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2011年11月に作成された記事

2011年11月30日 (水)

蒲田駅から矢口渡駅まで(後編) 六郷用水跡

先ほどの踏切まで戻って北へと渡ります。
 
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多摩川線の線路はほぼ一直線に伸びています。こちらは蒲田駅方面。
 
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住宅地の中を多摩川線に沿って歩きます。
 
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東矢口三丁目公園の脇に出ました。多摩川線の北側は蒲田エリア(西蒲田と新蒲田)ではなく矢口(やぐち)エリアで、管轄する警察署も池上署に変わりました。
 
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変則的な交差点に出ました。
 
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多摩川線の電車が通過して行きます。
 
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交差点の反対側で「六郷用水物語」の案内看板を見掛けました。地図の南北が逆になっていますが、この場所で六郷用水の「南堀」が二手に分かれていた様子が画かれています。
 
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複雑に分岐した南堀は六郷水門で多摩川へ放流されていたようです。もう少し上流の下丸子辺りにあった分水点「南北引分」で分かれた「北堀」は池上本門寺の近くを通過して東京湾に注いでいたことが分かります。過日、池上本門寺を訪れた時にその案内標識を見かけています。二ヶ領用水矢川緑道の記事でも簡単に紹介しています。

お環八通りの狭い歩道を歩きます。
 
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横断歩道橋から多摩川線と環八通りが立体交差する様子がよく見て取れます。
 
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反対方向には環八通りから多摩川線脇へ入る道が見えます。
 
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二段構成になった長い駐輪施設が手前の踏切から矢口駅まで続きます。
 
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矢口渡駅に到着しました。東急の古い駅らしく上りと下りの駅(改札口)が別になっています。蒲田駅から電車なら約1.3kmの距離ですが、かなり遠回りをしましたから、およそ3.5km歩いたようです。
 
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踏切を渡って多摩川駅方面の改札口から電車に乗ろうとすると、「六郷用水物語」の標柱が左手を指しています。(青字で大きく「←150m 六郷用水物語」と表示)
 
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下部には赤字で「南堀みち」とありますから、環八通りを横断して荏原(えばら)高校通り商店街に入ってみました。
 
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下校する高校生たちとすれ違っていると日体荏原高校に差し掛かっていました。ここはもう池上8丁目です。
 
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とっくに150m以上は歩いたはずですが、六郷用水に関係がありそうなものは見つけられません。そこで近くの八百屋さんのご主人と思しき年配の方にお尋ねしました。「池上本門寺や環八を渡った先に何かあったと思うが、この辺には・・」とのこと。

探索を諦(あきら)めて駅へ戻る途中の交差点で気になる印を路上に見つけました。
 
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歩道にある標識には小さな文字で「南堀のみち」と表示されています。駅から150mにあるのはこの交差点のことだったようです。
 
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矢口渡駅まで戻って先ほどの標柱の裏側を覗(のぞ)いて案内図を見つけました。
 
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時間があれば番外編として約1km先の多摩川にある「矢口の渡し」へも足を伸ばすことを考えていましたが、予定外の回り道をしたため、今回は断念することにしました。

余談ですが、この渡しについて下調べした情報を紹介します。「矢口の渡し」は古い東海道が多摩川を渡る場所に置かれた渡し場でしたが、江戸期に入ると東海道は海寄りへ移動したため渡し場も「六郷の渡し」へと変わりました。「矢口の渡し」跡とされる場所は現在の東八幡神社近くで、河川敷に説明看板があるだけのようです。

ちなみに室町時代初頭に新田義貞(にったよしさだ)の次男である義興(よしおき)が鎌倉方(室町幕府の出先機関)の手先によりこの渡し場で殺されましたが、その祟(たたり)があったため、義興の霊を祀った場所が新田神社となったそうです。新田の名は東急多摩川線の駅名「武蔵新田」として現在も残っています。

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2011年11月29日 (火)

蒲田駅から矢口渡駅まで(前編) 蒲田電車区周辺

所用で出掛けた大田区の蒲田駅から「ひと駅散歩」をすることを思い立ちました。蒲田にはJR東海道本線と京浜東北線・京浜急行・東急電鉄池上線と多摩川線の各路線が乗り入れています。これまでに「池上線(池上本門寺と蒲田温泉)」「西蒲田」「日本工科大学蒲田キャンパス」「ゆーシティ蒲田」の記事で蒲田を訪れた様子を紹介、その地名の由来も「東京の地名と由来」で説明しています。

蒲田駅の次の駅はJR東海道本線(京浜東北線)が大森駅と川崎駅、京浜急行が大森町駅と雑色駅、池上線は蓮沼駅、多摩川線は矢口渡駅で迷います。大森駅と雑色駅は国道15号(旧東海道)に沿って「大森ふるさとの浜辺公園と六郷温泉」でドライブしていますし、川崎駅は多摩川を超えなければいけませんから、消去法で「矢口渡駅」(やぐちのわたしえき)を選びました。その名前にも惹(ひ)かれるものがあります。

多摩川線沿いに歩くだけでは詰まりませんから、京浜東北線と多摩川線に挟まれた蒲田駅の南西エリアを適当に歩くことにして、東急蒲田駅から京浜東北線に沿って南へ向かいました。同居者のアッシー君として訪れることがある手芸用品·生地·ホビー材料専門店の「ユザワヤ」(5・6号店)とその向かいにある「びすとろ家」(蒲田店)の間を路地が一直線に伸びています。前方に見える高架は環八通り(都道311号)です。
 
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環八通りを過ぎると右手に大きな建物が現れました。富士通ソリューションスクエアは同社のソフト・サービスビジネスの戦略拠点だそうです。
 
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JR東日本蒲田電車区にある留置線(旧車両基地)への引き込み線を渡ります。前方に見えるのは都立蒲田高等学校です。
 
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京浜東北線の金網フェンスと町工場の間をさらに細くなった路地が続きます。
 
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急に道幅が広くなって視界が広がりました。「ラヴィ」のフィットネスクラブとドライビングスクールです。
 
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京浜東北線の反対側に不思議な形をした建物を見つけました。童話に出てきそうなドーム型をした建物がビルから張り出しています。屋上にSANKOと表示されていますから調べてみると、三幸機械はパン・菓子用オーブン(業務用)を製造販売する会社でした。これは想像ですが本社にあるというショールームかも知れません。航空写真で確認すると奥に小さなドームがもう一つありました。
 
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廃タイヤがいっぱい使われた公園の脇に出ました。京浜東北線を利用する時に何度も見て、一度は立ち寄りたいと思っていた西六郷公園です。中央のゴジラは迫力がありました。右手にはやや小さいゴリラも・・。
 
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公園の角から先は道が極端に狭くなります。どこまで続くか分かりませんので公園に沿って右折しました。
 
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前方に高層マンションが見えます。東京都住宅供給公社の多摩川近い「トミンタワー26号棟」でした。
 
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ある板金会社の敷地内に電車の車輪が置かれています。私有地に立ち入るのははばかられますので写真撮影だけにしました。蒲田電車区と何か関係があるのかも知れません。
 
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このまま進むと多摩川に出てしまいますので、適当な交差点を右折すると、ライオンズステージ蒲田アクロスフォート脇を通過します。
 
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予測した通りに蒲田電車区の南西角に出ました。車体の青いベルトがシンボルである京浜東北線の電車がたくさん並んでいます。日中ですから待機中なのでしょうか?
 
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蒲田電車区の脇を通過すると商店が増えて来ました。
 
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環八通りの新蒲田一丁目交差点に出ました。案内標識には二丁目と表示されています。どちらが正しいのでしょうか。
 
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横断しながら東方向を望むと、先ほど下を通過したブルーの高架橋が見えます。
 
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前方に多摩川線の踏切が見えて来ました。
 
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少し蒲田駅方向へ戻って見ました。多摩川線と池上線が近付く場所の近くにある西蒲田公園では月曜日の昼過ぎなのに子供たちが遊んでいます。
 
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公園のすぐ横を多摩川線の電車が通過して行きます。  
 
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(続く)

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2011年11月24日 (木)

「ビジョナリーカンパニー3 衰退の五段階」を読む

日本の大手家電メーカーのPSC社とSNY社が相次いで巨額の赤字決算(見込み)を発表したことは、世界に冠たる超優良企業も盤石ではないことを思い知らされました。両社はともに経済危機で受けた大きな痛手から経営改革によって立ち直ったと思われた矢先であったことが私には大きなショックとなったのです。両社とも薄型テレビ事業の収益悪化と、それに伴う事業縮小のために巨額な費用を見込むための赤字計上でした。
 

この他にもゲーム専業のNTD社もやはり苦境に陥っています。同社は1980年代前半に家庭用ゲーム機を発売して一躍ゲーム業界トップの地位を確立しますが、1990年代に入るとSNY社に首位の座を奪われました。そして2000年頃には戦略を見直した(小型ゲーム機に注力)ことでトップに返り咲きましたが、2000年代後半から再び勢いが弱まり、今年2月に満を持して発売した3Dゲーム機が低迷したことで売上が大幅に減少して赤字を予想しています。
 

いずれの会社も海外でのビジネスが大きいため円高の影響を受けているのでしょうが、苦境に陥った理由はそれだけでなさそうです。そこで、以前読んだジェームス・C・コリンズ著「ビジョナリーカンパニー 時代を越える生存の原則」と「ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則」の続編である「ビジョナリーカンパニー3衰退の五段階」(2010年7月26日日経BP社刊)を読んでみました。その原題はHow The Mighty Fall(強者はいかにして没落するかの意)です。
 

ここで言う「ビジョナリーカンパニー」とはビジョン(将来の構想)を持っており、業界で卓越した結果を残し、見識ある経営者に広く尊敬されている企業のことです。
 

本題に入る前にこれまで読んだ最初の2冊の概要を紹介しましょう。1冊目は時代を越えて際立った存在であるとして主要企業のCEOたちに選ばれた18社の歴史に関する調査(ライバル企業との比較を含む)で、企業の活力を生み出す社員がお金では計れない動機付け(基本理念)に左右されるという真理を明らかにしています。
 

2冊目は優れた経営者に率いられた超一流企業に勝る目覚しい業績を上げて飛躍した11社を競合企業との比較分析によって、「飛躍を導いた経営者は、地味で謙虚な人物だが不屈の意思を備えている経営者である。最初に優秀な人材を選び、その後に経営目標を定める。劇的な転換にみえる改革を、社内に規律を重視した文化を築きながら、じっくりと時間をかけて実行する」ことを導き出しています。
 

                         ☆
 

今回読んだ3冊目の冒頭で著者は妻の病気に例えて、「組織の衰退は段階的な病のようなもので、初期の段階には発見するのが難しいが、治療するのはやさしい。後期の段階にはその逆である」と考えるようになったと明かす。危機の瀬戸際にあって気付かない危機の事例をアメリカ企業の経営史から詳しく解説した。
 

先ず100年余り前にサンフランシスコで大地震が発生した時の積極的な対応で急成長を遂げたバンク・オブ・アメリカ(1998年にネーションズバンクと合併したがその名前を存続)は1970年代後半に業界第1位の地位を盤石なものとしたが、1980年に若くて積極的な人物をCEOに選んだことで暗転することになる。積極的な戦略と時代遅れになった伝統を打ち破り、支店を閉鎖し、終身雇用制を廃止して奨励給を増やした。それにも拘わらず1985年以降には巨額の損失を計上することになる。著者はこのCEOが就任する以前にすでに転落し始めていたのであり、革命を起こす熱意をもった経営者がいたにもかかわらず転落を食い止められなかったと擁護する。
 

著者はこれまでの調査対象企業60社から興隆と没落の基準にあてはまる時期がある11社を選び出し、衰退が明らかになる時点までに何が起こったのか、衰退し始めた時にどのような行動を取ったのかを分析して、衰退の枠組みを構成する5段階を導き出した。第1段階「成功から生まれる傲慢(ごうまん)」、第2段階「規律なき拡大路線」、第3段階「リスクと問題の否認」、第4段階「一発逆転の追求」、第5段階「屈服と凡庸(ぼんよう)な企業への転落か消滅」である。
 

衰退企業は、段階を飛び越える場合もあるが、これら5つの段階を順に経過する可能性が高く、これらの段階を急速に進む企業があれば何十年もかけて衰退していく企業もあるという。そして偉大な企業でもつまずき続けて第5段階に入ってしまうともはや回復できないが、かなり悪い状態になっていても第4段階であれば反転して回復する場合があると衰退中の企業に希望を持たせる。
 

次いで著者は、第四段階での失敗例(企業名と当時のCEO)としてバンク・オブ・アメリカのサミュエル・アーマコスト、モトローラのエド・サンダー、ヒューレットパッカード(HP)のカーリー・フィオリーナを挙げ、成功例にはテキサス・インスツルメント(TI)のジェリー・ジャンキンスとトム・エバンス、IBMのルイス・ガースナー、ゼロックスのアン・マルケイヒーを列挙する。失敗した3例はいずれも過大な成長を追求した社外出身の派手な指導者たちであり、成功例はIBMを除けばいずれも社内からの人選で、企業文化をくつがえす革命的な変革の担い手ではなく、目立った特徴はないが、組織的で一貫した方法を採用したと分析する。(注釈;日本で知名度が高くない失敗企業は省略)
 

そのポイントは、回復のための「特効薬」を安易に求めない、救世主のようなカリスマ的指導者を求めない、冷静かつ慎重に規律ある行動をとる、抜本的な変化と「革命」を喧伝(けんでん)して従業員の力を結集する動機付けとしない、組織の存在理由を再確認する、リストラの繰り返しによる財務力の低下で選択肢を狭めない、であるという。
 

                         ☆
 

5段階の各々について事例を引用しながら詳しく説明したあと、著者は「充分に根拠のある希望」と題した最終章でゼロックスのケースを詳しく解説した。2001年に巨額の損失を計上して株価が2年弱で92%下落、負債比率は900%を越え、同社の格付けがジャンク債の水準まで引き下げられた状況でアン・マルケイヒーがCEOに就任する。彼女はゼロックスの企業文化を一気にくつがえすのではなく、企業文化を活かす道を選んだのである。
 

評論家たちはこの無名の女性経営者に会社を救うために不可欠な強烈な意思があるのかを疑問視したが、この心配は無用であった。自らが担当したこともあるインクジェット・プリンター事業などを閉鎖してコスト構造を25億ドル削減する一方、長期的な投資が不可欠であるとして研究開発費は削減しなかった。むしろ最悪の時期には売上高に対する研究開発費の比率を高めているのである。2006年には10億ドルを超える黒字になり、2008年にはチーフ・エグゼクティブ誌が彼女をCEOオブ・ザ・イヤーに選んだ。
 

このゼロックス以外にも、IBM、テキサス・インスツルメンツ、ディズニー、ボーイングなどビジョナリーカンパニーとして復活した企業に共通する点は、過去のどこかの時点で少なくとも一度は深刻な後退に陥り、回復している点であり、どの場合にも衰退の動きを打ち破る指導者があらわれ、屈服を拒否し、絶望的だと思える状況で単に生き残るだけでなく、いずれ勝利するとの考えを掲げていたという。
 

マルケイヒーがそうであるように、これらの指導者は衰退を機会として利用しており、経営規律の欠如は衰退と相関し、経営規律を固守する姿勢が回復や上昇と相関すると指摘し、「環境だけで結果が決まるわけではない」と結論する。また企業の競争力となっている主要事業(弾み車)の勢いを弱めない(絶えず維持強化する努力)、時を告げる(カリスマ性がある経営者の指示のこと)のではなく(社員が時を知ることができる)時計を作る、基本理念を維持して進歩を促すことの必要性を著者は繰り返し強調する。
 

                         ☆
 

前2冊に比べると読み易い文体で書かれており、具体的な事例の分析は興味深く、一気に読み切ることができました。そして読後には、ずっと前に読んだ「なぜ国家は衰亡するのか」(1998年中西輝政著)がローマ帝国や大英帝国などの強大国家が衰亡する(あるいは復活する)本当の理由は、外的な要因(外敵)ではなく、内にある虚ろなもの(経済の活力低下ではなく精神の問題)であることと、ある文明(文化圏)がその力を維持し続けるには外部の文物を取り入れながらも、その文明の核にあるものは絶対に放棄しないことであると指摘したこととのアナロジーを見出しました。

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2011年11月18日 (金)

晩秋の横浜みなとみらい

横浜高速鉄道みなとみらい21線のみなとみらい駅で下車、大きなスヌーピーが迎えてくれる長いエスカレーターでクイーズスクエアへ向かいました。
 
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クイーンズスクエア2階のクイーンモールに出ました。ランドマークタワーとパシフィコ横浜を結ぶ全長300mの回廊になっています。
 
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スヌーピータウンショップと同じ[アット!]3rdに出店するディズニーストアの前を通過
 
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この日の目的地はコンベンションセンターの「パシフィコ横浜」(正式名称は横浜国際平和会議場)です。
 
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横浜グランドインターコンチネンタルホテルの前を通過
 
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南方向を見るとパンパシフィック横浜ベイホテル東急、横浜みなとみらいホールとクイーズタワーの先にランドマークタワー聳(そび)えています。
 
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展示ホールへ向いました。10月26日から28日まで開催された「Smart City Week 2011」と「電力マネジメント2011」に出席する目的です。その他「FPD International in Yokohama 2011」「LEDソリューション2011」も併催されていました。
 
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講演会を聴講(ちょうこう)する合間を利用して展示会場を見て回りました。広い展示会場には多数のブースが設置され、来訪者も多くて盛況なのですが、先日幕張メッセで見たCEATEC JAPAN 2011と同じブース展示が多くて「ミニCEATEC」の感があります。
 
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横浜市のブースでは「次世代エネルギー・社会システム実証」(横浜スマートシティプロジェクト)をPRしていました。みなとみらい21エリア、港北ニュータウンエリア、横浜グリーンバレーエリア(金沢区)で様々な実証事業が行われているそうです。
 
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経済産業省が推進する同実証事業は省エネ・CO2削減と経済成長の両立を目指し、供給側(送電網・配電網)と需要側(家庭・業務・産業)のエネルギー管理に様々な技術を導入して、その効果を現実に近い環境で検証するものです。横浜市の他に、愛知県豊田市・京都府けいはんな学研都市・北九州市でも同様の実証事業が行われているようです。

展示ホールに隣接する国立大ホールと横浜グランドインターコンチネンタルホテルの間を抜けて「ぷかり桟橋(さんばし)」方面へ歩いて見ました。チビスケ君とチビエちゃんの両親が結婚する前に一緒に食事をした海上レストラン「海鮮びすとろ ピア21」(写真中央に写る建物の2階)を懐かしく思い出しました。
 
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桟橋ならではの大きな注意書が貼られています。
 
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遠くには横浜ベイブリッジが望めます。
 
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こちらは赤レンガ倉庫大桟橋(さんばし)、遠方にはマリンタワーも見えます。
 
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海側から横浜グランドインターコンチネンタルホテルのユニークなデザインが確認できました。
 
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クイーンズスクエア方面に戻る回廊の左手に大観覧車がシンボルの横浜コスモワールドがあります。
 
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反対側には展示場の南面が見えました。先に出来たホテルのデザインを意識した(調和させた)のでしょうか。
 
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横浜みなとみらい地区では季節感がほとんど感じられませんが、例年巨大なクリスマスツリーが設置される場所で工事が始まっており、「エックスガールステージス」のショーウインドーにハロウィンの飾りつけがありました。(この日は4日前の10月27日)
 
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2011年11月13日 (日)

旧東海道のドライブ旅(最終回) 大津・髭茶屋追分から京都・三条大橋へ

名神高速道路の下を潜(くぐ)った大津市追分町で国道1号から旧東海道へ入ります。その角にあるKOBAN(大津警察署藤尾交番逢坂山検問所)は現代の関所と言えるかも知れません。
 
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佛立寺(ぶつりゅうじ)を過ぎた分かれ道に立つ道標には「右京道 左宇治道」と彫られているようです。ここが伏見街道との大津追分で「髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)」とも呼ぶそうです。大坂へ向かう伏見街道(東海道五十七次)は左手に進みます。
 
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三井寺再興の祖である智証大師坐像があるという閑栖寺(かんせいじ)の付近から長い下り坂が続きます。智証大師(ちしょうだいし)の諡号(しごう)で呼ばれる円珍(えんちん)は入唐八家(唐に渡って密教経典を伝えた八人の僧)の一人で空海の甥(おい)に当たります。
 
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旧東海道は国道1号に分断されて直進できません(歩行者は横断歩道橋が利用可)ので三条通(府道143号・旧国道1号)に入りました。適当な場所で右折して旧東海道に戻るつもりでしたが・・・。
 
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左手に入る路地の角に「右 三条大橋、左 旧渋谷道」の道標を見つけました。渋谷道は鎌倉時代に山科から東山を越えて京の六波羅探題(ろくはらたんだい・現在は六原小学校の校庭)近くへ至る主要な道でしたが、その後に三条大橋へ向かう道が旧東海道として重要な街道となったため間道(かんどう)の位置づけになったそうです。
 
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外環三条交差点を右折して山科駅方面へ向かうべきでしたが、車線取りに失敗して通過してしまい、五条の別れ交差点に差し掛かってしまいました。その名前通りに五条の六波羅探題へ向かう渋谷道とのもう一つの追分です。
 
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右手にある京都薬科大学(体育館)の角に山階寺跡(やましなでらあと)の石柱を見つけました。
 
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山階寺は七世紀後半、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた藤原鎌足が重病を患(わずら)った際に鎌足の妻が夫の病治癒(やまいちゆ)を祈願して釈迦三尊像を本尊として建立したと伝えらますが、その詳細な場所は分かっていないようです。後に藤原京へ移されて厩坂寺(うまやさかでら)と称(しょう)され、さらに平城遷都とともに平城京へ移転されて興福寺と名付けられました。

東海道本線のガード手前で旧東海道が三条通に合流しました。残念なことに山科で立ち寄る予定だった山科地蔵徳林庵や五条の別れにある右三条道という道標などを見逃(みのが)してしまいました。普段(ふだん)であれば引き返してでも立ち寄るところですが先を急ぐ気持ちが邪魔(じゃま)をしたようです。

東海道本線のガードを潜ったところの右手に天智天皇御陵の入口があります。
 
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参道脇になぜか石造りの日時計がありました。表記から見てかなり古いもののようです。これも気に掛かって調べてみると、日本書紀に中大兄皇子(後の天智天皇)が奈良の明日香に日本で始めて水時計(漏刻)を使用したとあり、1920年(大正9年)にその日(6月10日)が「時の記念日」に制定されましたから、その記念碑かも知れません。
 
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三条通の反対側に細長い公園のような旧京津電気鉄道京津線の廃線区間(山科駅以西)に造られた遊歩道が見えました。写真左手にある門のようなものがその入口です。
 
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旧東海道はこの遊歩道の途中で左に折れます。その先には御陵(みささぎ)一里塚(江戸日本橋より124里)と亀水不動尊があるようですが、先が急がれてそのまま三条通を走ると日ノ岡を過ぎた辺(あた)りから右にカーブする緩やかな上り坂になりました。前方の信号で旧東海道が三条通に左手から合流しているはずです。
 
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下り坂に入って京都市蹴上(けあげ)浄水場を過ぎた蹴上のY字路で三条通は岡崎方面へ向かう白川通と分かれます。三条大橋はもう2km足らずの距離です。
 
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白川橋を越えて東山三条交差点を通過すればいよいよ最終目的地の三條大橋に到着します。
 
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勤皇を訴え全国を旅した高山彦九郎の像は三条大橋の東詰で御所を拝んでいます。
 
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同じく西詰には弥次喜多像もありました。
 
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池田屋騒動の時に付いたのではないかと言われる刀傷が三条大橋の擬宝珠(ぎぼし)に残っています。新選組が長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派志士を池田屋に襲撃した事件で、その旅館池田屋は三条大橋から100m余り西にあったようです。
 
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同行してくれた折り畳み式自転車を三条大橋で記念撮影しました。
 
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今回のドライブ旅で2年余りを掛けた旧東海道五十三次を巡るドライブ旅を無事に終えることが出来ました。これにより以前にドライブ旅した京街道と合わせて「東海道五十七次」も完走したことになり、満たされた気分で京都東ICから名神高速道路に入って帰路に着くことにしました。
 
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そして一年前にも夕食に立ち寄った名神高速道路大津SAの叶匠寿庵(かのうしょうじゅあん)でやや遅めの昼食です。私は「牛肉うどん」(1150円)、同行者は「近江牛ひつまぶし膳」(1580円)を注文。いずれも美味しく食べました。
 
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午前中に通過した大津の町が眼下に広がっています。参考までに、中央の薄茶色のビル群が滋賀県庁で、その先にある緑色のビルが矢橋の渡しの港「小舟入」に近い滋賀県警察本部
、県庁の左手(左端の高層マンションの手前)は大津宿跡辺りです。
 
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ゆっくり昼食休憩を取った後は、新名神高速道路・東名阪自動車道・伊勢湾岸道路をすべて順調に走行、短い渋滞がところどころで発生する東名高速道路もほぼ一定の速度で乗り切って、日が沈んだ頃には帰宅できました。ちなみに、今回のドライブ旅は総走行距離が約1610km、平均燃費が23.1km/ℓとまずまずの結果です。

<同行者のコメント> 旦那さまが帰宅途中に昼食を食べるのは珍しいと思いましたが、どうも翌日にゴルフの予定が入っていたため早く帰宅したかったようです。高速道路のSAで休憩する回数がいつもより少なかったのもきっとそのために違いありません。

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2011年11月12日 (土)

旧東海道のドライブ旅 大津宿(下)

京町一丁目交差点に「札の辻」と書かれた標柱と大津市道路元標を見つけました。
 
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西近江路が琵琶湖方面へ下って行きます。
 
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京都方面を見るとなぜか京阪電気鉄道京津線が西近江路から右へそれて行きます。
 
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明治天皇聖蹟碑」がある場所は昔の「大津宿大塚本陣」跡、東海道五十三次で一番目の宿場でした。ちなみに聖跡碑は天皇が御幸(みゆき)あるいは行幸(ぎょうこう)、つまり外出された場所を言います。
 
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明治以降の各天皇は全国を御幸(つまり巡幸)されたため各地の地名に「御幸」や「聖蹟」の名が見られます。有名なものは銀座南青山の「みゆき(御幸)通り」、京都府八幡市の木津川御幸橋(ごこうばし)、川崎市幸区(旧御幸村)では御幸小学校御幸公園の名に残り、東京都多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅もその一つです。
 
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交差点の名前は「御幸町」(みゆきちょう)。この辺の西近江路は「八町筋」と呼ばれて付近には、本陣と脇本陣が各々2軒を初め、多くの旅籠屋が連なっていたとの説明がありました。
 
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右手には京阪電車京津線の踏切を挟(さ)んで「関蝉丸(せきせみまる)神社下社」の鳥居と拝殿・本殿があります。
 
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安養寺の門前にある石板には『日本書紀によると「逢坂」で神功(じんぐう)皇后の将軍・竹内宿禰(たけうちのすくね)と神功皇后に反抗した仲哀(ちゅうあい)天皇の異母皇子・忍熊王(おしくまのみこ)がこの地で偶然出会ったと伝えられることに由来する』と説明されていました。
 
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安養寺の本尊である阿弥陀如来坐像は行基の作と伝えられて国重要文化財に指定されています。また蓮如上人(れんにょしょうにん)が浄土真宗布教の拠点であった京都大谷の本願寺を山門(比叡山延暦寺)の手で焼き討ちされて大津へ逃れる時に安養寺の門前にあった「身代わり石」に隠れて難を逃れたと伝えられます。
 
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国道1号と合流すると京阪電気鉄道京津線に沿って長い上り坂が続きます。前方に見える高架は名神高速道路です。
 
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関蝉丸神社上社」です。平安時代の琵琶の名手で音曲の神として崇められた蝉丸(せみまる)が、逢坂山に住んだことでその没後、この神社に祀られたそうです。
 
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弘法大師堂を見掛けました。
 
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日本一のうなぎ「かねよ」のすぐ先に「逢坂の関」の碑と常夜燈がありました。以前の記事「もうひとつの東海道」でも写真を掲載しています。『逢坂の関は鈴鹿不破(岐阜県不破郡関ヶ原町松尾)と並ぶ古代の三関所の一つとして平安時代に入って重要な役割を果たしましたが、平安時代後期になると徐々に形骸化(けいがいか)したこと、その場所は関蝉丸神社(上社)と関寺(現在の長安寺辺り)にあったと伝えられる』ことが説明されています。
 
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「これやこの 行くも帰るも別かれつつ しるもしらぬもあふさかの関」は先述した蝉丸が呼んだ有名な歌です。
 
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旧東海道は右手に入って行きます。大谷町に入って坂を下る途中、日本一のうなぎ「かねよ」(明治5年創業)のすぐ先に蝉丸神社の分社がありました。上社・下社・分社を合わせて蝉丸神社と呼ばれるそうです。
 
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「右京三条 左伏見奈良」と彫られた道標がありました。
 
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右手には大谷茶屋があります。うなぎと京料理の名店のようです。峠道になぜ鰻屋が2軒並んでいるのか不思議に思われました。鰻好きの私は機会を見つけてどちらかの店に立ち寄りたいと思います。
 
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旧東海道は国道1号の反対側へ移ります。徒歩なら横断歩道橋を利用できますが車は行き止まりで、「逢坂の関」碑まで引き返しました。
 
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(続く)

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2011年11月11日 (金)

旧東海道のドライブ旅 大津宿(上)

国道1号の粟津町西交差点から石山駅前を通過して松原町西交差点で旧東海道に入り、前回も通過した粟津中学校の裏手を走ります。
 
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前回のドライブ旅では時間切れのため湖岸道路(県道102号)へ出た三叉路のすぐ先に「膳所城北総門跡」の石柱を見つけました。
 
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旧東海道は道なりに左に折れて京阪電気鉄道石山坂本線の踏切りを渡ります。
 
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若宮神社の前を通過してすぐ右へ折れ、瓦ヶ浜駅脇の踏切りを渡ります。
 
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丸の内町の縁心寺(えんしんじ)前を通過します。この寺は膳所城の初代城主戸田一西(かずあき)が創建、後に膳所藩主本多家の菩提寺となりました。
 
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木下町にある和田神社の表門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)の門を移したもので、境内には関ヶ原の戦いに敗れた石田三成が京に送られる途中につながれたと伝えられる銀杏(いちょう)の大木(樹高約24m・樹齢約600年)があるようです。写真の右手奥に写る木でしょう。
 
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響忍寺に行き当りました。旧東海道はこれを迂回するように右手へ進みます。
 
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石坐(いわい)神社の前を通過
 
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小さな枡形の様に折れ曲がる道の角に膳所城北総門跡の石柱が立っていました。
 
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義仲寺(ぎちゅうじ)の手前に通行止めの立て看板があるため車を降りて歩きました。
 
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義仲寺は、名前から思い浮かべられるように、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)をこの地に葬(ほうむ)ったことに由来し、寺は近江守護であった佐々木六角が室町時代末期に再興したと伝えられます。
 
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大津警察署の裏手を通過して京阪電気鉄道石山坂本線の踏切を渡った松本二丁目のY字路にある案内標識には、『江戸時代、この辺には石場の渡し場(港)があり、対岸の八橋(やばせ)への船客でにぎわっていた。渡し場には「呼次の松」と呼ばれる松があって、船頭がこの松の根元に立って客を呼んでいたのでその名がついた』と呼次松(よびつぎのまつ)の由来が説明されていました。
 
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松本一丁目から京町四丁目に入ると旧東海道が真っ直ぐ伸びています。
 
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滋賀県庁前郵便局の前を通過
 
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京町二丁目の角に露国皇太子遭難地の小さな碑が立っていました。1891(明治24)年5月にロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が来日した折り、警備に当たる巡査の一人に斬りつけられ負傷した大津事件が発生した場所です。明治天皇自(みずか)らがニコライ皇太子を見舞って謝意を示したことと、榎本武揚(えのもとたけあき)外相などが奔走(ほんそう)したことにより日露関係が悪化することはなかったようです。
 
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大津の地名は大きな港(津)に由来、大津宿の中心街は高札場(こうさつば)がある辻であったことで「札の辻」と呼ばれました。ここは東海道と北国(ほっこく)街道(別名西近江路)の分岐点にあたり、国道161号と路面電車の京阪電車京津線が走っています。旧東海道は京町一丁目交差点を左折(南に曲がる)して西近江路と合流します。
 
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(続く)

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2011年11月 9日 (水)

流れ橋が流れた!

旧東海道五十三次を巡(めぐ)るドライブ旅の合間を利用して1年余り前に立ち寄った京都府八幡市(やわたし)の上津屋橋(こうづやばし)を9月22日に再び訪れました。前回は2009年(平成21年)10月の台風18号による川の増水で流されたこの「流れ橋」が復旧した当日の2010年(平成22年)6月16日に始めて訪れています。

その4カ月前には大井川に架かる木製の世界一長い橋である「蓬莱橋(ほうらいばし)」(全長約897m・幅2.7m)を歩いて渡ったことがありますが、流れても良いように簡素に造られた「流れ橋」である上津屋橋(全長356.5m、幅3.3m)を渡った時にはまったく異なる趣(おもむ)きを感じたことを今も覚えています。

そして今回のドライブ旅に出掛ける直前の2011年(平成23年)9月2日未明、台風12号による増水で橋桁が流出したことを知りました。1953年(昭和28年)3月に架設されて以来、18回目の流失となったようです。

まだ水量が多い木津川の堤防から見た上津屋橋には流木やゴミが引っ掛かってようですが、大きな変化は見られないようで少し安心しました。
 
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河川敷(かせんしき)に下りて橋の袂(たもと)まで近寄ると、当然のことでしたが、全面通行止めになっています。
 
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上流側へ少し歩いて橋の状況を確認すると枯れ草などのゴミが橋脚(きょうきゃく)と橋桁(はしげた)はもちろんのこと橋板(はしいた)にも覆い被(おいかぶ)さっています。
 
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下流側へ移動してみると橋板が何カ所か捲(めく)り上がって橋桁と橋板の損傷が酷(ひど)いことが分かりました。
 
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しかし橋脚から離れた橋桁と橋板は確認できません。ロープで橋脚に繋(つな)がれた橋桁と橋板が吹き流しのように上手く流れなかったためゴミを塞(せ)き止めることになったのか、それともゴミが邪魔(じゃま)をして橋桁と橋板が流れなかったのか、専門家ではない私には分かりませんが、何れにしても橋脚には想定以上の負荷が掛かった可能性がありそうです。

とは言っても橋桁と橋板はほとんど残っているようですから流れ橋が流失したとの報道は少し大げさでなないかと思いながら堤防の石段を上って高みからもう一度確認することにしました。
 
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目を凝(こ)らしてよく見ると、久御山市(くみやまし)側の流れが強い場所で橋脚・橋桁・橋板がすっぽり欠落しているようです。
 
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カメラをズームアップするとその状態がはっきり確認できました。
 
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前回の流失時の被害状況を確認していませんが、復旧時に渡った時に何ヶ所か橋桁と橋板を修理した跡がありましたから、今回の被害がそれよりも軽微(けいび)であることを切(せつ)に願いました。ちなみに八幡市観光協会の関連記事によれば復旧は未定とのことです。

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2011年11月 6日 (日)

余談@駒沢オリンピック公園

東京ラーメンショー2011会場で美味しいラーメンを楽しんだ様子を紹介した記事の次には、当日公園内で出会ったシーンとそのスナップ写真を紹介しましょう。

まず特設ステージで開催された東京消防庁音楽隊の演奏会です。一杯目のラーメンを食べている間に演奏が始まっていて、すでに10分余りが経過していました。
 
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会場に入った時に流れていた曲は3人の音楽グループ「いきものがかり」の「ありがとう」、次いでテレビアニメ「忍たま乱太郎」の主題歌「勇気100%」とAKB48の「ヘビーローテーション」、最後の曲は行進曲「76本のトロンボーン」、そしてアンコール曲はZARDの「負けないで」といずれも被災地への応援を意識した選曲でした。
 
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赤城乳業のアイスキャンディー、「ガリガリ君」の幟(のぼり)に惹(ひ)かれるように企業・団体のブース・エリアに移動すると同行者は例によって土産物選びです。
 
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早速、世田谷みやげの「よもぎもち」と「あずきもち」「ミニどら焼き」を購入したようです。
 
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先ほど食べて
気に入ったラーメン「富山ブラック」のパッケージを指差して「これはどうしよう?」と思案顔!
 
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東北PRブースでは「ホタテキャンドル」(復興のあかり)に目を留めています。被災した宮城県南三陸町の漁協女性部が浜に打ち上げられたホタテで手作りした装飾品です。
 
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結局、このブースでは「元気爆発ガゴメ昆布」を購入。
 
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帰り道には別のルートを選んで散策しました。
 
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右手の競技場と左手の球技場に挟(はさ)まれた道を通過
 
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木々の葉が少し色づいて来たようです。
 
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よく手入れされた花壇に咲く秋の花を何枚か撮影しました。

エキナセヤに蜜蜂がとまっています。
 
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アメジストセージ
 
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ルリマツリ(瑠璃茉莉)
 
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ウィンターコスモス
 
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一年草のトレニアに花が似ているようですがこの美しい花木の名前は・・・。
 
これが気になり夜も寝られなくなった『地下鉄漫才』好きの私は花図鑑をあれこれ調べたところ熱帯アフリカ原産のデュランタ(日本での商品名はデュランタ宝塚)だと分かりました。白色で縁取られた紫色の花は美しいタカラジェンヌが正装した袴(はかま)姿を連想させることからデュランタ宝塚と名付けられたようです。(11月7日追記)
 
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鉄柵越しに咲く青い花はメドーセージ
 
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季節外れの花を見つけました。白っぽい色ですから狂い咲きの桜かも知れません。
 
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近寄ってよく見ると花びら(花弁)の形と花柄(かへい)の長さから桃の花と思われます。
 
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桃色(ピンク)の花が一般的ですが、なかには純白の桃の花もありますから、人生と同様 「花の色」がイロイロであることは何の不思議もないことでしょう。

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2011年11月 5日 (土)

東京ラーメンショー2011@駒沢オリンピック公園

東急田園都市線駒沢大学駅を下車、自由通り(都道426号)で自由が丘方面へ向かい、先行く人たちに従って駒沢オリンピック公園へ入る右手の遊歩道にそれました。
 
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公園の花壇で見られる植物の写真が貼られたフェンス沿い真っ直ぐな道が続きます。
 
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競技場の脇を通過、右手前方にある階段を上がり、一段高くなっている中央広場へ入りました。11月2日(水)から東京ラーメンショー2011が開催されているのです。開場時間の午前10時を10分余り過ぎたところですが当日券(チケット)売り場には既に長い行列が出来ていました。ちなみに一食分は800円均一です。
 
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先月発売されたばかりの「日清HYBRID太麺堂々」をPRするハイブリッド自動車PRIUSが一際目を引きますが、その後方にあるカラフルなラーメンブース(28店)の前に生じている長い行列にはさらに圧倒されます。
 
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予(あらかじ)め心積(こころづ)もりしていたブースNo.15「気仙沼 新かもめ食堂」のまだ短い列に並びました。この店のメニューは「気仙沼潮ラーメン」。鯛干(たいぼし)と鱈干(たらぼし)をベースに鶏ガラを加えたスープは海の色をイメージした潮(うしお)色、香りには秋刀魚(さんま)の香油で気仙沼を表現しているそうで期待が持てそうです。
 
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店主は宮城県気仙沼(けせんぬま)市出身で人気支那そば店「ちばき屋」(江戸川区)の千葉憲二氏。元は和食料理人として京橋で修業、銀座の店で総料理長となりましたがラーメン屋に転身、現在は日本ラーメン協会の理事長を務める人とのこと。
 
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中央広場の真ん中に四張りある飲食テントの一つに入って早速食してみました。
 
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見た目には極めてオーソドックスで「支那そば」の呼び名が相応(ふさわ)しいラーメンは前評判通りの透明感あるスープと中太麺が私の食欲を刺激します。スープは鯛の風味と香油の香りが予想以上に強く感じられ、麺も腰が適度にあって良い食感です。味見をした同行者もその風味が気に入ったようです。
 
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食べ終えた食器類は専用の回収場所へ返却するセルフサービスのシステムでした。
 
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段々長くなる行列の様子を見て回りました。一番長い行列が出来ているのはブースNo.12「秋田成ト(なると)会」のようです。「秋田県比内町産 放し飼い比内地鶏(ひないじどり)と濃厚魚介鶏白湯(ぎょかいけいぱいたん)」と長い名前のラーメンを求める人が正に列をなしています。比内地鶏や十和田高原「桃豚(ももぶた)」など秋田の食材と道産小麦「春よ恋(はるよこい)」を使った自家製麺が売りのようです。
 
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ブースNo.19「大つけ麺博ドリームコラボ」にも長い列があります。ここの「王道ラーメン」は首都圏の「六厘舎(ろくりんしゃ)・頑者(がんじゃ)・TETSU」(3店)が東京ラーメンショーのためにコラボしたものだそうです。
 
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そしてブースNo.25「無鉄砲X中華蕎麦とみ田」の「魂の一杯」は無鉄砲の豚骨スープ「魂のスープ」ととみ田の特製麺「魂の麺」を融合させたものと説明されています。
 
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各ブースの様子を見て回ったあとは「秋田成ト会」とほぼ拮抗(きっこう)する長い列が出来ているブースNo.22「富山ブラック 麺家いろは」の最後尾に並(なら)びました。
 
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提供するラーメンの名前は「富山ブラック2011健康!」と群を抜くユニークさ。魚醤(ぎょしょう)を煮込んだ黒醤油に富山湾の氷見煮干(ひみにぼし)や丸鶏から取ったスープを合わせた上に、高麗人参(こうらいにんじん)・クコ・やまいも・なつめ・サンザシなどの「やくぜん薬味」を配合したしたとオフィシャルガイドブックに説明されています。
 
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このブースには変わったシステムがありました。長い行列にかなりの時間並んで「ご注文口」にラーメンチケットを手渡すと富山市の名前がある袋に入った割り箸が手渡され、それを持って「お渡し口」の列にもう一度並び直す必要がありました。受け取ったラーメン鉢に満たされたスープの色は予想以上の黒さです。
 
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「飲食テント」に戻って二杯目を楽しみます。ラーメンショーで提供されるラーメンはいずれも麺の量が控えめであり、同行者とシェアしましたから、まだまだ行けます。イカスミのように真っ黒なスープを恐る恐る(?)味わってみました。不思議な味ですが、コーラと同じで、意外に美味しいのです。チャーシューが5-6枚と半分の煮玉子がトッピングされて、強めに縮れた熟成深層水麺とスープが良く絡(から)み合っています。
 
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私には珍しいことですがスープを飲み進むと、段々あっさりした味であることが分かり、気が付けばスープは残り少なくなっていました。
 
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天気予報通りに気温が20度を越えて暖かくなったため、テント内に置かれたストーブはすっかり影が薄い存在になっていました。
 
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ちなみに、この東京ラーメンショー2011は明日(11月6日)まで開催されています。

<同行者のコメント> 朝食を済ませてそれほど時間がたっていないのにラーメンを食べに出かけると旦那さまが言うのです。はじめて訪れる駒沢公園に到着してその理由が分かりました。朝から大変な混雑なのです。あちこちの売店でお土産を買い、12時前には駅方面へ戻りましたが、すれ違う人のあまりの多さにもっとビックリ!

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2011年11月 1日 (火)

旧東海道のドライブ旅 野路から島ノ関へ

国道1号(旧道)を野路町交差点まで引き返し、右折して旧東海道に入りました。国道1号で分断された旧東海道は上北池公園の中に再現された野路一里塚など当時の様子が残されているようですが、道路が混雑しているため車を留めることは諦(あきら)めて、先へと走りました。そして一里塚公園と野地の玉川跡は見過ごしてしまいました。弁天池を右手に見ながら旧東海道は南笠東の住宅地の中を進んで行きます。南笠には南笠古墳群(みなみがさこふんぐん)があるようです。
 
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狼川(おおかみがわ)を渡ると道幅が狭くなり、緩やかな坂を下りると、草津市から大津市(月輪)に入りました。
 
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「名勝 月輪大池 南1粁」の道標
 
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月輪寺(つきのわでら)の門前には「月輪新田開発発祥之地」と「明治天皇御東遷駐輦之所」の石碑が2つ立っています。
 
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一里山公園の近くを通過
 
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一里山1丁目交差点を直進します。左手に面白いデザインの道標が立っています。
 
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右手にある瀬田小学校の角を旧東海道は左(南)に曲がり、南に向かった旧東海道はその先のカーブでは右(西)に曲がります。
 
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直線的な道に出ました。
 
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旧東海道から少し離れますが「三大寺」に奈良時代の「近江国国府」があります。国府跡はかなりの回り道になりますから、神領交差点から左に入った「近江国一之宮の建部(たてべ)大社」にだけ寄り道しました。
 
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「瀬田の唐橋」を通過しました。以前、「近江路の城巡り」をした時にも訪れています。
 
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京阪石山坂本線(けいはんいしやまさかもとせん)の踏切を渡り、鳥居川交差点を北(右)に進み、東海道本線のガードを潜(くぐ)ります。
 
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粟津中学校の先にある御殿浜で旧東海道をそれて、湖岸道路(県道102号)へ出ました。日没が近づいたため、この日の旧東海道を辿(たど)るドライブ旅を打ち切ることにしたのです。
 
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湖岸道路と琵琶湖に挟(はさ)まれた膳所城跡(ぜぜじょうせき)公園の前を通過します。関ヶ原の合戦のあとに徳川家康が築城の名手といわれた藤堂高虎(とうどうたかとら)に造らせた坂本城と同じ水城で、模擬再建された城門だけが建っています。ちなみに膳所城(ぜぜじょう)の城門は膳所神社などに移築されているそうです。
 
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「八橋の渡し」の大津側の港「小舟入(こふないり)」があった島ノ関を通過し、浜大津交差点を左折した国道161号から国道1号に入り、この日の宿泊地へと向かいました。
 
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<同行者のコメント> それまで順調に走っていたわが家の運転手さんは草津の町で苦戦していました。一方通行の多い道を走り回ったあげく、車を置いて歩き始めたのです。お疲れさま! 昼に食べた讃岐うどんは美味しかったです。その後に入った温泉の湯も良かったですが国道を走る車の音が気になって落ち着けませんでした。

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