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2011年3月 8日 (火)

松本清張の歴史小説「眩人」を読む

関西のドライブ旅は奈良と京都を回ったところで前半(計8件の記事)が終わりました。後半に入る前にインターミッション(中間の休憩時間)として、後追いになりますが、奈良・興福寺の記事で引用した松本清張作「眩人」の書評を掲載します。本書は奈良仏教の高僧であった玄昉僧正(げんぼうそうじょう)を主人公とする歴史小説で、雑誌中央公論に昭和52年2月号から36回連載され、そして中央公論社から昭和55年11月に単行本が発行されました。題名の眩人(げんじん)には眩術(幻術あるいは妖術)を使う人の意味があります。

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第一部では、玄昉の生涯を概観する導入部に続いて、遣唐留学僧(るがくそう)として中国の都長安に足かけ20年間滞在した時の様子を玄昉自身の視点から松本清張氏の卓越した文章がリアルに描写する。

イランのゾロアスター教(拝火教)の流れを汲む胡国(現在の中国西方地域)の祆教(けんきょう)に魅入られて眩術に異常な関心を寄せる玄昉は、その知識を得るため興福寺からの先輩留学僧の惟安(すいあん)の助けを借りて、西域出身の商人・康忠恕と知り合う。玄昉を気に入った康忠恕はゾロアスター教徒の集う祠堂(しどう)に玄昉を誘う。炎から昇る煙の香気と単調な経を読む声に眠気を覚えた玄昉は地下の斎場で提供されたお神酒(みき)を飲んだあとに不思議な夢を見る。それは淫猥(いんわい)であるとともに夢とは思えない生々しさがあった。

同時期の留学生(るがくしょう)であった下道真備(しもつみちのまきび、後の吉備真備)との交流や唐朝の役人として取り立てられたエリートの阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)を登場させる。越前の田舎寺から奈良の法興寺に修行に入り、首尾よく留学僧となった玄昉は近づいた帰国に備えて朝廷から与えられた支度金で経典を集めていたが、吉備国豪族の子弟で裕福な真備のようにははかどらない。そのため眩術に興味を持ったのである。

康忠恕を説得してその使用人であった眩術に長けて薬の知識が豊富な西域出身の少年・康許生を伴って玄昉は帰国の途につくが嵐のために遭難する。しかし幸運にも多祢島(現在の種子島)に漂着して救助される。他の船は現在のベトナム南部に漂着し、もう一艘(そう)は行方不明になってしまう。
 
写真は平城京歴史館前に復元展示された全長約30mの遣唐使船 
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第二部(李密翳の回想記)では、玄昉に伴われて来日した康許生の目から見た玄昉と朝廷の有り様が描かれる。李密翳(りみつえい)は玄昉が康許生に付けた胡人(西域人)風の名前。(注;李密翳は続日本記に記載がある実在の人物、作者が架空の人物である康許生に現実感を持たせるため変名として使用) 有能な少年に印象的な名前を付けて自らの出世のために利用しようと玄昉は考えたのである。順調に出世し始めた能吏(のうり)である下道真備と互いに協力し合ったことを作者は強調する。

唐で仕込んだ知識と幻術を武器に、関心を持って詳しく調べた則天武后(そくてんぶこう、唐朝の高宗皇帝の皇后で後に女帝となる)に取り入った薬売りのフウ(ニ水扁に馬)小宝に倣(なら)う機会が玄昉に訪れる。すなわち中宮亮(ちゅうぐうすけ、中宮職ナンバー3)となった真備の口利きにより、聖武天皇生母である大夫人藤原宮子(藤原不比等の娘)の重病(35年間精神病同様であった)を秘薬によって治療し、その寵愛(ちょうあい)を受けて朝廷での権力伸張を狙う機会を得たのである。李密翳は黒子として大夫人の病状を診断して秘薬を調合する。七日七夜の看病で大夫人は治癒(ちゆ)した。

聖武天皇は35年ぶりに生母との対面がかなったことで玄昉に多大な品を賜(たまわ)り、内道場(ないどうじょう、宮中に設けられた仏事を行う建物)を拡張する許しを与える。そして大夫人はこの内道場を訪れることが多くなる。李密翳は琵琶を演奏し、西域の雑技(踊り)と幻術を披露する。大夫人が玄昉を皇后(大夫人の異母妹)に紹介すると、皇后も皇后宮に近い内道場をよく訪れるようになる。皇后に「光明子」(こうみょうし)の名を献じる。これを大いに気に入った皇后は玄昉が説明した唐の制度にならい国ごとに二箇寺を置くことを考える。玄昉はそれを実現するため最高権力者である橘諸兄(たちばなのもろえ、皇后の異父兄で皇族から臣籍に下った葛城王)を動かすことを考える。権勢を誇った藤原四兄弟が疱瘡(ほうそう)で一時に死んだため橘家が勢力を伸ばしていたのである。

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そして大宰府の副長官であった藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が玄昉と弟子である李密翳の会話として記述される。作者は玄昉の口を借りて筑紫国は太古に邪馬台国があったとする自説を述べ、畿内の朝廷に反抗する気勢が強いともいう。広嗣は自らを左遷させたと考える玄昉と真備を排除することを朝廷に請うが受け入れられず、兵を動員したため朝廷軍に破れて肥前国の孤島に逃げるが、捕らえられて処刑される。玄昉は橘諸兄が広嗣を西海に左遷して謀反へと追いやったと李密翳に説いて聞かせる。

その間に聖武天皇は東国へ出かけ、反乱が平定されたと聞いても天皇の旅はなおも続く。玄昉は天皇の健康を考えた自らの計画であるという。作者はその経路が壬申(じんしん)の乱における大友皇子の東国脱出とほぼ同じであったことから聖武天皇の目的が東国の勢力を固めることにあったと玄昉に言わせる。聖武天皇は伊勢国より美濃国を経て恭仁宮(くにみや、現在の京都府木津川市にあった)に到着、この地を都と宣言した。しかし平城京から移築された大極殿や回廊は建築半ばであった。

聖武天皇は恭仁宮がまだ完成しないのに紫香楽(しがらきのみや、甲賀宮)の造営を始める。作者は紫香楽宮があくまでも仮宮であり、自らが皇后を通じて天皇に吹き込んだ大仏造立の準備であったと玄昉に言わせる。紫香楽に良質な粘土と薪(まき)材としての松が多かったことを理由に挙げる。そして聖武天皇は大仏造立の詔勅(しょうちょく)を下す。玄昉は有頂天(うちょうてん)であった。

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ここで作者は藤原仲麻呂(なかまろ)と阿部内親王(後の孝謙天皇)を登場させる。そして大仏の建立で仲麻呂が起用したのは僧の行基(ぎょうき)である。行基は渡来系の僧で土木工事に優れ、行基を慕う800人もの僧と俗人の集団を率いていた。李密翳は玄昉に対して密かな危惧(きぐ、不安)を持ち始める。橘諸兄も事業力を利用するため行基を大僧正に任じた。これに対して玄昉は皇后や阿部内親王など皇族との関係を頼りにしているだけである。そして李密翳は玄昉の行く手に暗雲がたれ下がるのを見る。

聖武天皇は難波宮を帝都とすると詔勅を下すが、ほどなく平城京を再(ふたた)び帝都とすると宣言。安積親王(あさかしんのう、聖武天皇の第2皇子)が急死(作者は仲麻呂が毒殺したことを疑う)したため阿部内親王が女性としてはじめての皇太子となる。その直前に難波宮へ到着した聖武天皇は病に倒れる。李密翳の調剤した秘薬で病状が回復した聖武天皇に雑技を見せるよう玄昉は李密翳に命じる。その場に新羅国の使節が同席していた。あくる日宮殿で開かれた歌垣(歌謡と舞踏の集会)で李密翳は新羅使節団の一人に声を掛けられる。李密翳は新羅船に乗せてもらい長安に帰りたいと思い切って申し出る。玄昉に伴われて来日して10年になるが、師の玄昉が危なく自分の身にも危険が迫っているから早急に日本を離れたいと説明。詳しく話を聞いた使節団員は副使に取り次ぐ。倭国(日本)の来攻を恐れる新羅国の使節団は日本の情勢を調べることが重要な任務であり、副使は李密翳を長安に送り届けることを承諾する。

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長安に戻った李密翳は死んだ康忠怒の商売を引継いだ。そして6年後に長安へ到着した遣唐使の留学生から玄昉のその後の運命を聞かされる。遣唐使の副使はあの下道真備であることも知る。筑紫観音寺造営の別当として左遷された玄昉は、寺の造営が成った落慶供養の日に黒雲に捕捉(ほそく)され、その首が奈良興福寺南大門に落ちたとされるが、藤原広嗣の残党が襲撃したものにちがいないとも語る。しかし作者は玄昉を暗殺したのは広嗣の従兄弟である藤原仲麻呂が放った刺客と李密翳に考えさせる。一方の真備はその後も出世を続けたが、数年後には筑前守に左遷され、さらに肥後守に降等させられた。むろん仲麻呂の指示であると作者は留学生に語らせる。

さらに25年後の留学僧から奈良で盧遮那(るしゃな)大仏の開眼供養(かいげんくよう)が行われたこと、女帝となった孝謙天皇と恵美押勝(えみのおしかつ)となった藤原仲麻呂の噂話・橘諸兄の死・僧道鏡の台頭・仲麻呂が反乱を起こして近江の湖畔で誅殺(ちゅうさつ)されたこと・そして道鏡は法王に任じられたあと東国のへんぴな寺へ放逐(ほうちく)されたことを李密翳(康許生)が知るところで物語は終わる。
 
写真は玄昉の首が落ちたと伝えられる南大門があった当時の興福寺再現模型 
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松本清張氏ならではの豊富な資料引用と大胆な推論は骨太の歴史小説を完成度の高いものにしています。漢文を読むような難解な言葉の連続に悩まされながらストーリー展開の上手さに導かれて最後まで読破した時には、西域の秘薬の影響ではありませんが、充実感とともに脳細胞に重い疲労感を感じました。本書を2部構成にしたことの是非は評価が分かれると思います。第1部は玄昉の口から長安での出来事を語らせて現在の出来事であるかのような現実感がありましたが、李密翳が語り手となった第2部(作者は外国人の見聞録にしたという)はガラス越しに見る景色のようでやや物足りなさを感じました。余談です。後書きで作者が付記した恭仁宮址を下調べするために訪れた時の地形と風景の描写は、約30年前であるためアクセス道路が未整備であったことを除けば、私が同地を訪れた昨夏もほとんど変わりなかったことは印象深いことです。

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