播磨灘物語を読む(上巻)
竹中半兵衛が大好きな私はその無二の同僚であった黒田官兵衛にも関心があります。その官兵衛(かんべえ)を主人公とする司馬遼太郎氏の長編時代小説「播磨灘物語」(講談社刊・上中下3冊)を短編化して紹介します。かなり凝縮しましたが、それでもまだ長文であるため、興味のある部分だけでもお読みください。上巻は官兵衛の生い立ちと秀吉の播州出兵までの官兵衛の行動、中巻は秀吉による三木城攻めの顛末てんまつ)と官兵衛が果たした役割、下巻は秀吉の毛利攻め(備中高松城の水攻め)・光秀との山崎の合戦・関ヶ原の合戦など官兵衛の晩年を描いています。
上巻では黒田家の出自(ルーツ)から始める。近江の北の黒田村(現在の長浜市木之本町黒田)の出身であったが、曽祖父の高政が都合あって黒田村を逃げ出し各地を流浪したのち、備前国福岡村(現在の瀬戸内市長船町福岡)に移り住む。その子重隆は30代の半ばで備前福岡を立ち退くことにして、先ず東の播州(ばんしゅう)を目指し、当時は草深かった姫路と呼ばれる辺りに住み着いた。宿泊した大百姓の竹森家の家主新右衛門が重隆とその家族の知的な態度と京の武士言葉に惹かれて入門を願い出た。そして広峰山の神社に登ることを勧める。
これが黒田家にとって幸運であった。新右衛門の口添えがあったことで御師(神主に仕える布教者)も重隆を高く評価し、播州や隣国に配る神符に添えるための家伝の薬を訊(たず)ねた。重隆が家伝の薬として提案した目薬を御師は喜び広峰の神主(大別当とも呼ばれた武士)にお目見得出来るように計らう。そして重隆は目薬を作ることになり、そこから得た財力により黒田家は播州でひとかどの勢力を築くことになる。
新右衛門が自分の財産を使うことを申し出たこともあって低利の金貸し業も始め、数年後には家臣の人数は200人にもなった。そして三十代の後半と言う若さであった重隆は自分より聡明な子の兵庫助職隆(ひょうごのすけもとたか)に家督を譲り、播州御着(ごちゃく)の小大名であった小寺氏に仕える手配りを行う。小寺氏当主の藤兵衛はこれを喜び、わずか1年後には兵庫助を小寺氏の一番家老にする。
重隆は兵庫助に知恵をさずけて、新参者の兵庫助が小寺氏家中での存在を高めるために、揖保川沿いの土地を侵略して新興勢力になった香山氏を攻めることを藤兵衛に進言する。重隆は慎重に準備した奇襲作戦で香山氏を討つことに成功。これにより藤兵衛は兵庫助に香山庄を与え、空き城同然の砦であった姫路城に入らせた。黒田家の価値観を理解するための長い前置きの後、やっと兵庫助の長子である官兵衛が登場する。
☆
家老の家に生まれながら和歌に興味を示し、父と同様に土地の百姓の受けが良かった。父兵庫助は藤兵衛から小寺姓を名乗ることを許された。官兵衛(幼名萬吉)は留守勝ちの父に代わって姫路村の圓満(えんまん)という老僧から教育を受ける。萬吉の武士としての将来を案じた圓満は漢帝国高祖劉邦(りゅうほう)の謀臣(計略に巧みな家来)であった張良(ちょうりょう)の話を聞かせ、あらゆる才能の持ち主に乗ってそれを采配(さいはい)する器(うつわ)を持っていた張良は無欲・無私であったという。
14歳で元服した官兵衛は16歳で藤兵衛の近習(きんじゅう)になると、老臣から足軽まで多くの人から経験談を聞き、広峰の御坊の供(とも)に化けて播州一円を歩き回って地理や他の大名や豪族など播磨人についての感覚を豊かにした。自分以上の男だと思った兵庫助は40代半ばになる前に22歳の官兵衛に家督を譲って隠居してしまう。その直前に藤兵衛は自分の姪(めい)を一番家老となった官兵衛と妻(めあわ)せた。
ここで著者は時間を戻して官兵衛が部屋住み(家督相続前)の頃にキリシタンのことを耳にして京へ上った経験談を語る。奥州馬を買い求めに上京した尾張衆(信長の家来)に官兵衛は興味を持ったことと、主目的の南蛮寺(キリスト教会)に何度となく通ったことである。そこで近江国甲賀の和田惟治(これまさ)を紹介される。将軍義輝側近の武士である惟政は官兵衛を将軍に拝謁(はいえつ)させるが、その2カ月後に義輝は大和国の松永秀久に殺されてしまう。
再び上京した官兵衛はキリシタンの洗礼を受けて播州へ帰る。それまでは生意気だが分別人と見られていた官兵衛であったが主家を数カ月も留守にしたことで評判が悪くなった。それでも惟政からの手紙を受け取った官兵衛は再び藤兵衛に上方行きを願い出る。足利義秋(よしあき)に征夷大将軍の職を継(つ)がせるために官兵衛の知恵を借りたいと言うのである。父の宗円入道(兵庫助)は諌(いさ)めるが官兵衛は納得しないため、藤兵衛を説得して上方行きが許された。
上京した官兵衛は近江国矢島に逃れた義秋(のち義昭)のもとへ銭百貫文を献上する。惟政はこれを喜び、同じ幕臣の細川藤孝(忠興の父)を紹介する。興味を持った藤孝が唐突に官兵衛の考えを尋ねたため、官兵衛は思わず「織田殿がよろしかろう」と言ってしまう。その理由を問われて「門地門閥、生国によらず人材を登用し、新時代を拓(ひら)こうとしている」と答えた。そして毛利氏についても天下に野望がないことを論じた。しかし藤孝は少しも意見らしいことを言わない。
その後、播州は安穏な地域であった。一方、足利義秋は若狭から越前へ移って朝倉氏を頼るが朝倉義景は腰を上げない。そこで細川藤孝は公方(くぼう)となった義昭に織田信長の名を出す。藤孝が京や越前で面識のあった織田家の明智光秀を通じて義昭の案内書を信長に送ると、京に攻めのぼる口実を得た信長は大いに喜ぶ。信長が京へ向かう経路の近江に居るのは義弟(妻が信長の妹)の浅井長政と近江源氏の六角氏だけ。六角氏は抵抗したが容易に攻略されてしまう。
美濃から近江の三井寺(みいでら)に入った義昭は諸国へ陣触(じんぶれ)をうながす御教書(みきょうしょ)を書き送った。その一つが播州一の勢力である三木城城主別所氏へも送られたが、別所氏は奇妙といっても良いほどに反応を示す。官兵衛が仕える御着城城主小寺氏には届かないことに官兵衛は悔しがった。三木城家老の別所孫右衛門は兵300を率いて既に松永久秀が信長に降参した京に上り、洛中洛外を駆け回って義昭の呼びかけに応えた。別所氏は織田氏と同格の気分になってしまい、それがやがて別所氏を没落させるのである。
信長がわずか52日間で畿内を平定したことは魔術的な成功であったが、「信長を倒せば天下をとれる」という明確な目標を各地方の勢力へ与えることになった。信長が岐阜に帰ると阿波の三好党が京に乱入、信長は再び上洛してこれを討つことが起こった。摂津石山の本願寺(現在の大阪城辺り)は信長の移転命令を承知せずに信長と戦おうとし、北陸の朝倉勢とすでに断行していたはずの北近江の浅井氏が織田方の坂本城を襲った。信長と石山本願寺の確執の影響が本願寺門徒の多い播州にも及ぶ。これを見た将軍義昭は諸国の大名に信長を滅ぼすように手紙を書き始めた。
信長は義昭に頼み込んで浅井・朝倉連合と和睦するなど自在な戦略でこの危機を乗り切る。そして信長はこの連合に協力した叡山に手を切るように言うが叡山側は聞き入れない。そして丸1年後に信長は言葉通りに叡山を焼き払う。信玄の上洛に備えていた信長は、信玄が陣中で病死したため、公然と反旗を掲げた義昭を京に攻めて一度許すが、再度御教書を発した義昭を追放。義昭はその後転々とし、ついに毛利氏を頼る。
播州は相変わらずの状態で別所氏と連合した赤松氏が小寺領を圧迫したことで官兵衛は小寺勢の総指揮をとって撃退した。信長は近江の浅井氏を滅ぼし、伊勢長島の一向一揆を鎮圧し、信長と徳川の連合軍が長篠(ながしの)で武田勝頼に圧勝したことで、播州人に織田氏を見直す空気が出てくる。小寺氏の御着(ごちゃく)城内の評定で藤兵衛は官兵衛の意見を入れて(うわべだけでもが本心)織田方に付くことを決めたことで、一番家老の官兵衛は公式の使者として岐阜へ行くことになる。
途中、信長の配下で摂津を支配する荒木村重の伊丹の有岡城に立ち寄った時に出迎えた同じキリシタンの高山右近と会う。そして荒木村重が信長との取次役を申し出てくれたことで、信長の祐筆(ゆうひつ)を務める武井夕庵の屋敷を訪ね、岐阜城で信長に拝謁する。そして信長の播州入りを承知させ、「藤吉郎と相談するように」との言葉を得た。官兵衛は長浜城に居る藤吉郎(以降秀吉と呼ぶ)を訪ねて、その無邪気さと率直さに惹かれるとともに、織田氏と毛利氏の長い外交関係の存在を教えられる。
信長の上京に合わせて小寺藤兵衛が信長に拝謁(はいえつ)するとよいとの便りが秀吉から官兵衛に会った。官兵衛は渋る藤兵衛を説得し、別所氏と赤松氏を歴訪して三氏が揃(そろ)って信長に拝謁することを実現させた。翌年になると別所氏は毛利氏の遠征軍五千の支援を得て官兵衛の姫路城を奪取しようとした。兵力に劣る小寺方は毛利方の威嚇(いかく)であると見切った官兵衛の考えに従い、農民を集めて偽兵を作る虚仮威(こけおど)し策と正規軍の奇襲によって毛利勢を撃退する。
外交を得意とする毛利氏は三木城の別所氏に働きかけたことで当主長治(ながはる)は動揺する。赤松氏もまた動揺した。小寺氏が孤立して主人が心変わりすることを恐れた官兵衛は長浜へ向かい、不在であった秀吉に代わって城代に播州に兵を入れていただきたいと説いた。織田家の情勢はさらに悪化していた。越後の上杉謙信が本願寺と和解して信長と断交、大阪の本願寺勢力によって織田軍は壊滅的な打撃を受け、これを支援する毛利方の水軍に織田方の水軍が大敗する。松永久秀も再び信長を裏切る。
しかし上杉氏は北条氏が関東の上杉領に兵を入れたため動けないため、信長は北陸から兵を帰還させて久秀を討った。この状況下で、「人質を安土に出したほうが良いのではないか」との手紙が秀吉から官兵衛に来た。毛利家へも色気を残す藤兵衛は決断しないため、官兵衛は主君に代わって一人しかいない自分の嫡子(ちゃくし)を差し出すことにする。嫡子を連れて安土城に上った官兵衛に信長は播州に秀吉を派遣することを約束する。播州の他家の人質を集める必要があった。
そして秀吉はわずか四千人の手勢を率いて播州へ入るが、軍勢の少なさに播州人は失望し、加えて秀吉の尊大な態度が反発を招いた。織田家に賭けた官兵衛は自らの姫路城を秀吉軍に差し出す。藤兵衛は自分が蔑(ないがし)ろにされたようで不満であり、羽柴秀吉へ挨拶に出向こうとしない。
この時、官兵衛は秀吉の謀将(計略に優れた将)竹中半兵衛重治(しげはる)と親交を深める。著者はここで半兵衛について詳述しているが、当ブログの関連記事で説明しているので、その説明は省略する。
秀吉の姫路入りによって播州の諸豪族は一時的な現象として織田氏に属したようであるが、公然とこれに反した城が二つあった。現在の兵庫県佐用郡佐用町にあった上月(こうづき)城と佐用(さよう)城である。いずれも備前国の宇喜多方に属していた。秀吉は官兵衛と半兵衛を使って2つの城を落す。(中巻へ続く)
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