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2011年4月に作成された記事

2011年4月29日 (金)

松本清張の「球形の荒野」を読む(下)

2008_12060071 帰京した添田は久美子が京都へ向かったことをその母親から知らされる。笹島の自宅から無くなった久美子のデッサンを渡したいから京都へ来るようにと書かれた見知らぬ女性からの手紙が届いたのである。これを聞いた節子の夫亮一が心配して鈴木警部補に話したため警部補も京都へ同行することになる。

2007_09240118 高台寺近くの旅館に宿泊した久美子は昼過ぎに指定された南禅寺の山門周辺で待つが何故か相手は現れない。手紙には久美子ひとりで山門付近に来るよう指示されていたのに鈴木警部補が密かに尾行したためかもしれない。


2007_09240138 落胆した久美子は京都市内を歩いてみたくなり、鈴木警部補から離れて一人になるため南禅寺近くの蹴上(けあげ)にあるホテルへ移ったあと、嵐山に近い松尾の苔寺(こけでら、正式名称は西芳寺)へ向かう。そこで南禅寺で見かけた外国人女性と再び遭遇する。

興奮して寝付かれないでいた久美子は銃声のような音を聞く。時計は午前1時過ぎを指している。ホテルの中がやがて騒がしくなり、じっとして居られなくなった久美子は部屋の外に出る。そして廊下に集まった他の宿泊客やホテル従業員の断片的な会話で東京から来た男性客の吉岡氏が窓の外から狙撃されたことを知る。その名はホテルのチェックインカウンターで偶然見かけた村尾課長が書いた名前だった。久美子は呆然(ぼうぜん)となる。さらに驚いたのは滝良精氏の横顔を宿泊客の中に見たことである。

福岡県津屋崎の寺を訪れた老年の紳士は中立国の元公使寺島康正の墓に長く跪拝(きはい、ひざまづいて礼拝すること)している。そして医学会で福岡を訪れた芦村亮一は不可思議な伝言に誘われて福岡市内の東公園に赴(おもむ)いて見覚えのある人物と出会う。死んだはずの叔父、野上顕一郎である。亮一は中立国での出来事を尋ねるが顕一郎は何も答えず、久美子のことを亮一に頼む。

品川の旅館主人・筒井源三郎(実は公使館の元書記生門田源一郎)は何者かが自分の部屋を調べた痕跡(こんせき)を感じ取って、密かに隠し置いた書きかけの長い手紙を書き終えて投函する。しかしその直後に何者かに拉致(らち)され、口を割らないため殺されてしまう。

一方、村尾課長の言葉が意味することを知った添田は久美子を誘って横浜のホテルニューグランドにフランス人夫妻を尋ねるが、フロントで滝からのメッセージを受け取り、滝の部屋を尋ねる。そこで添田は野上顕一郎が死んだと偽(いつわ)らざるを得なかった背景と、明日離日する野上夫妻が観音崎を訪れていることを知る。添田は口実を設けて久美子を先に観音崎に行かせたあと滝の部屋に戻ると、滝はさらに詳しい説明をした後に「彼にとっては、地球そのものが荒野さ」と言う。

その観音崎の海岸で久美子は京都で2度も出合ったフランス人女性とまたも巡(めぐ)り会う。その女性が夫として紹介した年配男性の求めに応じて、男性と久美子が一緒に歌う童謡「七つの子」(♪カラス、なぜなくの カラスは山に かわいい七ツの子があるからよ・・・♪)の歌声が浦賀水道の上を渡って行くシーンで物語は終る。
注釈;「七つ」とは七羽ではなく七歳とする説が有力

2011_01260014 蛇足ですが、ラストシーンで久美子が歩いた遊歩道を紹介します。レストハウス前でタクシーを降りて海岸沿いに灯台方面へ歩く久美子が崖の上にユースホステルを見掛けました。実際は傾斜地(写真の右端に写る広場)に建っていたようですが、40年ほど前の火災で焼けて取り壊されたため、その痕跡(こんせき)は残っていません。

2011_01260016 大きく湾曲する海岸線に沿って遊歩道が続きます。50年前にも既に石畳(いしだたみ)が敷(し)かれていたのでしょうか。



2011_01260028 フランス人の老紳士と久美子が、下のほうに突き出た岩で釣りをする人を見ながら、腰を下ろした岩場はこの辺(あた)りだったのかも知れません。



巻末の解説文で作家半藤一利氏は松本清張氏の美しい日本の風景を平明な文章で描写する力、現代史の裏側に迫る着想の素晴らしさ、そして肉親への絶ちがたい情愛を描く心優しさを賞賛しています。

小説の本文と同様、私はこの解説文にも感銘を受けました。これは枝葉(しよう)ですが登場する女性たちが話す東京言葉(今はほとんど耳にしません)は、「わ」「かしら」「の」「ね」「すって」「よ」など多彩な終助詞に特徴があり、小津安二郎監督の映画のように昭和の良き時代を感じさせます。そして緻密(ちみつ)に構築されたストーリー展開の面白さを楽しむとともに、次々登場する場所の巧みな描写はまるでこの小説に導かれるように邂逅(かいこう)した場所を私に懐(なつ)かしく回想させました。

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2011年4月28日 (木)

松本清張の「球形の荒野」を読む(上)

夜来(やらい)の嵐が去って爽(さわ)やかな春の朝を迎えました。この有り難さをつくづく感じています。そして今日は大震災のために延期されていた新型iPadiPad2)が日本でも発売されるそうです。加えて東京ディズニーリゾートの全施設が今日から再オープン、東北新幹線も明日には全面復旧すると報じられて、徐々にですが元の生活が戻りつつあることを感じます。前置きはこれくらいにして、前半の記事が長くなった関西方面へのドライブ旅のインターミッション(中間の休憩時間)です。

2月に奈良京都へドライブ旅をして、そして最近玄昉(げんぼう)僧正を描いた時代小説「眩人」を読んだことから、同じ松本清張氏が50年前に「オール読物」に連載した長編ミステリー小説「球形の荒野」を読み返したくなりました。終戦後、10数年経った時代を背景に、登場人物たちが奈良と京都の古寺を巡るストーリーと見事な描写力を思い出したのです。ちなみに松本清張氏の作品を手当たり次第に乱読したのは40年近く前のことでした。当ブログでもそのことに触れています。

今回読んだのは昨年1月に文芸春秋文庫から発刊された改版本(上下2分冊)です。作家半藤一利(はんどうかずとし)氏がカバー表紙に書かれた簡潔な解説文を引用させていただきます。

2008_03110307 「芦村節子は旅で訪れた奈良・唐招提寺の芳名帳に、外交官だった叔父・野上顕一郎の筆跡を見た。大戦末期に某中立国で亡くなった野上は独特な筆跡の持ち主で、記された名前こそ違うものの、よもや・・・?という思いが節子の胸をよぎる。節子の身内は誰も取り合わないが、野上の娘の恋人・添田彰一は、ある疑念をいだくのだった。新聞記者・添田彰一は恋人・野上久美子の父の存在を確かめるため、ひそかに調査を始める。口を閉ざす当時の関係者、京都のホテルでの発泡騒ぎ・・・次々と起きる不可解な事件にはいったい何が隠されているのか? 停戦工作の裏事情と一外交官の肉親への絶ちがたい情愛が交錯する国際謀略ミステリーの傑作!」 

旧友と半世紀ぶりに再会するような気持ちで表紙をめくりました。それではあらすじを紹介しましょう。

2008_03110308 奈良の西ノ京で物語が始まる。芦村節子は夫亮一が京都へ出張する機会を利用して奈良の寺巡りをしているのだ。薬師寺から唐招提寺(とうしょうだいじ)へと巡る道は古寺巡りが好きだった元外交官の今は亡き叔父野上顕一郎の影響を受けて彼女が好きになった場所である。唐招提寺でふと目に留まった芳名帳(ほうめいちょう)に叔父と似た特徴のある筆跡で書かれた田中孝一の名前を発見する。

2008_03110118 このことが気になった節子は予定を変更、橿原(かしはら)駅を経由して自分の好きな橘寺(たちばなでら)と安居院(あんごいん、飛鳥寺の正式名称)を訪れる。そして安居院でも同じ筆跡で書かれた田中孝一の名を発見する。

帰京後、この話を聞いた従妹の野上久美子が恋人の新聞記者添田彰一(しょういち)に話すと添田はこれに興味を持つ。節子からも直接話を聞いた添田は一等書記官・野上顕一郎が駐在先の中立国で亡くなった時に一緒だった外務省の村尾芳生課長に当時の様子を尋ねるが、何故か素っ気ない対応が返ってくる。それに腹を立てた添田は当時の職員録からその公使館に駐在していた外交官を調べる。そして村尾課長以外では唯一存命していると見られる元公使館付武官伊東忠介(ただすけ)の存在を知る。

しかしその所在が不明のため行き詰まるが、同僚の助言で当時同国の特派員となっていた自社の先輩滝良精(りょうせい)に行き当たる。論説委員で新聞社を辞めたあとは世界文化交流連盟の常任理事となっている。面会を求めた後輩の添田に対して滝は素っ気なかった。添田には村尾課長と滝常任理事が申し合わせたように野上顕一郎の死に触れるのを嫌がっていると思えたことで、添田はさらに真相を追及する気になる。

2008_03110087 そんな折、世田谷区の人気のない草むらで絞殺死体が発見される。捜査により奈良県大和郡山市に住む雑貨商伊東忠介であることが判明。世田谷の現場や被害者が宿泊した品川駅前の旅館を訪ねて話を聞いたあと添田は奈良へ向かう。そして伊東の家族から彼が奈良の寺巡りの直後に人に会うためとだけ言い残して上京したことを知る。芳名帳の筆跡を確認したくなった添田は、節子から聞いた寺を訪れるが、いずれの寺でもそのページだけが切り取られていることに驚く。

そして久美子を絵のモデルにしたいとの申し出が野上家に舞い込む。一流画家の笹島恭三が知人である滝良精の口利きで伝えて来たのだ。乗り気な母親に押されて久美子はしぶしぶ引き受ける。懸念(けねん)とは裏腹(うらはら)に気さくな笹島にモデルの役目を楽しむ久美子だが、3日間と約束した最終日に笹島の死体が自宅で発見される。検視により睡眠薬の飲み過ぎによる自殺と断定された。

2010_05060187 数日経って紹介者の滝が旅先の長野・浅間温泉から笹島の死を気にしないようにとしたためた手紙を久美子宛てに送って寄越(よこ)す。久美子からこの話を聞いた添田は滝が勤め先に辞職願を郵送していたことを知って浅間温泉へ向かう。しかし前日旅館を訪れた客があったことで滝は宿を引き払っていた。駅や観光協会を調べて滝の行く先が蓼科(たてしな)の温泉と目星を付けた添田は蓼科の「滝の湯」で滝を見つけるが期待した収穫は得られない。(続く)

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2011年4月25日 (月)

旧東海道ドライブ旅(三重県 最終回) 坂下宿

関宿の「西の追分」で国道1号へ合流した旧東海道は上り勾配(こうばい)となって次の坂下宿(さかしたじゅく、東海道五十三次の48番目)へ向かいます。市瀬(いちのせ)交差点付近で国道1号は大きく右にカーブして山間(やまあい)に入って行きます。
 
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山川運輸の脇を通過します。その先の山陰(やまかげ)で旧東海道は右手の脇道にそれていますが、それに気づかずに通り過ぎてしまいました。
 
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旧街道の雰囲気が感じられないので道を間違えたのではと思っていると、1km余り先に沓掛交差点があります。沓掛(くつかけ)は旧街道に良くある地名で、旅人が無事を祈って道祖神(どうそじん)などに草鞋(わらじ)や馬沓(うまぐつ)を掛けて手向(たむ)けたことを意味しますから、旧街道を大きく外れたわけではなさそうです。慌(あわ)てて右折しました。ちなみに国道1号はこの交差点から先が上りと下りが別の道路となっています。日光のいろは坂ほどではありませんが現在も国道1号の難所なのです。
 
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地図で確認すると沓掛の集落を国道一号で通り過ごしたようです。東海道五十三次坂下宿の案内がありますから一安心(ひとあんしん)しました。
 
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小川を渡ったところで道が左右に分かれます。どちらへ進むべきか迷いましたが旧東海道鈴鹿峠(すずかとうげ)の表示がある左手へ向かいました。坂下宿を下調べした時に標識にある片山神社の名を見た覚(おぼ)えがあります。
 
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先ほど行き当った建物は鈴鹿馬子唄会館でした。その近くに坂下宿(阪之下 筆捨山)の画がありますからこの方向で間違いなさそうです。筆捨山の名は狩野元重が描こうとしたもののあまりの絶景に筆を捨てたといわれることに由来するとのこと。歌川広重は筆を捨てなかったようで岩山と茶店を対比させて立体的に描いています。
 
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鈴鹿馬子唄発祥の地の石碑がありました。関の小萬を歌った民謡ですが、仇討ちを遂(と)げた「関の小萬(こまん)」と近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に登場する「遊女小萬」の二人がその歌詞に織(お)りこまれているそうです。
 
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石碑の脇から右手に入る脇道に沿って近畿地方の東海道五十三次の宿場を示す木の標識が並び、「東海道」「鈴鹿馬子唄会館」「鈴鹿峠自然の家」の名前も小さな木札に書かれています。馬子唄会館は通り過ぎたばかりであり、地形から見ても右に折れて急坂を登るのは不自然に思えて、来た道を直進することに決めました。
 
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私の勘(かん)ナビ勘ピューター)はまだ健在のようで、少し先に東海道五十三次の48番目「坂下宿」の案内板がありました。慶安3年(1650年)に大洪水があったため、それまでの片山神社下から現在地へ移転したと説明されています。なぜか「現在地」の説明がありません。「ここです」と言外(げんがい)に匂(にお)わしている?
 
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続きを読むとどうもこの集落が坂下宿跡のようです。説明文には本陣3軒・脇本陣1軒・旅籠48軒を数える東海道有数の宿と書かれていますので確認しようと300mほど走りましたが、集落内で往時をしのばせる建物や本陣跡などの標識を見つけられません。帰宅後に確認すると本陣・脇本陣跡の石碑があることが分かりました。

言い訳になりますが、実は関宿を抜けて山間に入った辺りから居眠りをしていたはずの同行者が目を覚まして、「あッ!杉花粉がタワワに実っているじゃない。早く高速道路に入ってよ!!」と喚(わめ)き始めたのです曖昧(あいまい)な返事をしながら走ると、家並みを抜けた場所で、岩の上に載(の)る2躰(たい)の石像が目に入りました。旅姿ではなく、村の名主や
庄屋といった風体(ふうてい)ですから、360年前の大洪水と何か関係があるのかと思いましたが、残念ながらこちらも確認できません。
 
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道端(みちばた)に岩屋十一面観世音菩薩の石碑がありました。清滝という岸壁を流れ落ちる小さな滝がある岩窟(がんくつ)に阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体が安置されているそうです。
 
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国道1号に行き当りました。右手の脇道となった旧東海道をそのまま進めば片山神社に至(いた)るようですがその先は車が通行止めになっているはずです。一段とエスカレートした同行者の抗議(こうぎ)に抗(こう)しきれず国道1号の上り車線を横断、大津方面の案内に従って下り車線に入りました。
 
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新鈴鹿トンネルを潜(くぐ)ります。
 
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新鈴鹿トンネル(長さ395m)を抜ければ滋賀県に入ります。最後の坂下宿だけが、孔子の言葉通りに「見れども見えず」の状態に陥(おちい)り、消化不良(欲求不満)に終わったことは悔(く)やまれます。再挑戦を誓(ちか)いながらアクセルを踏んで急坂を駆(か)け下りました。

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<同行者のコメント> 亀山の温泉はとても良かったです。宿場町はどこも同じなのに、旦那さまは今回も喜々として走り回っていました。とんでもない方角に走った失敗を素知(そし)らぬ顔でごまかしてもちゃんと分かりました。出発時に予防薬を飲んだはずなのに急に花粉症の症状が出たのは変だなと思いましたが、何と杉林の真ん中にいたのです。意地悪(いじわる)は止めて下さいね。甲賀土山ICから高速道路に入った時にはやっと生き返った心地(ここち)になりました。(終)

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2011年4月24日 (日)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 関宿

関宿(せきじゅく)の東の追分です。案内板に地名が7世紀に設けられた鈴鹿関に由来すること、東海道五十三次における47番目の宿場が置かれ、伊勢別街道や大和街道の分岐点として繁盛したことが説明されています。この東の追分は伊勢別街道との分岐点です。ちなみに元は関町(せきちょう)でしたが合併により亀山市になりました。
 
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木先(こさき)の町並みは電線が地中化されて昔の面影を留めています。宿場の後方に見えるのは鈴鹿山脈ですから鈴鹿峠はもう直ぐです。
 
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石碑の右側面に「東海道関宿」と彫(ほ)られた下に「右東追分350米、左 旧本陣350米」と小さな文字があり、左側には御馳走場(ごちそうば)と彫(ほ)られています。
 
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御馳走場とは大名行列を迎えたり・見送ったりした場所だそうで、ここは関宿に四つあった東端の御馳走場でした。説明文の下半分は風雨に曝(さら)された文字がかすれて判読不能でした。
 
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百五銀行(関支店)も和風の意匠(いしょう)で宿場に溶け込んでいます。この銀行は津市に本店を置く地方銀行ですが、通し番号が銀行名に使われていますから元は国立銀行だったのでしょう。
 
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美しい町並が緩(ゆる)やかにカーブしながらさらに続きます。
 
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問屋場跡
 
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その後ろに背の高い中町三番町山車(だし)の立派な車庫があります。山車は祭りで使われる出し物(曳き山)です。関宿の夏祭りで町内を曳(ひ)かれる山車が特に立派だったことから、「関の山」がこれ以上立派なものはないことを意味する言葉になったそうです。
 
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川北本陣跡
 
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眺関亭(ちょうかんてい)の名前が気に入って撮影。無料開放された2階から関宿が一望でき、奥には「百六里庭」(江戸日本橋からの距離が名の由来)があるそうですが、近くに駐車するのが困難でしたから、諦(あきら)めて通り過ぎましした。参考までに、駐車場は宿場の中心部にはなく、亀山市役所の支所近くの観光駐車場(無料)、国道1号沿いの「道の駅関宿」、西追分公園(無料・小規模)にあるようです。
 
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関宿の分かりやすい案内図です。
 
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伊藤本陣跡です。現在残っている建物は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物であると説明されています。
 
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どこまでも続く街並みを辿(たど)りました。
 
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郵便局に顔出し看板があるのはさすが宿場町です。
 
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その横にある高札場のレプリカ(複製)です。
 
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福蔵寺は本能寺の変の後、織田信孝(庄野宿の記事で紹介)が父信長の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために建立した寺院だそうです。そして柴田勝家を破った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に攻められて自刃(じじん)した信孝の首も納められました。前回紹介した小萬の墓も境内にあるそうです。
 
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「歴史の道」の石碑の後方は地蔵院本堂(国の重要文化財)です。地蔵院は天平13年(741年)行基菩薩によって創建されたと伝えられ、本尊の地蔵菩薩坐像は日本最古の地蔵菩薩とされます。ちなみに開眼供養(かいげんくよう)を行ったのは一休禅師と言われるそうです。
 
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西の追分に抜けました。ここは大和街道との分岐点です。大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良に至ると説明されていました。
 
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中山道(木曽路)の馬籠(まごめ)宿妻恋(つまご)宿・会津西街道の大内宿などと同様に、東海道五十三次のなかでも観光客に人気のある関宿を後にしました。(続く)

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2011年4月23日 (土)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 布気皇舘太神社から関宿入口まで

いつの間にか旧東海道のカラー舗装は通常のアスファルト舗装に変わっていました。
 
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気皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)は変わった名前です。布気は地名、皇舘は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の御代に豊受大神(とようけたいじん)を伊勢・山田へ迎えて伊勢神宮外宮に祀(まつ)る途中の行宮(あんぐう、旅先に設けた仮宮)跡とされることに由来するそうです。そして鎌倉の御家人(将軍直属の武士)であった関実忠(さねただ、伊勢関氏の始祖)が地頭職として亀山に移住して亀山城の氏神(うじがみ)としたことと、江戸時代には立場(たてば、宿の途中の休憩所)があったと伝えられます。
 
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関宿方面は左折するように表示されています。旧東海道はこの先で交差する国道1号と関西本線によって削り取られているためでした。
 
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国道1号と関西本線の上を陸橋で越えて、それらと並行しながら急坂を下ります。
 
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旧東海道は鈴鹿川沿いの大岡寺畷(だいこうじなわて)となって約3.5kmも続きました。畷は縄手とも書きますが湿地帯に真っ直ぐ伸びる道のことです。
 
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東名阪自動車道路の高架下の壁に亀山宿と次の関宿の案内および歌川(安藤)広重が描いた三重県内の旧東海道の風景画が多数飾られていました。写真の左端に写るのは並行する国道25号(名阪国道)です。
 
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鈴鹿川の流れです。遠方に見える山並みは鈴鹿山脈ではなく、笠取山(標高842m)とそれに続く山々のようです。
 
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大岡寺畷はまだ続いています。

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関西本線の踏切を渡った小野川橋東詰交差点でやっと国道1号に行き当りました。旧東海道は国道1号となって左へ折れます。関宿はもう直ぐでしょう。
 
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国道1号と分かれて右前方の関宿方面へ入る旧東海道が見えます。
 
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国道から少し入った場所の小さな公園に関宿の案内図がありました。東追分まで0.5km、西追分まで2.3kmと表示されています。
 
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旧東海道を挟(はさ)んで「関の小萬(こまん)のもたれ松」の由来が説明されています。仇討(あだう)ちにまつわる江戸時代の実話でした。松は若木ですから植え替えられたものでしょう。
 
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(続く)

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2011年4月22日 (金)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 亀山宿(下)

「まつざかや(松坂屋または松阪屋)跡」は同じ伊勢の松阪(まつさか)出身者の店だったのかもしれません。有名デパートの松坂屋(まつざかや)は名古屋で創業された伊藤呉服店が、松阪出身者が江戸の上野に創業した松坂屋呉服店を買収、後に自身の店名も知名度の高かった「松坂屋」に変更ました。ただし屋号は藤をあしらった伊藤呉服店のものを今もそのまま使っています。
 
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話のついでに、他の主要デパートの名前の由来をまとめて紹介します。当ブログ記事で既に触れたように、三越は創業者の名前である三井高利(たかとし)と創業時の屋号である越後屋を組み合わせた命名です。以前から疑問だった松阪出身の創業者が越後屋を屋号とした背景は、近江源氏の佐々木氏に仕(つか)えた鯰江(なまずえ、現在の東近江市)の武士であった祖父が越後守を名乗ったことによるそうです。石薬師宿の記事で紹介した佐佐木信綱(旧名佐々木)と同姓同名の佐々木信綱(鎌倉時代の武将)はこの佐々木氏の棟梁(とうりょう、一族の統率者)でした。織田信長に敗れて佐々木氏(六角氏・京極氏など四家)が衰退したことで祖父の三井越後守高安は松阪へ流れ着き、その息子の高俊が酒造業を営んだ経緯があります。

伊勢丹は江戸の外神田で伊勢屋を創業した小菅丹治氏の屋号と名前を組み合わせたものです。伊勢屋の名前の由来には複数の説があり、地名の伊勢との関係は定かではありません。これも紹介済みですが、高島屋は創業者縁の近江・高島郡が名前の由来です。呉服店として創業した百貨店には他に大丸と松屋もあります。大丸は創業者下村彦右衛門が生地(しょうち、せいち)の京都伏見で創業した呉服店の大文字屋。松屋は、松阪屋の場合と同様に、古屋徳兵衛が横浜・石川町で創業した鶴屋呉服店が江戸の神田にあった松屋呉服店を買収、既に江戸で知られていた松屋の店名をそのまま使ったそうです。詳しく書くと長文になりますのでここで打ち止めにします。

屋号を記(しる)した看板はまだまだ続いて「やくぜん(薬膳)跡」と「ふじや跡」が駐車場前に並んでいます。
 
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「やおや(八百屋)跡と「ふるてや(古手屋)跡」もヘアサロンイガラシの横に。ちなみに古手屋とは古着や古道具を商(あきな)う店のことです。
 
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「おときち家跡」はこの家の御主人の名前のようですが職業は推測できません。ひょっとしたら笛や三味線の師匠(ししょう)かもしれないとイメージを広げてみました。これも後で調べたことですが、亀山製絲(現在は不織布製造業)の創業者で鈴鹿郡内に480基余りの道標(うち亀山に約40基)を立てたという田中音吉氏が西町の生まれですから、ここが生家だったようです。ここだけ「や」ではなく「家」となっています。ついでにもう少し脱線します。亀山と言えば蝋燭(ろうそく)が有名でしたが、現在は「世界の亀山ブランド」(シャープの液晶テレビ)の方が通りが良いでしょう。東名阪自動車道亀山PA近くの亀山・関テクノヒルズ工業団地内にあります。
 
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道標には「右郡役所 左東海道」の文字が彫られています。郡役所とは亀山に置かれた鈴鹿郡の役所のことでしょう。やはり帰宅後に確認したことですが、現存する道標を丹念に調査した人の力作「北伊勢の道標」によれば、まさしく田中音吉氏が立てた道標のひとつでした。
 
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西新町の屋号看板は「おうぎや(扇屋)跡」「たまるや(田丸屋)跡」と「わたや(綿屋)跡」です。
 
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緩(ゆる)やかな坂道を下りると橋の右手前に京口門跡の案内板がありました。
 
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その説明によると、京口門は亀山宿の西端、滝川左岸の崖上に東海道の通行人を監視する番所として置かれ、東口に築かれた江戸口門とともに亀山城の城門としての機能を備えていたそうです。「亀山に過ぎたものの二つあり伊勢屋蘇鉄(そてつ)に京口御門」と詠(うた)われ、歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」の「雪晴」など多くの風景画の舞台として有名であるとも。この伊勢屋とは万町で屋号看板を見た「いせや跡」(前回の記事参照)のことかもしれません。
 
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京口橋を渡りました。落ち着いた町並がさらに続きます。
 
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東海道の道標がありました。
 
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慈恩寺(じおんじ)は忍山神宮の神宮寺として神亀5年(728年)に創建され、本尊の阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)は平安時代初期彫刻の代表作として重要文化財に指定されていることと、この本尊は行基の作になる薬師如来だったものを後世の修理で阿弥陀如来にされたと伝えられることが案内板に説明されていました。
 
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交差点の左前方にある小さな公園に旧東海道の案内図が立っています。
 
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北側の塚だけが残る野村一里塚(国史跡)には樹齢400年、目通り幹周囲5m・高さ20mのムク(椋)の巨木が聳(そび)えていました。
 
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ちなみに三重県で唯一残る一里塚だそうです。(関宿へ続く)

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2011年4月21日 (木)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 亀山宿(中)

こちらの「万町しろこや跡」は「白子」「白粉」や「汁粉」などを連想させて、まるで判じ物(はんじもの、謎解き)のようです。この場所(万町)の住所は東丸町です。
 
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「きがたや」とくれば「木型屋」では。どうも昔の屋号を書いた看板のようです。

 
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「さかいや」は「坂井屋」あるいは「堺屋」でしょう。
 
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「だいくや」は「大工屋」に決めました。
 
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帰宅後に調べると、往時(おうじ)を偲(しの)ばす屋号(やごう)の看板が、亀山宿東端の露心庵跡から西の京口門跡までの間に、約400枚掲(かか)げられているそうです。地元ボランティアによる活動の一環とのこと。だんだん楽しくなった私は手当り次第に撮影しましたので、もう少し看板の写真を紹介します。
 
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民家の植え込みに石柱が透(す)けて見えました。不躾(ぶしつけ)ですが覗(のぞ)いてみると東海道と停車場の文字が読み取れます。東海道はもちろん旧東海道を指しますが、停車場とは亀山駅のことでしょう。関西本線の主要駅の一つであり、紀勢(きせい)本線の起点駅でもあります。ちなみに現在はJR東海とJR西日本の境界駅にもなっています。この地に鉄道が敷かれたのは1890年(明治23年)でしたから、石柱は明治時代中期のものでしょう。
 
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亀山駅へ向かう県道302号を横断した傾斜地に亀山宿の大きな石碑がありました。
 
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枡形になった坂道の先に綺麗な家並みが見えます。
 
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ここは西町問屋場跡です。西町は東町と対をなした地名となっています。
 
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正面の格子がある家に目が留(と)まりました。昔懐かしい電話番号の木札が表札と並べて掛けられています。表札よりふたまわりも大きな木札に書かれたのは若い番号ですからかなりの旧家でしょう。「ひのや(日野屋)跡」の看板がありますが、表札の名前とは違います。近江商人発祥の地である日野(滋賀県蒲生郡日野町)が出身地なのかもしれないと想像を逞(たくま)しくしました。
 
 
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西町の古い町並みが続きます。路面のタイル画は亀山城をモチーフにしています。
 
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「とんやば わかばやしけ跡」は上記写真(問屋場跡)の説明文を参照してください。
 
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(続く)

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2011年4月20日 (水)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 亀山宿(上)

長文の記事が連日続いたため、読んでいただいた方はお疲れになったのではないでしょうか。かく言う私も少し草臥(くたび)れましたので、所用で都心へ出掛けたことを口実に、掲載を1日休ませて貰いました。それでは亀山宿へ向かうことにします。

旧東海道は小田町交差点に入る直前で道なりに左へカーブして関西本線の井田川駅(いだがわえき)近くを通過して国道1号を2度横切りますが、国道1号(亀山バイパス)を走ることにしました。先を急ぐ理由は国道1号に近い場所で日帰り温泉と昼食を予定していましたが、あれやこれやで1時間ほど予定よりも遅れてしまったからです。川合町交差点で以前の国道1号と分かれ、国道306号(巡見街道、じゅんけんかいどう)と立体交差したあと、羽若町(はわか)交差点を右折して県道302号に入りました。
 
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さらに最初の交差点を左折して300mほど走ると左手に目的地が見えました。保険福祉センター「あいあい」です。広い駐車場の奥に立派な建物があります。簡素な玄関を入ると左側は市役所の子育て支援センター(健康福祉部)になっていて、その窓口を通り過ぎると温泉と軽食コーナーへの入口がありました。
 
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公共施設らしい建物の内部は広々として、多数の来場者があります。昼食と温泉のどちらを先にするか迷いましたが、早朝から車で走詰(はしりづめ)ですから、やはり温泉を選びました。オープンな下駄箱に靴を入れて、券売機で利用券を求めました。亀山温泉白鳥(しらとり)の湯の利用料は何と150円(65歳以上の高齢者は100円)と激安であることが驚きです。天然温泉をこの料金で提供する施設は温泉地の外湯(共同浴場)くらいでしょう。「白鳥の湯」の名前の由来は日本武尊の伝説によります。
 
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利用券と引き換えにロッカーの鍵をもらって入った脱衣場も広めで清潔感に溢(あふ)れています。ただロッカーの数は限られているためか、常連客と思(おぼ)しき人は脱衣籠(だついかご)を利用しています。
 
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内湯と露天風呂の2つだけとシンプルな構成も温泉を楽しむには十分です。いずれも滝のような幅広の湯口から大量の湯が流れ落ちています。泉質はナトリウム
塩化物・炭酸水素塩温泉(低張性-弱アルカリ性-温泉)。湯温は源泉が40.1度、浴槽が加温しても40-43度とやや温(ぬる)めですから、しっとりとした滑(ぬめ)りのある湯にゆっくり入浴することができます。ジャグジーの設備が付属した内湯はそこそこにして屋根がせり出した露天風呂に移りました。
 
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この日は冷え込みがきつく風もありますから、外湯では肩まで浸(つ)かっていないと身体が冷えてしまいます。一緒に入るグループは東日本大震災の話題で持ちきり。メンバーの一人が上京した時に大地震と遭遇して大変な思いをしたと話しています。「ここにも体験者がいますよ」と心の中で呟(つぶや)きながら湯を楽しみました。

遅めの昼食に私は伊勢うどんを、同行者はそばを選びました。先にカウンターで受け取ったそばは城崎温泉近くの出石(いずし)そばのように陶器に盛られた皿そば。でも出石そばのように小皿に小分けした「わんこそば」(さらっこそば?)ではなく、こちらは大皿です。牛丼並みの低価格ですが同行者は美味しく食べたようです。
 
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伊勢うどんは6年前の夏、熊野古道と熊野三社へドライブ旅した帰路で伊勢神宮へ参拝した時、「おかげ横丁」で食べて以来です。器の底に溜(た)まるたまり醤油ベースの出汁(だし)を絡(から)ませると、素朴な味と独特のもっちりした食感があります。2階には休憩室があるようですが、時間も気になりますから、利用しないで車に戻りました。
 
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駐車場から見える隣の亀山老人保健施設との間に温泉スタンドがありました。料金は40リットルが40円と羨(うらや)ましい限りです。先日立ち寄った京都伏見「やまとの湯」や数年前に利用した大津やまとの湯では亀山温泉から運び湯していると説明されていましたから、この天然温泉を利用しているのかもしれないと思いましたが、後で確認すると同じ亀山でも亀山タートル温泉の方でした。白鳥の湯は国道1号でここ亀山市を通過するドライバーにはぜひお薦(すす)めしたい温泉施設です。

羽若町交差点まで戻り、国道1号を横切って県道302号で直進します。旧東海道の亀山宿に入るためですが、その前に亀山城にも立ち寄ることにしました。
 
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坂道を下りると江ヶ室交番交差点に亀山城を示す案内標識があります。ここを右折して200mほど進むと亀山城に行き当りました。しかし桜まつりが開催されていて城内に車を乗り入れることはできません。
 
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亀山城は1265年(文永2年)に平清盛と同じ伊勢平氏(昨春、縁の地を訪れた平将門を倒したその従兄弟の平定盛が祖)の流れをくむ関実忠によって鈴鹿郡若山(現在の亀山市若松町)に築城され、後に少し南東の現在地に移されたそうです。関五家(前回の記事で紹介した神戸氏はその一つ)の宗家(そうけ、一族の中心)の居城であり、江戸時代には伊勢亀山藩主の居城となりました。
 
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道なりに左折して坂を下りると城(実際は天守跡に建てられた多聞櫓)と石垣が開花し始めた桜並木越しに見えます。
 
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左手に石坂門跡と石井兄弟亀山敵対遺跡の石碑が並んでいます。曽我兄弟の仇討ちのようなものでしょうか。
 
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交番前交差点まで引き返すと右手のカラー舗装された道は旧東海道のようですから右折。この交差点付近に亀山宿の碑と西問屋場跡があったようですが見過ごしてしまいました。そしてこれより東には江戸口門跡・本陣跡・高察場跡があるようです。

枡形(ますがた)のように折れ曲がった坂道の途中に奇妙な看板が軒先に掛けられているのが見えました。「東海道宿亀山宿横町わかさざ跡」と書かれています。この地域の住所は東町1丁目ですから「横町」は古い地名のようです。
 
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そして近所の家も同じように「ひらいや跡」の看板が
ありました。
 
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これらの家が何の跡なのかさっぱり分かりません。(続く)

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2011年4月18日 (月)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 庄野宿

関西本線の下を潜ると田園風景が広がり、旧東海道は右に折れます。
 
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関西本線の横を農道のようになった旧東海道が真っ直ぐ伸びています。その先でやや左斜めに方向転換して国道1号に沿って進むようです。小川を渡ると県道27号に行き当りますから、県道を経由して国道1号に出れば良さそうです。しかしここで予期しなかったトラブルが立て続けに発生しました。県道へ入る急な上り坂に差し掛かった時に、何と県道から軽自動車が旧東海道に侵入してきたのです。車がやっと通れる狭い道幅ですから、てっきり相手が後退してくれると思いましたが、軽自動車は急坂をどんどん下りてくるのです。50m以上も狭い道をバックして脇道へ退避! フーーッ!!
 
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何とか県道27号(神戸長沢線)へ入りましたが、交通量が多くて、とても右折できません。止むを得ず反対方向であることを承知で県道を走りながらUターンする場所を探しました。堤防へ逃げることも出来たようですが、後続車に急(せ)かされて、鈴鹿川に架かる定五郎橋(さだごろうばし)を渡ってしまいました。その先は交通量も減って信号のある交差点が所々にありますから方向転換が可能でしたが、やや冷静さを失ってフォーリングダウン・シンドローム(落下症候群)を発症した私は鈴鹿市の中心部を目指していました。この病名は私のいい加減な命名ですが、これまでに宮城の作並街道(さくなみかいどう)と千葉の鋸山(のこぎりやま)で発症したことを関連記事で紹介しています。市街地に入ると鈴鹿市の中心部なのにやたらと神戸(かんべ)の地名表示が目立つことが不思議です。四日市宿の記事で触れた三日市や十日市の地名もありました。

後で知りましたが、神戸とは鈴鹿川の南にある地域で、伊勢平氏の流れを汲む神戸氏の居城であった神戸城址と神戸氏によって城下を通過するように大きく曲げられた伊勢街道の神戸宿跡があります。また律令時代は神戸に伊勢国の国府があり、現在は広域合併により鈴鹿市の中心部となりました。ちなみに織田信長の三男、信孝が神戸氏の養子となり跡を継いだため神戸信孝(かんべのぶたか)とも呼ばれたそうです。

神戸の読み方は「かんべ」の他に「こうべ」「ごうど」「かみど」など多様ですが、「かんべ」と言えば私は昭和30年代に活躍した歌手で映画俳優だった神戸一郎(かんべいちろう)さんを思い出します。デビュー曲の「十代の恋よさようなら」や「銀座九丁目水の上」が一世を風靡(いっせいをふうび)しました。伸びやかな歌声と郷ひろみさんにちょっと似た甘いマスクが人気で、多くの映画に出演しています。ところで神戸市出身なのにどうして「かんべ」なのでしょうか。

思いがけず鈴鹿市の中心部と織田信孝の頃に真黒川(まくろかわ)に架かっていたという石橋跡(神戸2丁目ポケットパークにある解説板の両側の石柱は橋の欄干を再利用)に立ち寄ることが出来ました。「怪我の功名」(けがのこうみょう)と言いたいところですが、本当は悔(くや)し紛(まぎ)れの強がりです。いずれにしても時間と紙面を浪費したようですから先を急ぐことにします。
 
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元来た道を約4km戻って上野交差点で国道1号に入りました。同行者は何をしているのかと怪訝(けげん)そうです。いつも寝てばかりいる助手席のナビゲータはこの頃、なぜか運転者の挙動(きょどう)を鋭(するど)くチェックしているようです。国道1号の庄野町交差点を右折して旧東海道に行き当たりました。
 
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旧東海道は一つ手前の庄野北交差点を右に折れていますから、少し北方向へ戻ることにします。先ず庄野宿の脇本陣跡の看板が掛けられた民家が見つかりました。
 
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次いで高札場跡
   
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そして集会所の前に本陣跡と彫られた石柱がありました。
 
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本陣跡から宿場内の様子を北方面と南方面に向かって撮影しました。この先に庄野宿資料館があるようですが神戸行きで時間を浪費したばかりですから先へ進みます。

 

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200m余り南にある川俣神社(かわまたじんじゃ)は樹齢推定300年のスダジイ(推の木)が有名です。
 
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目通し幹囲(幹のまわりの長さ)が5.1m、樹高11.2m枝張りは東へ6.6m・西方へ7.2m・南へ7.4m・北方へ6.3mもあるそうです
 
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庄野宿の石碑がありました。ここが京寄りの入口のようです。
 
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旧東海道は汲川原町交差点で国道1号を斜めに横断しますが、人はもちろん、左折のみ可の車も迂回(うかい)する必要がありました。
 
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鈴鹿市汲川原町(くみがわらちょう)に神戸領との境界を示す「従是東神戸領」の石柱がありました。ちなみに「従是東」は「これより東」と読みます。後方は女人堤防碑。洪水で難儀(なんぎ)をしていた汲川原村の農民(女性)が洪水を避けるために神戸藩によって禁止されていた堤防を文政年間(1818-1829年)に築いたことの功績を称(たた)えるものとされます。なぜ女性かと言えば禁を破った者は打首に処せられる恐れがあったからです。捕らえられた女たちは処刑直前に家老が藩主を諌(いさ)めたことで許されたとの言い伝えがあるそうですが、話が出来過ぎているように思われます。
 
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少し先の左手にある川俣神社の境内に中富田一里塚跡の石碑がありました。
 
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写真では幟(のぼり)の影に少し隠れていますが、右隣には「従是西亀山領」の石柱が並んでいました。案内板には中富田村は亀山領の東端にあって隣の神戸領に接していたと説明されています。
 
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常念寺を過ぎるとまたまた川俣神社があります。後で調べると鈴鹿市の鈴鹿川沿いには5つの川俣神社があることが分かりました。これまでに立ち寄った3つの他に平田本町和泉町にも川俣神社があるのです。鈴鹿川に多数の支流があることの表れでしょう。ちなみに川俣(かわまた)とは川が合流(あるいは分岐)する場所を指します。
   
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安楽川(あんらくがわ)の堤防に行き当りました。もちろん鈴鹿川の支流の一つです。現在の和泉橋は少し下流にありますからコの字型に迂回する必要があります。橋を渡り終えると井田川小学校に行き当って右手に折れます。そして道なりに進んで県道641号に合流、さらに進むと関西本線を潜り、小田町交差点で国道1号に出ました。(亀山宿へ続く)

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2011年4月17日 (日)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 石薬師宿

追分交差点のすぐ先にある大治田(おばた)一交差点の立体交差で国道1号は左に折れました。ちなみに直進する県道103号(伊勢街道)は鈴鹿市で国道23号と合流して伊勢へ向かいます。そして国道1号は約1km先の小古曽(おごそ)交差点で旧東海道(県道407号)を吸収して内部川(うつべがわ)を渡ります。内部橋北詰で川原に奇妙なものを発見、気になりますから堤防上の道に車を一時退避しました。巨大な土嚢(どのう)を積み上げて橋桁(はしげた)の工事をしているようです。
 
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国分町交差点で四日市市から鈴鹿市に入ります。左手の道が旧東海道です。
 
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集落の中を800mほど進むと木田町大谷交差点で国道1号に合流します。交差点の手前に旧東海道の道筋と歩行者向けのルートが説明されていました。国道1号に合流した旧東海道は川を渡ったところで右手へ離れて行くことは分かりますが、車が右折できるかどうかは示されていません。

 
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交差点に到着。信号待ちをしながら交差点の先の様子を伺(うかが)いますが、国道1号は左手へカーブしていますから、旧東海道が分かれる地点は確認できません。
 
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中央分離帯には低いフェンスが設置されていて残念なことに右折は出来ません。約1km先の石薬師町交差点まで迂回(うかい)する必要がありました。名前からして石薬師宿(いしやくしじゅく)の最寄り交差点のようです。中赤外線(IR)と紫外線(UV)をカットするフロントガラス越しに撮影したため画質が劣化しています。
 
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旧東海道44番目の宿場である石薬師宿の大きな看板が出迎えてくれました。
 
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道路の反対側、石薬師小学校前交差点の角に真新しくて見やすい案内標識が立っています。右手方向が石薬師宿の中心地のようですから右折することにしました。
 
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最初に立ち寄ったのは佐佐木信綱記念館。昔の偉い武将のような名前だと思いながら石薬師宿の説明書きを読み、佐佐木信綱博士(旧名は佐々木)は明治初期にこの地で生まれた歌人・国学者(万葉集研究の第一人者)であることを知りました。ちなみに唱歌の「夏は来ぬ」は佐々木信綱さんの作詞でした。同居者と私がともに好きな元童謡歌手、小鳩くるみさん(目白大学教授鷲津名都江さん)の歌も紹介します。(注、残念なことに削除されました) 出だしの「♪卯(う)の花の匂(にお)う垣根に♪」は故郷である石薬師宿の思い出かもしれません。ここでプチ薀蓄を一つ。「来(き)ぬ」とは「来ない」の意味ではなく、文語では「来た」を意味します。ちなみに文語の「来ない」は「来(こ)ぬ」です。
 
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右手の木造住宅が5歳の頃に一家が松坂へ移住するまで住んだ生家で、左手の建物が記念館でした。裏手は石薬師小学校です。
 
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隣の石薬師文庫前に立派な歌碑があります。
 
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小澤本陣跡(旧小沢本陣休憩所)は和モダンの白塀が美しい民家となっています。
 
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格子(こうし)を配した風情ある燐(とな)りの家にも小澤本陣跡と表示されています。元和2年(1616年)に幕命(ばくめい、幕府の命令)により高富村に設立された宿の名は当時有名であった石薬師寺からとったと説明されています。小澤(おざわ)の表札が懸(か)かっていますから本陣を営んだ小澤家がそのまま住んでいらっしゃるようです。
 
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宿場跡はゴミ一つ見当たらないほど綺麗に掃除されているのが印象的です。
 
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国道1号との分岐点近くに石薬師宿の石碑が立っています。その横の案内看板には「信綱かるた」のことが書かれていました。右手の小さな立看板が第1首のようです。そして小沢本陣跡でも見かけたのも36首の一つだったのです。
 
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こちらは石薬師宿の案内図です。後先になりましたが石薬師宿はこうなっていたのかと得心しました。この場所は北町の地蔵堂と表示されています。宿場を南に抜けると旧東海道は国道1号の上を横切るようです。道筋の確認はもう怠(おこた)りません。
 
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宿場内を石薬師小学校南交差点まで戻り、さらに南方向へ道筋に従って進みました。小さな宿場だったようで、少し走ると国道1号の上に出ました。陸橋を渡った右手にある弘法大師縁の石薬師寺と左手にある石薬師の蒲桜(がまざくら)を迂闊(うかつ)にも気づかずに通り過ぎてしまいました。坂道を下りて集落を抜け、小川を渡った先の四ツ辻に「石薬師の一里塚跡」の石碑を見つけました。
 
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隣に石薬師宿の石碑が立っていますから、ここが出口(京都寄りの入口)のようです。石薬師宿の入口(北町の地蔵堂付近)で見た案内図と同じものが立て看板となっていました。前方に進むと国道1号に出ますが、庄野宿方面は左手の坂道を下りるように案内され、ここにも信綱かるたの説明があります。
 
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旧東海道は関西本線の下を潜(くぐ)るようです。
 
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(庄野宿へ続く)

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2011年4月16日 (土)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 四日市宿(下)

四日市宿の中心部を抜けた旧東海道は再び街道筋の雰囲気に戻ります。浜田郵便局の隣にある浄土真宗崇顕寺前で「丹羽文雄生誕之地」の石碑を見掛けました。この寺の住職の長男として生まれ、一旦は父の寺の僧侶となりますが文学の道へと進み、昭和を代表する小説家となった人物です。
 
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丹羽文雄氏と言えば親鸞(しんらん)や蓮如(れんにょ)を描いた小説が有名ですが、生い立ちが影響したと言われる風俗小説も多数書いています。私には昼過ぎにテレビで放送された「よろめきドラマ」(不倫ドラマ)の原作者のイメージがあります。
 
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近鉄名古屋線のガードを潜ると旧東海道は近鉄内部線寄りにルートを変えます。赤堀駅近くの街道筋に一際目立つ古い建物がありました。創業が寛3年(1750年)で、軟膏(なんこう)の製造販売で200年以上続く、鈴木製薬所(現在の鈴木薬局)です。嘉永5年(1852年)に建てられたことが説明されていました。
 
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20mほど先の四ツ辻角にある案内標識に「ここは鹿化川(かばけがわ)左岸」と表示されています。天白川支流の鹿化川は、地図によると400mほど先ですから、流れが変わったのかもしれません。
 
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用水のような小川を渡った赤堀南町の四ツ辻にある案内標識には日永(ひなが)と表示されています。
 
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鹿化川を渡った旧東海道は枡形のように折れ曲がって日永に入ると大宮神明社がありました。
 
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次いで創建が貞観6年(864年)と伝えられる興正寺。親鸞上人が立ち寄ったことで天台宗から浄土真宗に改宗したことが説明されています。
 
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街道の反対側に立派な和風住宅があります。見るからに新しいのですが京都の町屋風に黒壁と竹製駒寄せ(犬矢来、いぬやらい)のコントラストが綺麗(きれい)です。
 
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天白川を渡りました。日永神社の境内(けいだい)に日永の追分(ひながのおいわけ)にあった道標が移転されているそうです。
 
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日永の薬師堂の前を通ります。
 
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旧東海道の石碑の後ろに見えるのは稲垣木吉顕徳碑で、日永村の名があります。その先は日永小学校です。
 
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すぐ横に立てられた東海道総合案内に描かれた地図は大変見やすく、事前にこのコピーを入手していれば旧東海道の道筋を求めて右往左往することはなかったのにと悔(く)やまれます。国道1号に合流した先に日永の追分があることを確認できました。
 
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緩(ゆる)やかにカーブしながら街道が住宅地に続いています。
 
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東海道名残の一本松を振り返って撮影しました。旧東海道の道幅は約5.5mで今も変わっていないと説明されています。
 
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前方に国道1号へ合流する追分交差点が見えてきました。ついに日永の追分に到着です。四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と呼ばれ、旅籠や茶店が多数あったそうです。前回紹介した笹井屋本舗もこの辺りに店を出していたのでしょう。前方の信号機脇に鳥居と石碑らしきものが確認できます。おそらく伊勢神宮遥拝(ようはい)用の「二の鳥居」でしょう。ちなみに「一の鳥居」を桑名宿で見ています。
 
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「二の鳥居」に注意を奪(うば)われた私は何を血迷ったのか、追分交差点を押し出される形で、国道1号を直進していました。こちらは伊勢街道方面で、右手にそれる県道407号が旧東海道でした。迂闊(うかつ)にもまたまた判断ミスを犯してしまいました。(石薬師宿へ続く)

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2011年4月15日 (金)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 四日市宿(上)

四日市宿は江戸日本橋から43番目の宿場です。宿場町らしい道筋を見て中心部に差し掛かったと思いましたが、旧東海道である案内標識で確認すると、かすみ郵便局のある羽津町を通り過ぎたばかり。四日市宿の中心部はまだ先でした。
 
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それでも小原屋酒店の前で路面がカラー舗装に変わりましたから四日市宿には入ったようです。四日市の旧陣屋(天領の代官所)は50mほど東の中部西小学校の敷地にあったそうです。ちなみに四日市の名は容易に想像されるように毎月4日から市が定期的に開かれたことによるとされ、八日市市や各地にある十日市などと同様。現在は県庁所在地の津市を人口で上回る三重県最大の都市です。
 
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しかし戦時中の空襲で市街地の大半が消失したため、残念なことに宿場町らしい建物は残されていません。
 
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三滝川(みたきがわ)に差し掛かりました。源流付近に滝が3つあることが名前の由来で、安藤広重(正しくは歌川広重)による東海道五十三次の四日市宿(古名の三重川)にも描かれています。太鼓橋のように真ん中が盛り上がった四日市橋を渡ります。写真は橋を渡りきった南詰めから振り返って撮影しました。
 
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進路方向を見ると舗装の色が再び変わり、緩やかなS字カーブが続きます。左手に見える土蔵は永餅(ながもち)で有名な笹井屋本舗本店です。永餅とは餡入りの焼餅で、土地の名(日永、旧東海道で3km余り先の追分)にちなんで名付けられたそうです。
 
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国道164号を横切ると旧東海道は緩(ゆる)やかに右にカーブして四つ辻に出ます。その角に「すぐ江戸道」と彫られた石碑が立っていました。文化7年(1810年)建立と表示されていますが、旧東海道沿いなのに「すぐ江戸道」とは解(げ)せません!
 
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この四つ辻を何方(どちら)へ進むべきか迷います。地図らしきものがあるので近づいて確認しました。この先の旧東海道は国道1号を斜めに横切って諏訪神社前を通過していたことが分かります。
 
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この中部(ちゅうぶ)地区の旧町名が南町であり、昔は市場・問屋場・脇本陣・旅籠(はたご)などがあって栄えたことも説明されています。ちなみに三滝川沿いの北町は今もその名が残っています。石碑にある「すぐ」とは真っ直ぐの意味だったのでしょう。
 
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旧東海道が通る角から2軒目の民家に南町の住所が彫られた石碑がありました。古い住所表示への拘(こだわ)りに惹(ひ)かれただけで別に意味はありません。
 
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一旦、国道1号へ出ました。諏訪町北交差点で諏訪神社方面へ右折する時に左手を見ると、諏訪新道商店街はお祭りのため車両通行禁止になっています。
 
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諏訪神社前で旧東海道へ合流しました。
 
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斜め右手の国道1号方面を見やると旧東海道の道筋が先ほどの地図通りであることが確認できます。
 
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諏訪神社は四日市を守護する神社として「おすわさん」の名で親しまれているそうです。
 
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「表参道スワマエ」商店街のアーケード入口は真っ赤な色と恵比寿様の画にインパクトがあります。こちら側は車が侵入できそうです。しかしこの考えは甘かったようで、少し先で侵入禁止の表示があり、国道1号へ押し出されてしまいました。
 
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よくあることですから気に掛けず、国道1号を少し戻ってUターン、諏訪町北交差点の2つ先の諏訪栄町交差点から中央通りに入って旧東海道を再度目指しました。「表参道スワ栄」の南端が見えます。途中で商店街(アーケード街)の名前が変わったようです。後で調べると、諏訪神社側が表参道スワマエ発展会、南側の中央通り寄りが諏訪栄発展会に分かれていました。
 
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中央通りから旧東海道へ入る角に立派な石碑が立っています。
 
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(続く)

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2011年4月14日 (木)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 桑名の高屋橋から四日市の海蔵橋へ

国道1号が国道258号と交差すると町屋橋北詰に差し掛かりました。ここで旧東海道は国道1号に合流しています。厳密に言えば50mほど上流に旧東海道の町屋橋が江戸初期に架けられて長年利用されましたが、昭和初期に国道1号の橋が架けられた時に廃止されたそうです。
 
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員弁川(いんべがわ)の堤防上に伸びる県道143号へ右折すると、すぐ左折するように案内標識が示しています。
 
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縄生(なお)集落に石碑がひっそり立つ縄生一里塚跡は江戸日本橋から97里目です。
 
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近鉄名古屋線の踏切を渡って小向(おぶけ)の集落に入ると右手の東芝・朝日工場と左手の伊勢朝日駅が向かい合っています。
 
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駅前に朝日町史跡の案内板・旧東海道の石碑が並んでいました。
 
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その先に立つ奇妙な形をした立ち木が目に入りました。推定樹齢300年の榎(えのき)は旧東海道に植えられた松並木に混じって植えられたもので、松がすべて枯れてしまったため、この榎だけが残ったと根元に立てられた案内板に説明されています。
 
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旧東海道の案内標識が折れ曲がっているのが気になりました。
 
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実は先に枡形があることを示していたのです。
 
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旧東海道は柿地区に入ると両側に小川が流れる堤防のような桜並木道になりました。提灯が寒風に揺れて「さくらまつり」の幟(のぼり)が寒々しく感じられます。前方に見えるのは伊勢湾岸自動車道。県道66号に合流して朝明川(あさけがわ)を渡ると旧東海道は四日市市に入ります。
 
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蒔田(まきた)で県道26号と交差した直後に関西本線の陸橋と三岐鉄道三岐線のガードを同時に通過します。つまり3階層の立体交差になっているのです。ちなみに三岐鉄道は名前が示すように三重県富田市と岐阜県関ヶ原町を結ぶために計画されましたが、計画路線のおよそ半分である三重県いなべ市の西藤原駅までしか建設されませんでした。
 
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約200m先の四ツ辻を左折、再び三岐線と近鉄名古屋線のガードを潜(くぐ)って緩(ゆる)やかに右カーブしながら小川を渡った右手に冨田の一里塚跡がありました。
 
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一里塚から先はほぼ真南に進みます。関西本線富田駅と三岐線富田駅の間を抜けたところで県道520号を右折すべきでしたが、そのまま直進したため県道8号に入って、国道1号へ押し出されてしまいました。旧東海道は国道1号と並行して走っている区間ですから、気に掛けずに国道1号を南西方向へ進むと、四日市かすみ郵便局の少し先で旧東海道が国道1号に合流しました。
 
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海蔵川(かいぞうがわ)の手前で旧東海道は左手にそれますが、桑名の町屋橋と同様に国道1号の海蔵橋を経由する必要がありました。この辺に三ツ谷一里塚があったそうですが海蔵川の拡幅工事で取り壊されたそうです。北側の川辺で桜祭りが開かれているようで大勢の人影が見えました。写真の左端に屋台の一部が写っています。
 
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海蔵川を真っ直ぐ越えていた旧東海道も今は枡形のように右折しながら四日市宿へ入って行きます。
 
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(続く)

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2011年4月13日 (水)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 桑名宿(下)

左手の小さな「歴史を語る公園」にある桑名城城壁の案内板が堀の対岸に見える三之丸の城壁を詳しく解説していました。
 
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この公園付近から旧東海道は微妙に折れ曲がりはじめました。その先はT字路となって右手に折れました。
 
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旧東海道は西へ向って県道613号と交わる京町交差点を通過します。
 
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最初の四ツ辻を左折。京町と城下町筋の名が桑名の中心部であることを象徴しているようです。
 
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真新しい東海道の道標です。最上部に描かれた矢印は?? 冷静に考えると右手方向から見ると「斜め左へ折れ曲がる」、左手方向からは「斜め右に折れ曲がる」ことを指しているようです。へそ曲がりの私は正面から見て「道の真ん中に何か障害物があるのだろうか?」などと考えてしまいました。
 
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京町の商店街と住宅地を南方向へ進みます。
 
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わずかに左へ曲がる地点に伝統的なスタイルの道標もありました。
 
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県道504号を横切った七里の渡しから1.1kmのポイントに吉津屋見附跡がありました。標識には「四角形の三辺をまわる枡形道路」と説明されています。そのまま解釈すると元来た方向へ戻ってしまうのでは!?
 
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いずれにしても複雑な枡形が待ち構えているようです。
 
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標識の説明通りに左折が2回続くコの字型の枡形でしたが、そこに至る前に右折がありました。ですから元来た方向へ戻るのではなくて、南向きから東向きに方向転換していました。「お粗末の一席!」
 
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枡形を抜けたあとにも道標を確認。

 
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しかし方向感覚が狂ったのか萱町(かやまち)で旧東海道の道筋を見失ってしまいました。京町を抜けたところからカラー舗装が途切れて通常のアスファルト舗装になっていたことと、県道401号に行き当たったところが侵入禁止(一方通行)になっていたためです。いずれも言い訳にすぎませんが、すぐ近くにある伝馬公園の名前にも惑わされて旧東海道の道標を見損なうとは・・・。

そして掛樋(かけひ)で写真の案内標識を発見しました。おお神様! 私はどちらへ進めば良いのでしょうか? 後で確認すると一本手前の県道401号で右折したためのコースアウトです。車は遠回りになりますが萱町交差点を経由して日進小学校前交差点で右折して旧東海道に入るべきでした。
 
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萱町まで戻るべきなのですが、ここは「助さん、格さん、もう良いでしょう」と水戸黄門風に自ら言い聞かせ、国道1号に入って員弁川(いなべがわ)に架かる町屋橋を目指しました。東日本大震災により福島の標準電波送信所が40kHzの標準電波を停波したことによるわが家の電波時計(九州から送信される60kHzを受信できない旧タイプ)のように精度が落ちた私の勘ナビの判断力は200mほどの誤差が生じて旧東海道からそれていたのです。詳細なルートを示す「虎の巻」は持っていませんが、旧東海道のチェックポイントだけはちゃんと押さえています。(四日市宿へ続く)

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2011年4月12日 (火)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 桑名宿(中)

ここから本題に入ります。東海道五十三次の41番宿場である名古屋市の宮宿まで辿(たど)ったのは気が付けばもう2年半も前のことになります。その先の宿場巡りが気に掛かってはいたのですが、あれやこれやで忙しく、中々思い立つことができませんでした。2箇月前に滋賀県から岐阜県にかけての中山道をドライブした時に東海道の宿場がまだ10箇所以上も残っていることが私の潜在意識から顕在化したのです。

蟠龍櫓を過ぎた場所に「七里の渡跡」の案内が立っていました。 
 
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その先にある大きな鳥居が目に入りました。これが「7里の渡し」に立つ伊勢神宮遙拝(ようはい、遠地から拝むこと)用の「一の鳥居」、鳥居を潜った左手にあるのは安政3年建の常夜燈です。宮宿の記事で説明したように宮宿から桑名宿の間(7里の距離)は旧東海道が海路だったのです。これも宮宿の記事で書きましたが、気象の影響を受けやすい海路を避ける脇往還(迂回路)として脇往還の佐屋街道がありました。しかし陸路は佐屋宿までで佐屋の渡し場から桑名宿との間は佐屋川(現在は廃川)・木曽川・長良川・揖斐川などの河川を下る「三里の渡し」が利用されたそうです。しかし明治時代の初期に新しい東海道(国道1号)が海寄りに建設されるとその役割を終えました。
 
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ここから旧東海道は陸路になります。
 
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鳥居を回り込むように右手に折れると「七里の渡し」の石碑があります。
 
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往き当りの道を左に折れると歴史を感じさせる建物が並んでいました。
 
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東海道五十三次第42番目の宿場、桑名宿の脇本陣「駿河屋」跡に建つ料理旅館「山月」と大塚本陣跡にある料理旅館「船津屋」の2軒です。
 
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船津屋の塀に埋め込まれるように石碑が立っているのが見えます。船津屋は泉鏡花の小説「歌行灯」(うたあんどん)の舞台として湊屋という名前の旅館で登場したことから「かわをそに火をぬすまれてあけやすき」と彫られた行灯句碑(あんどんくひ)でした。小説の中に「時々崖裏の石垣からかわうそが入り込んで板廊下や厠に点いた燈を消して悪戯をするげに言ひます」とあることを後年になって劇作家の久保田万太郎氏が句に詠(よ)んだものだそうです。ちなみに「かわをそ」は現代仮名遣いで「かわうそ」。
 
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「七里の渡し」の石碑まで戻って南方向を見やるとカラー舗装された旧東海道が真っ直ぐ伸びています。
 
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柿安本店料亭の駐車場がある四ツ辻を過ぎても旧東海道は一直線に続きます。
 
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「歌行灯」の大きな看板が一際目立ちます。「泉鏡花の小説歌行灯の舞台となったうどん屋の風情を味に残した」の説明文とうどん・天ぷらの写真はインパクトがあります。小説に登場するうどん屋のモデルになった「志満や」が今は「歌行燈」と名乗っていることがそのhpに説明されていました。
 
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看板の裏手にも柿安の駐車場が旧東海道の両側にあります。
 
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桑名の総鎮守である春日神社(正式名称は桑名宗社)の参道です。その入口に立つ青銅鳥居は「勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎」と歌われた日本随一の青銅鳥居だそうです。
 
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その奥に見えるのは最近再建された楼門(ろうもん)のようです。(続く)

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2011年4月11日 (月)

旧東海道ドライブ旅(三重県) 桑名宿(上)

久しぶりに愛車へ満タン給油できたことでドライブ旅を再開することにしました。オチビちゃんが小学校へ入学するのを口実にして関西方面へ走る計画です。幼稚園の卒園式は東日本大震災の直後でしたから関東地方に住む私と同居者は身動きが取れず残念に思っていました。長距離ドライブですからいつものように七つ立ちです。

走り慣れた東名高速道路は節電対策のために道路照明灯が消されて薄暗く、しかもいつもより交通量が少ないので、先行する車のテールランプが暗闇に点在するだけです。午前6時半を過ぎても曇天のため薄暗い豊田JCTで伊勢湾岸道路に入って時間調整をしながら走り、ちょうど午前7時に刈谷ハイウェイオアシスに到着。2箇月前に休憩した時は雪が降っていましたが、この朝も4月初旬にもかかわらず厳しい冷え込みが!

朝食を済ませて横風の強い名古屋市を通過、三重県に入って木曽川を渡り、左手にナガシマスパーランドの遊園地を見ながら快調に走ると最初の目的地が近づきました。湾岸桑名ICを出て県道69号で北へ向かい、国道23号を横切った先の桑名署脇を右折して、県道613号で桑名市の中心部を目指しました。案内標識に従って田町交差点を右折するとほどなく目的地の九華(きゅうか)公園に到着。
 
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公園の広い駐車場脇で本多忠勝の立派な銅像が出迎えてくれました。徳川家康の家臣で上総国(かずさ)の大多喜藩初代藩主でしたが、関ヶ原の合戦における功績によりこの桑名藩(10万石)の初代藩主となった人物です。
 
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九華公園は本多忠勝が整備した桑名城の本丸跡と二の丸跡に造られた公園です。明治初期に廃城となったため今は石垣や堀割が残るだけですが桜・ツツジ・花菖蒲(はなしょうぶ)などが、堀に架かる朱の橋とともに、堀の水に映える美しい場所です。
 
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二之丸へ渡る橋。ちなみに九華は扇城とも呼ばれた桑名城の扇から連想される中国の九華扇と「くはな」(旧かな使いのくわな)の読みにかけて名付けられたそうです。
 
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本丸の辰巳櫓(たつみやぐら)跡と神戸櫓(かんべやぐら)跡を巡(めぐ)りました。
 
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天守閣跡は松平定信などを祀る鎮国守国(ちんこくしゅこく)神社となっていました。
 
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すぐ横を流れる揖斐川の堤防に上がってみました。下流方向に架かる国道23号の揖斐長良(いびながら)大橋の先に先ほど通過したナガシマスパーランドにあるジェットコースターの上部が見えます。
 
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上流方向の長良川が合流する場所に長良川河口堰(かこうぜき)が見えます。2年半前に長良川に沿ってドライブをした時に時間切れで立ち寄りを断念した場所です。
 
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三之丸御殿跡コミュニエィパークに伊勢湾台風が引き起こした被害を後世へ伝えるためのモニュメントがありました。左手に見えるのは明治初期に創業した牛鍋屋「柿安」の本店(本社)で、現在はしゃぶしゃぶや牛めしなど多彩な肉料理店を展開しています。
 
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前回の記事で触れた伊勢湾台風の被害状況が説明されていました。地図上で黄色く塗られた地域(南北約45km・東西約20km)は30日以下、水色(南北約20km・東西約15km)は120日以下、紺色は120日以上も浸水していたことを示します。
 
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こちらは明治時代の治水工事についての説明です。オランダ人技師のヨハネス・デ・レーケ氏のことは宝暦治水工事の記事で触れました。
 
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さらに川に近い場所に歌川広重が東海道五十三次で桑名宿を象徴するものとして描いた桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)を再現した水門統合管理所がありました。
 
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蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍を意味するそうです。(続く)

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2011年4月 2日 (土)

この世の終わりと超天動説体験

東日本大震災が発生して3週間が経ちました。あの時の激しい揺(ゆ)れはいま思いだしてもぞっとします。大袈裟(おおげさ)ではなく「この世の終わり」がついに訪れたのかと思わざるを得なかったのです。こんな恐怖を感じたのは実は生まれて2度目です。最初の経験はちょうど半世紀前の伊勢湾台風(1959年の台風15号)でした。

 

死者が約4700名も出た超巨大台風が紀伊半島に上陸して東海地方を横断したのです。9月26日の夕方に雨戸の隙間(すきま)から見えた近所の家が一瞬で消えて無くなりました。そして深夜に私の故郷のすぐ近くをこの台風が通過した時は、停電中で真っ暗でしたが、大黒柱が大きく揺れるのが手の感触として分かりました。今にも家が倒壊するのではないかと怖(こわ)くて一晩中寝られなかったことをよく覚えています。

 

今回の東日本大震災では直後の余震を含めても1時間ほどの恐怖でした。しかしその後も数え切れないほど繰り返して余震が襲ったことで、伊勢湾台風の時とは異なる恐怖が何日も持続したと思います。発生する間隔は長くなりましたが現在も時々余震が起きています。そして同居者が「今揺れていない?」としばしば聞くのです。軽い「地震酔い」の症状が出たようです。そう言われると私自身もそんな気がしてきます。

 

実は不快な「揺れる想い」を私は昨年からしばしば経験していたのです。それはある朝、目覚めて寝床から起き上がった瞬間に、私の感覚がパニック状態に陥ってしまいました。部屋中が高速で回転しているのです。壁に掴(つか)まろうとしても、床に手を突いても、その高速回転は一向に収(おさ)まらないのです。何分も続いたように思われましたが、恐らく数十秒からせいぜい1分程度のことだったようです。そして不快な違和感はフッと消えていました。この感覚をあえて例えると、遊園地にあるコーヒーカップです。機械仕掛けで大きく回転するカップに付属する円盤型のハンドルを使ってさらに思いっきり急回転させた状態に近いでしょう。私の頭を「超天動説」が支配し始めたのです。
 
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「これは何かの幻覚に違いない」と冷静さを取り戻そうとしましたが、再び起き上がると「強い余震」が発生しました。持続した時間はかなり短くなったものの1回目と同様の現象です。その日は安静にすることにしてほとんど横になっていました。そして翌朝、恐る恐る起き上がるとやはり余震が発生したのです。私の頭の中で何かが壊れてしまったようです。インターネット検索で調べると、私の症状に符合する病気が見つかりました。耳の奥にある前庭器官(ぜんていきかん)の異常で起こる症状のようです。

 

つまり前庭器官で耳石が元の場所ではなく近くにある三半規官にずれると、回転感覚神経を刺激して「めまい」が発生するそうです。さっそく掛かりつけの病院へ出向きました。もちろん自動車ではなく電車を利用。耳鼻科を受診すると聴力検査と平衡機能の検査が待っていました。いずれも異常はなく、私の素人診断と同じ診断結果を医者から告げられて一安心。目眩(めまい)を抑える薬などを処方してもらいました。

 

薬の効果があったのか1ヶ月もすると症状はほぼ収まりましたが、違和感はその後も少し残りました。そして薬を服用した期間はリスクを避けるため長距離ドライブが御法度(ごはっと)です。ちなみに医学解説書によるとゴルフやテニス、ウォーキングなどで身体を動かすと平衡運動機能の強化に効果があるそうです。ゴルフは月に1-2回のペースで続けています。そこで今年に入って折りたたみ式の自転車を購入しました。実は旧街道巡りなどのドライブ旅では、駐車できる場所が限られるため車を離れてかなり歩き回ることもしばしばで、前から自転車の機動力を利用しようと考えていたのです。

 

この1箇月近くは東日本大震災によって引き起こされたガソリン不足のため不要不急の運転を控えていますから、これまで自動車で出掛けていた近場行きもこの自転車が活躍しています。サイクリングと言うほどのことではありませんが自転車に乗ることが楽しくなってきました。そして気のせいかバランスを取る感覚も回復したようです。遠出ドライブができるようになった折りには、愛車にこの折り畳み自転車(おりたたみじてんしゃ)を載せて出掛けることを楽しみにしています。

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2011年4月 1日 (金)

ラーメン小僧の地方行脚(米原編) 博多ラーメン「たい風 米原店」

県道329号で彦根から米原を目指しました。前方に見える雪山は伊吹山(いぶきやま、標高1377m)のようです。
 
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米原駅西口前を通過した最初の脇道角にある博多ラーメン「たい風 米原店」の駐車場に車を停めました。滋賀県にはいわゆる近江ラーメンがないようですから米原を代表するこの店を選びました。ちなみに長浜市に長浜店、東近江市には五個荘(ごかしょう)店があるそうです。
 
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かなり派手な外装に戸惑いながら店内に入りました。細長い店内にはカウンター11席とテーブル24席があります。小上がりのテーブル席には家族連れも目立ち、ラーメン店らしくカウンター席は厨房(ちゅうぼう)と向かい合っています。
 
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私は定番の「たい風ラーメン」(600円)、同行者は入り口に貼紙のあったお薦(すす)めの「キムチらーめん」(750円)を注文。
 
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「しあわせは(いつも)じぶんの心がきめる」(相田みつをさんの言葉)と書かれた河童の画が掛けられています。混雑した店のカウンター席でラーメンを待つ間、手持ち無沙汰でしばし見とれることに・・・。
 
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配膳された「たい風ラーメン」は関西風のあっさりした豚骨ラーメンでした。ゴマがいっぱい浮かぶスープは48時間煮込まれた「あっさり豚骨塩スープ」。博多ラーメンのような強いインパクトはなく、まろやかでアッサリした風味です。トッピングは大量の青ネギともやし、それに鹿児島産の豚バラ肉を使用した厚めのチャーシューが2枚、スープに合わせた柔らか目のストレート麺はツルッとした食感があります。
 
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同行者が食べる「キムチらーめん」は私の「たい風ラーメン」にキムチを追加トッピングしただけのようですが、味見をさせてもらうと、まるで別のラーメンのようです。「ネギはいいけど、もやしが多いわね!」と同行者が宣(のたま)うのを聞き流しながら、私は「どちらの選択も正解だよ!」と心の中で呟(つぶ)やきました。
 
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連載記事「ラーメン小僧の地方行脚」はこれで一段落(いちだんらく)とします。
 

博多ラーメン たい風 本店
住所: 滋賀県米原市下多良1-52
電話: 0749-52-3719

URL: http://r.tabelog.com/shiga/A2504/A250401/25000880/

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