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2011年2月28日 (月)

長岡京跡

奈良で玄昉僧正縁の地を巡った2日後に京都へ向かいました。京都市内ではなく南隣の向日市(むこうし)と長岡京市です。前者には紅葉のシーズンに時々訪れる光明寺があり、後者では細川忠興とその妻ガラシャで知られる勝竜寺城址と山崎の合戦時に明智光秀が本陣を置いた場所などを訪れています。

今回は奈良時代から平安時代へ移行する時にわずか10年間だけ都が置かれた長岡京の跡を巡ります。短命であった長岡京は幻の都と呼ばれたこともありましたが、発掘が進んだ現在は平城京や平安京とほぼ同じ規模(東西約4.3km、南北約5.3km)の都が造営されたことが徐々に分かってきました。向日市に政治の中心地である大内裏(だいだいり)が置かれ、長岡京市に経済活動の中心であった東西二つの市(いち)があり、都の西南の乙訓郡大山崎町には山崎津(やまざきのつ)、東南の京都市伏見区淀には淀津(よどのつ)が築港されました。淀津はかって存在した巨椋池(おぐらいけ)の西端の港で伏見区納所町・淀美豆町・淀町木津・淀大下津町と諸説があるようですが、何れにしても現在淀と呼ばれる地域(現在の京都競馬場周辺)にあったようです。

平城京(へいぜいきょう)から長岡京への遷都を決めたのは桓武(かんむ)天皇です。その背景は当ブログが「勝竜寺城址」「行基と道鏡」の記事で簡単に紹介しています。河川を利用した物資の水上輸送に向かない平城京の地理的な弱点、天智天皇流へ皇統が戻ったこと、奈良の仏教勢力の影響を弱めようとしたこと、などの理由を指摘する説があります。

例によって前置きが長くなりましたので本題に入ります。国道1号の赤池交差点から府道202号で西へ向かいました。長岡京跡へ向かう前に久我橋袂(たもと)の堤防に車を停めました。桂川の堰堤(えんてい)を見るためです。1kmほど下流で桂川と合流する鴨川には龍門堰(りゅうもんせき)と呼ばれる落差工(川の流れを遅くする施設)が15箇所もあり、魚の遡上(そじょう)を妨げているとして、その改良工事が行われると旅先で聞いたからです。龍門堰はちょっと寄り道になりますから桂川に架かる久我橋のすぐ下流にある1号井堰の方に立ち寄ることにしたのです。鮎などが遡上(そじょう)するために造られたられた立派な魚道が2つ見られます。
 
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阪急京都線を潜った先の交差点を左折して大極殿通に入りました。400mほど南の鶏冠井町(かいでちょう)に長岡宮大極殿(だいごくでん)がありました。
 
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大極殿とその後殿である小安殿の跡は史跡公園として整備され「大極殿公園」と呼ばれていました。
 
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大極殿(天皇の御座)・内裏(天皇の住まい)・朝堂院(役所)などの施設は聖武天皇が造営した後期難波宮(なにわのみや、大阪市)から移築されたものと考えられています。石碑が2つ向かい合うように建てられていました。右手の一際大きな「長岡宮城大極殿遺址紀念碑」は大極殿の北側(現在の北大極殿公園)で明治28年(1895年)に建てられたものが昭和30年代の発掘後に現在の場所へ移されたようです。もう一つは昭和40年(1965年)、日本初の史跡公園に指定された時の記念碑と思われます。
 
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北方から見た長岡京の俯瞰図がその規模の大きさを示していますが地理的に窮屈な印象があり、風水の条件も満たしていないように思われます。
 
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長岡宮(なかおかぐう)は長岡という地名にちなんで名付けられたことと、長岡という地名は向日神社のある低い丘陵を中心とする一帯を指すこと、昭和36年(1961年)の発掘調査で大極殿跡が確認されたことなどが説明されています。北側にある小安殿は天皇の休憩施設で、後殿とも呼ばれます。
 
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次ぎに訪れたのは阪急京都線のガード(交互通行)を潜った東へ北真経寺の西側にある大極殿回廊跡
 
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現在は広い公園になっています。その礎石がきれいに並んでいますが最近再現されたもののようです。
 
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阪急京都線のすぐ東側(西向日駅近く)にある西向日公園には長岡京跡の大きな石碑が立っています。朝堂院東第四堂跡の説明がありました。ちなみに朝堂院とは高級官僚が執務を行った役所のこと。
 
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西向日駅から東へ向かうとタイル舗装された桜並木の住宅地に入りました。立派な邸宅が立ち並ぶ先のT字路に築地(ついじ)跡を見つけました。80mほどの築地が残されています。当時は幅10m・高さ1.7mの土塁の上に土を固めた土塀(幅2.1m・高さ1-1.2mの築地塀)が築かれていたことと内裏の回廊と一直線をなしていることが説明されていました。古代のものでは平城宮と法隆寺などに残るだけの珍しいもので、国の史跡に指定されています。
 
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遊歩道の反対側には西濠跡の標識も見られました。(続く)

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