行基菩薩と観音埼灯台
横浜横須賀道路を終点の馬堀海岸ICまで走り、国道16号に出てからは馬堀海岸を走水方面へ向い、観音崎京急ホテルが見えると国道16号も終点です。国道16号は首都圏を環状に結ぶ道路で千葉県富津市(富津岬の入口)まで続いています。
県道209号となった道路を進むと観音崎レストハウス。その向い側にある駐車場に車を停めて案内図に従って観音埼灯台を目指しました。これまで観音埼灯台をはじめとする三浦半島の灯台は2-3度訪れていますが、今回は行基菩薩縁の地として訪ねることにしました。ちなみに崎と埼の違いは埼玉県の地名の由来で説明しています。
観音埼灯台へは右手の市道でトンネルを抜ける反時計回りでも行けますが、行基菩薩縁の場所は海沿いですから観音崎の石碑がある左手の平坦な散策路を歩きました。丘の上に見えるのは観音埼灯台ではなく、航行管制・航行情報提供の業務を行う東京湾交通センター(海上保安庁の機関)です。
磯釣りをする人たちの沖合に第一海堡(かいほ)が見えます。第一海堡は東京湾を外国の戦艦から守るために1890年(明治23年)に人工島に築かれた東京湾要塞の一つです。上空から見るとブーメラン型をしています。1923年(大正12年)の関東大震災で被害を受けて復旧する際に大改造されたそうです。富津岬を訪れた時にはもっと間近(1km余りの距離)に見えました。
右手の崖に大きな海蝕洞(かいしょくどう)がありました。コンクリート製の立派な案内板には洞窟の由来が説明されています。『聖武天皇の御代天平13年(741年)の春、行基菩薩は諸国修行の途中ここに来られ、この洞窟に棲んでいる大蛇が漁民や運漕(筆者注;船で貨物を運ぶ)の人々を苦しめているのを聞かれ、大蛇を退治してその霊を鵜羽山権現として祀られました。(中略)この洞窟の沖で入水して海を鎮められた弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと、日本武尊の妃)を十一面観音(船守観音)として刻まれ(近くの走水神社の側に)安置され・・・』と。もう一つの案内板には『江戸時代には観音堂(観音寺)が創建されましたが、明治13年(1880年)に陸軍の砲台が建設された時に少し西の鴨居地区へ移設されたそうです。』とも。ちなみに観音崎の地名はこれに由来し、海上安全の霊地と伝えられます。
急な石段を上って観音埼灯台を目指すと寒風で冷えた身体が汗ばんで来ました。道標の右後方に見えるのは第2海堡です。
緩やかなスロープとなった舗道が崖崩れ防止工事のため極端に狭くなっていました。
観音埼灯台に到着しました。浦賀水道を照らす高さ19mの中型灯台は、純白の八角形で、日本の灯台50選に選ばれています。明治2年(1869年)にフランス人ウェルニーによって建設されて点灯した日本最初の洋式灯台でしたが、関東大震災など2度の地震で倒壊したため、現在の灯台は3代目に当たるそうです。協力費として200円を支払うと灯台内部と資料展示室が見学できます。
高浜虚子の句碑「霧いかに 深くとも嵐 強くとも」
灯台の最上部には巨大なフレネルレンズ付きの灯器がレールを使った免震構造(緩衝装置)の上に載せられていました。何れの方向にも40cmの幅でスライドできると説明されています。
灯台から出て浦賀水道を眺めていると外洋へと向かう何やら不思議な船の航跡が続いていました。真っ黒な船体は他の船と明らかに違います。目を凝らして見ると潜水艦でした。浮上航行していますが国旗(軍艦旗)を上げていません。そのため何れの国のものか不明ですが場所からみて海上自衛隊あるいは米海軍のいずれかでしょう。
浦賀水道を出た館山方面には釣船と思われる無数の船が航行しています。
目を北方へ転じると約6km先にある第一海堡が先ほど海岸で見た時よりも近くなったように思われます。その先には東京湾アクアラインの風の塔が第一海堡と重なるように位置しています。受付の女性から観音崎公園へも足を伸ばすように勧められましたが、例によって「梯子(はしご)ドライブ旅」が好きな私は次の目的地へと急ぎました。(続く)
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