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2010年7月 3日 (土)

河内ドライブ 近つ飛鳥博物館と風土記の丘(後編)

地階の奥にある特別展示室へ向いました。現在開催中の平成22年度春季特別展「継体大王の時代」(4月24日-6月27日)が目当てです。「百舌鳥(もず)・古市古墳群の終焉と新時代の幕開け」の副題が付いています。百舌鳥古墳群とは仁徳天皇陵を中心とする堺市の古墳群、古市古墳群は応神天皇陵を中心とする羽曳野市にある古墳群、つまり難波を勢力圏とした仁徳王朝と応神王朝から北陸・近江の勢力を背景とする継体王朝(現在の天皇家につながる)への権力移行を意味します。

これまでは200年近く後になって書かれた古事記(712年完成、第43代元明天皇の治世)や日本書記(720年完成、第44代元世天皇の治世)などから推測するしかなかった第26代継体天皇の実体が多くの考古学的発掘によって明らかになったことで、展示会では考古学的な成果を中心に継体大王とその時代について紹介するとともに、磐井(いわい)の乱などの政治的な混乱を経験しながらも国家形成の歩みを強めて行く時代とその特質について考えてみたいとパンフレットに書かれていました。

特別展示室内は撮影禁止でしたので残念ながら写真は特別展示室の入口だけです。

 

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展示構成と主な展示品が出土した古墳名をパンフレットの記述を参照して説明します。

第1部 百舌鳥・古市古墳群の終焉: 古墳時代中期、すなわち5世紀に巨大古墳をいくつも築いていた百舌鳥・古市古墳群ですが、やがて終焉を迎えます。この時代の繁栄は、技術革新と高い資質を備えた大王によって支えられていました。しかしこの繁栄を支えた社会システムは続かず、やがて混乱の時期を迎えました。こうした転換期に登場した人物が継体大王です。継体大王が解決すべき難題は山積みだったのです。

     <関連古墳>太田茶臼山古墳、総持寺遺跡、峯ヶ塚古墳、国府遺跡

第2部 継体大王の時代: 継体大王は応神大王の5世孫と伝えられ、近江あるいは越前の出身とされます。継体大王は大王となってからも20年間大和に入ることができませんでした。こうした大王を支えた勢力は、東海・北陸・近江・淀川流域の首長たちでした。これまで文献資料からとらえていたこの勢力ですが、特定の考古資料からとらえることが可能になりつつあります。最新の考古学的研究に基づいて、継体大王の支援勢力を紹介しましょう。

     <関連古墳>大須二子山古墳、断夫山古墳、井田川茶臼山古墳、十善の森古墳、円山古墳、甲山古墳、鴨稲荷山古墳、物集女車塚古墳、井ノ内稲荷塚古墳、勝福寺古墳、今城塚古墳、隅田八幡神社、荒蒔古墳など

第3部 磐井の乱とその後: 継体大王の時代には、古代最大の内乱といわれる磐井の乱がおこりました。当時、朝鮮半島では百済・新羅が加耶地域への進出を試み、それぞれの立場から日本との交渉を求めました。継体大王は、こうした半島情勢の解決を期待されたのです。しかし九州北部の首長たちへの負担は大きく、耐えかねた筑紫君磐井が反乱を起こしたのです。

     <関連古墳>岩戸山古墳、桂川王塚古墳、番塚古墳、花見古墳、箕田丸山古墳、山ノ神古墳

第4部 欽明大王の時代へ: 継体大王の後、長期にわたって王位に就いたのは欽明大王です。欽明大王は、継体大王の政策を引き継ぎ、政治組織・制度の整備を本格化させます。これによりヤマト政権は安定した時代を迎えるとともに、これを足がかりとして律令国家への模索が始まります。しかし、国家への道のりは単純なものではなく、やがて蘇我氏の台頭に頭を悩ませることになるのです。

     <関連古墳>藤ノ木古墳、持田56号墳、新羅天馬塚、三里古墳、牧野古墳 

ちなみに第4部に登場した欽明大王は継体大王の子、近つ飛鳥博物館の近くに陵がある敏達天皇・用明天皇・推古天皇は孫であり、聖徳太子はひ孫(用明天皇の子)です。

特別展の内容は期待した以上でした。土器・鏡・太刀・冠など出土品の分布から継体大王の勢力は北陸と近江だけでなく尾張や淀川流域にも広がっていたことが考古学的に明らかになったことを知り、難波や大和に存在した勢力との対立関係が立体的に解説される演出も楽しめました。出口付近におかれた福井県の資料に「継体大王のお母さんはとても美しいひとでした」と表現されていたことが面白い。日本書紀には母の振媛(ふりひめ)は垂仁(すいにん)大王の7世孫で美人だったと記述されているそうです。 

2010_06190308近つ飛鳥博物館を出て102基の古墳がある「近つ飛鳥風土記の丘」にも足を伸ばしました。雨足が強くなってきましたから、全体を歩いて回るのは無理だと判断、古墳が集中するB支群とD支群を折り返すルートを選びました。一般車は通行できない舗装路の坂道を400mほど上りました

 

十字路を左折してB支群に入ると未舗装の急坂が続きます。最初に出会ったのはB支群の入口にあるB-9号墳、横穴式石室に家型石棺(復元)と組み合わせ式の木棺が置かれていたようだと説明されています。階段を上ると横穴式石室が続きます。

 

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丘の中腹と思われる場所で右手に折れてしばらく歩くとなだらかな下り坂になり、4つほどの横穴式石室を過ぎるとD支群に出ました。もう少し上には展望台が2つありますから好天であれば周囲を一望できるのでしょう。

 

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D支群の古墳は散策路から少し離れていて足元が悪いため景色を眺めながら歩きました。舗装路を経由して戻ることにします。博物館と調和するデザインの風土記の丘管理事務所を過ぎると舗装路脇に整然とした古墳が3つ並んでいます。一須賀古墳群から2基、河南町寛弘寺古墳から1基を移設整備したものでした。最初入ったのとは逆方向のB支群を経由、鉄製の橋を渡って博物館まで戻りました。

 

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博物館の横にも一須賀古墳群の解説看板と古墳が2つ並んでいました。

 

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府道32号と国道170号で古市へ向いました。目的地は古市古墳群です。(続く)

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