ)りました。

しかし、今回は精神的に余裕がありますから、LAN-HDDの「困ったときには」の説明をじっくり読み、真っ先にミラーリングの問題解決に取り組むことに。何やら難しい説明が並んでいますので、1項目ずつ指示された操作ステップに従いました。

先ずパソコンのIPアドレスを一時的に仮アドレスに変更(スタート→コントロールパネル→ネットワーク→ローカル エリア接続を右クリックしてプロパティを選ぶ→スクロールしてインターネットプロトコルを選ぶ→IPアドレスを設定)、そしてhttp://192.168.0.200/をパソコンのブラウザに入力すると起動ディスクの選択画面に「エラー: Mirror HDDの内容が一致していません」が表示され、LAN-HDDeSATA-HDDについてのディスク情報が表示されました。最新の更新日が両者で異なっています。

eSATA-HDDの方が新しい日付ですからこちらを起動ディスクに選ぶと「ミラーリング開始」の処理に続いてミラーリングの「再構築」プロセスが始まりました。ミラーリング・プロセスの途中でもLAN-HDDのファイルを確認することができます。約2時間後にやっとミラーリングの全プロセスが完了。2年前にはじめて立ち上げた時も同じくらい時間が掛かりましたから、パソコンでこの原稿を書く時間は十分ありました。

1年半ぶりにわが家のストレージ環境が元の状態に戻り、失われたと思っていた約7,000枚の写真を取り戻すことができ、総計46,000枚の写真ライブラリーになりました。そして、パソコンもサクサクと操作できるようになりましたから、当面は最近発売されたアイパッドやアイフォーン4のことを忘れて、快適なパソコン環境を楽しむことにします。

追記; 1週間ほどは順調でしたが「日本ロマンチック街道ドライブ」の原稿を書いている間に同じ障害が再発しました。同様の手順で復旧したものの、まだ何か隠れた問題があるようです。LAN-HDDに消去できないファイルが1つ見つかりましたから、クラスタ(記憶領域の単位)が一部損傷しているのかもしれません。もしそうだとすればフォーマッティング(初期化)し直す必要があります。悩みは尽きないわが家のパソコン環境です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月22日 (木)

日本ロマンチック街道 金精トンネルと権現峠

金精峠(こんせいとうげ、標高2024m)の下を貫く金精トンネル(全長755m、標高1840m)を抜けて群馬県片品村に入ります。急な坂を下りると右手に菅沼(すげぬま)が見えて来ました。原生林に囲まれた湖の畔が国道120号沿いに1.5km以上も続いて木の間から見え隠れするエメラルド色の湖面を楽しみながら快適に走ります。

 

2010_07160138 2010_07160139 2010_07160140 

 

 

 

 
 
 

曲がりくねった道を下りると丸沼に差し掛かりました。湖畔へ下りる道がありますから入ってみることにします。丸沼の名前とは裏腹に細長い湖を回り込むように続く道は1.5km以上もありました。やっと開けた場所に出るとそこは丸沼温泉の一軒宿「環湖荘(かんこそう)」でした。湖の反対側にある丸沼ダム(1928年建設)は東京電力の発電用ダムで下の大尻沼との水位差を利用しています。全国でも数少ない大規模なバットレス構造のダム(中空堰堤式ダム)で国の重要文化財に指定されています。ダムサイトへアクセスするには国道から200mほど歩く必要がありますから諦(あきら)めることに。

 

2010_07160144 2010_07160145 2010_07160146 

 

 

 

 
 
 

大尻沼を過ぎた丸沼高原スキー場では雲が掛かる山上に向って日光白根山ロープウェーが伸びています。標高1400mの麓駅から標高2000mの山頂駅まで全長2500m・標高差600mの大型ロープウェーです。これまで当ブログは六甲有馬ロープウェー大龍寺ロープウェー眉山ロープウェー金華山ロープウェーピラタス蓼科ロープウェーなどを紹介しています。

 

2010_07160147 2010_07160149 2010_07160150 

 

 

 

 
 
 

赤沢バス停の手前に幸田露伴文学碑がありました。白根温泉を通過して一気に高度を下げました。「とうもろこし街道」の看板があるように焼きとうもろこしの店が続きます。尾瀬へ向う吊り橋「尾瀬大橋」の袂(たもと)の鎌田交差点を抜けて片品村役場を過ぎると国道120号は南に向い沼田市に入ります。

 

2010_07160152 2010_07160153 2010_07160156 

 

 

 

 
 
 

片品川が近づいて吹割の滝を過ぎた椎坂峠(しいさかとうげ)で国道120号は西に転換してさらに高度を下げます。関越自動車道の沼田ICを過ぎ、新鷺石橋で利根川を渡ります。上流側に並行する鷺石橋(さぎいしばし、1929年竣工)は群馬県に現存する唯一の鋼プラットトラス橋梁(2連)、老朽化のため現在は使われていません。(注釈;写真は2連目のみ) 国道120号と国道17号(沼田バイパス、三国街道)が交わる下川田町交差点で日本ロマンチック街道は国道145号に入りました。

 

2010_07160159 2010_07160160 2010_07160161 
 
 
 
 
 
 

国道145号は一気に高度上げて権現峠(ごんげんとうげ)を越えますがこの峠に大理石村 ロックハート城がありました。イギリスのスコットランドから移築した古城(1829年建設)は結婚式場やイベント会場(入場料金1000円)として使われているようです。権現峠を過ぎると高山村に入ります。三国街道の宿場町(中山宿)として栄えた地区でしたが国道17号が利根川沿い(沼田市を通るルート)に変わったため今は閑静な場所となっています。中山の地名と本宿の名が交差点に残っていました。
 
2010_07160163 2010_07160167 2010_07160168 
 
 
 
 
 
 
ちなみに上越新幹線は旧三国街道と同様に高山村を通過していますがすべてトンネル区間となっているようです。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月21日 (水)

日本ロマンチック街道 いろは坂と奥日光

日光街道の杉並木と歴史の講釈は日光橋で終わりです。日光橋を渡った神橋交差点から先は国道120号に変わって日本ロマンチック街道(本街道)ドライブの本番がスタートしますから、これからの記事はドライブに重点を置くことにして風景写真を多用しながらその様子を紹介します。

神橋交差点の脇にあるのが二荒山神社の「神橋」、4年前に期間限定で一般開放された時に歩いて渡りました。日光市街地を抜けた清滝交差点で日本ロマンチック街道は国道120号の旧道に一旦入ります。細尾大谷橋交差点で国道120号に戻って馬返まで進むと「いろは坂」の上りに入ります。二荒橋交差点までの区間は第一いろは坂(下り、28のカーブ)と第二いろは坂(上り、20のカーブ)があってそれぞれは一方通行です。1965年(昭和40年)に第二いろは坂が開通して現在の形になりました。

 

2010_07160107 2010_07160109 2010_07160112 

 

 

 

 
 
 

6番目のカーブから先は富士山の登山道のような九十九折(つづらおり)で明智平まで一気に上ります。途中の黒髪平展望台に日光いろは坂の石碑がありました。1986年(昭和61年)に日本の道百選に選ばれた記念なのでしょう。晴れていればいろは坂の展望が楽しめるはずですが残念ながら霧に包まれています。そして明智平を掘り抜いた明智第一トンネルと明智第二トンネル(いずれも1994年竣工)を抜けると中禅寺湖です。ちなみにこのトンネルができる前は昭和初期に造られた明智トンネルと白雲トンネルを抜ける旧道が使われていましたが現在は廃道になって地図から消えています。

 

2010_07160113 2010_07160114 2010_07160115 

 

 

 

 
 
 

舗装の修復工事が行われる二荒橋交差点を左折して中善寺湖畔を抜けました。午前9時半になりましたが雨天のせいか人影はほとんどありません。

  

2010_07160116 2010_071601182010_07160120 

 

 

 

 
 
 

龍頭の滝を過ぎると国道120号は高度を上げて戦場ヶ原を通過しました。

 

2010_07160122 2010_07160123 2010_07160125 

 

 

 

 
 
 

湯滝の脇を過ぎると湯ノ湖、日光湯元温泉への入口標識と金精道路の案内標識があります。金精道路はこの湯元と金精トンネルを抜けた群馬県側の丸池を結ぶ元有料道路で、冬季(12月下旬から4月中旬まで)は封鎖されます。ちなみに金精の名は金精神(弓削道鏡の男根)を金精峠に祀ったことに由来します。

 

2010_07160126 2010_07160128 2010_07160129 

 

 

 

 
 
 

元湯温泉を回りこむように高度を上げると温泉街と湯ノ湖が眼下に広がります。金精道路(国道120号)は金精山を目指して一直線に登って行きます。

 

2010_07160130 2010_07160131 2010_07160134 

 

 

 

 
 
 

さらに急坂を上ると湯ノ湖と男体山が段々後方へと遠くなって行くのが見え、前方には温泉ヶ岳(標高2333m)が近づきました。

 

2010_07160135 2010_07160136 2010_07160137 

 

 

 

 

 
 

大規模な土砂崩れが砂防堤を乗り越えています。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月20日 (火)

日本ロマンチック街道 旧日光街道巡り(その3)

七本桜交差点を過ぎると杉並木の出口に追分地蔵が鎮座していました。高さ約2mと北関東一の石地蔵は日光街道(国道119号)と例幣使街道(国道121号)の分岐点(小倉町交差点)に置かれているのです。道標には「左 宇都宮、右 鹿沼」と彫られています。杉並木の旧街道も合流しますから3つの街道が一つになって小倉町交差点につながっていますから六差路と言えるでしょう。右手の県道62号はさくら市に至って国道4号(奥州街道)に接続しています。

 

2010_07160067 2010_07160068 2010_07160071 

 

 

 

 

 

 
その県道62号に入って東武日光線今市駅へ向い、最初の十路地を左折すると住宅に囲まれた報徳二宮神社があります。昔懐かしい二宮金次郎の像・尊徳の坐像とともに立派なお墓がありました。ちなみに今市市(いまいちし)の表示が所々に残っているのは2006年に日光市となるまでの旧称です。

 

2010_07160079 2010_07160081 2010_07160083 

 

 

 

 

 

 
国道119号に戻って龍尾神社前の交差点から入った旧道の並木を含む杉並木公園には「重連水車」(直径4.5m・幅80cm x2)が前日からの雨で力強く動いています。そのすぐ近くには朝鮮通信使の今市客館跡(江戸時代)の立派な石碑もありました。

 

2010_07160074 2010_07160076 2010_07160078 
 
 
 
 
 
 
杉並木公園の左半分を構成する未舗装の杉並木を歩いてみました。右手の神社に気を惹かれて立ち寄ると「高お神社」でした。「お」の部分は「雨冠の下が漢数字の四と龍」を組み合わせた大変難しい漢字です。

 

2010_07160084 2010_07160085 2010_07160087 

 

 

 

 
 

 
瀬川一里塚の案内看板には江戸日本橋から34里(132km)と説明されています。杉並木公園を過ぎると旧日光街道は車が通りぬけできないと表示されていましたので、国道119号を走ることにして、瀬川大日堂・七本杉伐痕・砲弾打込み杉などは通過しました。国道119号に戻ると並木太郎と呼ばれる杉(樹高38m)と根本が銀杏のように広がった銀杏杉もありましたが車を停めるのは危険ですから撮影を諦(あきら)めてこれも通過。宝殿(ほうでん)交差点から日光の山々が見えてきました。

 

2010_07160089 2010_07160091 2010_07160092 

 

 

 

 
 
 

JR日光線のガードを潜ると日光街道の名残り道並木寄進碑と日光杉並木街道碑がありました。昔の日光街道の雰囲気を今に残すスポットのように思います。

 

2010_07160093 2010_07160095 2010_07160097 

 

 

 

 
 
 

東武日光駅前交差点で杉並木が途絶え、電線の地下化ですっきりした景観の日光市市街地に入ります。神橋交差点の右手前にある天海大僧正の銅像と左手の高みにある板垣退助の銅像がいずれも神橋の方向を見ています。川越大師喜多院(きたいん)にあった天海大僧正の銅像は穏やかな表情でしたが、日光の銅像は厳しい顔立ちに造られています。大谷川(だいやがわ)に架かる日光橋が日光街道の終点です。

 

2010_07160098 2010_07160102 2010_07160108 

 

 

 

 
 
 

日光市郷土センターに「日光における戊辰戦争」の説明看板がありました。戊辰(ぼしん)戦争は幕末(慶応4年、1868年)から明治2年(1869年)にかけて江戸幕府の勢力と明治新政府軍が戦った全国規模の内戦です。鳥羽・伏見の戦い、会津・庄内藩が中心となって新政府軍と戦った東北戦争、榎本武揚(えもとたけあき)と土方歳三が活躍した箱館戦争(注釈;戊辰戦争後に函館に改称)などが有名ですがいずれも新政府軍が勝利しました。日光に幕府側勢力が入ったため土佐藩の板垣退助を主将とする新政府軍は今市まで迫りましたが、幕府側勢力が会津へ向ったことで戦火は日光に及ばなかったことが説明されています。戊辰戦争については当ブログの「会津の飯盛山」「郡上八幡」「会津藩主松平容保(かたもり)」の記事で触れています。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月19日 (月)

日本ロマンチック街道 旧日光街道巡り(その2) 

山口交差点を過ぎると国道は緩やかに左へカーブします。前方の林のトンネルへと直進して未舗装の旧道に入ると並木の脇に並木寄進碑がありました。松平正綱公(江戸時代初期の幕府勘定奉行)が杉並木を植栽して日光東照宮に寄進したことが記載された石碑であることと、並木の起点となる神橋畔と日光神領の境界として各街道(日光街道:今市山口・例幣使街道:同小倉・会津西街道:同大桑)に建てられて堺石と呼ばれていると説明されています。

 

2010_07160033 2010_07160034 2010_07160036 

 

 

 

 
 
 

大沢交差点(五差路)で国道に合流しました。この辺りから大沢宿が始まったようですがその面影は残っていません。大沢の集落を抜けると国道119号は鬱蒼(うっそう)とした杉並木に入ります。

 

2010_07160037 2010_07160038 2010_07160039 

 

 

 

 
 
 

森友で国道119号は杉並木の左側に出ます。松並木(旧道)は右手の砂利道となって800mほど並行して下森友交差点の手前で国道と合流します。

 

2010_07160050 2010_07160051 2010_07160052 

 

 

 

 

 
 

途中に年代物の建物があり、「宇都宮市水道第二接合井」と表示されています。帰宅後に調べると大正5年(1915年)から使われている水道施設でした。今市浄水場から宇都宮市街地の戸祭配水場まで日光街道に埋設された26kmの送水管は高低差が240mもあり、水道管路の水圧を弱めるため途中6ヶ所に接合井(せつごうせい)が設けられました。この送水管は現在使われていないようです。

 

2010_07160053 2010_07160047 2010_07160049 

 

 

 

 
 
 

次の森友交差点から小倉町交差点まで杉並木が3km近くも続いています。この区間の杉並木は車も通行できますが、すべて一方通行のため国道119号を約1.2km先の七本桜交差点まで進んで、杉並木の中を戻ることにします。

 

2010_07160064 2010_07160056 2010_07160057 

 

 

 

 
 
 

杉並木の途中に七本桜一里塚(江戸日本橋から36里・144km)がありました。この一里塚にある巨大な杉には大きな空洞があるため通称「並木ホテル」と呼ばれているそうです。
 

2010_071600582010_071600602010_07160061 

 

 

 

 

 
 

森友交差点ではUターンが出来ないため一旦脇道へ入って進路変更をする必要がありました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月18日 (日)

日本ロマンチック街道 旧日光街道巡り(その1) 

テレビの旅番組を観ていた同居者が四万(しま)温泉の積善館(せきぜんかん)に泊まりたいと言うのです。そして別の番組では佐久市の蕎麦と創作料理の店「職人館」にも行ってみたいとつぶやいています。群馬県の四万温泉と長野県の佐久市と聞けば「日本ロマンチック街道」が即座に連想されました。この街道はこれまで何回にも分けて7-8割の区間をドライブしていますが、まだ全区間を一気にドライブしたことはありません。つまり私にとっては宿年のドライブ・ルートなのです。

私は週末(7月17日)頃の梅雨明けを予測していましたが、週末から3連休に入ってしまいますから、「善は急げ!」とその直前の15日に出掛けました。日本ロマンチック街道当ブログの記事で紹介したようにドイツのロマンチック街道にちなんで名付けられた栃木県日光市から長野県小諸市を結ぶ全長約230kmの街道です。この本街道にガッセ(小径)を加えて栃木県宇都宮市から長野県上田市まで総延長約350km(枝分かれ区間があり)に拡大しています。

早朝の東北自動車道を走って雨が降り始めた宇都宮ICから国道119号(日光街道)に出ました。4年前に日光を訪れた時は続けて日光宇都宮道路を利用しましたが、今回はロマンチック街道を走るのが目的ですからもちろん一般国道を走ります。宇都宮IC入口交差点から並木と緑道が続いているようですから、その交差点まで回り道をしました。東北自動車道の下を潜った宇都宮第一病院の辺りから先が徳次郎(とくじら)宿、上・中・下の3宿で構成された合宿だったようです。

 

2010_07160001 2010_07160002 2010_07160003 

 

 

 

 
 
 

さくら市喜連川から宇都宮市大谷町へドライブした時に横切った徳次郎交差点から約700m先にある智賀都(ちかつ)神社辺りが中徳次郎(宿場中心部)であったようです。鳥居の奥に巨大な欅(けやき、樹齢700年、樹高40m)が2本そびえています。

 

2010_07160004 2010_07160005 2010_07160006 

 

 

 

 
 
 

神社の脇を100mほど入った宝木用水(たからぎようすい)は田川(たがわ)の二宮堰(にのみやぜき)へと続きました。

 

2010_07160009 2010_07160010 2010_07160013 

 

 

 

 
 
 

新田開発のため相模国足柄上郡出身の二宮尊徳(にのみやそんとく、正しくはたかのりと読む)が指導して1851年に堰(せき)と用水路を作ったそうです。現在の取水口は立派な魚道が付いた堰堤(えんてい)と取水ゲートで構成されています。

 

2010_07160015 2010_07160016 2010_07160017 

 

 

 

 
 
 

智賀都神社の直ぐ先の中央分離帯に徳次郎六本杉があります。最近になって植え直されたようで若い杉の木でした。

 

2010_07160022 2010_07160023 2010_07160024 

 

 

 

 
 
 

県道77号(船生街道)へ分かれる交差点(一里塚バス停)近くに六本木一里塚(江戸日本橋から30番目)と十九夜塔(如意輪観音)があります。

 

2010_07160025 2010_07160026 2010_07160029 

 

 

 

 
 
 

国道119号は鬼怒川(きぬがわ)の支流である田川に沿って西北西へと方向を変えて日光市今市(いまいち)に入ります。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月14日 (水)

パーカッション演奏会

2010_06300018 同居者に誘われて音楽会に出掛けました。同居者が知人から招待券を貰ったのです。最寄り駅から少し歩いた住宅街にモダンな施設があります。人の流れに従って音楽大学のキャパスを奥へと進むと、開場時間の前に到着したにもかかわらず、会場となるホールの前にはすでに長蛇の列が出来ていました。
 

2010_06300016 この日に開催される「打楽器アンサンブル演奏会」はこの音楽大学と大学院に在籍する打楽器コース専攻の学生によって構成される楽団の定期演奏会です。100名を越える演奏者が、約30台のマリンバを中心としたオーケストラをはじめ、マーチングパーカッション、スチールバンド、民俗楽器アンサンブルなどの演奏があるとパンフレットに説明されています。

2010_06300023 定刻に演奏会が始まりました。全体は第1部のジャンル別と第2部のオーケストラで構成されています。演奏中は写真とビデオの撮影が許可されませんから、拙文とオーディオで演奏の内容と雰囲気を伝えたいと思います。[サウンド]内の番号をクリックすると演奏のさわり(サビの部分)をお聴きいただけます。
 

第1部

2010_06300029和太鼓* 「疾風」は小太鼓の小気味よさ、力強い中太鼓、迫力の大太鼓のアンサンブルが和太鼓の魅力を聞かせました。「サウンド

*スティールパンバンド* High Masと”I want you backは独特の明るく・澄んだ・煌(きら)びやかな音色でリズミカルかつ楽しげに南国ムードを醸(かも)し出しました。ちなみに「I want you back」はジャクソン・ファイブ(マイケル・ジャクソン)のヒット曲のひとつです。「サウンド

*鍵盤打楽器(マリンバ)アンサンブル* Sanctuaryをふくよかで優しく優雅なハーモニーで奏でます。マリンバは同行者が一番好きな楽器なのです。打楽器ですが大きなオルゴールにも似た心地よい音には心癒(いや)される思いです。「サウンド

*民族打楽器アンサンブル* DJAMBOLI-ジャンボリ-は中近東と西アフリカの打楽器を加えた20人以上の迫力がありました。軽やかなリズムは祭りのように盛り上がって身体が自然に動きます。曲の終わりの余韻(よいん)が良い。「サウンド 1011

*マーチングパーカッション* 大小のドラム、マリンバ、鐘、シンバルで構成される40名近い大編成で演奏したインフェルノ、ファールプレイ、アフリカ~典礼と儀式~ではドラムの音が空気の弾丸となって客席に突き刺さりました。マリンバが後方からメロディ奏(かな)でて、大きな旗を振る女性たちが楽しさを演出します。「サウンド 1213
 

第2部

2010_06300032 *打楽器オーケストラ* 出演者の約半数(45名)が出演してバレエ音楽「ダフニスとクロエ」(ボレロで知られるモーリス・ラヴェルの作曲)を演奏。まさにオーケストラの名の通りに厚みのあるサウンドが大きなスケールを感じさせました。「サウンド 1415 161718192021

アンコールの曲目は恒例のようですがはじめての私はつい聞き漏らしました。この曲はウィーンフィル・ニューイヤー・コンサートの「ラデツキー行進曲」の位置づけなのでしょう。サウンド 22232425262728
 

今回始めて体験した打楽器アンサンブル演奏会はその魅力あるサウンドが印象に残りました。楽団員が楽しそうに演奏する様子を十分にお伝えできないのは残念です。

<同行者のコメント> どんな音楽会かと思いながら出かけましたがとてもすてきなコンサートでした。マリンバを楽しそうに演奏する学生さんたちをうらやましく思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月12日 (月)

木津川ドライブ 名張川と月ヶ瀬湖

月ヶ瀬湖(月ノ瀬湖)に架かる朱色の吊り橋「高山橋」は点検作業のために通行止めになっていました。専用のクレーン車を使って橋の下側をチェックしているようです。対岸にゴルフ場があるとの標識を見かけました。この日にプレーをする人はどうするのかちょっと気に掛かります。

 

2010_06190684 2010_06190686 2010_06190687 

 

 

 

 
 
 

綺麗に刈り込まれた茶畑と日の出の滝の先で奈良県奈良市に入って県道4号(笠置山添線)に行き当たりました。左折して月ヶ瀬湖(名張川)を遡(さかのぼ)ります。

 

2010_06190690 2010_06190691 2010_06190694 

 
 
 
 
 
 
梅林で有名な月ヶ瀬にも朱色の吊り橋「八幡橋」が架かっています。その少し手前の龍王橋脇に車を停めて遊歩道を歩きました。龍王の滝があるようです。役小角(えんのおづの)修行の地などと説明されていました。いくつもの滝が続いていますのでどれが龍王の滝か判断に迷います。

 

2010_06190695 2010_06190697 2010_06190700 

 

 

 

 
 
 

八幡橋の先にある駐車場に車を停めて湖上展望台「浮見堂」まで歩いてみましたが期待したほどの展望はありません。梅林がいくつも続きます

 

2010_06190711 2010_06190712 2010_06190713 

 

 

 

 
 
 

シンプルな朱色の下路アーチ橋「月ヶ瀬橋」の袂(たもと)を通過する山添村に入ります。三重県伊賀市と結ぶ国道25号旧道の五月橋は1928年(昭和3年)に完成したプラットトラスとポニートラスを組み合わせた古色蒼然とした橋です。名阪国道(国道25号)が出来たため利用者が少ないようです。上流に見える新しい橋は名阪国道の新五月橋、この辺りまで遡(さかのぼ)るとダム湖のイメージはほぼなくなります。

 

2010_06190715 2010_06190716 2010_06190719 

 

 

 

 
 
 

さらに遡(さかのぼ)れば宇陀川(うだがわ)を経て赤目四十八滝のある滝川へ至りますが、番外編である深い緑の世界と迫力ある名張川沿いドライブはここまでとして、五月橋ICから名阪国道に入りました。準高速道路に分類されて最高速度は60kmに制限されていますが、実際にはかなりのスピードで流れており、高速道路として利用されているように見えます。

2010_06190722 関JCTで東名阪自動車道(有料区間)に入り、四日市JCTで伊勢湾岸自動車道に反れ、豊田JCTからは東名高速道路、いずれも走り慣れた高速道路で思ったほどの渋滞はなく快調にドライブできました。夕方の渋滞が発生する前に帰宅しようといつもよりスピードをアップしたことが奏功して午後4時過ぎに帰宅できました。

継体天皇と木津川をキーワードとする近畿3.1県(奈良県はかすめただけ)のドライブ旅における総走行距離は約1500kmです。長い連載記事(全14回)をお読みいただき、本当にお疲れさまでした。

<同行者のコメント> 温泉のお湯は良かったのですが楽しさがちょっと足りないように思いました。運転手さんはいつものように山の中に分け入って楽しそう。また帰宅時間が遅くなるのかと思っていましたがいつの間にか東名高速道路を走り終えていました。ご自慢のエコドライブはどうしたのでしょう?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月11日 (日)

木津川ドライブ 日帰り温泉「笠置いこいの館」と名張川の高山ダム

長かった近畿ドライブ旅もいよいよ終着点が近づきました。再び府道4号(柳生街道、笠置山添線)に入って笠置橋を渡りました。この道は奈良県の柳生の里を経て山添村まで続いています。笠置町のhpによると笠置の地名は天智天皇の皇子である大友皇子がこの地で狩りをした時に断崖から落ちそうになり、山の神に助けを願って事なきを得たお礼として岸壁に弥勒仏の像を彫ることを約束、場所を忘れないように笠を置いたことによると説明されています。

2010_06190638 案内標識にしたがって郵便局の角を右折、200m先を左折して変則的な交差点を直進して小さな橋を渡ると左手に立派な施設が見えました。笠置町が経営する日帰り温泉「わかさぎ温泉 笠置いこいの館」です。

町営施設の玄関を入ると右手にフロントがあります。料金の800円を支払ってホールに面した入口から浴室に入りました。やや手狭に感じる脱衣場(ロッカー)を抜けると天井が高く広々とした内湯(大浴場)です。オープン直後の午前10時過ぎは他に入浴客がありません。

 

2010_06190640 2010_06190641 2010_06190646 

 

 

 

 
 
 

左手から洗い場、扇形の浴槽と角丸長方形の浴槽、岩風呂打たせ湯が並びます。右側には泡風呂の寝湯と遠赤外線低温サウナも。泉質はナトリウム・炭酸水素塩・塩化物泉(低張性・弱アルカリ性・低温泉)、PH7.8で淡黄色の湯はわずかにヌメリ感があります。笠置山麓の地下1200mから湧く32.5度の源泉が使われているそうです。

 

2010_06190643 2010_06190642 2010_06190644 

 

 

 
 
 

 
露天風呂もありますが天然温泉ではなく「季節の変わり湯」(6月はローズ湯)でした。涼み台が置かれています。ゴム草履(ぞうり)を履いて小さな庭を散歩する趣向もありましたが、私にはちょっと疑問に思えて、早々に内湯へ戻りました。

この施設の2階には大広間、食堂、マッサージルームなどがあるようです。館内ホールと屋根のあるオープンエリアには地元産品の野菜などが売られていました。

国道136号に戻って南山城村へ向います。「サイレンが鳴ったら川から出てください」と幟(のぼり)に書かれていた沈下橋と南山城村役場の前を通過した交差点を右折して山道(府道82号)に入りました。このまま国道136号を10数km走れば伊賀市で名阪国道に入れますが「高山ダムまで4km」の表示を見て少し道草を食うことにします。

木津川の大河原大橋を渡ると右岸に大河原発電所が見えます。大正8年に造られたレンガ造りの魅力的な建物が風景に溶け込んでいます。左岸の府道82号を川の流れを見ながら走っている時に水音に気付いて右手を見ると小さな砂防堰堤(床固工、とこがためこう)の雌滝があります。雌滝があれば次は雄滝だろうと期待しながら走ると確かに豪快な雄滝がありました。最上部はコンクリートの堰堤になっています。

 

2010_06190662 2010_06190666 2010_06190669 

 

 

 

 
 
 

名張川の巨大な堰堤(えんてい)から水が迫力をもって流れ落ちています。坊主堰堤と呼ぶのだそうです。なだらかなカーブから名付けられたのでしょうか。堰堤の脇から大河原発電所の取水口が見えました。ちなみに堰堤とダムの違いは高さにあるそうです。

 

2010_06190672 2010_06190675 2010_06190676 

 

 

 

 
 
 

府道82号がV字型に右に折れ、夢絃峡(むげんきょう)を過ぎて緩(ゆる)やかに右へカーブすると前方に高山ダムが見えてきました。

 

2010_06190678 2010_06190682 2010_06190685 

 

 

 

 

 
 

1969年(昭和44年)に淀川水系最初のダムとして完成した全国でも珍しいアーチ重力式コンクリートダム(長さ208.7m・高さ67m)です。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月10日 (土)

木津川ドライブ 恭仁京跡

恭仁大橋の袂(たもと)に恭仁京(くにきょう)跡と手書きされた小さな案内標識とともに恭仁京を歌った大伴家持(おおとものやかもち)の歌碑を見つけて府道44号を戻りました。国道163号との交差点には案内標識は見当たりませんのでそのまま直進すると狭い農道に入ってしまいました。辺りを見回しても史跡らしきものは見当たりません。

 

通りかかった年配の女性に尋ねると詳しく道案内してくださいました。「国道に出て少し右手へ行ったガソリンスタンド(休業中)の向かい側のレストラン横の道に入ればすぐ分かりますよ」とのこと。教えられた通りに国道163号の最初の交差点から農道に入りました。木津川市文化財整理保管センター恭仁分室への入口脇に恭仁宮の案内図がありました。恭仁京の規模は藤原京平城京と比べようもありませんが、それでも案内図を見るとかなりの広さ(東西560m・南北750m)であったことが示されていました。

 

2010_06190585 2010_06190611 2010_06190635 

 

 

 

 

 

100mほど先の右手に広場がありました。看板らしきものが立っていますので近寄ると恭仁宮跡(山城国分寺跡)の説明看板でした。「恭仁京」と「恭仁宮」(くにきゅう)の名称が混在するのは恭仁京の中心部が恭仁宮跡(山城国分寺跡)として国の史跡に指定されたためです。本記事では私がなじみ深い前者を使うことにします。七重の塔の基壇(基礎部)と礎石が残る山城国分寺跡の広場では地元の方でしょうか犬を遊ばせる人たちがいます。恭仁京の跡地は後に山城国分寺となり大極殿は金堂としてそのまま転用されたと伝えられます。

 

2010_06190605 2010_06190607 2010_06190637 
 
 
 
 
 
 

 

隣の木立が恭仁京大極殿跡のようです。恭仁小学校脇の道を入ると駐車できる場所に別の案内看板がありました。恭仁京について詳しい説明が書かれています。

 

2010_061906102010_061905952010_06190597 
 
 
 
 
 
 
平城京から移設された大極殿跡(大極殿跡基壇)に上がると礎石が3つほど寂しげに残っていました。ちなみに右下の石碑にある「舊」は「旧」の異字体です。

 

2010_061906012010_061905982010_06190599 

 

 

 

 

 

奥の方まで歩くと「恭仁宮大極殿址」の石碑が横たわっているのを見つけました。プチ薀蓄(うんちく)ですが「跡」は足跡で「址」は建物の土台のこと。

 

2010_06190600 2010_06190602 2010_06190634 

 

 

 

 

 

恭仁京は奈良時代に聖武天皇によって奈良から遷都された京ですが4年後には京の造営の完成を待たずに紫香楽宮(甲賀宮)へ再遷都されました。現在の滋賀県甲賀市信楽町にあった離宮に造営された京ですが、744年には難波京へ移され、745年には聖武天皇は平城京に戻ることになります。弓削道鏡の記事で触れた左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)、良弁(ろうべん)僧正や行基(ぎょうき)大僧正などが場所の選定に係わったとされます。下の写真は木津川対岸の鹿背山越しに見る奈良方面です。

 

2010_06190593 低い山を北側に背負い、南の方角の視界が開けたこの場所が京として選ばれたのは他の都と同様に風水に因ったのでしょう。ちなみに聖武天皇による度重なる遷都の背景は当時天災や疫病が多発したため現実に対応できない聖武天皇は、国政を橘諸兄に任せ、仏教に救いを求めるとともに遷都へ情熱を傾けたと伝えられます。

 

しかし度重なる遷都は役人や庶民の支持が得られず断念せざるを得なかったのです。そうであっても聖武天皇の情熱は東大寺の大仏建立(754年)で実現されます。当時の大仏建立は一大国家プロジェクト、現代で言えば万博に相当するものでした。このプロジェクトを推進した行基大僧正の手腕を行基と道鏡の記事で紹介しています。

 

2010_06190586 恭仁神社の標識が気になってさらに600mほど西へ進みました。長い参道がある恭仁神社は格式の高い神社だろうと想像しましたが、境内にある縁起を読むと、元は菅原道真を祀る天神社であったものが戦後になって御霊神社と合併して恭仁神社と社号が変えられたとのこと。そそっかしい私の早とちりでした。後になって、同じ訪ねるのであれば恭仁京跡の真北にある海住山寺(かいじゅうせんじ)にすれば良かったと後悔しました。この寺は国宝の五重塔があることで知られます。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 9日 (金)

木津川ドライブ 木津川の橋巡り(後編)

この辺りから木津川は渓谷に変わります。恭仁大橋から5kmほど走ると宇治茶の生産地である和束町(わづかちょう)から東隣の笠置町(かさぎちょう)に入ります。北笠置交差点を右折して府道4号の笠置橋を渡りました。泉大橋ほどではありませんが昔懐かしい山型を形作るトラスがある狭い橋です。下流側に立派な歩道「笠置橋側道橋」があり木津川の流れを楽しむために半円形に出っ張った場所がありました。

 

2010_06190540_2 2010_06190546_2 2010_06190548_2 

 

 

 

 
 
 
下流側は広々とした川原がありますが上流側は川幅が急に狭くなって滝のような段差も見えます。

 

2010_06190549_2 2010_06190550_2 2010_06190544_2 

 

 

 

 
 
 

笠置トンネルを抜けた布目川発電所辺りから先の木津川は対岸の笠置山に押し出されるように湾曲しています。右へカーブすると前方に関西本線の鉄橋が見え、その奥には相楽発電所がある飛鳥路の堰堤(えんてい)です。その手前の河原に一直線に伸びるラインがあります。潜水橋のようで鋭角に折れ曲がった急な坂道を下り、流れに近い未舗装の飛鳥路駐車場に車を停めました。

 

2010_06190555_2 2010_06190568_2 2010_06190569_2 

 

 

 

 
 
 

とうとうと流れる濁流を横切る沈下橋(潜水橋)でした。名前を探しましたが見当たりませんので「飛鳥路の潜水橋」と呼ぶことにします。コンクリート製の潜水橋はもう少し水位が上がると潜水するのでしょう。中ほどまで歩いてみましたが、濁流の迫力が余りにもすごいのでの、対岸まで渡るのは止めにして引き返すことに・・。四国遍路のブログ記事で徳島県の吉野川と高知県の四万十川の沈下橋を紹介しています。雨が降り続いた3日後に再び立ち寄りました。もしや水没しているのではないかと期待したのです。今にも水没しそうな沈下橋を宅配便のトラックが渡っています。その勇気には敬服です!

 

2010_06190570_2 2010_06190573_2 2010_06190653_2 

 

 

 

 
 
 

木津川はさらに右にカーブして国道163号から離れて行きます。山間の国道は南山城村に入ると再び木津川に接します。北大河原地区にも沈下橋を発見して立ち寄ってみました。こちらも鋭角に旋回して急な坂道で河原に下りました。こちらも結構広い駐車スペースがあります。橋には恋路橋と表示されていました。

 

2010_06190557_2 2010_06190559_2 2010_06190560_2 

 

 

 

 
 
 

「飛鳥の沈下橋」と同様に中ほどまで歩いて写真を撮影するだけで引き返しました。幟(のぼり)に「サイレンが鳴ったら川から出てください」と表示されています。上流にある高山ダムで放水される時のサイレンなのでしょう。高山ダムは木津川支流の名張川のダムです。

 

2010_06190562_2 2010_06190563_2 2010_06190565_2 

 

 

 

 
 
 

木津川は名張川との合流点から先は川幅を狭め、国道163号と交互に交叉しながら三重県に入り、伊賀上野城の近くで南へ向きを変え、津市との境界に近い青山高原の源へと至ります。大阪府・京都府と三重県を結ぶ主要道路である国道163号は山間の道幅が狭い木津川沿いの区間でもトラックの通行が多いのが目立ちました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 8日 (木)

木津川ドライブ 木津川の橋巡り(前編)

流れ橋に魅せられた私は木津川の橋を尋ねることを思い立ちました。八幡市では木津川の堤防を車は通行できませんので府道22号を南下して京田辺市に入りました。京奈和自動車道の田辺北ICと2年前に立ち寄った一休寺付近を過ぎて、京田辺市役所東交差点を左折、国道307号を東進すると前方に見えてきたのは城陽市(じょうようし)の山並みです。

 

木津川の山城大橋(橋長540.5m、1997年完成)を渡ります。上下車線を分ける中央分離帯の部分に赤く塗られたアーチ構造を橋の上部に付けた下路ローゼ型の珍しい吊り橋です。橋の袂(たもと)にあるスペースに車を停めて歩道を橋の中央部まで歩きました。橋の構造と木津川の下流をじっくり観察するためです。河川敷で野菜に水やりをする人がいました。

 

2010_06190468 2010_06190474 2010_06190475 
 
 
 
 
 
 
山城大橋東詰交差点を右折して木津川の右岸堤防上を走る国道24号(奈良街道)を南下して井出町の玉水橋(府道65号)を渡りました。前方の丘の中腹に同志社大学の京田辺キャンパスが見えます。

 

2010_06190483 2010_06190491 2010_06190490 
 
 
 
 
 
 
木津川市に入って開橋(ひらきばし、府道71号)も渡ってみましたがUターンする場所が見つからず府道22号まで走ってしまいました。対岸は関西文化学術研究都市の中心である精華町、いちご狩りをしたことがある町です。

 

2010_06190498 2010_06190504 2010_06190502 
 
 
 
 
 
 
次いで上狛四丁目交差点を直進して泉大橋に向いました。奈良時代(天平13年、741年)に行基大僧正によって泉川(現在の木津川)に架けられた橋は後になって流失してしまい明治時代までは渡船場があったそうです。現在の橋(橋長383.6m)は昭和26年に架橋されたゲルバー式トラス橋(9径間)で昔懐かしいスタイルです。

 

2010_06190506 2010_06190509 2010_06190515 

 

 

 

 

 

当時の最先端技術で架けられたのですが大型トラックをすれ違うと大きな振動を感じました。すぐ近くにJR関西本線の鉄橋も架かっています。

 

2010_061905202010_06190523 2010_06190517 
 
 
 
 
 
 
余談ですが、「狛」の地名は高句麗系の渡来人・狛氏と関わりが深いと言われます。神奈川県大磯の高麗山(こまやま)、東京都狛江市(明治時代の合併で名付けられた)、埼玉県日高市と飯能市(旧高麗郡、こまぐん)、山梨県巨摩(こま)郡などと同じでしょう。地名つながりですが木津川市(旧木津川町)は木材の集散地(川港)であったことに由来します。平城京や東大寺の建設に使われた木材が集められたそうです。ちなみに東大寺までは直線距離で約6kmと目と鼻の先なのです

 

上狛四丁目交差点まで戻って大阪市と津市を結ぶ国道163号に入って上野市方面へ東進すると両側の山が木津川に迫ってきました。府道44号(奈良加茂線)の恭仁(くに)大橋は昭和61年に4代目として完成した平凡な橋ですがその名称が気になります。奈良時代に3年ほど都が置かれた恭仁京に因(ちな)んで名付けられたようです。

 

2010_061905352010_061905342010_06190536 
 
 
 
 
 

 

2010_06190537 木津川右岸の細長い公園のような場所に立つ歌碑は万葉集に詠まれている大伴家持(やかもち)の歌、「今造る 久邇(くに)の都は山川の さやけき見れば うべしらすらし」(現代文訳; 今造営中の久邇の都は山も川もすがすがしいのを見るとここに都を造られるのも当然であろう)でした。当時架けられたという橋を想像しましたが・・。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 7日 (水)

木津川ドライブ旅 木津川流れ橋

2010_06190399 国道1号を走って木津川大橋を渡りました。堤防下の八幡下奈良交差点を左折して府道22号で第2京阪道路を潜(くぐ)ると上津屋地区です。府道22号は上津屋で直角に折れて南下しますが、直進する形で左手の脇道に入ります。上津屋浜垣内で車は堤防へは上がれません。右手の無料駐車場に車を停めて堤防へ向かいました。

V字型に折り返す坂道を上がると視界が広がって河川敷の茶畑の先に一直線に伸びる木製の橋が見えます。通称は「木津川流れ橋」あるいは「八幡流れ橋」と呼ばれますが、正式名称は「上津屋橋」(こうづやばし)、八幡市上津屋と木津川対岸の久御山(くみやま)町佐山を結ぶ全長356.5m、幅3.3mで現存する最長の流れ橋です。

 

2010_06190403 2010_06190408 2010_06190410          

昭和28年(1953年)に架けられたこの橋は、増水時に橋全体が流されないように橋床(橋板と橋組みで構成)が自然に浮かび上がって、ワイヤーでつながれた橋床が吹流しのように流れる仕組み(いわゆる柔構造)になっています。水が引けばワイヤーを引っ張って橋床を手繰(たぐ)り寄せて元に戻すことができるのです。ちなみに橋板の数は1784枚とも言われますが流出により現在の枚数は不明なのだそうです。ちなみにこれまで10数回流されているそうです。

昨秋の台風18号によって流失したため修復する工事が行われていました。6月16日に修復が終わって通行止めが解除される予定と聞き、この日を待ちかねていた私はさっそくその日に訪れました。10時から通行ができたようです。既にかなりの見物客が橋の様子を見ながら歩いて往復しています。ちなみに通行できるのは歩行者と自転車やバイクを押して歩く人に限られます。

長い木製の橋の周辺には電柱がないため時代劇のロケ地としてよく使用されるそうです。同じような橋を渡った記憶があります。旧東海道の街道巡りをした時に立ち寄った島田宿近くの世界一長い木製の歩道橋である蓬莱橋(ほうらいばし、約897m)は、流れ橋ではありませんが、長さはちょうど2倍半もあります。

流れ橋の構造を観察しながら渡りました。横方向に整然と並べられた橋板は下にある床組みにボルトで固定され10数枚が1つの橋床(きょうしょう)を形成し、両隣のブロックとは太いロープでつながれています。スムーズに流れるようにロープは1mほど長さに余裕を持たせて撓(たわ)んでいます。吹流しを形成するためにロープの片端が橋桁(はしげた)に結びつけられていました。

 

2010_061904152010_061904122010_06190418         

 
全部で8つのブロックに分割されており、各々は橋板を組み上げた橋床が8-9個同じロープにつながれています。橋床の長さはまちまちですがおおよそ4mほどの長さがあり、隣の橋床と連結するロープにはストッパの金具がねじ止めされていて隣の橋床とぶつかるのを防ぐ仕掛けとなっています。増水によってすべての橋床が流されると8つの吹流しが出来上がって橋が壊滅的な打撃を受けるのを避けることができるのです。

前日の豪雨のため茶色く濁った濁流が押し寄せる上流方向、第2京阪道路の橋とその背景になっている岩清水八幡宮のある男山、さらにその後方の天王山の景色を楽しみながら歩くと橋板が新しくなっている部分が目に入りました。流出した時に破損したのかも知れません。
 
2010_061904232010_061904262010_06190420_2 
 
 
 
 
 
 
よく見ると橋桁も新しくなったものや補強されたものがあります。対岸に近い部分は流れが強いのか橋桁がコンクリート製でした。対岸の河川敷の一段低い場所に下りて下から流れ橋を見上げてみると、コンクリート製の橋桁が並ぶなかで真ん中あたりの2つが真新しいことに気付きました。流れ橋といっても橋桁が壊れることもあるようです。

 

2010_06190447 2010_06190442 2010_06190619           

2010_06190432対岸にも橋の袂(たもと)から流れ橋を見やる人がいます。なかには颯爽(さっそう)とした出で立ちで真っ黒に日焼けしたバイシクル・ライダーが流れ橋を背景に魅力的な絵になっていましたが撮影は遠慮しました。 久御山町側の堤防に上がってみると田植えが終わったばかりの美しい田園風景が広がっています。

2010_06190444

久御山町側に車を停めるかどうかを迷いましたがやはり八幡市側を選んだのは正しかったようです。折り返して戻る時にも流れ橋の風情と八幡市側の景色を楽しみました 

 

 

2010_06190624

余談です。八幡市には参拝したことがある岩清水八幡宮やお花見を楽しんだ淀川河川公園背割堤の桜並木の他にも、「松花堂弁当」の名の由来となった松花堂縁の松花堂庭園がありました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 5日 (月)

「海辺のカフカ」を読む

昨日の7月4日(日)、テレビ番組「笑点」を見終わった午後5時59分から午後6時までの1分間、わが家のテレビは放送電波が途絶えた時と同じ砂嵐のような映像が背景になり、「ご覧のテレビはアナログ放送です。2011年7月からテレビ画面はこうなります・・・」と親切な表示が出ました。いよいよ1年後に迫った地アナ放送の停止を警告プするログラム「地デジ化テスト」です。

本当に電波が止まるのかどうか疑い深い私は「???」です。衛星放送を観られれば私はさして不自由を感じませんが、オチビちゃん・コチビちゃん・チビスケくんたちがわが家へ遊びに来た時にNHK教育テレビの好きな子供向け番組「クインテット、ピタゴラスイッチ、おかあさんといっしょ、いないいないばあっ!、できたできたできた、つくってあそぼ、えいごであそぼ」などが観られなくなると・・・。

さて本題です。近畿ドライブ旅はこれまで8件の記事原稿を書きましたが、その合間の気分転換に読んだのは村上春樹氏の代表作のひとつである「海辺のカフカ」です。私が閲読する村上作品の9作目になります。これまで当ブログで紹介した村上作品は「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「ノルウェイの森」「アフターダーク」「国境の南、太陽の西」の順でした。

村上作品はユニークな舞台設定と時空を越える物語の展開があるため的確な要約を書くことは困難です。なかでも長編の「海辺のカフカ」についてはなおさら困難な作業です。近畿ドライブ旅の残り記事を書く前に「海辺のカフカ」を読んで私の心に残ったストーリーを「飛び石を伝う」ように辿(たど)ってみることにします。ちなみに写真はすべて「四国・お遍路ドライブ」(その1その2その3)で撮影したものです。

                          ☆☆☆

東京から西へ向う高速夜行バスに明日15歳の誕生日を迎える中学生の主人公が乗っている情景が細かく記述されながら物語がはじまる。

突然場面が切り替わって終戦直後のアメリカ国防省の極秘資料が登場、終戦直前に山梨県山間部のとある村で起きた不思議な事件の調査報告書である。女性教師に引率されて野外実習のため近くの山に登った小学生16人が全員意識を失って数時間後にほぼ全員が意識を取り戻した事件であるが、中田という少年一人だけは意識不明のままであった。毒ガス兵器の可能性を疑った日本軍が詳しく調べるが原因は判明しない。そして終戦直後に行われた米軍(進駐軍)による調査もほぼ同様の結果。

2008_12060147_3高速バスは瀬戸内海に架かる巨大な橋を渡って早朝の高松に到着。バスの中で知り合ったサクラという年上の女性と別れた主人公は田村カフカと名乗って料金の安いビジネスホテルに宿泊しながら関心を持っていた高松市郊外の私立図書館で本を読む毎日を送り始める。

中野区の住宅街で初老の男性(ナカタ)が野良猫に声を掛けている。猫と話ができる彼は近所の人から頼まれて迷子の飼い猫を探しているのだ。

2008_12060655_3 高松駅近くで夕食を済ませた主人公は気を失っていた自分を発見する。食事をした後の記憶がまったくないのだ。しかも白いTシャツが血に染まっている。動転した主人公はサクラに連絡を取って彼女のアパートに一晩泊めてもらう。そしてサクラに問われるまま自分が幼い頃に母が姉を連れて家を出たことなど身の上話をする。

ナカタさんは自分が探している猫のことを他の猫たちに訊(き)き回る。シャム猫のミミが通訳してくれた要領を得ないある猫の言葉を頼りにナカタさんは猫たちが良く集まるという空き地へ毎日通うことに。

奇妙な事件が起こってから30年近くが経った頃、日本軍の依頼で調査を行った精神医学の専門家のもとへ事件に関与した女性教師から手紙が届いて事件の意外な真相が明かされる。

ナカタさんはある日、空き地に現れた巨大な犬に導かれて訪れた中野区内のとある家でジョニー・ウォーカーと名乗る奇妙な服装の男から突拍子(とっぴょうし)もないことを頼まれるがナカタさんは拒(こば)めない。ナカタさんが気付くとジョニー・ウォーカーは血に染まって倒れている。

2008_12060157_2 自分が何かの事件に巻き込まれたのかもしれないと考えた主人公はビジネスホテルに宿泊するのを止める。行く先が無くなった主人公は親しくなった図書館スタッフの大島さんの勧めで大島さんの兄が高知の山奥に所有する別荘に数泊したあと図書館内に寝泊りしながらアシスタントとして働くことになる。主人公に与えられた部屋には夏の海辺の少年の絵が掛けられている。

ナカタさんは自分がしたことを交番に届け出るが巡査は頭がおかしい年寄りの話だと信用しない。そしてナカタさんは西へ向うことを決心する。都心までバスで出たナカタさんは親切な女性会社員のアドバイスでヒッチハイクをしながら神戸へ到着。ナカタさんはずっと昔に記憶を失った中田少年であり、今も読み書きが出来ないのである。

2008_12060210 大島さんは数日前の新聞を主人公に見せて殺された中野区の彫刻家田村浩一が主人公の父親ではないかと問う。しかし主人公は警察に名乗り出たくないと答える。そして父親から繰り返し告げられた予言のことを大島さんに話す。ギリシャ悲劇の主人公オイディプス王が受けたのと同じ予言である。その夜、主人公は少女の夢を見る。それは大島さんから身の上話を聞いていた図書館長の佐伯さんであると主人公は直感する。

佐伯さんが19歳の頃(1969年)に作ってヒットした歌「海辺のカフカ」をシングル盤のレコードで何度も聴く主人公。ジャケットの写真を見て夢に現れた少女は15歳の佐伯さんであることを確認する。大島さんの生き霊についてのアドバイスで主人公は谷崎訳の「源氏物語」を読みながら15歳の佐伯さんが夢に戻ってくるのを待つ。ここまでが上巻のポイントです。

2008_01130012_2 ナカタさんはヒッチハイクさせてもらったトラック運転手の星野さんと一緒にバスで大きな橋を渡って徳島に入り、さらに電車で高松までやってくる。こうして複雑な舞台設定が出来上がるとともに「入口の石」が重要なテーマであることが下巻で明らかにされる。そして主人公と佐伯さんや大島さんの関係も観念と現実が入り混じりながら深まって行く。外殻(入れ物)と本質(中身)の関係も・・・。

星野さんは高松の町を歩いている時にカーネル・サンダースと名乗る奇妙な小男に声を掛けられる。そして案内されたとある神社にあった「入口の石」をナカタさんと宿泊する宿屋へ持ち帰る。激しい雷が通り過ぎる時にナカタさんの頼みで星野さんははるかに重くなった石を渾身(こんしん)の力でひっくり返す。他の世界への入口が開いたのである。

高松市内のジムで身体を鍛える主人公。佐伯さんの問いに答えて強くなりたいと言う。主人公が名乗るカフカとはチェコ語でカラスであることも話す。
注釈;チェコ出身の小説家カフカが有名

2008_12060323 大島さんからの電話連絡で主人公は大島さんと一緒に例の別荘へ再び向う。警察が高松へ向った老人と携帯電話の通話記録から主人公が高松に居ることを結びつけたのだ。ナカタさんと星野さんにも警察の捜査が迫っていることをカーネル・サンダースが電話で知らせる。長い睡眠からやっと覚めたナカタさんは無理に起こしたことを詫びる星野さんに「炊きつけは済ませておきました」と意味不明のことを言う。そして2人はカーネル・サンダースに指示された郊外の賃貸マンションへ移る。

別荘に到着すると大島さんは戦時中に軍隊がその辺りで行った演習で新兵が2人行方不明になったことを主人公に話す。深い森は迷宮であり、別世界でもあるので、足を踏み入れるのはとても危険だと言う。大島さんの車が走り去って一人になった主人公は15歳になったばかりの自分が佐伯さんについて何も理解できないもどかしさを感じる。

ナカタさんは星野さんにレンタカーで高松市内を走りたいと頼む。2人は何の当ても無く市内を走り回るが市内の探索を諦めた2日目の夕刻に偶然その場所へ行き当たる。主人公が前々日まで居た甲村記念図書館である。

2008_12060536_2 別荘での単調な時間のなかで主人公は森の中にもう少し深く入ってみたくなってそうするが恐怖を感じる。ナカタさんと星野さんは翌朝、図書館を訪れて午後の館内見学に参加する。そしてナカタさんは案内してくれた佐伯館長の部屋に星野さんが制止するのも聞かずに押しかける。

主人公は大島さんに注意されたにもかかわらず山奥へと分け入ってしまう。耳の奥で鳴っていた音楽が消え去って、かすかなホワイト・ノイズだけが残る。そして戦時中に行方不明になった二人の日本兵と出会い、その案内でさらに山奥のとある場所へ入って行く。入口が開いていたのだ。そして主人公はあの少女と再会、そして佐伯さんとも・・・。

ナカタさんは佐伯さんから託された3冊のファイルを焼いた。佐伯さんが自分の人生について書き記したものである。マンションに戻るとナカタさんは深く寝入って再び目覚めることはない。石と対話する星野さんは黒猫との会話が出来る自分に気がつく。そしてナカタさんの口から白くて何やら得体の知れないものが這(は)い出してくる。それは意思だけで出来ているようで刃物は役に立たないことを知った星野さんは入口の石を渾身(こんしん)の力を込めて裏返す。入口が閉じられたことで白いものは力を無くして動かなくなる。そして星野さんは名古屋へと戻って行く。

2008_05210001_2 自宅へ戻る決心をした主人公は別荘まで迎えに来てくれた大島さんの兄の車で高松まで戻り、心臓麻痺で亡くなった佐伯さんから貰った「夏の海辺の少年」の絵と大島さんから手渡された「海辺のカフカ」のシングル盤を持って、橋を越え、海を渡り、岡山から新幹線で東京の自宅へ向かう。「君はやはり世界の縁まで行かないわけにはいかない。君は正しいことをしたんだ。絵を眺めるんだ。風の音を聴くんだ。君にはそれができる」と語りかける「カラスと呼ばれる少年」(主人公の影)の声を聴きながら主人公が眠りに落ちるところで長い小説は終る。

                          ☆☆☆

2008_01130094_2 四国遍路で高松市内を走り回ったことのある私は、小説の舞台を特定することに意味がないことは承知しながら、甲村図書館の場所を高松市内の琴電屋島駅あるいは讃岐牟礼駅辺り、絵に描かれた砂浜はさぬき市の津田の松原を思い浮かべながらこの小説を読みました。そして高校生時代に知った近松門左衛門の言う芸術論「虚実皮膜(きょじつひまく、きょじつひにく)論」をなぜか思い出しました。

やさしい文体と比喩を散りばめた村上春樹氏の作品は時空を越えるストーリー展開や現実世界と観念の世界を頻繁(ひんぱん)に往来することで戸惑わされた私の脳細胞が麻痺(まひ)状態からモルヒネを投与された時に似た心地よさ(爽快感と浮遊感)へと変わるのです。その体感を通して村上作品の人気の秘密をほんのわずかですが垣間見たように思います。最新作の「1Q84」を読んで見たくなりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 4日 (日)

河内ドライブ 古市古墳群と日帰り湯「八尾おゆば」

国道166号(竹ノ内街道)に戻って羽曳野市に入りました。石川を渡り古市駅脇を過ぎた白鳥交差点を右折して国道170号(東高野街道)に入り、西名阪自動車道を潜った最初の交差点を左折、もう一度西名阪自動車道をくぐると次の目的地である「古市古墳群」です。4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年間に、東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、墳丘長が日本第2位の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳など墳丘長200m以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳が築造されたそうです。

いずれも標高24m以上の台地や丘陵の上にあり、北部の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)・仲津山古墳(伝仲津姫陵)・市ノ山古墳(伝允恭陵)・岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)などの古い古墳群と南方の前ノ山古墳(白鳥陵)を中心とする前方部の著しく発達した西向きの新しい古墳群に分けられるようです。

規模が最も大きい誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵、前方後円墳)は国史跡に指定されています。墳丘長が420m仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次ぐ巨大な前方後円墳は世紀初頭の築造と考えられているそうです。着工される前に二ツ塚古墳が既に存在していたため、それを避けるように周濠と内堤が歪んだ形で造られました。古墳跡らしき公園の横に車を停めて管理事務所脇の砂利道を通って参拝所へ向かいます。前方にこんもりとした前方部が見えます。雨粒が写るほどの本降りになりました。

 

2010_06190343 2010_06190342 2010_06190340 

 

 

 

 

 

 
応神天皇は3世紀末から4世紀初頭にかけて(古事記によれば4世紀後半に)実在性が認められる最も古い天皇とされますが、仁徳天皇と同一人物であるとか、当時の大王など有力者達を合成して創作された人物とする説など、諸説があるようです。この時代に漢字が日本へ伝えられました。母の神功皇后は三韓征伐で新羅に続いて百済と高句麗を支配下に置いたと日本書紀が記述しています。戦前までは皇国史観から史実とされていましたが、戦後の研究により創造または誇張による伝説との見方が有力になりました。しかし朝鮮半島南端の任那(みまな)で発掘された前方後円墳から倭国産と見られる遺物が出たことで、この地に倭国の勢力圏があったことは確かなようです。

本題から外れますが、さらに200年ほど後の663年(天智2年)に朝鮮半島の白村江(はくそんこう)で倭国と百済遺民の連合軍が唐・新羅連合軍と戦った「白村江の戦い」(倭国と百済遺民の連合軍が大敗)が倭国と朝鮮との間で行われた最初の戦いと言えるでしょう。唐と新羅によって滅ぼされた百済の遺民からの要請で中大兄王子(後の天智天皇)が兵を派遣したのです。敗戦後に天智天皇は北部九州の大宰府の水城(みずき)を築城して防人(さきもり)を配備、瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築き、都を難波から内陸の近江京へ移しました。そして唐との友好関係を築くために遣唐使の派遣を始めています。

2010_06190346 巨大な応神天皇陵を一周して見ましたが、応神陵前交差点付近から広大な堀が望めるだけで、それ以外のエリアは住宅が陵に迫るためアクセスできません。仁徳天皇陵は周囲に散策路が整備されていたことと対照的です。 

誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)の北東にある仲ツ山古墳(なかつやまこふん、仲津山古墳)へ向いました。途中、偶然ですが鍋塚古墳の脇を通過しました。小さな古墳に見えましたが後で調べると一辺が50m・高さ7mの大形方墳(国の史跡、未発掘)でした。

 

2010_06190347 2010_06190348 2010_06190349  

 

 

 

 

 
 
大阪府藤井寺市沢田4丁目にある仲ツ山古墳(前方後円墳)は宮内庁によって仲津媛(応神天皇皇后)の陵墓とされています。

 

2010_06190355 2010_06190352 2010_06190356 

 

 

 

  

 
3番目に訪れた市ノ山古墳(允恭陵、いんぎょうりょう)は墳丘長が227mで全国20位、前方部の高さ23.3m、後円部の高さ22.3mの規模があります。出土した埴輪(はにわ)などから築造年代は世紀後半とされます。ちなみに宮内庁は第19代允恭天皇の陵墓に比定しています。住宅に取り囲まれているため参拝所への入り方が分からず、無駄に1周することになり、後円部側から何とか様子を見ることができました。

 

2010_06190357 2010_06190360 2010_06190358

 

 

 

 

 
 
 
最後に訪れた岡ミサンザイ古墳(おかミサンザイこふん、仲哀陵)は藤井寺市にある前方後円墳で築造年代は世紀後半です。墳丘の長さは242mで古市古墳群では位(全国で18位)の規模の古墳。陵名は惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)。宮内庁は第14仲哀(ちゅうあい)天皇の陵墓としています。五差路を右折すると住宅地の行き止まりです。しばし車を停めさせていただいて参拝所へ向う良く整備された砂利道を歩きます。管理業務に使うのでしょうか濠にボートが一艘(そう)係留(けいりゅう)されていました。ちなみにミサンザイはミササキ(御陵)から出た言葉のようです。

 

2010_06190361 2010_06190363 2010_06190365

 

 

 

 

 
 
 
午後4時を過ぎると雨天のため薄暗くなって来ましたから、もう少し古墳巡りをしたいとことですが、この辺で切り上げて日帰り温泉に向いました。この日に選んだのは八尾市柏村町にある源気温泉「八尾おゆばです。国道170号で志紀駅を過ぎた柏村交差点を左折すれば400mほどで到着します。

 

2010_061903672010_061903702010_06190368

 

 

 

 

 

 
 
裏手にある大きな駐車場に車を停めて一周する形で足湯の脇から施設に入りました。利用料は700円(レンタルのタオルとバスタオルがセットになった手ぶらパックは850円)です。名前の「おゆば」はお湯につかって語らい合い酒食を楽しむ湯場を意味します。さっそく浴室がある2階に上がりました。小振りの脱衣場の先にある内湯の大浴槽「なみなみの湯」は長方形の平凡なもの。泉質は単純泉(低張性-弱アルカリ性-低温泉)で肌が滑らかになるのが感じられます。サウナと水風呂もありました。

 

2010_06190371 2010_06190372 2010_06190373 

 

 

 

 

 
 
露天エリアには東屋風の小さな屋根がある大露天岩風呂が一際目立ちます。塀越しに信貴山(しぎさん)など生駒山地が望めました。その他に半露天のエステ浴「怒涛の湯」とうたた寝の湯(寝湯)もあります。

全体の印象は気取らず気楽に温泉が楽しめる河内らしいスーパー銭湯で、1階にはレストラン・散髪・ボティケアなどもあって地元では人気温泉のようです。ちなみに大阪の千里には姉妹店「万博おゆば」があります。

雨が強く降り始めたため八尾ICから近畿自動車道に入って大阪市の中心部へ向いましたが、雨足は益々激しくなり、ついには土砂降りになってしまいました。

<同行者のコメント> 雨が降るなか旦那さまが古墳へのアクセスに苦労している様子は私の待つ車から良く見えました。道が狭くて車は近くまで行けないのです。温泉はお湯が良かったと思います。すぐ横の店で買ったたこ焼きがとても大きくてビックリ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 3日 (土)

河内ドライブ 近つ飛鳥博物館と風土記の丘(後編)

地階の奥にある特別展示室へ向いました。現在開催中の平成22年度春季特別展「継体大王の時代」(4月24日-6月27日)が目当てです。「百舌鳥(もず)・古市古墳群の終焉と新時代の幕開け」の副題が付いています。百舌鳥古墳群とは仁徳天皇陵を中心とする堺市の古墳群、古市古墳群は応神天皇陵を中心とする羽曳野市にある古墳群、つまり難波を勢力圏とした仁徳王朝と応神王朝から北陸・近江の勢力を背景とする継体王朝(現在の天皇家につながる)への権力移行を意味します。

これまでは200年近く後になって書かれた古事記(712年完成、第43代元明天皇の治世)や日本書記(720年完成、第44代元世天皇の治世)などから推測するしかなかった第26代継体天皇の実体が多くの考古学的発掘によって明らかになったことで、展示会では考古学的な成果を中心に継体大王とその時代について紹介するとともに、磐井(いわい)の乱などの政治的な混乱を経験しながらも国家形成の歩みを強めて行く時代とその特質について考えてみたいとパンフレットに書かれていました。

特別展示室内は撮影禁止でしたので残念ながら写真は特別展示室の入口だけです。

 

2010_06190298 2010_06190297 2010_06190306   

 

 

 

 

 

展示構成と主な展示品が出土した古墳名をパンフレットの記述を参照して説明します。

第1部 百舌鳥・古市古墳群の終焉: 古墳時代中期、すなわち5世紀に巨大古墳をいくつも築いていた百舌鳥・古市古墳群ですが、やがて終焉を迎えます。この時代の繁栄は、技術革新と高い資質を備えた大王によって支えられていました。しかしこの繁栄を支えた社会システムは続かず、やがて混乱の時期を迎えました。こうした転換期に登場した人物が継体大王です。継体大王が解決すべき難題は山積みだったのです。

     <関連古墳>太田茶臼山古墳、総持寺遺跡、峯ヶ塚古墳、国府遺跡

第2部 継体大王の時代: 継体大王は応神大王の5世孫と伝えられ、近江あるいは越前の出身とされます。継体大王は大王となってからも20年間大和に入ることができませんでした。こうした大王を支えた勢力は、東海・北陸・近江・淀川流域の首長たちでした。これまで文献資料からとらえていたこの勢力ですが、特定の考古資料からとらえることが可能になりつつあります。最新の考古学的研究に基づいて、継体大王の支援勢力を紹介しましょう。

     <関連古墳>大須二子山古墳、断夫山古墳、井田川茶臼山古墳、十善の森古墳、円山古墳、甲山古墳、鴨稲荷山古墳、物集女車塚古墳、井ノ内稲荷塚古墳、勝福寺古墳、今城塚古墳、隅田八幡神社、荒蒔古墳など

第3部 磐井の乱とその後: 継体大王の時代には、古代最大の内乱といわれる磐井の乱がおこりました。当時、朝鮮半島では百済・新羅が加耶地域への進出を試み、それぞれの立場から日本との交渉を求めました。継体大王は、こうした半島情勢の解決を期待されたのです。しかし九州北部の首長たちへの負担は大きく、耐えかねた筑紫君磐井が反乱を起こしたのです。

     <関連古墳>岩戸山古墳、桂川王塚古墳、番塚古墳、花見古墳、箕田丸山古墳、山ノ神古墳

第4部 欽明大王の時代へ: 継体大王の後、長期にわたって王位に就いたのは欽明大王です。欽明大王は、継体大王の政策を引き継ぎ、政治組織・制度の整備を本格化させます。これによりヤマト政権は安定した時代を迎えるとともに、これを足がかりとして律令国家への模索が始まります。しかし、国家への道のりは単純なものではなく、やがて蘇我氏の台頭に頭を悩ませることになるのです。

     <関連古墳>藤ノ木古墳、持田56号墳、新羅天馬塚、三里古墳、牧野古墳 

ちなみに第4部に登場した欽明大王は継体大王の子、近つ飛鳥博物館の近くに陵がある敏達天皇・用明天皇・推古天皇は孫であり、聖徳太子はひ孫(用明天皇の子)です。

特別展の内容は期待した以上でした。土器・鏡・太刀・冠など出土品の分布から継体大王の勢力は北陸と近江だけでなく尾張や淀川流域にも広がっていたことが考古学的に明らかになったことを知り、難波や大和に存在した勢力との対立関係が立体的に解説される演出も楽しめました。出口付近におかれた福井県の資料に「継体大王のお母さんはとても美しいひとでした」と表現されていたことが面白い。日本書紀には母の振媛(ふりひめ)は垂仁(すいにん)大王の7世孫で美人だったと記述されているそうです。 

2010_06190308近つ飛鳥博物館を出て102基の古墳がある「近つ飛鳥風土記の丘」にも足を伸ばしました。雨足が強くなってきましたから、全体を歩いて回るのは無理だと判断、古墳が集中するB支群とD支群を折り返すルートを選びました。一般車は通行できない舗装路の坂道を400mほど上りました

 

十字路を左折してB支群に入ると未舗装の急坂が続きます。最初に出会ったのはB支群の入口にあるB-9号墳、横穴式石室に家型石棺(復元)と組み合わせ式の木棺が置かれていたようだと説明されています。階段を上ると横穴式石室が続きます。

 

2010_06190313 2010_06190314 2010_06190315 2010_06190316 2010_06190317 2010_06190319   

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
丘の中腹と思われる場所で右手に折れてしばらく歩くとなだらかな下り坂になり、4つほどの横穴式石室を過ぎるとD支群に出ました。もう少し上には展望台が2つありますから好天であれば周囲を一望できるのでしょう。

 

2010_06190324 2010_06190325 2010_06190326   

 

 

 

 


D支群の古墳は散策路から少し離れていて足元が悪いため景色を眺めながら歩きました。舗装路を経由して戻ることにします。博物館と調和するデザインの風土記の丘管理事務所を過ぎると舗装路脇に整然とした古墳が3つ並んでいます。一須賀古墳群から2基、河南町寛弘寺古墳から1基を移設整備したものでした。最初入ったのとは逆方向のB支群を経由、鉄製の橋を渡って博物館まで戻りました。

 

2010_06190311 2010_06190330 2010_06190336   

 

 

 

 

 

博物館の横にも一須賀古墳群の解説看板と古墳が2つ並んでいました。

 

2010_06190331 2010_06190334 2010_06190335   

 

 

 

 

府道32号と国道170号で古市へ向いました。目的地は古市古墳群です。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 2日 (金)

河内ドライブ 近つ飛鳥博物館と風土記の丘(前編)

生駒山地寄りの国道170号に出て中河内を南下。安堂交差点で国道25号に出て国豊橋で大和川を渡り、近鉄大阪線河内国分駅前の変則交差点に蛸足のように複雑な歩道橋を直進して国道165号に入りました。

国道25号は大和川に沿って東の奈良へと向いますが次の目的地は南河内です。ここで河内について触れたいと思います。河内地方は律令時代の河内国に当たり、大阪弁を代表する河内弁、小説家である僧侶の今東光氏、菊水丸さんや中村美津子さんが歌う「河内音頭」などが思い浮かびます。

地理的には大阪府の東部、生駒山地や葛城山地に沿い、北は枚方市から南は河内長野市まで南北に延びています。歴史的に見ると河内は渡来人の拠点であり、河内王朝(15代応神天皇から25代武烈天皇まで)の勢力基盤であったとされる古代における先進地域で、堺市や羽曳野市の巨大古墳が今も残っています。ちなみに現在の大阪府を構成する河内国・和泉国・摂津国の国境は堺市にある方違神社であったとされます。

2010_061902562010_06190258_2 2010_06190337

 

 

 

 

 

 

 
南河内を目指して国道165号を東進しました。西名阪自動車道の柏原ICを過ぎると国道は奈良県香芝市に入ります。穴虫交差点を右折して府道703号で大阪府太子町方面へ向かい、春日北交差点を左折して国道166号へ一旦入って、太子町交番前交差点を直進した府道33号の三差路を右折、案内標識に従って脇道にそれて狭く曲がりくねった道をアップダウンしながら走ると行き止まりの場所に「近つ飛鳥博物館(1994年に開館)がありました。コンクリートの打ちっぱなしの無機質な建物が目を惹きます。

「近つ飛鳥」とは奇妙な名前ですが河内にも飛鳥の地名があるのです。ここで恒例の薀蓄(うんちく)。古代には奈良県にある遠つ飛鳥に対して、こちらを近つ飛鳥と呼んだのだそうです。琵琶湖を近つ淡海(ちかつおうみ)と浜名湖を遠淡海(とおつおうみ)と読んだことと同じです。後年になると近江(おうみ)と遠江(とうとうみ)とも呼ばれました。

飛鳥の由来は、渡来人が河内国安宿(あすかべ)郡の居住地域を安住の地(アンスク)と称したことによるとする説があるようです。アンスクとは安宿のことで、スクとは古代朝鮮語で村の意味。百済系渡来人、飛鳥部の本拠地でもあり、その祖神を祭った飛鳥戸(あすかべ)神社が羽曳野市(はびきのし)飛鳥に鎮座します。

太子町とその周辺には羽曳野市と同様に多くの天皇陵があり、敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵の4基をはじめ、聖徳太子廟や小野妹子の墓など二百数十基の古墳が存在して日本でも有数の古墳群を形成しています。天皇陵と聖徳太子廟は梅鉢御陵と総称され、太子町一帯が「王陵の谷」と呼ばれているそうです。1956年(昭和31年)の合併で現在の太子町(たいしちょう)になりましたが、その名前はもちろん聖徳太子にちなんで名付けられました。推古天皇が整備した日本最初の大道である竹内街道(堺市と奈良県葛城市を結ぶ約26kmの国道)が通る場所でもあります。

広い駐車場の車は数えられるほどしかなく、博物館の入口に一番近い場所に駐車しました。コンクリート壁に張り付く階段を上るとステージのような広大な階段空間が出現します。それを横切って進むと、今度は両側の壁がそそり立った回廊に導かれて徐々に高い場所へと進みます。同行者の靴音が壁に反射して大きく響きました。

 

2010_06190259 2010_061902602010_06190262

 

 
 
 

 
 
入口を入った右手にある小さなカフェテリアで軽い昼食です。同行者がサンドイッチを美味しいと伝えるとカフェテリアの人は博物館の催し物や建物を目当てに休日に多くの見学者があることを話してくれました。私も実はこの時期に開催されている特別展と安藤忠雄氏の代表作のひとつであるこの建物を見る目的で訪れたのです。

1階と地階の2層で構成される照明を絞った展示室に入りました。出土品は古墳の中に収められていた時と同様な姿で展示され、来場者は古墳内部に入って行くような感覚を体験できるように演出されています。

 

2010_06190264 2010_061902662010_06190277 

 

 

 

 

 

 
展示室は3つのゾーンに分かれていました。1階にあるゾーン1は「近つ飛鳥と国際交流」で聖徳太子が主人公です。漆黒の棺(レプリカ)が2つ展示されていました。

 

2010_06190268

2010_061902752010_061902692010_06190271 2010_061902722010_06190276 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
中地階にあるゾーン2の「日本古代国家の源流」には竪穴式石室・横穴式石室・埴輪・大古墳の造営など多数の展示があります。古代人のポップな感性に魅了されました。

 

2010_06190279 2010_06190280 2010_06190281 2010_06190282 2010_06190283 2010_06190286 2010_06190289 2010_06190290 2010_06190291  

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地階のゾーン3は「現代科学と文化遺産」で修羅(しゅら、国指定重要文化財、撮影不可)の実物展示と考古学の調査と研究成果が展示されています。

 

2010_061902942010_06190293 2010_06190296   

 

 

 

 

 

館内ではフラッシュの利用を遠慮したため画質がやや劣化しています。ちなみに1階と中地階の一部展示品は残念ながら撮影が禁止されていました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月 1日 (木)

河内ドライブ 弓削道鏡縁の地「八尾市」

2010_06190231 近畿自動車道を藤井寺ICまで走りました。府道12号に出て400mほど先の沢田交差点で国道170号へ左折、大和川の新大井橋を経て八尾市に入ります。さらに志紀南交差点の立体交差を左折、国道25号に入りJR関西本線志紀駅近くの志紀町交差点を左折、住宅地の中の狭い路地をコの字型に回り込むと弓削(ゆげ)神社に到着。

2010_06190230 弓削神社は河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に鎮座する神社で、以前は300mほど東の小字古宮というところにあったものを、いつの時か大和川が大氾濫(はんらん)したことで現在の場所に遷(うつ)されたそうです。伝承では千有余年前に物部氏がこの地に繁栄してその先祖を祀るために創建したとのこと。

2010_06190220 祭神は物部氏の祖神である饒速日命と宇麻志麻治命、物部氏に属した弓削一族の本拠でした。弓削一族は弓の制作を専業とする弓削部(ゆげべ)を統括していた古代氏族。当ブログの記事で紹介したように孝謙天皇の信頼を得た弓削道鏡は出身の地に造られた由義宮に天皇の行幸を仰いで考謙天皇は同宮を「西京」としたのです。

2010_06190244 次いで国道25号から府道182号と府道174号を経て由義(ゆげ)神社を訪れました。弓削神社から1.kmほど北の八尾木北、住宅地と町工場が混在する地域にあります。ちなみに「ゆぎ」の読み方もあるようです。

 

 

2010_06190243 祭神として素盞嗚尊(すさのおのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る由義神社も由緒からみると弓削氏の氏神的な性格を持つのでしょう。由義宮の造営についてその経緯が詳しく説明されています。 

 

 

2010_06190236拝殿と本殿は最近改築されたようでいずれも新しい。

 

 

 

 

 

2010_06190242 江戸時代に奉納された狛犬が境内の左右にあります。

 

 

 

 

 

2010_06190232 鳥居の左手の手狭な場所に由義宮(ゆげのみや)旧跡の碑がありました。ちなみに「舊」は「旧」の異字体です。由義宮を歌った続日本紀の「渕も瀬も 清くさやけし 博多川 千とせをまちて すめる川も」と「乙女らに 男立ちそい ふみならす 西のみやこは よろず代の宮」を黒岩重吾氏は小説「弓削道鏡」で引用しています。 

孝謙天皇(称徳天皇)と弓削道鏡が紀伊和歌浦へ行幸した帰りに遊んだ由義宮を偲(しの)ばせるものは残っていませんから今は想像するしかありません。思った以上に間近に迫る生駒山地、由義宮跡に近い長瀬川、舟遊びをしたと伝えられる博多川(大和川支流の石川)などの様子を見ながら海音寺潮五郎著「弓削道鏡」を読んだ時の想像空間と重ね合わせたくなりました。

2010_06190248手始めに国道25号に戻って志紀駅の東口に立ち寄りました。「埋れ木に寄する」と題した読み人知らずの万葉歌を刻んだ歌碑が立っています。歌碑には「真鉋(まかな)持ち 弓削の河原の 埋木(うもれぎ)の 顕(あらは)るましじき 事にあらなくに」の歌があります。

 

2010_06190249歌碑の裏側に「この付近は旧大和川の弓削の河原と呼ばれたところであり、この地方の農耕、文化や交通の発展に多大な貢献をした。この歌は弓削の河原にある埋もれ木が、やがて現れでるように、私たちの仲は知られないはずもないという心情を、弓削の河原の埋もれ木にたとえて詠まれたもの」の趣旨が説明されています

2010_06190253 志紀南交差点で左手路地に入って関西本線の踏切を渡るとすぐ横切るのが長瀬川です。今はコンクリートで覆われた都市用水となっていますが、昔は大和川の本流として水運に利用されたそうです。孝謙天皇と弓削道鏡を乗せた舟がここを通過して由義宮へ向ったのでしょうか。私の乏しい想像力ではその様子を思い浮かべられません。

2010_06190254 住宅地を抜けると視界が開け、その場所から生駒山地が良く見えます。左手の高安山(標高487m)から右手方向に視線を移すと柏原市の高尾山(278m)、さらに先は生駒山地が徐々に低くなります。大和川を東へ遡れば南河内(大阪府)から奈良盆地の三郷町や王子町に入り、そして法隆寺のある斑鳩(いかるが)へ至るのです。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »