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2011年10月14日 (金)

三木城址・竹中半兵衛の墓・秀吉の平井本陣跡を訪ねる

神戸JCTで中国自動車道から山陽自動車道にそれました。四国遍路のために鳴門海峡大橋へ向かった時と同じルートです。ただし、今回は三木JCTを岡山方面に進み、三木東ICを出て、最初の目的地の平井山へ向かいました。平井山は羽柴秀吉が三木城攻めで本陣を置いた場所です。

その時代背景を簡単に説明します。天下統一を目指す織田信長は、天正5年(1577)に、中国地方の戦国大名毛利輝元を打つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させました。播磨の守護代である小寺氏や別所氏など有力武将は、秀吉率いる織田軍に加勢することを約しました。毛利氏の庇護にあった前将軍義昭は、諸将に織田軍に叛き毛利氏に加勢するよう働きかけていたため、別所長治を中心に播磨の武将は織田方に反旗を翻し、天正6年に始まった三木合戦へと発展して行きました。

羽柴秀吉が行った三木城攻めは、「三木の干し殺し」と呼ばれたように凄惨を極め、二年間亘る籠城の末、城主別所小三郎長治は兵士や領民の命と引き換えに一族とともに自刃したという歴史があります。それを三木方の兵士の子孫である司馬遼太郎氏が詳細に書いた「播磨灘物語」(講談社刊)を最近読んで、ぜひ訪れて見たくなったのです。この記事に続いてこの長編歴史小説について書きたいと思います。そして、この地は私が興味を持つ竹中半兵衛に縁の地でもあります。

県道38号で三木市の市街地方面に向かうルートでも良いのですが、県道85号を北上するルートを選びました。県道20号に行き当る豊地交差点を左折、山陽自動車道の手前で再び左折、県道513号を走ると目印の平井山観光ぶどう園前を通過します。すぐ先の左手に平井公民館を見つけ、その駐車場に車を停めました。ここが指定された駐車場です。
 
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まず竹中半兵衛の墓へ向かいます。半兵衛の墓は岐阜県不破郡垂井町の禅幢寺(ぜんどうじ)にありましたが、立ち寄った時に平井山にもあることを知りました。

三木城攻防戦がたけなわの頃、以前から胸を病んでいた竹中半兵衛は秀吉の勧めで京都に移って療養しますが、はかばかしく進展しない戦況を案じて戦場へ戻り、三木城攻防戦の最中に平井山の陣中で病死しました。36歳でした。

平井公民館からなだらかに上る道を歩くと前方にぶどう園が見えてきます。
 
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その手前、右手に入る道の角にある標識に従って進み、さらに左に折れると、ぶどう畑の中に白い練り塀に囲まれて場所が見えます。
 
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ここが半兵衛の墓です。垂井町の墓より敷地は広いのですが、何れも派手さはありません。半年前からの望みが叶(かな)いましたので、次の目的地である「平井本陣跡」へ向かいます。
 
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羽柴秀吉は三木城の鬼門方向にある平井山に本陣を置きました。兵糧攻めという長期戦で三木盆地を囲む周りの山々に武将の陣を置き、自らはそれが見渡せる平井に本陣を設けたのです。天正6年10月15日に秀吉は初茶会もここで催しています。

案内標識に従い、ぶどう園の受付の手前を左手に折れて神社の前を通過、右手の鳥居を潜ります。
 
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急な上り坂を上った場所にある溜池の脇を通過します。
 
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ここから先は石段の急坂になりました。
 
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登りきると舗装された広い道に出ました。ここも標識に従って鋭角に右折すると、左手に入る石段が見えました。本陣跡はもう直ぐです。
 
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胸突き八丁の石段を登りきると小さな広場に出ました。20m四方ほどのスペースの奥に説明板が立っているだけでした。「三木合戦羽柴秀 平井本陣跡」と表示されたこの説明板には三木攻めの経緯が簡単に説明されています。
 
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木の間から三木市の市街地がわずかに見えます。本陣があった時は木が切り倒されていたでしょうから、視界は良かったのでしょう。ぶどう園に直接下りられないかと少し先まで行ってみましたが、平井山の反対側に向かうようなので、もと来た道を引き返しました。
 
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車に戻って県道513号を三木市街地へ向かいます。宿原西交差点で県道38号に行き当り右折すると、広い道になって市街地に入って行きます。上の丸交差点がありますから三木城が近そうです。

標識を探しながらゆっくり走ると信号のない交差点に三木城址の案内標識を見つけて左折しました。右手方向の雲龍禅寺に三木城主別所長治(ながはる)の首塚があると説明する案内板のあるY字路を左に進むと、道は段々急坂になります。昔から日本刀・スキ・クワなどの鍛冶(かじ)で栄えた三木市らしい金物資料館のすぐ先を左手に入って急坂を上ると上の丸公園脇に出ました。隣は上の丸保育所です。
 
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上の丸公園に残っている城塀に囲まれた本丸跡です。上の丸とは本丸のことです。ちなみに、二の丸は図書館の辺りにあったようです。「三木合戦」の絵解き説明版(写真中央)には絵が28枚掲げられて、合戦の経緯が絵で解説されています。
 
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正面に再現された狭間(さま・鉄砲や矢を撃つための穴)付きの土塀(模擬城壁)越しに下を見ると、外堀の役割になった美美嚢川(みのうがわ)・神戸電鉄粟生線の鉄橋・市民病院・三樹(さんじゅ)小学校などがよく展望できます。写真では確認できませんが、遠方の山並みを山陽自動車道が左右に走っています。
 
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左手の木立、天守跡には城主長治公辞世の歌碑がありました。「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」と記されています。意味を解説する必要なないでしょう。
 
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その先に長治公のまだ真新しく見える石像がありました。
 
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県道20号を北上しました。三木東ICに入って往路と同じコースで帰るのも詰まりませんので、東播州の地を県道20号でドライブすることにしました。山陽自動車道を潜ると県道は北東に向きを変えて三木市の端へと伸びています。吉川(よかわ)ICから中国自動車道に入ったところで、まだ昼食を食べていないことに気づき、4kmほど先で神戸市に入った赤松PAで昼食のための休憩(きゅうけい)を急遽(きゅうきょ)取ることに・・。

私は「豚の角煮ラーメン」が気になりましたが名前に惹かれた「海と丘のリッチ丼」(680円)を、同行者は迷った挙句いつものように「天ざるそば」(800円)を注文しました。前者は名前通りに自家製の豚の角煮・淡路産の蛸(たこ)・ゆで玉子(地元吉川産)・カイワレという具材の奇妙な取合せが淡路産のちりめんじゃこなどが入ったご飯にトッピングされています。豚の角煮は濃い目の味付けが美味しいので、「赤松行けx2速丼」か「三田ポーク丼」が良かったかも知れません。
 
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同行者の天ざるそばは平凡。
 
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『赤松角煮バーガーにすれば良かったわ』と愚痴(ぐち)めいたことを言います。

<同行者のコメント> 平井山に登った旦那様は蜘蛛の巣まみれで戻って来ました。「新しい帽子が台無し」と言うと、帽子が役に立ったと気にも留めません。その後も城址行きで、この日は昼食抜きかと心配しました。そして、突然入った赤松PAの軽食コーナーではメニュー選びに失敗。でも 味見させてもらった豚は美味しかったです。

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コメント

たまたま半兵衛さんの記事をみかけたので投稿します。
当方は半兵衛さんの里に住む高木と云います。
半兵衛さんのお墓は平井地区のお隣の安福田(あぶた)地区にもあります。栄運寺と云うお寺が有り(半兵衛さんの位牌有り、また住職さんが在宅であればお話が聞けます)、右手の山を登っていくとお墓が有ります。ここは個人の山でお墓が壊れていましたが...。このお墓が半兵衛さんを埋葬したお墓かもしれません。
今 大河ドラマ”黒田官兵衛”放送されていますが30日に放送後半兵衛さん関連の放映があります。

投稿: 高木篤雄 | 2014年3月26日 (水) 09時39分

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