河内ドライブ 弓削道鏡縁の地「八尾市」
近畿自動車道を藤井寺ICまで走りました。府道12号に出て400mほど先の沢田交差点で国道170号へ左折、大和川の新大井橋を経て八尾市に入ります。さらに志紀南交差点の立体交差を左折、国道25号に入りJR関西本線志紀駅近くの志紀町交差点を左折、住宅地の中の狭い路地をコの字型に回り込むと弓削(ゆげ)神社に到着。
弓削神社は河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に鎮座する神社で、以前は300mほど東の小字古宮というところにあったものを、いつの時か大和川が大氾濫(はんらん)したことで現在の場所に遷(うつ)されたそうです。伝承では千有余年前に物部氏がこの地に繁栄してその先祖を祀るために創建したとのこと。
祭神は物部氏の祖神である饒速日命と宇麻志麻治命、物部氏に属した弓削一族の本拠でした。弓削一族は弓の制作を専業とする弓削部(ゆげべ)を統括していた古代氏族。当ブログの記事で紹介したように孝謙天皇の信頼を得た弓削道鏡は出身の地に造られた由義宮に天皇の行幸を仰いで考謙天皇は同宮を「西京」としたのです。
次いで国道25号から府道182号と府道174号を経て由義(ゆげ)神社を訪れました。弓削神社から1.5kmほど北の八尾木北、住宅地と町工場が混在する地域にあります。ちなみに「ゆぎ」の読み方もあるようです。
祭神として素盞嗚尊(すさのおのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る由義神社も由緒からみると弓削氏の氏神的な性格を持つのでしょう。由義宮の造営についてその経緯が詳しく説明されています。
鳥居の左手の手狭な場所に由義宮(ゆげのみや)旧跡の碑がありました。ちなみに「舊」は「旧」の異字体です。由義宮を歌った続日本紀の「渕も瀬も 清くさやけし 博多川 千とせをまちて すめる川も」と「乙女らに 男立ちそい ふみならす 西のみやこは よろず代の宮」を黒岩重吾氏は小説「弓削道鏡」で引用しています。
孝謙天皇(称徳天皇)と弓削道鏡が紀伊和歌浦へ行幸した帰りに遊んだ由義宮を偲(しの)ばせるものは残っていませんから今は想像するしかありません。思った以上に間近に迫る生駒山地、由義宮跡に近い長瀬川、舟遊びをしたと伝えられる博多川(大和川支流の石川)などの様子を見ながら海音寺潮五郎著「弓削道鏡」を読んだ時の想像空間と重ね合わせたくなりました。
手始めに国道25号に戻って志紀駅の東口に立ち寄りました。「埋れ木に寄する」と題した読み人知らずの万葉歌を刻んだ歌碑が立っています。歌碑には「真鉋(まかな)持ち 弓削の河原の 埋木(うもれぎ)の 顕(あらは)るましじき 事にあらなくに」の歌があります。
歌碑の裏側に「この付近は旧大和川の弓削の河原と呼ばれたところであり、この地方の農耕、文化や交通の発展に多大な貢献をした。この歌は弓削の河原にある埋もれ木が、やがて現れでるように、私たちの仲は知られないはずもないという心情を、弓削の河原の埋もれ木にたとえて詠まれたもの」の趣旨が説明されています。
志紀南交差点で左手路地に入って関西本線の踏切を渡るとすぐ横切るのが長瀬川です。今はコンクリートで覆われた都市用水となっていますが、昔は大和川の本流として水運に利用されたそうです。孝謙天皇と弓削道鏡を乗せた舟がここを通過して由義宮へ向ったのでしょうか。私の乏しい想像力ではその様子を思い浮かべられません。
住宅地を抜けると視界が開け、その場所から生駒山地が良く見えます。左手の高安山(標高487m)から右手方向に視線を移すと柏原市の高尾山(278m)、さらに先は生駒山地が徐々に低くなります。大和川を東へ遡れば南河内(大阪府)から奈良盆地の三郷町や王子町に入り、そして法隆寺のある斑鳩(いかるが)へ至るのです。(続く)
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