平城遷都1300年 第一次大極殿再建(後編)
警備の人たちが安全を守る近鉄奈良線の踏切を渡りました。平城宮跡を斜めに横切る線路は訪れる人にとって不便であるだけでなく景観を大幅に損なって、2ヶ月前に訪れた信州国国分寺跡と同様に無残な景色になっています。
平城宮跡の保存が1921年(大正10年)に始まり、1922年(大正11年)に国の史跡に指定される前の1914年(大正3年)に開業した近鉄が悪いわけではありません。しかし同社にとってイメージを損なう状況であることは確かで、大和西大寺駅と新大宮駅との区間を地下化する計画があるそうです。これは余談でした。
踏み切りの先で散策路は左右に分かれます。案内に従ってハートフルトラム(高齢者・障害者向け乗り物)の乗降場がある左手に進む人が多いのですが、正面から大極殿(だいごくでん)を撮影したいこともあって右手へと歩きました。再建が予定される第一次朝堂院(役人が執務を行った役所)跡越しに第一次大極殿が少し近く見えました。
当時の想像図には広い道(広場)を挟んで第一次朝堂院の建物が左右に2棟ずつ描かれています。これらの施設に第一次と付く理由は東側にある第二次の施設跡と区別するためです。聖武天皇が平城京から恭仁京(くにきょう)へ遷都する際、それまでの遷都と同様に建物を移設しましたが、紫香楽宮や難波宮を経て数年後に平城京へ再遷都された時には東側(内裏の南面)に大極殿や朝堂院などが新設されたそうです。
現在の散策路はそれらを迂回していますからさらに右手へと回り込みました。長く伸びた草を刈る作業が行われている遥か前方にハートフルトラムが見えます。
音声ガイド[朝堂院]
再現された回廊に囲まれた第一次大極殿院に入る門が3つ並んでいます。先ほどの想像図では左右の門が大きくて、中央の門がやや小さく描かれていましたが、これらの門(閤門あるいは南門)についての説明はありませんので一番近い右端の門から前庭に入りました。玉砂利が敷き詰められていますが当時もそうだったのでしょうか。
高い基壇の上に建てられた大極殿は優雅であり、かつ堂々としています。屋根両端の金色の鴟尾(しび)と中央の金色のモニュメント(宝珠と呼ばれる瓦の一種)がそのアクセントになっています。記録が残されていないために大極殿の基壇跡や恭仁京跡の礎石、法隆寺金堂など同時代の建物を参考に復元されたそうです。
平城遷都1300年祭のhpによると大極殿は、正面約44m、側面約20m、地面より高さ約27mの規模で、直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿です。ちなみに大極殿はその名を宇宙の中心である北極星に由来するとされ、宇宙の中心と直結する場所としての意味を持つともいわれるそうです。
藤原京に倣(なら)って平城京の北端中央にある平城宮の北端に建設されたようです。案内表示に従って左手のコースを歩きました。横の石段を上るのかと思ったのですが裏手にある鉄製の階段を利用するようにコースが設定されています。
欄干にある玉の装飾が優雅、5種類の色があるそうです。
音声ガイド[大極殿-1][大極殿-2]
平城京の中軸線上に建てられた平城宮の中心的な建物である大極殿内に入るとガイドボランティアの方がいろいろ説明して下さいました。大極とは宇宙の根源で、中国の天文思想では北極星のことであり、方位を示す四神である「玄武(北)」「白虎(西)」「朱雀(南)」「青龍(東)」が天井近くに描かれていることなど。
そして幟(のぼり)に描かれた「ヤタガラス(八咫烏)」は神武天皇が東征した時に熊野の山中で難儀をする一行を大和へと導いたとの伝承についても。熊野本宮大社を訪れた時にも同じ話を聞きました。真南に位置した藤原京から平城京まで「中ツ道」が設けられて藤原京の建物を移転するために使われたこともパネルに説明されています。
大極殿の中央に置かれた高御座(たかみくら)は天皇の正式な所在地で、儀式において天皇が着座した場所ですが、鳳凰などで飾られたこの高御座も京都御所にあるものを参考に八角形をした黒塗りの構造で復元されたそうです。天皇を迎えるために造られたと言われる安土城の第5層はこの高御座を意識して造られたのでしょう。
高御座から見た前庭と朱雀門は壮大な景観です。幸いなことに近鉄奈良線の存在も気になりません。前回、第二次大極殿跡と第二次朝堂院跡などを訪れた時には良く分からなかったのですが、第一次大極殿から見る景色は都の立地条件「低い山を北側に背負い、南の方角の視界が開けた場所」を満たしていることが理解できました。
金属工事「飾金具・木口金具」「飾金具・長押釘隠金物(なげしくぎかくしかなもの)」「飾金具・扉唄金物(とびらばいかなもの)」「柱頭用ダボ釘(木材を接続するための釘)」
軒下に付けられている「風鐸(ふうたん)」は魔除けとして用いられたもので、風鈴の原形と言えるものです。
金色に輝く鴟尾(しび)は高さが約2m、幅が約1.5mの青銅製で金箔が貼られています。唐招提寺などの鴟尾を参考にして作られた鴟尾の側面には唐草模様が施されてアクセントになっていました。上部にある髭のような細い棒は剣山タイプの鳥よけのようです。
大極殿脇から見た生駒山です。神武天皇の東征時に河内国側からこの生駒山を越えようとするものの激しい抵抗にあって紀伊(和歌山県)の熊野へ迂回したことが日本書紀や古事記で伝えられています。そして生駒山の西側には弓削道鏡の出身地である河内国弓削郷(現在の八尾市)があります。
東方向には内裏(だいり)跡と第二次大極殿跡、その先には休憩所の屋根の右端が邪魔をしていますが、若草山の手前に東大寺大仏殿の屋根も見えました。
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