« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月に作成された記事

2011年3月31日 (木)

ラーメン小僧の地方行脚(長岡京編) ラーメン「来来亭 長岡京店」

向日市(むこうし)の長岡京跡と長岡京市の古墳群を巡(めぐ)るドライブ旅の途中に府道203号沿いのラーメン「来来亭(らいらいてい) 長岡京店」に立ち寄りました。長岡京店といっても住所は向日市で最寄り駅も西向日駅です。以前は長岡京市内の国道171号沿いにあったものを、2006年に現在の場所へ移転した時に店名を変更しなかったためだそうです。滋賀県野洲市(やすし)を本店として自営と「のれん分け」展開する来来亭は、東は神奈川県、西は福岡県まで、170店舗以上(うち独立店は89店舗)の拡がりがあります。ちなみに長岡京店は滋賀県外の第1号店のようです。
 
2011_02190386 
 
広い駐車場に車を停めて店内に入ると男性店員が元気な声で迎えてくれました。12時を少し回っていたため混み初めていましたが、小上がり(座敷)のテーブル席が空いていました。カウンター14席、座敷名用が4卓の計30席 ある店内は明るく広々としています。鮮やかな紺色に塗られたカウンターとシンボルカラー(オレンジと朱色)のコントラストが印象的です。
 
2011_02190379 

ラーメンのメニューは5種類と少ないのですが、定食類が10種類近く、一品料理が約20種類も並んでおり、大衆食堂の雰囲気です。
 
2011_02190378 

そのラーメンは、麺の硬さ(やわらかめ・硬め)、醤油(薄め・濃いめ)、背脂(抜き・多め)、一味唐辛子(手元の容器で適量を入れる)、ネギ(抜き・多め)、チャーシュー(赤身・脂身)と好みに合わせて組み合わせることができる配慮があります。そして「情熱は抜けません」と少し滑り気味の洒落(しゃれ)も書かれていました。
 
2011_02190380 

私はワンタン麺(750円)、同行者はチャーシュー麺(800円)を注文しました。
 
2011_02190381 

ワンタンはプリッとして美味しく、青ネギを多めにトッピングして背脂(せあぶら)を浮かせた醤油(しょうゆ)スープは濃(こ)くを感じさせながら見た目よりもアッサリして、ストレートの細麺も私好みでした。同行者の薄切りチャーシューも見るからに柔らかそう!
 
2011_02190384   
 
独立店が多くて味も店によって微妙に違うそうですが、人気店だけのことはあるバランスの良いラーメンでした。
 
2011_02190385 

帰りがけにカウンターをみるとボール紙の手製の番号札が置いてありました。混雑時に使われるのでしょう。外に出ると確かにその旨を説明した立て看板があり、女店員が並んで待つ客から注文を訊(き)いています。
 
2011_02190387
   

住所: 京都府向日市上植野町桑原15-1
電話: 075-931-0606
hp: http://www.rairaitei.co.jp/index2.php

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月30日 (水)

ラーメン小僧の地方行脚(奈良編) 奈良らーめん「あおによし」

ドライブ旅で奈良の興福寺を訪れた折に「ひがしむき商店街」にあるラーメン店に入りました。店名は「奈良ラーメンあおによし」。「あおに(青丹)よし」とは奈良の枕詞(まくらことば)です。その由来は奈良坂で顔料の青土を産したところからとする説が有力ですが、建物を彩る鮮やかな青と丹(朱色の意)の色使いのこととも言われます。
   
2011_02190246 
 
上の写真で左手に写る南都銀行本店の3軒隣り、「COTOモール」と「よねやメガネ」の看板の間にある狭い入り口を入った奥行きのある町家風の店内は、ラーメン店と言うよりもむしろうどん屋の雰囲気で、テーブル席だけが50席あるようです。ちょうど12時になったばかりでまだ空き席がいくつもありました。
 
2011_02190234 

同店のhpによれば奈良県産の食材をできる限り使用した地産地消の奈良らーめんで、スープは大和地鶏と煮干しだしのWスープであっさりとコクのある味わいが特徴、醤油ダレは吉野にある樽仕込みの天然醸造醤油、チャーシューは旨みのある大和ポーク、麺は特注の極細麺で、やさしくて深い味わいのある奈良らしい味のらーめんと紹介されています。
 
2011_02190235
 
ラーメン店としては予想以上に豊富なメニューがありました。
 
2011_02190236 

私は好みの「塩らーめん」(650円)、同行者は名物の「大仏らーめん醤油味」(880円)を注文しました。前者は微塵切(みじんぎ)りしたネギ・海苔・小松菜・メンマ・大和ポークの弾力感のあるチャーシューがトッピングされ、天然塩を使用した深い味わいのあるあっさりスープ、そしてストレートの細麺の食感も期待通りです。半分食べたところでレモン汁を加えるとさらにさっぱりした味になりました。
 
2011_02190239 

同行者も好きな芝海老天ぷらや、揚(あ)げモチ・椎茸(しいたけ)・チャーシュー・海苔(のり)・ねぎ・ほうれん草が入った豪華なラーメンが気に入ったようです。こう書いているとまるで具沢山の天ぷらうどんのように思えてきました。写真では肝心の芝海老天ぷらと揚げモチが水団(すいとん)のように写ってしまいました。
 
2011_02190240 

食べながら店内に貼られた遷都1300年を記念した 「メガ大仏らーめん」(1300円)の写真が気になりました。これを二人で分け合っても良かったかも知れないと思いながらよく見ると、麺3玉・チャーシュー3枚・海老天3個・揚げ餅2個・味玉1個などが入って重量が1,300g(これも遷都1300に合わせている)と説明されています。二人がかりでもとても食べ切れそうにないボリュームです。
 
2011_02190237   
 
店を出る時に一際大きなどんぶりに向き合っている若者が目に入りました。「メガ大仏らーめん」にチャレンジしていたのかもしれません。完食しても無料になるわけではありませんが、とにかくガンバレ!

同行者はと見やれば入口にある和小物の販売コーナーを熱心に覗(のぞ)いています。

奈良らーめん あおによし
住所: 奈良県奈良市東向南町26
電話: 0742-26-1611
hp: http://www.hiten-co.jp/aoniyoshi.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月29日 (火)

ラーメン小僧の地方行脚(高松編) 味の店「支那そばや」

岡山駅で山陽新幹線からJR瀬戸大橋線(正式名称は宇野線・本四備讃線)の快速マリンライナーに乗り換えました。運転席を撮影した写真では分かりにくのですが、先頭車両は2階建てになっていて、上がグリーン車で下が普通車の指定席となっています。
 
2011_02190186 
 
2年余り前に四国ドライブ遍路をした時に瀬戸大橋(瀬戸中央自動車道)をドライブしたことはありますが、電車でこの橋を渡るのは今回が始めての経験です。
 
2011_02190193 
2011_02190192 

対岸の香川県坂出市に入ると瀬戸大橋線は予讃線に乗り入れました。四国には珍しい山々の雪景色を眺めていると高松駅に到着、高徳線のオレンジタウン行きで栗林(りつりん)公園方面へ向かいました。ちなみにオレンジタウンとは高松市の東隣にあるさぬき市の志度駅(琴電志度線の終点)の先にある新興住宅地です。四国第86番札所の志渡寺海辺のカフカの舞台になったと私が想像する志度湾の近くです。栗林公園北口駅で下車、国道11号(中央通り、讃岐街道)を右折して観光通り(県道43号)を歩きました。観光通りの名前は市内と観光地の屋島を結ぶことがその由来です。

食品スーパー「マルナカ 田町店」脇に伸びる「田町 南の町商店街」に折れました。
 
2011_02190200 

立派なアーケードのある明るい商店街は歩行者天国になっています。
 
2011_02190211 

藤田ビルの1階にある創業12年の「味の店 支那そばや」に入りました。
 
2011_02190201 

店内には「テレビでおなじみ食材の鬼 佐野実で修行 ラーメン専門支那そばや 高松店」と表示されています。あの強面(こわおもて)の師匠に指導を受けた店主の味が期待されます。店内はテーブルとカウンターを合わせて18席。中高校生は50円引、大盛りは100円増しとのこと。
 
2011_02190203 

味噌ラーメン(750円)を注文。冬場だけのメニューで夏場は塩ラーメンに変わるようです。「味噌ラーメンには胡椒をふらないで下さい(味が変わります)」との表示が目に入りました。その他にも「みそとしょうゆのメンが違います。別々にゆでますので順番が違う事があります」「当店の麺はモンゴル産の天然塩から作り出したかん水を使用して自家製麺しております」「当店のスープには、名古屋コーチン・丸鳥・ガラ・天然羅臼昆布・その他、全国からの逸品を使用し、さらに醤油ダレは紀州天然醸造醤油で仕込み、又、麺は国産小麦・小笠原自然海塩・名古屋コーチンの玉子などを使用し、自家製麺しております」の貼紙が壁一面に! やたらに多い貼紙を読んでいるうちに配膳されました。
 
2011_02190209 

麺が見えないくらいタップリ入ったスープは乳白色をしており、見た目にはマイルドな印象があります。一口飲んでみると見た目と同じ穏やかな味がします。トッピングは柔らかい自家製のチャーシュー・メンマ・刻み青ネギなど。適度にインパクトがあって美味しいラーメンでした。
 
2011_02190207 

ただ讃岐うどんの本場である高松市の、しかも最低価格が750円とやや高額なラーメンでは、商売が厳しいのではないかと要らぬ心配をしてしまいました。それに美人の女店員さん(女将さん?)がちょっと無愛想なのも・・・。

仕事を終えて一杯飲んだあと、高松駅から大阪まで戻ることにしました。
 
2011_02190216 
2011_02190215 

高松駅前の夜景が綺麗でした。 

味の店 支那そばや
住所: 香川県高松市田町4-16
電話: 087-834-6400
URL: http://www.e-komachi.com/web/gourmet/detail.asp?tnid=23368

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月28日 (月)

ラーメン小僧の地方行脚(大阪京橋編) ラーメン専科「力雅」

京阪本線の京橋駅を降りて、JR大阪環状線の京橋駅前を通過、京阪国道(国道1号、京街道)に出ました。大阪市京橋は地方と言えませんが、ここは言葉の綾(あや)とご容赦(ようしゃ)ください。
 
2011_02190153_2 
2011_02190171 

京街道(延長された旧東海道)を巡った時に通過したJRのガードを確認。
 
2011_02190154 
 
午前11時までまだ10分ほどありますから京橋界隈(かいわい)を散策することにしました。ガードを潜ったところにある横断歩道で京阪国道を反対側に渡ると、映画「ローマの休日」で有名になった「真実の口」のようなものがあります。
Begin Kyoubashiビ・ギ・ン・京・橋)の入口にあるレリーフでした。
 
2011_02190157   
 
新京橋商店街は街全体を「ローマの下町」のイメージで統一した月のエリア・石のエリア・水のエリア・木のエリア・太陽のエリア・星のエリアが約200m続いています。
 
2011_02190156 

京阪国道の横断歩道を戻って京橋一番街へ入りました。
 
2011_02190160   
 
すぐ右手にあるラーメン専科「力雅(りきまさ)京橋本店」の店先は屋台のように透明なビニールの風除け(暖簾)が設置され、隣にはめっちゃ大阪らしい立ち呑み専科「力雅」が並んでいます。店先の看板にはランチサービスは麺が普通・1.5倍・2倍から選べ、ご飯が付いたセットは550円と説明、さらにテレビ番組や雑誌に取り上げられたことと横浜ラーメン博物館に出店されたこともしっかり書かれています。
 
2011_02190155 

店内はアイランド式の厨房(ちゅうぼう)をコの字型に取り囲むカウンター席が8‐10席並んでいます。手狭ですが開店間際で客は私一人ですから気になりません。この店の定番である豚骨醤油ラーメン(500円)、もちろんアッサリの方を注文。ワンコイン価格は嬉しいと思いながら、どんなラーメンかと期待が高まります。ラーメンが配膳されると同時に「500円です!」と清算を促す女店長(オバチャン)の声が!! 「ハイハイ!」
 
2011_02190163 

気を取り直して豚骨醤油ラーメンと向かい合う。見た目にはさっぱり系の豚骨です。柔らかいチャーシューが何と2枚も入って、ナルトはアクセント、刻みネギとモヤシもトッピング。スープを味わうとスッキリした味で私好み、自家製で腰がある特製手打ち中細麺との相性も良い。赤くて細いものは糸唐辛子で、辛さよりもアクセントが狙いでしょう。
 
2011_02190166   
 
味が物足りない人には胡椒(こしょう)・紅生姜(べにしょうが)・煎(い)りゴマ・おろしニンニクが用意されています。
 
2011_02190168 

ラーメン激戦区として知られる京橋にあって奇をてらわず、呑(の)んだ後にも美味しく食べられるオーソドックスなラーメンです。
 

住所: 大阪市都島区東野田町3-10-4
電話: 06-6353-8110
URL: http://gourmet.walkerplus.com/164461015997/

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年3月27日 (日)

ラーメン小僧の地方行脚(上田編) 麺将 武士

長野新幹線上田駅を降りました。昨年7月に日本ロマンチック街道をドライブした時に上田城に立ち寄っていますが、今回始めて利用した新幹線上田駅は真田家の家紋「六文銭」と海鼠壁(なまこかべ)をモチーフとした駅舎です。

 
2011_02020040 
 
新幹線のほかにも上田と軽井沢と結ぶしなの鉄道と別所温泉へ向かう上田電鉄別所線の駅があります。
 
 
2011_02020035 

上田と言えば真田幸村が有名。駅前にはその騎馬像が立っています。
 
2011_02020045 

その後ろにある大きな水車が気になりました。枡網(ますあみ)用水のモニュメントでした。坂城(さかき)まで続く千曲川右岸で最大の用水で、明治時代には上田駅東方に用水を利用した養鯉池(ようりいけ)や製紙工場などができ、下流の秋和と塩尻地区で農業用水や生活用水として長い間利用されたと説明されています。
 
2011_02020049 

さて本題です。仕事を終えて、軽く一杯飲んだあと上田駅まで戻ると、駅前の「お城口広場」で12万個のLEDを使ったイルミネーション「上田天神灯(ひかり)の祭典」が賑(にぎ)やかに点灯されていました。クリスマスのシーズンはとうに終わっていますが、幸運なことにこの日(1月31日)まで点灯されていたのだそうです。
 
2011_02020064 

上田市で選んだラーメン店は駅ビル一階にある「麺将 武士(もののふ)」です。
 
2011_02020062 

素材へのこだわりが売りのラーメン店は厨房に面したカウンター席と店の外が見えるテーブル席が並んでいます。
 
2011_02020054   
 
客席の構造が入り組んでいるため手狭な印象があります。
 
2011_02020053   
 
奥には8人くらいが座れる小上(こあ)がりもあって宴会も可能なようで、メニューには定食やつまみ類も入っています。
 
2011_02020055 

私は定番であるさっぱりした白醤油ラーメンの「幸村」(650円)を注文しました。こってり味が好きな方は白豚骨の「左近」(650円)、味噌好きの方は信州味噌「道山(どうざん)」(750円)、欲張りな方は幸村と左近の両方が仕切りのある器(うつわ)に入った「武士味くらべ」(900円)が良いでしょう。トッピングは味玉が100円増、海苔が100円増、肉が300円増、ラーメンに付ける半ライスは50円増、大盛り100円増で、お徳用の「学生らーめん」(500円)は替え玉1玉無料とのこと。

中細のストレート麺は多めですが、私好みのあっさりした味ですから、食べきることができました。

 
2011_02020059   
 
その一方で「幸村」の名前にしてはやや物足りなさも感じます。次の機会には島左近にちなんだ「左近」か「道山」を選びたいと思いながら新幹線で帰京しました。

 
麺将 武士
住所: 長野県上田市天神1-1887-17
電話: 0268-27-0188
hp: http://bond-of-hearts.jp/shop_mononofu.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月26日 (土)

ラーメン小僧の地方行脚(仙台編) らーめん堂仙台っ子 青葉通り店

東日本大震災で被災された方々のご苦労は想像を超えるものがあり、あらためて皆様にお見舞を申し上げます。震災の被害に加えて福島原子力発電所の放射能漏れ事故の影響も東北地方から関東地方にかけての太平洋側でまだ予断を許さないようです。その中にあっても徐々に救済の手が被災地に拡がり始めているという明るいニュースで少しは救われるような気持ちになります。そして、わが家では食糧品とガソリンの入手が出来るようになって通常の生活が戻ってきたことに感謝しています。

とは言ってもガソリンの供給不足のため遠出のドライブを控えていますので、この2ヶ月間に私が依頼された仕事のため地方を旅した時に楽しんだ「ご当地ラーメン」を7回に亘(わた)って当ブログで紹介することにしました。

その最初は東日本大震災で大きな被害があった東北最大の都市「仙台市」を代表するラーメン店のひとつである「らーめん堂仙台っ子 青葉通り店」です。国分町本店をはじめとして仙台市を中心とする宮城県下に11店舗を展開しているラーメンチェーンの主要店舗。今年1月下旬に仙台を訪れた時の様子を当ブログの記事「青葉通りを歩く」「晩翠草堂を尋ねる」「一番町商店街を歩く」で紹介していますが、このラーメン店は青葉通りと一番町商店街が交差する場所で、デパート「藤崎」の斜め向かい側にあります。
 
2011_01280072 

一番町商店街に面した入り口に店の看板はありますが、店舗はマクドナルドなどが入る雑居ビルの奥にありますから青葉通りから目立ちません。午前11時の開店直後にビル内の通路を入りました。行き止まりにあるガラス製のドアを開けると女店員さんの元気な声(デュエット)に迎えられました。入口脇の券売機で「仙台っ子らーめん」(630円)の食券を購入した途端、応対してくれた女店員さんの一人(フロア係)がすかさず奥の厨房(ちゅうぼう)に向かって注文を伝えます。
 
2011_01280083 

カウンター席とテーブル席を合わせて23席もあって比較的ゆったりとした店内です。
 
2011_01280091   
 
私は全体が見渡せる右手にあるカウンターの一番手前の席に腰掛けました。
 
2011_01280085   
 
「仙台っ子らーめん」には大盛(730円)と特盛(840円)もありますが、昼食時はギョーザとライスが付いたランチセット(780円)がお徳用でしょう。いずれのラーメンにもライスが一杯だけ無料で付いてきます。少食家の私は残念ですが辞退。

先客は2人だけでしたから注文した品がほどなく配膳されました。
 
2011_01280089 
 
トッピングはチャーシュー・刻(きざ)みネギ・青菜・焼き海苔(のり)など。やや縮れた中細の自家製麺にコッテリしたスープが良く絡み合います。濃い目と思って飲んだ醤油ベースのスープは止められない美味さで、私としては珍しく半分も飲んでしまいました。
 
2011_01280092   
 
ちなみに鶏ガラと豚ガラ(通常の約5倍)・昆布・野菜類がたっぷり入っているそうです。店のhpが博多風トンコツとは違うことを強調しています。
 

らーめん堂仙台っ子 青葉通り店 
住所:
 仙台市仙台市青葉区一番町2丁目5-1
電話: 022-227-0063
hp: http://sendaikko.com/aoba/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月22日 (火)

沖 仁 スプリング・ツアー2011 ~Con Palmas~

お彼岸に一日遅れで両親の墓参りができました。今朝になってやっと車に給油を受けることができたからです。わずか20リットルですがこれで一息。そして底をつきかけていた米や食料品も関西や近くに住む身内から提供してもらったことで、わが家の巣ごもり生活も何とか正常に戻りつつあります。

そんな日々の中、昨夜は東日本大震災が発生して以来はじめて都心へ出かけました。節電のためすべてのエスカレータが止まり、切符券売機も一部が休止している東京メトロの表参道駅を出て人通りがほとんどない南青山のブランドショップ街を歩きました。いずれの店も閉店していて薄暗く、小雨が降るフロムファースト通り(みゆき通り、都道413号)は走る車も数えるほどです。

同行者はブランドショップが閉店していることを残念がっているようです。根津美術館のある交差点を右折して青山6丁目へ向かいます。実はチビスケくんとチビエちゃんの両親がブルーノート東京のチケットをプレゼントしてくれたのです。巣ごもり生活をする同居者と私を元気づけるための心遣いのようです。
 
2011_03210079 
 
ブルーノート東京はニューヨーク.の“Blue Note”を本店に持つジャズ・クラブです。他に大阪と名古屋にも店があります。ちなみにブルーノートあるいはブルー・ノート・スケールとはアメリカ黒人音楽の旋律にあらわれる音階的な特徴を指す言葉で、このジャズ・クラブの名前として使われました。
 
2011_03210077   
 
春分の日(彼岸の中日)の出演者はフラメンコ・ギタリストの沖 仁(おき じん)さん。昨年の7月にスペインのムルシアで行なわれた三大ギターコンクールのひとつである「第回ムルシア “ニーニョ・リカルド” フラメンコギター国際コンクール」の国際部門で優勝。日本人として初の快挙です。
 
2011_03210080 

スプリング・ツアー2011の最終公演がこのブルーノート東京でした。Con Palmasとはフラメンコ特有の手拍子「パルマ」付きであることを意味します。つまりスプリング・ツアー2011で一緒に活動する歌(カンテ)の高岸 弘樹さんと踊(バイレ)の伊集院 史朗さんと共演することを指します。
 
2011_03210086 

午後8時に2ndショーが開場したホールは見るみる間に満席になります。サーブされたコース料理とワインを楽しみました。写真はキャビアをトッピングした魚介のパテ。メイン料理の和牛ステーキがサーブされた午後8時45分に開演となり、沖 仁さんがギターを抱えて登場。観客席に向かって来場を感謝、東日本大震災の被災者への想いを語ります。「楽しんで下さい」と観客に呼びかけて演奏を始めました。
 
2011_03210089 

高岸弘樹さんと伊集院史朗さんも登場して3名で最初の曲を演奏、ギターの爪弾き、歌声、そしてパルマで会場を徐々に盛り上げます。2曲目の「ボリビアの朝」はゆったりとした海を感じさせる曲です。「オーレ」の掛け声(ハレオ)に感謝、次いで「伊集院先生のパルマ教室」を開催する宣言すると、伊集院さんがパルマの打ち方を観客に指導。表打ち(ティエンポ)と裏打ち(コントラティエンポ)のそれぞれを実演しながら解説します。
 
2011_03210085 

3曲目はソロで新曲の「誇りと敬意」でした。パーカッションのホセ・コロンさんが飛び入りしたところで高岸弘樹さんが「昭和の歌謡ヒットメドレー」を物まねで歌いました。まず玉置浩二の「ワインレッドの心」、次いで森山良子の「さとうきび畑」、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」、HOUND DOG 大友康平の「ff(フォルテシモ)」、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」(一部が替え歌に)、そして同じく吉さんが歌うCMソング「Dream」の♪♪この街で一番 すてきで暮らしたい♪♪ も! すべての歌がフラメンコ風になっているだけではなく、コロッケさんの物まねよろしく、客席を笑わせました。

ここでアルゼンチンから帰国したばかりというギタリストの小林智詠(ちえい)さんがサイドギターとして参加。沖さんがスペインに居るときに作曲した「サンパブロ通りの天使達」は明るくリズミカルな曲で、ギター演奏をパルマとパーカッションが盛り上げます。次いで、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートにおける「ラデツキー行進曲」の手拍子風にパルマの実践編を指導、客席をぐいっと惹きつける演出があります。

ソロ演奏に移りました。「節電のため公演可否の考え方はあるが首都圏に居る人達が元気になればと思う」といって、一昨日横浜の赤レンガ倉庫にあるライブレストラン「モーション・ブルー・ヨコハマ」で開催した公演のことと、その夜に見た「スーパームーン」(月が地球に最接近した現象)をイメージした即興曲を演奏。透明感のある月光を連想させる静かな曲でした。「アルハンブラの思い出」風のトレモロが銀の砂が静かに落ちるように響きます。聴き入っていると、いつの間にか曲は「マイウェイ」に変わっていました。そしてまた即興曲に戻り、力強く激しいフラメンコ曲となりました。ギターの胴を叩く「ゴルペ奏法」と弦を叩く「タッピング奏法」を交えると会場全体が最高潮に達しました。

アンコールに応えて演奏した「べサメムーチョ」は官能的で魂に染み入るような音色です。高岸さんの歌が参加、桑田佳祐、和田アキ子、さだまさしの物まねをパルマとパーカッションが盛り上げます。小林さんのギターは硬く力強い響きで、沖さんの柔らかい音色と掛け合います。伊集院さんのタップダンスと高岸さんのファド風の歌が加わり、どこまでが即興なのか分からなくなります。明るい曲はパルマと掛け声で盛り上がり、高岸さんと伊集院さんが歌とダンスを入れ替えて会場の笑いを誘い、約1時間半のコンサートが終わりました。

沖仁さんのフラメンコギターは「素晴らしい」の一言です。伊集院史朗さんのダンスも同様で、ダンスが好きな同行者は熱心に見入っていました。私は高岸弘樹さんの魅力的な歌声に惹かれました。
 
2011_03210081 

曲名に私の聞き間違いがあるかも知れませんので、参考としてブルーノート東京のhpから引用した2ndショーのSET LIST(曲目表)を添付します。

1. EN LA CASA DEL MELCHOR
2. UNA MANANA EN BOLIVIA
3. RESPETO Y ORGULLO
4. THE HIT MEDLEY
5. C/SAN PABLO
6. ONCE
7. 即興
8. SOLEA
9. MARCHA DESPUES DE LA LLUVIA

沖仁さんの演奏をYouTubeで何曲か紹介します。お好きな曲名をクリックして下さい。

クラシック・メドレー 雨上がりのマーチ サンパブロ通りの天使達 べサメムーチョ Fantasma IV Buleria from RESPETO(今回のメンバー4人+α) メルチョ-ルの家

<同行者のコメント> 沖さんのコンサートはとても素敵でした。共演した伊集院さんのダンスもたっぷり楽しみながら、誰かに似ているなと思いました。そうそう、漫才コンビ「ピース」の又吉(またよし)直樹さんです。今日はお墓参りの帰り道に立ち寄った最初のスーパーで牛乳を、そして2軒目では卵を1パックだけ買えてホッとしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月20日 (日)

旧中山道のドライブ旅(番外編) 大垣城

今回のドライブ旅のコースには入っていない大垣市の大垣城を紹介します。旧中山道は垂井町で国道21号から北方にそれて県道234号で垂井町役場近くの垂井宿を通過したあと、県道216号で美濃国分寺跡を経由して大垣市赤坂町の赤坂宿に入ります。大垣市中心部から北西約4kmの場所です。一方、国道21号は大垣市付近で旧美濃路寄りのルートをとっています。ちなみに美濃路は東海道の宮宿(名古屋)から中山道の垂井宿を結ぶ脇往還(わきおうかん、脇街道)でした。

この赤坂宿では本陣近くの四ツ辻で北の西国三十三所第三十三番札所華厳寺(けごんじ)方面に向かう谷汲(たにぐみ)街道と南の伊勢方面に向かう養老街道が東西に延びる旧中山道と交わっています。皇女和宮が旧中山道を江戸へ下った際、この赤坂宿に宿泊したそうです。

さて番外編の本題に入ります。旧中山道のドライブ旅に出かける前に事前調査を兼ねて京都から大垣までJR東海道本線で鉄道の旅をしました。東海道新幹線が出来てから東海道本線も電車区間は細切れになっていますので、京都駅から長浜行きに乗車して米原で大垣行きに乗り換えました。途中、車窓から伊吹山や関ヶ原の古戦場跡などの風景を楽しんでいると京都駅から約1時間半で大垣駅に到着。
 
2011_02190021 
2011_02190027 

ターミナルビル「大垣アピオ」があるJR大垣駅を出ると、駅前ロータリーに水の都らしい巨大なモニュメント「水都タワー」がありました。駅前から南方向に1km余り伸びる県道57号(美濃路)は大垣市中心部の目抜き通りの役割を果たしています。写真の右上に名前が見える西濃運輸は大垣市に本社を置く大手運輸会社です。
 
2011_02190055 

駅前にはもう一つ目立つものがありました。「奥の細道むすびの地」の看板です。俳人松尾芭蕉が江戸の深川を出発して陸奥(東北地方)を反時計回りに巡(めぐ)ったあと、日本海側を経由、大垣まで旅した紀行文集が「奥の細道」と呼ばれます。旅の終わりに詠(よ)んだ句が「蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」。当ブログも2年半前に矢立初(やたてはじめ、旅立ち)の地であった千住と東北地方の奥の細道のルートを辿(たど)っています。
 
2011_02190028 
2011_02190063 

市内に12箇所ある自噴水の説明文と案内図が並んでいました。
 
2011_02190065 

左手の噴水の先に見えるのは大垣銘菓の金蝶製菓総本店です。
 
2011_02190030 

県道57号を南へ歩きました。最初の交差点にある一際大きな建物は大垣市を代表するデパートのヤナゲン本店。ユニークな経営で知られる大垣共立銀行の名も見えます。
 
2011_02190054 

さらに200mほど歩くと水門川(すいもんがわ)に差し掛かりました。大垣城の外堀であった豊かな清流です。
 
2011_02190051 

県道57号の両側に続く商店街は郭町(くるわまち)と表示されています。大垣城の城郭(じょうかく)だった場所でしょう。
 
2011_02190049 

大垣城には立派な表門が再建されていました。
 
2011_02190047 

江戸時代初期の大垣城は何重もの濠(ほり)に囲まれた城であったようです。
 
2011_02190044 

戸田氏鉄(うじかね)公騎馬像が白亜の天守と乾櫓(いぬいやぐら)を背に立っています。三河国で徳川家康の家臣でしたが、大津の近江膳所藩藩主となり、江戸時代初期に10万石の美濃大垣藩初代藩主となった人物です。
 
2011_02190041 

大垣城の天守です。明治時代に入って廃城となった際に取り壊しを免れた天守は国宝に指定されましたが、戦災に遭って焼失、1959年(昭和34年)に再建されました。
 
2011_02190043 

蘊蓄(うんちく)を少し。大垣城は関ヶ原の合戦の前に西軍の石田三成が入城して西軍の本拠地(前線司令部)となりましたが、西軍の主力が関ヶ原へ移動すると前線守備の役割を担います。西軍が敗北すると佐和山城と同様に落城しました。

大垣駅へ戻ると「鉄道のまち大垣」の案内板が目に入りました。明治17年に東海地方初の鉄道が関ヶ原から大垣まで延長され、明治20年に東海道線が新橋‐神戸間で全線開通した経緯が説明されています。写真は旧国鉄大垣貨物駅の保存展示です。

2011_02190057

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月19日 (土)

旧中山道のドライブ旅 南濃温泉「水晶の湯」

県道257号を東に走って県道215号に入り、宮代交差点で中山道(国道21号)を横切ります。いつものように欲張った今回の計画を完遂(かんすい)するため予備時間はほとんど無くなっていましたが、この日の最終目的地まで20kmほどですから暗くなる前に到着できるはずです。しかし「好事魔多し」、道路工事による通行止めに遭遇した時、オーバーヒート気味になっていた「私の勘ピュータ」が機能不全に陥って右折禁止の罠(わな)にはまってしまい、国道21号まで押し戻されました。

県道214号と県道56号で有名な養老の滝(日本の滝百選)がある養老ランド(養老公園)前を通過します。孝行息子が滝の水を汲むと父親が好きであったお酒に変わったという伝説があります。羨(うらや)ましい場所ですが日没前に最終目的地に到着したいので先を急ぎます。県道56号(薩摩カイコウズ街道、南濃関ヶ原線)は養老町から海津市に入りました。駒野交差点で国道258号(水郷街道)に合流すると到着です。

案内看板に従い自然公園「月見の森」の駐車場に車を停めました。海津市営の天然温泉「水晶の湯」は258段の階段を上った養老山地の高台である「月見台」にあります。
 
2011_02190609   
 
一般客は車を公園内に乗り入れられませんので、専用のシャトルバス(無料)を利用する必要があります。12分間隔で運用されていますので、寒さを避けて待合室となっている小さな建物で待ちました。
 
2011_02190608 

月見台にある「水晶の湯」には岩風呂・日替風呂など11種類のお風呂とサウナがありました。泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉(中性高張性温泉)で神経痛・筋肉痛などに効能があるそうです。入館料は大人が500円。
 
2011_02190614
 
2011_02190627 
2011_02190618

 
海津市は水郷の町で輪中(わじゅう、周囲に堤防を築くことで洪水から守られた集落や耕地)がかって有りました。2年半前に同市の国営木曽三川公園センターを訪れています。通路には茨城県潮来(いたこ)市や福岡県柳川市などと同じ花嫁船(嫁入り船)の写真が多数飾られていました。
 
2011_02190625 
 
この日の日替わり湯は「緑茶」でしたが、「水晶の湯」最大の魅力は何といっても露天風呂です。檜風呂(ひのきふろ)と岩風呂があり、この日の男湯「煌(きら)めきの湯」は岩風呂でした。その写真は撮影できませんので水晶の湯のhpを参照して下さい。
 
2011_02190616 
2011_02190620 
 
 
素晴らしい展望は北信州の馬曲(まぐせ)温泉「望郷の湯」・山梨市の赤松湯ぷんぷくなどが印象深いのですが水晶の湯はさらにスケール感があります。薄暮の露天風呂を楽しみました。
 
   
2011_02190612 
2011_02190611
 
残照に映える濃尾(のうび)平野が暗くなって夜景に変わる様は期待以上でした。
 
2011_02190628 
   

下山もシャトルバスですから暗闇(くらやみ)の曲がりくねった急坂も安心です。
 
2011_02190629   
 
駐車場から帰路に着きました。国道258号を快調に走って、午後7時過ぎに名神高速道路の大垣ICに入ることができました。自宅最寄りのICまで約360kmですから、順調に走ればその日の内に到着できそうですが、この日は休日ですからやや高速で走行したため午後11時過ぎには帰宅できました。

<同行者のコメント> 午後になっても山道を走り回る旦那さまにはあきれます。暗くなるまで温泉に入っている場合ではないと心配! でも水晶の湯はすてきな温泉でした。ところで日頃自慢にしている高速道路のエコ運転はどうしたのですか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月18日 (金)

旧中山道のドライブ旅 竹中半兵衛の里

桃配山を過ぎると1kmほどで国道21号は不破郡垂井町(ふわぐんたるいちょう)に入りました。新日守交差点を左折して関ヶ原バイパスに入り、野上北交差点を右折、県道53号と県道257号を北上して豊かな田園地帯が広がる道で岩手小学校を目指します。竹中氏陣屋跡(竹中半兵衛公陣屋跡)を訪れるためです。
 
2011_02190585 
 
岩手(いわで)地区に入ると「竹中半兵衛重治(はんべえしげはる)公のふる里」の標柱があります。
 
2011_02190587 

竹中半兵衛公陣屋跡には白壁の櫓門(やぐらもん)と石垣や濠(ほり)などの一部が残っています。陣屋の敷地だったと思われる場所は保育園と小学校になっていました。
 
2011_02190592 
2011_02190590 

櫓門の前には鎧兜姿(よろいかぶとすがた)の竹中半兵衛像があります。フラッシュが効かず表情が写っていないのは残念です。
 
2011_02190594 
2011_02190591
 
   

竹中半兵衛の略歴をWikipediaなどの資料を参考にして紹介します。半兵衛は戦国時代の武将として有名ですがその名は通称で、本名は竹中重治(しげはる)、美濃国を支配した斎藤道三(どうさん)の家臣で美濃国大野郡大御堂城(おおみどうじょう、岐阜県揖斐郡大野町)城主であった竹中重元(しげちか、しげもと)の子として生まれました。

道三の隠居後、重元は不破郡岩手の地を支配して菩提山城(ぼだいさんじょう)を築きました。父重元の死去により重治は家督(かとく)を相続、菩提山城主となって美濃国主の斎藤義龍(よしたつ、道三の長男)に仕え、斎藤義龍が死去するとその後を継いだ斎藤龍興(たつおき、義龍の子)に仕えますが、龍興は若年で凡庸だったために織田氏の侵攻を防ぐことが困難となります。 

その状況でも斎藤勢は重治の戦術によって織田勢に勝利しましたが、龍興は酒色に溺れて政務を顧(かえり)みようとしないため、十数名と少ない手勢で龍興の居城稲葉城(後の岐阜城)を乗っ取りました。織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると城を譲り渡すように要求しましたが、重治はこれを拒絶し、自ら稲葉山城を龍興に返還して斎藤家を去ります。その後は北近江の戦国大名であった浅井長政(あざいながまさ)の客分(きゃくぶん)となりますが約1年で旧領の不破郡岩手へ帰って隠居します。
 
2011_02190588 
 

織田信長の侵攻により斎藤氏が滅亡すると織田信長は竹中重治を家臣に登用したいと考え、美濃攻めで頭角を現していた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じ、秀吉は「三顧の礼」で重治を誘いました。竹中重治はこの時に秀吉の天性の才能を見抜いて秀吉の家臣となることを了承したとされますが、織田信長の直臣として登用に応じたという見方が有力のようです。 

織田信長が浅井・朝倉に対立すると対浅井の調略活動で活躍しました。後に秀吉の与力へと転じ、今孔明と呼ばれた軍師として同じく軍師であった黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「二兵衛」と並び称されました。竹中重治は豊臣秀吉に従って中国遠征に参加しますが播磨三木城(兵庫県三木市)の包囲中に胸の病で倒れました。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させましたが、重治はすでに自らの死期を悟り、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して陣中で613日に死去しました。享年36

以下は余談です。官兵衛の子である黒田長政は官兵衛が荒木村重に捕まった折に半兵衛の策で命を救われると、成長して秀吉に仕え、徳川時代に入ると福岡藩主となりました。その恩義に感謝して黒田家の家紋として竹中家の家紋を採用しています。

訪れた陣屋跡には竹中氏縁の品を公開する菁莪(せいが)記念館がありますが、閉館時間が近いので立ち寄らず、北方の禅幢寺(ぜんどうじ)にある竹中半兵衛の墓を訪れることにしました。
 
2011_02190600 
2011_02190601 

本堂の左手奥にある墓地に秀吉が建立した半兵衛の墓がありました。思ったよりも質素です。半兵衛の墓所は最後の陣地となった兵庫県三木市平井山にもあるそうです。
 
2011_02190603 

菩提山城(別名岩手城)跡には竪堀(たてぼり)や堀切と思われる跡が残されているそうですが、足元が悪そうですから菩提山(標高402m)へ登ることは諦(あきら)めました。写真の左手に写っているのは菁莪記念館です。(続く)
 
2011_02190589

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月17日 (木)

旧中山道のドライブ旅 関ヶ原の合戦

岐阜県(美濃国)最初の宿場は今須宿です。
 
2011_02190537 
 
関ヶ原町の市街地に入った関が原西町交差点で国道365号と交差します。石川県加賀市と三重県四日市市を結ぶ国道ですが、昔は北国街道脇往還として北国街道(北陸道)から中山道へ入る大名行列や旅人が近道として利用したルートです。
 
2011_02190538 

ずいぶん昔に訪れたことがある関ヶ原古戦場跡を再び訪れました。今回中山道を辿る動機付けになりました。三成が家禄の半分を与えて仕官させた島左近の陣地は笹尾山麓の駐車場から一段高い場所にあります。案内看板には清興ではなく、もう一つの別名である勝猛として説明されています。
 
2011_02190548 

石田三成が本陣を構えた笹尾山をさらに登ります。
 
2011_02190549 

日の当たらない斜面には雪が残っていました。
 
2011_02190552 

一番高い場所が石田三成の陣地跡です。
 
2011_02190553 

関が原合戦陣形図には東西両軍の主力武将たちが陣を構えた場所が示されています。徳川家康は中山道(東山道)に近い左手の南宮山麓(桃配山)に本陣を構えています。一方、裏切り(反応)が勝敗を決したと言われる小早川秀秋(こばやかわひであき)は右上の松尾山に陣(オレンジ色のマーク)を構えていたことが分かります。
音声ガイド(その1その2その3
 
2011_02190554 

石田光成が最適の場所に本陣を設置したことがよく分かります。ちなみに右端に写るのが松尾山です。
 
2011_02190555 

石田三成陣地の少し東南に決戦地碑がありました。写真の左端が笹尾山です。
 
2011_02190559 

関が原歴史資料館に立ち寄ったあと、徳川家康最後陣地跡も訪れました。
 
2011_02190563 

こちらは500mほど西方の開戦地です。
 
2011_02190565   
 
ここからは西軍の主力となった陣跡を紹介します。最初は神明神社の島津義弘陣跡。

2011_02190578   
 
 
天満山(てんまやま)の北東にある小西行長(ゆきなが)陣跡
 
2011_02190567 

宇喜多秀家(うきたひでいえ)陣跡が天満山南麓の天満神社にありました。
 
2011_02190572 
 
大谷吉継(おおたによしつぐ)の墓を目指しましたが、ダムを越えて、さらに雪が残る山道をかなり歩く必要がありましたので断念。国道365号を経由して国道21号へ戻る途中に偶然見かけた奥平貞治(おくだいらさだはる)の墓に立ち寄りました。東軍に寝返ること(反応)を約束した小早川秀秋の監視役を家康から命じられた人物です。松尾山にいた秀秋の決心を促(うなが)して友軍の大谷隊を攻撃させ、その時に陣頭に立って戦ううち大谷隊に押されて松尾山麓へ後退した際、討ち死にしたと言われます。
 
2011_02190542 

笹尾山から望むことができた桃配山(ももくばりやま)の徳川家康最初陣地跡の脇を交通量の多い中山道(国道21号)が通っています。
 
2011_02190583   
 
桃配山とは変わった名前です。壬申の乱の時に大海人皇子(天武天皇)が不破(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町野上)にあった野上行宮(のがみあんぐう、尾張大隅の私邸)からこの山へ出陣、兵士を励ますために桃を配ったという伝説から付いた名称です。地元観光協会によると行宮跡は真念寺の南の高台にあったと推定されるそうです。徳川家康はその故事にあやかってこの伝説の地に初陣を構えたようです。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月16日 (水)

旧中山道のドライブ旅 鳥居本宿追分から柏原宿へ

旧中山道鳥居本宿の追分まで戻ると「旧中山道 磨鉢峠望湖堂」の巨大な道標があります。道標にある望湖堂(ぼうこどう)は、摺鉢峠(すりはりとうげ)に建っていた琵琶湖を一望できる由緒ある茶屋でしたが、平成3年(1991年)の火災で消失したため現在は存在しません。また弘法大師縁の地とあるのは、摺針峠で出会った老婆が斧(おの)を石で削って針を作ろうとしていたことに弘法大師が感銘を受けたとの伝承があることによります。緩やかな道がうねりながら峠に向かっています。
 
2011_02190496 
 
800mほど上った摺針峠にある磨針神明宮の鳥居脇に望湖堂があったようです。幕末に皇女和宮も江戸へ下る途中立ち寄られたとのこと。神社の周辺には残雪があって車を止めるスペースが見当たりません。写真を1枚撮影するだけで通過しました。
 
2011_02190517 

峠を過ぎると視界が広がって雪が積もる畑の先に名神高速道路が見えてきました。
 
2011_02190518 

三叉路に道標が2つ立っています。右手へ向かう道は現代になって造られた鳥居本宿への抜け道のようです。古い道標には「摺針峠 彦根 番場 醒井」とあります。その裏側には「中山 鳥居本」の文字が読み取れます。
 
 
2011_02190520   
 

名神高速道路の脇に出ました。旧中山道はこの高速道路と付かず離れずのルートを通っているのです。
 
2011_02190522 

小さな祠(ほこら)の横で流れ落ちる清水には泰平水の名があります。すぐ先に小磨針峠(こすりはりとうげ)があるはずですがその表示は見当たりません。名神高速道路のトンネル辺りがその峠のようです。
 
2011_02190523 

緩やかな下り坂はさらに名神高速道路に沿って進みます。前方に見える雪山は滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山(いぶきやま)、日本武尊(やまとたける)が東征からの帰路、この山の神に襲われて病を得たと伝えられる山です。日本武尊はその後、大和へ戻るため現在の亀山市までたどり着いた時に力尽きて亡くなったことを古事記と日本書記が記述しています。
 
2011_02190524 

名神高速道路沿いの道端に「中山道 番場」の真新しい石碑がありました。
 
2011_02190525 

聖徳太子の建立と伝える蓮華寺(れんげじ)の門前に「瞼の母番場忠太郎地蔵尊」と書かれた大きな標柱が目に入りました。劇作家長谷川伸氏の戯曲「瞼(まぶた)の母」の登場人物(架空)です。南北朝の古戦場跡とは、元弘3年(1332年)に南朝後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の兵に追われた六波羅探題(ろくはらたんだい)の北條仲時(ほうじょうなかとき)は、北朝の天皇を奉じて中山道を鎌倉へ下る途中に、この番場宿で南朝軍に包囲されて主従約430名が自刃したことを指すようです。
 
2011_02190526 

民家の庭先に問屋場跡碑がありました。
 
2011_02190527 

蓮華寺の方向を振り返ってみました。
 
2011_02190528 

国道21号に行き当った樋口西交差点(米原ICの近く)に銅像が見えます。
 
2011_02190529 

番場の忠太郎像でした。伊吹山を背にして故郷の番場宿の方向を見ているようです。
 
2011_02190531 

ここから先は旧中山道が国道21号にほぼ吸収されます。
 
2011_02190535 
 
日本武尊の伝説に登場する湧水の「居醒泉(いさめがい)」が地名の由来となったと伝えられる醒井宿(さめがいじゅく)と近江国最大級であったと言われる柏原宿(かしわばらじゅく)を過ぎると旧中山道(国道21号)は岐阜県に入ります。(続く)
   
2011_02190536

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月15日 (火)

旧中山道のドライブ旅 京都から米原へ

旧中山道(なかせんどう)は、律令時代の東山道(とうさんどう)のうち、京都(三条大橋)と江戸(日本橋)を結ぶ江戸時代に整備された主要街道でした。中仙道と表記されたことがあります。当ブログでは日本橋板橋宿美濃路木曽街道近江路軽井沢小諸三条通りなどで繰り返し取り上げたテーマです。

長岡京市から京都市伏見区淀本町(京街道の淀宿)に出て宇治川沿いに進み、京都外環状線(府道7号)に入り、伏見(ふしみ)の六地蔵で府道36号(大津街道)にそれて醍醐(だいご)を経由、山科(やましな)で国道1号に出ました。
 
2011_02190460 
 
国道1号の京都と栗東の間は旧東海道と旧中山道の共用部を踏襲していますが、今回は旧道ではなく国道1号で先を急ぎます。滋賀県に入ると道幅が狭くなっていつも通り渋滞が断続的に発生するなか大津市と草津市を通過、栗東市(りっとうし)で国道8号(中山道)にそれると車の通行量が少なくなって快調なドライブとなりました。
 
2011_02190467   
 
野洲市(やすし)、近江八幡市、東近江市などを通過するとほどなく彦根市に入ります。4年前には彦根市から京都方面へ中山道などの近江路を辿(たど)って城址巡りをしましたので、今回は中山道で反対方向(東方面)を目指します。現在の国道8号は米原市で北陸道となり、中山道は国道21号となって岐阜県へと向かいますので、まず米原市を目指すことにします。
 
2011_02190473   
 
本題に入る前に寄り道をします。新幹線で関西を往復するときに看板を見掛ける佐和山城址は関が原の合戦で西軍の総師であった石田三成の居城であったことで知られます。西軍が破れた直後に佐和山城も落城、徳川家直参の井伊家が佐和山城や大津城など近江の城を移築して彦根城を築くと廃城になりました。国道8号の古沢交差点を左折、船町東交差点を右折、さらに東海道本線の踏切を渡ると佐和山城址に到着です。
 
2011_02190514 
 
石田三成の重臣であった島左近の屋敷跡は井伊家の菩提寺の清涼寺となっていました。「治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳(うた)われています。本名は島清興(しまきよおき)、石田三成に仕官する前は筒井順慶(つついじゅんけい)や蒲生氏郷(がもううじさと)の家臣に仕えたとも言われます。
 
2011_02190512   

新幹線から見える大きな看板を目指して坂道を上りました。
 
2011_02190509   
 
期待した通りに立派な石垣が残っていましたが、その中は個人の所有地になっているようで、門には表札が掛けられています。彦根市街地を展望して城址を後にしました。
 
2011_02190508 

国道8号に戻りました。佐和山トンネルを抜けた直後に右手の県道239号(旧朝鮮人街道、彦根道)に入りました。国道8号の東側、東海道新幹線と名神高速道路に並行する旧中山道に入るためです。郵便局(彦根鳥居本局)の近くで旧中山道に行き当たりました。道標には「左 中山道 京いせ道 右 彦根道」と彫られています。ちなみに朝鮮人街道は朝鮮通信使(使節)だけが通行を許されたことが名前の由来です。
   
2011_02190505 

近江鉄道鳥居本(とりいもと)駅の近くに旧中山道の鳥居本宿の跡がありました。
 
2011_02190501 

宿場の北側にある枡形(ますがた)に赤玉神教丸本舗(江戸時代中期に建設された有川家住宅、滋賀県指定文化財)の大店舗が目立ちます。
 
2011_02190502 

宿場跡を抜けると旧中山道は国道8号に合流します。松並木の「旅しぐれ」を再生するため松の若木が植えられていました。
 
2011_02190500  
 
「また おいでやす」と彫られた大きな石柱があります。反対側から見ると「おいでやす 彦根市」と表示されていました。
 
2011_02190493 

橋を渡るとすぐ右手方向へ別れます。ここが追分なのでしょう。このまま旧中山道を辿る前に、北陸道(北国街道)の米原宿に寄り道することにします。米原駅東口前では西口側に続いて大規模な再開発が進められているため旧北陸道へ入る場所も曖昧になっていました。それでも宿場跡に入ると宿場らしい雰囲気が残っています。本陣は湯谷神社の近くにあったそうです。
 
2011_02190485   
 
三叉路に江戸時代に建てられた道標が立っていました。「左 北陸道 なかはま(長浜) きのもと(木之本) 右 中山道 はん八(番場) さめかゐ(醒井)」と彫られています。
 
2011_02190487 
2011_02190490   
 
中山道は北陸道の起点である鳥居本宿で北東方向へ向かっていたはずです。調べると中山道(番場宿)への連絡道である「深坂道」のことを指していました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月12日 (土)

被災された地域の方々へお見舞申し上げます

昨日午後3時少し前に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)により東日本の広い地域で甚大な被害が出たことをテレビと新聞の報道で今朝になって知りました。地震の発生直後に停電したしたためテレビは見られなくなりました。そのため、ずっとラジオを聞いていましたが、改めて被害の大きさに驚くばかりです。被災された方々に心からお見舞申し上げます。そして一日も早い復旧をお祈り致します。

震源地から約400km離れたわが家も今まで経験したことのない激しさで揺れました。脱出できるようにドアを2箇所開けてから、わが家で一番しっかりした家具である居間の大きなテーブルの下に潜ってひたすら地震が治まるのを待ちました。余震のあとに家の中を見回すと、幸いなことに家具などに異常は見られませんが、家具や棚の上に置いた物が床に散乱していました。

その状況を確認してから車でわが家を出ました。近くに住むチビスケくんの家族が気掛かりで家を訪ねることにしたのです。交差点の信号機はすべて消えており、警官が交通整理に当たっていました。細心の注意を払って混雑のない裏道を走りしました。到着した時、チビスケくんは直前まで遊び回っていたため爆睡中! チビエちゃんもスヤスヤ!! 安心しました。こちらも停電中。防災リュックに入れて持参した防災用ラジオが役に立ちました。時々ハンドルを回して充電する動作で気を紛らしました。

夕方が近づいても電気が復旧しません。チビスケくんのお母さんが近くのコンビニで食べ物を買って来てくれました。おにぎりや弁当などはすべて売り切れていて、菓子類や焼き鳥・サラダなど食べられるものを何とか確保したそうです。暗くなる前にロウソクに火を付けました。そして外出用に羽織った上着とマフラーを防寒のため再び着用しました。携帯電話とメールで身内と連絡を取ろうとしましたがほとんど通じません。メールは何度試みても送信不能。しかしまれには長い時間をかけて届くこともありました。

チビスケくんのお父さんは都心の職場から5時間も歩いて無事に帰宅したことで安心した私と同居者は帰宅することにしました。午後10時を過ぎてもまだ交通信号は復旧していません。わが家に電気が戻ったのは12時近くでした。ラジオを聴きながら床に散乱した物を片付けましたが、時々余震が続くため寝る気にはなれません。同居者が観るテレビでは各地の甚大な被害の様子を生々しい映像で伝えています。余震は段々弱くはなっているようですが朝になってもまだ続いています。

 
追伸(2011年3月17日)

東日本大震災が発生して1週間近くが経過して、余震も徐々に納まり、わが家の生活もほぼ普段通りに戻りつつあります。計画停電で断続的な停電は続いていますが、おおよその実施時間が発表されていますから影響は限定的です。エアコンの使用を控えて、室内の寒さは厚着をすることと毛布や湯たんぽを活用することで凌(しの)いでいます。食糧についてはコンビニやスーパーで売り切れが常態化したため、お米のストック残量が少なくなってもその補充はできませんが、幸いなことに近所のパン屋さんに食パンを焼いていただいたため、少食の私たちはこれで当面凌(しの)げると思います

一番気になるのが車のガソリン。昨日もチビスケくんとチビエちゃんの家へ様子を見に行く途中、ガソリンスタンドを覗(のぞ)いてみてビックリ。幹線道路にはみ出て給油を待つ車が2-30台も列をなしていて、しかもその後尾付近で店員が「売り切れの看板」を掲げていました。当面は車での外出を極力控えて、ガソリンの供給(買い溜め需要)が安定化するまで我慢する必要がありそうです。 

以下は私の感想です。テレビの報道番組や新聞紙上で政府・官庁や関連企業の対応を批判する論調が相変わらず目立ちます。建設的な提案や被災時の対処法と言うよりも批判のための批判を繰り返すコメンテーターの発言には怒りさえ感じるのです。今は日本社会全体が力を合わせて未曾有の災害に対処すべきだと思います。緊急対応への批判や反省は対策がある程度奏功してからでも遅くはないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 8日 (火)

松本清張の歴史小説「眩人」を読む

関西のドライブ旅は奈良と京都を回ったところで前半(計8件の記事)が終わりました。後半に入る前にインターミッション(中間の休憩時間)として、後追いになりますが、奈良・興福寺の記事で引用した松本清張作「眩人」の書評を掲載します。本書は奈良仏教の高僧であった玄昉僧正(げんぼうそうじょう)を主人公とする歴史小説で、雑誌中央公論に昭和52年2月号から36回連載され、そして中央公論社から昭和55年11月に単行本が発行されました。題名の眩人(げんじん)には眩術(幻術あるいは妖術)を使う人の意味があります。

                             ◇

第一部では、玄昉の生涯を概観する導入部に続いて、遣唐留学僧(るがくそう)として中国の都長安に足かけ20年間滞在した時の様子を玄昉自身の視点から松本清張氏の卓越した文章がリアルに描写する。

イランのゾロアスター教(拝火教)の流れを汲む胡国(現在の中国西方地域)の祆教(けんきょう)に魅入られて眩術に異常な関心を寄せる玄昉は、その知識を得るため興福寺からの先輩留学僧の惟安(すいあん)の助けを借りて、西域出身の商人・康忠恕と知り合う。玄昉を気に入った康忠恕はゾロアスター教徒の集う祠堂(しどう)に玄昉を誘う。炎から昇る煙の香気と単調な経を読む声に眠気を覚えた玄昉は地下の斎場で提供されたお神酒(みき)を飲んだあとに不思議な夢を見る。それは淫猥(いんわい)であるとともに夢とは思えない生々しさがあった。

同時期の留学生(るがくしょう)であった下道真備(しもつみちのまきび、後の吉備真備)との交流や唐朝の役人として取り立てられたエリートの阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)を登場させる。越前の田舎寺から奈良の法興寺に修行に入り、首尾よく留学僧となった玄昉は近づいた帰国に備えて朝廷から与えられた支度金で経典を集めていたが、吉備国豪族の子弟で裕福な真備のようにははかどらない。そのため眩術に興味を持ったのである。

康忠恕を説得してその使用人であった眩術に長けて薬の知識が豊富な西域出身の少年・康許生を伴って玄昉は帰国の途につくが嵐のために遭難する。しかし幸運にも多祢島(現在の種子島)に漂着して救助される。他の船は現在のベトナム南部に漂着し、もう一艘(そう)は行方不明になってしまう。
 
写真は平城京歴史館前に復元展示された全長約30mの遣唐使船 
2010_09260020 
 
第二部(李密翳の回想記)では、玄昉に伴われて来日した康許生の目から見た玄昉と朝廷の有り様が描かれる。李密翳(りみつえい)は玄昉が康許生に付けた胡人(西域人)風の名前。(注;李密翳は続日本記に記載がある実在の人物、作者が架空の人物である康許生に現実感を持たせるため変名として使用) 有能な少年に印象的な名前を付けて自らの出世のために利用しようと玄昉は考えたのである。順調に出世し始めた能吏(のうり)である下道真備と互いに協力し合ったことを作者は強調する。

唐で仕込んだ知識と幻術を武器に、関心を持って詳しく調べた則天武后(そくてんぶこう、唐朝の高宗皇帝の皇后で後に女帝となる)に取り入った薬売りのフウ(ニ水扁に馬)小宝に倣(なら)う機会が玄昉に訪れる。すなわち中宮亮(ちゅうぐうすけ、中宮職ナンバー3)となった真備の口利きにより、聖武天皇生母である大夫人藤原宮子(藤原不比等の娘)の重病(35年間精神病同様であった)を秘薬によって治療し、その寵愛(ちょうあい)を受けて朝廷での権力伸張を狙う機会を得たのである。李密翳は黒子として大夫人の病状を診断して秘薬を調合する。七日七夜の看病で大夫人は治癒(ちゆ)した。

聖武天皇は35年ぶりに生母との対面がかなったことで玄昉に多大な品を賜(たまわ)り、内道場(ないどうじょう、宮中に設けられた仏事を行う建物)を拡張する許しを与える。そして大夫人はこの内道場を訪れることが多くなる。李密翳は琵琶を演奏し、西域の雑技(踊り)と幻術を披露する。大夫人が玄昉を皇后(大夫人の異母妹)に紹介すると、皇后も皇后宮に近い内道場をよく訪れるようになる。皇后に「光明子」(こうみょうし)の名を献じる。これを大いに気に入った皇后は玄昉が説明した唐の制度にならい国ごとに二箇寺を置くことを考える。玄昉はそれを実現するため最高権力者である橘諸兄(たちばなのもろえ、皇后の異父兄で皇族から臣籍に下った葛城王)を動かすことを考える。権勢を誇った藤原四兄弟が疱瘡(ほうそう)で一時に死んだため橘家が勢力を伸ばしていたのである。

                             ◇

そして大宰府の副長官であった藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が玄昉と弟子である李密翳の会話として記述される。作者は玄昉の口を借りて筑紫国は太古に邪馬台国があったとする自説を述べ、畿内の朝廷に反抗する気勢が強いともいう。広嗣は自らを左遷させたと考える玄昉と真備を排除することを朝廷に請うが受け入れられず、兵を動員したため朝廷軍に破れて肥前国の孤島に逃げるが、捕らえられて処刑される。玄昉は橘諸兄が広嗣を西海に左遷して謀反へと追いやったと李密翳に説いて聞かせる。

その間に聖武天皇は東国へ出かけ、反乱が平定されたと聞いても天皇の旅はなおも続く。玄昉は天皇の健康を考えた自らの計画であるという。作者はその経路が壬申(じんしん)の乱における大友皇子の東国脱出とほぼ同じであったことから聖武天皇の目的が東国の勢力を固めることにあったと玄昉に言わせる。聖武天皇は伊勢国より美濃国を経て恭仁宮(くにみや、現在の京都府木津川市にあった)に到着、この地を都と宣言した。しかし平城京から移築された大極殿や回廊は建築半ばであった。

聖武天皇は恭仁宮がまだ完成しないのに紫香楽(しがらきのみや、甲賀宮)の造営を始める。作者は紫香楽宮があくまでも仮宮であり、自らが皇后を通じて天皇に吹き込んだ大仏造立の準備であったと玄昉に言わせる。紫香楽に良質な粘土と薪(まき)材としての松が多かったことを理由に挙げる。そして聖武天皇は大仏造立の詔勅(しょうちょく)を下す。玄昉は有頂天(うちょうてん)であった。

                            ◇

ここで作者は藤原仲麻呂(なかまろ)と阿部内親王(後の孝謙天皇)を登場させる。そして大仏の建立で仲麻呂が起用したのは僧の行基(ぎょうき)である。行基は渡来系の僧で土木工事に優れ、行基を慕う800人もの僧と俗人の集団を率いていた。李密翳は玄昉に対して密かな危惧(きぐ、不安)を持ち始める。橘諸兄も事業力を利用するため行基を大僧正に任じた。これに対して玄昉は皇后や阿部内親王など皇族との関係を頼りにしているだけである。そして李密翳は玄昉の行く手に暗雲がたれ下がるのを見る。

聖武天皇は難波宮を帝都とすると詔勅を下すが、ほどなく平城京を再(ふたた)び帝都とすると宣言。安積親王(あさかしんのう、聖武天皇の第2皇子)が急死(作者は仲麻呂が毒殺したことを疑う)したため阿部内親王が女性としてはじめての皇太子となる。その直前に難波宮へ到着した聖武天皇は病に倒れる。李密翳の調剤した秘薬で病状が回復した聖武天皇に雑技を見せるよう玄昉は李密翳に命じる。その場に新羅国の使節が同席していた。あくる日宮殿で開かれた歌垣(歌謡と舞踏の集会)で李密翳は新羅使節団の一人に声を掛けられる。李密翳は新羅船に乗せてもらい長安に帰りたいと思い切って申し出る。玄昉に伴われて来日して10年になるが、師の玄昉が危なく自分の身にも危険が迫っているから早急に日本を離れたいと説明。詳しく話を聞いた使節団員は副使に取り次ぐ。倭国(日本)の来攻を恐れる新羅国の使節団は日本の情勢を調べることが重要な任務であり、副使は李密翳を長安に送り届けることを承諾する。

                           ◇

長安に戻った李密翳は死んだ康忠怒の商売を引継いだ。そして6年後に長安へ到着した遣唐使の留学生から玄昉のその後の運命を聞かされる。遣唐使の副使はあの下道真備であることも知る。筑紫観音寺造営の別当として左遷された玄昉は、寺の造営が成った落慶供養の日に黒雲に捕捉(ほそく)され、その首が奈良興福寺南大門に落ちたとされるが、藤原広嗣の残党が襲撃したものにちがいないとも語る。しかし作者は玄昉を暗殺したのは広嗣の従兄弟である藤原仲麻呂が放った刺客と李密翳に考えさせる。一方の真備はその後も出世を続けたが、数年後には筑前守に左遷され、さらに肥後守に降等させられた。むろん仲麻呂の指示であると作者は留学生に語らせる。

さらに25年後の留学僧から奈良で盧遮那(るしゃな)大仏の開眼供養(かいげんくよう)が行われたこと、女帝となった孝謙天皇と恵美押勝(えみのおしかつ)となった藤原仲麻呂の噂話・橘諸兄の死・僧道鏡の台頭・仲麻呂が反乱を起こして近江の湖畔で誅殺(ちゅうさつ)されたこと・そして道鏡は法王に任じられたあと東国のへんぴな寺へ放逐(ほうちく)されたことを李密翳(康許生)が知るところで物語は終わる。
 
写真は玄昉の首が落ちたと伝えられる南大門があった当時の興福寺再現模型 
2011_02190269 
 
松本清張氏ならではの豊富な資料引用と大胆な推論は骨太の歴史小説を完成度の高いものにしています。漢文を読むような難解な言葉の連続に悩まされながらストーリー展開の上手さに導かれて最後まで読破した時には、西域の秘薬の影響ではありませんが、充実感とともに脳細胞に重い疲労感を感じました。本書を2部構成にしたことの是非は評価が分かれると思います。第1部は玄昉の口から長安での出来事を語らせて現在の出来事であるかのような現実感がありましたが、李密翳が語り手となった第2部(作者は外国人の見聞録にしたという)はガラス越しに見る景色のようでやや物足りなさを感じました。余談です。後書きで作者が付記した恭仁宮址を下調べするために訪れた時の地形と風景の描写は、約30年前であるためアクセス道路が未整備であったことを除けば、私が同地を訪れた昨夏もほとんど変わりなかったことは印象深いことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 5日 (土)

長岡天満宮と天然温泉「伏見やまとの湯」

西国街道をドライブした時に何度も前を通り過ぎた長岡天満宮に参拝することにしました。菅原道真公在原業平たちとよく訪れた場所で、大宰府に左遷される時にも立ち寄ったと伝えられ、菅原道真公の自作と伝えられる木像を祀って創立されたこの神社は学業成就などのご利益(りやく)があるとして知られます。これは内密の話ですが最近 人様の前で話をすることが多くなった私は、そのご利益を期待して、一度は参拝したいと思っていたのです。コインパーキングになっている第2駐車場に車を停めました。
 

長岡天満宮と府道10号(丹波街道)の間に「八条が池」があります。八条の名は長岡京の条坊(大路)と関係があるのかと思いましたが、江戸時代に八条宮智仁親王によってこの池が築造されたことが由来でした。少し回り道になりますが、府道に面して立つ正面大鳥居まで歩きました。総御影石製としては亀山八幡宮(山口県下関市)や大國魂神社(東京都府中市)の大鳥居に並ぶトップクラスの大きさ(高さ9.75m)です。
 
2011_02190439
 
池の中ほどにある六角舎まで折れ曲がって伸びるのは総檜造(そうひのきづく)りの水上橋です。
 
2011_02190442 
 
参道(中堤)が「八条が池」を横切って真っ直ぐ伸びています。参道の中央部分は樹齢130年前後と言われる「きりしまつつじ」を保護育成するために開花時期以外は閉門されていました。中ほどに見える太鼓橋は加賀藩前田公の寄進と伝えられるそうです。
 
2011_02190440 

八条が池の景色を楽しみながら反対側の通路を歩きます。
 
2011_02190438 

人気(ひとけ)のない茶店脇を抜けるとニの鳥居です。
 
2011_02190437 

左手に折れ曲がって右手の石段を上ると三の鳥居が近づいて社殿も見えてきました。
 
2011_02190436 

正面の拝殿は戦前に平安神宮から移築されたものを平成10年に朱塗りに改築したそうです。
 
2011_02190427 

社紋になっている梅の花が拝殿前で咲きはじめていています。遅咲きの白梅とヤエカンコウバイのようです。
 
2011_02190433 
2011_02190430 

ご利益があることを信じて長岡天満宮を後に。府道79号で京都市伏見区に入って名神高速道路を潜(くぐ)り、菱川交差点を直進して府道123号に入ると、すぐ左手に日帰り湯に選んだ天然温泉「伏見やまとの湯」がありました。これまでに大津店と壬生店を利用しているチェーン店の建物は同じ雰囲気があります。
   
2011_02190452 

やまと湯の伏見店は天然温泉の湯(タートル温泉)を三重県亀山市から輸送する「運び湯」を露天岩風呂だけで利用しています。
 
2011_02190453 

平日の利用料金は600円。受付を済ませてロビーと一体化した食事処「やまと亭」の脇にある階段で2階へと上がりました。
 
2011_02190454   
 
入口を入ると男湯と女湯に分かれます。左手が男湯でした。
 
2011_02190457 

細長い脱衣場はそれほど広くありません。内湯に入ると左手は洗い場、右手には遠赤外線サウナと水風呂の先にほぼ真四角な浴槽があり、それがいくつにも仕切られて日替わり湯、バイブラバス、スーパージェットバス、深風呂(回遊風呂)、ジェットバスとなっていました。いずれも平凡ですから身体が温まるのを待って露天エリアに出ました。一番奥から露天岩風呂、露天座湯、濡縁、フィンランドサウナが並んでいます。気温が低いため天然温泉の露天岩風呂に長く留まりました。
 
2011_02190455   
 

泉質は炭酸水素塩・塩化物温泉(高張性弱アルカリ性低温泉)、泉温は源泉が30.1度(使用位置で42.0度)と表示されています。舐めるとかなりショッパイ味がしました。
 

<同行者のコメント> 旦那さまは今回もずいぶん走り回りました。真冬に戻った寒い日でしたし、時々雨も降りましたから、私はほとんど車の中にいました。いっしょに入った長岡京市の調査センターでは、古墳の場所を聞くだけかと思いましたが、旦那さまが係の方に古墳の話をあれこれ自慢げに話し始めてハラハラ! でも長岡天満宮に到着した時にはさすがに足取りが重くなっていましたね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 4日 (金)

長岡京市の古墳群

再び府道209号(光明寺道)を光明寺方面に走りました。光明寺前交差点を左折して(府道10号(丹波街道)で目印の長法寺を目指します。長法寺道との交差点に長法寺前のバス停を見つけて最初の目的地を探しますが、それについての案内が見つかりません。地元の年配者と思われる方に訊(たず)ねると、田圃(たんぼ)の中に伸びる細い道を指差して親切に教えてくださいました。府道から入る狭い道は、軽自動車なら問題ないのですが、私の車が通行できるか微妙でしたので歩くことにしました。住宅が建ち並び始めた田舎道の200mはかなりの距離に感じられます
 
2011_02190374 
 
七ツ塚公園の標識があります。ここに間違いないでしょう。
 
2011_02190375 

遊具などがほとんどない公園内でゲートボールを楽しむ人たちがいます。その東側に「長法寺七ツ塚古墳 五号墳」がありました。「長法寺七ツ塚古墳 三号・四号・五号墳」の案内板には約1450年前に造られた群集墳で、その内3つの墳が発掘中であること、五号墳は長さ約18mの方墳であると説明されています。有力者の家族墓であったと考えられるそうです。
 
2011_02190376 

この五号墳の他にも古墳が並んでいると聞いてさらに歩いて探すことにしましたが、急に冷たい雨が強く降り始めましたので断念、小走りに車へ戻りました。
 

長法寺道を東に進みます。七ツ塚古墳脇の道ほどではありませんがセンターラインが引かれていない狭い道です。事前に調べていた情報にしたがって見当をつけて住宅地に入ります。折れ曲がる路地を進むと行き止まりに今里大塚古墳公園がありました。向日市の物集女車塚古墳と同様に新しい住宅地に周囲を取り囲まれている今里大塚古墳です。裏手からアクセスしたようです。
 
2011_02190390 

今里大塚古墳は7世紀前半に造られた乙訓地方で最後の大型古墳で、乙訓地域を支配していた首長の墓と思われ、現存する墳丘は直径約45m、高さ6.5mの円墳ですが、前方後円墳の可能性もあるとの説明があります。
 
2011_02190389 

新興住宅地を抜けた反対側の道で丹波街道を横切り、西山体育館の脇を抜け、光風美竹通りで走田神社(はしりたじんじゃ)を目指しました。不思議な道路名だと思っていると、「孟宗竹発祥之地」の石碑が目に入りました。禅僧道元が中国杭州から孟宗竹(もうそうちく)の原種を持ち帰って寂照院近くに植えたとの説明が彫られています。その先にある走田神社の長い石段を上がって境内を探しましたが古墳らしきものは見当たりません。ちなみに走田とは聞き慣れない名称ですが早稲田の意味があるそうです。
 
2011_02190391 

近くの月極駐車場で車に乗ろうとする年配の方に古墳の場所を訊(たず)ねると、近くにある埋蔵文化財調査センターで聞いたらどうかとアドバイスして下さいました。奥海印寺通を走るうちに、丹波街道(府道10号)と柳谷道(府道79号)が交差する西陣町交差点まで行き過ぎてしまいました。同行者は「先ほど案内板を見かけたわよ!」と涼しい顔。奥海印寺通から脇道へ入った場所にある長岡京市立埋蔵文化財調査センターは想像したよりも立派な施設です。
 
2011_02190397 

駐車スペースに車を停めて向かった入口脇に「走田古墳群出土石棺」がありました。
 
2011_02190398 

インターフォンを押すと係の方がドアを開鍵して展示室の天井灯を付けてくださいました。2手に別れた広い展示室を見て回ったあとに走田9号墳の場所を訊ねました。
 
2011_02190399 

走田神社(はしりたじんじゃ)の南隣にある寂照院の本堂裏にあるそうです。
 
2011_02190406 

寂照院の立派な本堂を半周すると 室内に走田9号墳が保存されていました。
 
2011_02190410 
2011_02190412 

小高い場所に建つ本堂から南方を望むと正面(約2.5km南)に天王山が聳(そび)えています。山崎の合戦で明智光秀が本陣を置いた御坊塚は2kmほど東南で、ほぼ正三角形の位置関係です。
 
2011_02190414 

乙訓寺と長岡第三小学校の東方、府道67号の辺りにある今里車塚古墳は古墳時代中期初頭に造られた前方後円墳で周囲に方形の周濠を巡らしていたそうですが、現在は墳丘が削り取られて当時の面影は窺えないようですから通過することにしました。
 

長岡天満宮に参拝したあと、御坊塚を訪れた時に通った府道204号(サントリー通り)でサントリーの工場を通過、小畑川に架かる落合橋の点前を左折して、小畑川の堤防から長岡第八小学校を回りこむように進みました。長岡第八小学校・長岡第三中学校と東海道本線に囲まれる場所に小さな丘があります。
 
2011_02190446 

竹林に覆(おお)われる恵解山古墳(いげのやまこふん)です。左手に歩いてみました。恵解山古墳の周濠(しゅうごう、古墳の周囲に掘られた堀)跡です。全体像が上手く想像できませんので帰宅後に航空写真で確認しました。
 
2011_02190445 

墓地に入る道を上って一段高くなっている後円部から見渡すと前方部と後円部の間は新しい墓石が並んでいます。
 
2011_02190448 

前方部には鉄製武器類出土地の説明がありました。
 
2011_02190449   

恵解山交差点で恵解山通りからサントリー通りへ左折すると右手に「中山修一記念館」がありました。長岡京跡の発見に貢献した中山修一氏の生家を利用し、中山氏の足跡や研究成果を一目で見られる施設として長岡京市が整備した施設です。今回は前景の写真撮影に留めました。(続く)
 
2011_02190451

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 2日 (水)

向日市文化資料館と物集女車塚古墳

もと来た道を戻って向日市(むこうし)の中心部(向日市役所・消防署付近)へ向かいました。後先になりますが、長岡京のことをもっと知るために向日市文化資料館を訪れるのです。長岡京遷都1200年を記念して昭和59年(1984年)に開館されたそうで、「長岡京の歴史と文化」が常設展示されています。
 
2011_02190415 
 
文化資料館の入口脇に元稲荷古墳石室の天井板が展示されていました。元稲荷古墳(もといなりこふん)は向日神社の近くにある全長94mの珍しい前方後方墳で、築造は3世紀末から4世紀初頭、乙訓地域では最も古い古墳と考えられているそうです。
 
2011_02190416 

館内に入ると正面に長岡京の大きな地図と大極殿の模型が展示されています。現地では北から見た地図でしたが、こちらは南から眺める地図になっていますからイメージが描きやすくなっています。南西の角が桂川に切り取られたようになっていて、桂川東岸の京都競馬場辺りには条坊(道路)が伸びていなかったようです。
 
2011_02190417 
2011_02190418 

遷都の歴史が地図上に解説されていました。藤原京から平安京までほぼ一直線にならび、その経路が北方を目指したことが良く分かります。豊浦宮(とゆらのみや)・小墾田宮(おはりだのみや)や板蓋宮(いたぶきのみや)など日本で最初の都城とされる飛鳥京(あすかきょう、奈良県南部の飛鳥地域)に始まり、継体天皇が大和に入った時の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、奈良県桜井市)を経て、日本初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な中国風都城となった藤原京(奈良県橿原市)までの遷都も同様でした。都が北上を続けた理由を知りたいと思います。
 
2011_02190420 

入館者用に置かれていた資料には多数の古墳が向日市内にあることが説明されています。古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳である五塚原(いつかはら)古墳(全長約94メートルの)、伝高畠陵古墳(桓武天皇皇后陵)、古墳時代前期(4世紀)の寺戸大塚古墳(全長約94メートルの前方後円墳)、丸塚山古墳(淳和天皇火葬塚)、物集女(もずめ)車塚古墳です。
 
2011_02190423 

アクセスが簡単な物集女車塚古墳を訪れることにしました。府道67号を900mほど北上しました。全長約45m、高さ8mの規模を持つ、古墳時代後期(6世紀中葉)の前方後円墳は現在車塚緑地として整備されていました。
   
2011_02190424 
2011_02190422 

他の古墳にも立ち寄りたいところですが長岡京市にも訪れたい場所がたくさんありますから一箇所だけにしました。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 1日 (火)

乙訓寺

長岡京の大内裏跡は西向日駅周辺の住宅地に囲まれていて、発掘された場所もまだほんの一部のようですから、平城京跡のようにその広さを実感することはできません。ちょっと物足りない気持ちで約1.4km南西の長岡京市今里三丁目にある乙訓寺(おとくにでら) も訪れることにしました。府道203号から府道67号と同205号を経て同209号(光明寺道)で小畑川を渡って長岡京市に入りました。

 

今里樋ノ尻(ひのじり)交差点にある道標には「左やなぎ谷(柳谷観音) 右 光明寺」と表示されています。光明寺道はここで右へ折れますがやなぎ谷(だに)と示される方向へ直進します。ちなみに柳谷観音とは眼病平癒(へいゆ)の御利益があるとされる長岡京市浄土谷の揚谷寺(ようこくじ)です。
 
2011_02190334 
 
府道67号を南下、今里交差点を右折、約200m先で道標にしたがって右手の路地に入ります。
 
2011_02190346 

路地の先に乙訓寺の表門がありました。
 
2011_02190335 
2011_02190336 

乙訓寺は真言宗豊山派の寺で法皇寺とも呼ばれます。推古天皇の勅願により聖徳太子が約1380年前に創建したと伝えられた寺で、空海が別当を務めたことから真言宗となりました。光仁天皇の皇子(桓武天皇の弟)であった早良親王(さわらしんのう)の幽閉地として有名です。
 
2011_02190337 

桓武天皇の側近であり長岡京造都の最高責任者であった藤原種継が暗殺される事件が起きました。逮捕者が春宮大夫(とうぐうだいぶ)であった大伴家持(おおとものやかもち)をはじめ皇太子関係者であったため、皇太子早良親王に嫌疑がかけられて乙訓寺に幽閉されました。早良親王は絶食して無実を訴えましたが、一切弁明が許されず、淡路に流される途中で衰弱死してしまいます。そして桓武天皇の周りでさまざまな不幸が続いたため、晩年に桓武は早良親王に崇道(すどう)天皇の名を贈りました。当ブログでは「藤原薬子」と「四国遍路香川県編(その3)」の記事で早良親王に触れています。

 

長い参道を歩くと住宅と学校に囲まれる境内が広がりました。牡丹の寺として知られます。行き当りに見える十三重の石塔近くに早良親王供養塔があったようですが迂闊(うかつ)にも気づきませんでした。「画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」です。
 
2011_02190338_2 

長岡京があった時代には大規模な伽藍(がらん)を擁(よう)する大寺であったそうですが現在の本堂(元大師堂)は織田信長に焼かれて江戸時代に再建されたようです。ちなみに本尊は八幡神と弘法大師を合体したと伝えられる合体大師像。
 
2011_02190339 

本堂の前に乙訓寺の本堂・鎮守八幡社・鐘楼・表門・裏門が長岡市の指定文化財に指定されたことが説明されています。
 
2011_02190340 

この寺を訪れた本当の目的は早良親王縁の寺としてではなく、継体(けいたい)天皇が乙訓郡に置いた弟国宮(おとくにのみや)がこの乙訓寺と北隣の小学校との境界周辺にあったと聞いたからです。ちなみに乙訓は弟国とも書かれ、葛野(かどの)郡が分郡した時に、葛野(京都市西部)の兄の国に対して、向日・長岡・大山崎の地域を弟の国といったのが語源だと言われます。継体天皇は河内国の樟葉宮(くずはのみや、大阪府枚方市樟葉の貴船神社付近)で即位し、5年後には筒城宮(つつきのみや、京田辺市同志社大キャンパス内)に、そのまた年後には乙訓に王宮を移したとされます。

 

乙訓寺の境内を奥に歩いて長岡第3小学校との境界近くまで行ってみました。
 
2011_02190344 

この小学校の敷地ももとは乙訓寺の境内であったそうです。本堂の左手奥には何の説明もない石積みがあるだけで・・。
 
2011_02190345 

辺(あた)りに弟国宮の遺構などは一切見当たらず、関連の石碑や案内板も見られなかったのは残念でした。(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »