« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月に作成された記事

2010年9月30日 (木)

平城遷都1300年 第一次大極殿再建(後編)

警備の人たちが安全を守る近鉄奈良線の踏切を渡りました。平城宮跡を斜めに横切る線路は訪れる人にとって不便であるだけでなく景観を大幅に損なって、2ヶ月前に訪れた信州国国分寺跡と同様に無残な景色になっています。

2010_09260039 平城宮跡の保存が1921年(大正10年)に始まり、1922年(大正11年)に国の史跡に指定される前の1914年(大正3年)に開業した近鉄が悪いわけではありません。しかし同社にとってイメージを損なう状況であることは確かで、大和西大寺駅と新大宮駅との区間を地下化する計画があるそうです。これは余談でした。

2010_09260070 踏み切りの先で散策路は左右に分かれます。案内に従ってハートフルトラム(高齢者・障害者向け乗り物)の乗降場がある左手に進む人が多いのですが、正面から大極殿(だいごくでん)を撮影したいこともあって右手へと歩きました。再建が予定される第一次朝堂院(役人が執務を行った役所)跡越しに第一次大極殿が少し近く見えました。

当時の想像図には広い道(広場)を挟んで第一次朝堂院の建物が左右に2棟ずつ描かれています。これらの施設に第一次と付く理由は東側にある第二次の施設跡と区別するためです。聖武天皇が平城京から恭仁京(くにきょう)へ遷都する際、それまでの遷都と同様に建物を移設しましたが、紫香楽宮や難波宮を経て数年後に平城京へ再遷都された時には東側(内裏の南面)に大極殿や朝堂院などが新設されたそうです。

2010_09260073 現在の散策路はそれらを迂回していますからさらに右手へと回り込みました。長く伸びた草を刈る作業が行われている遥か前方にハートフルトラムが見えます。
 
音声ガイド[朝堂院
 

2010_09260078 再現された回廊に囲まれた第一次大極殿院に入る門が3つ並んでいます。先ほどの想像図では左右の門が大きくて、中央の門がやや小さく描かれていましたが、これらの門(閤門あるいは南門)についての説明はありませんので一番近い右端の門から前庭に入りました。玉砂利が敷き詰められていますが当時もそうだったのでしょうか。

2010_09260080 高い基壇の上に建てられた大極殿は優雅であり、かつ堂々としています。屋根両端の金色の鴟尾(しび)と中央の金色のモニュメント(宝珠と呼ばれる瓦の一種)がそのアクセントになっています。記録が残されていないために大極殿の基壇跡や恭仁京跡の礎石、法隆寺金堂など同時代の建物を参考に復元されたそうです。

2010_09260085 平城遷都1300年祭のhpによると大極殿は、正面約44m、側面約20m、地面より高さ約27mの規模で、直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約97000枚を使った平城宮最大の宮殿です。ちなみに大極殿はその名を宇宙の中心である北極星に由来するとされ、宇宙の中心と直結する場所としての意味を持つともいわれるそうです。

2010_09260089 藤原京に倣(なら)って平城京の北端中央にある平城宮の北端に建設されたようです。案内表示に従って左手のコースを歩きました。横の石段を上るのかと思ったのですが裏手にある鉄製の階段を利用するようにコースが設定されています。 
 

2010_09260090 欄干にある玉の装飾が優雅、5種類の色があるそうです。
 
音声ガイド[大極殿-1][大極殿-2]   
 
 

2010_09260095 平城京の中軸線上に建てられた平城宮の中心的な建物である大極殿内に入るとガイドボランティアの方がいろいろ説明して下さいました。大極とは宇宙の根源で、中国の天文思想では北極星のことであり、方位を示す四神である「玄武(北)」「白虎(西)」「朱雀(南)」「青龍(東)」が天井近くに描かれていることなど。

そして幟(のぼり)に描かれた「ヤタガラス(八咫烏)」は神武天皇が東征した時に熊野の山中で難儀をする一行を大和へと導いたとの伝承についても。熊野本宮大社を訪れた時にも同じ話を聞きました。真南に位置した藤原京から平城京まで「中ツ道」が設けられて藤原京の建物を移転するために使われたこともパネルに説明されています。

2010_09260099 大極殿の中央に置かれた高御座(たかみくら)は天皇の正式な所在地で、儀式において天皇が着座した場所ですが、鳳凰などで飾られたこの高御座も京都御所にあるものを参考に八角形をした黒塗りの構造で復元されたそうです。天皇を迎えるために造られたと言われる安土城の第5層はこの高御座を意識して造られたのでしょう。

2010_09260096 高御座から見た前庭と朱雀門は壮大な景観です。幸いなことに近鉄奈良線の存在も気になりません。前回、第二次大極殿跡と第二次朝堂院跡などを訪れた時には良く分からなかったのですが、第一次大極殿から見る景色は都の立地条件「低い山を北側に背負い、南の方角の視界が開けた場所」を満たしていることが理解できました。

2010_09260104 屋根工事「軒丸瓦・軒平瓦」
 
 
 
 
 

2010_09260106 金属工事「飾金具・木口金具」「飾金具・長押釘隠金物(なげしくぎかくしかなもの)」「飾金具・扉唄金物(とびらばいかなもの)」「柱頭用ダボ釘(木材を接続するための釘)」   
 
 

2010_09260110 軒下に付けられている「風鐸(ふうたん)」は魔除けとして用いられたもので、風鈴の原形と言えるものです。
 
 
 
 

2010_09260103金色に輝く鴟尾(しび)は高さが約2m、幅が約1.5mの青銅製で金箔が貼られています。唐招提寺などの鴟尾を参考にして作られた鴟尾の側面には唐草模様が施されてアクセントになっていました。上部にある髭のような細い棒は剣山タイプの鳥よけのようです。
 

2010_09260115 大極殿脇から見た生駒山です。神武天皇の東征時に河内国側からこの生駒山を越えようとするものの激しい抵抗にあって紀伊(和歌山県)の熊野へ迂回したことが日本書紀や古事記で伝えられています。そして生駒山の西側には弓削道鏡の出身地である河内国弓削郷(現在の八尾市)があります。 

2010_09260117 東方向には内裏(だいり)跡と第二次大極殿跡、その先には休憩所の屋根の右端が邪魔をしていますが、若草山の手前に東大寺大仏殿の屋根も見えました。
 
 
 

2010_09260113 築地であったと伝えられる回廊は風通しの良い簡易壁として再現されています。
 
 
 
 

2010_09260124 第一次朝堂院跡は草に覆われた基壇が残るだけですが将来復元された時の様子を思い浮かべてみました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月29日 (水)

平城遷都1300年 第一次大極殿再建(前編)

所用で関西に出掛けました。ちょうど9月下旬の飛び石連休に当たるため高速道路の渋滞は覚悟の上でのドライブ旅です。少しでも空いた時間帯を利用するため七つ立ち(午前4時出発)したことで走りなれた東名高速道路伊勢湾岸道路東名阪自動車道新名神高速道路を順調にドライブ、この日はオチビちゃん・コチビちゃん宅に滞在することにしました。

翌朝早く、京都を出発して奈良へ向いました。「平城遷都1300年」を記念して今春に再建された平城宮の第一次大極殿を見るためです。木津川の橋巡りで走った国道24号(奈良街道)で泉大橋を渡って京奈和自動車道の木津ICを抜けると奈良県奈良市に入ります。国道24号(奈良バイパス)から県道1号(奈良生駒線)へ回り込んで7時半頃に会場入口の朱雀門前に到着。2年半前に平城宮跡を訪れた時から大極殿の完成を待っていました。

平城遷都1300年記念事業協会事務局は会場への交通アクセスとして「公共交通機関」あるいは「パーク&バスライド」を利用するようにPRしていますが、夏フェアが8月下旬に終って秋フェア(10月9日~11月7日)が始まるまでの期間は会場内の平城宮跡会場駐車場が一般車にも開放されるのです。

2010_09260025 ちょっと早過ぎたようで県道1号に面した入口はまだ閉じられていて、係の人が「8時半に入場できることと、それまで平城宮跡の敷地を一周してその規模を実感すること」を勧めてくれました。前回訪れた時にも車で1周していますが、どんな変化があるかを確認するのも面白いと思って、アドバイスに従いました。

2010_09260009 最初の信号を左折して平城宮の中を抜ける「みやと通り」に入りました。朱雀門を左に見ながら近鉄奈良線の狭い踏切を渡ると大極殿が左前方に見えて来ました。写真を撮りたいところですが狭い道ですから車を止めるスペースはありません。前回は右手の第二次大極殿跡と東院庭園を中心に歩いて見て回ったことを思い出します。

2010_09260012

県道104号と交わる佐紀町交差点を左折すると大極殿を背面から間近に見ることが出来ます。要所にある入口は交通混雑を避けるためにすべて閉鎖されて、関係者以外は車を停めたり乗り入れたりすることはできず、確かに規制が徹底されています。 
 

2010_09260028 二条町交差点を左折すると再び奈良線を渡り、二条大路南五交差点で県道1号に戻って15分程で1周してしまいました。同行者がコンビニで買い物をする間に会場の南西にあるエントランス広場近くまで歩いてみました。
 
 

2010_09260022徒歩で来場した人たちは自由に入場できるようです。平城京歴史館の前に遣唐使船復原展示が目に入りました。
  
平城宮跡会場音声ガイド
[遣唐使船-1] [遣唐使船-2][遣唐使船-3
   

2010_09260030 5分前になるのを見計らって会場入口へ向かいと係員が車を会場内へ誘導しています。時間にアバウトだと思いながら係員に会釈して一般車のコースを進みました。この日は飛び石連休に挟まれた平日で心配したほどの混雑はありません。駐車場の利用料金は1000円でした。
 

2010_09260131 観光バスが続々到着して旅客を吐き出すと、エントランス広場はみるみる人の波ができ、その行く先は平城京歴史館のようです。8時50分から入場整理券が配布されるとアナウンスが・・。9月から再開された平城京跡ツアーは手前のブースで9時から受付が始まると表示されています。
 

2010_09260040まだ大分時間がありますから朱雀門へ向いました。こちらは2年半前と変化がないようですから近鉄の線路越しに見える大極殿へ向うことにして専用踏み切りに差し掛かると、会場整理の係員の方から9時から朱雀門で開門のセレモニーがあると教えられ、朱雀門へ引き返すことに。音声ガイド[朱雀門

2010_09260043 朱雀門前に伸びる朱雀大路では「平成木簡(もっかん)」を作成する会場がありました。千年和紙にメッセージを書いて名前を記入した小さな木管の穴に入れると、それが140本まとめてケース内のマスに収納され、朱雀門広場の東側緑地に埋めてもらえるそうです。タイムカプセルみたいですが将来掘り出す予定はないとのこと。

2010_09260050 9時になると開門式が始まる旨のアナウンス(日本語中国語・韓国語)があり、右手の二条大路から奈良時代の装束を身にまとった衛士の隊列が近づいてきます。12名全員が生真面目な表情をしているのが面白い。浅黄緑の装束は七位の位と説明されました。律令制における七位は下から2つ目の位、中隊長クラスの武官か。

2010_09260053 開門を告げる太鼓も運ばれて来ました。
 
 
 
 
 

2010_09260060 朱雀門の裏側に回った衛士の一団は3つの大きな扉を順番に開くと壇上でポーズ。
 
 
 
 

2010_09260063 さらに石段を下りて朱雀門広場でもう一度ポーズをとってセレモニーが終了。
 
 
 

 

Suzakumon2 同行者は門の裏側に回って扉を開ける様子を撮影したと言いながら自慢のiPhoneで何枚もの写真を見せてくれました。右の写真はその1枚です。 
 
 
 

2010_09260067 朱雀門が一般客にも解放されましたので特設階段を上りました。一段高い場所から遠方の大極殿が良く展望できます。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月22日 (水)

Das Beste oder nichits. (一番じゃなきゃ・・)

最近、メルセデス・ベンツのテレビCM "Das Beste oder nichits."という言葉が流されています。ダイムラー社の創業者であるダイムラーが残した言葉を引用したドイツ語のスローガンでした。同社のhpには「最善か無か」と訳されていますが、私は「最高でなければ意味がない」と理解します。つまり中途半端なものは受け入れられないと言うことでしょう。注釈;ダイムラー社はベンツと合併してダイムラー・ベンツ社となり、ダイムラー・クライスラーを経て、現在はダイムラーAG

日本の自動車メーカーが目標としたそのダイムラー社も、1990年代後半にコストダウンに起因する品質問題を起こして信頼回復に10年以上を掛けた今も、初心を忘れていない姿勢を示すために、古いスローガンを復活させたのでしょう。

この言葉から昨年の事業仕分けでマスコミが報じた「2番目では駄目ですか?」を連想しました。質疑の中で出たこの質問自身は何ら問題ないのですが、キャッチーな言葉としてセンセーショナルに取り上げたマスコミと、質問にきちんと答えられない官僚と科学者が不甲斐ないと思いました。科学者や技術者は、スポーツ選手と同様に、常に最高を求めるものです。2番手商法の利点を考える旧来の保守的なビジネスマンとは違うのです。本題のタイトルは技術者の端くれであった私の心に響く言葉でした。

番であることの要否はさて置き、今回のブログ記事では技術を追求したるあ会社の歴史を紹介します。この会社に限らず名のある会社にはそれぞれ最高の技術を追求した人達がいたことはNHKの「プロジェクトX」の紹介を観るまでもないことです。もう2ヶ月前のことになりますが7月22日と23日の両日に開催されたイベントに参加しました。会場は有楽町の東京国際フォーラムです。

日立製作所が創業100周年を記念して「確かな技術でつぎの100年へ ~協創で加速する社会とビジネスのイノベーション~」をテーマに、これまで100年の「日立の歩み」と次の100年に向けた「新たな取り組み」を講演、セミナー、展示を通して紹介する催しです。講演とセミナーを聴く目的でしたが時間の余裕を利用して展示会も覘(のぞ)いてみました。

2010_08031000046_2 いずれも大変興味深いものでしたがここでは前者の展示を写真で紹介します。団塊の世代である私には懐かしさを感じさせる展示品が多数見られたため、それを網羅しようとしてずいぶん長い記事になりましたことをご容赦下さい。 
 
 

2010_08031000001 展示会場に入ると一見して古いと分かるモーターが存在感をもっています。明治末期に日立鉱山の一角で電動機や変圧器の修理をしていた日立の創業者小平波平氏が自力でモーターの開発に取り組んで、1910年(明治43年)に最初の製品として完成させた3台の5馬力モーターの1台(実物)でした。

2010_08031000002 次いで同年に5kVA単層変圧器は日立マークがデザインされた最初の製品(10台製作)と紹介されています。
 
 
 
 

2010_08031000005 1912年(明治45年)に静岡県の水力発電所に納入された250kVA水力発電機の回転子は50年以上も現役で使われたそうです。 
 
 
 

2010_080310000081915年(大正4年)に製造された10000馬力水車(フランシス水車ランナー、写真左)は群馬県の水力発電所に納入されたもの。周辺の溝から流れ込んだ水が中央部から流れ出て水車を回す仕組みです。手前の直流励磁機駆動用325馬力ベルトン水車ランナーは椀(わん)を並べたような構造で高落差に適した水車だそうです。

2010_08031000010 1918-1921年(大正7-10年)に製造された電流計(メーター)と継電器(リレー)
 
 
 
 

2010_08031000011 1920年(大正9年)から製造された8620型蒸気機関車と1924年(大正13年)の59t大型電気機関車
 
 
 
 

2010_08031000013 1926年(大正15年)の扇風機
 
 
 
 
 

2010_08031000015 1931年(昭和6年)の水電解槽は肥料(硫安)の製造に使われた水素を水から取り出す装置です。1929年に勃発した金融恐慌から同社を危機から救ったと説明されています。
 
 

2010_08031000017 1932年(昭和7年)の電気冷蔵庫。戦後になっても氷を使う冷蔵庫が主流であったことから先進(過ぎる?)家電製品だったようです。
 
 
 

2010_08031000019 1942年(昭和17年)の国産第1号の電子顕微鏡(最大倍率が1万倍)は納入先の名古屋大学(当時は名古屋帝国大学)の博物館に今も保存されているそうです。
 
 
 

2010_08031000021 1945年(昭和20年)の民需用電話交換機(20回線単紐共電式構内交換機)は交換手が手動でつなぐ初期の交換機。手前に並ぶプラグ付きコードを後方のジャックに差し込んで接続します。単紐とは1本のコード、共電式は交換機の電池を全加入者が共同で使用する方式であることを意味します。

2010_08031000023 1946年(昭和21年)のTB-4国民型ラジオは木製キャビネットに入った真空管式ラジオで現在のAMラジオと機能はほとんど同じです。国民型ラジオは逓信省が推奨して日本放送協会が認定したラジオで1号から6号まで11種類(2号・4号・6号は複数の種類、真空管の組み合わせ、高周波増幅の有無、トランスの有無)あったようです。

調べてみるとTTB-42国民型4号(国民型4号Aに分類)が正しい名称のようです。左半分はスピーカー、右側の小窓は周波数の表示器、4つのつまみは表示が薄れていますが、一番上が選局用・下の段は左から電源・再生・音量の調整用でしょう。

2010_08031000025 1948年(昭和23年)のC62形蒸気機関車は国鉄で最大・最速の蒸気機関車で特急つばめなどを牽引したと説明されています。京都の梅小路蒸気機関車館に保存されているそうです。C62のCは旅客用で有名なD51のDは貨物輸送用を意味します。
 

2010_08031000029 1952年(昭和27年)の洗濯機1号機(角型撹拌式1号、SM-A1)はアメリカ式の撹拌方式でした。上部に絞り機のローラーが付いているのが懐かしいです。
 
 
 

2010_08031000031 1956年(昭和31年)の電気掃除機はヒッターバックH-H2と名付けられました。
 
 
 
 

2010_08031000033 1956年(昭和31年)の14型テレビ受像機(F-100)はダイヤル型チャンネルセレクターが付いていますがよく見るとチャンネルは1から11までで12がありません。それは当時12チャンネルが米軍用に使われていたからです。そして画面はもちろん白黒、日本でテレビが普及し始めた頃の製品です。

2010_08031000035 1957年(昭和32年)の真空ラジオ(H-202)はTB-4形に較べると小型化されてすっきりしたデザインになっています。真空管もミニチュア管が使用されたと説明されています。それまではST管というナスビに似た小型電球ほどの真空管が一般的でした。
 

2010_08031000039 1967年(昭和42年)の磁気ディスク装置(H-8654)は大型コンピュータ(メインフレーム)用の外部記録用装置で、現在のパソコンの外付けHDDに相当するものです。銀行業務や座席予約などオンライン情報処理に使われました。ちなみに最初の製品はIBMが10年余り前の1956年に、国産では富士通が1963年に開発しています。

2010_08031000041 1968年(昭和43年)のテレビ電話も懐かしい製品です。テレビ電話の名称は日本で付けられたものでアメリカではピクチャーフォンと呼ばれています。1970年に開催された大阪万国博覧会で電電公社(現在のNTT)のブースに展示されて注目を浴びましたが大企業向けを除けば一般企業や個人向けに普及したのはつい最近のことです。

2010_08031000043 最後に展示された1970年(昭和45年)の大形メインフレームはLSIによる高密度実装と仮想記憶装置の採用で高速化が図られたとの説明がありました。1960年代から1980年代に一世を風靡しました。写真は国鉄(現在のJR)で使用された座席予約システムMARS(マルス)です。説明パネルにはNHKの番組「プロジェクトX」の名も! 

長い記事にお付き合いいただきましてありがとうございます。この展示会は60年間に亘る日立製作所の製品をまとめて見ることができる貴重な機会でした。

最後に、若い世代の技術者の皆さんも、先輩達の業績を懐古するだけでなく、その心意気を汲んで世界最高の技術を目指してもらいたいと切に願っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月18日 (土)

秋の装いと麺源屋

この2-3日は残暑が一服してやっと秋の気配が感じられます。これに合わせたように北海道の大雪山系の山々で紅葉が始まったとの報道がありました。このまま秋に入ってくれると良いのですが・・。さて今回の記事はまだ猛暑が続いていた先週始めに目黒へ出掛けた折に見つけた秋の装(よそお)いがテーマです。JR山手線目黒駅を下車、行人坂の急な下り坂は午前中でも強い日差しと路面の照り返しで真夏のよう。目的地の目黒雅叙園に入って空調が施された長い通路で奥を目指します。

この通路の中ほどにある飾りつけは目の保養ができることで毎回楽しみにしています。人工的な池に浮かぶ島に飾られているのは鮮やかな朱色の紅葉。外界がまだ夏の暑さであることを忘れさせる趣向に思わずカメラを向けました。
 
2010_09130007_22010_091300082010_09130006_2 
 

 
 
 
 
 
豪華な色打掛が主役のようですが春の飾りつけとはまったく異なる雰囲気です。水に浮かぶトレイに並べられた生け花も素敵な演出。しばしその風情を楽しみました。
 
2010_09130009 2010_09130010 2010_09130012       
   
同じ催し物に参加すると思われる背広姿の人達が脇を通り抜けて奥の建物に入って行きます。受付開始時間が近づきましたので私もその流れに従うことに。
 
2階にある会場前のホールから1階の様子が良く見渡せます。右手の食事処「渡風亭」との間には緋鯉が泳ぐ清流が大きく曲がって外の池へと続いています。
 
2010_09130001 2010_09130003 2010_09130005         
 
正午に午前のセミナーが終了。雅叙園内にも食事が出来る場所はいくつもありますが折角の目黒ですから目黒通り(権之助坂)まで出ることにしました。レストランやラーメン店が軒(のき)を並べているためいつも選ぶのに困りますが、4年前に開店した「麺源屋」(めんげんや、目黒店)に決めました。

2010_09130020 入口の券売機で食券を購入する仕組みです。この店定番の「つけ麺」(普通盛り、680円)を選びました。普通盛りから大盛りまで同じ料金ですから若者には嬉しいサービスでしょう。係りの人に食券を渡して3卓ある4人掛けのテーブル(相席)でしばし待つことにしました。12時を回ったところですから6人掛けのカウンターもほぼ満席。

2010_09130021 大半の客は私と同様に配膳を待っている状態で、しかも一人づつ配膳されていますから、かなり待つ必要がありそうです。10分近く待った頃に私の前につけ麺が配膳されました。見た目にはこれと言った特徴はなさそうです。茹(ゆ)でるのに時間がかかったと思われる中太の縮れ麺は固めでかなり歯ごたえがあって美味しい。

2010_09130017 つけ汁はシチューのような見掛け通りにとろみがあり、味もやや甘めです。長めに角切りされたシチューが期待以上に入っているのは良いのですが、つけ汁の味は私好みではなく、前回食べたライバル店の「づゅる麺池田」に軍配を上げました。もしかしたら辛味噌つけ麺にすれば良かったかもしれません。店員の応対は良かったと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月13日 (月)

横浜散策 中華街

2010_08270098 昨年5月に再オープンしたマリンタワーをビル越しに見ながら、横浜天主堂跡を経て、中華街東門まで歩きました。灯台の使命を終えて閉鎖されていましたが、赤と白のグラデーションで鮮やかに塗リ分けられたタワーは、多目的施設としての再オープン。シルバー((側はブラウンオリーブ)に変わってすっきりした印象です。

2010_08270099 29階の展望台には東京タワーやニュージーランド・オークランドのスカイタワーと同様に下をのぞくガラス窓があるそうですから、そのうちに機会があれば訪れてみたいと思います。
 
 

2010_08270100 中華街の東門近くに横浜天主堂跡の碑が建っていました。江戸時代末期にフランス人神父が居留地内に建設したカトリック教会で、明治時代後期に現在の山手町に移転してカトリック山手教会になったことが説明されています。 
 

2010_08270110 朝陽門(東門)を潜(くぐ)ると中華街大通りに入ります。すぐ脇には北京料理の北京飯店本館、北京ダッグを日本で広めた老舗として知られるそうです。
 
 
 

2010_08270109 左側の歩道に継往開来(けいおうかいらい)のモニュメントがありました。継往開来とは「過去を継承し未来を開く」という意味で、未来を切り開く斧をイメージして作られたそうです。
 
 

居留地に商館を建てた欧米人は連れてきた中国人を漢字の筆談などに役立てたそうですが、後にその中国人が住み着いて料理などの仕事をするようになったと伝えられます。なかでも広東出身者が多かったために広東料理の店が四川料理や上海料理に較べて多い背景となったようです。

2010_08270115 日中は歩行者専用となる左手の中華街大通りに入るY字路の角にユニークなデザインの山下町交番がありました。11月にみなとみらい21地区で開催される予定のAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳・閣僚会議の警備へ協力を呼びかける立て看板が目に付きました。 
 

2010_08270112 その右手にはド派手な看板が一際目を惹く中国料理世界チャンピオン「皇朝」(こうちょう、3号店)では一口サイズの肉まんを求める客の列が出来ています。
 
 
 

2010_08270117 大きな店構えの華正楼新館、そして市場通りとの角にあるのが店先に豚肉を吊るした同発本館。
 
 
 
 

2010_08270123その少し先にある1884年(明治17年)創業の老舗、聘珍樓(へいちんろう)横浜本店でミストシャワーを楽しみました。
 
 
 

2010_08270120 早めの夕食は店選びに迷った末、以前利用して気に入った広東料理の同発別館を選びました。それほど片苦しくない店構えと客室の落ち着いた雰囲気、何といっても美味しい料理が良いのです。ちなみに中華街大通りには同発本館(明治時代創業の焼き物の店)と同発新館(改築工事中)もあります。

2010_08270141 ロビー脇にある待合室には見事な貝の象眼(ぞうがん)が施された茶卓、椅子(いす)、長椅子のセットが置かれていました。
 
 
 

2010_08270142 なかでも高い背もたれのある椅子は竜の精緻なカービング細工と座る部分の象眼細工がすばらしくてそれに座ることはためらわれます。
 
 
 

2010_08270128 席に案内されました。私は大好きな鮮蝦雲呑麺(香港式えびわんたん麺)、同行者は什錦香炒麺(五目焼きそば)をを選びました。
 
 
 

2010_08270133 前者は香港式麺の食感とさっぱりしたスープが見事にマッチして期待通りの美味しさです。
 
 
 
 

2010_08270132 後者も固焼きそばに絶妙の味付けをされた魚介の具の組み合わせでした。同行者はさっぱりした杏仁凍豆腐(あんにんどうふ)にも満足しているようです。
 
 
 

中華街で日が傾いてきました。横浜の散策を楽しんだことでなぜか歌が浮かんできます。最初はマルシアさんの「ふりむけばヨコハマ」、次いで五木ひろしさんの「よこはま・たそがれ」と青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」、ちあきなおみさんの「港が見える丘」、石原裕次郎さんの「よこはま物語」「夜霧よ今夜も有難う」、美空ひばりさんの「港町十三番地」(横浜をイメージした歌ですがタイトルの港町は川崎市)、カラオケの十八番である中村雅俊さんの「恋人も濡れる街角」、さらに横浜の歌を代表するいしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」。横浜にちなんだ歌のトリとしてフランク永井さんの「夜霧の第二国道」を口ずさみながら歌とは逆方向の家路に着きました。
 

<同行者のコメント> 本当に珍しいことです。旦那さまが横浜の繁華街に連れて行ってくれるなんて。元町ではウィンドウショッピングだけでなく、ゆっくり買い物をするつもりでしたが・・。中華街で食べた料理がとても美味しかったことと、お土産に買った甘栗はたっぷりおまけしてもらったことが嬉しかったです。帰り道に旦那さまの足取りが軽かったのはやはり歌のせいだったのですね。□

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月12日 (日)

横浜散策 元町商店街

2010_08270090 元町・中華街駅を出て左手に50mほど掘川沿いを歩くと元町の商店街が見えてきます。そしてシンボルの「火の鳥フェニックス」のアーチが出迎えてくれました。
 
 
 

2010_08270056 真っ黒に塗られた郵便ポストは元町の雰囲気に合わせた特注品のようです。
 
 
 
 

元町は江戸時代末期に開港された横浜港周辺の関内と山手の旧外人居留地に挟まれた地域です。関内とは開港地とその周辺の間に架けられた吉田橋(現在の根岸線と馬車道が交差する伊勢佐木町入口交差点辺り)に設置された関門の内側(横浜港側)という意味です。ちなみに当ブログでは神奈川宿との間に設けられた神奈川区台町にあった旧東海道の関門跡を紹介しています。

居留地が港近く(現在の中区山下町辺り)に造られた時、日本人は西側の山寄り地区に移住させられ、明治に入って堀川が水運のために拡幅されて関内と元町が隔てられるとこの川沿いに出来た商店街が現在の元町商店街へと発展しました。関内地区や山手地区の外人居留地に住む多くの外国人の影響を強く受けた元町(旧横浜本村)は今も横浜を代表するお洒落な繁華街のひとつです。

そして元町は1970年代に注目されたハマトラ(横浜トラディショナル・ファッション)発祥の地でもあり、ハマトラを代表する北村のバッグ、ミハマのシューズ、フクゾーの洋服が三種の神器と呼ばれました。

2010_08270058 元町の歴史はこれくらいにして散策です。8月下旬の暑さですが打ち水された歩道が気持ち良い。およそ600mの長さがある元町商店街は服飾の店をはじめとする様々な店舗が並んでいます。
 
 

一丁目はGAP横浜元町店、喫茶のルノアール横浜元町店、キタムラK2元町一丁目店、老舗のオハラが経営するWOOD&PECKER、セレクトショップRUKAなど
 

2010_08270060 2010_08270061 2010_08270062 2010_08270063 2010_08270064 2010_08270067 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2丁目はキタムラK2元町本店、ブティック元町4℃、ミハマ(靴)、革専門のヒロキ元町店など
 
2010_08270068 2010_08270069 2010_08270070 2010_08270071 2010_082700732010_08270075 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3丁目はカリヨン時計(鐘演奏 その1 その2)のあるジュエリーと時計のCHARMY、箸長元町店、ワードローブ(衣服のコーディネート)のトゥモローランドなど
 
2010_08270078 2010_08270082 2010_08270086 
 
 
 
 
 
 
JR
石川町駅まで4丁目と5丁目が続きますがあまりの暑さで元町散策はこの辺りで終わりにして元町・中華街駅近くまで引き返しました。

2010_08270092 堀川に架かる谷戸橋の袂(たもと)にあるシドモア桜に目が留まりました。ワシントンのポトマック河畔から里帰りした染井吉野だと説明されています。いよいよ谷戸橋を渡ってゴールの中華街を目指します。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月11日 (土)

横浜散策 新高島町駅界隈から元町・中華街駅へ

2010_08270043 第三セクターの横浜高速鉄道株式会社が営業する「みなとみらい線」(2004年2月開通)の新高島町駅で下車しました。みなとみらい地区で所用があるためです。隣のみなとみらい駅を下車したパシフィコ横浜ランドマークタワーはよく訪れましたが、この駅で下車するのは始めての経験です。

2010_08270041 横浜Fマリノスの旗に出迎えられて駅のプラットフォームを出ます。
 
 
 
 

2010_08270037 横浜アンパンマン子供ミュージアム
 
 
 
 
 

2010_08270039 キャノン・キャッツ・シアターの案内が続きます。
 
 
 
 
 

2010_08270033 みなとみらい地区の開発で平成17年に住居表示が高島町であった地域の一部が開発プロジェクト名がそのまま地名となったみなとみらいに編入されたため、新高島町駅は高島町とみなとみらいの境界線上の駅になりました。 
 

2010_08270035 高島町の名の由来は日本最初の鉄道が新橋(汐留)と横浜(桜木町)の間に建設された時に海を埋め立てた高島嘉右衛門氏の功績をたたえたものだそうです。「新」が付くのは横浜市営地下鉄の高島町駅と区別するためです。 
 

2010_08270003みなとみらい線が開通する前は東急東横線の終点が桜木町駅で、そのひとつ手前に高島町駅があり、高架が続くこの区間は海岸の工業地域と市街地の境界にもなっていました。東横線高架下の歩道と落書きに埋め尽くされた壁も今は撤去されて根岸線の高架だけが国道16号に沿って桜木町方面へ一直線に伸びています。 

この海側地域にあった造船所や国鉄の操車場などの跡を利用して1983年にみなとみらいの開発がスタート、1993年にシンボルとしてのランドマークタワーが完成、2000年頃に完了する予定でしたが、経済の停滞があったため計画が遅れてまだ空き地がかなり残っています。 

2010_08270029 2番出口(大通り高島口)から地上に出ると右手にキャノン・キャッツ・シアターがあり、前方にランドマークタワーが一際高く聳(そび)えています。 
 
 
 

2010_08270022電線が地中化された町並みはすっきりした印象を与えます。ちなみに ランドマークタワーの手前は三菱重工横浜ビル、そして右手にあるビル群は手前から順に、横浜銀行本店ビル、日石横浜ビル、県民共済プラザピル。 
 
 

2010_08270045 所用を済ませたあとは再びみなとみらい線に乗車、みなとみらい駅、日本大通り駅、馬車道駅を通過して終点の元町・中華街駅へ。写真はプラットフォームと電車の床の段差をスロープで調整する仕組みのようです。 
 
 

2010_08270048 下車した元町・中華街駅の構内には古い写真が壁面に飾られています。その最初は現在とまったく雰囲気が違うグランドホテルと谷戸橋界隈。 1923年(大正12年)に発生した関東大震災で崩壊したため1927年(昭和2年)にホテルニューグランドと鋼アーチ橋の谷戸橋が現在の場所に再建されました。 

2010_08270049 こちらは馬を引く男の子(馬子)
 
 
 
 
 

2010_08270050 5番出口(元町口)から地上へ出ました。平凡な建物ですがよく見るとここにも様々な古い写真がモザイクのように貼り付けてあり、駅名のあとに括弧書きで山下公園と書かれています。3つの地名を組み合わせた複雑な名称は命名時の苦労を表していて面白い。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 5日 (日)

環七ドライブ 西新井-上馬

2010_08280117 西新井の紹介が長くなりました。環七通り(内回り)のドライブに戻ります。1kmあまり西へ進むと尾久橋通りと交差する江北陸橋で、その上を西日に照らされた日暮里・舎人ライナーが横切って行きます。この交差点から北上すれば舎人(とねり)公園と見沼親水公園に至ります。江北とは旧荒川(現在の隅田川)の北部地域を指します。

2010_08280119 西方へ約1.6km進むと鹿浜交差点、ここで右折すれば川口市の中心部へ向かいます。ちなみに鹿浜は、鹿が棲む浜ではなく、荒川の湿地帯を意味するそうです。ついでに旧武蔵国足立郡に由来する足立区の名は日本武尊に由来するとする説もありますが、「葦立」(あしだち)、つまり葦が生える湿地帯とするほうが有力でしょう。

2010_08280122 ここで環七はやや南よりに方向を変えて、首都高速川口線を横切ります。鹿浜橋から荒川の下流方向に東京スカイツリーがよく見えましたが残念ながら一瞬のチャンスを逃してしまいました。 
 
 

2010_08280123 北区との境界である隅田川に架かる新神谷橋神谷陸橋につながって北本通り((きたほんどおり、国道122号)と立体交差しました。南へ行くと王子駅前で明治通りに行き当たり、北へ進めば埼玉県に入って岩槻街道となります。 
 

2010_08280124 新神谷橋から大日本印刷(DNP)とマンションの後方に見えるタワーは北清掃工場の煙突でした。建築家で早稲田大学理工学部教授の石山修武(おさむ)氏が設計したクラッシクなイメージが魅力的。高さが約120mあるそうです。 
 

2010_08280127 東北・上越新幹線のガードを潜りますが東北本線は下を通過しているようです。
 
 
 
 

2010_08280130 板橋区に入ると大和町交差点で中山道(国道17号)と立体交差します。上を横切るのは首都高速5号池袋線。中山道を北上した志村警察署近くの前野原温泉「さやの湯処」を紹介しています。
 
 

2010_08280132 板橋中央陸橋で国道254号(川越街道)と立体交差。
 
 
 
 

 

2010_08280134 豊玉陸橋で都道8号(目白通り)を越えます。
 
 
 
 


2010_08280135環七通りは真南に方向を変えて 丸山陸橋で都道440号(新青梅街道)を跨(また)ぎます。 
 
 
 
 

2010_08280136 西武新宿線の野方駅の下を潜りました。
 
 
 
 
 

2010_08280137 大和陸橋で都道25号(早稲田通り)と立体交差すると杉並区高円寺に入ります。
 
 
 
 

2010_08280138 中央本線高円寺駅入口交差点
 
 
 
 
 

2010_08280140 高円寺陸橋で都道4号(青梅街道)を越えます。
 
 
 
 
 

2010_08280142 方南八幡陸橋(方南町交差点)で都道14号(方南通り)の下を潜りました。
 
 
 
 

2010_08280144 大原交差点で甲州街道(国道20号)と交差、その上は首都高速4号新宿線です。この交差点は昭和40年代に排気ガスによる大気汚染がひどいことで有名でした。
 
 
 

2010_08280145 世田谷区に入って京王線のガードを潜ります。
 
 
 
 
 

2010_08280148 小田急小田原線のガード
 
 
 
 
 

2010_08280152東急世田谷線の若林踏切
 
 
 
 
 

2010_08280153若林交差点は工事のため都道3号(世田谷通り)との立体交差で車線規制が行われています。
 
 
 
 

2010_08280155 上馬交差点が見えてきました。上馬(かみうま)の地名は上馬引沢村(かみまひきさわむら)を省略したもので、少し東にある下馬も同じ。東京23区内にはその他にも、練馬区、高田馬場(新宿区)、馬込(まごめ、大田区)、中央区には日本橋馬喰町(ばくろちょう)・日本橋大伝馬町・日本橋小伝馬町と馬の付く地名が多数あります。

馬と同じ意味の駒が入った地名として、文京区本駒込(ほんこまごめ)、台東区駒形(こまがた)、墨田区東駒形(ひがしこまがた)、目黒区駒場(こまば) 、世田谷区駒沢(こまざわ)と駒沢公園(こまざわこうえん) 、豊島区駒込(こまごめ)があり、比喩的な意味で駄が付く文京区千駄木(せんだぎ)と渋谷区千駄ヶ谷(せんだがや)と多彩です。

地名談義はさておき、環七通りは10数km先の大井埠頭まで続きますが、日が落ちてしまいましたから、今回の環七ドライブはこの上馬交差点を終着点にします。ちなみに上馬から先の環七通りは城南島東京湾野鳥公園へ出かけた時に走っています。

<同行者のコメント> わが家の運転手さんは渋滞の激しい環八よりも立体交差の多い環七が好きなようです。埼玉県へ行く時によく利用しますので見慣れた景色ばかりでした。でも西新井大師に参拝したときは本当に暑くて大変、その前にせっかくおいしいメロンを食べたのに・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 4日 (土)

環七ドライブ THE SPA 西新井

2010_08280048 横断歩道橋上から環七通りを見下ろすと、路面を運転する時以上に、大動脈のダイナミックさが良く分かります。西方(高円寺方面)を撮影しました。
 
 
 

2010_08280050 こちらは東方(亀有方面)です。
 
 
 
 
 

2010_08280114 さて今回の日帰り温泉には「THE SPA西新井」を選びました。東武伊勢崎線の西新井駅西口に近い再開発地域「西新井ヌーヴェル」」のセントラルウェルネスタウン3階にあります。昔ながらの街並みが残る東口エリアとは異なる広大な空間が出現、電線もすべて地下化されていました。   

日清紡績工場跡地を使用した再開発は、六本木ヒルズとほぼ同じ面積(11.6ha)に、大型ショッピングセンター「アリオ西新井」などの商業施設、警察や病院などの公共施設、5000人以上の新住民が暮らす約2000戸のマンションなどで構成されています。

2010_08280113 セントラルウェルネスタウンの駐車場に車を停めてエレベーターで3階へ上がると「THE SPA西新井」の入口です。ちなみに階上の「セントラルウェルネスクラブ西新井」とともにセントラルスポーツが経営する施設で、千歳船橋にある「THE SPA成城」(成城の湯)と「セントラルウェルネスクラブ成城」と同じコンセプトで造られています。

2010_08280112 2年半前にオープンした新しい施設ですから全体に明るくきれいな印象と利用方法もほとんど同じ、利用料金も平日が1000円(土・日・祝は1200円)と割高な印象も共通です。テーマパークの入り口に似たゲートを通過したロビーに所狭しと商品が並べられ、その左右に男湯と女湯が配置されていました。   

2010_08280097 毎月5・10日は男湯と女湯が入れ替えになうようです。
 
 
 
 
 

2010_08280090 脱衣場にあるロッカーは落ち着いた配色が良いのですが閉じられたロッカーにタオルが吊るされているのはいただけません。日帰り温泉施設ではあまり見かけない光景です。タオルを乾かしているのでしょうか? 小さなビニール袋を持参すれば使用したタオルで他の衣類などを濡らさなくてすみます。 

2010_08280093 狭い通路を抜けた内湯は天井が低いのですが浴室内を上手くレイアウトしてあることで圧迫感はそれほどありません。地下1500mから湧き出すナトリウム-塩化物強塩温泉の「大師の湯」はやや黄色がかった透明で肌触りの良い湯です。飲用ではないと書かれていますがちょっとなめてみるとショッパイ味がします。湯温は41度とやや温め。

「大師の湯」の右隣は5種類のジェット水流が楽しめるジェットバスです。下から泡が出てくる座湯・足をマサージする座湯・腹部に強い水流が当たる立ち湯の3つはよくあるジェットバスですが、その他にも仰向け浮かびながら背中に水流を受ける泳ぎ湯・その逆にうつ伏せになって腹部に水流を受ける泳ぎ湯はちょっとしたコツが必要でした。全身をくまなくマッサージできる仕組みですが人気があって空き待ちが必要なのは残念。

外湯は半露天風呂の天然温泉で大変な混雑。それほど大きな浴槽ではありませんからアシカやトドが群れをなして日向ぼっこする風情です。人気が高くて空くのを辛抱強く待ったのは寝ころび湯、天然温泉が流れる床に寝ころんでいると背中の温かさと風で冷やされる腹部と胸部の温度差は何とも言えない心地良さです。低温やけどに気をつけるようにとの注意書きを気にしながら浴槽とねころび湯を交互に楽しみました。

内湯の「黄土サウナ」はいわゆるタワー型サウナで、壁面に用いた黄土が放出する成分が老化防止や解毒作用をもたらすそうです。

2010_08280101 4階の休憩所へ上がってみました。
 
 
 
 
 

2010_08280104 無料で利用できるのはテレビ付きのリクライニングシートが並ぶ「リラックスラウンジ」
 
 
 
 

2010_08280107 床暖房を用いた「サンゴオンドルルーム」は壁面に使われたサンゴから出るマイナスイオンが体の治癒力を高めるそうです。  
 
 
 

2010_08280102 他に気楽に横たわることができる畳敷きの「おくつろぎ処」、そして有料の整体・タイ健式・足つぼ・アモイ式と多彩なリヒーリング施設とエステティックが並んでいました。   
 
 

2010_08280110 3階の入口近くにはレストラン「ひだまり」やカフェがあり、同行者はいつものようにソフトクリームを求めています。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 3日 (金)

環七ドライブ 西新井大師

西新井大師は正式名が五智山遍照院總持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)である真言宗豊山派の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩と弘法大師。弘法大師がこの地で悪病治癒のため祈祷され十一面観世音菩薩像を彫られたことで、枯れ井戸から清らかな水が湧き出て悪病はただちに治癒したと伝えられるそうです。またお堂の西側にこの井戸があったことから西新井の地名が出来たとのこと。川崎大師と観福寺(かんぷくじ、千葉県香取市)とともに関東厄除け三大師に数えられます。

2010_08280051 石畳の参道を歩きました。両側に煎餅(せんべい)や草団子を売る店や割烹(かっぽう)店などが並んでいます。
 
 
 
 

2010_08280052 江戸後期に建立された二層の山門を入ります。両側に金剛力士像が並び、楼上には五智如来が安置されているそうです。
 
 
 

2010_08280062山門を潜った右手には鐘楼堂と水洗い地蔵があります。
 
 
 
 
 

2010_08280056左手には塩地蔵と六角観音堂・大日如来像が一列に並んでいます。塩地蔵はいぼ取りなどに霊験があると伝えられ、お堂内の塩をいただいて功徳が有った場合には倍の塩をお返しするところから、その名前が付けられたと説明されていました。
 

2010_08280057 六角観音堂
 
 
 
 
 

2010_08280059 観音像
 
 
 
 
 

2010_08280060 大日如来像は出羽三山の一つの湯殿山の大日如来を勧請して文政年間(1820年頃)に建立されたと説明されています。 
 
 
 

2010_08280075 さらに奥には三匝堂(さんそうどう、さざえ堂)・水子地蔵・不動堂・加持水(かじすい)が並んでいます。さざえ堂は三重塔のように見えますが内部は螺旋階段となっており、その右手にある加持水は仏の力添えで病気や災難を取り除くとする水とされます。上記した大師縁の井戸でした。  

2010_08280064 そして正面は昭和47年に建立された大本堂が聳(そび)えています。
 
 
 
 

2010_08280078 大本堂の西側には池があり、弁天堂が祀(まつ)られていました。この池を取巻くように大師像や伽藍(がらん)が建ち並んでいます。 
 
 
 

2010_08280086 弘法大師像
 
 
 
 
 

2010_08280077 稚児大師像
 
 
 
 
 

2010_08280081 如意輪堂、権現堂、奥の院が並んでいます。大本堂の右手奥には出世稲荷明神もありました。
 
 
 
 

2010_08280087 西新井大師の境内には、ぼたん・梅・桜・藤など春の花木が多数ありますが何れも季節外れで残念。なかでも奈良県桜井市の総本山長谷寺から株を移植されたぼたんは、寺社では関東一であり、つるが右巻きで花穂が長い特徴があるこの野田藤は樹齢700年と言われます。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 2日 (木)

環七ドライブ 青戸-西新井

2010_08280001 有史以来とも言われる今夏の暑さをやり過ごそうと自宅にこもっているうちにお盆から2週間が過ぎてしまいました。昨秋に逝去された恩人の墓参りに遅ればせながら出掛けました。首都高速3号渋谷線は相変わらずの渋滞が続きます。銀座・羽田方面の混雑が影響していたのです。 

2010_08280003 都心環状線と箱崎JCTの混雑はそれほどでもなく順調に両国JCTから首都高速6号三郷線を北上しました。旧安田庭園北隣の同愛記念病院に差し掛かる辺りから東京スカイツリーがよく望めます。
 
 

2010_08280009 墨田区役所を過ぎた向島辺りでは手に取るように見えます。東京スカイツリーのホームページによると8月28日現在で438mに伸びたそうです。 
 
 
 

2010_08280011 荒川を渡った堀切JCTを右に折れると再び東京スカイツリーの遠景が楽しめます。
 
 
 
 

2010_08280015 四つ木ICを出た国道6号(水戸街道)は上り方向が渋滞していますから戻りが気になります。青戸八丁目交差点で環状7号線(環七通り、都道318号)を横切りました。
 
 
 

2010_08280016 中川大橋を下りた新宿(にいじゅく)から先はノロノロ運転が始まりました。
 
 
 
 

2010_08280018 江戸川に架かる新葛飾橋を渡って千葉県松戸市に入ると外環矢切入口交差点と松戸ずい道の入口で右折車の長い列が伸びています。市川市や船橋市へ向う車でしょう。このポイントを通過するたびに右折レーンをもう少し長くするなどの改良を行って欲しいと思います。
 

2010_08280028 松戸市内の寺で墓参を済ませたあとは葛飾区の青戸八丁目交差点まで引き返して環七通りの内回りに入りました。ちなみに青戸八丁目交差点から南の環七は東京デズニーランドのシルク・ドゥ・ソレイユ・シアター東京へ行く時に走っています。
 

余談になりますが、環七通りは大田区東品川(都道480号との接続点)から葛西臨海公園のある江戸川区臨海町までを結ぶ都心の主要環状線です。戦前からの整備計画が東京オリンピックを契機にオリンピック道路として一気に整備されました。平和島と臨海町の間は東京湾岸道路(国道357号)を利用してお台場を経由すれば一周できる構成になっています。ただし厳密にはお台場と大井の間は国道357号が途切れていますから首都高速湾岸線(東京港トンネル)を利用する必要があります。また国道357号と環七の始点との接続は複雑なルートであるため環七大井埠頭交差点から入ると容易でしょう。

2010_08280030 青戸八丁目交差点の次の信号は亀青小学校東交差点です。亀青と変わった名前になったのは、明治時代中期に青戸学校と亀有学校が合併して亀青尋常小学校となった経緯があるそうです。退屈した同行者は「青亀小学校にすれば良かったのに!」と軽口をたたいています。 

2010_08280031 亀有駅近くで常磐線のガードを潜ります。綾瀬駅と取手駅の間は複々線化されています。
 
 
 
 

足立区に入った環七は大谷田橋交差点付近で大きく左に曲がって西へと方向を変えます。6差路の表示がありますが、地図で確認すると大谷田陸橋の下でたくさんの道が交差しており、7差路あるいは8差路にも見えます。大谷田橋交差点と言えばすぐ近くにある日帰り温泉の大谷田温泉「明神の湯」に立ち寄っています。

2010_08280033 東京メトロ千代田線(支線)北綾瀬駅脇のガードを通過。
 
 
 
 
 

2010_08280035 加平2交差点を過ぎると往(ゆ)きに通った首都高速6号を潜ります。
 
 
 
 

2010_08280036 国道4号との立体交差を超えれば西新井です。国道4号を北上した保木間(ほきま)には保木間の湯「じゃぽん」があります。
 
 
 

2010_08280038 東武伊勢崎線西新井駅脇の陸橋を越えると目的地の1つである西新井大師です。3年前にも参拝しようと訪れたのですが駐車場の空きを見つけられずに断念したことがありました。ちょうど昼時になりましたから先ずは腹ごしらえです。環七沿いにお気に入りのレストラン「木曽路」を見かけましたので迷わず入ることにしました。

2010_08280042 私は季節を先取りした松茸すき焼き定食、同行者は昼の御膳「涼風三昧」、デザートに「ふらのメロン」を選びました。すき焼きに載せられた薄切りの松茸が秋を感じさせてくれます。
 
 

2010_08280041同行者はバラエティに富んだ内容に「冷しゃぶには胡麻ダレを付けすぎない方が良いわ。あなたの好きな稲庭うどんを少し食べない?」と満足そう。
 
 
 

2010_08280045 ふらのメロンの美味しさにも二人とも大満足です。北海道の富良野特産のようですがなぜか平仮名です。そこで「ふらのメロンじゃないの?」と同行者の軽口がまた飛び出して・・・。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »