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2011年10月に作成された記事

2011年10月31日 (月)

旧東海道のドライブ旅 「矢橋の渡し」と天然温泉「ニューびわこ健康サマーランド」

一旦国道1号に出て草津宿の外(はず)れにある立木神社へ向かいましたが、立木神社前交差点も左折出来ませんので、国道1号へ引き返しました。旧東海道沿いにある立木神社は古くより交通安全厄除けの神社として信仰を集めていたそうです。

立木神社の南にある矢倉橋へ向かう前に、国道1号(旧道)の矢倉中央交差点の先にある「本家さぬきやセルフ草津店」で昼食を摂ることにしました。「本家さぬき」の名前がありますが、大阪出身のうどんチェーン店です。神戸出身の人気店「丸亀製麺」と同様に讃岐とは直接関係がないのです。
 
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私は「カレーうどん」(380円)、同行者は「ざるうどん」(280円)と「てんぷら」(シェア用)を注文。カレーうどんの写真を撮っている間に同行者は「ざるうどん」を大半平らげていましたので、残念ながらその写真はありません。値段の安さと食感が讃岐うどんらしさを感じさせました。
 
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旧東海道に入って新草津川に架かる矢倉橋を南から北へ渡りました。
 
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矢倉橋を渡り切った右手にある小さな公園に黒門の案内板と草津宿立場の浮世絵看板が立っています。
 
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立木神社へ向かう旧東海道です。
 
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東海道と矢橋街道の追分(ひょうたんを製造販売する店・瓢泉堂の角)には、「右やはせ道、これより廿五丁」と刻まれた矢橋道標が建っており、東海道はここから陸路を進む本道と、矢橋から琵琶湖を船で渡り大津に出る道の二通りありました。矢橋街道(矢橋道)は25町(約2.7km)の道ですが、現在は東海道線で分断されたため、徒歩の人も近くのガードへ迂回する必要があります。

私は直進して矢倉南交差点でいったん国道1号に入り、野路町交差点を経由して県道18号へと迂回しました。セブンイレブンのすぐ先で八橋街道は県道18号に合流しますが、矢橋(やばせ)中央交差点の直ぐ先で矢橋街道は南西方向へとそれます。

琵琶湖に行き当った場所にある公園が「矢橋港」(八橋の浜)跡です。陸路の瀬田の大橋経由は三里(12km)と遠回りとなりますが、湖上は五十町(約5.5km・矢橋街道を加えて約8.2km)と大幅に短い距離ですが気候の影響を受けやすいため、室町時代の連歌師宗長は「武士(もののふ)の矢橋の舟は早くとも急がば回れ瀬田の長橋」と詠(よ)んでいます。

また矢橋港は近江八景の「矢橋帰帆(やばせのきはん)」として知られ、広重などの浮世絵などで親しまれた名所でしたが、現在は琵琶湖沖の広大な矢橋帰帆島や近江大橋で近代的な景観へと姿を変えました。唯一残っている常夜灯を取り損なったことは返すがえすも残念です。その常夜灯の様子は滋賀県の「滋賀の風景」で見られます。

湖岸道路(県道559号)の帰帆(きはん)南橋越しに対岸の大津方面と比叡山を望みました。大津市打出浜の石場港と島ノ関の小舟入(こふないり)周辺も埋め立てられたため、現在は湖岸から少し離れた打出浜(大津警察署)辺りと県警本部辺りであり、ちょうど写真に写る高層ビル(大津プリンスホテル)の方角です。その先のゴール「京都・三条大橋」までは直線距離で約13kmを残すだけになりました。
 
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右手に長く伸びるのは下水処理施設として造られた人工島「矢橋帰帆島」です。遠方に見える山は左が大文字山(標高465m)で、右が如意ヶ岳(標高472m)のようです。
 
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矢橋大橋を渡って矢橋帰帆島へも立ち寄りました。
 
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この島には、野球場やテニスコート、グランドゴルフ場などのスポーツ施設のほか、楽しい遊具や芝生のある広場などがあり、市民の憩いの場になっています。
 
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県道18号で野路町交差点まで戻り、国道1号(旧道)を南下して大津市に入りました。次の目的地である古琵琶湖天然ラドン温泉「ニューびわこ健康サマーランド」は天然温泉が少ない湖南エリアでは貴重な施設です。ホテルに併設されたこの施設の外観は昭和時代のヘルスセンター風で微妙ですが・・。
 
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「健康」を強調することにも時代を感じさせます。
 
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入り口に高札風デザインの「古琵琶湖天然ラドン温泉」の説明書きが掛けられていました。館内着やタオル付きの入館料金(平日・土曜午後)は1300円とやや高めです。60分までのショートタイムは600円とゆっくり出来ない利用者にはお得感があります。
 
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フロント脇の休憩スペース近くのエレベータを利用しました。男湯への入口は3階(浴場は2階)、女湯は4階に浴室があるようです。
 
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脱衣場はプールのロッカールームのように味気ない雰囲気があります。
 
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螺旋(らせん)階段で2階へ下りると、なぜか浴室への入り口が出口と別になっています。同施設のhpによれば、『泉質は含弱放射能-カルシウム・ナトリウム-塩化物温泉(但張性弱アルカリ性低温泉)。有馬温泉の「金泉・銀泉」にも匹敵するとの高い評価を得ており、100%の源泉を使用している(源泉の希釈はせず)』と説明されています。
 
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浴場は中央部の洗い場を取り囲むように高・低温サウナ、ミストサウナ、バイブラバス、寝風呂、冷水槽寝湯、ジャグジーなどが並んでいます。
 
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露天エリアには半露天の岩風呂と信楽(しがらき)陶器風呂があります。国道1号を通る車の音がよく聞こえました。
 
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温泉は鉄分を含んだ茶褐色と説明されていましたが、鉄分やマンガンを濾過装置で除去しているため、その色は目立ちません。匹敵するとされる有馬温泉を連想すれば、金の湯というよりも銀の湯(有馬温泉)に近いく、さっぱりした印象の温泉でした。(続く)

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2011年10月30日 (日)

旧東海道のドライブ旅 草津宿

旧東海道(県道116号)は草津川支流の金勝(こんぜ)川の堤防に行き当たりました。ここは旧東海道と中郡街道の分岐点で、旧東海道は右(西)に折れます。堤防の向こうに目川(めがわ)池があり、古い道標には東海道の文字が彫られています。
 
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旧東海道は金勝川の堤防ぞいに進み、左(南)に大きく曲がると茅葺きの民家があり、その先に目川一里塚の石碑がありました。江戸日本橋より118里の地点です。東海道一里塚がある目川は瓢箪(ひょうたん)が名産で「ひょうたんの里」と呼ばれているそうです。昔は瓢箪が旅人のお茶やお酒などを入れる容器として旅人の必需品であったことで農民が副業として瓢箪を栽培して、立場(たてば・街道の休憩所)などで売られたと思われます。ちなみに目川の地名は金勝川流域にあり集落との境目を指すことから起こったとされます。
 
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ほぼ一直線の旧東海道が続きます。
 
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立場茶屋であった目川田楽「古志ま(こじま)屋」跡です。「ここで提供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽(でんがく)で独特の風味を有し東海道の名物となった」と説明されています。
 
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田楽茶屋とは立場の元伊勢屋と、この古志ま屋、京伊勢屋の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた」と説明されています。ちなみに歌川(安藤)広重が「石部」として描いたのはこの目川の里です。
 
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栗東市の岡地区が地域事業として3年前に開業した田楽茶屋「ほっこり庵」は当時のレシピをもとに味噌田楽と菜飯の味を再現しているそうです。隣に見える「菊の水」も同じ経営のようです。
 
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旧東海道はこの先で右(西)方向にカーブして東海道新幹線のガードを潜りました。
 
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かつては草津宿南の矢橋道標近くにあった草津名物うばが餅を売る「うばがもちや」(姥が餅屋)は国道1号の国道大路交差点角に移転しているようですが、国道1号の大路三丁目交差点を直進して県道143号となって草津市の中心部へ入りました。旧東海道はこの交差点の手前で草津川沿いにそれて南岸へ渡り、草津宿の中心部へ入りますが、立ち寄り先を決めていましたのでそのまま進みました。 
 
小汐井(おしおい)神社は中山道第一の宮です。「おしおい」とは神事を行う前に海中(ここでは湖中)で身を清めたことを指す言葉だそうです。そして地名の草津は草深い地にあった港がその由来のようです。ちなみに、群馬県草津温泉の草津は強烈な硫黄臭のある温泉の湯を「臭(くさ)水(うず)」と呼んだものが後に変化したとの説があります。
 
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覚善寺の門前に東海道と中山道の追分道標が立っています。
 
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サカエマチ商店街の入口にあるタワー111の手前を左折するつもりでしたが、車は侵入出来ませんので、タワー111の外周を大きく迂回しました。
 
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草津川(天井川)下のトンネルも一方通行で車は侵入できません。寄り道をしたことは間違いだったようです。
 
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草津本陣はトンネルの先にあるとの案内標識が立っています
 
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草津川をどのルートで渡るか迷いましたが、東海道本線の上を通過して、野村運動公園グランドの手間を左折、再び東海道本線を潜って本四商店街の入口(草津宿交流館の近く)に出ました。
 
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車を停めて旧東海道を草津川のトンネル方面へ歩きました。
 
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先ず真新しい「くさつ夢本陣」(正式名称:草津市まちなか交流施設)を見かけました。
 
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そして少し先の右手にある草津市観光物産館脇本陣の脇にひっそりと立つ草津宿脇本陣の石柱を見つけました。
 
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50mほど先の左手に立派な草津宿本陣(国指定史跡)が見えました。田中七左衛門が勤めていたこの本陣職はほぼ昔の姿のまま残されていて、今は資料館として公開されています。もう一つの本陣は田中九蔵が務めたそうです。
 
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大きく迂回することを余儀なくされたトンネルは目と鼻の先です。トンネルの手前が東海道と中山道が分かれる草津追分で、高札場があった場所です。
 
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街道交流館にも立ち寄りました。
 
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さらに80mほど南に歩いた太田酒造(道灌蔵)の店先に「草津宿と政所(まんどころ)」の説明看板が立っていました。
 
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なぜ道灌蔵(どうかんぐら)なのかと思い同社のhpを開いてみると、江戸時代の初期に太田道灌(どうかん)の末流であった太田家は越前福井藩から草津に移って関守となり、明治時代初期に酒造りを始めたのだそうです。(続く)

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2011年10月29日 (土)

旧東海道のドライブ旅 石部宿(下)

石部中央交差点の東角に「御高札場」跡がありました。左手の奥へ伸びる細い道が旧東海道です。
 
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公園内の白壁には芭蕉の句とともに3枚の絵が並んでいます。左から順に歌川(安藤)広重の『東海道五十三次「石部」田楽茶屋にて』『東寺長壽寺』『西寺 常楽寺』。
 
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現在の石部は昔ながらの細い道がそのまま残っていますが古い建物は少ないようです。その中で目立ったのがこの石部宿 夢街道」という休憩所でした。
 
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民家の庭先に小島本陣跡の石柱とその左側に明治天皇聖蹟碑がありました。今はないこの本陣に明治天皇が宿泊されたそうです。
 
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石部中央交差点を過ぎた旧東海道は真明寺の先で桝形(ますがた)に曲がっていて、最初の角に田楽(でんがく)茶屋がありました。さきほど高札場跡で見た歌川(安藤)広重の絵に描かれた茶屋を再現したようです。
 
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左折した(枡形を抜けた)先に一里塚跡があり、小公園になっている西縄手(にしなわて)跡に松並木が再現されていました。左後方には東海道五十三次図が描かれた石板が見えます。
 
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名神高速道路の下を通過して入った栗東(りっとう)市林の「長徳寺薬師如来堂」に「従是東膳所領」と刻まれた領界石がありました。「膳所領」とは大津にあった膳所藩(ぜぜはん)の近江国における飛び領地の一つであった石部のことを指すようです。
 
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すぐ横に「上野夜雨(かみののやう)」の詩碑がありました。栗太(くりた)八景の一つである上野(現在の栗東市林)を詠んだものです。旧栗田郡は現在の栗東市と草津市および大津市と守山市の一部を含む地域でした。ちなみに八景について「八景島シーパラダイス」の記事で触れています。
 
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長徳寺の少し先の交差点角に「新善光寺是より一丁余」の道標がありました。新善光寺は平氏を弔(とむら)うために信州善光寺から請来(しょうらい)された同じ栗東市林にある寺です。
 
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旧和中散本舗大角家(おおすみけ・国の重要文化財)は胃腸薬と知られる道中薬の「和中散」を製造・販売した薬屋です。
 
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梅木一里塚跡の石碑がありました。
 
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横の大きな石板には江戸時代の東海道ガイドブックに掲載された六地蔵村の様子と「梅木立場」が置かれたことが説明されています。ちなみに立場(たてば)は宿場と宿場の間に置かれた休憩所のことです。
 
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行者堂(ぎょうじゃどう)の石柱が目に入りました。調べると、手原(てはら)の人たちが作った行者講(役行者が開いた奈良県吉野にある大峯山寺に参拝するグループ)の集会所で、戦前までは堂内で護摩(ごま)を焚(た)いたり・食事をしたりしたそうです。
 
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名神高速道路栗東ICへのアクセス道を潜(くぐ)って栗東市手原に入ると「手原村平原醤油店 塩谷藤五郎」と書かれた木札を見掛けました。
 
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手原の稲荷神社には「明治天皇手原御小休所」の石柱と休憩用の「手ハラベンチ」がありました。
 
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ここには栗太八景の一つである「手原行人」の詩碑が立てられています。
 
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境内で大きなコブのある木を見つけました。
 
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民家の前に意外にも東経136度子午線の石柱がありました。日本標準時子午線である東経135度は明石市を通っていることはよく知られていますが、136度が旧東海道を横切る場所についてこれまで知りませんでした。好奇心を刺激されて調べてみると、東経137度は愛知県豊明市豊明小学校付近、東経138度は掛川市の十九首塚付近、東経139度は三島市の山中城跡付近でした。
 
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東海道すずめ茶屋跡地の石柱が駐車場脇に立っています。左手の木札には「田楽茶屋」と説明されていました。
 
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上鈎池(かみまがりいけ)西側の小さな公園に「足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」の石碑があります。これも調べてみると、室町幕府第九代将軍足利義尚が構えた陣跡でした。足利義尚は九代将軍の座を争った応仁(おうにん)の乱(1467-1477年)で衰退した幕府権力を回復すべく、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角氏を追って延暦寺僧真宝坊の居館であった真宝館に陣を敷きましたが、この陣所で25歳の若さで病死しました。
 
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1487年に始まった戦は長享の乱(ちょうきょうのらん)と呼ばれます。ちなみに六角氏は宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏の流れを汲(く)んでいますから、源氏一族における勢力争いとも言えますが、応仁の乱以降に続いた混乱により源氏(守護大名)以外の武士(戦国大名)が台頭する戦国時代が始まります。

旧東海道は川辺(かわづら)交差点を通過して目川(めがわ)の一里塚へ向います。
 
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(続く)

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2011年10月28日 (金)

旧東海道のドライブ旅 石部宿(上)

新名神高速道路の信楽(しがらき)ICを出て、県道53号で湖南市に入り、県道4号で草津線の踏切りを渡ってすぐ右手の路地へと右折しました。この路地が旧東海道で、台風12号による強雨で前回のドライブ旅を中断した水口町泉にある「横田の渡し」跡の対岸に位置します。つまり国道1号の横田橋を渡って湖南市へ入った場所なのです。この湖南市三雲から旧東海道のドライブ旅を再開することにしました。
 
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何事でも細かいことが気になる私は、前回終点になった「横田の渡し」の痕跡(こんせき)を湖南市側にも探すことにして、草津線三雲駅前を通過して旧東海道をさらに東へ進みました。
 
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左手に立派な常夜灯が立っています。
 
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水口町側の常夜灯の対岸から場所がずれていますので、草津線沿いにさらに進むと、右手に「新海道」石碑跡の案内板が目に入りました。「横田の渡し」から伊勢に向かう街道に入っていることが分かりましたので、ここでUターンして三雲駅方面へ戻ることにしました。
 
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駅前の交差点で見つけたものは「微妙大師万里小路藤房卿墓所」の石碑です。これは後で調べたことですが、微妙大師(1296-1380年)とは過去に16人しかいない大師のひとりである宗弼(そうひつ)のことで、俗名は万里小路(までのこうじ)藤房、建武の中興で後醍醐天皇を支えた鎌倉時代から南北朝時代の公家(くげ・貴族)で、中納言まで出世しますが、新政権に失望して出家したと伝えられる人物でした。
 
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すぐ先の右手にある明治天皇聖蹟は民家の庭先に立っているように見えます。
 
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先ほど渡った草津線の踏切りを逆方向に渡ると、水口宿(みなくちじゅく)と石部宿(いしべじゅく)に加えて万里小路藤房が開基した妙感寺(みょうかんじ)案内標識がありました。旧東海道は踏切りの脇で右に折れ、国道1号の南側を折れ曲がりながら、西方の石部宿方面へと伸びています。
 
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すぐ先に真新しい常夜灯がありました。
 
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振り返ると彼岸花が満開です。
 
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次の目標である大沙川隧道(おおすながわずいどう)を目指して旧東海道を走っていると、前方に通行止の立て看板が立ちはだかりました。
 
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指示に従って右折したところにある湖南市勤労青少年ホームの駐車場に車を停めさせてもらい、100mほど歩くことにしました。通行止めの理由はその隧道(トンネル)の上に聳(そび)える松の巨木の枝下ろし作業のためでした。
 
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近くの方に訊ねると、「弘法杉」とよばれるこの杉は、「弘法大師がこの地を訪れた時に食べた弁当の箸(はし)を地面に挿したところ生えた杉」(弘法大師錫杖跡)と伝えられることを教えて下さいました。樹高26mで周囲6mの大木は推定樹齢が約750年とされます。弘法大師は835年に入定(にゅうじょう・即身仏になること)していますから年代が400年以上も食い違いますが、そんな瑣末(さまつ)なことはどうでも良いことでしょう。隧道の上を通っているのは天井川(てんじょうがわ)の大沙川です。ちなみに、天井川とは平地よりも川底が高い川のことで、昔、小学校の社会科(地理)の時間に習ったことがあります。

国道1号へと迂回、夏見東交差点から旧東海道へ戻り、さらに集落の中を走りました。
 
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2kmほど走ると報恩寺の先でもう一つの天井川・由良谷川(ゆらやかわ)の下を潜(くぐ)ります。
 
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寛文4年(1664年)に創業した地酒の北島酒造淀藩配下の酒造取締を命じられた老舗(しにせ)です。
 
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旧東海道はほぼ一直線になって伸びています。
 
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落合川橋の袂(たもと)に「これより石部宿(いしべじゅく)」の立て看板がありました。東海道五十三次・51番目の宿場である石部宿は幕府直轄の宿場で、京から36km程の距離にある伊勢参宮街道との分岐点です。石部には昔 金山があったそうで、融通のきかない人物の代名詞である「石部金吉」はこの石部宿から出た言葉のようです。 
 
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石部東交差点を左折して寄り道をしました。これは後知恵(あとぢえ)ですが、一つ先の石部中央交差点から入る方が良かったのです。
 
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県道119号で南へ向い、石部南小前交差点を右折、宝来坂交差点を左折、石部中学を回り込むように山道へ入りました。目的地は雨山文化運動公園内にある「石部宿場の里」です。
 
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石部宿の様子(農家・商家・旅籠・茶店などの建物)が再現されていました。

 
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併設された「東海道石部宿歴史民族資料館」にも立ち寄りました。
 
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東海道五十三次と石部宿の様子が模型や資料で詳しく解説されていました。(続く)

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2011年10月24日 (月)

五色塚古墳

明石海峡大橋をたっぷり見学したあと、垂水(たるみ)駅方面へと引き返しました。次の目的地は同じ垂水区の五色山4丁目にある兵庫県下最大の前方後円墳「五色塚古墳(ごしきづかこふん)」、別名「千壺(せんつぼ)古墳」です。
 
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築造年代が4世紀末から5世紀初頭と推定されるこの古墳は国の史跡に指定されています。
 
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瀬戸内海の明石海峡を望む高台に造られていることから、海上交通の要衝(ようしょう)の地であるこの辺(あた)りに大きな力を持っていた豪族(ごうぞく)の墓と考えられているようです。
 
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前方部を南西に向けた三段構築の前方後円墳で、全長194m(前方部の幅81m・後円部の直径125m)、高さは前方部で11.5m、後円部で18mの大きさがあり、墳丘は葺石(ふきいし)で覆(おお)われています。
 
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周囲に幅が約10m・高さ約2mの空濠(からぼり)がめぐらされています。現在は一重ですが、増築当時は二重の濠に囲まれていたことと、前方部と後円部の下段では石が落下しやすいので土を被(かぶ)せて芝を張ってあることが説明されていました。
 
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「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺(ふ)かれたことに由来するという説が有力ですが、時間帯で変わる太陽の光によってその石が異なる色で反射することに由来するという説も出ているようです。
 
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1965年(昭和43年)から1975年(昭和50年)の整備事業によって造られた当時の様子に復元されました。表面にはコブシくらいの大きさの石(葺石)が約223万個も敷き詰(しきつ)められていますが、前方部のものは発掘された葺石を利用し、後円部のものは新たに入れたものとのこと。
 
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築造当時は2220個ほど並べられていたと思われる高さが約1メートルの鰭付円筒埴輪(ひれつきえんとうはにわ)と鰭付朝顔型埴輪(ひれつきあさがおがたはにわ)のプラスチック製レプリカが、前方部と後円部の最上段に置かれていました。
 
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前方部と後円部が接する場所に方形マウンド(一辺約20m・高さ約5m)が見えます。増築当初は反対側や濠の中にも造られていたそうです。ここも石で葺かれていたそうですが、島状遺構(祭檀・さいだん)だったのかもしれません。
 
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後円部の奥まで歩くと、傾斜地に住宅地が広がっていました。
 
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南東方向にはJR山陽本線と山陽電鉄本線の線路が並び、その先はマリンピア神戸(神戸市営のテーマパークと三井アウトレットモール)です。
 
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すぐ隣には二段構成の円墳(えんぷん)「小壺(こつぼ)古墳」(国の史跡・直径60m)があります。
 
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こちらは葺石されておらず、草に覆われていました。五色塚古墳より少し古い時代に造られたと考えられているそうです。

<同行者のコメント> この古墳が本当の目的だったのですね。これまで数え切れないほど古墳を見て歩いているのにまだ見飽きないのですか?

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2011年10月23日 (日)

明石海峡大橋と孫文記念館

名神高速道路の終点である西宮ICで阪神高速3号神戸線へ入りました。三木城を訪れた山陽自動車道を経由しても良いのですが、同じルートでは面白くありません。首都高と同様に神戸線が混んでいるので神戸市中心部にある京橋PAで昼食を兼ねた休憩を取ることにしました。上り線と下り線が上下に重なる変則的なパーキングエリアです。3階にあるベーカリーカフェ「神戸6番館」に入りました。私は「ナンセット」(850円)、オチビちゃんや同行者たちはロースカツランチ(ミニカレー付き・850円)などを注文。
 
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須磨区の月見山出入り口から先は第二神明道路に変わり、垂水区にある名谷ICを出て県道488号で垂水駅方面へ向い、福田川交差点を右折すれば国道2号に入ります。

最初の目的地は明石海峡大橋です。四国遍路への行き帰りに渡った橋ですが、今回はオチビちゃんにこの大きな橋を見せたくなったのです。

舞子公園の有料駐車場に車を停めて明石海峡大橋の下へ向かう途中に昔風の洒落た建物が目に入りましたので立ち寄ることに。説明板には孫文(そんぶん)記念館(県の重要文化財・移情閣)とありました。架橋のため現在の場所に移設されたようです。
 
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亡命先であった日本でもよく知られる孫文は今年100周年を迎えた辛亥(しんがい)革命によってアジアで最初の共和国を成立させた現代中国の偉人で、孫中山(そんちゅうざん)とも呼ばれています。ちなみに中山は孫文の号(ごう・称号)。当ブログの古い記事で中国・南京にある中山陵(孫文の墓)を訪れた時の写真を掲載しています。
 
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1階の天井に飾られた見事な龍の彫り物
 
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直筆の書は「革命」とともに「博愛」も掛けられていました。
 
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孫文記念館の横にあるモニュメント「夢レンズ」を通して眺める明石海峡大橋です。
 
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全長3911m(中央支間1991m・主塔の高さは海面上298.3m)で世界最長の吊り橋である明石海峡大橋の真下で淡路島方面を撮影
 
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エレベーターを利用して橋桁内にある舞子海上プロムナード(遊歩道)と展望台へ向かいました。
 
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プロムナードにあるガラス製の床は人気スポットになっています。
 
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舞子公園と孫文記念館
 
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明石方面
 
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同行者はお土産に「明石ぺったん焼き」(タコセンベイ)を買い求めました。
 
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駐車場に戻る途中にハイカラな建物をもう一軒見掛けました。「旧武藤山治邸・旧鐘紡舞子倶楽部」と表示されています。
 
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武藤山治(さんじ)氏は鐘紡の中興の祖(ちゅうこうのそ)と言われる人物です。その息子である武藤絲治(いとじ)氏の後継者・伊藤淳二氏をモデルとし、鐘紡が多角経営を進めた経緯を描いた城山三郎氏の小説「役員室午後三時」を読んだことがあります。ちなみに、この伊藤淳二氏は最近映画化された「沈まぬ太陽」で某航空会社の会長国見正之のモデルにもなった人物です。

<同行者のコメント> ご自分の趣味をオチビちゃんに無理強いするのではと心配しましたが、オチビちゃんははじめて見る大きな橋に大はしゃぎしてくれましたから安心しました。タコセンベイはすごく大きくて、とてもおいしかったです。

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2011年10月20日 (木)

新兵器登場!

片苦しい長文の記事が続きましたので、気分転換のために軽い記事を書きます。

最近のテレビCMで懐かしいメロディが流れています。サントリーの化粧品「エファージュ」のCM(演奏会篇大寄せ篇の背景に流れる軽快なメロディは、私が社会人になった40年余り前に世界中で大ヒットした歌 Those were the days(そんな日々だったの意)です。ビートルズのポール・マッカートニーがプロデュースして英国の女性フォーク歌手・メリー・ホプキンが歌いました。ロシアの歌「長い道」を英語化したこの歌は、日本で漣(さざなみ)健児氏が訳詩、「悲しき天使」の題名で森山良子さんや南沙織さんなどが歌ってヒットしています。

CMで流れる「ラララ(ライライライ)」の歌声はスキャットではなく、ロシア民謡風に英語の歌詞と日本語の歌詞の両方に入っています。ちなみに、日本語の歌詞は「思い出の広場で昔の恋人を懐かしく追憶する」内容ですが、英語の方は「将来の夢を語り合った友人と長い年月を経た後に同じ居酒屋で再会する」設定になっています。前者は甘酸っぱい思い出を簡潔な日本語で表現したオリジナルな歌詞と言っても良く、日本人のメンタリティにも良く合っていたと思います。

ここから本題に入ります。つい先日のことですが、掛かりつけの歯科医院から定期検診の案内が届きました。最近は歯ブラシや歯間ブラシの使い方が上達して、歯の状態が良好かつ安定になったことで、定期検診の間隔は5-6カ月に伸びています。今回もほぼルーチン化された以下のプロセスが行われました。

      ・問診(お変わりありませんか? インプラントの調子はいかが? など)
歯の現状確認(全ての歯を健康な歯・治療済の歯/治療方法・虫歯に分類)
歯周ポケットの測定(溝の深さ)
出血の有無確認
歯の動揺確認(ぐらつきの程度)
・歯
磨きの状況(赤紫色の染色剤を歯に塗って歯垢の場所を確認)
歯垢除去(研磨)
歯石除去(超音波と手作業)
歯間清掃(フロスを使用)
表面ポリッシング
最終検診

これまで不思議に思うことがありました。それは歯石を取る目的で定期検診を受診する度(たび)に、問診に続いて、歯周病(ししゅうびょう)と虫歯の有無を確認するプロセスがあることです。このため所要時間は1時間にも及びますから、毎回行わなくても良いのではないかと思っていました。しかし、健康保険が適用される治療目的の診療には、歯石を取る前後に歯と歯茎の状態と治療後の効果を確認する検査が必要だったのです。もし主目的である歯石の除去だけだと美容診療と看做(みな)されて全額自己負担になってしまうのです。つまり患者のことを慮(おもんばか)ってのプロセスでした。

参考として、歯垢(しこう・プラーク)と歯石(しせき)を除去するプロセスを説明します。歯垢は回転する研磨機と研磨剤でレンズを研磨(荒削り)するように削り取られます。なぜレンズに思い至ったかと言えば、小学校への通学路にレンズ工場があって、帰宅時にレンズ磨きの様子によく見入っていたからです。プラークの研磨を受けながら「歯はレンズのように丁寧(ていねい)に扱われるのだな」と妙に感心しました。

歯垢よりはるかに硬い歯石は、先ず超音波スケーラー(歯石除去器)で除去、それでも取れない歯石および歯間や歯肉と歯の隙間にある歯石は先がフックのように曲がって先端に刃が付いているハンドスケーラーを使って丁寧(ていねい)に削り出します。歯科衛生士さんはかなり力を入れているようで私が一番緊張する瞬間です。

ちなみに、歯石を取る主な目的は、虫歯の予防ではなく、歯周病菌が表面で繁殖した歯石が歯茎(はぐき)に接触して発生する歯周病を予防するためなのです。虫歯になる原因は虫歯菌が活発に活動するプラークの方です。ですから歯間や歯茎に溜(たま)るプラークは歯磨き(歯ブラシと歯間ブラシ)で頻繁(ひんぱい)に除去することが必要です。細菌が唾液(だえき)中のカルシウムと結合して出来るプラークは数時間で形成され、48時間で歯石化するそうですから、食後や就寝前の歯磨きが効果的なのです。

2011_08270026 ここまではいつものルーチンでしたが、今回始めて体験した新兵器がありました。それは「ジェットポリッシャー」、圧縮空気の入ったジェット水流に細かい粉(重炭酸ナトリウム・つまり重曹)を混ぜて歯に噴射、歯ブラシでは取れない色素(ステイン)を落す装置です。サンドブラスター(研磨剤の吹き付け機)とケルヒャー(高圧洗浄機)の機能を組み合わせた装置なのです。サンドブラスターのように硬い砂ではありませんから歯の表面を傷つけることはなく、健康な歯の表面にもある細かい溝に入り込んだステインだけを除去できる優れものでした。口の中が微(かす)かに塩(しょ)っぱくなり、舌に粉が当たる痛痒(いたがゆ)さも感じました。

2011_08270027 最後の仕上げはいつもの通りにペーストとゴムチップで歯を磨き上げるポリッシング。レンズ磨きの仕上げと同じで、これらのポリッシング・プロセスは歯を美しくするためです。歯磨きを正しく行えば歯垢や歯石は付きにくいのですが、6カ月ほど経過すると歯ブラシが届きにくい場所でステインや歯石が沈着することがどうしても避けられないようです。ですから長くても半年間隔で定期検診を受ける必要があるのだそうです。

2011_08270056 今回はもう一つの新兵器を発見しました。それは「虫歯探知機」。虫歯化が始まっていると思われる歯にレーザー光線を照射すると虫歯化の進捗度が数値(0から99)で表示される優れものです。その判断基準は、0-14が処置不要、15-30が予防処置の必要性あり、30-70は削って詰め物をする必要があり、70以上は虫歯が神経に達しているか極めて近くまで進行している、と判断できるそうです。私の磨き癖で十分磨けていなかった場所は、磨き方を何度も指導されたことで虫歯化は進んでいないようですが、念のためにその場所の虫歯化状況をチェクしてくれたようです。幸いにも測定結果はひと桁で一安心。

これら二つの新兵器を体験したことで、改めて歯のケア方法と治療方法をさらに詳しく知ることができました。半年後にも今回と同様に合格点を貰えるよう、これからも歯の手入れに専念したいと思います。

掲載した写真は日本テレビのアンパンマンテラスで撮影したものです。人気テレビアニメ「アンパンマン」(日テレ系列)に登場するバイキンマン(いたずら好きだが憎めないキャラクター)が毎回繰り出す「新兵器」を連想(強引なこじつけですが)しました。

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2011年10月17日 (月)

播磨灘物語を読む(下巻)

三木城が落城したあと、官兵衛には休暇のような時期があった。秀吉が姫路へ帰るようにさせたのである。体の回復がまだ十分でなかったことと、父の宗円入道と一人息子の松寿(しょうじゅ)に会いたいだろうと考え、官兵衛を治安が悪くなった西播州の代官にしたのである。官兵衛は敵方となって没落した妻の実家一族を救済して自分の家中に加える。

秀吉は毛利との対決のために下準備を進める一方、新しい占領地の播州と但馬(たじま)を固めつつあった。官兵衛は姫路城を返すという秀吉の申し出を辞退して、山間の盆地にある山崎の地の城を望んだ。秀吉が開始しようとしている因幡(いなば、鳥取県)の征服事業の兵站(へいたん)基地として絶好の土地であるためである。秀吉が官兵衛に与えた知行は一万石であった。

天正8年4月、織田しにとって事態がさらに好転した。足掛け11年という長い歳月にわたって信長に抵抗し続けてきた大阪石山本願寺が信長に降伏的な講和をして、大阪を明け渡して紀州へ退いたのである。信長も講和を望んで朝廷に調停の役を引き受けさせていた。官兵衛は織田に付いた宇喜多直家の岡山城を何度も訪れて、毛利方の諸将の能力や性格を聞き、毛利家が取ってきた作戦の癖や、常套(じょうとう)戦法について十分に聞く。

秀吉は天正9年6月25日に鳥取城を攻めるために姫路城を出発、軍勢は二万であった。秀吉は鳥取城を延べで8キロはあったであろう塁(るい)を築き、柵を植え、五丁ごとに小楼・十丁ごとに三層の楼を上げ、城へ通じる諸道も絶った。この大規模な包囲戦は三カ月続いて、城内は飢餓状態となったことで城将の吉川経家(きっかわつねいえ)が城兵の命に代わって切腹するという、秀吉が三木城攻めでやったことが踏襲(とうしゅう)された。

この間に信長から秀吉に四国へ兵を出せとにわかに命じてきた。秀吉は官兵衛に「名代(みょうだい)として行ってくれ」と言う。四国の情勢にうとい官兵衛は苦い顔になる。阿波(あわ)に本拠を持つ三好党の三好笑岩入道は織田勢力とかって対立したが、後に信長に属するようになっていた。その三好は土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に阿波の地を削り取られており、織田家の力で回復してほしいと泣きついて来たのである。

一方の元親とは明智光秀が取次役(外交の窓口)となっているため、複雑な関係である。元親が敵であると信長が言っているわけではない。官兵衛は先ず淡路島を占領することを提案して秀吉の許しを得た。播磨灘の制海権を考えたのである。淡路の平定はさほどの難なく進んだ。(中略)しかし、天正9年も押し詰まった頃、官兵衛の四国における事業は一時凍結せざるを得なくなった。秀吉から毛利氏との対決の準備に掛からなければならないので播州へ帰れと言ってきた。

織田勢の毛利攻めが明らかになった天正10年の正月20日過ぎに小早川隆景は備中における最前線の城主7人を備後の三原城に招いて結束の強化を図る。この席にあった主城とも言える備中高松城の城主清水宗治(むねはる)はもともと地侍で毛利氏の譜代(ふだい)ではない。秀吉が中国に向かって姫路城を出たのは天正10年3月15日である。その兵力は2万、官兵衛も同行している。秀吉は岡山城に入って2カ月前に死亡した宇喜多直家の嫡男秀家の後見人となる。宇喜多勢を引きつけておくためである。

官兵衛は無駄とは思いながらも清水宗治を調略しようとしたが、宗治は毛利家の恩を感じてこれを断る。天正10年4月14日の未明に秀吉の軍勢は岡山城下を出発して備中に向かって動いた。これに宇喜多氏の兵1万が加わる。秀吉は毛利方の予想を上回る速さで宮路山城と冠山城の二城を攻めた。宇喜多勢が冠山城を多くの犠牲を出しながら陥(おと)してしまったが、官兵衛が先鋒を務める秀吉軍は調略中の宮路山城を長期攻囲する態勢を取ると、官兵衛の予想通りに乃美兵部父子は城を置き捨てて去った。

次いで小城の加茂城を攻め、報奨(ほうしょう)に不満を持つ副将格を調略して宇喜多勢へ内応させたが、本丸からの攻撃で宇喜多勢とともに城外に逃げてしまう。さらに南方の日幡城は敵の侵入を許さない防御がなされていた。秀吉方からの働きかけに対して日幡城主上原元将は寝返りを決意、毛利氏の譜代でなないのだ。こうして日幡城も秀吉方のものとなった。備中高松城は低地にあるが、北方からは山地が押し寄せ、城の南には足守川が流れている地の利を利用している。

秀吉の陣所は高松城の東方に位置する石井山で、眼下に高松城(城兵五千)が見下ろせる場所である。北方には宇喜多勢、西方の高地には五千の部隊があり、高松城はこれらの秀吉軍によって三方から包囲されていた。秀吉と官兵衛は勝利を確実にするとともに自分たちの戦功が突出しないように信長の出馬を乞うことにする。しかし信長は甲斐武田家勢力圏の掃滅(そうめつ)に自ら総指揮を取っているため備中に来られる状況にない。そこで秀吉は高松城の水攻めを思いつく。深田の中にある高松城は城に近づく方法が大手門から伸びる狭い一筋の道路に限られるため攻めづらいのである。

秀吉は足守川の西北を閉ざして川の水を城の方へ流し込むと湖になるのではないかと考える。秀吉自身が縄張りを行った堰堤(えんてい)は梯形(ていけい)をしており、高さは4間・基部の幅は12間・頂上の幅は6間、長さはほぼ4キロにわたるものだが、これを12日間で完工した。美濃の墨俣(すのまた)と小田原・石垣山の一夜城と同じやり方で、目隠しの塀を同じ長さに掛け渡したようである。足守川の流れを変える工事は官兵衛が指揮した。水流の強さに負けない百俵の土俵(どひょう)を一気に放り込むために船を使う方法を家臣に考案させ、河口から古船を30艘近く買い上げさせた。これが上手くいったことで、第二期工事は工事の責任を持つ奉行たちの仕事となる。

水は上手く誘導されたが、たちまち人口湖を作り出すほどの水量ではない。しかし、秀吉の運の良さなのか、ほどなく大雨が降ったことで、高松城は水面に浮かんだ。後年、石田三成が武蔵国(埼玉県行田市)の忍城(おしじょう)を攻めた時にそのまま模倣している。秀吉は大鉄砲(大筒)を据えた大船を湖上に浮かべて、高松城に向かって打たせるとともに、城壁を破壊させた。南方にいる毛利軍は秀吉の警戒軍1万余に妨げられて手出しができない。毛利軍の総力3万余が南方に布陣したのは5月21日である。これで敵味方同数になってにらみ合いが始まった。秀吉は内応の工作をしながら、信長の援軍を待っている。

毛利方は秀吉との全面衝突を避けて、清水宗治に信長の味方をさせることを決める。宗治はこれに同意せず、三木城主と同じように切腹して城兵を救いたいと望んだ。そこで小早川隆景は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と毛利氏の領土の半分に当たる5カ国を割譲(かつじょう)することを相談する。甲州の始末を終えた信長勢10万が山陽道に来援するとの情報が入っていた。秀吉の陣に向かった恵瓊は初対面の官兵衛の高名を褒(ほ)め、「岡山のこと、これは拙僧の負けでござった」と言う。

これに対して官兵衛は「あのことは安土殿(信長)のお気に入らず、筑前殿(秀吉)はずいぶんお叱りを受けたように聞いております」と答えると、恵瓊は官兵衛の言葉で講和が困難であることを察した。そして講和条件を官兵衛に明かしたことで、秀吉にも伝わった。秀吉はこの難しい問題への対応に悩んだ上に信長を説得しようと思った。官兵衛は恵瓊に(使者が安土を往復する)15日ばかり待つように伝えた。恵瓊は高松城へ行きたいという。清水宗治の首を信長に差し出すしかないと考えたのである。そしてその考えを宗治に伝える。

さらに毛利氏の小早川隆景と吉川元春・元長父子にこれを報告した。反発する元春と黙って聞いている景隆。恵瓊は毛利氏の面目(めんもく)と同様に秀吉の面目を説く。山陽道の外交を総帥(そうすい)する景隆は元春の問いに答えて恵瓊の考えを採用することにし、毛利輝元にその旨を報告した。しかし輝元は元春と同様に宗治を切腹させることに反対した。恵瓊は秀吉に伝えた上で証人としての蜂須賀小六と官兵衛とともに宗治のもとに行く。宗治は翌日腹を切るとさわやかに言い切った。

ここで信じがたいことが起こった。信長・信忠父子が死んだのである。信長が京へ入ったのは各地から秀吉の応援に向かう諸勢の総指揮をとるためであった。秀吉の使者はまだ到着していない。信長の情報官のような仕事をしていたとみられる茶人の長谷川宗仁(そうじん)は日頃から親しかった秀吉(実際には身分を考えて官兵衛宛)に使いを出した。これを受け取った官兵衛は秀吉に宗仁の書状を渡す。内密の評定が行われ、毛利との和睦の準備が進められた。

明智光秀が毛利方に出した使者が秀吉の警戒網に引っ掛かって届かなかったことは光秀と毛利氏、そして宗治の不運であった。宗治は秀吉が用意した船上で腹を切った。秀吉と毛利氏の間で誓詞が交換されて講和の手続きが完了した。秀吉は光秀を討つために、世に言う「中国大返し」を行う。毛利の追撃はないと考える官兵衛は、念のため堰堤(えんてい)を20カ所以上も一時に切り放ち、毛利方が動けないようにした。

宗仁の使者に20時間遅れて毛利軍にも京の諜報者から本能寺の変報が入ったが後の祭りである。官兵衛は大返しの殿軍(しんがり)を務めたが、その様子は省略する。官兵衛は西宮付近で秀吉を出迎えた高山右近と再会する。秀吉は光秀との決戦の布陣を決めた。秀吉は先鋒を望んだ右近の望みを叶えた。

光秀は桂川を渡り御坊塚(ごぼうづか)に入った。天王山の麓(ふもと)に淀川左岸が形作る隘路(あいろ)を秀吉軍が出てくるところを撃とうと考えたのである。羽柴秀長を司令官とする官兵衛隊は天王山の北麓にいて、円明寺川を渡って突入してきた明智方の一隊に対して射撃戦を始めた。明智方の騎馬隊が突進してくるのをみて対戦を指示、明智隊の右翼を包み込んでゆこうとする動きをとる。光秀が秀吉軍の左翼が弱いと見抜き、主力の一部を右翼へ移したことで官兵衛隊は苦戦するが、秀吉は河原に人数を投下して右翼を強化、そしてこの一隊が明智軍の背後に出たことが明智軍を動揺させた。

秀吉軍の左翼も勢いを盛り返した。天王山の部隊が下りてきて合流したからである。官兵衛は円明寺川を渡った時に勝ったと思った。光秀は撤退を決意するが、脱走する兵が多い光秀軍は痩(や)せ細り、勝竜寺城へ戻った時には子飼いの者七百名が従ったにすぎない。光秀は夜になるのを待って近江坂本へ引くつもりであった。秀吉軍が城の北方を塞(ふさ)いでいないため、城内の兵は減り始め、百人余りになったことで、光秀の侍大将が光秀に脱出を勧めた。そして光秀は坂本城へ向かう。伏見村の北を過ぎた辺りで土民の落ち武者狩りに遭遇、侍大将に自らの首を打たせた。

                         ☆

黒田官兵衛を通して戦国末期の土豪を描いた長い歴史小説もいよいよフィナーレです。天正10年に光秀を山城山崎で倒した秀吉は翌11年に織田家の筆頭家老である柴田勝家を北近江の戦いで破って北陸を手に入れたが、官兵衛は賎ヶ岳(しずがたけ)合戦と呼ばれるこの戦場で第二段目の陣をひき、勝因の一つを作る。翌12年には秀吉の代官として中国地方に行き、毛利氏と宇喜多氏の境界を決める仕事に従っていた。この年には秀吉が織田氏の領土を相続することが完了し、まだ関東・四国・九州が属していないとはいえ、日本の中央政権であることが確立した。官兵衛は播州12郡のうち宍粟郡(しそうぐん・現在は宍粟市)という山間の地(旧領地の山崎周辺)をもらったが、まだ旧主家の小寺氏ほどにもその領地(三万石程度)は大きくなく、大名とまではいえない状態にあった。

こののち秀吉は四国を平定し、九州に入ってこれを勘亭(かんてい)し、ついで関東の小田原城を攻めて征服した。官兵衛は常にこれに従ったが、もはや重大なことで秀吉の片腕になるということは無かった。秀吉とって官兵衛を必要とする段階は終わり、石田三成ら奉行(事務官)たちに移ったのである。九州攻めでこれを痛感した官兵衛は北九州の鎮撫(ちんぶ)を命じられ、各地の豪族に秀吉という人物がいかに頼られるべき存在かを家中の士を使って説いて回らせた。播州から山陽道にかけて用いた方法である。秀吉からこの地に領地をもらい、天運が巡ってくることを待つためである。天正15年7月に戦が終わると、秀吉は豊前の6つの郡(12万石)を官兵衛に与えた。ついに大名らしい大名になったのである。

しかし新領内の地侍などは秀吉に送り込まれた国主(官兵衛)などに従いたくなかったため、官兵衛は鎮撫に無理なことをしてしまうことも多かった。このためか官兵衛は天正17年に秀吉に拝謁して隠居を願い出た。まだ43歳という若さだ。秀吉はこれを認めないが、官兵衛は秀吉夫人である北ノ政所(まんどころ)に頼んだため、秀吉はやむなく折れた。嫡子の長政に家督を継がせることは認めるが、官兵衛には隠居させないという。髪をおろして如水入道(じょすいにゅうどう)と名乗るのは5年後である。官兵衛は播州時代の友人の遺児を引き取って長政とともによく養育した。二人は主従というよりの競争相手だった。後年の後藤又兵衛基次(もとつぐ)である。

秀吉が死んだ。彼の命(めい)によって渡海した外征軍十四万は置き去りにされたように韓の地にあり、豊臣政権は徳川家康以下の五大老、三中老、五奉行の合議制になった。その主な任務は在韓軍の撤兵であったが、野戦派と石田三成ら奉行派は激しく対立。前者に徳川家康が乗ったことが関ヶ原の戦いの原因になったが、野戦派と徳川家康の間を黒田長政が取り持ったことで、徳川政権樹立に長政の功績は大きかった。およそ策士とは言えない長政にこれをさせたのは秀吉の死後は帰国して豊前中津城に居た如水である。

家康と三成方が上方で格闘している間に、如水は第三勢力を九州で増強し、九州を斬りしたがえ、その兵をもって京に攻めのぼって大博打(ばくち)を打とうと考えていた。上方で三成が立つとと如水は全九州に触れて、平素貯めていた銭をもとに兵を募集すると約九千が集まった。秀吉に所領を没収されて毛利にあずけられていた大友義統(よしむね)を石田方が利用して豊後大畠に入らせていた。官兵衛はこれを味方にしようと誘うがきかないため、ついに軍を発して打ち破った。この戦勝で如水の軍は一万三千と九州最大の軍団になり、兵を発してからわずか十日で豊前と豊後を平定してします。

しかし如水の予想をくつがえす事態が起こった。関ヶ原で東西三十万近い軍勢が決戦して、わずか一日足らずで三成方は敗北したのである。100日は続くと思っていた如水は切り取った九州の半ばのすべてを家康に返上し、最初から家康のためにやったかのようにして、さっさと隠居の身に戻ってします。家康は如水の子の長政に酬(むく)いて、豊前中津十数万石から筑前五十二万石に引き上げた。如水の指示で藩都を博多のそばに設け、黒田家発祥の地である備前福岡の地名を記念し、福岡と名付けた。

その後、福岡城ができると、子の長政に頼み、城の西北の三ノ丸の一角に小さな家屋を作ってもらって住んだ。小高い場所から豊前や肥前の山並みを見、博多湾の海景を見ることができた。「古郷(ふるさと)に似ている」としきりに言ったという。慶長9年3月、如水、五十八、自らが予見した通り、20日辰の刻に永眠する。

「いまよりはなるにまかせて行末の春をかぞへよ人の心に」

これは如水が晩年親しんだ連歌師の昌琢(しょうたく)が永劫に春を数えられる人になられた、として通夜の席で詠んだものである。

                         ☆

著者は本書のなかで、三木城の兵糧攻めと高松城の水攻めをハイライトとしながら、官兵衛の生い立ちから洗礼を受けてクリスチャンとなった人脈で世に出る経緯を著者らしい簡明な文体で述べています。そして旧来の中世武士とは異なり信長や秀吉と同様に重商主義的な考えを持っていたことを繰り返し指摘し、最後に官兵衛の秘めた野望にも触れて、読者に官兵衛と言う武士の魅力を余すところなく伝えたことから、私の心に残る秀作のひとつになりました。□

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2011年10月16日 (日)

播磨灘物語を読む(中巻)

2007_08040027 秀吉は上月・佐用の小さな山城を陥(おと)したあと信長に報告するためにひとまず安土へ帰った。信長は秀吉の成果に満足したが、年が明けると播磨勢の9割9分までが毛利方にひるがえるという事態が起こる。秀吉は7千五百の兵を率いて播州へ戻り、やや東寄りの加古川で評定を開く。官兵衛は西方の宇喜多氏の情勢を探るとともに、播州の豪族を加古川の評定に参加させようと人を派遣して説かせて回った。三木城の別所氏には自らが出向いて城主長治に拝謁した。石高で言えば20万石で秀吉とほぼ同じであるだけでなく、門地で言えば貴賤は比べようもない。

官兵衛の頼みに長治は叔父の別所賀相(よしすけ)にまかせてあると言うのみであった。別所氏は毛利氏への加担をひそかに決めていたらしい。しかし二番家老で賀相の弟である重棟(しげむね)は早くから織田氏に接近していたため、賀相は対抗意識から加古川へ出かける。それを知り秀吉は落胆するが、秀吉はむしろ別所が織田に背く方がいいとも考えていた。それを武力で攻めて城地を織田氏の直轄領(ちょっかつりょう)にしてしまうことが信長の好みに適(かな)っているのである。

2011_092502701三木城は播州東部の山並みが平野になった辺りの釜山(かまやま)と呼ばれる丘の上にあった。下に美嚢川(みのがわ)が流れて外濠となっている。城内で行われた評定で賀相は秀吉の言葉を大げさに言い、侮(あなど)りを受けたと伝えたため、長治はそのまま受け入れてしまう。織田氏に従ってもやがて潰(つぶ)されるとの恐怖感もある。怪(あや)しまれないために信長に偽(いつわ)りの口上を述べる使者を出して籠城(ろうじょう)のために城を強化する許可を得ると同時に、播州の地侍(じざむら)に対して内々の陣触れをしたことで播州人の8割までが別所に加担、7千五百という人数を得た。

2011_092502702官兵衛は妻の兄である櫛橋左京亮(くしはしさきょうのすけ)を訪ねるが「別所殿が織田に背くとなれば、小身の櫛橋も従わざるをえない」と決心が固い。一向宗門徒(本願寺の信徒)の存在が大きいのである。官兵衛は御着城に登城して藤兵衛に「宇喜多が毛利を見限って織田氏に寝返るかもしれない」と説得を試みる。

2011_09250258 別所氏の寝返りを知った秀吉は焦りを覚えるが、播州陣における竹中半兵衛と小寺(黒田)官兵衛という幕僚の存在を意識する。秀吉の問いに答えて官兵衛は安土に援軍を仰ぐべきであると言う。三木城の別所氏は食料を入手・城濠を拡充して籠城の支度をほぼ整えていた。秀吉と官兵衛はあくまでも敵は毛利であると考えて、別所氏を城内に閉じ込めるための大軍を必要とした。半兵衛が使者になって安土へ向かった。

2011_092502703 援軍を迎えるために秀吉は西の叡山(えいざん)と言われる書写山(しょしゃざん)の円教寺へ入る。援軍を待つ間に秀吉は小城の野口城を攻め陥した。一方、毛利氏は当主輝元の叔父たちである吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)の合議で播州と毛利圏の境界にある上月城を攻めることを決めた。これは宇喜多直家の嘆願にもよる。兵数は三万五千と大兵力で、さらに備前の宇喜多直家の兵が加わる。信長はこの事態を重視して摂津(せっつ)にいる荒木村重を播州に急行させる。

2011_092502704上月城を包囲している毛利勢は五万に上った。上月城には尼子勝久と山中鹿之助がわずか七百の兵とともに籠(こも)る。そして村重の援軍二万が書写山の陣営に到着、さらに明智光秀や滝川一益(いちます・かずます)の派遣軍も来援して織田方の人数は毛利方を凌(しの)ぐようになったが、信長が動かないこともあって戦線は膠着(こうちゃく)して七十余日の籠城後に上月城は陥ちてしまう。織田勢は陣をはらって書写山に移り、播州鎮定戦を行う。そして三木城を取り囲み、神吉城と志方城を攻め陥し、毛利氏の水軍に備えて海岸線に兵を配置した。

2011_09250239播州の大半と隣の但馬(たじま)国を平定したあとに諸隊は引き上げて、信長の方針で孤立した三木城攻めを秀吉が担当する。秀吉が取った攻撃法は長期攻囲して城兵の飢えを待つ方法。三木城内の兵力は七千五百、それを取り囲む秀吉軍は八千にすぎないためこの方法しかなかったのである。秀吉と官兵衛・半兵衛は三木城の周りに柵(さく)と櫓(やぐら)を組み合わせた四里以上の長大な野戦築城を作る。注釈;平井山の麓から見た三木城方面(写真中央の公民館左後方)

2011_09250246 安土で労咳(ろうがい、肺病)の病気療養していた半兵衛は播州の陣中に帰ったが病状は悪化していた。著者は官兵衛の働きを三木城以外でも詳しく述べる。反織田同盟の代表である毛利氏と本願寺に加担する雑賀(さいか)党の水軍八千を海岸沿いの別府城(別所重棟)を攻めた時に自ら志願して四百の城兵を指揮して撃退したことである。信長と秀吉は大いに喜んだ。

2007_08040022そういう事態のなかで荒木村重が謀反を起こした。諸将が安土に集まった年賀の席で信長が行った悪戯(侮辱的な行為)あるいは大阪での兵糧補給の不祥事が原因であると噂された。信長は討伐軍を編成し、自ら総指揮者となった。秀吉も京に向かった。小寺藤兵衛の寝返りが確かだとの分かった官兵衛は御着城へ行くと、藤兵衛はそれを認め、官兵衛はそれを諌(いさ)める。官兵衛が2度目に御着城に登城すると藤兵衛は「荒木村重を説得できないか。そうすれば自分も織田に従う」と言う。官兵衛はそれを承知する。

そして藤兵衛は村重へ急使を走らせて「官兵衛を殺してもらいたい」との口上を持たせた。官兵衛は村重の前に引き出されることもなく、伊丹有岡城の牢へ放り込まれた。著者は牢内の官兵衛の心理を詳しく描写する。父宗円入道(兵庫助)は子と孫をそれぞれ織田方と毛利方の手に渡った状況から、織田氏に味方する道(官兵衛を死なせること)を選ぶ。秀吉は有岡城に入った官兵衛の内心疑う。それ以上に猜疑心が強い信長は人質である官兵衛の子を殺せと命じる。

2011_02190588 信長の使者からの命令を聞く秀吉に代わって半兵衛は「このこと、拙者が仕りましょう」と申し出た。そして半兵衛はその子を自分の故郷の美濃菩提山にかくまう。信長は村重勢の主力である高山右近と中川瀬兵衛の調略(ちょうりゃく)を試みる。キリシタンであることと村重氏にある人質の間で迷うが、キリシタンの門徒の道を選んで高槻城を開城する。次いで瀬兵衛も寝返ると村重は有岡城に籠城。毛利と本願寺の救援を期待しているのである。

2011_09250251 官兵衛はまだ牢内にいて信長の大群が発する何千梃(ちょう)もの鉄砲音を聞いている。しかし有岡城はこの日から九カ月も持ちこたえる。秀吉が平井山の本陣を置く三木城攻めも相変わらず続いている。包囲されることに疲れた別所方は別所賀相を先鋒の大将とする三千数百の突撃軍が城を出た。一手は正面攻撃、もう一手は秀吉本陣の平井山を駆け上がる。勇猛な別所方も待ち受ける秀吉方に大敗を喫(きっ)して城内へ逃げ込んだ。これが最後の大部隊による攻撃となった。

官兵衛の郎党(従者)である善助たちが伊丹の町に入り込み、知り合いの呉服店から得た情報で、官兵衛の生存と牢の位置を探ることに成功、密かに官兵衛に会うことができた。この間にも織田方は手を焼いていた丹波を平定する。抗戦が1年近くなっても村重は毛利軍を待っていた。同様に三木城と大阪本願寺からも援軍を願う使いが送られた。しかし毛利軍は動こうとしない。三木城の衆も毛利軍が来ないことを決定的に知るようになった。籠城が無意味になったのである。

2007_04110192 村重にとって敵は城内の者たちという奇妙な状況になってきた。そして冷静さを無くした村重は夜陰に乗じて城から落ちて、支城の尼崎城へ入ってしまう。それでも時間の掛かる籠城戦であったため有岡城は2カ月後になって落城する。善助はその機に乗じて官兵衛を牢から助け出し、有岡城を管理する織田信澄(信長の甥)に目通りさせると、信澄は信長と秀吉へ使いを出すと告げた。

2011_09250235 官兵衛は治療のため有馬に向かった。これを知った信長は臍(ほぞ)を噛(か)むような表情になって「まずい」と言ったが、竹中半兵衛が官兵衛の子を匿(かくま)ったことを聞き、安堵(あんど)したという。半兵衛は官兵衛が牢にいる間に播州の陣中で死んでいたのである。半兵衛が秀吉の嫉妬(しっと)から生じる害を避けるため出家しようとしていたとの噂を善助から聞きた官兵衛は、半兵衛の心境が窺(うかが)えるような気がしたのである。

尼崎城の村重は降伏せず、信長は有岡城に閉じこめられていた荒木氏およびその党類の妻子などをことごとく殺させた。村重はその後、尼崎城を脱出して行方知れずとなった。官兵衛は官治していなかったが、救出されて一カ月後に播州へ板輿(いたごし)の上に身を横たえて播州へ向かう。三木城が陥落する前に帰陣したかったのである。その前に小寺藤兵衛とその一門が村重の真似をして御着城から消えてしまったことを知らされて焦ったこともあったのである。

2011_092502591 著者は後日談として、各地を放浪した藤兵衛が官兵衛を頼って来たこと、秀吉だけでなく信長にも藤兵衛を許して貰いたいと願い出て許されたこと、藤兵衛の死後には知能の遅れていた藤兵衛の子を扶養することを秀吉から許してもらったことを紹介する。加えて、秀吉も天下人になったあと村重に録(ろく)を与えたことも付記する。帰陣した官兵衛は黒田性に戻る。毛利方による三木城への秘密補給路が秀吉方によって断ち切られたことで、三木城の窮迫は極に達しつつあり、鷹の尾城(出丸)と新城と呼ばれる城郭が陥(お)ちたことで籠城戦は終焉(しゅうえん)に近づく。

2011_092502713 秀吉は本営を鷹の尾城に移す。別所重棟は秀吉と官兵衛の指示で開城交渉をする。城主長治・その弟彦之進・賀相に腹を切らせて妻子に自害させることが城兵の命を助ける条件である。籠城は計1年10カ月続いた。三木城に籠城した農民を含む1万余の人々のなかで生き残った者は八千余人ほどであった。従わない賀相は馬に飛び乗って逃げ出したが、家臣たちはこれを追って無理やり切腹させた。注釈;掲載した絵図は三木城本丸にある「三木合戦」の絵解き説明板(下巻へ続く)

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2011年10月15日 (土)

播磨灘物語を読む(上巻)

竹中半兵衛が大好きな私はその無二の同僚であった黒田官兵衛にも関心があります。その官兵衛(かんべえ)を主人公とする司馬遼太郎氏の長編時代小説「播磨灘物語」(講談社刊・上中下3冊)を短編化して紹介します。かなり凝縮しましたが、それでもまだ長文であるため、興味のある部分だけでもお読みください。上巻は官兵衛の生い立ちと秀吉の播州出兵までの官兵衛の行動、中巻は秀吉による三木城攻めの顛末てんまつ)と官兵衛が果たした役割、下巻は秀吉の毛利攻め(備中高松城の水攻め)・光秀との山崎の合戦・関ヶ原の合戦など官兵衛の晩年を描いています。

上巻では黒田家の出自(ルーツ)から始める。近江の北の黒田村(現在の長浜市木之本町黒田)の出身であったが、曽祖父の高政が都合あって黒田村を逃げ出し各地を流浪したのち、備前国福岡村(現在の瀬戸内市長船町福岡)に移り住む。その子重隆は30代の半ばで備前福岡を立ち退くことにして、先ず東の播州(ばんしゅう)を目指し、当時は草深かった姫路と呼ばれる辺りに住み着いた。宿泊した大百姓の竹森家の家主新右衛門が重隆とその家族の知的な態度と京の武士言葉に惹かれて入門を願い出た。そして広峰山の神社に登ることを勧める。

これが黒田家にとって幸運であった。新右衛門の口添えがあったことで御師(神主に仕える布教者)も重隆を高く評価し、播州や隣国に配る神符に添えるための家伝の薬を訊(たず)ねた。重隆が家伝の薬として提案した目薬を御師は喜び広峰の神主(大別当とも呼ばれた武士)にお目見得出来るように計らう。そして重隆は目薬を作ることになり、そこから得た財力により黒田家は播州でひとかどの勢力を築くことになる。

新右衛門が自分の財産を使うことを申し出たこともあって低利の金貸し業も始め、数年後には家臣の人数は200人にもなった。そして三十代の後半と言う若さであった重隆は自分より聡明な子の兵庫助職隆(ひょうごのすけもとたか)に家督を譲り、播州御着(ごちゃく)の小大名であった小寺氏に仕える手配りを行う。小寺氏当主の藤兵衛はこれを喜び、わずか1年後には兵庫助を小寺氏の一番家老にする。

重隆は兵庫助に知恵をさずけて、新参者の兵庫助が小寺氏家中での存在を高めるために、揖保川沿いの土地を侵略して新興勢力になった香山氏を攻めることを藤兵衛に進言する。重隆は慎重に準備した奇襲作戦で香山氏を討つことに成功。これにより藤兵衛は兵庫助に香山庄を与え、空き城同然の砦であった姫路城に入らせた。黒田家の価値観を理解するための長い前置きの後、やっと兵庫助の長子である官兵衛が登場する。

                          ☆

家老の家に生まれながら和歌に興味を示し、父と同様に土地の百姓の受けが良かった。父兵庫助は藤兵衛から小寺姓を名乗ることを許された。官兵衛(幼名萬吉)は留守勝ちの父に代わって姫路村の圓満(えんまん)という老僧から教育を受ける。萬吉の武士としての将来を案じた圓満は漢帝国高祖劉邦(りゅうほう)の謀臣(計略に巧みな家来)であった張良(ちょうりょう)の話を聞かせ、あらゆる才能の持ち主に乗ってそれを采配(さいはい)する器(うつわ)を持っていた張良は無欲・無私であったという。

14歳で元服した官兵衛は16歳で藤兵衛の近習(きんじゅう)になると、老臣から足軽まで多くの人から経験談を聞き、広峰の御坊の供(とも)に化けて播州一円を歩き回って地理や他の大名や豪族など播磨人についての感覚を豊かにした。自分以上の男だと思った兵庫助は40代半ばになる前に22歳の官兵衛に家督を譲って隠居してしまう。その直前に藤兵衛は自分の姪(めい)を一番家老となった官兵衛と妻(めあわ)せた。

ここで著者は時間を戻して官兵衛が部屋住み(家督相続前)の頃にキリシタンのことを耳にして京へ上った経験談を語る。奥州馬を買い求めに上京した尾張衆(信長の家来)に官兵衛は興味を持ったことと、主目的の南蛮寺(キリスト教会)に何度となく通ったことである。そこで近江国甲賀の和田惟治(これまさ)を紹介される。将軍義輝側近の武士である惟政は官兵衛を将軍に拝謁(はいえつ)させるが、その2カ月後に義輝は大和国の松永秀久に殺されてしまう。

再び上京した官兵衛はキリシタンの洗礼を受けて播州へ帰る。それまでは生意気だが分別人と見られていた官兵衛であったが主家を数カ月も留守にしたことで評判が悪くなった。それでも惟政からの手紙を受け取った官兵衛は再び藤兵衛に上方行きを願い出る。足利義秋(よしあき)に征夷大将軍の職を継(つ)がせるために官兵衛の知恵を借りたいと言うのである。父の宗円入道(兵庫助)は諌(いさ)めるが官兵衛は納得しないため、藤兵衛を説得して上方行きが許された。

上京した官兵衛は近江国矢島に逃れた義秋(のち義昭)のもとへ銭百貫文を献上する。惟政はこれを喜び、同じ幕臣の細川藤孝(忠興の父)を紹介する。興味を持った藤孝が唐突に官兵衛の考えを尋ねたため、官兵衛は思わず「織田殿がよろしかろう」と言ってしまう。その理由を問われて「門地門閥、生国によらず人材を登用し、新時代を拓(ひら)こうとしている」と答えた。そして毛利氏についても天下に野望がないことを論じた。しかし藤孝は少しも意見らしいことを言わない。

その後、播州は安穏な地域であった。一方、足利義秋は若狭から越前へ移って朝倉氏を頼るが朝倉義景は腰を上げない。そこで細川藤孝は公方(くぼう)となった義昭に織田信長の名を出す。藤孝が京や越前で面識のあった織田家の明智光秀を通じて義昭の案内書を信長に送ると、京に攻めのぼる口実を得た信長は大いに喜ぶ。信長が京へ向かう経路の近江に居るのは義弟(妻が信長の妹)の浅井長政と近江源氏の六角氏だけ。六角氏は抵抗したが容易に攻略されてしまう。

美濃から近江の三井寺(みいでら)に入った義昭は諸国へ陣触(じんぶれ)をうながす御教書(みきょうしょ)を書き送った。その一つが播州一の勢力である三木城城主別所氏へも送られたが、別所氏は奇妙といっても良いほどに反応を示す。官兵衛が仕える御着城城主小寺氏には届かないことに官兵衛は悔しがった。三木城家老の別所孫右衛門は兵300を率いて既に松永久秀が信長に降参した京に上り、洛中洛外を駆け回って義昭の呼びかけに応えた。別所氏は織田氏と同格の気分になってしまい、それがやがて別所氏を没落させるのである。

信長がわずか52日間で畿内を平定したことは魔術的な成功であったが、「信長を倒せば天下をとれる」という明確な目標を各地方の勢力へ与えることになった。信長が岐阜に帰ると阿波の三好党が京に乱入、信長は再び上洛してこれを討つことが起こった。摂津石山の本願寺(現在の大阪城辺り)は信長の移転命令を承知せずに信長と戦おうとし、北陸の朝倉勢とすでに断行していたはずの北近江の浅井氏が織田方の坂本城を襲った。信長と石山本願寺の確執の影響が本願寺門徒の多い播州にも及ぶ。これを見た将軍義昭は諸国の大名に信長を滅ぼすように手紙を書き始めた。

信長は義昭に頼み込んで浅井・朝倉連合と和睦するなど自在な戦略でこの危機を乗り切る。そして信長はこの連合に協力した叡山に手を切るように言うが叡山側は聞き入れない。そして丸1年後に信長は言葉通りに叡山を焼き払う。信玄の上洛に備えていた信長は、信玄が陣中で病死したため、公然と反旗を掲げた義昭を京に攻めて一度許すが、再度御教書を発した義昭を追放。義昭はその後転々とし、ついに毛利氏を頼る。

播州は相変わらずの状態で別所氏と連合した赤松氏が小寺領を圧迫したことで官兵衛は小寺勢の総指揮をとって撃退した。信長は近江の浅井氏を滅ぼし、伊勢長島の一向一揆を鎮圧し、信長と徳川の連合軍が長篠(ながしの)で武田勝頼に圧勝したことで、播州人に織田氏を見直す空気が出てくる。小寺氏の御着(ごちゃく)城内の評定で藤兵衛は官兵衛の意見を入れて(うわべだけでもが本心)織田方に付くことを決めたことで、一番家老の官兵衛は公式の使者として岐阜へ行くことになる。

途中、信長の配下で摂津を支配する荒木村重の伊丹の有岡城に立ち寄った時に出迎えた同じキリシタンの高山右近と会う。そして荒木村重が信長との取次役を申し出てくれたことで、信長の祐筆(ゆうひつ)を務める武井夕庵の屋敷を訪ね、岐阜城で信長に拝謁する。そして信長の播州入りを承知させ、「藤吉郎と相談するように」との言葉を得た。官兵衛は長浜城に居る藤吉郎(以降秀吉と呼ぶ)を訪ねて、その無邪気さと率直さに惹かれるとともに、織田氏と毛利氏の長い外交関係の存在を教えられる。

信長の上京に合わせて小寺藤兵衛が信長に拝謁(はいえつ)するとよいとの便りが秀吉から官兵衛に会った。官兵衛は渋る藤兵衛を説得し、別所氏と赤松氏を歴訪して三氏が揃(そろ)って信長に拝謁することを実現させた。翌年になると別所氏は毛利氏の遠征軍五千の支援を得て官兵衛の姫路城を奪取しようとした。兵力に劣る小寺方は毛利方の威嚇(いかく)であると見切った官兵衛の考えに従い、農民を集めて偽兵を作る虚仮威(こけおど)し策と正規軍の奇襲によって毛利勢を撃退する。

外交を得意とする毛利氏は三木城の別所氏に働きかけたことで当主長治(ながはる)は動揺する。赤松氏もまた動揺した。小寺氏が孤立して主人が心変わりすることを恐れた官兵衛は長浜へ向かい、不在であった秀吉に代わって城代に播州に兵を入れていただきたいと説いた。織田家の情勢はさらに悪化していた。越後の上杉謙信が本願寺と和解して信長と断交、大阪の本願寺勢力によって織田軍は壊滅的な打撃を受け、これを支援する毛利方の水軍に織田方の水軍が大敗する。松永久秀も再び信長を裏切る。

しかし上杉氏は北条氏が関東の上杉領に兵を入れたため動けないため、信長は北陸から兵を帰還させて久秀を討った。この状況下で、「人質を安土に出したほうが良いのではないか」との手紙が秀吉から官兵衛に来た。毛利家へも色気を残す藤兵衛は決断しないため、官兵衛は主君に代わって一人しかいない自分の嫡子(ちゃくし)を差し出すことにする。嫡子を連れて安土城に上った官兵衛に信長は播州に秀吉を派遣することを約束する。播州の他家の人質を集める必要があった。

そして秀吉はわずか四千人の手勢を率いて播州へ入るが、軍勢の少なさに播州人は失望し、加えて秀吉の尊大な態度が反発を招いた。織田家に賭けた官兵衛は自らの姫路城を秀吉軍に差し出す。藤兵衛は自分が蔑(ないがし)ろにされたようで不満であり、羽柴秀吉へ挨拶に出向こうとしない。

この時、官兵衛は秀吉の(計略に優れた将)竹中半兵衛重治(しげはる)と親交を深める。著者はここで半兵衛について詳述しているが、当ブログの関連記事で説明しているので、その説明は省略する。

秀吉の姫路入りによって播州の諸豪族は一時的な現象として織田氏に属したようであるが、公然とこれに反した城が二つあった。現在の兵庫県佐用郡佐用町にあった上月(こうづき)城佐用(さよう)城である。いずれも備前国の宇喜多方に属していた。秀吉は官兵衛と半兵衛を使って2つの城を落す。(中巻へ続く)

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2011年10月14日 (金)

三木城址・竹中半兵衛の墓・秀吉の平井本陣跡を訪ねる

神戸JCTで中国自動車道から山陽自動車道にそれました。四国遍路のために鳴門海峡大橋へ向かった時と同じルートです。ただし、今回は三木JCTを岡山方面に進み、三木東ICを出て、最初の目的地の平井山へ向かいました。平井山は羽柴秀吉が三木城攻めで本陣を置いた場所です。

その時代背景を簡単に説明します。天下統一を目指す織田信長は、天正5年(1577)に、中国地方の戦国大名毛利輝元を打つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させました。播磨の守護代である小寺氏や別所氏など有力武将は、秀吉率いる織田軍に加勢することを約しました。毛利氏の庇護にあった前将軍義昭は、諸将に織田軍に叛き毛利氏に加勢するよう働きかけていたため、別所長治を中心に播磨の武将は織田方に反旗を翻し、天正6年に始まった三木合戦へと発展して行きました。

羽柴秀吉が行った三木城攻めは、「三木の干し殺し」と呼ばれたように凄惨を極め、二年間亘る籠城の末、城主別所小三郎長治は兵士や領民の命と引き換えに一族とともに自刃したという歴史があります。それを三木方の兵士の子孫である司馬遼太郎氏が詳細に書いた「播磨灘物語」(講談社刊)を最近読んで、ぜひ訪れて見たくなったのです。この記事に続いてこの長編歴史小説について書きたいと思います。そして、この地は私が興味を持つ竹中半兵衛に縁の地でもあります。

県道38号で三木市の市街地方面に向かうルートでも良いのですが、県道85号を北上するルートを選びました。県道20号に行き当る豊地交差点を左折、山陽自動車道の手前で再び左折、県道513号を走ると目印の平井山観光ぶどう園前を通過します。すぐ先の左手に平井公民館を見つけ、その駐車場に車を停めました。ここが指定された駐車場です。
 
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まず竹中半兵衛の墓へ向かいます。半兵衛の墓は岐阜県不破郡垂井町の禅幢寺(ぜんどうじ)にありましたが、立ち寄った時に平井山にもあることを知りました。

三木城攻防戦がたけなわの頃、以前から胸を病んでいた竹中半兵衛は秀吉の勧めで京都に移って療養しますが、はかばかしく進展しない戦況を案じて戦場へ戻り、三木城攻防戦の最中に平井山の陣中で病死しました。36歳でした。

平井公民館からなだらかに上る道を歩くと前方にぶどう園が見えてきます。
 
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その手前、右手に入る道の角にある標識に従って進み、さらに左に折れると、ぶどう畑の中に白い練り塀に囲まれて場所が見えます。
 
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ここが半兵衛の墓です。垂井町の墓より敷地は広いのですが、何れも派手さはありません。半年前からの望みが叶(かな)いましたので、次の目的地である「平井本陣跡」へ向かいます。
 
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羽柴秀吉は三木城の鬼門方向にある平井山に本陣を置きました。兵糧攻めという長期戦で三木盆地を囲む周りの山々に武将の陣を置き、自らはそれが見渡せる平井に本陣を設けたのです。天正6年10月15日に秀吉は初茶会もここで催しています。

案内標識に従い、ぶどう園の受付の手前を左手に折れて神社の前を通過、右手の鳥居を潜ります。
 
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急な上り坂を上った場所にある溜池の脇を通過します。
 
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ここから先は石段の急坂になりました。
 
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登りきると舗装された広い道に出ました。ここも標識に従って鋭角に右折すると、左手に入る石段が見えました。本陣跡はもう直ぐです。
 
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胸突き八丁の石段を登りきると小さな広場に出ました。20m四方ほどのスペースの奥に説明板が立っているだけでした。「三木合戦羽柴秀 平井本陣跡」と表示されたこの説明板には三木攻めの経緯が簡単に説明されています。
 
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木の間から三木市の市街地がわずかに見えます。本陣があった時は木が切り倒されていたでしょうから、視界は良かったのでしょう。ぶどう園に直接下りられないかと少し先まで行ってみましたが、平井山の反対側に向かうようなので、もと来た道を引き返しました。
 
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車に戻って県道513号を三木市街地へ向かいます。宿原西交差点で県道38号に行き当り右折すると、広い道になって市街地に入って行きます。上の丸交差点がありますから三木城が近そうです。

標識を探しながらゆっくり走ると信号のない交差点に三木城址の案内標識を見つけて左折しました。右手方向の雲龍禅寺に三木城主別所長治(ながはる)の首塚があると説明する案内板のあるY字路を左に進むと、道は段々急坂になります。昔から日本刀・スキ・クワなどの鍛冶(かじ)で栄えた三木市らしい金物資料館のすぐ先を左手に入って急坂を上ると上の丸公園脇に出ました。隣は上の丸保育所です。
 
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上の丸公園に残っている城塀に囲まれた本丸跡です。上の丸とは本丸のことです。ちなみに、二の丸は図書館の辺りにあったようです。「三木合戦」の絵解き説明版(写真中央)には絵が28枚掲げられて、合戦の経緯が絵で解説されています。
 
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正面に再現された狭間(さま・鉄砲や矢を撃つための穴)付きの土塀(模擬城壁)越しに下を見ると、外堀の役割になった美美嚢川(みのうがわ)・神戸電鉄粟生線の鉄橋・市民病院・三樹(さんじゅ)小学校などがよく展望できます。写真では確認できませんが、遠方の山並みを山陽自動車道が左右に走っています。
 
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左手の木立、天守跡には城主長治公辞世の歌碑がありました。「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」と記されています。意味を解説する必要なないでしょう。
 
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その先に長治公のまだ真新しく見える石像がありました。
 
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県道20号を北上しました。三木東ICに入って往路と同じコースで帰るのも詰まりませんので、東播州の地を県道20号でドライブすることにしました。山陽自動車道を潜ると県道は北東に向きを変えて三木市の端へと伸びています。吉川(よかわ)ICから中国自動車道に入ったところで、まだ昼食を食べていないことに気づき、4kmほど先で神戸市に入った赤松PAで昼食のための休憩(きゅうけい)を急遽(きゅうきょ)取ることに・・。

私は「豚の角煮ラーメン」が気になりましたが名前に惹かれた「海と丘のリッチ丼」(680円)を、同行者は迷った挙句いつものように「天ざるそば」(800円)を注文しました。前者は名前通りに自家製の豚の角煮・淡路産の蛸(たこ)・ゆで玉子(地元吉川産)・カイワレという具材の奇妙な取合せが淡路産のちりめんじゃこなどが入ったご飯にトッピングされています。豚の角煮は濃い目の味付けが美味しいので、「赤松行けx2速丼」か「三田ポーク丼」が良かったかも知れません。
 
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同行者の天ざるそばは平凡。
 
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『赤松角煮バーガーにすれば良かったわ』と愚痴(ぐち)めいたことを言います。

<同行者のコメント> 平井山に登った旦那様は蜘蛛の巣まみれで戻って来ました。「新しい帽子が台無し」と言うと、帽子が役に立ったと気にも留めません。その後も城址行きで、この日は昼食抜きかと心配しました。そして、突然入った赤松PAの軽食コーナーではメニュー選びに失敗。でも 味見させてもらった豚は美味しかったです。

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2011年10月 8日 (土)

CEATEC JAPAN 展示会 乗り物が楽しい(続編)

2日後に再びCEATECの展示会場を訪れました。最初に立ち寄ったKDDIブースには同社の大株主で提携関係にあるトヨタ自動車製プリウス・プラグイン・ハイブリッド車が置かれて、スマートフォンと自動車の情報連携が説明されています。当ブログはプリウス・プラグイン・ハイブリッド車を今年6月の記事で紹介しています。
 
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NTTドコモのブースは目立たない場所に「汎用型サイクルシェアリングシステム」が展示されています。横浜市と協力して今年4月から社会実験「横浜コミュニティサイクル」が行われているGPS通信付き自転車と携帯電話などを使う自転車ナビの機能が説明されていました。
 
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ホール3に移動しました。スマートコミュニティ“ZERO (エネルギー自立型コミュニティ)のエリアには多くの企業が出展していました。先ず目に付いたのは当ブログで以前紹介した三菱自動車の電気自動車"i-MiEV"と高砂製作所の充電スタンドです。
 
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レーシングカーはヨコハマタイヤの低燃費タイヤBlueEarthPRしています。
 
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こちらは日産の二人乗り超小型電動車両NISSAN New Mobility CONCEPT(コンセプトカー)です。超小型モビリティの活用による地域交通システムの検証を目的として、9月下旬に国土交通省から認定を得たことで公道走行実証実験が行われるそうです。
 
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電動立ち乗り二輪車のセグウェイ(最新版)はソーラーパネルを設置したり、AED機器(自動体外式除細動器)なども搭載できるように工夫されています。
 
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ヤマハの電動バイク(エレクトリックコミューター)EC-3
 
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同じく電動アシスト自転車PAS VIENTA
 
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こらは乗り物ではありませんが、ユニークなデザインの「ニッサンスマートハウス」です。太陽光発電と燃料電池に電気自動車のリーフ(蓄電池の機能)を組み合わせる高床式住宅(コンセプト)のデモ展示でした。
 
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耳の大きな自動車はTOKYO FMJ-WAVEが制作した「耳カー」です。そのドア部分には「聞かせて!どんなクルマが世界を変える?」と書かれています。東京モーターショーが東京FMなどと組んで、「消費者の皆様の声を、どんどん聞きたい」との発想から作られた車です。前回(2009年)の東京モーターショーは海外からの出展が激減・入場者数も半減したことで、今年12月の次回開催に向けたPR活動のようです。ちなみに会場もこれまでの幕張メッセから都内有明の東京ビッグサイト(東京国際展示場)へ変更されるようです。
 
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ホール2へ移動。パイオニアが出展した次世代車載ディスプレイAR HEAD-UP DISPLAYは目の前の風景に情報を重ね合わせることが出来る優れものです。
 
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ドライバーの約1.5m先に19インチ相当の大画面を浮かせて表示することで視線と焦点の移動を大幅に低減できると説明されています。
 
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こちらは同じブースのCycle Sportsアスリートモデルです。
 
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高機能サイクルコンピューターとペダリングモニタセンサーを搭載しています。
 
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ホール1のパナソニック・ブースにはEV(電気自動車)システムソリューションの要素技術が展示されています。
 
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シャープ・ブースで展示されたEVスマートパワーコンディショナーは停電時に電気自動車(EV)の電気を利用するシステムでした。
 
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昨日までの累計入場者数は14万2707名であるとCEATEC事務局が公表しました。最終日の今日は無料公開日ですから、入場者数が一番多かった昨日の4万6547名を上回ることでしょう。□

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2011年10月 7日 (金)

CEATEC JAPAN 展示会 乗り物が楽しい

千葉の幕張メッセで開催されたIT(情報技術)とエレクトロニクスに関するアジア最大の展示会CEATEC JAPANに出掛けました。東日本大震災による液状化現象の被害跡が海浜幕張駅から幕張メッセの敷地まであちこちに残っています。この2-3年のCEATECでは液晶テレビと3Dテレビが主役でしたが、今年は2KKと呼ばれる超高精細テレビが注目を浴びているようです。昨年のCEATECでも展示を見ましたが、現行のフルHD品質の4倍の画素数(IMAXデジタルシアター並)があり、画面に近付いても画素が確認できないほど肌理細(きめこま)かい次世代テレビでした。
注釈;シャープは8K4K(フルHDの16倍)のLCDをデモ
 

私はコンファレンスの都合で初日(特別招待日)の10月4日(参加者2万7千名弱)と3日目の6日(参加者3万6千名強)の2回参加しました。明日の8日(土)は無料公開日ですから興味のある方にチャンスだと思います。ちなみにCEATEC JAPAN関連の当ブログ記事のバックナンバーはこちら(2006年・2007年2008年2009年2010年)でお読みいただけます。
 
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CEATECの今年のテーマは「Smart Innovation-未来をつくる先端技術」です。Smartは日本語で外見の格好良さを表わすことが多いのですが、ここでは英語本来の「賢さ」を意味します。そしてInnovationは「革新」で、従来の概念から大きく広がった領域が対象となっています。スマートグリッド(賢い電力網)・スマートシティあるいはスマートコミュニティ(賢い街)・スマートホーム(賢い住宅)・スマートライフ(賢い生活)などの言葉が会場で使われています。スマートカーの名前こそありませんがこれらに関連の深い電気自動車(EV)が展示会場のあちこちで見られて、さながら自動車ショーの会場に来たようです。これまでの紹介とは視点を変えて、会場で見つけた楽しい乗り物を紹介します。 

コンファレンスで何件かの講演を聴いたあと展示会場に入りました。最初に立ち寄ったのはコンファレンス会場に近いホール7のマキシム・インテグレーテッド・プロダクツのブースです。Smart Vehicle(スマートビークル)と表示された米国のエレクトロニクス設計サービス会社nuvationの電気自動車がブース前に置かれていました。
 
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前輪が2つ・後輪が1つの三輪車はバイクと同じチェーンで後輪を駆動する方式です。制御部は手作り感一杯ですが小型化した試作品が横に展示されていました。その場に居合わせたnuvation社の若い社長が他社製のガソリン車を電気自動車に改造したと説明してくれました。
 
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運転席に乗るように促(うなが)されて慌(あわ)てたため(接写モードで撮影したのか)車全体の写真がピンボケになってしまいましたが、あえて掲載します。車体は今年6月に開催された自動車展示会で見たカンパーニャ・モータース(Campagna Motors)製と思われます。
 
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次いで立ち寄ったのは米国TEコネクティビティグループ(Tyco Electronics社)のブース。これまではリニアーモーターカーのデモを行っていましたが、今回はTE(テー)コプターです。弥次郎兵衛(やじろべえ)の仕組みでバランスを取ったヘリコプターのプロペラを手で回すと浮上する仕組みでした。
 
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来場者も試乗できるようですが、先ずは綺麗なお姉さんがデモンストレーションをします。見事浮上、発電量で評価する成績は428ワットと雷レベル(上から2段階目)の好成績を収めました。毎年夏に放送される日本テレビ系列の「鳥人間コンテスト」よりもテレビ朝日系列の人気番組「ドラえもん」のタケコプターに似ています。
 
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ホール6に移るとカーエレクトロニクス用コネクタも製造する第一電子工業のブースがSIM-Drive(慶応大学の清水教授が社長を務める産学連携企業)の電気自動車 SIM-LEIを展示していました。
 
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次いで向かったのは村田製作所のブースです。目当てはもちろんムラタセイサク君とセイコちゃんの二人による実演ショー。毎年、二人の成長を楽しみにしているのです。
 
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セイサク君は静止バランスがお手のもののはずですが、何故か安定するまでかなりの時間が必要でした。
 
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次いで登場したセイコちゃんは静止バランスだけで物足りません。
 
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二人の技術を応用したものとして人間用歩行アシストカートも登場。ちょっとした買い物であればカートがバランスを取ってくれる優れものです。
 
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いよいよメインイベントの平均台走行です。これまではほぼ直線的なコースでしたが、今回は馬蹄形(ばていけい、U字型)の急勾配が課題になりました。しかし、セイサク君は相変わらず不安定でスタートした直後にバランスを崩して係員に抱きかかえられてしまいました。この日の最終実演で疲れているようだとのアナウンスがあり、リタイアかと思いましたが、休憩(再調整)したことで復活したようで再チャレンジする旨のアナウンスがありました。
 
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安定してカーブする坂道を登り続けます。
 
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ついにゴールイン、大きな拍手が会場で湧きました。
 
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ホール5のNECグループ・ブースには電気自動車「日産リーフ」が展示されています。両社の合弁会社・オートモーティブエナジーサプライ社が日産リーフの心臓部であるバッテリー製造している関係があります。
 
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オーセラスジャパン社のブースには高級車専門のレンタカー会社DIREX社が提供したと思われる外車が置かれています。米国フォードのマスタングカブリオレ(Mustang Cabriolet、2005年に発売された6代目でエンジンは4リッターのV6)のようです。車に見とれているとブースの係員が声を掛けて来て、自社製品であるスマートフォン用無接触充電装置を説明してくれました。通常の携帯電話での利用も可能ですがアイフォーンの場合は電磁誘導型受電機能付きの専用ケース型がスマートでした。
 
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閉館時間の午後5時になって「蛍の光」のメロディが会場に流れました。今日はここまでかと思っていると、ホール4の富士通グループ・ブースの奥に自動車を見つけましたので急ぎ足で立ち寄りました。横にあるのは「リチウムイオンキャパシタ」の説明パネル。電気を蓄えるキャパシタは電子機器に使われるコンデンサーと同じ原理(電池とは原理がまったく異なる)で、短い充電時間(1分)・長寿命(充電回数10万回)・大電流(379A)を供給できる利点があり、電気自動車の電源として適しているようです。
 
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ただし、現時点では容量が小さい弱点があります。外部企業と協力して試作した小型電気自動車「ミルイラ」は一回の充電で可能な走行距離は3.5kmと限られますが、最高速度は80kmと高速ですから、飛行場や工場など施設内の走行用に適しているでしょう。この電池を製造するのは富士通子会社で電池メーカーのFDK社でした。
 
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出口へ向かう途中、NTTドコモのブース前を通過しました。「蛍の光」を聴きながら、見学客の居ないブースにスタッフが集合して歓談する様子を見ていると、10年以上前にアメリカ・中国・シンガポール・ドイツなどで開催された展示会に当時所属していた会社のブース担当者として参加した時のことを懐かしく思い出しました。
 
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(続く)

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2011年10月 3日 (月)

旧東海道のドライブ旅 水口宿(下)

湖東信用金庫水口支店前を右折しました。旧東海道は複雑な枡形(ますがた)を構成しています。コの字型に曲がってさらに右折する角(小坂町の石柱がある)に「水口石」と呼ばれる力石がありました。
  
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西方へ約400m進んだ五十鈴神社の角に「林口の一里塚跡」(江戸から113里)の石柱を見つけました。ちょうどこの付近が「西見附」で水口宿の出口となっていたそうです。
 
 
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ここからクランク型に旧東海道は折れ曲がります。
 
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街道巡りを中断して信号のある交差点から水口石橋駅方面へ引き返しました。信号のある次の交差点を右折して最初の道草を食います。目的地は水口城です、手前の中央公民館と体育館の奥にある無料駐車場に車を停めさせてもらいます。表通りに出て100mほど南に歩くと白壁が美しい水口城が見えました。
 

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三代将軍徳川家光が上洛する(京に上る)時に宿泊するために水口岡山城の城下町に造った館が水口城であり、堀と石垣に囲まれた水口城は本丸と二の丸からなり、その建物構成は京都の二条城と共通すると説明されています。残念ながらこの日(金曜日)は閉館日で入城できませんでした。

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次いで訪れたのは水口歴史民族資料館(別名曳山の館)。近江鉄道本線の水口城南駅前(法務局横)の無料駐車場を利用しました。米原市の米原駅と甲賀市の貴生川(きぶかわ)駅を結ぶ鉄道の駅です。

 

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駅脇の踏切を渡った公園のようなエリアには人影がほとんどありません。懸念した通り、こちらも閉館していました。

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広い庭には移設された東水口領の石柱(横田の渡し南対岸にあった西の境界を示すものを移設)と道標などが配置されています。

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元来た道を引き返して旧東海道へ戻りました。北脇縄手の碑が立つ先は松並木が続いています。
 

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昔からの松並木ではなく新しく植えられたものでした。
 

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柏木農協の前にある「時の鐘」には半纏姿(はんてんすがた)の人形が置かれて「広重の「東海道五十三次水口宿」の絵も掛けてありました。
 
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水口町泉で左にそれて泉川に架かる「舞込橋」を渡ります。風流な名前です。車を路肩に停めてドアを開けると車内に雨が舞い込み、カメラのレンズに水滴が付くほど、本降りの雨になってしまいました。

 
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右手に「泉の一里塚跡」(江戸から114里)の近く(元の場所より市街地寄り)に復元された一里塚があります。これで水口にあった3つの一里塚を全て確認することができました。
 
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横田の渡し」に到着。野洲川は昔、この辺で横田川と呼ばれていたそうです。
 

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文政5年(1822年)に建設された大きな常夜燈が見事です。対岸からの目印に使われたそうです。

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「昔の横田橋」と「横田の渡し」についての説明文がありました。対岸は湖南市の三雲で、JR草津線が走っているはずですが草丈(くさたけ)が高いため確認できません。
 
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野洲川の下流方向をみると明治時代に架けられた横田橋(板橋)の橋台の跡のようです。遠方に見えるのは国道1号が通る現在の横田橋のアプローチ部です。
 

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台風12号が接近しているためか雨が強くなりましたので、この日の旧東海道巡りのドライブ旅はここで中断、日を改めて京都の三条大橋までのドライブ旅を続けることにしました。国道1号に出て、名神高速道路の栗東ICから宿泊地へ向かいます。
    

<同行者のコメント> わが家の運転手さんは過密スケジュールでいつも昼食が遅くなるのですが、この日はなぜか早い時間に蕎麦屋さんへ向かいました。よほど期待していた蕎麦屋さんだったのでしょうか。それとも、土山宿で腕時計の電池が切れたとつぶやいていましたから、時間が分らなくなったのかもしれません。いずれにしても、お蕎麦はとても美味しかったです。

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2011年10月 2日 (日)

旧東海道のドライブ旅 水口宿(上)

「間の宿」の大野村(現土山町大野)にある明治天皇聖蹟跡の石碑を過ぎ、写真に写る国道1号を左斜めに渡った先は「今宿」の集落です。
 
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今宿の石碑、大きな常夜灯と松が旧東海道の雰囲気を醸(かも)し出す大野西交差点(下の写真)で国道1号を左斜め方向へ横断して県道549号に入ると、同じ甲賀市の水口(みなくち)町今郷(いまごう)の標識がありました。その先にある甲賀市観光絵図を見ながら国道1号と県道549号の間の細い道へ入ります。
 
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少し行くと左手の浄土寺の駐車場前に復元された「今在家(いまざいけ)の一里塚跡」(現在の地名に合わせて今郷の一里塚とも呼ばれる江戸日本橋から112番目の一里塚)があります。その先は左にカーブして県道549号へ出ました。
 
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県道549号(旧国道1号)に一旦吸収された旧東海道は100m弱で右手にそれて行きます。
 
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右手の八坂神社前を通過すると再び県道549号に合流しますが、野洲川に架かる橋を過ぎた先でまた右手へ離れました。バス停の標識と並んで「岩神社 岩上不動尊 参道」の石柱が立っています。街道沿いで子供の成長を見守る神様だそうです。その場所を確認しようしましたが小さな祠(ほこら)のようで見過ごしてしまいました。
 
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街道は閑静な集落を抜けて行きます。
 
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標識に従ってY字路を右に進みます。
 
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松並木の石碑がありました。水口宿(みなくちじゅく)に程近(ほどちか)いこの辺から松並木の間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われると説明されています。滋賀県の観光情報によると、『古城山は大岡山(おおおかやま)とも称し、町域東北部に屹立する標高282.9mの美しい山です。周りの地形は浸食されて丘陵地化し、付近一帯の中で古城山のみが孤立して残ったため、この地形特色を生かして、戦国時代に築かれたのが水口岡山城で、古城山という名はこのことに由来しています。』と説明されています。
 
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秋葉北交差点を通過して国道307号(グリーンバイパス)と山川橋を渡ると水口宿の入口になります。渡った右側の小公園に「東海道五十三次水口宿・田町」の石柱が立っていました。
 
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短い坂道を上った場所に水口宿の江戸口とよばれる「東見附跡」があります。復元された冠木門(かぶきもん)が出迎えてくれます。
 
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ここからが東海道五十三次50番目の水口宿の入口です。
 
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本町交差点を直進
 
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水口宿は特徴的な「三筋の町」として発展した宿場で、近江の東海道五宿のうち大津に次ぐ規模だったそうです。写真は高札場跡のある三筋の辻の最初のY字路。
 
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この三筋の辻(Y字路)の左手前奥に明治天皇聖蹟碑が建っていて、そこに本陣があったようですが、うっかり見落としてしまい、その辺りを適当に撮影しました。後で調べるとカーブミラーの脇に立つ作坂町(つくりざかちょう)の石柱と綺麗な竹塀の奥に本陣跡があったようです。
 
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旧東海道はY字路の左手方向です。
 
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2つめのY字路は右手に進みます。
 
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御菓子処一味屋」の向かいの家の前に問屋場跡の標石がありました。
 
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本水口商店街お客様駐車場付近から街道筋を振り返りました。すぐ横の交差点角に「からくり時計」と「曳山の由来」を説明した石碑がありました。
 
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先ほど分かれた3つの道が合流する西側の三筋の辻にもう一つ「水口曳山のからくり時計」があります。
 
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近江鉄道本線石橋駅脇の狭い踏切を渡ったすぐ右手にある甲賀市水口市民センターは新しい地域コミュニティ「自治振興会」によるまちづくりの拠点で、観光客の休憩所も兼ねているそうです。
 
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水口宿で有名なかんぴょう(干瓢)と曳山(ひきやま)の説明です。
 
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曳山と言えば3年前に訪れた隣町の日野町で見掛けたことを思い出しました。
(続く)

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2011年10月 1日 (土)

旧東海道のドライブ旅 土山宿(下)

午前11時をちょっと回ったばかりの昼食にはまだ早い時間であり、国道1号の北側にある「垂水斎王頓宮址」(たるみさいおうとんぐうあと)に立ち寄ってから昼食にするかどうかを迷いますが、朝食が早かったことと売り切れ御免(ごめん)の「手打ちそば 玄鹿(げんろく)」店を予定しているため、歌声橋の袂(たもと)を経由して玄鹿の駐車場に車を停めました。店の前にある3台分のスペースが空いていましたので入り口に近い位置に停めました。近くに駐車場が2箇所あるようです。
 
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蕎麦好きが講じてご主人が民家を改造して蕎麦屋にしてしまったと聞いて、ぜひ立ち寄りたかったのです。お茶と蕎麦あられが出されました。
 
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麺は吟醸(ぎんじょう)と田舎(いなか)の2種類から選べました。前者は茨城県桜川市産常陸秋蕎麦(丸抜き・殻と甘皮を取ったもの)を石臼で製粉したもので、後者は滋賀県高島市産の日爪蕎麦(挽きぐるみ・全層粉))を石臼で製粉したものと説明を受けましたが、同行者と私は迷わず後者を選びました。私はとろろ蕎麦(900円)、同行者は好物の海老天蕎麦(1200円)を注文。
 
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程なく水蕎麦が配膳されました。
 
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私が注文したとろろ蕎麦には生山葵(わさび)・海苔・鶉(うずら)の玉子が付いて来ました。程良い味付けの蕎麦汁を付けて食べる田舎麺は美味しい食感があります。
 
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味見をさせてもらった海老の天麩羅もサクサク感があって美味しいのです。薬味は大根おろしが二種(辛味と青首)に白ネギと生山葵で好みによって調節できるようになっています。
 
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最後に蕎麦湯が出されました。アットホームな雰囲気と期待通りの美味しい蕎麦に二人とも大満足でした。車に戻り、旧東海道の案内板に従って野洲川(北東)方向へ引き返しました。
 
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振り返って撮影しました。ここから見えるカラー舗装された道も旧東海道です。
 
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前方に国道1号沿いのガソリンスタンドが見えます。
 
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その反対側に伊勢大路(別名阿須汲道)の石柱が立っています。伊勢大路とは古くから天皇の名代として未婚の皇女が伊勢神宮へ参宮された斎宮(いつきのみや)が通られた大路です。「阿須汲道」の意味は、調べましたが、確認できませんでした。
 
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国道1号を横断すると狭い農道のような道になりました。緩やかにS字カーブを描きながら野洲川方面へ向かっているようです。
 
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左手に「甲可日雲宮」(こうかひくものみや)の石柱がある神社が見えました。日本書紀の倭姫遷宮伝説(天照大神鎮座に最もふさわしい土地を探すよう命を受けた第11代垂仁天皇第4皇女の倭姫(やまとひめ)が大和国から近江と美濃の両国を巡って伊勢に至ったという)に関する記述にある場所ですが、甲賀市内には他にもこの名を名乗る神社が数カ所あるそうです。
 
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その南西に「垂水斎王頓宮址」がありました。昔、天皇が即位すると斎王(さいおう)に選ばれた皇女の群行(一行)が伊勢神宮まで代参しましたが、その一行の仮宿泊所である頓宮跡の一つです。
 
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平安時代初期から鎌倉時代の中期までの約380年間に31人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊されたと説明されていました。
 
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瀧樹神社(たきじんじゃ)は倭姫命が巡行された時に朝夕の調膳(食膳を整えること)のための殿舎が建立された場所なのだそうです。
 
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カラー舗装された旧東海道が続きます。
 
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垂水頓宮御殿跡は「垂水斎王頓宮」の殿舎跡であると説明されています。
 
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前野を過ぎた市場区自治会館の先に「市場の一里塚」跡があります。
 
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大日川堀割の大日川橋を渡った先の左手に「東海道反野畷」と書いた道標があり、その先は見事な松並木が続きます。一度枯れたものを復元した並木のようです。
 
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東海道の松並木が一直線に続いています。
 
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松並木が途切れる辺りに「従是東淀領」の石柱を見つけました。
 
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摂津・河内・近江などにも領地を持っていた山城国(現在の京都府)淀藩(約10万石)の飛び領地だったようです。(続く)

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