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2011年2月に作成された記事

2011年2月28日 (月)

長岡京跡

奈良で玄昉僧正縁の地を巡った2日後に京都へ向かいました。京都市内ではなく南隣の向日市(むこうし)と長岡京市です。前者には紅葉のシーズンに時々訪れる光明寺があり、後者では細川忠興とその妻ガラシャで知られる勝竜寺城址と山崎の合戦時に明智光秀が本陣を置いた場所などを訪れています。

今回は奈良時代から平安時代へ移行する時にわずか10年間だけ都が置かれた長岡京の跡を巡ります。短命であった長岡京は幻の都と呼ばれたこともありましたが、発掘が進んだ現在は平城京や平安京とほぼ同じ規模(東西約4.3km、南北約5.3km)の都が造営されたことが徐々に分かってきました。向日市に政治の中心地である大内裏(だいだいり)が置かれ、長岡京市に経済活動の中心であった東西二つの市(いち)があり、都の西南の乙訓郡大山崎町には山崎津(やまざきのつ)、東南の京都市伏見区淀には淀津(よどのつ)が築港されました。淀津はかって存在した巨椋池(おぐらいけ)の西端の港で伏見区納所町・淀美豆町・淀町木津・淀大下津町と諸説があるようですが、何れにしても現在淀と呼ばれる地域(現在の京都競馬場周辺)にあったようです。

平城京(へいぜいきょう)から長岡京への遷都を決めたのは桓武(かんむ)天皇です。その背景は当ブログが「勝竜寺城址」「行基と道鏡」の記事で簡単に紹介しています。河川を利用した物資の水上輸送に向かない平城京の地理的な弱点、天智天皇流へ皇統が戻ったこと、奈良の仏教勢力の影響を弱めようとしたこと、などの理由を指摘する説があります。

例によって前置きが長くなりましたので本題に入ります。国道1号の赤池交差点から府道202号で西へ向かいました。長岡京跡へ向かう前に久我橋袂(たもと)の堤防に車を停めました。桂川の堰堤(えんてい)を見るためです。1kmほど下流で桂川と合流する鴨川には龍門堰(りゅうもんせき)と呼ばれる落差工(川の流れを遅くする施設)が15箇所もあり、魚の遡上(そじょう)を妨げているとして、その改良工事が行われると旅先で聞いたからです。龍門堰はちょっと寄り道になりますから桂川に架かる久我橋のすぐ下流にある1号井堰の方に立ち寄ることにしたのです。鮎などが遡上(そじょう)するために造られたられた立派な魚道が2つ見られます。
 
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阪急京都線を潜った先の交差点を左折して大極殿通に入りました。400mほど南の鶏冠井町(かいでちょう)に長岡宮大極殿(だいごくでん)がありました。
 
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大極殿とその後殿である小安殿の跡は史跡公園として整備され「大極殿公園」と呼ばれていました。
 
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大極殿(天皇の御座)・内裏(天皇の住まい)・朝堂院(役所)などの施設は聖武天皇が造営した後期難波宮(なにわのみや、大阪市)から移築されたものと考えられています。石碑が2つ向かい合うように建てられていました。右手の一際大きな「長岡宮城大極殿遺址紀念碑」は大極殿の北側(現在の北大極殿公園)で明治28年(1895年)に建てられたものが昭和30年代の発掘後に現在の場所へ移されたようです。もう一つは昭和40年(1965年)、日本初の史跡公園に指定された時の記念碑と思われます。
 
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北方から見た長岡京の俯瞰図がその規模の大きさを示していますが地理的に窮屈な印象があり、風水の条件も満たしていないように思われます。
 
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長岡宮(なかおかぐう)は長岡という地名にちなんで名付けられたことと、長岡という地名は向日神社のある低い丘陵を中心とする一帯を指すこと、昭和36年(1961年)の発掘調査で大極殿跡が確認されたことなどが説明されています。北側にある小安殿は天皇の休憩施設で、後殿とも呼ばれます。
 
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次ぎに訪れたのは阪急京都線のガード(交互通行)を潜った東へ北真経寺の西側にある大極殿回廊跡
 
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現在は広い公園になっています。その礎石がきれいに並んでいますが最近再現されたもののようです。
 
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阪急京都線のすぐ東側(西向日駅近く)にある西向日公園には長岡京跡の大きな石碑が立っています。朝堂院東第四堂跡の説明がありました。ちなみに朝堂院とは高級官僚が執務を行った役所のこと。
 
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西向日駅から東へ向かうとタイル舗装された桜並木の住宅地に入りました。立派な邸宅が立ち並ぶ先のT字路に築地(ついじ)跡を見つけました。80mほどの築地が残されています。当時は幅10m・高さ1.7mの土塁の上に土を固めた土塀(幅2.1m・高さ1-1.2mの築地塀)が築かれていたことと内裏の回廊と一直線をなしていることが説明されていました。古代のものでは平城宮と法隆寺などに残るだけの珍しいもので、国の史跡に指定されています。
 
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遊歩道の反対側には西濠跡の標識も見られました。(続く)

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2011年2月23日 (水)

白毫寺と天然湧出温泉「ゆららの湯」

新薬師寺の東門脇にある神像石(かむかたいし)は光文天皇(大友皇子)を顕彰するためにその曾孫である淡海三船(おうみのみふね)公が勧請したものと由来を説明する案内板がありました。西隣にある南都鏡神社の宮司さんが書かれたものです。この神社は遣唐使派遣の祈祷所であるとともに新薬師寺の鎮守でしたが、橘諸兄政権で権力を握った吉備真備と玄昉僧正に反発して大宰府(現在の福岡県大宰府市)に左遷されたことを恨み反乱を起こして処刑された藤原広嗣(ひろつぐ)を祀る唐津鏡神社を勧請して祭神としたと伝えられます。宿敵の玄昉も筑紫観世音寺別当として左遷された翌年に死亡したことが広嗣の祟りであると人々が恐れたことが背景にあるようです。
 
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車を発進させようとすると白毫寺(びゃくごうじ)への道案内が目に入りました。春日山に連なる高円山(たかまどやま)の山麓にあって、境内から奈良盆地が一望できる景勝地に建つ寺です。予定には入れていなかったのですが、奈良の町並みを展望してみたくなって狭い散策路を慎重に走りました。駐車場に車を停めて「ながめの良い花の寺」と表示される石段の参道を上ります。ちなみに白毫の意味は仏の眉間にあって光明を四方に発するとされる長く白い巻き毛のことで、仏の智慧(ちえ)に例えられます。
 
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石段は折れ曲がってさらに高みへと続くのが見えました。四月頃には椿の花が、そして秋には両側に萩が咲き誇るそうです。
 
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山門の手前で来し方を振り返ると木立と住宅の間に町並みが広がりました。
 
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山門を潜ると本堂が見えます。
 
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石段を登りきって振り返ると奈良盆地が一望できました。
 
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訪れたのはまだ月中旬ですから境内に花はほとんど見られません。
 
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駐車場で待つ同行者が気になって急ぎ足で戻り、次の目的地である日帰り温泉を目指しました。今回選んだのは天然湧出温泉「ゆららのの湯 奈良店」です。3年前に奈良を訪れた時には同じ経営の押熊店に立ち寄っていますカーナビが示す経路はほぼ一直線に真西を指していましたが、実際走って見ると路地のような狭い道が続くため運転に神経を使います。JR関西本線の踏切を過ぎると県道122号はようやく支障なく走行できる道幅となり、佐保川を渡った県道沿いにある「ゆららの湯 奈良店」の広い駐車場はまだ午後3時というのにすでに半分以上が車で埋まっていました。温泉の少ない奈良県北部では貴重な施設として人気があるようです。押熊店の建物は色使いに特徴がありましたが、奈良店の方はいたって普通のスーパー銭湯の印象があります。
 
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この日は第3水曜日(ゆららの日)で入浴料の600円が500円に割引されたのは幸運でした。2階まで吹き抜けになっているロビーの左手は食事処「ゆらら亭」で、右手には受付があります。
 
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その先の通路で男湯と女湯に別れます。
 
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脱衣場から遠赤外線サウナ「日だまり」脇を通って入った内風呂も高い天井が解放感を与えます。左手に洗い場があり、中央の一段高くなった場所に曲線を多用したあわあわ風呂・ジャグジーバス・シェイプアップバス・電気風呂・ジャグジーバスが並び、右手には水風呂に続いて3日ごとに変わるお楽しみ湯がありました。この日は「薬湯どくだみの湯」で、あの独特の匂いを予想しましたが、緑色の湯はそれほど刺激臭はありません。その奥にはスーパージェット風呂が配置されて風呂の構成は多彩ですが、いずれも白湯でスーパー銭湯としては平凡です。
 
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露天エリアに移るとミストサウナの霧がくれと麦飯石パワーサウナ、一番奥には足ツボ湯と打たせ湯のうぐいすの滝(名前に似合わず強烈)があり、その右手にはこの店の売りである滝のように湯が流れ落ちる「天然湧出温泉朱雀の湯」、その隣には足湯・千峰の縁台が続きます。私はもちろん朱雀の湯を中心にはしご湯。寒い戸外を敬遠する人が多いようで岩風呂温泉を独占するように楽しみました。

舐(な)めるとかなりショッパイ味のする天然温泉の泉質はナトリウム・カルシウム・塩化物・炭酸水素塩温泉(低張性・中性・低温泉)、泉温は32.9度と表示されています。

2階に上がってみました。休憩エリアの他に岩盤浴・アカスリルーム・理容美容コーナーなど有料施設が配置されています。同行者は帰り際に駐車場脇の売店でみかんとバナナなどを買い求めて、その安さに大満足していました。

<同行者のコメント> 商店街に興味を持ち始めた旦那さまは奈良でもにぎやかな商店街を案内してくれました。でもその後はいつもどおりにお寺巡りになりました。昔の偉いお坊さんの話を得意気にしていますが私にはチンプンカンプンです。

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2011年2月21日 (月)

新薬師寺

興福寺を後にして次の目的地を目指しました。JR東海のテレビCMにも登場する新薬師寺は、興福寺から直線距離で約1.4kmと近く、志賀直哉旧居を経由する散策コースを歩くこともできます。新薬師寺の名前は3年前に訪れた同じ奈良の薬師寺との関係を連想させますが、薬師寺は興福寺と同じ法相宗(ほっそうしゅう)の寺であり、新薬師寺は華厳宗(けごんしゅう)の寺ですから、2つはまった関係がありません。この場合の「新」は新大阪駅や新神戸駅など新幹線の駅のように「新しい」という意味ではなく、「霊験あらたか」の意味があるそうです。

新薬師寺のhpを参照してみました。光明皇后が聖武天皇の病気平癒(へいゆ)を願って新薬師寺と七仏薬師像を蔵立したこと、香薬寺(こうやくじ)とも呼ばれたこと、9間(柱と柱の間が9つある)の仏殿には七仏浄土七(七体の薬師如来)が祀られていたことが東大寺の記録に残されている。また完成当時の新薬師寺金堂には七組の薬師三尊像(薬師如来像と日光・月光両菩薩)を中心として、それらを囲む十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)が安置され、金堂の両側には東塔と西塔が並び、講堂・鐘楼・経蔵・僧坊・食堂のある七堂伽藍(がらん)がある壮大な寺院であった。

しかし創建から33年後の宝亀11年(780年)に落雷のため建物のほとんどが焼失、残った金堂も平安時代に倒壊、他のお堂が金堂(現在の本堂)として転用された。本堂内の薬師如来坐像は平安初期の制作であり、周りの十二神将像は奈良時代の作であるが他の寺から移したもの。鎌倉時代に解脱上人(げだつしょうにん)と明恵上人(みょうえしょうにん)により再興され、東門・地蔵堂・鐘楼(しょうろう)が建立(いずれも重要文化財)されて、現在の新薬師寺の形が出来上がったなど。

車がやっと一台通過できる狭い道を抜けて新薬師寺南門前の無料駐車場(数台分のスペース)に車を停めました。拝観料は興福寺と同じ600円。上記の予備知識を持って南門を入ります。
 
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天平建築の特徴を持つ国宝の本堂が端然と存在感を誇示する前には室町時代に造られた石灯籠が立っていました。
 
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右手に立派な鐘楼が聳(そび)えています。
 
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左手には小さな地蔵堂が鐘楼と向かい合うように建っています。
 
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左奥の建物が気になって本堂に参拝する前に入ってみました。
 
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香薬師堂と庫裏(くり)が織田有楽斉の庭に面して並んでいます。蝋梅(ろうばい)に目が留まりました。
 
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庭を一周して庫裏側の門を出ました。境内では梅・桃・桜・山茶花など四季の花が楽しめるようですが、萩の寺として知られているようです。

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地蔵堂寄りに会津八一(やいち)氏の歌碑「ちかづきて あふぎみれども みほとけの みそなはすとも あらぬさみしさ」が立っています。
 
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歌碑の前が本堂への入り口になっていました。残念ながら本堂内は撮影できません。
 
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本堂内は薄暗くて目が慣れるまでに少し時間がかかりました。本尊の薬師如来坐像を囲む十二神将立像が外向きに様々な姿勢で並んでいます。ちなみに昭和6年(1931年9に補作された波夷羅(ハイラ)大将を除く11体が日本最古のものとして国宝に指定されています。いずれも塑像(そぞう)とされますから心木の周辺に土を塗りつけて造られたものです。

反時計回りに進みました。「迷企羅(メキラ)」「安底羅(アンテラ)」「因達羅(インダラ)」と不思議な名前が各大将に付けられています。十二神将は十二支の守護神でもあり、それぞれ「とり」「さる」「み」であることが分かりました。十二神将は薄暗い本堂内ではほとんど色彩を感じさせませんが、制作された当時(天平時代)には極彩色に彩られていたそうです。そのイメージを表現したものが本堂の隅に置かれていました。

正面から見る薬師如来坐像(国宝)は平安初期の一木(いちぼく)造り、金色に輝く光背(こうはい)には6体の小さな薬師如来坐像があって、本尊と合わせて七仏薬師となっています。薬師如来は名前から想像できるように現世の悩みや苦しみ、特に病苦を救う医王如来として信仰されています。ちなみに私は健康を感謝して神奈川県伊勢原市の日向薬師に参拝することを常としています。(続く)
 
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2011年2月20日 (日)

奈良 興福寺と周辺の商店街

2月中旬の連休は降雪が予想されましたが予定された関西地方へのドライブ旅に出かけました。早朝に出発して東名を豊田JCTまで走り、伊勢湾岸道路の刈谷ハイウェイオアシスの駐車場で午前7時になるのを待っていると予報通りに雪が降り始めました。セントラルプラザで朝食を終えて横風の強い伊勢湾岸道路を無事に通過、東名阪に入ると相変わらずの渋滞があり、今回は雪が舞って視界の悪さが加わりました。新名神高速道路に入ると一面の雪景色、路面は黒く見えますが氷結しているようです。
 
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足元の悪い数日間は所用に専念、雪が溶けるのを待って奈良を訪れました。最初の目的地は興福寺(こうふくじ)です。到着した駐車場で告げられた料金(夕方5時まで)は1000円と高いのですが、昨秋の経験から他の駐車場は混雑していると思われますから、空きスペースの多いこの駐車場に決めました。
 
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目当ての国宝館を訪れる前に三条通りの坂道を下りました。半世紀前に修学旅行で訪れた記憶がある猿沢池の脇を通り、アーケードのある「もちいどの(餅飯殿)センター街」と「ひがしむき(東向)商店街」を過ぎ、「小西さくら通り商店街」との交差点に出ました。
 
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同行者は右手前方にある「ぜいたく豆本舗」の看板が架かる古い店舗が気になったようです。ちょっと覗(のぞ)いてから、「また寄れる?」と釘を刺します。
 
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人々が行き交う小西さくら通りに入りました。近鉄奈良駅前まで続くこの商店街は道幅が狭くてアーケードもありませんが石畳の両側に趣のある店が並んでいます。
 
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右手の路地が気になって入ってみました。
 
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その路地はすぐひがしむき商店街に行き当ります。この商店街は平城京の外京六坊大路の跡で、興福寺に配慮して道の西側だけに人家があったことで東向町という町名が付けられたのだそうです。
 
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この商店街で一際目立つのが奈良漬けの山崎屋本店です。
 
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商店街の一角で奈良大和路の仏像群が写真で説明されていました。
 
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三条通りのぜいたく豆本舗へ戻った同行者は気に入った菓子を竹製の買い物かごに詰め込んでいます。私は裏手にあるギャラリー「上(かみ)の蔵」を覗(のぞ)いて、大漁旗や幟(のぼり)を再利用して渋染めする「和布の服」についての説明を製作者から聞きながら、その作品群を興味深く見て回りました。残念なことに撮影は不可でした。
 
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三条通りを興福寺方面へ戻る途中、同行者はもちいどのセンター街入口にある中谷堂(なかたにどう)でよもぎ餅も買い求めました。この店にも目を付けていたようです。
 
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私は三条通りの反対側にある奈良県里程元標に興味を惹かれました。明治時代の奈良県内諸街道の起点で、昨年御高札場の前に復元されたそうです。ちなみに元の設置場所は道の反対側(コンビニの角)だったとのこと。
 
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その先に西国三十三所観音霊場第九番札所「南円堂」(重要文化財)への長い階段があります。藤原一門の繁栄を祈念するために藤原不比等(ふひと)が飛鳥京の厩坂寺(うまやさかでら)を移して建立した興福寺内にあるこの八角円堂も今回の旅の目的地の一つなのです。
 
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南円堂脇の売店で女性店員さんに「僧正(げんぼうそうじょう)の木彫像を拝観できますか?」と訊(き)くと、奥に下がって確認してくれ、現在は国宝館に展示されていると教えてくれました。玄昉は奈良時代の法相宗(ほっそうしゅう)の僧で義淵に師事、留学僧(るがくそう)として唐に学び、同じ時に留学生(るがくしょう)であった吉備真備(きびのまきび)と18年後に帰国。聖武天皇の母・藤原宮子の病を祈祷で回復させて出世、真備とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)政権で隆盛を極めますが、藤原仲麻呂が勢力を持つと筑紫国(現在の福岡県)に左遷され、翌年にその地で没した人物。人格に問題があると批判された玄昉は後世に悪人とされた弓削道鏡と人物像が重なります。実は松本清張著「眩人」(げんじん)を読んで最近興味を持つようになった人物なのです。ちなみに当ブログでは弓削道鏡行基菩薩の記事で玄昉に触れています。
 
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法相宗大本山の興福寺では中金堂(ちゅうこんどう)の再建工事が進められています。写真は中門基壇(手前)、国宝の五重塔と同じく東金堂(とうこんどう)。
 
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リニューアルされて昨年3月に再公開された国宝館(入館料600円)はガラス越しではなくオープン展示で仏像群を間近で見られます。中央にある千手観音菩薩立像の周囲を一周した正面にある阿修羅像(あしゅらぞう)など八部衆の近くに展示された木像法相六祖坐像のなかに玄昉僧正木彫坐像がありました。出世欲の強かったと伝えられる玄昉僧正の木像(ひとりだけ合掌している)は痩(や)せて眉の下がった表情が弱々しい印象を与えます。松本清張氏は眩人の導入部で、当時の彫刻師が写実的であったからこの坐像は実物とかけ離れたものではないと考えてよいが、この貧相な小男がどこにあのようなエネルギーを持ち合わせていたのか不思議な気がすると述べています。

 
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国宝館では写真撮影が禁止されているため、三面六臂(さんめんろっぴ)の
阿修羅像をはじめとする多数の国宝や重要文化財などは興福寺のhpを参照してください。(続く)

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2011年2月10日 (木)

仙台 一番町商店街を歩く

青葉通りを仙台駅方面へ200mほど戻りました。青葉通りを跨(また)ぐように一番町のアーケード商店街「サンモール一番町」が伸びています。まず右手(南)方向へ歩いてみることにしました。テントの露店が両側に並んでいます。
 
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黒板を利用した立て看板に「マルシェ・ジャポン せんだい今週の出店者」と書かれています。週替わりで店舗が出店するようで店舗の名前も詳しく表示されていますが、マルシェ・ジャポンの意味が分かりません。
 
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少し先にマルシェ本部がありました。「東北の味が集まる」や「農林水産省マルシェ・ジャポン・プロジェクト」の言葉が見えます。係の女性に毎日開催されているのかを聞くと、これまでは金・土・日だったものを今は木曜日から週4日間開催しているとの答えが返ってきました。青葉通りから南町通りまでの区間が仮設店舗で埋まっていました。その先はアーケードが途切れ、さらに南下すると東北大学の片平キャンパスへ至る様です。ちなみにもらったパンフレットによると北は札幌から南の福岡まで全国に12箇所あるようです。
 
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反対側の店舗を覗(のぞ)きながら青葉通りまで戻り、反対側(北側)のサンモール一番町も歩きました。
 
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アーケードから吊り下げられたオブジェに太平洋の地図・帆船と人物像が描かれています。日本とメキシコを強調しているように見えます。
 
 
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右手のデパート藤崎の前で津軽三味線披露と表示された仮設舞台で係の人たちが準備をしています。民謡の歌い声がスピーカから流れていますが次回演奏は午後1時から。残念ながら仙台を訪れた重要な用件が他にあるため、それまでここで待つことはできません。寒さを避けて藤崎の店内に入りました。入り口近くにあるエスカレーターを見で驚こました。来店客が皆右側に並んでいるのです。この習慣は大阪とその周辺だけのはずです。どうして仙台でも右側!??? そしてもう一つ驚いたことがありました。店員さんが従業員専用エリアと売り場を往き来するときに一礼をすることです。しかもその場所にはラインが画かれています。さすが東北一のデパート。
 
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サンモール一番町は中央通り(マーブルロードおおまち)との交差点「一番町アーケード大町広場」までです。

 
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北方向へ直進すると「ぶらんどーむ一番町」に入ります。アーケードの天井を見上げると大きな星のオブジェがいくつも吊り下げられています。
 
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七夕で有名な仙台のイメージを演出しているのでしょう。
 
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アーケードを抜けると広瀬通りに出ます。写真は西公園方面を撮影。
 
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一番町商店街は一番町四丁目を経て定禅寺通りまで続いているようです。
 
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振り返って見るとVLANDOMEの表示がありました。
 
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アーケードはここまでですから青葉通り方面へ引き返すと大きな時計が目に入りました。時計の下に人形のようなものが置かれています。
 
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近づいてよく見ると3人の人物が向かい合っています。時計と人物像を支える柱には「支倉常長渡欧之像」と書かれています。支倉常長(はせくらつねなが)は伊達政宗の命を受け、メキシコとスペインを経由してローマ法王に拝謁した人物です。先ほど見たアーケードのオブジェもこの渡欧の船旅を表していたのです。牡鹿(おじか)半島を金華山方面へドライブしている時に支倉常長が出航した月ノ浦(現在の石巻市月浦港)を通過したことを思い出しました。ちなみに同時代のライバルであった蒲生氏郷(がもううじさと)も家臣たちをローマに派遣していることを紹介しています。
 
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仙台市中心部の散策はタイムアップとなりましたのでここが終着点。

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2011年2月 9日 (水)

晩翠草堂を尋ねる

仙台駅から青葉通りを晩翠草堂交差点まで歩いた目的は交差点に近くにある晩翠草堂(ばんすいそうどう)を見学するためでした。名前から分かるように土井晩翠(どいばんすい)氏が晩年を過ごした旧住居(現在は市が管理)です。同氏は「荒城の月」の作詞家として知られる仙台市出身の英文学者。晩翠草堂は青葉通り沿いに立ち並ぶビルに挟(はさ)まれてひっそりと建っていました。

 
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雪が残る塀の前には大きな石碑に「天地有情」と書かれています。1899年に発行された同氏の代表詩集の題名です。ニ高同窓会が建てた碑のようです。
 
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門を潜ると左手に庭と晩翠草堂の建物が見えます。右手前に井戸と流しが見えます。
 
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玄関は終戦後の建物らしい風情です。郵便受けは何時のものでしょうか。
 
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立て付けが気になる戸を開けて入ると管理人さんが奥へ案内してくれました。最初の部屋には「晩翠賞の五十年」など同氏に関連した出版物が展示されています。許可を得て内部の写真を撮影させていただきました。
 
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左手にある仏壇に手を合わせました。大きな写真が飾られています。手前の小さめの写真は説明がありませんが土井晩翠氏のお父さんかもしれません。
 
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奥の間(座敷)には金属製のベッドが置かれています。実際に使用されたものであると説明を受けました。
 
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その手前には幅の広い下駄が置かれています。これも使用されたものとのこと。下駄の幅が広いのは当時のお洒落!?
 
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2つの部屋の間の鴨居には「詩聖逝く」の額が掛けられています。詩人の白鳥真吾氏が晩翠氏の死を悼(いた)んで詠んだ追悼の詩でした。
 
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二高(第二高等中学校)から東京帝国大学英文科に入学、旧制中学の英語教師となり、30歳で母校の第ニ高等学校教授に就任した翌年から3年間英国留学、東北帝国大学の講師を兼任、1934年にニ高を定年退職して名誉教授となったことが略年譜から読み取れます。

管理人の方がラジカセで土井晩翠氏を紹介紹介する音声ガイドを聞かせてくれました。そして晩翠氏と晩翠草堂についても詳しい解説を管理人さんから聞きました。裕福な地主の長男として生まれたこと、戦時中の空襲で3万冊もあった蔵書を土蔵に避難するも焼夷弾(しょういだん)の直撃を受けてそのほとんどを失ったこと、戦後の農地解放で財産をほとんど失ったこと、教え子や地元民などが協力して晩翠草堂を敷地内に建てて贈ったこと、青葉通りが拡幅される前の敷地は現在の倍ほどあったことなど。

土井晩翠氏の本名は土井林吉(つちいりんきち)で晩翠は東京帝国大学時代からの雅号(がごう、平たく言えばペンネーム)です。東京帝国大学の先輩で同じく英国に留学した夏目漱石氏とよく似た経歴があります。ちなみに荒城の月のモデルとなった城は会津若松城(鶴ケ城)が有力のようです。瀧廉太郎氏がこの曲の構想を練ったと言われる大分県竹田市の竹田城(岡城)址や地元仙台の青葉城(仙台城)にも句碑などがあります。実際はこれら複数の城址の印象が折り込まれているのかもしれません。

勝常寺(しょうじょうじ)は福島県にある真言宗豊山派の寺院で会津中央薬師堂とも呼ばれています。平安時代初期(9世紀)に造立された国宝の木造薬師如来と12体の仏像を晩翠氏は十三像と呼んだのでしょう。
 
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土井晩翠氏の著作がガラスケースに収納されています。
 
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戦災で焼失する前の自宅における土井晩翠氏と八枝夫人の写真です。木造3階建てのモダンで趣のある建物だったと説明されています。ちなみの八枝夫人は高知県出身で、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)在学中に兄の先輩であった土井晩翠氏に出会って結婚しています。夫が留学中は津田英語塾(現在の津田塾大学)で英文学を学び、後に随筆家になられたそうです。
 
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展示された品々を一通り見学し終えた私は庭の長い置き石が気になりました。管理人さんに質問すると左手の円弧を描く飛び石(3番目の写真)は戦前のものだが右側の長い石などは戦後のものだと答えてくれました。
 
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まだ雪が残る通路を歩いて晩翠草堂を後にしました。
 
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次は一番町へ向かいます。(続く)

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2011年2月 8日 (火)

仙台の青葉通りを歩く

所用で早朝の東北新幹線に乗りました。東京駅を出た「はやて」は北を目指して快調に走り、福島県に入って新白河駅を通過するころには車窓に一面の銀世界を映し出します。久し振りの東北行きは日帰り旅行のため高速道路ではなく新幹線を利用したのです。目的地の仙台ではどれだけ雪が積もっているのだろうかと考えているうちに宮城県に入って・・。何と言うことか雪がだんだん少なくなって仙台の市街地に「はやて」が入る頃には雪景色は見られなくなってしまいました。

 
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JR仙台駅から横断歩道橋を渡って青葉通りに入ります。青葉通りはケヤキ並木で知られますが、戦後になって今の形になった仙台市では比較的新しい目抜き通りです。青葉城(仙台城)の大手門から真っ直ぐ伸びて青葉通りと並行する大町通り(中央通り)は仙台駅で行き止まりになっていますが、昔はさらに仙塩街道として多賀城・塩釜・松島・石巻へと続いていたそうです。当ブログではこの中央通りと奥州街道(現在の国分通り)の交差点にある「芭蕉の辻」と道標を紹介しています。仙台市にはさらに北方を東西に伸びるケヤキ並木の定禅寺通りと青葉通りに近いイチョウ並木の広瀬通り、そして南北に伸びる駅前通り・東五番町通り・東二番丁通り・晩翠通り・西公園通りが碁盤の目のように交差しています。
 
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並木の話で脇道へ反れてしまいました。青葉通りに戻ります。雪がほとんど溶けているといってもやはり寒風は肌を刺しますから、少しでも日差しのある右側の歩道を歩きました。愛宕上杉通りとの交差点(中央1丁目交差点)脇に「ガス燈のある五番街」の石碑とガス燈の実物があります。「レモン色の秘密」と題してガス燈の光はバーナーで熱せられたマントルという発光体の放つ光であり、今でも夜になるとタイマーで自動的に点灯(点火)される説明されていました。
 
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交差点で南方面(愛宕上杉通り)と西方面(青葉通り)を眺めました。
 
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交差点を横断しても駅前と同様に広い歩道が印象的です。
 
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青葉通り駅の表示を見掛けました。仙台と石巻を結ぶJR仙石線の地下駅でした。地下道でJR仙台駅まで行けるようです。
 
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東二番町通りを過ぎた東北最大のデパートである「藤崎」の前で歩道の幅が急に狭くなりました。目の前で行われている地下鉄工事のために削られたのでしょう。
 
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美しいケヤキ並木が続いています。
 
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本荒町(もとあらまち)の標識があります。仙台の開府当時、伊達政宗と共に岩出山の新町から移ってきた商人の町は荒町と改名されましたが、後にその町は奥州街道沿いへ移されたことで本荒町と変わり、現在は一番町と大町の一部になっています。
 
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晩翠通りとの交差点(晩翠草堂交差点)に差し掛かりました。晩翠(ばんすい)の名はもちろん土井晩翠(本名はつちいと読む)にちなんで付けられたものです。写真は晩翠通りの北方面を撮影しました。中央分離帯にはイチョウ(銀杏)、歩道にはエンジュ()の並木が見えます。ちなみに左手に写っている緑色の建物は全国に50店舗以上を展開する博多ラーメン「一風堂」の仙台青葉通り店。
 
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青葉通りの方面を振り返ると次の目的地が並木越しに見えました。(続く)

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2011年2月 3日 (木)

三浦海岸ドライブ

野比(のび)交差点を過ぎると国道134号は海岸線に出ます。断続的に車の渋滞が発生するのは交通信号の連携が良くないためかもしれません。三浦海岸交差点で左にそれて県道215号に入りました。車の数は少なくなったものの、軽トラが前方をブロックして、スピードは上げられません。到着した金田漁港はのどかで風情があります。
 
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その目の前にある「かねだ漁業センター」では日曜日ごとに金田湾朝市が6時から8時まで開かれ、新鮮な魚介類や地場野菜が並ぶそうで、白い建物に青い字で「みうら漁協金田湾朝市」と表示されていました。その2階の「レストラン金田」ではこの付近ならではの名物料理を食べることも出来ますが、予備知識がないと2階にレストランがあることすら分らないかもしれません。広い駐車場に車を停めたのは11時20分頃で、レストランが開店する11時30分まで2階のレストラン入口の掲示板に貼られたビラや待合所に置かれたメニューを眺めて待ちました。ちなみに写真は帰り際に撮影したもので客の姿が窓越しに見えます。
 
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開店と同時に2番目で店内に案内された私たちは漁港が目の前に見渡せる窓際の席を選びました。
 
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私は心積もりしていた山かけ丼、同行者はメカブがトッピングされた海かけ丼を注文、いずれも1000円です。おまかせ定食A(3000円)や同B(1500円)は値段の高さとボリュームがありそうなので敬遠。店員さんが最近始めたアカモク丼を薦めてくれたことで同行者との間でアカモクについてのやり取りが・・。入口の掲示板にアカモク丼が旬であるとの貼紙を見て何だろうと思った私は「それにしたら」と会話に割り込みました。メカブと似ているが色が赤黒く、最近食べるようになった海藻だとの説明を聞きました。

 
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金田港の上空に舞う海鳥や飾り気のない店内に並べられた陶器の人形など不思議な取り合わせの置物を見ながら待つことしばし、2品が相次いで配膳されました。見た目はいずれも平凡。山かけ丼はとろろに粘り気があってズケの刺身も美味しい。私は箸休めも気に入りましたが、金田ならではのメニュー(サバ・アジ・ヒラメなどの地魚、あるいはワカメやサザエの料理)にすれば良かったとちょっと後悔。同行者は「メカブと同じだわ!」と言いながら刺身のヅケとともにご飯もかなり食べましたからアカモクは美味しかったのでしょう。
 
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県道215号を三浦海岸交差点まで戻って国道134号へと左折、南下浦郵便局のすぐ先のセブンイレブンのある交差点を右折して路地に入りました。次の目的地は日帰り温泉に選んだ会員制リゾートホテルのマホロバ・マインズ三浦。誰でも利用できる日帰り天然温泉があると聞いたので立ち寄ることに。ホテルの駐車場を右手の坂を少し降りたところに見つけました。
 
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変わった名称だと思っていましたが、ホテルのエントランスに表示されたMAHOLOVA MINDSを見て理解できました。MAHOLOVAと書くと外国語のようですが「まほろば」(まほらとも言う)は日本語の古語で素晴らしい場所、MINDSは英語で心あるいは精神を意味しますが、おそらくこの2つを組み合わせた造語でしょう。
 
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三浦市で数少ない天然温泉(地下1500mから湧き出る三浦マホロバ温泉)の泉質はナトリウム-塩化物強食塩泉(高張性・低温泉)、源泉の泉温は36.2度、源泉のPHは7.9(弱アルカリ性)。日帰り温泉は朝の9時から利用でき、しかも利用料金は500円と格安。タオルは100円で購入できますから手ぶらでも利用可能。しかし午後3時半以降はフェイスタオル付きで1000円と高くなります。フロントで手渡された館内案内図を見ながらエレベータで3階のきらら(入れ替え制で午後は女湯)と4階の湯津楓(同じく男湯、ゆつかつらと読ませています)へ向かいますた。脱衣場は休憩用スペースと一体になっているため、びっくりするほどの広さがあります。

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浴室はいたってシンプルなものです。床には滑り止めのマットが敷かれ、右手に仕切られた洗い場があり、左手には四角い大浴槽が一つだけ。浴槽の奥にかけ流しの湯が流れ落ちています。浴槽内に入ると底に近い場所に湯の吹出し口が何箇所もあることに気づきました。湯は浴槽上部にある流出口から外に流れ出る仕組みがあります。
 
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視界はありませんが大きな明かり取りの窓と高い天井が解放感を演出。利用者が少ない時間帯でもあり、大きな浴槽を独り占めしたように、ゆったりとした気分で柔らかい湯を楽しむことができました。湯からあがった同行者はロビーにある売店で鮪(まぐろ)大角煮を何箱も買っています。土産物にするつもりなのでしょう。私は大きな水槽のなかを泳ぐ熱帯魚に見とれていました。

国道136号で三浦市役所や城ヶ島方面へ向い、引橋交差点で県道26号に入って松輪入口交差点で案内看板に従い左折すると、曲がりくねった道は農道のようで大根畑が丘陵地帯に広がっています。三浦大根が栽培されているのでしょう。その先は三浦海岸の海(金田湾)が見えます。約1.5km先に三浦霊園がありました。ちなみに昼食を摂(と)った金田漁港側からもアクセス道路があります。
 
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法事を済ませたあとに有名人の墓があると聞いて立ち寄ることにしました。大きな墓石が並ぶエリアにおいても一際目を引く大きさです。
 
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それはX JAPANのギタリストであったHIDE(本名松本秀人)さんの墓。ソロ活動の場合に使った小文字のhideの名があります。 また墓誌にはHIDEさんらしい法名とともに平成10年5月2日享年33才とあります。 筆者注;釈号(しゃくごう)が入っていますから戒名(かいみょう)ではなく法名(ほうみょう)としました、享年に才は不要では?
 
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立派な墓石には"HURRY GO AROUND"の歌詞
「また春に会いましょう」やギターが刻まれ、脇には幼児像が跨(またが)る樽型の郵便受けがあります。ファンレターを入れるためでしょう。
 
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ファンが手向(たむ)けたと思われる華やかな仏花(ぶっか)が多数奉(まつ)られています。墓参のルールがあるようで整然とした印象。出身地の横須賀ではなく三浦市の海が見える霊園に眠る理由は分かりませんが、きっと三浦海岸が好きだったのでしょう。最後までビジュアル系を貫いたHIDEさんの墓前で瞑目(めいもく)して祈りました。
 
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X JAPANのヒット曲から1997年12月の解散コンサートにおける「」(くれない)と私の好きな"Rusty Nail"と"Endless Rain"(いずれもリーダーのYOSHIKIさんが作詞・作曲)、そしてhideさんの遺作となった"HURRY GO AROUND"をYouTubeで紹介します。

<同行者のコメント> 今回も目まぐるしいドライブでした。大事な法要の前にあちこちに立ち寄る旦那さまにはいつものことですがハラハラ。漁港で食べたアカモク丼や土産に買った鮪大角煮はとても美味しかったです。女湯には露天風呂もありましたよ!  ところでX JAPANの隠れファンだったのですか?

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2011年2月 1日 (火)

くりはま花の国

県道209号に戻って同じ横須賀市の久里浜を目指します。夫婦橋を渡ると国道134号に合流、京急久里浜駅の先にある久里浜交差点を左折すると「くりはま花の国」に到着です。ゲート手前にある第1駐車場に車を停めました。普通車の料金は1回600円。

 
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くりはま花の国は久里浜市民の憩いの場所として年中無休で24時間解放されています。入園料も無料。コスモス・ポピー園、つばき園、県木の広場、130種約万株のハーブ園のほかに、ゴジラの滑り台などのアスレチックがある冒険ランド・展望広場・パークゴルフ場(500円)があるため家族で長時間楽しむことができる場所のようです。
 
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一番花が少なく入園者が少ないこの時期をあえて選んで訪れました。相変わらずのへそ曲がりなのです。パークゴルフ場へつながる高架橋を潜って緩やかなスロープを上がると花の国の全景(実はほんの一部でした・・)が見えてきます。ちなみにパークゴルフとは、漫画「プロゴルファー猿」の主人公よろしく一本のウッドを使って、プラスチック・ボールを打つ子供や年配者向けのゴルフゲームでした。
   
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赤いチューリップが春を先取りするように花壇で咲いています。冷凍処理をして開花時期を早めたアイスチューリップでした。3000本あるうち約30%が開花したそうです。
 
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遊歩道が思ったよりも長くて限りなく続いているように見えますから、フラワートレインの時刻表を確認すると1時間近く待つ必要がありましたので、往きは歩くことにしました。
 
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そそっかしいポピー(ヒナゲシ)が遊歩道の脇にほんのわずか咲いています。ポピー園はシートが被(かぶ)せられて養生中。ポピーが一面に咲きそろうのは4月まで待たなければならないのでしょう。
 
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遊歩道の反対側にある植え込みにはノースポールや三色すみれなどが寒風をもろともせずに咲いています。
 
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息を切らせながら高みまで上がるとポピー園はもちろん、久里浜の市街地も見晴らすことができます。
 
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遊歩道は曲がりくねりながらさらに上へと続いていました。
 
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白い猫が不思議な姿勢で日向ぼっこしています。
 
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コーナーを右へ曲がると雰囲気が突然に変わって冒険ランドに出ました。アスレチック施設の手前に巨大なゴジラが来訪者を待ち構えて今にも襲い掛かりそうな形相です。ゴジラの足元に階段が付いていますので何だろうと後ろに回り込むと大きな滑り台になっているのが分かりました。
 
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同行者を冒険ランドの売店に残してもう少し先へ足を伸ばすことにしました。急坂を上りきると遊歩道は一直線になって下って行きます。ここはつばき園で中京美人・吾妻絞・さかさ富士・八朔絞・寒椿・太郎庵・菊更紗などの名前が見えます。まだ硬いつぼみが多い中で、咲き始めている椿が幾種類も見られました。
 
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何やら音楽が聞こえ始めました。遊歩道に戻って前方のハーブ園の方面を見やるとフラワートレインがこちらへ近づいて来るのが見えました。冒険ランドの乗り場まで戻って同行者とともに乗車。料金は一回200円。
 
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下り坂ばかりですが、フラワートレインは歩くより少し速くて、しかも楽ちんです。終点に到着すると子供連れの家族が何組かフラワートレインを待っていました。
 
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同行者はうれしそうにラベンダーメロンパンを私に見せてくれました。冒険ランドの売店で買い求めたようです。
 
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花が咲きそろう頃に「くりはま花の国」をまた訪れたいと思いな
がら、次の目的地である三浦市を目指します。(続く)

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