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2011年9月に作成された記事

2011年9月30日 (金)

旧東海道のドライブ旅 土山宿(中)

白川神社の前を通過しました。
 
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土山宿には多くの旅籠(はたご・旅館)があったことが石碑で表示されています。
 
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森鴎外の泊まった旅籠「平野屋」
 
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街道筋から奥まった場所にある東海道伝馬館は東海道や土山宿の情報発信の拠点施設です。
 
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旧東海道と東海道伝馬館へ入る道の角に「問屋場跡」の石柱を見つけました。
 
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右手に「問屋宅跡」の立派な建物があります。
 
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前方角にその石柱が立っています。
 
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少し先の格子造りの建物の前に「土山宿本陣跡」の石柱がありました。
 
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左奥には明治天皇聖蹟の石柱と「井上圓了の漢詩」の石碑が並んでいます。
 
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旅籠山田屋跡は「土山中央公民館兼東海道あいの土山宿お休処」になっています。
 
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徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者(じゅがくしゃ)林羅山(はやしらざん)の漢詩の解読と解説が目に入りました。江戸から故郷の京都へ戻る途中に土山宿で読んだもののようです。漢詩の意味は『東から西、西から東へと長く旅をしていると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。さて、今、梅花に馬を繋(つな)ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか』であり、『石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いてこの漢詩を詠んだ』と説明されています。この詩は私の頭脳にとって難し過ぎました。
 
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「宿場のけごみ」とは何を意味するのか不明です。警固見(けごみ)なら動静を密かに窺(うかが)うことですが・・。『地下鉄漫才』の大好きな私がさっそく調べてみると、『階段の蹴込み(立ち上がり部分)のことで車夫の休む所を指すようになった』ことから転じて、『ちょっと寄って休憩しなさい』を意味するようです。これで私は安心して寝る(旅を続ける)ことが出来ます!
 
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県道の交差点を越えると大黒屋公園で、大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の石柱が立っています。土山宿には2つの本陣があったことが説明されていました。
 
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同じ公園の端に高札場跡の石柱も見つけました。
 
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来見橋と同じデザインの大黒橋が吉川に架かっています。
 
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旧東海道は国道1号を横切りました。左前方のに立つ新しい2つの道標の右側は『右 北国たが(多賀)街道 ひの八まんみち(日野 八幡道)』と刻まれています。東海道の土山宿と中山道の小幡(現東近江市)を結ぶ御代参街道(ごだいさんかいどう)の道標のようです。東海道脇街道・北国越安土道・伊勢道などとも呼ばれた街道です。左の道標は読み辛(づら)いのですが、説明文には「たかのよつぎかんおんみち」とあります。東近江市にある高野世継観音(永源寺)への道案内でした。
 
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国道1号の脇に旅籠「追分屋跡」の石柱があります。分かり易い旅籠名(屋号)です。
 
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国道1号から右斜めに入る脇道が旧東海道です。
 
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トラバースロード(バイパス道路)と交差する場所に野洲川(やすがわ)で旧東海道は行き止まりであると表示されていましたので国道1号に迂回(うかい)しました。
 
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歩行者と自転車は歌声橋を通るコースが指示されていましたので、旧東海道とは関係ありませんが、名前に惹かれて立ち寄ってみました。国道1号の白川橋には歩道が片側にしかないことで設定された迂回路のようです。
 
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歌声橋と並んで架かる白川橋を越えた最初の信号を左折しました。右前方の森が「垂水斎王頓宮址」(たるみさいおうとんぐうあと)のようです。
 
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こちらは対岸から見た歌声橋です。当然のことですが反対側と同じデザインでした。
 
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土山の名産である茶畑の中をカラー舗装された道が続いています。
 
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しかし、これは観光用のルートであって旧東海道筋ではありません。(続く)

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2011年9月29日 (木)

旧東海道のドライブ旅 土山宿(上)

旧東海道の鈴鹿峠越えを断念したことは少し心残りですから地図上で鈴鹿峠を越えることにします。片山神社から急な山道を上ると鏡岩があり、その先で峠を越えると万人講常夜灯脇を通過、旧東海道は新鈴鹿トンネルを抜けた辺りで国道1号と合流します。

国道1号を下りて甲賀(こうか)市土山町の山中交差点(下の写真)を通過した十楽寺の先に山中城跡の石柱があります。山中城と言えば箱根峠から三島市方面へ少し下りた場所にある山中城を連想させますが関係はなく、鎌倉時代に鈴鹿山警護役として関所を守った山中氏の居城だったそうです。その先の山中西交差点付近で旧東海道は右手にそれて行きますが、新名神高速道路の下を潜ると再び国道1号に吸収されてしまいます。この角に山中一里塚(緑地)があるようです。
 
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旧東海道が国道1号をそれて北側に迂回する猪鼻交差点を過ぎた場所(蟹が坂交差点の少し手前)に右手へ入る道があります。これが旧東海道でした。
 
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脇道(旧東海道)への入り口に立つ案内板には鈴鹿峠方面は旧東海道が失われていると説明されています。
 
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急坂を下りた右側は白川神社末社の榎島(えのしま)神社で、その境内には白川神社御旅所の石柱がありました。鳥居の右手にある椎木(しいのき)の大木が見事。
 
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500mほど先にある蟹江古戦場跡の案内板には天文11年(1542年)に山中城主であった山中丹後守秀国が甲賀国へ侵入してきた伊勢国主・北畠具教と戦ってこれを撃退した場所であると説明してあります。地理的に疑問を感じて調べてみると、山中氏は後に西方の水口町(みなぐちちょう)の柏本荘へ居館を移していますから、鈴鹿峠に近い(東方の)山中城は一族が守る出城になっていたのでしょう。
 
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旧東海道は田村神社の森を目指して一直線に続いています。
 
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平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂を主祭神として祀(まつ)る田村神社の境内に入る海道橋(平成17年7月竣工)は1775年に架けられた田村永代板橋を再現したものだそうです。橋の袂(たもと)に当時の「高札」が再現されていました。
 
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車は海道橋から境内へ入れませから、手前を左折する旧東海道に従って国道1号に出ました。道の駅「あいの土山」の点前を左折すると旧東海道はその裏手へ折れ曲がっています。ちなみに、「あいの」と言う枕言葉は本宿になる前に間宿(あいのしゅく)であった、あるいは藍染に由来するなどの諸説があるようです。
 
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カラー舗装された旧東海道を道なりに右折した場所に土山宿(つちやましゅく)の案内看板と石碑がありました。
 
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東海道五十三次の49番目・土山宿はこの先の「来見橋」(くるみはし)が入口ですが、この辺りから商家風の建物が建っており、亀山宿や関宿と同様に、昔の屋号の木札が下げられています。
 
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地蔵堂の左側に真新しい道標がありました。 「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」と刻まれていていますから、ゴールの京都・三条大橋まであと約60kmです。
 
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東の芭蕉、西の鬼貫と称された大阪伊丹の俳人・上島鬼貫(うえじまおにつら)の句碑『吹かば吹け櫛を買たに秋の風』をその脇に見つけました。道の駅の脇にあった「お六櫛屋」で櫛(くし)を買って鈴鹿峠へ向かう時に読んだ句であると説明されています。句碑は「吹けば吹け」と読み取れることが気になりました。
 
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扇屋文化伝承館は江戸時代に扇や櫛を販売していた商家「扇屋」を地元ボランティアが改修した店舗兼休憩所です。
 
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旅籠「大槌屋」跡
 
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東海道一里塚跡(土山一里塚は日本橋から110里)の標柱が立っています。ちなみにこの辺りを一里山と呼ぶようです。
 
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宿場らしい町並みが続きます。
 
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旅籠「寿し屋」跡
 
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現在は白塀風になっている来見橋(くるみはし)が本来の「土山宿」の入口であったようです。
 
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(続く)

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2011年9月28日 (水)

旧東海道のドライブ旅 坂下宿(再訪)

今回は亀山市にある関宿(せきじゅく)の「西の追分」から再度坂下宿(さかしたじゅく、東海道五十三次の48番目の宿場)を目指します。
 
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国道1号へ合流した旧東海道は上り勾配(こうばい)となって山間に入って行きます。その様子を横断歩道橋の上から撮影しました。
 
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見覚えのある山川運輸の脇を通過すると山陰で旧東海道は右手の脇道にそれます。
 
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前回は、右手の小さな標識を見過ごして、国道1号を沓掛交差点まで直進してしまいました。
 
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鈴鹿川沿いの旧東海道は坂下郵便局の前を通過。旧東海道は農道のようにも見えます。ちなみに後方に伸びる道路は国道1号です。
 
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右手の高台に天文台「童夢(どーむ)」を見つけました。旧東海道の反対側にある真新しい駐車場に車を停めて「まなびの小径」の階段を登ってみました。その奥は廃校になった坂下小学校(旧坂下尋常高等小学校)のようですが、現在は鈴鹿峠自然の家(宿泊野外活動施設)と歴史民俗資料を展示する坂下民芸館になっています。
 
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これも見覚えのある鈴鹿馬子唄会館鈴鹿馬子唄発祥の地の石碑を通過、河原谷橋(かわらやばし)を渡って小さな集落に入りました。
 
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少し先の左手にある坂下集会所と伊勢坂下バスのある広場の端には東海道五十三次のうつ48番目「坂下宿」の案内板があります。前回立ち寄った時にも確認しています。停慶安3年(1650年)に大洪水があったため、それまでの片山神社下から現在の位置へ移転したことと、本陣3軒・脇本陣1軒・旅籠48軒を数える東海道有数の宿であったと説明されています。「現在の位置」の説明がなかったことで前回は十分確認することができませんでしたが、今回は
バス停の手前角に松屋本陣跡と刻まれた石柱を見つけました
 
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その数10m先の茶畑への入口には大竹屋本陣跡、さらに数10m先の中(なか)の橋の袂(たもと)に梅屋本陣跡の石碑が建っていた。ここが坂下宿の中心部でした。
 
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中の橋の右前方には小竹屋脇本陣跡の石碑も見つけました。河原谷橋から岩屋観音まで約1kmの範囲が坂下宿です。
 
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道の右手の身代わり地蔵尊を過ぎると岩屋十一面観世音菩薩の石碑があります。前回(今年4月)は同行者の杉花粉症が発症すたため通過した場所です。
 
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清滝という小さな滝がある岩窟(がんくつ)に阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体が安置されていました。
 
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国道1号に行き当りました。前回は上り線を横断して下り線に入りましたが、今回は右手の脇道となった旧東海道をそのまま進みます。洪水の前に坂下宿が置かれた片山神社周辺です。
 
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Y
字路の脇スペースに車を停めて片山神社に向かう坂道を上りました。
 
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車でも何とか走れる道幅ですが、折からの台風12号が近畿地方に接近して時折強い雨が降っていますので、落石や倒木の可能性を考えて慎重を期しました。
 
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片山神社の鳥居から先の石段は「危険ですので立ち入りをご遠慮願います」の立て看板がありました。
 
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片山神社の脇から旧東海道はつづら折れとなって登山道のようになりました。車道は左手に伸びています。少し登ってみましたが足元が悪いので鈴鹿峠まで残り約300mを歩く計画を断念しました。
 
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先ほどのY字路まで歩いて戻り、広告用の看板や幟(のぼり)に誘(さそ)われるように国道1号沿いの脇道上ると、バーベキューと鯉料理の店「鈴鹿峠」が見えました。
 
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国道の上り線を横断してインターチェンジのように複雑なルートで下り線に入りました。新鈴鹿トンネル(長さ395m)では工事のために車線規制が行われています。
 
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トンネルなで確認できましたがトンネルの天井を点検修理するための規制でした。旧東海道のドライブ旅はいよいよ滋賀県に入ります。(続く)

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2011年9月22日 (木)

二番町を散策する

東京メトロ有楽町線麹町駅を下車、5番出口から地上に出ると交差点の向かい側に日本テレビの旧本社ビル(日本テレビ放送網麹町分室)がありました。交差する道路は日本テレビ通りと二番町中央通り、国道20号(新宿通り・通称麹町大通り)沿いのエリアが麹町4丁目、その北側が二番町、半蔵門駅寄り(東隣り)のエリアが麹町1-3丁目と一番町になります。ちなみに、麹町の名前は漢字表記を見ると穀物を発酵させた麹(こうじ)を連想させますが、由来に諸説があって定説はないそうです。
 
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そして番町の名前は江戸時代に将軍を警護する旗本の大番組の住まいがあったことが由来です。大番組には一番組から六番組までがありましたが、その名前が現在の地名に残ったのだそうです。麹町一丁目の半蔵門(交差点・駅)は半蔵門を警護した服部半蔵の名前に由来します。江戸城は西方(甲州街道)への備えが特に堅固であった明かしでしょう。このことは「四谷散策」の記事でも紹介しました。

余談ですが、江戸時代の怪談話「番町皿屋敷」の舞台とされるのは牛込御門内番町(現在の五番町か?)にあった火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)で旗本の青山播磨守主膳の屋敷だそうです。もちろん創作された話ですから、その屋敷跡は実在しません。ちなみに、大正5年(1916年)時代に岡本綺堂(おかもときどう)が歌舞伎に改めた「番町皿屋敷」が初演されたそうです。

四番町と六番町へ足を伸ばす心積もりでしたが、あまりの暑さに計画を縮小して、二番町だけを散策することにして二番町中央通りを四谷駅方面へと歩きました。今から40年以上前のこと、就職で状況することが決まった時に、当時二番町に住んでいた当縁の家を訪ねたことを思い出しました。一際目立った日本テレビの建物を目印にして閑静な住宅街を歩いたことだけを覚えています。今は商業ビルやマンションが増えて往時の雰囲気は無くなっていました。
 
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二番町中央通りの左手(南側)に建つ二番町センタービルは蔦(つた)の巨大なグリーンカーテンが見事です。下層階の壁面より奥まっていますから歩道から見えませんが上部階(9-13階)は高級賃貸マンションの「二番町テラス」があるようです。家賃は月額約50万円から百数十万円までとのこと!
 
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右手(北側)には表千家の東京稽古場、さすがに落ち着いた雰囲気です。40年前に訪れた二番町にはこのようなお屋敷がもっと多かったと記憶しています。
 
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二番町センタービルに隣接するベルギー・スクエア(Belgium Square)の奥にはベルギー王国大使館(Embassy of Belgium)が控えています。調べると大正時代の総理大臣であった加藤高明邸跡だそうです。
 
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こちらはベルギー・スクエアと路地を挟んだ敷地で見つけた「千代田区災害時協力井戸所有」の看板です。災害時の水の確保に役立てる井戸を所有しているオフィスビル「二番町平和ビル」の裏手にありました。
 
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二番町中央通りの右手(北側)にある日本教育大学院大学(本部)は教員養成を目的とする株式会社立大学院大学です。ちなみに株式会社立大学は私立大学の一種ですが、通常の私立大学のように国からの補助金が出ないため、出資金を財源の一部にしているそうです。始めて知りました。
 
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その先にある2階建ての真新しいビルはコーヒー&レストラン「ファミール」。名前のままコーヒーショップとレストランを組み合わせた業態で、デニーズと同じセブン&アイ・フードシステムズ(セブン&アイHLDGSの事業会社)のファミリーレストランです。
 
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ファミールの向い側のビルに入る「四谷メディカルキューブ」は各分野の専門医と最新の医療機器(PET/MRI/CTなど)有する都市型クリニックで、地域医療機関との連携を目指す機関のようです。
 
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「ファミール」の隣に一際大きな建物があります。1階にはセブン・イレブンの店舗もあります。横にある看板を見るとセブン&アイホールディング(HLDGS)の本部でした。
 
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麹町6丁目交差点に近い公園です。最近はどこの公園でもそうですが喫煙場所になっていました。
 
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麹町大通り(新宿通り)に行き当たりました。
 
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麹町大通りの反対側(南側)に上智大学の建物が見えました。
 
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JR中央線四ツ谷駅方面へ向い、フラワーショップ「花どうらく(hanadouraku」の角で右折しました。
 
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その通りは二番町と六番町を分ける「麹町文人通り」でした。明治・大正・昭和にかけて多くの作家・文学者たちが住んでいたことが名前の由来です。島崎藤村・泉鏡花・有島武郎・菊池寛・与謝野晶子などが挙げられます。
 
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麹町文人通りを100mほど歩くと、セブン&アイホールディング(本部)の裏手に出ました。手前の塀がこのビルにそぐわないのは敷地が入り組んだ心法寺(しんぽうじ)のものだからです。
 
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そして、この日の飲み会があるポルトガル料理店「マヌエルカーサ デ ファド 四谷」が地下に入る建物「アークス(AHKS)アトリウム」が見えます。二番町から六番町への直行することになりましたが、食事前の楽しい散策でした。

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2011年9月15日 (木)

山梨へのドライブ旅 大日影トンネル遊歩道

「天空の湯」で素晴らしい展望を楽しみました。まだ午後2時半ですから番外編として「大日影(おおひかげ)トンネル」に立ち寄ることにしました。地図で確認すると中央本線・勝沼ぶどう郷駅のすぐ近くのようです。この駅は「大菩薩の湯」へ行く時に立ち寄ったことがあります。当てずっぽうで駅の東側にある細い道に入ってみましたが行き止まりでした。それではと県道38号で勝沼ぶどう郷駅を過ぎて「大日影トンネル」へのアクセスを探すことにしましたが、気が付けばフルーツラインの入口まで出てしまいました。

そのフルーツラインへ入って勝沼ぶどう郷駅の方向に戻ると先ほど立ち寄った「ぶどうの丘」がよく見えます。10年前と同じ風景でした。
 
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観光バスの待機場(駐車場)を見掛けて私の勘(かん)ピューターが「ビンゴのチャイム」を鳴らします。その先の細い道へと左折して葡萄(ぶどう)畑の中を周囲に気を配りながら下りました。怪しいことを目論(もくろ)んでいた訳ではありませんが、辺りをキョロキョロ見回しながらの運転は傍目(はため)に不自然だったかも知れません。やはり「李下(りか)に冠(かんむり)を正さず」を実践(じっせん)すべきでした。ちなみに「李」は中国原産のスモモ(酸桃)のことで、山梨県南アルプス市が産地として有名です。日本人は「李」と言う字に馴染(なじみ)みが少ないため、発音が同じ「リ」で身近な果物の梨(なし)を当て字に使うことが、山梨県人に限らず、全国的に多いようです。

またもや県道38号に出てしまいました。こうなったら勝沼ぶどう郷駅に立ち寄って確認する(奥の手を出す)ことにしました。
 
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勝沼ブドウ郷駅(旧勝沼駅)の駐車場に車を停めようとした時に予期もしなかった「大日影トンネル遊歩道利用者駐車場」と表示された大きな立て看板が目に飛び込んで来ました。私のドライブ旅にはよくあるパターンで「一件落着」。
 
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「駅前甚六公園」に電気機関車EF6418が置かれていました。昭和41年(1966年)に製造された機関車です。「甚六(じんろく)桜」についての説明もあります。

遊歩道の案内に従い線路脇を歩いていると、「この先 階段上がる」と書かれていました。同行者は小さなプラットフォームのようなものを指差して、「この階段を上がるんだって!?」とボケをかまします。「ほな、そないさしてもらいまっさ? なんでやねん」と口をついて出そうになりましたが、私は関西人ではありませんから「ノリツッコミ」は・・・。
 
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こちらが本物のプラットフォームだったようです。
 
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そして確かに長い階段が待ち受けていました。
 
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スイッチバック式であった「旧勝沼駅の軌道の終点」の説明がある横の階段を上がり切った場所にある広場からレールが大日影トンネルの中へと伸びています。ちなみに写真の左端は現役の新大日影第二トンネル。
 
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全長1367.80mの大日影トンネルは明治36年(1903年)から1997年まで使われた中央本線のトンネルです。新トンネルの開通により同年に廃止となったそうです。遊歩道として再生された経緯も説明されています。
 
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鉄道用の大日影トンネルは、中央部が盛り上がる自動車用トンネルとは違って、反対側の開口部まで一直線に見通せます。湧き水が敷石の上を流れています。
 
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大きな照明器具はこのトンネルが散策路として整備された時に設置されたのでしょう。そして薄暗いトンネルにもかかわらず点灯していません。節電のため?
 
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暗くて単調なトンネル内に変化を持たせるための工夫として、写真ギャラリーが設(もう)けられ、大日影トンネルに関連する歴史を紹介しています。
 
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鉄道標識には「東京駅を起点とする距離標」「線路が直線から曲線にさしかかる位置を示す逓減標(ていげんひょう)」「線路の上り下りの勾配(こうばい)の分岐点に設置される勾配標」があると説明されています。それでは写真に写る鉄道標識は何でしょうか?
 
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横木が傾いていますから勾配標識で、書かれた数字の「25.2」と「「25」は勾配を表しています。その単位のパーミル(‰)は千分率あるいは千分比と呼ばれるもので、1000m進んで何m上がる(下がる)かを意味する単位です。左方向の甲斐大和駅側は25.2パーミル、右方向の勝沼ぶどう郷駅側は25パーミルであることを示します。

中間点を示す標識の少し先には大量の湧き水を流す水路が設置されていました。
 
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もうすぐ出口です。
 
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いよいよトンネルの出口に到着しました。深沢川に架かる鉄橋の先に2つ目のトンネルが見えます。
 
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この旧深沢トンネル(全長1105.7m)はJR東日本から勝沼町(甲州市)に無償供与され、勝沼トンネルワインカーヴとして、個人やワイナリー各社に利用されているようです。
 
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この遊歩道は片道30分と表示されていましたが、セッカチな私には写真を撮影しながらでも往復45分のコースでした。

勝沼ぶどう郷駅を出発したのはまだ午後4時前です。県道38号から国道20号に出れば中央自動車道・勝沼ICはすぐ近くですが、時間の余裕が十分ありますから、番外編に満足した私は国道20号で帰ることにしました。何度も走っているこの国道で新しい車の走り(燃費)を試して見たくなったのです。急な上り坂ではパワーモードを使用しましたが、エコ運転を徹底(平均燃費が伸びるようにアクセス操作)しながら、ほぼ想定した通りの約3時間半で自宅に戻りました。総走行距離が約288km、平均燃費は24.km/リッターと上々の結果でした。

<同行者のコメント> 今回も出かける前に山登りをしないと確認したはずなのに、気が付けば湯村山の頂上にいました。それなら歩きやすい靴を準備したのにと言っても後の祭りでした。そのあとはずっと車に待機。ぶどうの丘の天空の湯では、日差しが強いため露天風呂では日陰に人がギューギュー詰めでしたから、屋内のお風呂だけにしました。そしてブドウ好きのチビスケ君へのお土産にとあちこちの店で味見をしたのですが・・。あきらめかけた時に大日影トンネルの脇にあるぶどう園の直売所で美味しいブドウを見つけられました。本当に良かったです。

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2011年9月14日 (水)

山梨へのドライブ旅 ぶどうの丘温泉「天空の湯」

午前11時をちょっと回ったところですから昼食を兼ねてこの日の日帰り温泉に選んだ「正徳寺温泉初花」(山梨市正徳寺)へ向かうことにしました。 国道140号で笛吹川沿いに走り、白井河原橋で笛吹川を渡りました。西関東道路の長い大蔵経寺山トンネルを抜けると、ほどなく山梨市に入りました。

上岩下ICを出て落合交差点で右折、国道140号に出て右手の路地に入り、事前に調べたルートに従って狭い路地で両側のサイドミラーを民家の屏で擦らないように注意しながら走ります。「ミラーを閉じたほうが良いんじゃないの!」と同行者はアドバイスしますが、サイドミラーと塀の間にある数センチの隙間を確認しながら徐行した方がボデーを擦(こす)るリスクが低いのです。路地を抜けるとそれらしき建物が見えてきました。名物の鰻料理と温泉を楽しみに「正徳寺温泉初花」を訪れたのです

狭い道からは想像できない広い駐車場に入ると停っている車がいません。そして建物の前に「定休日」の看板が立っていました。また仕出(しで)かしたようです。諦(あきら)め切れずに玄関まで行ってみましたが人気(ひとけ)は全くありません。実は、台風が通過して天気が回復するのを待っていたため、当初のスケジュールを変更したことが災(わざわ)いしました。

「よくあることさ!」と落ち込む自分を慰(なぐさ)めながら考えると、「そうだ。近くに『天空の湯』がある!!」と閃(ひらめ)きました。臨機応変(移り気)な私は立ち直るのも早いのです。10年くらい前、勝沼からフルーツラインを走って甲州市塩山にある「大菩薩の湯」へ向かう途中にその場所を確認しています。

方針が決まれば「即実行」です。甲州市勝沼を目指しました。国道140号(雁坂みち)の兄川橋北詰交差点を右折して県道214号に入り、笛吹川を渡れば、後は一本道です。ぶどうの丘入口交差点を左折してぶどうの丘の急坂を上りました。
 
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案内標識に従って「甲州市勝沼ぶどうの丘」の駐車場に車を停めました。館内に入るところで案内図を確認する「天空の湯」は奥の建物でした。そこにも駐車場があるようです。判断ミスを咎(とが)められないように売店の下見を装(よそお)いましたが、やはり見抜かれていたようです。
 
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ぶどうの丘温泉「天空の湯」は公営施設らしく平凡な2階建の建物です。
 
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館内へ入る前に左手の展望台へ歩きました。「ワイン先駆者讃仰百年の碑」脇から甲府盆地が見渡せます。讃仰(さんぎょう)とは難しい言葉ですが偉人の徳を仰ぎ尊ぶことを意味します。
 
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1階の入口を入ったロビーには下足箱・フロント・売店があり、左手には軽食ラウンジ(椅子席と畳席)があります。12時を回っていますので先ず軽食ラウンジで軽い昼食を取りました。私は何となく牛丼を選び、動向者は冷やし中華を注文しました。牛丼の味はまずまずでしたがボリュームが私には少し多すぎました。畳席はゆったり休憩ができました。午後になって雲が出始めたようです。

そこで休憩を切り上げて展望の良いうちに温泉を利用することにしました。フロント(受付)で利用料金(3時間まで一人600円)を支払って階段で2階へ上がりました。
 
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円形の建物に合わせて全てが円弧の形をしています。もちろんロッカーも円弧形。脱衣場は狭いのですが昼時の利用がそれほど多くありませんから問題はありません。
 
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ガラス戸で隔たれた円弧形の浴場にはやはり円弧形の2つに仕切られた浴槽がありました。大きい方は「高温浴の湯」・小さい方は「中温浴」のジャグジーと寝湯が配置されています。ガラス戸の外に見える塀はその右手にある露天風呂の目隠しです。
 
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泉質はアルカリ単純泉(水素イオン濃度9.5の高アルカリ温泉)、湧出部の泉温は41度。無色透明で無味無臭、アルカリ性と言っても滑り感がほとんどありませんから平凡な印象です。前述した「大菩薩の湯」も同じ高アルカリ性温泉です。

ミストサウナは温泉の湯を霧状にして小部屋に満たしたもので、サウナとしてはちょっと珍しい趣向です。

40度以下と思われる温(ぬる)目の露天風呂にゆったりと浸かりながら、甲府盆地・御坂山塊・南アルプスを一望できる雄大な景色をたっぷり満喫しました。「あれ、どこかで見た景色に似ているな」と思いました。そうです、今年2月に訪れた岐阜県海津市南濃町にある「南濃温泉 水晶の湯」を思い出しました。濃尾平野が一望出来る山の中腹にある温泉でした。写真は露天風呂で日除けとして被(かぶ)る陣笠です。
 
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脱衣場に『4つのプレートがぶつかる珍しい地帯にある岩の割れ目で生まれる天然温泉』と説明されていました。同行者もこれに気付いたようで、「大地震が来たら地面が割れてしまうんじゃないの!」と本気で心配しています。(続く)

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2011年9月13日 (火)

山梨へのドライブ旅 曽根丘陵公園の東山古墳群

県立考古博物館から西方へ歩くと綺麗に整備された公園(日本庭園)に入りました。
 
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左手の奥に「かんかん塚(茶塚)古墳」と「杯塚(はいづか、さかづき塚)」が並んでいました。「かんかん塚」は直径が約26mの円墳(5世紀後半の築造と推定)で、長さ約7mの竪穴式石室があると説明されています。
 
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より平らな「さかづき塚」(直径約13m)は16世紀頃の鉄鏃(てつぞく、鉄製のやじり)が出土したことから中世の信仰に関わる塚と見られるそうです。
 
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小川に架かる橋を渡ると右手に大きな築山(つきやま)らしきものが見えてきました。
 
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「丸山塚古墳」(国指定史跡)でした。5世紀始めに造られた山梨県では最も大きな円墳(直径約72m・高さ11m・墳頂径9m)であると説明されています。竪穴式石室(長さ5.5m・幅1.05m・高さ0.85m)があり、墳丘板は2段構成で埴輪(はにわ)が立てられていたそうです。
 
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直線的に伸びる階段を上がりました。
 
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墳頂部には竪穴式石室の説明があります。
 
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北西方向に茅ケ岳(かやがたけ、標高1704m)と八ケ岳連峰が望めました。
 
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墳頂の奥まで歩くと南アルプスの山々も見えます。左手前が櫛形山(くしがたやま、標高2052m)で、後方の連山は南アルプスの白峰(白根)三山のようです。左から櫛形山と雲に隠れた農鳥岳(標高3026m)・間ノ岳(標高3189m)、北岳(標高3192m)の順。そして右端は加牟那塚古墳の墳頂からも見た鳳凰三山でしょう。
 
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丸山塚古墳の反対側にある階段と砂利が敷き詰められた遊歩道の先に2段構えにみえる築山がありました。これが「銚子塚古墳」のようです。遊歩道の途中に16基からなる「東山古墳群」の分りやすい説明がありました。両古墳は以前紹介した埼玉県行田市(ぎょうだし)にある埼玉(さきたま)古墳群と似た雰囲気を感じさせますが、埼玉古墳群は5世紀後半の築造と推定されるようですから銚子塚古墳より数十年後の築造です。
 
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「銚子塚古墳」(国指定史跡)は全長169mで県内最大、4世紀後半の築造当時には東日本最大の前方後円墳(長さ169m・後円部径92m・高さ15m・前方部幅68m・高さ8.5m)で、竪穴式石室(長さ6.6m・幅0.93m・高さ1.35m)からは鏡・装身具・武器などが発見されたそうです。墳丘は三段構成で、埴輪が立てられ、墓石で覆われていたと説明されています。ちなみに「銚子」前方後円墳の古い呼び名のようです。

再現された周溝を木製の橋で渡り、前方部の階段を上がりました。
 
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前方部の頂上に立つと後円部が見えてきました。振り返ると丸山塚古墳の全景が広がります。円墳ですから反対側から見た様子とほとんど同じです。
 
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馬の背のように幅が狭くなって後円部へと続きます。
 
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後円部の頂上に到着。こちらにも竪穴式石室の説明がありました。
 
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振り返ると前方部の形状が台形であることがよく分かります。
 
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北方の笛吹川の先には笛吹市と山梨市の市街地や長野県・埼玉県との県境にある山々が望めました。
 
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丸山塚古墳の脇まで戻ると前方に小山が見えます。この辺(あた)りに「大丸山古墳」(全長99mの前方後円墳)があるようです。
 
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「かんかん塚」と「杯塚」の裏手に出ると、その反対側(右手)に綺麗な築山が二つありました。向かって右側が高く、左側が低く、いずれも円墳のように見えます。
 
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すぐ先に「岩清水(いわしみず)遺跡」の標識があって確認できました。弥生時代後期(約1700年前)と古墳時代中期(約1600年前)の円形周溝墓(直径が約26mと約30m)で、「かんかん塚古墳」とほぼ同時期の築造と推定されることが説明されています。

さらに東山の小高い場所にある「大丸山古墳」へも足を伸ばしたいところですが、木立に覆(おお)われて全貌(ぜんぼう)を見渡せないようですし、駐車場に停めた車で1時間余り待つ同行者のことが気になりますので、急いで車へ戻ることにしました。(続く)

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2011年9月12日 (月)

山梨へのドライブ旅 県立考古博物館

県道7号を国道20号まで南下、さらに国道358号に入って中央自動車道・甲府南ICの近くにある県立考古博物館を目指しました。考古博物館(hpはこちら)を含めて周辺の古墳群が「甲斐風土記(かいふどき)の丘・曽根丘陵(そねきゅうりょう)公園」として整備されています。
 
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駐車場から考古博物館へ向かう途中に「古代の広場」に立ち寄りました。

「八乙女古墳(馬乗山1号墳)の石室(1号から3号までの石棺)」 東八代郡境川村(現在の笛吹市境川町)の中央自動車道・境川PAから移設
 
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「一ノ沢敷石住居」 境川村の一ノ沢遺跡(約3800年前の縄文時代後期)から移設
 
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「竪穴住居」(縄文時代中頃の住居を復元)
 
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県立考古学博物館は山梨県内で出土した遺物(いぶつ)を展示する目的で昭和57年(1982年)に開館、来年30周年を迎える施設です。落ち着いた雰囲気の建物ですが、アプローチの脇に並ぶ石柱はギリシャやローマの遺跡をイメージさせて、この博物館には何かそぐわない感じがします。ちなみに観覧料は210円です。
 
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博物館内には旧石器時代から歴史時代(奈良・平安・鎌倉・戦国時代・江戸時代)までが常設展示されていますが、目当ての古墳時代の展示だけでも約270点もありましたので、「曽根丘陵公園」にある「東山古墳群」を中心に主な展示品を紹介します。館内は今年6月に写真撮影が許可されましたが、フラッシュは使用できませんので画質が良くないことをご容赦下さい。

縄文時代の展示エリアで見つけた金生(きんせい)遺跡は、北杜市(ほくとし)にある縄文時代後・晩期(約2500年前)の住居跡で、以前訪れたことがあります。古墳時代の遺跡ではありませんが遺物(出土品)の写真を番外として掲載します。
 
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いよいよ「古墳時代」の展示エリアです。
 
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先ず「古墳のうつりかわり」を確認しました。
 
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「山梨県の古墳分布図」(甲府盆地の山際に多くの古墳が分布)
 
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「方形周溝墓群と出土品」(曽根丘陵公園)
 
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「盤龍鏡(ばんりゅうきょう)」(笛吹市御坂町の亀甲塚古墳)
 
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「四乳八禽鏡(しにゅうはっきんきょう)」と「三角縁三神三獣鏡(さんかくぶちさんしんさんじゅうきょう)」はいずれも4世紀中頃の鏡(大丸山古墳)
 
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「短甲(たんこう)」 4世紀中頃の武具(大丸山古墳)
 
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「埴輪(はにわ)」(甲斐銚子塚古墳)
 
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「東山古墳群」1966年(昭和41年)当時の撮影
 
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「鏡」(甲斐銚子塚古墳)
 
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「木製品」(甲斐銚子塚古墳)
 
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「上空から見た甲斐銚子塚古墳」
 
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展示室を出た場所にある復元された銅鐸(どうたく) <音色が聞けます
 
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次回は「曽根丘陵公園」の北部に点在する東山古墳群を巡ります。(続く)

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2011年9月11日 (日)

山梨へのドライブ旅 万寿森古墳と加牟那塚古墳

次に向かったのは甲府市湯村にある「万寿森古墳」(まんじゅもりこふん)。緑ヶ丘スポーツ公園のすぐ南にある市立北中学校脇の狭い道を西方の甲府富士屋ホテル方面へ走りました。約400m先の右手傾斜地にそれらしき木立が見えました。城北幼稚園から北東へ100mほどの場所です。古墳とその周囲には雑草が生い茂っていますが、コンクリート製の階段と土留めがありますから、以前 住居があったのかもしれません。
 
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甲府市と甲府市教育委員会の標識には、『この古墳は1450年ほど前の6世紀中頃に築造された古代の首長墓で、墳径約25m・高さ約5mの円墳である。年代的には千塚にある加牟那(かむな)塚古墳より先行すると見られる』と説明されています。月極駐車場スペースになっている古墳の東側周辺を歩いてみました。
 
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裏手は行き止まりになっているようです。
 
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湯村の温泉街を抜けてさらに北西方向へ約1km走った千塚(せんづか)公園の東、住宅地の路地を少し入った場所によく整備された「加牟那塚古墳」(かんなづかこふん)がありました。『径約45mの円墳で、古墳時代後期初頭の5世紀末から6世紀後半の築造と推定される県内で二番目に大きな横穴式石室を持つ円墳。石室は横穴式で羨道(せんどう)6.36m、玄室(げんしつ)10.30m、高さ2.63m、の規模。天上石は7枚の巨石を用い、奥壁には大きな1枚岩が使用されている』と説明されています。
 
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石積みで周りを囲まれた円墳に上がると右手(東南方向)に横穴の大きな入口がありました。入口には鉄格子の扉が設置されています。加牟那(かんな・かむな)という耳慣れない名前は高句麗からの渡来人と関係があるかも知れません。
 
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裏手にも回ってみました。
 
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円墳の頂部へ上ると甲府市街地と富士山が見えました。千塚の地名の通り、かつては多くの古墳があったそうですが、湯村山古墳群と万寿森古墳などいくつかの小古墳が残されているだけだそうです。古代の様子を想像してみましたが・・・。
 
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北方にある片山(標高655m)の中腹まで住宅が迫っています。
 
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西方には千塚公園の先に南アルプスのドッシリした鳳凰三山(ほうおうさんざん)の頂上部が尖(とが)った地蔵ケ岳(標高2764m)・観音ケ岳(標高2840m)・薬師ケ岳(標高2780m)が望めます。
 
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加牟那塚古墳へのアプローチと周辺の住宅です。
 
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千塚公園にも立ち寄ってみました。駐車場がある芝生広場として平成18年(2006年)に整備された公園(広さ2.1ha)です。都市環境の整備と防災対応(一時避難場所・仮設住宅用地)を兼ねた目的があるそうです。
 
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千塚公園の北には湯村山が迫り、南には笛吹川支流で扇状地を造成した荒川が南東へと流れていますから、古代には住居地として相応(ふさわ)しい場所だったのでしょう。公園周辺は路地が入り組んでおり、一部で道路の整備が行われていますが、普通車が走るには難儀です。対向車との擦れ違いに注意しながら県道6号(山の手通り、県道7号との共用区間)へ出ました。(続く)

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2011年9月10日 (土)

山梨へのドライブ旅 湯村山古墳群

台風12号の影響が無くなるのを待ってドライブ旅に出掛けました。午前5時過ぎに自宅を出発、6時少し前に八王子ICを通過、強雨のために通行止めであったことが嘘のような中央自動車道を快調に走りました。朝食のために立ち寄った談合坂(だんごうざか)SAでは山々にたなびく朝霧と台風一過の晴天ならぬ秋の空がありました。
 
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甲府昭和ICを出て県道5号(甲府南アルプス線、アルプス通り)と県道7号(甲府昇仙峡線)で向かったのは甲府駅の北西約2kmにある緑ヶ丘スポーツ公園(体育館の駐車場)です。200台以上の容量がある広い駐車場は工事のためか屏で仕切られていますが、それでも十分過ぎるほどの余裕がありました。
 
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一番奥に車を停めて青空が眩(まぶ)しい湯村山(ゆむらやま、標高446m)へ向かいます。
 
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山へ上って行く自動車道の両脇にある広いグランドでゲートボールのようなグランドゴルフを楽しむグループが何組か見えました。
 
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「武田の杜」の案内板には湯村山の山頂まで1.3kmと表示されています。
 
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一般車が通行できない遊歩道に入ります。
 
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折れ曲がった山道を300mほど登るとヘアピンカーブの内側に石を積み上げた積石塚古墳がありました。湯村山1号墳です。
 
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約1300年前に造られた古代人の墓で、礫(れき、小石)を積み上げた積石塚古墳は横根町と桜井町に180基余り確認されており、湯村山には
全部で7基の古墳があると説明されていました。
 
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山梨県埋蔵文化財センターのhpによると、山梨県では甲府市横根町と桜井町にまたがる横根(よこね) ・桜井(さくらい) 積石塚古墳群(つみいしづかぐんこふんぐん)があると説明されていました。他の資料を見ると長野県須坂市の八丁鎧塚古墳や長野市松代町の大室古墳群にも見られる古墳の形式です。朝鮮(高句麗)に多く見られる古墳ですから高句麗(こうくり)からの渡来人の影響を受けたのかもしれません。
 
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少し行き過ぎて振り返ると、ただの盛土のように見えました。
 
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遊歩道はなだらかな坂として湯村山の頂上付近まで続いているようです。
 
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湯村山には大きな岩が豊富に有りますから、古代においても積石塚古墳を作るのは造作(ぞうさ)もなかったかも知れません。
 
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湯村山の高みから下りてくる何組かとすれ違いました。早朝の散歩コースとして地元で人気があるようです。
 
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峠のような場所にでると(やぐら)がありました。
 
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説明板によると戦国時代の武田家の烽火台(ほうかだい、ノロシを上げる場所)を再現したものでした。甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)をほぼ網羅(もうら)する光通信網の基地局と言うことが出来るでしょう。
 
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舗装が途切れた山道を歩くと湯村山城跡を示す道標がありました。
 
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周囲が明るくなってきましたから山頂は近そうです。
 
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東屋(あずまや)風の休憩所から富士山が望めました。御坂山(1596m)から王岳(1623m)まで続く峰々に遮られる部分が少ないため甲府市の市街地で眺(なが)めるよりも富士山が大きく見えます。
 
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その先にある湯村山城井戸にも立ち寄りました。
 
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小さな水溜まりが井戸のようです。
 
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山頂付近を一周すると先ほどの道標脇へ出ます。駐車場へ下りるまでちょうど1時間のコースでした。(続く)

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2011年9月 6日 (火)

テレビ放送は必要ですか?

地上波アナログテレビ放送が7月下旬に終了して1カ月余りが経過しました。以前のブログ記事に書いたように、わが家ではケーブルテレビのパススルー(現在はデジアナ変換)機能を利用して地デジ放送を今もアナログ放送として視聴していますから、テレビ放送の環境は実質的に何の変化もありません。ですが私個人は、東日本大震災以降、調べものをしながらラジオ放送を聴く「ながら族」に復帰しましたから、地上波テレビ放送を観る機会は少なくなっています。その理由は、観る必要性(興味)が薄れただけでなく、不愉快に感じる番組が益々増えたように感じるからなのです。

当ブログではテレビ番組について何度も記事を書いています。子供の頃に観たアメリカのテレビドラマテレビ番組雑感光クラブ事件テレビドラマ「疑惑」テレビドラマ「落日燃ゆ」テレビドラマ「白洲次郎」、ドラマ以外にも「ちあきなおみ」・「作曲家杉本眞人」・「懐かしのスウィング・ジャズ」・「復活の年 2010-2011年 大晦日編」・「復活の年 2010-2011年 三箇日編」などの音楽番組についてです。もともとテレビ好きな私はドラマと音楽番組が特に好きですから、自(おの)ずとそうなったようです。

2006_10300103 しかし、最近のテレビ放送ではドラマ番組が少なくなりました。そして、これまでもその傾向はあったのですが、判で押したような画一的な娯楽番組やステレオタイプなワイドショー番組が目に付く様になったと思います。原発事故関連の報道・韓国ドラマとバラエティ番組の氾濫(はんらん)・人気お笑いタレントの不祥事の扱い(大きさと擁護発言)には目を覆(おお)いたくなります。かく言う私も一度韓国ドラマ「チャングムの誓い」にはまったことがありますからその魅力は十分承知していますが・・。それはさておき、ワイドショーで原発事故や政治について専門家あるいは評論家と称する人達の憶測発言や個人的な感想を聞くのはもう沢山です。

この地上波と違い衛星放送(BSデジタル放送)は今もよく見ています。映画が大好きな私はWOWOWで放送される映画を楽しみにしていますが、いつの間にか同居者にチャンネル権を奪われてしまいました。「CSI 科学捜査班」「霊能者アリソン・デュボア」「コールドケース」などアメリカの連続テレビドラマにハマっているようで、BSジャパンの「ファッション通信」とともに、欠かさず観ている(あるいは録画している)のです。衛星放送は現在、NHKの2チャンネルを初めとして全部で12チャンネルが放送されています。以前は衛星ラジオ放送もありましたが2006年に全ての衛星ラジオ放送は廃止されました。しかし、地上波アナログテレビ放送と同様に廃止された衛星アナログ放送の跡地(空きチャンネル)などを利用して、今年10月と来年3月には計18チャンネルが追加され、衛星ラジオ局(1局)も復活するようですから楽しみにしています。

衛星放送以外にも、わが家では利用していませんが、光テレビ(NTTぷらら)・Gyao!USEN)などのインターネットテレビも様々な放送を行っていますし、変り種としては映画・ビデオ・音楽・写真などのビデオストリーミングを行うApple TVがあります。そして地上波アナログ放送の空地を利用するマルチメディア放送(mmbi)も来年には開始されるようで、まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の様相を呈しています。

2009_08040144 とは言っても、このように多様化しつつあるテレビ放送は、コンテンツを提供する手段の多様化(発展)であって、コンテンツ自身の質向上や多様化(双方向性・多チャンネル化・他メディアとの連携など)はそれほど進んでいません。なかでも民放の地デジ放送は、唯一画質が改善されたことを除けば、旧態依然(きゅうたいいぜん)としているように思われます。その設立母体となった新聞社の経営が購読者の新聞離れと広告収入の減少で苦しくなっていることとは地デジ放送の将来を暗示しているのかも知れません。事実、テレビ放送の広告収入は経済の停滞で減少、多角経営によって広告以外の収入が4割に迫っているキーテレビ局もあるようです。つまり従来のマスコミはいずれも凋落(ちょうらく)傾向にあると言えるでしょう。

実は、この経営環境の悪化がテレビ番組の劣化を招く主因になっているようです。上記したように猟奇事件・芸能スキャンダル・政治ネタなどを司会者がしたり顔(または深刻な表情)で興味本位あるいは恣意的(しいてき)に(つまり週刊誌や夕刊紙のように)リードするワイドショー番組・軽薄なトークのバレエティ番組・そして韓国ドラマの氾濫(はんらん)が分かりやすいでしょう。いずれも低予算でそこそこの視聴率が得られるからです。そして、時間と予算の掛かるドラマ番組や地味なドキュメンタリー番組を制作する余裕がテレビ局には無くなっているようです。

しかし、その経営方針がテレビ離れを加速していることは皮肉です。番組の質低下による視聴者の減少(時間・人数)に加えて、原発事故への対応に追われる大口スポンサーであった東京電力の降板やテロップを間違えて流した地方テレビ局への批判はもちろん、視聴者がテレビ局だけでなく番組スポンサーの姿勢にも厳しい目を持ち始めたことがスポンサーに影響し始めているようです。これらが負のスパイラル(悪環境の連鎖)を構成しています。最早、目先の利益を優先させて少々のことに目をつむる姿勢は許されないと考えるべきです。硬い表現をすれば、民間企業で当たり前になったコンプライアンス(法令遵守)の徹底がテレビ局にも不可欠になったのです。

2009_08040145 違法行為などはもっての外ですが、モラルに反する発言や行為・反社会的な勢力との関係などの廃除をテレビ局が社員・下請け・取引先に対して主体的に行うことが必須です。「他社のことで知らなかった」との言い訳や、「自分たちは被害者だ」との強弁(きょうべん)はもう通じません。心ある優良企業なら取引先を含めてコンプライアンスの徹底を図ることは常識なのです。多くの大手スポンサーが金の掛かるテレビ広告の効果に疑問を感じ始めて、ネット広告やツイッター・SNS・自前の動画配信を積極的に活用し始めたことで、スポンサーのテレビ離れが加速するかもしれません。

余談ですが、新聞やテレビ放送だけでなく盤石だと思われた有力産業が、消費者の期待に応えられなくなると、経営の悪化や事業の縮小を余儀なくされる事象は枚挙(まいきょ)にいとまがありません。分りやすい例は、かなり前からデパート業界で起こっていることであり、最近は出版業界(週刊誌・単行本)や教育産業(特に大学)が深刻な状況に陥っているようです。つまり旧来の主要産業が斜陽産業化して存在意義さえ問われるのです。マスコミと比較して外国との競争に直面している製造業(繊維・家電・雑貨などの分野)は中国製などの輸入製品(製造委託)が当たり前になっていますが、韓流ドラマに依存するテレビ放送業界も海外に番組制作をアウトソーシング(外部委託)し始めていると言えるかも知れません。
 
                                 ☆ 

以上、長々とマスコミの状況を考察しましたが、それでは本題の「テレビ放送は必要ですか?」に移りましょう。テレビ放送はニュースや娯楽番組を低コストで提供してくれる映像メディアであることは間違いありません。NHKには受信料を支払っていますが、民放はタダで観られると思い込んでいる人が多いでしょう。しかし、そのコストは見えない(気付かない)だけで、あなたが購入する商品に宣伝広告費としてしっかり上乗せされています。この半世紀で定着したこの仕組みも、スポンサーである企業がテレビ離れを起こしはじめたことで、大きく変わろうとしています。

2009_08040148 先に述べたように収入が減少することで放送(制作)される番組の内容と質はどんどん劣化しているのです。評論家の大宅壮一氏がテレビ放送が始まった1957年の直後に「一億総白痴化」させる存在であると看破(かんぱ)しています。半世紀前のこの指摘が今も生きているようで、番組の質の低下に合わせてテレビ漬けになっている視聴者の知的水準(自分で判断する能力)が低下するのは自明ではないでしょうか。雑知識だけは豊富になるかも知れませんが・・。

実は、テレビ番組を観ることであなたの貴重な時間が奪われているのです。貴重な時間を費(つい)やして見る価値がある番組はどれほど多く存在するでしょうか。新聞をまったく読まない(購読しない)人は以前珍しかったのですが、最近はかなり増えているようです。それと同じことがテレビ放送に起こったとしても不思議ではありません。今年3月の「東日本大震災」と7月の「地デジ化完了」がテレビ離れを加速したとの見方がありますから、それほど遠くない先にはっきり見えてくることでしょう。

テレビを観ることは、喫煙や飲酒と同様に、習慣化するとなかなか止められないようです。つまり植木等さんの「スーダラ節」(1961年)のように『分かっちゃいるけど止められない!』の状態です。思い切ってテレビ受像機の電源スイッチを切ってみましょう。全く観ないと「情報が入らない」「寂しい」「間が持たない」と思う方は定時ニュースの時間だけ電源スイッチを入れることにしたらどうでしょうか。テレビニュースに関心が無い方は興味を持った映画やドラマ(テレビ放送あるいはDVD視聴)に限っても良いでしょう。そうすれば、スポンサーの意向(期待)に応えようとテレビ放送局の番組がひょっとすると改善されるかもしれません。それでもまだダメ(方針転換できない)ならテレビ放送に明るい未来は期待出来ないと思います

そしてテレビの電源を切ることで浮いた時間を活用しましょう。趣味・勉強・散歩・スポーツ・読書など何でも良いのです。禁煙した時と同様に、しばらくはテレビが気になるかもしれませんが、最初の行動が大事です。1カ月もすれば「自分にとってテレビが必要かどうか」「どんな番組が不可欠な存在であるか」が見えてくるでしょう。自分の時間と心を占領するテレビから自らを開放して、多くのテレビ番組から発信される不信・不満・暴言・誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)・暴露情報に振り回されるのを止める良いチャンスだと思います。この記事を書いていて、孔子の論語にある「仁」(思いやり)の教え、『非禮勿視 非禮勿聴 非禮勿言 非禮勿動』を思い出しました。

写真は上から日光東照宮新厩舎の三猿、旧東海道白須賀宿庚申堂の三猿と四猿

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2011年9月 2日 (金)

芝公園の古墳を散策する

港区芝公園にあるザ・プリンス パークタワー東京へ所用で出掛けた機会に、昼の休憩時間を利用して隣接する芝公園を散策することを思い立ちました。当ブログでは「芝から芝浦へ」と「日比谷通り散策」の両記事で芝公園に囲まれた増上寺を紹介しています。今回、都道319号(環状3号線)の歩道を経由して最初に向かった先は「芝丸山古墳」です。
 
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芝公園に古墳があることの意外性に惹(ひ)かれたのです。5世紀後半の築造と考えられる前方後円墳は同じ港区の三田にある「亀塚古墳」とともに、このエリアの開発で破壊されずに残った貴重な古墳です。ちなみに、かつて11基の陪塚(ばいづか)の円墳が周辺にあったそうです。
 
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丸山貝塚の標識脇にある石段を登りました。

 
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広場のような空間には芝丸山古墳(都指定史跡)の石碑と案内板がありました。その説明によると、全長106m前後、後円部は径約64m(高8m)、前方部前端幅約40m(高さ6m)、くびれ部幅約22m、出土物は埴輪(円筒・人物)片、築造時期は5世紀代と説明されています。
 
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そして少し離れた場所に小さな円山随身稲荷大明神が祀られていました。
 
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都内では田園調布に近い多摩川台公園の亀甲山(かめのこやま)古墳・宝来山古墳・浅間神社古墳、等々力溪谷にある横穴古墳、埼玉県行田(ぎょうだ)市の埼玉(さきたま)古墳群などを訪れた記事を掲載しています。最初の3つは多摩川下流域にあり、埼玉古墳群とまだ訪れていない上野公園内にある摺鉢(すりばち)山古墳は荒川流域および河口域(現在の隅田川)に存在すると言えるでしょう。つまり、武蔵野台地の縁辺部(台地の端)に古墳が多く分布していたようです。
 
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さらに石段を上がると平らで細長い広場に出ました。かなり奥の方まで続いていますから、江戸時代以降に墳頂上部が削られたとの説明は頷(うなず)けます。
 
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左手に虎の石像がありました。古墳には相応(ふさわ)しくないと思いながら一段高い場所に上がると、基部に「大野伴睦句碑」「文揮毫 鳩山薫」の文字が読み取れました。
 
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大野伴睦氏は自由民主党副総裁も勤めた政治家で、鳩山薫氏は共立女子学園理事長であるとともに夫は自由民主党初代総裁鳩山一郎氏(元総理・鳩山由紀夫氏の祖父)です。私には句の文字が判読できないため、後で調べると「鐘がなる 春のあけぼのゝ 増上寺」と書かれていたようです。東京都公園協会のhpによると、この碑は大野氏が名誉会長であった調理師会が昭和38年(19636月に調理師法施行5周年を記念して建てたものでした。しかし、なぜ芝公園に句碑があるのかは謎のままです。

一番奥にはユニークな形をした立派な「伊能忠敬測量偉功表」の碑が立っています。1889年(明治22年)に立てられた碑が戦争中に失われたため、1965年(昭和40年)に再建されたことが説明されていました。ちなみに、当ブログでは伊能忠敬について、東上野にある墓深川の銅像を紹介しています。
 
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石碑のすぐ前の大石に「墳古大形瓢」と彫られています。右から瓢(ひょう)形大古墳と読むのでしょう。これは前方後円墳の形状を表す古い表現で、発掘者である坪井正五郎が設置した標識のようです。
 
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木の間越しに増上寺が見えます。
 
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古墳の石段を下りて右手へ歩くと「銀世界の梅」と表示された石碑があります。説明板にはこの梅林はもと新宿角筈にあって江戸時代から銀世界と称せられていた梅林を現在の地に移されたものであると書かれていました。
 
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以前立ち寄ったことがある東照宮の参道前を通過。
 
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青空の中に東京タワーの威容が一際映(は)えます。
 
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昼休みの時間が残り少なくなりましたのでザ・プリンス パークタワー東京に戻ることにしました。

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