三木城が落城したあと、官兵衛には休暇のような時期があった。秀吉が姫路へ帰るようにさせたのである。体の回復がまだ十分でなかったことと、父の宗円入道と一人息子の松寿(しょうじゅ)に会いたいだろうと考え、官兵衛を治安が悪くなった西播州の代官にしたのである。官兵衛は敵方となって没落した妻の実家一族を救済して自分の家中に加える。
秀吉は毛利との対決のために下準備を進める一方、新しい占領地の播州と但馬(たじま)を固めつつあった。官兵衛は姫路城を返すという秀吉の申し出を辞退して、山間の盆地にある山崎の地の城を望んだ。秀吉が開始しようとしている因幡(いなば、鳥取県)の征服事業の兵站(へいたん)基地として絶好の土地であるためである。秀吉が官兵衛に与えた知行は一万石であった。
天正8年4月、織田しにとって事態がさらに好転した。足掛け11年という長い歳月にわたって信長に抵抗し続けてきた大阪石山本願寺が信長に降伏的な講和をして、大阪を明け渡して紀州へ退いたのである。信長も講和を望んで朝廷に調停の役を引き受けさせていた。官兵衛は織田に付いた宇喜多直家の岡山城を何度も訪れて、毛利方の諸将の能力や性格を聞き、毛利家が取ってきた作戦の癖や、常套(じょうとう)戦法について十分に聞く。
秀吉は天正9年6月25日に鳥取城を攻めるために姫路城を出発、軍勢は二万であった。秀吉は鳥取城を延べで8キロはあったであろう塁(るい)を築き、柵を植え、五丁ごとに小楼・十丁ごとに三層の楼を上げ、城へ通じる諸道も絶った。この大規模な包囲戦は三カ月続いて、城内は飢餓状態となったことで城将の吉川経家(きっかわつねいえ)が城兵の命に代わって切腹するという、秀吉が三木城攻めでやったことが踏襲(とうしゅう)された。
この間に信長から秀吉に四国へ兵を出せとにわかに命じてきた。秀吉は官兵衛に「名代(みょうだい)として行ってくれ」と言う。四国の情勢にうとい官兵衛は苦い顔になる。阿波(あわ)に本拠を持つ三好党の三好笑岩入道は織田勢力とかって対立したが、後に信長に属するようになっていた。その三好は土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に阿波の地を削り取られており、織田家の力で回復してほしいと泣きついて来たのである。
一方の元親とは明智光秀が取次役(外交の窓口)となっているため、複雑な関係である。元親が敵であると信長が言っているわけではない。官兵衛は先ず淡路島を占領することを提案して秀吉の許しを得た。播磨灘の制海権を考えたのである。淡路の平定はさほどの難なく進んだ。(中略)しかし、天正9年も押し詰まった頃、官兵衛の四国における事業は一時凍結せざるを得なくなった。秀吉から毛利氏との対決の準備に掛からなければならないので播州へ帰れと言ってきた。
織田勢の毛利攻めが明らかになった天正10年の正月20日過ぎに小早川隆景は備中における最前線の城主7人を備後の三原城に招いて結束の強化を図る。この席にあった主城とも言える備中高松城の城主清水宗治(むねはる)はもともと地侍で毛利氏の譜代(ふだい)ではない。秀吉が中国に向かって姫路城を出たのは天正10年3月15日である。その兵力は2万、官兵衛も同行している。秀吉は岡山城に入って2カ月前に死亡した宇喜多直家の嫡男秀家の後見人となる。宇喜多勢を引きつけておくためである。
官兵衛は無駄とは思いながらも清水宗治を調略しようとしたが、宗治は毛利家の恩を感じてこれを断る。天正10年4月14日の未明に秀吉の軍勢は岡山城下を出発して備中に向かって動いた。これに宇喜多氏の兵1万が加わる。秀吉は毛利方の予想を上回る速さで宮路山城と冠山城の二城を攻めた。宇喜多勢が冠山城を多くの犠牲を出しながら陥(おと)してしまったが、官兵衛が先鋒を務める秀吉軍は調略中の宮路山城を長期攻囲する態勢を取ると、官兵衛の予想通りに乃美兵部父子は城を置き捨てて去った。
次いで小城の加茂城を攻め、報奨(ほうしょう)に不満を持つ副将格を調略して宇喜多勢へ内応させたが、本丸からの攻撃で宇喜多勢とともに城外に逃げてしまう。さらに南方の日幡城は敵の侵入を許さない防御がなされていた。秀吉方からの働きかけに対して日幡城主上原元将は寝返りを決意、毛利氏の譜代でなないのだ。こうして日幡城も秀吉方のものとなった。備中高松城は低地にあるが、北方からは山地が押し寄せ、城の南には足守川が流れている地の利を利用している。
秀吉の陣所は高松城の東方に位置する石井山で、眼下に高松城(城兵五千)が見下ろせる場所である。北方には宇喜多勢、西方の高地には五千の部隊があり、高松城はこれらの秀吉軍によって三方から包囲されていた。秀吉と官兵衛は勝利を確実にするとともに自分たちの戦功が突出しないように信長の出馬を乞うことにする。しかし信長は甲斐武田家勢力圏の掃滅(そうめつ)に自ら総指揮を取っているため備中に来られる状況にない。そこで秀吉は高松城の水攻めを思いつく。深田の中にある高松城は城に近づく方法が大手門から伸びる狭い一筋の道路に限られるため攻めづらいのである。
秀吉は足守川の西北を閉ざして川の水を城の方へ流し込むと湖になるのではないかと考える。秀吉自身が縄張りを行った堰堤(えんてい)は梯形(ていけい)をしており、高さは4間・基部の幅は12間・頂上の幅は6間、長さはほぼ4キロにわたるものだが、これを12日間で完工した。美濃の墨俣(すのまた)と小田原・石垣山の一夜城と同じやり方で、目隠しの塀を同じ長さに掛け渡したようである。足守川の流れを変える工事は官兵衛が指揮した。水流の強さに負けない百俵の土俵(どひょう)を一気に放り込むために船を使う方法を家臣に考案させ、河口から古船を30艘近く買い上げさせた。これが上手くいったことで、第二期工事は工事の責任を持つ奉行たちの仕事となる。
水は上手く誘導されたが、たちまち人口湖を作り出すほどの水量ではない。しかし、秀吉の運の良さなのか、ほどなく大雨が降ったことで、高松城は水面に浮かんだ。後年、石田三成が武蔵国(埼玉県行田市)の忍城(おしじょう)を攻めた時にそのまま模倣している。秀吉は大鉄砲(大筒)を据えた大船を湖上に浮かべて、高松城に向かって打たせるとともに、城壁を破壊させた。南方にいる毛利軍は秀吉の警戒軍1万余に妨げられて手出しができない。毛利軍の総力3万余が南方に布陣したのは5月21日である。これで敵味方同数になってにらみ合いが始まった。秀吉は内応の工作をしながら、信長の援軍を待っている。
毛利方は秀吉との全面衝突を避けて、清水宗治に信長の味方をさせることを決める。宗治はこれに同意せず、三木城主と同じように切腹して城兵を救いたいと望んだ。そこで小早川隆景は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と毛利氏の領土の半分に当たる5カ国を割譲(かつじょう)することを相談する。甲州の始末を終えた信長勢10万が山陽道に来援するとの情報が入っていた。秀吉の陣に向かった恵瓊は初対面の官兵衛の高名を褒(ほ)め、「岡山のこと、これは拙僧の負けでござった」と言う。
これに対して官兵衛は「あのことは安土殿(信長)のお気に入らず、筑前殿(秀吉)はずいぶんお叱りを受けたように聞いております」と答えると、恵瓊は官兵衛の言葉で講和が困難であることを察した。そして講和条件を官兵衛に明かしたことで、秀吉にも伝わった。秀吉はこの難しい問題への対応に悩んだ上に信長を説得しようと思った。官兵衛は恵瓊に(使者が安土を往復する)15日ばかり待つように伝えた。恵瓊は高松城へ行きたいという。清水宗治の首を信長に差し出すしかないと考えたのである。そしてその考えを宗治に伝える。
さらに毛利氏の小早川隆景と吉川元春・元長父子にこれを報告した。反発する元春と黙って聞いている景隆。恵瓊は毛利氏の面目(めんもく)と同様に秀吉の面目を説く。山陽道の外交を総帥(そうすい)する景隆は元春の問いに答えて恵瓊の考えを採用することにし、毛利輝元にその旨を報告した。しかし輝元は元春と同様に宗治を切腹させることに反対した。恵瓊は秀吉に伝えた上で証人としての蜂須賀小六と官兵衛とともに宗治のもとに行く。宗治は翌日腹を切るとさわやかに言い切った。
ここで信じがたいことが起こった。信長・信忠父子が死んだのである。信長が京へ入ったのは各地から秀吉の応援に向かう諸勢の総指揮をとるためであった。秀吉の使者はまだ到着していない。信長の情報官のような仕事をしていたとみられる茶人の長谷川宗仁(そうじん)は日頃から親しかった秀吉(実際には身分を考えて官兵衛宛)に使いを出した。これを受け取った官兵衛は秀吉に宗仁の書状を渡す。内密の評定が行われ、毛利との和睦の準備が進められた。
明智光秀が毛利方に出した使者が秀吉の警戒網に引っ掛かって届かなかったことは光秀と毛利氏、そして宗治の不運であった。宗治は秀吉が用意した船上で腹を切った。秀吉と毛利氏の間で誓詞が交換されて講和の手続きが完了した。秀吉は光秀を討つために、世に言う「中国大返し」を行う。毛利の追撃はないと考える官兵衛は、念のため堰堤(えんてい)を20カ所以上も一時に切り放ち、毛利方が動けないようにした。
宗仁の使者に20時間遅れて毛利軍にも京の諜報者から本能寺の変報が入ったが後の祭りである。官兵衛は大返しの殿軍(しんがり)を務めたが、その様子は省略する。官兵衛は西宮付近で秀吉を出迎えた高山右近と再会する。秀吉は光秀との決戦の布陣を決めた。秀吉は先鋒を望んだ右近の望みを叶えた。
光秀は桂川を渡り御坊塚(ごぼうづか)に入った。天王山の麓(ふもと)に淀川左岸が形作る隘路(あいろ)を秀吉軍が出てくるところを撃とうと考えたのである。羽柴秀長を司令官とする官兵衛隊は天王山の北麓にいて、円明寺川を渡って突入してきた明智方の一隊に対して射撃戦を始めた。明智方の騎馬隊が突進してくるのをみて対戦を指示、明智隊の右翼を包み込んでゆこうとする動きをとる。光秀が秀吉軍の左翼が弱いと見抜き、主力の一部を右翼へ移したことで官兵衛隊は苦戦するが、秀吉は河原に人数を投下して右翼を強化、そしてこの一隊が明智軍の背後に出たことが明智軍を動揺させた。
秀吉軍の左翼も勢いを盛り返した。天王山の部隊が下りてきて合流したからである。官兵衛は円明寺川を渡った時に勝ったと思った。光秀は撤退を決意するが、脱走する兵が多い光秀軍は痩(や)せ細り、勝竜寺城へ戻った時には子飼いの者七百名が従ったにすぎない。光秀は夜になるのを待って近江坂本へ引くつもりであった。秀吉軍が城の北方を塞(ふさ)いでいないため、城内の兵は減り始め、百人余りになったことで、光秀の侍大将が光秀に脱出を勧めた。そして光秀は坂本城へ向かう。伏見村の北を過ぎた辺りで土民の落ち武者狩りに遭遇、侍大将に自らの首を打たせた。
☆
黒田官兵衛を通して戦国末期の土豪を描いた長い歴史小説もいよいよフィナーレです。天正10年に光秀を山城山崎で倒した秀吉は翌11年に織田家の筆頭家老である柴田勝家を北近江の戦いで破って北陸を手に入れたが、官兵衛は賎ヶ岳(しずがたけ)合戦と呼ばれるこの戦場で第二段目の陣をひき、勝因の一つを作る。翌12年には秀吉の代官として中国地方に行き、毛利氏と宇喜多氏の境界を決める仕事に従っていた。この年には秀吉が織田氏の領土を相続することが完了し、まだ関東・四国・九州が属していないとはいえ、日本の中央政権であることが確立した。官兵衛は播州12郡のうち宍粟郡(しそうぐん・現在は宍粟市)という山間の地(旧領地の山崎周辺)をもらったが、まだ旧主家の小寺氏ほどにもその領地(三万石程度)は大きくなく、大名とまではいえない状態にあった。
こののち秀吉は四国を平定し、九州に入ってこれを勘亭(かんてい)し、ついで関東の小田原城を攻めて征服した。官兵衛は常にこれに従ったが、もはや重大なことで秀吉の片腕になるということは無かった。秀吉とって官兵衛を必要とする段階は終わり、石田三成ら奉行(事務官)たちに移ったのである。九州攻めでこれを痛感した官兵衛は北九州の鎮撫(ちんぶ)を命じられ、各地の豪族に秀吉という人物がいかに頼られるべき存在かを家中の士を使って説いて回らせた。播州から山陽道にかけて用いた方法である。秀吉からこの地に領地をもらい、天運が巡ってくることを待つためである。天正15年7月に戦が終わると、秀吉は豊前の6つの郡(12万石)を官兵衛に与えた。ついに大名らしい大名になったのである。
しかし新領内の地侍などは秀吉に送り込まれた国主(官兵衛)などに従いたくなかったため、官兵衛は鎮撫に無理なことをしてしまうことも多かった。このためか官兵衛は天正17年に秀吉に拝謁して隠居を願い出た。まだ43歳という若さだ。秀吉はこれを認めないが、官兵衛は秀吉夫人である北ノ政所(まんどころ)に頼んだため、秀吉はやむなく折れた。嫡子の長政に家督を継がせることは認めるが、官兵衛には隠居させないという。髪をおろして如水入道(じょすいにゅうどう)と名乗るのは5年後である。官兵衛は播州時代の友人の遺児を引き取って長政とともによく養育した。二人は主従というよりの競争相手だった。後年の後藤又兵衛基次(もとつぐ)である。
秀吉が死んだ。彼の命(めい)によって渡海した外征軍十四万は置き去りにされたように韓の地にあり、豊臣政権は徳川家康以下の五大老、三中老、五奉行の合議制になった。その主な任務は在韓軍の撤兵であったが、野戦派と石田三成ら奉行派は激しく対立。前者に徳川家康が乗ったことが関ヶ原の戦いの原因になったが、野戦派と徳川家康の間を黒田長政が取り持ったことで、徳川政権樹立に長政の功績は大きかった。およそ策士とは言えない長政にこれをさせたのは秀吉の死後は帰国して豊前中津城に居た如水である。
家康と三成方が上方で格闘している間に、如水は第三勢力を九州で増強し、九州を斬りしたがえ、その兵をもって京に攻めのぼって大博打(ばくち)を打とうと考えていた。上方で三成が立つとと如水は全九州に触れて、平素貯めていた銭をもとに兵を募集すると約九千が集まった。秀吉に所領を没収されて毛利にあずけられていた大友義統(よしむね)を石田方が利用して豊後大畠に入らせていた。官兵衛はこれを味方にしようと誘うがきかないため、ついに軍を発して打ち破った。この戦勝で如水の軍は一万三千と九州最大の軍団になり、兵を発してからわずか十日で豊前と豊後を平定してします。
しかし如水の予想をくつがえす事態が起こった。関ヶ原で東西三十万近い軍勢が決戦して、わずか一日足らずで三成方は敗北したのである。100日は続くと思っていた如水は切り取った九州の半ばのすべてを家康に返上し、最初から家康のためにやったかのようにして、さっさと隠居の身に戻ってします。家康は如水の子の長政に酬(むく)いて、豊前中津十数万石から筑前五十二万石に引き上げた。如水の指示で藩都を博多のそばに設け、黒田家発祥の地である備前福岡の地名を記念し、福岡と名付けた。
その後、福岡城ができると、子の長政に頼み、城の西北の三ノ丸の一角に小さな家屋を作ってもらって住んだ。小高い場所から豊前や肥前の山並みを見、博多湾の海景を見ることができた。「古郷(ふるさと)に似ている」としきりに言ったという。慶長9年3月、如水、五十八、自らが予見した通り、20日辰の刻に永眠する。
「いまよりはなるにまかせて行末の春をかぞへよ人の心に」
これは如水が晩年親しんだ連歌師の昌琢(しょうたく)が永劫に春を数えられる人になられた、として通夜の席で詠んだものである。
☆
著者は本書のなかで、三木城の兵糧攻めと高松城の水攻めをハイライトとしながら、官兵衛の生い立ちから洗礼を受けてクリスチャンとなった人脈で世に出る経緯を著者らしい簡明な文体で述べています。そして旧来の中世武士とは異なり信長や秀吉と同様に重商主義的な考えを持っていたことを繰り返し指摘し、最後に官兵衛の秘めた野望にも触れて、読者に官兵衛と言う武士の魅力を余すところなく伝えたことから、私の心に残る秀作のひとつになりました。□
最近のコメント