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2011年7月28日 (木)

伊勢原市の古墳群 心敬塚古墳と鎧塚古墳

伯母様村観音の先でバス通りは大きく右にカーブ、鈴川を渡る手前を左手の山道に入りました。細く折れ曲がった道は舗装されていますが車がやっと一台通れる道幅しかありません。運悪く対向車と鉢合わせ。さらに細いT字路で何とかやり過ごしたあとは運転代行者を車に残してひとりで歩くことにしました。伊勢原市水道局の三ノ宮低区配水池(貯水場)脇に出ると前方に大きな心敬(しんけい)塚古墳がひっそりとした佇(たたず)まいで存在しています。山道の反対側には一段高い三の宮高区配水池もありました。
 
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低区配水池越しに先ほど立ち寄った松山古墳と東名高速道路、そして湘南平も一望出来ます。
 
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さらに50mほど坂道を上ると心敬塚が目の前に迫りました。松山古墳よりもはるかに大きな円墳です。名前の由来は、室町時代に有名な連歌師(れんがし)心敬(しんけい)が京を追われてこの地に移り住み、古墳脇に葬(ほうむ)られたことによるそうです。
 
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道なりに右手の小道に入りました。
 
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4分の1周ほど墳丘を廻(めぐ)るといつの間にか獣道(けものみち)になっていました。
 
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木立の隙間(すきま)を見つけたことで頂上を目指して登ってみたくなりました。ジャングルのように弦(つる)と枝葉が絡(から)み合って難儀(なんぎ)でしたが何とか頂上に辿(たど)り着きました。木漏れ日で頂上の様子を見渡すことができます。
 
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車まで戻って次の目的地に向いました。市道が行き当った交差点を右折して県道612号の山王中西側交差点を左折、山王中学校を目指します。山王中学校周辺から石倉橋交差点付近にかけて無名の古墳が点在する御領原(ごりょうはら)古墳群は昭和初期でも70基以上あったものが今はほとんどが失われているそうです。中学校の手前の道を右へ入った所に小さな古墳らしきものを見つけましたが、畑の中にあるため立ち入りは遠慮して、遠景写真を撮影するだけにしました。
 
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午前9時を過ぎましたので数日前に訪れた時に門が閉まっていた恵泉女学園園芸短大へと向かいました。人気(ひとけ)がほとんどないキャンパスを横切ると横門近くに遺跡らしきものが見つかりました。自然石を積んだ石段を上ります。
 
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伊勢原市教育委員会の説明板には1968年の学校建設の時に埒免(らちめん、埒面とも表記される)古墳が発見されたと書かれています。墳丘が失われて大きな横穴式石室(幅2m・長さ4.8m)と羨道(せんどう、つまり入口は幅1m・長さ4m)が露出しています。周溝がめぐらされた墳丘は墳頂から周溝まで16-17m、径が40mの6世紀末から7世紀初頭に築造された円墳で、相模国造(さがむこくぞう)の墳墓、つまりこの地域を支配した首長の墓と考えられるそうです。銀装の大刀(たち)や金銅製馬具が見つかっているそうですから大和朝廷と関係の深い渡来人かも知れません。
 
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ちなみに名前の埒免は地名の埒面(らちめん)と関係があるようです。埒面とは馬場のこと、そして埒は馬場の柵(さく)のことで、「埒が明く」(境界が明らかになる、つまり物事にきまりがつくの意)は神事としての競馬が語源とする説もあります。ちなみに、柵は開きませんから「埒が開く」とは書きません。
 
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県道611号を横切って次の目的地に向かいました。途中、太田道灌公の墓を見かけましたので立ち寄りました。
 
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当ブログでは川越散策大山道探索日暮里駅探索などの記事で太田道灌(どうかん)について紹介しています。
 
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市道が行き当った県道603号との高部屋交差点を左折して高部屋小学校脇を過ぎると、右手に道路の拡幅工事で造られた構造物に支えられた特徴のある古墳が見えました。鎧塚(よろいづか)古墳群です。6基の円墳が現存しているそうです。最大の1号墳は昭和63年の調査で直径約21m、高さ4mの墳丘の中央から横穴式の石室(幅1.6m、長さ6m以上)が発見されました。直刀や小刀などが遺物として見つかったこと、周溝が廻らされていたこと、古墳時代後期(6世紀末)に築かれたと推定されることが説明されていました。名前の由来は、室町時代に山内(やまのうち)上杉と扇谷(おうぎがやつ)上杉が戦った実撒原(さねまきばら)の戦いの戦死者を葬(ほうむ)ったと伝えられることによるのでしょう。ちなみ、太田道灌は扇谷上杉の家宰(かさい、筆頭重臣)でした。

 
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2号墳
 
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3号墳
 
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4号墳(5号墳と6号墳は農地の奥で立ち入りが困難のようです)
 
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(続く)

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コメント

昨日大山様詣でに行きました。その後ヨセフのお墓を見に行きました。ヨセフさんは大国主命様だそうです。

おばさまのバス停の角から低区配水池まであがりましてその周囲を探しました。ヨセフのお墓は塚になっているそうで配水池の下の畑がそれらしいとのことになり、お墓はつぶされてしまった。という結論になりました。

連れて行ってくださった方のお話では30年前にはちゃんとあったそうです。

でもこちらのブログからするとひょっとして心敬塚かもしれませんね。

投稿: サントス | 2018年3月12日 (月) 21時02分

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