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2010年9月22日 (水)

Das Beste oder nichits. (一番じゃなきゃ・・)

最近、メルセデス・ベンツのテレビCM "Das Beste oder nichits."という言葉が流されています。ダイムラー社の創業者であるダイムラーが残した言葉を引用したドイツ語のスローガンでした。同社のhpには「最善か無か」と訳されていますが、私は「最高でなければ意味がない」と理解します。つまり中途半端なものは受け入れられないと言うことでしょう。注釈;ダイムラー社はベンツと合併してダイムラー・ベンツ社となり、ダイムラー・クライスラーを経て、現在はダイムラーAG

日本の自動車メーカーが目標としたそのダイムラー社も、1990年代後半にコストダウンに起因する品質問題を起こして信頼回復に10年以上を掛けた今も、初心を忘れていない姿勢を示すために、古いスローガンを復活させたのでしょう。

この言葉から昨年の事業仕分けでマスコミが報じた「2番目では駄目ですか?」を連想しました。質疑の中で出たこの質問自身は何ら問題ないのですが、キャッチーな言葉としてセンセーショナルに取り上げたマスコミと、質問にきちんと答えられない官僚と科学者が不甲斐ないと思いました。科学者や技術者は、スポーツ選手と同様に、常に最高を求めるものです。2番手商法の利点を考える旧来の保守的なビジネスマンとは違うのです。本題のタイトルは技術者の端くれであった私の心に響く言葉でした。

番であることの要否はさて置き、今回のブログ記事では技術を追求したるあ会社の歴史を紹介します。この会社に限らず名のある会社にはそれぞれ最高の技術を追求した人達がいたことはNHKの「プロジェクトX」の紹介を観るまでもないことです。もう2ヶ月前のことになりますが7月22日と23日の両日に開催されたイベントに参加しました。会場は有楽町の東京国際フォーラムです。

日立製作所が創業100周年を記念して「確かな技術でつぎの100年へ ~協創で加速する社会とビジネスのイノベーション~」をテーマに、これまで100年の「日立の歩み」と次の100年に向けた「新たな取り組み」を講演、セミナー、展示を通して紹介する催しです。講演とセミナーを聴く目的でしたが時間の余裕を利用して展示会も覘(のぞ)いてみました。

2010_08031000046_2 いずれも大変興味深いものでしたがここでは前者の展示を写真で紹介します。団塊の世代である私には懐かしさを感じさせる展示品が多数見られたため、それを網羅しようとしてずいぶん長い記事になりましたことをご容赦下さい。 
 
 

2010_08031000001 展示会場に入ると一見して古いと分かるモーターが存在感をもっています。明治末期に日立鉱山の一角で電動機や変圧器の修理をしていた日立の創業者小平波平氏が自力でモーターの開発に取り組んで、1910年(明治43年)に最初の製品として完成させた3台の5馬力モーターの1台(実物)でした。

2010_08031000002 次いで同年に5kVA単層変圧器は日立マークがデザインされた最初の製品(10台製作)と紹介されています。
 
 
 
 

2010_08031000005 1912年(明治45年)に静岡県の水力発電所に納入された250kVA水力発電機の回転子は50年以上も現役で使われたそうです。 
 
 
 

2010_080310000081915年(大正4年)に製造された10000馬力水車(フランシス水車ランナー、写真左)は群馬県の水力発電所に納入されたもの。周辺の溝から流れ込んだ水が中央部から流れ出て水車を回す仕組みです。手前の直流励磁機駆動用325馬力ベルトン水車ランナーは椀(わん)を並べたような構造で高落差に適した水車だそうです。

2010_08031000010 1918-1921年(大正7-10年)に製造された電流計(メーター)と継電器(リレー)
 
 
 
 

2010_08031000011 1920年(大正9年)から製造された8620型蒸気機関車と1924年(大正13年)の59t大型電気機関車
 
 
 
 

2010_08031000013 1926年(大正15年)の扇風機
 
 
 
 
 

2010_08031000015 1931年(昭和6年)の水電解槽は肥料(硫安)の製造に使われた水素を水から取り出す装置です。1929年に勃発した金融恐慌から同社を危機から救ったと説明されています。
 
 

2010_08031000017 1932年(昭和7年)の電気冷蔵庫。戦後になっても氷を使う冷蔵庫が主流であったことから先進(過ぎる?)家電製品だったようです。
 
 
 

2010_08031000019 1942年(昭和17年)の国産第1号の電子顕微鏡(最大倍率が1万倍)は納入先の名古屋大学(当時は名古屋帝国大学)の博物館に今も保存されているそうです。
 
 
 

2010_08031000021 1945年(昭和20年)の民需用電話交換機(20回線単紐共電式構内交換機)は交換手が手動でつなぐ初期の交換機。手前に並ぶプラグ付きコードを後方のジャックに差し込んで接続します。単紐とは1本のコード、共電式は交換機の電池を全加入者が共同で使用する方式であることを意味します。

2010_08031000023 1946年(昭和21年)のTB-4国民型ラジオは木製キャビネットに入った真空管式ラジオで現在のAMラジオと機能はほとんど同じです。国民型ラジオは逓信省が推奨して日本放送協会が認定したラジオで1号から6号まで11種類(2号・4号・6号は複数の種類、真空管の組み合わせ、高周波増幅の有無、トランスの有無)あったようです。

調べてみるとTTB-42国民型4号(国民型4号Aに分類)が正しい名称のようです。左半分はスピーカー、右側の小窓は周波数の表示器、4つのつまみは表示が薄れていますが、一番上が選局用・下の段は左から電源・再生・音量の調整用でしょう。

2010_08031000025 1948年(昭和23年)のC62形蒸気機関車は国鉄で最大・最速の蒸気機関車で特急つばめなどを牽引したと説明されています。京都の梅小路蒸気機関車館に保存されているそうです。C62のCは旅客用で有名なD51のDは貨物輸送用を意味します。
 

2010_08031000029 1952年(昭和27年)の洗濯機1号機(角型撹拌式1号、SM-A1)はアメリカ式の撹拌方式でした。上部に絞り機のローラーが付いているのが懐かしいです。
 
 
 

2010_08031000031 1956年(昭和31年)の電気掃除機はヒッターバックH-H2と名付けられました。
 
 
 
 

2010_08031000033 1956年(昭和31年)の14型テレビ受像機(F-100)はダイヤル型チャンネルセレクターが付いていますがよく見るとチャンネルは1から11までで12がありません。それは当時12チャンネルが米軍用に使われていたからです。そして画面はもちろん白黒、日本でテレビが普及し始めた頃の製品です。

2010_08031000035 1957年(昭和32年)の真空ラジオ(H-202)はTB-4形に較べると小型化されてすっきりしたデザインになっています。真空管もミニチュア管が使用されたと説明されています。それまではST管というナスビに似た小型電球ほどの真空管が一般的でした。
 

2010_08031000039 1967年(昭和42年)の磁気ディスク装置(H-8654)は大型コンピュータ(メインフレーム)用の外部記録用装置で、現在のパソコンの外付けHDDに相当するものです。銀行業務や座席予約などオンライン情報処理に使われました。ちなみに最初の製品はIBMが10年余り前の1956年に、国産では富士通が1963年に開発しています。

2010_08031000041 1968年(昭和43年)のテレビ電話も懐かしい製品です。テレビ電話の名称は日本で付けられたものでアメリカではピクチャーフォンと呼ばれています。1970年に開催された大阪万国博覧会で電電公社(現在のNTT)のブースに展示されて注目を浴びましたが大企業向けを除けば一般企業や個人向けに普及したのはつい最近のことです。

2010_08031000043 最後に展示された1970年(昭和45年)の大形メインフレームはLSIによる高密度実装と仮想記憶装置の採用で高速化が図られたとの説明がありました。1960年代から1980年代に一世を風靡しました。写真は国鉄(現在のJR)で使用された座席予約システムMARS(マルス)です。説明パネルにはNHKの番組「プロジェクトX」の名も! 

長い記事にお付き合いいただきましてありがとうございます。この展示会は60年間に亘る日立製作所の製品をまとめて見ることができる貴重な機会でした。

最後に、若い世代の技術者の皆さんも、先輩達の業績を懐古するだけでなく、その心意気を汲んで世界最高の技術を目指してもらいたいと切に願っています。

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