« 富士箱根の紅葉 日帰り温泉「仙石原温泉南甫園」 | トップページ | 小説「のぼうの城」(後編) »

2010年11月13日 (土)

小説「のぼうの城」(前編)

埼玉県行田市にあった戦国時代の忍城(おしじょう)を舞台とする小説「のぼうの城」(和田竜著)を読みました。埼玉(さきたま)古墳のある行田市(ぎょうだし)の地名と小説のタイトルに惹かれたのです。実在した成田長親(ながちか)が主人公として登場、豊臣秀吉の北条攻めという歴史上よく知られた合戦が物語の背景です。

2007_02250010のちに浮き城とも呼ばれた忍城は、明治6年に取り壊されて沼もほとんどが埋め立てられましたが、昭和63年に再建された忍城御三階櫓(ごさんかいやぐら)が埼玉古墳の北西約2km、行田市郷土博物館の隣にあります。写真は3年半前に訪れた埼玉古墳から見た忍城御三階櫓、左後方に霞(かす)んでいる山は浅間山のようです。
 
                           ◇

物語は羽柴秀吉の備中高松(現在の岡山県岡山市北区高松)の高松城攻めのシーンから始まる。秀吉が同行させた石田治部少輔三成(じぶしょうゆうみつなり)と大谷刑部少輔吉継(ぎょうぶしょうゆうよしつぐ)、長束大蔵大輔正家(ながつかおおくらたゆうまさいえ)を登場させて彼らの人となりを紹介する。

2009_05130011信長が本能寺で討たれた8年後、ほぼ天下を手に入れた豊臣秀吉は全国制覇のため、全国の諸将に北条攻めの軍令を文書で発する。対する北条方は戦国時代で最大級の城郭を生かして小田原城籠城(ろうじょう)を決める。この籠城策により長期戦を嫌った武田信玄と上杉謙信が落とすことの出来なかった堅城である。

ここで主人公の成田長親が登場する。成田家当主の甥(おい)でありながら百姓仕事が大好きな長親は暇さえあれば城下の田んぼに出向いて百姓の手伝いをしたがるのである。大きな体のためか生来の不器用さで百姓たちからは迷惑がられたが、身分差を感じさせないその性格は誰からも好かれて「のぼう様」と呼ばれている。これはでくの坊を意味する愛称だ。

2009_05130083 藤原鎌足から続く成田家当主、成田氏長(うじなが)は主家の北条方の指示に従うことを北条方の使者に伝える一方で、豊臣方にも降伏することを内通して、小田原城の籠城に手勢500を連れて参加する。(写真は石垣山城へ向う山道で撮影した小田原城の遠景) 
 

一方、豊臣秀吉が率いるおよそ50万の軍勢は北条方の数多い支城を一気に落として小田原城の重包囲網を完成させる。(右下の写真)

2009_05130025次いで秀吉は武州(埼玉県)における北条方の主要城である館林城(たてばやしじょう)と忍城の攻略を石田三成に命じる。北条家当主氏政(うじまさ)の弟、氏規(うじのり)が城主を務める館林城は三成が率いる2万強の軍勢に恐れをなして戦わずして開城してしまう。次いで忍城へ長束正家が軍使(ぐんし)として派遣される。 

病床に伏せる城代の父泰季(やすすえ)に代わって軍使に対面した長親は、強硬派の泰季が降伏も止むを得ないと指示したにもかかわらず、相手方を侮辱(ぶじょく)する三成軍の行動に加えて正家の相手を見下した態度が許せず、坂東武者の面目を守るために抗戦を通告する。これに慌(あわ)てた家老たちはこの発言を撤回させようとするが、日頃 卯建(うだ)つが上がらないと思っていた長親の心を知り、逆に抗戦へと雪崩(なだれ)を打って転向する。

一の家老正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで)は軍使の正家に向かって「重臣一同、重ねて諌(いさ)め申したが、この者存外頑固者(がんこもの)にございましてな。一向に言うことをききませぬ」「されば(と言ったあとに一拍おいて)、この馬鹿者の申す通り、戦うことといたした」と語気を強めた。狼狽(ろうばい)して意向を再度確かめる正家を見据えて長親は「坂東武者の槍の味、存分に味われよ」と言い切った。

副将の大谷吉継には石田三成の人選ミスと思われたが、この成り行きは三成の狙い通りであった。というのもこれまで奉行(事務方)として才覚を発揮してきた三成は武将として初めての武功(手柄)を立てたかったのである。

志気が一気に高まった忍城の大広間では長親が極度の緊張のため腰を抜かして家臣たちに神輿(みこし)のように担がれている。その時に泰季が死亡したことが知らされ、家臣たちの合意で長親は城代(総大将)に推される。

2007_02250005 丸墓山(まるはかやま、右の写真)に陣屋を建てた三成は忍城の侍たちの性根(しょうね)を試したのである。しかし忍城を守るのはわずか500人、三成軍はその40倍以上の圧倒的な勢力を擁(よう)するのだ。 
 
 

忍城での軍議は丹波が主導して行われる。軍事がさっぱり分からない長親は守りの各主将に全権を与えるしかない。「わしはどこを守ろうか」と言う長親に一同はぎょっとなるが、丹波は慌(あわ)てず、「総大将はおとなしく本丸におれ」と一喝(いっかつ)する。最初は渋っていた百姓たちも、「のぼう様」が総大将だと聞いて、ほとんどが籠城に加わり、士分百姓らを合わせて3740人の人数に膨(ふく)れ上がる。

そして夜が明けると戦闘が始まる。各々の守り口で行われる戦闘シーンは劇画のようにビジュアルな描写が続く。詳しい内容は省略するが、長束正家の感情に走った無策ぶりを突く丹波、大谷吉継の定石通りの戦法に手を焼く柴崎和泉守、戦略を学んだことで毘沙門天を自称する酒巻靭負(さかまきゆきえ)はあっけなく撤退することに。

2007_02250018しかし靭負勢を深追いした三成軍は統制を乱して大敗、城門を打ち破ってなだれ込んだ吉継軍は忍川の堰(せき)を靭負の手勢が切ったことで激流に呑(の)まれて全滅してしまう。(続く)

|

« 富士箱根の紅葉 日帰り温泉「仙石原温泉南甫園」 | トップページ | 小説「のぼうの城」(後編) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 小説「のぼうの城」(前編):

« 富士箱根の紅葉 日帰り温泉「仙石原温泉南甫園」 | トップページ | 小説「のぼうの城」(後編) »